2023/01/21

それがいつ起きるかを決めるのは何のですか?

2022.3.13ミーティング 1:03:12から

参加者:もし……もし……、我慢してください。質問するのに慣れていないものですから。もしそれが目覚めること、非分離、私たちはすべてであるということを理解するということなら、あなたはバイブレーションという言葉をよく使いますが、私にはとてもよく共鳴しています。

そして、完全な目覚めというのは理解ではないように思えます。それは観念的なことではないため、私たちは自分の意思でそれを起こすことができません。では、それがいつ起きるかを決めるのは何のですか?

カット:素晴らしいですね。ボブ。

ボブ:それはいつもそれであり、もともとずっとそうでしたが、私たちが言葉を学んだ時にそれは不鮮明になりました。そして、学校、社会、両親がそうした言葉を強化します。そして私たちは毎日毎日自分自身を強化します。それが、習慣のパターンによって、見かけの上では実在となります。それは単に習慣を認識して打ち破るだけのことです。いいですか。今そのことを考えなかったら、何が問題ですか? 

もしあなたが自身にその質問をして、思考なしでそこに何があるかを見てみてみると、あなたは消えず、思考はなく、言葉もなく、そこには静寂と沈黙、平和の味わいがあるとわかるはずです。でも、あなたがそれを引き起こすことはできません。それはひとりでに起こっています。理解、認識の中では、そうした観念に対する思考、すなわち信念が問題を起こすのです。

カット:そして、初めてのスピールを聞いて、あなたは観念的にそれをやることはできず、自分の意思でやることもできないと理解したのは素晴らしいことです。なぜなら、想像上の自己は目覚めることはできないからです。それは想像上の自己が目覚めるようなもので、誰も、何も目覚めはしません。それは、幻想が消えるか、見破られるということです。

そして、ええ、誰もそれをやることはできません。もし想像上のサンタクロースが何かやろうとしても、突然風が吹いてパット(消えて)……。やろうとしても意味のないことで、何の違いももたらしません。それは認識することであり、いわゆる非二元の状態の一つのものは常にもともとここにあり、利用可能なものです。それにベールをかぶせたり、うわべ上で不鮮明にしたりしているのは想像上の自己であり、想像上の自己が抱いている世界との関係性です。

想像上の自己と想像上の世界との関係性という上張りを見抜くということは、観念上の上張りに注意を払うのをやめて、注意をくつろがせるということです。マインドから出てリラックスしてくつろぐと、あ~、何も見つからない。なぜなら、何も失くしてはいないからです。それはただ単に、夢によって不鮮明になっていたにすぎません。誰も目覚めたりしません。ええ、でもあなたは、どんなに深く考え、分析したとしても、マインドの中で答えを見つけることはありません。それはあなたをどこへも導きません。

でも、それがわかったということは、観念で理解すべきことをあなたはすでに全部理解しています。ええ、それはここでは(頭を指す)起こりません。それ以外に一般的な方法で理解すべきことは何もありません。それは、正しい理解と呼ばれています。それはある意味でパラダイムのシフトです。私たちが世界を見るやり方は、個人という存在が世界とつながりや関係を持っているというものです。そして、シフトしてパラダイムの外に出ると、突然、命が流れ始めます。

それには位置がありません。そのような命はなく、依然として両目から世界を見て、唇や喉や口などから話しますが、それには位置がありません。それは体の中にはありません。そして、体の死、体の動き、体の喜び・楽しみ・悲しみといった問題は単に起こっていることです。それは体に起こっていますが、私、命に対してではありません。あるいは、私、命、みんなに対して、木々すべて、雲すべてに対して起こっています。

バイブレーションに対しても起こり、あらゆるバイブレーションが振動して音になり、それが命に対しても起こっていると言うことができます。なぜなら、命と分離した何かに起こっているわけではなく、それは命と一体のものだからです。それはあたかも、命が音となって現れ、物、波、すべてとなって現れているようなものだからです。

これを表現し始めると、とても複雑な哲学になってしまいますが、ひとたび停止して深呼吸をふ~として思考を追い出すと、それはもともとそこにあります。それは常にずっとそこにあります。それはまったく複雑なことではありません。実際それはとてもシンプルです。それを言葉にしようとすると、それから離れてしまい、表現することができません。

単純なことです。誰も皆、もともと存在していて、もともと意識です。皆と言うときでさえ、多くの人のことを話しているように思えますが、それは一つのものであり、それは自己が自己に話しているのであり、永遠がただダンスをしているにすぎません。でも、良い質問でした。