2022.4.10ミーティング 56:31から
(カットがオンライン参加者のコメントを読む)
カット:「ハロー、ボブ、カット。私はフアンです。ボブの話を聞いてこう思いました。もし、私たちのマインドがすべて思考で、思考から言葉がやって来るなら、私達はイメージや観念でできた世界に住んでいて、実在の中には住んでいないということになります。でももし、私たちの内側が静かになると、そこにあるのは自然に発生するものであり、ボブの言う「何ものでもないもの/無」です。同様に、あらゆるものはそれとして現れています」。素晴らしい言葉です。素晴らしい、フアン。その通りです。
言葉と音、イメージ、観念化で覆われた世界に意味を与え、翻訳しているのは想像です。そしてその根底には信じられないほど神秘的な何ものでもないもの/無があり、それがすべてとなって現れています。自然に。
参加者:(少し前のボブの話に対して)すばらしいメッセージでした、ボブ。ちょっとグッときました。いいぇ、そこにあるのは知性エネルギーだけだとわかりました。それが聞いていました。話すことがそこにあり、聞くことがここにあって、誰も聞いてはいません。それが聞いていて、それが共鳴して、もっと鮮明になります。そしてそこにはもう物語はありません。それは実際経験的なものであり、あたかも心臓の脈動や肺が呼吸するようなものです。それは実際、知性が深く共鳴するようなもので、私はその知性です。あらゆるものが観念的です。その知性が言うことをたくさん聞くことができますが、それはハートの中に落ちていきます。それはエネルギーです。それは単なる知る働き。いずれにしても、いつものように素晴らしい話でした。
参加者:ちょっと付け加えさせてください。観念として起こっていることも信じられないほどすばらしいことです。そして、空(くう)は満ちているという意味は、(中に)何もないということではありません。空は満ちているのです。それはすばらしいことです。
カット:ウエインの言葉がここにあります。「この瞬間が完全な教師である」。そして、あなたが言ったように、この瞬間には内容が満ちています。つまり、この瞬間の内容は思考、観念、イメージ、翻訳、観念化したものなのです。苦悩が始まるのは、自分のことを頭の中のナレーター、限界のある自己、個人だと思う時です。そして、私は十分ではない、私は愛されるに値しない、幸せになるためにはこれが要る、彼らが私を尊敬する必要があると思う時です。でもそれはまったく不要なことです。
もしそれが瞬間の中の内容なら、それを物語、ドラマとして完全に楽しむことができます。でも、それを信じてしまうと、その副産物は苦悩です。それをそんなふうに認識する必要はありません。(携帯のコメントを見ながら)モリーンから、「ええ、存在が教師」。ウエインは、この瞬間が完璧な教師と言っていて、モリーンもそのとおりだと言っています。ええ、そうです。というのも、あらゆる瞬間がそのものであり、この瞬間が唯一の瞬間だからです。この瞬間が常にその純粋な本質の反映であり、意識があらゆるものとなって現れているフィールドだからです。
あらゆるもの、あらゆる瞬間の中にその輝きが現れています。もし私たちが見方を知っていたら、というのも、もちろん、横取りする翻訳者が出てきて、「これが私だ。犠牲者だ。これが世界で、裏切り者だ」と言うとき、物語はふたたび美しいものとなりますが、(私たちを)傷つけるものとなります。それを信じるべきではありません。それは、驚くべき信じられない神秘的で奇跡のようなドラマです。でも、実在ではありません。
それは実在ではなく、マーヤーと呼ばれています。現象としての顕現です。(ボブに向かって)私たちに現象としての顕現を思い出せてください。(ボブは、カットがやるようにと促す)(笑い)
ええ、私たちは外側のすべてをマインド中の自分の知っている過去の記憶の何かに翻訳しています。それは投影された世界です。それは現象としての世界です。それは顕現です。