昨日ブログに書いた「サピエンス全史」の中で、「文明は人間を幸福にしたのか?」という章があって、その中で、人間はどういう状態にあると幸福だと感じるのかが様々な角度から検討されています。もちろん、安易な結論は出されておらず、読者に考える材料を提示して終わります。
「あなたは幸せですか?」と聞かれたら、何と答えるでしょうか? 「非二元の教えでは、そこには幸せを感じる主体はいないのだから、その質問自体がナンセンスだ」と言ってしまえばそれまでですが、それでは身もふたもないので、ちょっとぶっちゃけて言うと、「おまえは幸せか」と聞かれたら、私の場合は、「幸せだと感じる時もあれば、そう感じない時もある」としか答えようがない気がします。
「幸せか?」と聞かれても、例えば金銭面、人間関係、仕事、家族とかいうふうに限定してくれれば何とか答えようがあるのですが、漠然と「幸せか?」と聞かれても答えようがない気がします。人間の気持ちは一瞬一瞬変化しているので、その全部を総括して、幸せかどうかと判断することは難しいのではないでしょうか。
以前、日記に毎日の気分を天気予報のように、晴れマーク・雨マークなどを使って記録していた時期がありました。でも、気分は一日の内で何度も変化して、雨のち晴れ時々くもり、みたいな日ばかりで収拾がつかなくなり、五段階評価にしてみたり、ABC評価にしてみたりしましたが、どれもうまくいかずに結局やめてしまいました。
「幸せ」もそれと同じで、自分で幸せの度合いを評価するのは難しいのではないでしょうか。「私は幸せか?」と考えるとき、そこには常に比較が入ってきます。「いついつの私よりは幸せ」「私が理想としている基準よりは幸せではない」「あの人よりは幸せ」という具合に比較のニュアンスが入る気がします。
サピエンス全史の中では、既婚者は概して独身者よりも幸福だという心理学や社会学の知見が出てきます。私は独身で一人暮らしなので、極まれに、家族がいたら幸せだろうなあと思うことがあります。ところが、私のまわりには、独身でいることをうらやましいと言う人が少なからずいます。この場合も、比較の問題だと思うのです。自分の境遇と比べて私よりも自由だというふうに考えているのではないでしょうか。
また、殺人事件の6割は家族による犯行だと、どこかで読んだ記憶があります。離婚率の高い現代の状況を見ると、必ずしも家族が幸福の尺度とは言えない気がします。
相田みつをさんが言うように、幸せは自分で決めればいいのかもしれませんが、なかなかそうもいきません。幸せという言葉の裏には、何か欲望の充足といったようなニュアンスがあって、その満足感を幸せと言っているようなふしがある気がします。
「私は幸せだ」と言った裏には、「不幸せ」が隠れていて、その幸せを失うのではないかという恐怖がつきまといます。あたかも塞翁が馬の話のように。
セイラーボブは非二元を理解したら幸せになれるとは言わないし、佐々木先生や横田老師にしても、仏教を理解すれば幸せになれるとは言いません。どちらも、「心理的な苦しみからの解放」だと言います。
私は、非二元や仏教を学ぶ上で、ここが重要なポイントなのだと思います。「幸せだ」「幸せではない」という発想でいるかぎりは、いつまでたっても心の平穏はやってこない気がします。人はいつも何かを追い求めています。たとえそれが「幸福」であったとしても、何かを追い求めているかぎり、今この瞬間にいることができず、平安にはなれないのではないせしょうか。
「あなたは幸せですか?」「私は幸せか?」と問うこと自体が間違いではないでしょうか。存在していることが至福だというボブの言葉が思い出されます。
「人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食ってゆかれたらと思う。かくのごとくに、人はどこまでいって踏み止まることができるものやらわからない」 森鷗外『高瀬舟』