2022/11/30

病気で苦しい時に平気でいられるか

昨日のブログの佐々木閑先生の話で、病気の苦しみを精神的な苦しみにしないという話がありました。それはとても大切な話だと思うのですが、自分はどうなのだろうかと考えると、そう簡単ではない気がします。

少し前に、市の定期健康診断があって、肝臓の数値が基準値を超えていて再検査となりました。再検査をして、その結果が出るまでの日々、結構あれこれと心配して落ち込みました。ネットで肝臓の病気をあれこれ調べたり、人に相談してみたり。再検査の結果は異状なしでしたが、もし重病だったら、とても平然としてはいられなかっただろうと思います。

昨日の話を聞いて、篠沢秀夫さんのことを思い出しました。篠沢秀夫さんは元学習院大学の教授で、テレビのクイズダービーでも活躍された方です。ある時テレビを見ていたら、篠沢さんがテレビに映っていて、ベッドで呼吸器のようなものを付けて奥さんに冗談を言いながらにこやかに会話されていました。

それで、篠沢さんが筋萎縮性側索硬化症 (ALS) を患っていると知りました。ALSという病気は、徐々に体が動かせなくなっていく病気です。でも、その時点の篠沢さんは、クイズダービーに出演していた頃と同じように、にこやかに笑いながら楽しく奥さんと話をしていました。

その後、自力呼吸が困難になり、喉を切開して呼吸の器械を装着したため声を出すことができなくなりました。それでも、パソコンを使って、時には講演もされていたようです。数年の闘病生活の末、2017年に亡くなられました。

私は、テレビで見た篠沢さんの平然とにこやかにされていた態度に驚きました。篠沢さんが亡くなられた時、奥さんが、喪失感が激しいとコメントされた記憶があります。勝手な想像ですが、病床にあっても決して傍らで介護する奥さんにあたったりせずに、にこやかに精一杯生きられたのではないかと思います。

非二元や仏教で教えていることは、病気や困難な時こそ平然と生きていける道を教えているのではないでしょうか。「体は私ではない」ということを深く理解したなら、病気の受け止め方も違うのではないでしょうか。

セイラーボブはロスリバーウイルス感染症に苦しみながらも「だいじょうぶ、万事うまくいくだろうという明瞭な感覚があった」と言っています。また、「どんな困難が押し寄せてきても、その下には常に一種の幸福感があった」とも言っています。(『ただそれだけ』p66)

病気や、困難な状況にある時こそ、自分が本当に非二元の教えを理解しているかどうかが試される時なのではないでしょうか? 病気や困難に心まで負けないようにして、周りの人に明るく接し、希望を捨てず、平然と生きていきたいものです。

正岡子規は結核に倒れ、34歳で亡くなりました。寝たきりになりながらも、薬で痛みを散らしながら、死の直前まで創作活動を続けました。そして、こう書き残しました。

「私は今迄いわゆる悟りという事を誤解していた。
悟りという事は、いかなる場合にも、平気で死ねる事かと思っていたのは間違いで、悟りという事はいかなる場合にも平気で生きている事であった」 正岡子規「病床六尺」より

2022/11/29

肉体的な苦しみを心の苦しみにしない

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その8」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

「そのことを考えなかったら、今何が問題ですか?」という言葉を思い出しました。

2022/11/28

不生の物心とは

【曝涼展:生誕四百年を迎えて、改めて盤珪禅師に学ぶ】臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老大師猊下

これもすばらしい。

2022/11/27

佐々木閑先生のYouTubeの索引

当ブログに掲載させていただいた佐々木閑先生のYouTubeの索引を作りました。このYouTubeを通して見ていただくと、仏教の中にある非二元がよくわかると思います。

「禅・Buddhismni」に掲載したもの

「仏教その他」に掲載したもの(☆印は特におすすめ)

この索引は随時追加の上、「禅・Buddhism」にリンクを掲載します。

2022/11/26

横田南嶺老師のYouTubeの索引

当ブログに掲載させていただいた横田南嶺老師のYouTubeの索引を作りました。(☆印は特におすすめ)

般若心経に学ぶ 花園大学総長 横田南嶺 全六回☆☆☆

この索引は随時追加の上、「禅・Buddhism」にリンクを掲載します。

【第5回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺

【第5回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2022年11月8日(火)

これはもうまるっきる非二元の話です。「二元的世界」「量子力学」という言葉も出てきます。ぜひ見てください。まったくすばらしい。

2022/11/25

仏教のどこに非二元があるのか

仏教と言っても、釈尊誕生以来二千数百年の歴史があり、その全部が非二元の教えだと言ってしまうのはちょっと乱暴なので、具体的に仏教のどこに非二元が鮮明にあるのかについてまとめてみたいと思います。

今現在世界で残っている仏教を大きく分けると、南伝仏教と北伝仏教ということになります。南伝仏教は、スリランカ、タイ、ミヤンマーなど東南アジアに伝わった仏教であり、北伝仏教は三蔵法師などによって、中国、韓国、日本へ伝わった仏教です。

南伝仏教と北伝仏教では、その成立年代と内容が異なります。二千数百年前に釈尊が亡くなるとすぐに、弟子たちの手によって、経典の編纂(最初は口承)が始まります。そうしてできた一連の経典を阿含経(あごんきょう)と言い、それはそのまま釈尊が説いた教えです。阿含経のことをニカーヤとも呼び、それがスリランカ、タイ、ミヤンマーなどへと伝わり、今日でも生きています。この時代の仏教を初期仏教とも言います。

それから数百年後、紀元前後になると、仏教は変異して、インドで大乗仏教が起こります。それがどのようにして起こったかはあまりはっきりわかっていません。もともと一つの教えだった仏教が様々な教えの仏教へと変異し、その総称を大乗仏教と呼びます。

やがてインドでは大乗仏教が主流となっていきます。その後、大乗仏教は三蔵法師などの手によって中国へと伝わり、さらに韓国、日本へと伝わって今日でも生きていますが、インドではヒンドゥー教の台頭やイスラム勢力の侵入により十世紀ごろに消滅しました。

非二元という視点に立って、南伝仏教と北伝仏教の違いについて書きます。ここからは、南伝仏教は阿含経がメインなので、阿含経と呼び、北伝仏教は大乗仏教なので、大乗仏教と呼ぶことにします。阿含経は釈尊の説いた教えです。大乗仏教は突然変異して登場した仏教なので、釈尊の教えそのままではありません。

阿含経では体の存在を認めます。つまり、体は実体があるものとして存在することを認めます。でもそれは五蘊(ごうん)といって、「私」を構成する構成要素の一つにすぎないと説き、「私」は構成要素の集まりであり、そこに実体のある「私」はいないと説きます。要するに、体は存在するが、「私」は存在しない。

大乗仏教では、体も存在しないと説き、体も「私」も実在ではないと説きます。これは、そこには何もないという「空」の思想です。体の実在を認めるかどうかの違いはあるものの、阿含経も大乗仏教も、「私」は実在ではないと説きます。それを「無我」と言います。仏教の根本教説は、無我です。無我とはつまり、「私はいない」ということです。

日本に伝わった仏教は、密教の一部を除くと全て大乗仏教です。当然その教えは無我の教えということになります。

では仏教のどこにその無我の教えが具体的に説かれているかというと、まずは阿含経です。そして大乗経典です。大乗経典の代表は般若心経です。そして、大乗仏教の中のキーワードを挙げるなら、龍樹(りゅうじゅ)、唯識(ゆいしき)、禅です。唯識の中では世親(せしん)であり、禅の中では盤珪(ばんけい)です。

私は、なんとかしてそうした仏教関係の書籍から学べないかと、あれこれの本を読んで、禅・Buddhismを書きました。たしかにそこには非二元の教えがありました。でも、この作業はけっこう大変でした。どれも原典を自分で読めるわけではないので、学者か僧侶の方が書かれた解説本を読むことになりますが、それでも難しい。

仏教の中にある非二元を詳しく学ぼうと思われる方は、禅・Buddhism と、仏教その他 の中にあるYouTubeで学ばれることをお勧めします。それを見たうえで、わからないところを自分で調べるという方法が一番近道だと思います。

仏教の「無我」と非二元の「行為者の不在」を一緒にするなと言われる方もみえるかもしれません。でも、私は同じことを言っていると思っています。これは私だけでなく、セイラーボブをはじめ、多くの欧米の非二元の語り部たちが仏教を引き合いに出して語り始めていることからも明らかではないでしょうか。

セイラーボブは「行為者の不在」を自分で調べて確かめなさいと言います。自分で調べなさいという人はまだ良心的ですが、たいていの人は何の説明もなく「私はいない」と繰り返すか、「私は体験した」の一点張りです。ある意味、説明に深みがありません。

そこへいくと仏教は、たくさんの説明を持っています。その時代や経典によって説明は様々で、深みがあり、納得できるものが多い。私は、非二元の説き方の潮流は仏教をベースにしたものに移っていくのではないかと思っています。

2022/11/24

行動は自然に起こっている

2022年7月10日ミーティング
45:18から

(参加者の男性、ジョゼフが自然な状態ついて質問します。質問の要旨は、もし、結婚相手の女性に魅力を感じなかったら、自分自身に正直でいることと、結婚生活を維持するということは相容れない。自然な状態とはどういう状態なのか混乱しているというもの。次にマイクを取った女性が、思考以前に意識や認識は起こっているという発言をします。そして、次に別の男性、ラッキーがマイクと取って発言します)

50:36から

ラッキー:ちょっと付け足したいと思います。たぶん10年ほど前、こうしたことに興味を抱く前の記憶がひらめたのですが、その頃私は何かを理解しようとしていました。脳のどこでニューロンが始動するのかに関する心理学の本を読んでいました。その本では、もし人が行動を起こそうとする時、あるいは、誰かがあなたに対して行動を起こす時、脳の中の行動を指示するパートが最初に始動して、そして次に脳の一部の前頭葉が思考を生むそうです。

つまり、行動が起きたあとで思考がやって来て、言葉によって、自分がなぜそれをやったかを説明するのだそうです。それを読んでも納得することができませんでした。というのも、行動の後で思考がやってくるということに驚いたからです。そして、そのことは、思考は
理論的に独立してあるのではないということを発見したのだと理解しました。それは文字通り肉体的な事実なのです。

思考は後でやってきて、自分が何をしたかを説明したり、自分が存在することや、自分が知っていることを説明したります。それはまるで誰か他の人が行為を行い、その後で脳の一部がやって来て、これは私がやった。あれやこれやの理由で私がやったと言うようなものです。でも実際は、行動は起こり、その行動の後でそれを説明し、その説明を真実だと思っているのです。そのことが突然はっきりとわかりました。10年前には納得できなかったことです。なぜだかわかりませんが。

(他の人の発言 省略)

59:00から

カット:何人かからコメントが届いています。アマナから。静寂と愛の言語には言葉はない。ラムから。時間を超えた意識を現象と置き換えるのは無知、幻想、マーヤーの誕生だ。JBから。すばらしい発言だった。思考が起きる前の認識はとてもシンプルなため見逃されてしまう。キャリンから。エゴは実際には見つからない。発見者もいない。(コメントおわり)

みなさんがジョゼフの質問に既に答えましたが、私も一言付け加えます。しばしば人々は、非二元とは何だろう、非二元の道徳的立場は何だろう、その特別な宗教は何と言うのだろうと、こっそりとのぞき見しようとここへやって来ます。というのも、あなたはキリスト教へ行き、一夫一婦制でいなさい、同性に興味を持つな、というようなことを言われるからです。イスラム教へ行けば、奥さんは4人までと言われるでしょう。どんな社会も、あなたがどういうふうに生きるべきかという異なる概念を持っています。

でも、非二元では「すべき」だという言葉は使いませんし、「すべき」だとも言いません。なぜなら、その「すべき」に従うあなたはいないからです。私が書いた本のアマゾンのレビューで見つけたのですが、私が倫理的、あるいは道徳的な事柄について書いてないというものがありました。それは不利な点かもしれません。

話は戻りますが、非二元は本質的に、どのように生きるべきかということをあなたに言いません。なぜなら、根本的な理解として、あなたがあなたの人生を生きているのではないからです。生(life)があなたを生きているのです。生があなたを条件づけて、あなたは例えば同性愛などに魅かれます。それはおそらく、条件付けであり、例えば母親が妊娠中のことかもしれず、社会に出てからのことではないかもしれません。集合的な影響です。

それとも、あなたは生まれつき一夫多妻なのか、あるいはその他の何かかもしれません。それが何であろうと、生があなたを通して、認識や行動として表現しているのです。そこで、社会的、文化的条件づけのうわべによって、ラッキーが言ったあの有名なリベットの実験の解釈をもたらします。実際あの実験は多くの大学において繰り返され、行動の約0.5秒後に物語がやってくることが明らかになっています。

今もし、条件づけが、あなたは罪人だと告げたとします。なぜなら、二人以上の女性に魅かれるからです。でも、誰にわかるでしょうか? それは生がそれ自身の物語を表現するやり方の一部なのです。そのせいであなたはそれに溺れるかもしれないし、ひどく苦しむかもしれません。その苦しみのせいで刑務所に入れられ、あなたの母親が悲しむかもしれません。

そして、どこかでさざ波効果が起きて、意識が対応するでしょう。というのも、他の人があなたと交流するでしょうから。あるいは、あなたが明晰さを持つようになり、思考が何と言おうと、それは思考が言っているにすぎないと気づくでしょう。体は条件付けられたように行動します。でもそれは、マインドが、オーケー、どこへでも好きなところへ行って、何でも好きなことをしろ、という意味ではありません。

自由にどこかへ行って人を殺したりレイプしたりしてもいいということではありません。なぜなら、それもまたあなたができることではないからです。なぜなら、自由にどこかへ行って人を殺したりレイプをするあなたはいないからです。あなたが愛、充足感、完全性の感覚を経験する時、もはやあなたは欠乏を感じることはなく、あなたは不完全な可哀そうな私ではなく、自身を修正する必要もありません。

誰かがまちがっていると証明したいとか、誰かから何かを盗まなくていけないとか、誰かを傷つけなくてはいけないという感じは消えてなくなります。なぜなら、そうした衝動はすべて、不完全さと自己の中心からやってくるからです。それは完全なものにならなければいけないという思いからやってくるからです。もしあなたに欲望がなかったら、どうして人の物を盗むでしょうか? 

つまり、非二元の道徳的側面は明晰さがやって来た時は自明のこととなります。そしてそれは即座に起きることではありません。というのも、明晰さは少しずつ現れてくるからです。そして人を傷つけるという古い条件付けが依然として残っています。あるいは、明晰さは一回の爆発で起こるかもしれません。でも、身体とマインドという装置の再条件づけを定着させるにはしばしば時間がかかるものです。どんな物語が現れれようと、どんな状況も新鮮で新しいものです。

でも、もしあなたが、その状況で私はどうすべきか、何が適切かという非二元的スタンスや意見を探しているなら、あなたがそれをここで見つけることはありません。なぜなら、私達はうわべ上の社会的な条件付けや道徳上の教え、宗教のようなものを教えているわけではないからです。私たちはそうしたことを超えた真実を見つけ、その人為的ではない単一性の真実の中でくつろぐのです。そこでのあなたはもはや体でもマインドでもありません。

そして、あなたは自分が意識すなわち空間であると認識し、体とマインドの活動は、副次的なものになります。その意識の空間からの行動はより非個人的なものとなります。自己判断や自己嫌悪、罪悪感という重荷は軽くなります。それによって、あきらかに傷つかなくなり、重荷からより解放されます。そして、もしあなたがパートナーをだましているなら、自身がパートナーをだましていることに気づくでしょう。でも、たとえあなたの体が条件付けや観念から行動したとしても、本当のあなたは空間のような意識なのです。ある時は観念から、ある時は条件づけから行動したとしても、それは同じものの二つの側面です。

2022/11/23

それは日常の単なる純粋な普通のありふれた意識です

あなたに必要なのは、その普通の目覚めた状態で座ることだけです。それはそこにあります。それは一番近くにあります。どんな観念化もされず、今まさにあなたと共にあります。それは日常の単なる純粋な普通のありふれた意識です。私たちは、それとともに座るのではなく、マインドでそれを理解しようとします。

                        ーセイラーボブー

2022/11/22

すべてがそれなのです

2022年7月31日ミーティング
53:28から

(思っていることを一人一人が順番にシェアしていく中で)

ギルバート:もしすべてのものがそれであるなら、他には何もない。ただ一つのものがあるだけで、他には何もない。この、自己の中心という考えは実際にはフィクションです。それならそういうふうに見えなくてはいけないのですが、自己の中心が存在するという信念のために、すべてのものが分離しているように見えます。そしてそれは言葉やラベルなどによって分割されています。

そしてその自己の中心という信念は、たとえそれがフィクションであっても、うわべ上の限界、自己の中心が保持しているでっちあげた考えや言葉に依存しています。たとえもしそれが実在ではなかったとしても、現れ続けます。つまり、それは見せかけです。そして、見せかけはマーヤーです。つまり、見せかけは実在ではありません。顕現は見せかけです。そして、非顕現が実在です。実在は決して現れません。そのため、自己と呼ばれるもの、すなわち「私」を見つけることができないのです。

「私」を探しても、物語や記憶しか見つからないのです。そして記憶は全く信頼できません。(一同笑う)記憶は過去です。この「私」という考えは、他の人の描写や意見、私に対して考えていることなどに依存しています。物事の常として、この「私」を本当に見つけることができるかを調査することが不可欠です。そして、もし、見つからなかったら、何回調査しなくてはいけないのか? それが実在でないと確実にわかるまでです。

そしてこの分離、分離しているという信念は、精神的な苦悩の原因です。心理的な苦悩は不要です。そして私は誰もどこにも精神的苦悩を歓迎する人を知りません。おそらく、どこかのバカが(苦悩)しようとするでしょうが、それは不必要です。ボブは指摘しています。それは知性エネルギー。知性エネルギーがすべてを行っていると。それが単一性として自身を表現していると言うことができます。

そしてすべてのものは、たとえ限界でさえも知性エネルギーなのです。それがパターンとなって現れています。自己の中心の限界は、エンライトメントしようとすることや、自己を束縛から解放しようとすることなども幻想の一部だということです。なぜなら、もともとそれは最初から存在していないから。どうしてそれを解放することができるでしょうか? 

あなたが実際には入ってない牢屋から外にでることはできないのです。あなたは刑務所の設計図を持っていて、それを調べてトンネルを掘ろうとするかもしれません。私はあの物語が好きです。あの名前は何だったか……。モンテクリスト伯。彼は刑務所の中にいて、ある独房から地面を掘って、別の独房に出てしまい、最終的にはその男が死ぬのを待って、その男が体を包んで海に投げ捨てられたあとで、その死体を引き上げて自分の独房に入れて、穴を戻したあとで自分を包んで海に飛び込んだ。そうやって自由になった。

それは全く複雑だった。でもそれが私に希望を与えた。もし、私がすべてを整えたら、私は解放されると。でも、自己の中心はフィクションです。それは、あらゆる種類の限界を持っているように見える。でももしその限界を調べてみると、それはフィクションです。というのも、それはすべて空想上のキャラクターだからです。つまり、すべてがそれなのです。

私がそれなのです。そしてすべの顕現が自然の中の美しいものとなって現れているのです。例えば、昆虫や鳥などを調べてみると、それはすばらしいものです。でも、彼らには心理的な苦悩がありません。鳥や動物。そこにいる猫。それには心理的苦悩がありません。それは単なる存在で、心地良く動いたりしていて、いわゆる人間的な心理的苦悩がありません。ええと、永久に(話を)続けられそうですが……。

参加者:続けて(笑い)

ギルバート:どうぞ続けてと言われても、もうない。(笑い)最初、ボブの最初の本で、最初の一行は、「もはや今以外に神はいない」だったと思います。そしてそれをタイプしている時、それはとても興味深いことだと思いましたが、それ以上はもうありませんでした。私たちは、もっと欲しがります。私たちは少なくではなく、もっと欲しい。自分をもっと安全で安心するようにもっと欲しい。でもそれはフィクションです。もし本当にそれが実在ではないとうすうす感じたり、味見をしたりして、重荷が降りたような感じがしても、それでもドラマは起こってくるのです。あらゆる種類のドラマが続きます。それは心理的な苦悩です。

2022/11/21

そこには選択者はいません

選択肢が現れ、選択や好みがそこにあるかもしれませんが、そこには選択者はいません。決定は下されますが、その決定を下している存在はいません。
                                                                          -セイラーボブー

2022/11/20

【第4回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺

【第4回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2022年10月11日(火)


今回も素晴らしい内容でした。海と泡の例えは非二元の話を聞いているようでした。

2022/11/19

「あなた」は虚構のキャラクター

2022年8月7日ミーティング
1:07:28から

(一人一人が考えていることを順番にシェアしていく中で)

ギルバート:人が認識できる一つのことは、見ること、見る活動は自然に起こっているということです。そして、「私」は何もしていません。そこには見ることをやっている人はいない。ただ自然に起こっているだけ。それは知る働きにも同じことが言える。認識活動は自然に起こっている。そしてこれを認識すると、ものごとはそのように起こっているとわかる。生そのものが自然に起こっている。

そして私たちはそれに意味を与え、組み立て、個人の物事を付け加える。でも、私がかつて最初の瞬間とよく呼んでいた瞬間は、自然の見ること、知ることがあるだけで、そこには何も存在しない。最初の自然な動きの中には何か存在がいるという観念はない。そして、社会や他の人と接触することによって「私」という考えが生まれる。でも、役に立つ質問は、私はどこから見ているかというもの。実際に私はどこから見ているのか? 

そして、「私」はフィクション、物語だということがわかる。物語は何も見ることはできない。言葉は何も見ることはできない。考えは何も見ることはできない。つまり、「私」は何も見ることはできない。でも、物事の性質上、「私」は見ることを借りてきて、生き残るために自身の物語を組み立てる。というのも、人生は外の世界ではジャングルのようなものだから。でも、自然に起こる現象の性質に立ち返ると、それをやっているのは私ではない。そこにはそれをやっている「私」はいない。それはフィクション。

あなたは何もすることができない。それが、それの現れるやり方。そして、それに逆らうのは意味がない。でも、あなたはそれをあるがままに見ることはできる。すると、そこには解放感がある。というのも、あなたはたいてい選択できるから。あなたは「私」の思考に従う必要はない。というのも、それはいつもトラブルやドラマへと導くから。「私」は生き残らなくていけない。

たとえば、トイレットペーパーのパニックを覚えているでしょう。なんと奇妙なことだったことか。誰もかれもがあらゆるトイレットペーパーを買いあさった。それはとても奇妙な生き残り競争だった。人々は自分の尻を拭かなくてはいけない。それが最も大切なこと。(別の参加者が何かジョークを言うが聞き取れず)。いずれにしても、どこから私が見ているのか、それは本当に役にたつ質問です。そしてあなたは実際にはそれに答えることはできない。でも、見ることは起こっている。

参加者:私はあなたが例えとして使うミッキーマウスが好きよ。物語上のキャラクターについての話。

ギルバート:私が子供の頃、随分昔。私が子供だった頃。ミッキーマウスは漫画の大きな存在だった。映画を見にいくといつもミッキーマウスの漫画だった。グッフィや他もいた。ミッキーマウスは虚構のキャラクターだ。それは「私」のようなもの。「私」も虚構のキャラクター。でも、あなたは漫画を見ることができる。ミッキーマウスがスクリーンを飛び出して、あなたのアイスクリームやポップコーンをつまむことはない。そんなことは起きない。つまり、ミッキーマウスはキャラクターだ。「自己」というイメージも同じ。

自己というイメージも、固定された永遠にあるというものではない。それは絶えず変化している。そしてそれはとてももろい。誰か他の人がそのイメージに何か意義を唱えたり侮辱したりしただけで大騒ぎになる。「私」は単なるミッキーマウスにすぎないと理解するのはいいことだ。ウオルト・ディズニー。ディズニーランドは巨大だ。たくさんのものがある。何を求めてディズニーランドに行くのか。ミッキーマウスの衣装を着た人が歩いていさえする。それは子供たちにとってはすごいこと。でも、大人になったら……。

参加者:コスチュームパーティ。

2022/11/18

探求が終わっても古い頑固な習慣が消えるわけではない

2022年11月6日ミーティング
1:01:38から

(ある女性『サロジャ』が、ボブの話を聞いて楽になる時はあるが、ハートのあたりに重苦しい感じがあって、それがどうしても去らないと質問します。それに対して周りの人があれこれコメントしたあとでカットが発言しました)

カット:みなさん素晴らしいコメントをありがとう。サロジャ、一言だけボブがいつも強調して言うことをもう一度繰り返して言いたいと思います。私たちはもともと存在しているものを理解します。その時、何の障害もなく、思考の雲もなく、重苦しい感じもありません。それは自然な状態ですが、その自然な状態は時々何かが注意のフィールドに入ってきて邪魔をして不鮮明となります。それはひょっとすると肉体的な重苦しい感覚かもしれません。

もしそれが、物語を伴わない感覚にすぎないのなら、医療関係の専門家に診てもらうというのは良い考えかもしれません。それが何か肉体的なものかどうかは誰にもわかりません。というのは、通常、感覚がやってきた時、それは体の中で何かが注意を要求しています。それは調べてみる価値があることかもしれません。もしそれが肉体的なものでないなら、思考がやっています。たとえば、「私には価値がない」「私は自身の可能性を浪費している」「私はそれを手に入れられないだろう」。

そうした思考があなたの魂を押しつぶし、ハートを閉じさせているのです。私の人生もほとんどそういう状態だったからわかるのです。そしてそれがひどい重苦しさを生み出すのです。でも、それは思考です。そしてその思考は、存在意識の静寂の側から認識されるのです。あなたは、重苦しさを、重苦しさを超えた地点から認識しているのです。あなたはそれを一個の物として描写します。あなたは思考を一つの対象物として描写します。そしてあなたは純粋な主体性です。

実のところあなたは、たとえひどく押しつぶされそうな苦悩のさ中であっても、それを平安な場所から見ているのです。そして、もともといつも存在する場所へ戻り続けるだけでいいのです。なぜなら、もともとあなたはその自然な状態であり、それはもともと存在するものだからです。それは誰も判断しない解放された空間であり、そこには好き嫌いはありません。空間はすべてを含んでいて、すべてを歓迎し、すべてを愛しています。それが本当のあなたです。それはもともとここにあります(自分の胸を指さす)。

その中のその重苦しさは、やって来て去っていきます。幸運にもそれを聞けて私は嬉しいです。それはやって来て、去っていき、小休止が訪れます。あなたのハート全部、注意力全部を、その小休止の瞬間を見抜くために注いでください。何が、そしてどうやってそれが不鮮明にしているのかを見てください。最初にボブが重要なアドバイスをしました。そこには私がいるように見えて、それが行為をやっているように見えますが、そうではありません。それは単に共鳴しているにすぎません。

マインドを見つめて、それがどのように機能するか、何をしているかを見てください。何がそれを引き起こしているのか? 興味を持ってください。それは、現象として現れた生の本質が形となって現れていて、それが唯一のやり方なのです。あなたの体が一番近くにあるものであり、それがあなたの乗り物なのです。それがあなたに見るための目を提供しているのです。それが唯一密接に知っているものです。そのプロセスを楽しんでください。というのは、あなたがその調査に全力でハートを注げば、それはいとも簡単に明らかになるからです。

私の場合もボブの場合も他の人の場合も、それはとても大きな瞬間(ではなく)、それは一回の花火の爆発のようなものではありません。というのも、それは何かが突然あなたに付け足されるような瞬間ではありません。それは単に重しが落ちるようなものです。それは突然雷に打たれてショックを受けて、解放されて、神聖になるといったそういうものではありません。全然そんなことはありません。

それはまるで何か重荷を下ろすようなものです。大多数の人にとって、それは徐々に起こります。そうした瞬間が少しづつ頻繁に起こるようになり、思考ももっとしばしば認識されるようになります。たとえボブや私が、うわべ上の自己、構築物は即座のものであると見破ったあとも、思考は依然としてやってきました。思考は依然としてしばらくはぶらついています。何年も経つ間に、ぶらつきは減っていきます。なぜなら、思考はエネルギーから燃料を得るからです。思考は注意を引かなくなり、エネルギーを得ることは減っていきます。

もし、イメージの解体が即座ではなかったとしても、行動や反応のパターンは崩れて消えていきます。7年前、私は依然として狂信的にヴィーガンを信じていました。それは真実(だと思っていました)。もちろんそうではありませんでした。もしあなたが誰かにその考えは真実かと聞けば、ノーと言うでしょう。でも私はそれを疑問に思いませんでした。今でもそれを疑問に思ったことはありませんが、今はその信念が不在なのです。もうそれはありません。そうした生きた例が真実として働きます。ジェーンが言ったように・・・・真実が嘘を食べ尽くすのです。それはある意味、石や障害物を取り除くようなものです。それは自然な光を邪魔しているヴェールを取るようなものです。

ジェーン:一言添えたいのですが、カット。かつて私は「アイ・アム・ザット」を読んで、ボブの話を聞き始めました。私はその時点で自身の探求が終わったことを知りました。というのも、私は見破ることができたからです。あなたが言ったように、私は、「私」、仮定の私の物語を見抜くことができたからです。でもそれは、頑固な古い習慣が消えたということではないのです。そこには、二歳半ごろから続いている分離した自己に対するたくさんの自己同化がありました。つまり、自己の探求は終わったと知ったにもかかわらず、古い習慣がしつこく続くというシナリオが確かにあったのです。でもひとたびボブ(の言葉)と本当に共鳴したら、彼が本当のことを言っていると知りました。なぜなら、あなたが言ったように、私たちはもともとそのことを知っていたからです。私たちは皆そうした瞬間があります。なぜなら、もともと一度も分離したことはなかったからです。

カット:まさしく。すばらしい言葉でした。その点を見てください。とても上手に言葉にしました。「おー、私はエンライトメントを達成した」と言う代わりに。そこには達成する私はいません。でも、探求は落ちていきます。終わったのです。探すものは何もありません。なぜ? なぜならそこには何かを探す誰かはいないからです。それが解放です。そこに、何か違うものを欲しがる人はいません。そこには、違ったものになるようにと、頭に髪の毛が一本欲しい人は誰もいないのです(ボブの頭をなでる)。このあごひげ。(一同笑う)。違ったものになる必要は何もないのです。なぜなら、そこには、この完璧な瞬間、今この瞬間に対して抵抗する人は誰もいないからです。それが歯痛であろうと、老齢であろうと、すべて。それに抵抗する人はいないのです。それが解放です。それが自己からの解放です。でも、それは自己のためではありません。そこには解放される自己はいないのです。

2022/11/17

佐々木閑先生と横田南嶺老師に感謝します

昨日の横田南嶺老師のYouTubeはまことにありがたいものでした。私は、仏教関係者の方たちが、悟りをどういうものと思っているのか、もっと詳しく知りたいと常々思っていました。仏教学者の方たちが悟りをどうとらえてみえるのかは、過去にこのブログで書きました。(参照:悟り

学者の方たちは、悟りとは、いわゆる突然至福に包まれるようなエンライトメント、覚醒のようなものではない、とおっしゃっているのは知っていました。仏教関係の本を読んでも、学者の方で、いわゆる突然のエンライトメントや覚醒を悟りととらえて書いてみえる人はいないように思います。

ところが、ある時ネット上で、ある僧の説く座禅のことを読んだところ、その僧が言うには、座禅は必ず悟り体験をした人から学べというのです。それを読んだ時、「この人は何もわかっとらん」と思ったものです。でも、ひょっとすると、悟りをそうした突然の体験ととらえている僧がたくさんいるのではないかと思うようになりました。

それ以来、僧侶の人たちは悟りをどういうものと考えているのだろうと思うようになりました。それが、昨日の横田老師の話を聞いてスッキリしました。円覚寺は臨済宗のお寺であり、座禅を教えていて、かつては鈴木大拙も参禅したほどの名刹です。その由緒正しい円覚寺の管長から、はっきりした言葉をいただいて、やはり悟り体験などないと納得しました。

仏教の中に非二元の教えがあると聞いてから、仏教関係の本を読み始め、確かに初期仏教や唯識の中には非二元と同じ教えがあるとわかりました。そうした本を書いてみえる学者も僧侶もたくさんあります。諸法無我、私は実在ではないという教えです。それで、そうした本を題材に禅・Buddhismをブログに書いていきましたが、なかなか非二元的なくだりに行き着けず時間ばかり過ぎて苦労しました。

そのうちに佐々木閑先生のYouTubeを見るようになり、そこには非二元の教えがわかりやすく説明されていると知りました。もちろん佐々木先生は非二元なんて言葉は使いません。でも、内容は非二元そのものです。最初から佐々木先生のYouTubeを知っていたら、禅・Buddhismを書くことはなかったと思います。

そこで、改めて仏教その他というラベルを作って佐々木先生のYouTubeをたくさん載せるようにしました。その関係で横田南嶺老師を知り、老師のYouTubeを見てまた驚きました。老師は盤珪や般若心経を題材にして無我を教えてみえて、それがまたわかりやすい。お二人とも、コロナのせいで講義や法話ができずにYouTubeを始められたそうです。私はお二人のYouTubeがなかったら、仏教の中にある非二元をこれほどクリアには理解できなかったと思います。

改めて佐々木閑先生と横田南嶺老師に感謝します。おかげで、仏教の中にある非二元を深く知ることができました。佐々木先生のYouTubeは全部見ていますし、今でもフォローしています。老師のYouTubeも毎日見ています。

佐々木先生や横田老師のYouTubeからは、どうしても私のブログに載せた方がいいだろうと思われるものだけを載せているのですが、本当はもっとたくさん載せたいと思っています。例えば、佐々木先生のYouTubeは、私が最後にブログに載せたもの(佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その4」)からもうすでに二回分新しいものが公開されています。

その二回分のどちらも、見ようによっては非二元の教えに通じるもので、ブログに載せようか迷った挙句、止めました。というのも、あまり仏教のYouTubeばかり載せても、興味のない人は見てくれないような気がするのと、セイラーボブの非二元についてのブログが、仏教のブログになってしまいそうに思えたからです。

今後は、どうしても載せるべきだと思うものに限って載せていくことにします。横田老師のブログにも、載せようか迷ってやめたものがたくさんあります。仏教に興味のある人はぜひご自分でフォローしてください。きっともっと仏教に対する理解が深まると思います。

2022/11/16

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第15回 (2022年11月)

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第15回 (2022年11月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

15:09から抜粋

(現実の世界は夢であるという話に続いて)

夢の中で気がついたと言っても、それもまた夢の悟りにしかすぎない。本当の悟りというのは、夢の中で悟ったというんじゃなくて、その夢の終りでございます。自分自身を悟った!と、そんなことを言う人が、こうよくあります。

座禅の修行をするとよくございます。私はどこどこで悟りを開いた、見性したと。だいたいそういうのは夢の中で夢を悟っているようなもんでございまして、そういうことは、そういう夢が一切終わりを告げると、悟ったの悟らないの、うんぬんということは全く言わない、そんな沙汰が止んだ時こそが真の安らぎなのでございましょうけれども、夢の中でどこかで座禅して、見性した悟ったと、それもまた空の悟り。

空の悟りだとわかればまだいいのでありますが、本当に悟ったと思っているんですね。それでまた苦しみを生み出します。お前は悟ってないからダメだ、なんてことを言い出すのでございまして、なかなか人間というのは難しいもんでございます。

***************

いや~、よくおっしゃって下さいました! 一瞥体験や悟り体験を自慢げに説くどこかのクソ坊主に聞かせたい。(格調高いブログを目指しているのに、つい汚い言葉を使ってしまって申し訳ありません。あまりに痛快だったものですから)
今回もまったくすばらしい内容でした。

日本にはこんなにも素晴らしい非二元の教えがあるのに、学ばない手はないと思います。私たちは、外来の非二元だけではなく、仏教から学ぶべきではないでしょうか。ある意味、その方がわかりやすく、近道だと思います。仏教なら何でもいいわけではありません。おすすめは佐々木閑先生と横田南嶺老師です(私はそれしか知りません)。この二人の教えはセイラーボブの説く非二元の教えと何ら矛盾しておらず、根本的には同じことを説いています。

2022/11/15

世界(十二処)のどこにも「私」はいない

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その4」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)


この話は一見非二元とは関係ないように思えますが、「執着」「すべてのものをプレーンに見る」といったフレーズは、非二元と大いに関係がある気がします。

私も執着のかたまりです。ドリアンはそれほど好きではないのですが、パパイヤは大好き。
いくら信心銘で「区別はいかん!」と言われても、区別してしまうし、セイラーボブが「好きとか嫌いのラベルを貼るな」と言っても好き嫌いもある。現象の世界にいるんだから、まあ、しょうがないですね。

2022/11/14

物は実在か

昨日のブログの佐々木閑先生のYouTubeはとても有意義な内容でした。そこで、物は実在かということについてもう一度考えてみたいと思います。今までこのブログで何度も書いてきたことと重複しますが、重要なところですので、どうぞお付き合いください。

私は、初めてセイラーボブのミーティングに出たころ、エジプトのピラミッドは本当にあるのかと、よく考えていました。それは私の意識の中にしかないのなら、実在しないことになる。でも、私がピラミッドのことを考えたとたんにピラミッドは出現するし、飛行機に乗って見に行けばちゃんとある。じゃあ、私が寝ている時はどうなのか。そんなことを考えて混乱していたのを思い出します。このあたりが、非二元の教えが一般の人に敬遠される原因なのではないでしょうか。

体は実在か。この問いを、佐々木閑先生の説く仏教でおさらいしてみると、仏陀は、体はあると言った。初期仏教の阿含経(ニカーヤ)でも体はあると説いた。体はあっても、それは構成要素(五蘊)にすぎず、そこに実体のある「私」はいないと説いた。そして大乗仏教が登場し、唯識の教えが現れると、体もない、すべては無であり、空であると説いた。初期仏教の阿含経でも、唯識でも、実体のある「私」はいないと説いている。

セイラーボブはどうか。セイラーボブは、阿含経の時もあるし、唯識の時もある。例えば、「実在の定義とは永遠に変わらないものです。体もやがては消えていく。実在ではない」と説く時もあれば、鏡や映画のスクリーンを例に出して、「あるように見えているにすぎない」という時もある。私は、初期の段階では、じゃあ一体、セイラーボブは、体はあると言っているのかないと言っているのかどっちなんだと思ったものです。

現象の世界にある体は存在していて、やがて消えていくけれど、実在の世界ではもともと体は存在しないというのが非二元的な説明なのでしょうけど、こんな説明は何かダブルスタンダードな気がします。

現代の科学は、どちらかというと、唯識に近い方向、そこには物質はないという方向に向かっています。私個人はどう思っているかというと、世界(物や体)は人間が勝手に脳の中で構築しているものにすぎないと思っていますが、その真偽は確かめようがないと思っています。

どこまで突き詰めて考えたとしても、私たち人間は、五感と意識という道具でしか世界を認識できません。五感も意識もなくて、そこには何があるのか? 先日掲載したミーティングの質問にもありましたが、地球上から意識のある生物が消えたら、そこに世界はあるのか? それは、誰にも確かめようがないことです。もし、五感も意識もなしで確かめようと思ったら、体の外に出て、外から五感以外の方法で確かめなくてはいけないのですが、それは誰にもできません。

ピラミッドが実在かどうかは、誰にも確かめようがないことです。私たちは、五感と意識で世界を認識しています。もし、私たちが視覚を失ったら、ピラミッドは見えません。でも、手で触れば石があるのがわかるじゃないか、と言うかもしれません。では触覚を失ったらどうですか? いや、視覚も触覚もなくても、見たり触ったりできないだけで、ピラミッドはあるだろう、と言うかもしれません。

でも、ピラミッドがあるだろうと推定しているのは意識です。その意識も失くした時に、そこにピラミッドはあるでしょうか。視覚も触覚も意識もなくても、ピラミッドはあるだろうと言うかもしれません。でも、あるだろうと想像しているのは、あなたの今ある意識です。その今ある意識がなかったら、どうですか?

それでもそこには何かがあると言われる方は、量子力学のYouTubeでも本でもかじってみれば、私たちが意識でイメージしているような物は存在しないと知って驚くに違いありません。あのピラミッドは、私たちが石や空というものを知っていて、それを脳の中で組み立てているにすぎません。極端なことを言えば、一人一人のピラミッドはそれぞれ別々のものなのです。

あの三角推の、石でできたピラミッドは、私たちの意識の中にしかありません。そして、そこにあるものが本当はどういうものなのか知る方法は、今のところありません。確かめようがないのです。私がボブに、物(体)が実在かどうか科学的に説明して欲しいと聞いたところ、それは科学者の仕事だよと言われました。

唯識の教えが、脳科学や量子力学などの現代科学、そして非二元の教えと同じことを説いているのは驚くべきことです。昨日の佐々木先生のYouTubeは、非二元を理解する上でも非常に重要なところだと思います。非二元の世界を見た人は誰もいません。阿頼耶識を証明できないのと同じです。

物は実在か。それは誰にも確かめようがありません。でもそれは「行為者の不在」、「私は実在か」を知るうえでは、あえて言うなら、どちらでもいいことです。物が実在であろうとなかろうと、体が実在であろうとなかろうと、「私」が実在ではないことに変わりはありません。「私」が実在ではないということを理解することが最も重要なことです。

2022/11/13

「私」とは予想にすぎない

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その3」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

佐々木先生が唯識の教えを説明するのに、「(世界)全体が映画のスクリーンのようなもので、終わってしまえばそこにはスクリーンしかない」と言って、世界を映画のスクリーンに例えられたのには驚きました。

非二元の教えは唯識の教えに近いのですが、それでも最終的には予測が残ります。非二元も、詰まるところは、それを見ることも体験することもできません。ただ、そこに至る思考の過程はセイラーボブの教える非二元も佐々木先生の教える仏教もよく似ていておもしろいです。
このYouTubeは殿堂入りです。今まで私が仏教について書いてきたエッセンスがここにある。すばらしい!

2022/11/12

私(我)はどのように生まれるか?

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その2」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

仏教では、我(私)はどこにもないということを説明するために、五蘊や十二処を使うという説明が印象深かったです。これも素晴らしい話でした。

仏教の話はあまり載せないでおこうと思ったのですが、この際、佐々木先生の素晴らしい話が続く間は載せていこうと思います。仏教における「行為者の不在」の説明は、非二元論者の通り一遍の説明と違って、深くて論理的な気がします。

2022/11/11

十二処・人はどのように世界を認識しているのか

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その1」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)


諸法無我(私は実在ではない)の論理的説明です。
この話は、現代の脳科学に近いものがあり、かつそれよりも論理的な気がします。
個人的には、行為者の不在の説明は、非二元やアドヴァイタよりも、佐々木先生の教える仏教の方がはるかに論理的で納得できる気がします。

2022/11/10

どうしたら、あなたが見ているものを見ることができますか?

2022年8月21日ミーティング
34:44から

ボブ:これくらいで(spiel:講話は)十分ですね。カットのところへ質問が来ていると思います。そして、みなさんも、もし質問や疑問があったら、言うことをためらわないでください。あなたが掴んだことや理解したことを言うことをためらわないでください。みなさんは全員、しばらくはここへ通っている人です。もしみなさん全員がちゃんと理解したなら、もう戻っては来ないはずです。それで、あなたたちは一体何をしにここに来ているのですか!(一同爆笑)

参加者:あなたを愛しているからです!(一同笑う)

ボブ:自分を愛してください(笑う)。とにかく、始めましょう。

カット:今日は20人がオンラインで参加していますが、質問は来ていません。今日のミーティングは(ここにいる)あなたたちのものです。

途中省略 50:04から

参加者:私はいまだに実現することが難しいのです。私はあなたの言うことを理解しました。私はこのことをあなたに言ったのですが、私はその状態に入って行くことを(いつまでも)やり続けたくはないのですが、未だに……。私はそれを感じたい。私はそれを実現したい。でも、私は未だに、その実現、その感覚に入っていくのが難しいのです。私はやりたくないのですが、私のやっていることの何が間違っているのでしょうか? 私は間違ったことは何もやろうとしてはいないのです。サットサングなどを聞いている時はとても良い状態です。でも、そこから出て、他の家事をやる時、もうそこには私は全くいなくて、家事にかかりきりになってしまいます。でも、私はそこにいたいのです。私はあなたが見ているものを見たいのです。私はあなたがいる場所にいたいのです。どうやって……。私の何が間違っているのでしょうか?

ボブ:(それを)やろうとすることです。(一同笑う)

カット:ええ、素晴らしい。

ボブ:たとえば、あなたがそのことを考えている間、呼吸を止めましたか? 

参加者:呼吸はしています。

ボブ:感じることを止めましたか? あらゆる知覚は働き続けています。でも、あなたはそれを、想像上の個人の感覚、私に結びつけています。あなたは依然として見て、聞いています。食物は消化されています。それは外の自然のようなものです。地球は太陽のまわりを回っています。

地球は、自分が太陽のまわりを回っていることについて何か知っていますか? 知りません。それは回り続けています。そして太陽は地球のことを何も知りません。自発的な自然の機能が起こり続けているのです。それは自発的な自然の命なのです。それがあなたであり、そこで生きているのです。

でも、言葉を学んだ時、私たちは観念や考えを手に入れ、それが現実だと思ったのです。それを、ありのままに見てください。もしそのことを考えなかったら、今何が問題ですか? それでも、試みなければ、思考を止めることさえできません。あなたは考えることを止めようとしますが、できません。でもあなたは、止めようとわずらう必要はなく、そのままにしておけばいいのです。

作為のない単一性の中に休止させておけばいいのです。地球が依然として太陽の周りを回っているように、あなたの心臓は依然として鼓動し続け、髪の毛や爪も依然として伸び続けています。あらゆる命が自然に動き続けています。観念や考えをそれに固着させないで。その状態になろうという考え、この存在、すなわち個人が何かになる必要があるという考えに囚われないで。その存在とは何ですか? あなたは誰ですか? 

参加者:私はそれです。

ボブ:それ。その通りです。その中へ入っていくと、それは何ですか?

参加者:それは無です。

ボブ:それは無であり、すべてです。あれは椅子。あれはカーペット。あれは私。この部屋にいるすべての人がそれです。木や花、全部がそれです。自身がそれであるとわかりますか? そして何が起こるのか見てください。その中へと落ち着いてください。あなたの顔にも笑顔がやってきました。(笑う)

カット:そしてまた探求者に一般的な特徴として、時々私はそれとともにいて、連れ出されたあとは、それとともにはいない、家事で忙しい時、それは去ってしまうというものがあります。残念なことにそこには信念があって、それは、私が瞑想している時は成し遂げていて、心地良い感覚があるのに、皿洗いをしている時、そこには心地よい感覚がないというものです。

でもそれは、その心地良い感覚や喜びや光を見つけてキープしなくてはいけないというものではないのです。それは、命は意識の解放的な空間であり、常にあるということを理解するということなのです。それは、あなたが忙しかろうと、座っていて何かを体験していようと、常にあるものです。それはあらゆる体験以前にあるものです。あなたは、ボブが見ているものを見て感じたいと言いましが、私たちが指し示しいるものは、ボブが体験している感覚的な体験以前にあるもののことです。

それは、心地良いとか心地よくない以前にあるものです。この生き生きとしたもの、この存在。ボブがあなたに、「今、意識がありますか?」と聞く時、あなたには常に意識があります。でも時々は、より意識的であり、時々は意識的ではないかもしれませんが、意識が本当のあなたです。そして、マインドが見ているとかいないとかしているものは、それではありません。

それは、根底にある空間にくつろいで入っていくということなのです。ボブが言うように、「そのことを考えなかったら、今何が問題ですか?」。何も問題ではありません。その根底にあるものは常にそこにあるのです。でも、探求するマインドは言います。「でも、今はまだその状態にない」。でも、今あなたがその状態にないのなら、あなたは死体です。それはそこにあります。

それがあなたの心臓で鼓動しています。それが、いつも、ずっとそこにいて呼吸しています。でもマインドはイメージを持っていて、「いいえ、それはエンライトメントではない。それは自由ではない。私は笑っていない。私は幸せではない」と言います。ええ、いいでしょう。それはそこにあります。でも、それ以外の場所はどうですか? そこには何か別のものがあります。そこには微妙な考えがあります。

これは良くない。これは十分ではない。私はボブが言うような状態にならなくてはいけない。私は何か別のものにならなくてはいけない。これはいつもそこにあるのです。あれもいつもそこにあるのです。その上で、いいえ、これでは十分ではない。まだ私は到達していない。ここにはまだ「私」がいる。私はそれを取り除かなくていけない。私はあれこれをしなくてはいけない。そうしたことは心理的なおしゃべりなのです。それは内側のトークです。

そしてボブが「そのことを考えなかったら、今何が問題ですか?」と言うように、あなたが考えなかったら、おしゃべりはどこかへ行き、私はまだそこに到達していない、ボブは私とは違う何かを見ているという考えは消えます。そこにはそういった考えはありません。すると今、ふ~。そのリラックスの瞬間、あ~。それです。でもマインドは言うでしょう。「いや、それはそれではない。私はまだ至福を経験していない。それはそれではない」。

でも、それなのです。そのように、ハートの本質に、ある意味でなること、あ~、となることがもっとも大切なことであり、マインドが言うことが大切なのではありません。生き生きとしたものを直接体験することが成熟してきます。というのも、マインドは空全体を覆いたいのですが、マインドのあちこちの小さな割れ目から輝きがもれ始めて、小さな裂け目ができて、輝いて開き始めるからです。

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この動画の最後で、ズームによるミーティングは無料ですというアナウンスがあります。参加希望の方はボブのホームページで確認してください。

2022/11/09

そうかもしれないし、そうではないかもしれない

2022年10月30日ミーティング
56:35ぐらいから

参加者:ボブ、あの話をしていただけないかと考えていたところです。人生がどのように人を行くべき場所へと導いていくかという話です。ある男とケガをした息子のあの話をしていただけないかと。もし覚えてみるなら。

カット:中国の占いの人に関するもののことですか?

参加者:ええ、あれは素晴らしい話です。

ボブ:とてもシンプルです。中国の話です。ある農夫が一頭の馬を持っていました。近所の馬を持っていない貧しい農夫がやって来て言いました。「あなたは馬を持っている。素晴らしい。あれやこれやをすることができる」。農夫は答えました。「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」。

二、三日すると、馬が囲いから逃げて姿を消しました。すると人々がやって来て同情して言いました。「あなたは馬を失った。それはとても不幸なことだ」。すると農夫は、「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」と言いました。

数日後、逃げた馬が数頭の馬を連れて戻ってきました。すると人々は、「今や馬が4、5頭になった。これはすごいことになる」と言いました。すると農夫は、「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」と言いました。

農夫の息子が馬を馴らそうと馬に乗って投げ出され、足の骨を折りました。人々はやってきて同情し、「これはひどいことになった。息子さんは足の骨を折って、あなたを手伝うことはできないだろう」と言いました。そうして話は続きます。「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」。

数日後、戦争中の兵士が徴兵にやって来て、人々を軍へと連行しました。村人たちの子供たち全員を連れていきましたが、足の骨を折っていた彼の息子は連行されませんでした。人々は「あなたは幸運だ」と言いました。「そうかもしれないし、そうではないかもしれない」。そういう話です。この話ですか?

参加者:ええ、そうです。(一同笑う)

カット:素晴らしい話です。みんなや私のそれぞれの人生で起こる好例です。もし何かが悲劇のように見えても、それが素晴らしい贈り物に変わる。それは解釈にすぎないのです。

*****************

セイラーボブが「塞翁が馬」の話をミーティングでしたのを聞いたのはこれが初めてです。LIVING REALITY の中では出てきたと記憶しています。

この故事は、たいていの場合、「人生は何が起こるかわからない」とか、「災い転じて福となす」と解釈されているようです。でも、そうではなくて、「良いとか悪いとか判断するな」というのが本来の意味ではないでしょうか。少なくともボブはそういう意味で使っているようです。何かが起こって、それを良いことだ、悪いことだと判断しているのはマインドにすぎません。良いとか悪いとかラベル貼りをしなければ、それはあるがままであり、そのまま過ぎていく出来事にすぎません。

2022/11/08

あなたの想像以外、何もあなたを苦しめはしない

これはニサルガダッタ・マハラジの言葉です。

私たちは普段、人の評判や世間体をものすごく気にして生きています。でも、よくよく考えてみると、自分が人のことなどそれほど気にしていないのと同じように、人は私のことなど気にしていません。

でも、人が何か言うと大げさに考えて、傷ついたり怒ったりします。でも、その大半は自分の想像なんですね。人はそんなつもりで言ったのではなかったかもしれないし、一時の気持ちで何気なく言っただけなのに、勝手に想像を膨らませて、いつまでも傷ついていたり、怒っていたりします。

「私」が実在ではないのと同じように、「相手」も実在ではないのです。実在ではないものの言葉を、実在ではないものがマインドの中で勝手に想像しているだけ。それがわかると、人が何か言ったからといつまでも怒っているのがバカバカしくなります。

そしてまた、何か不安になるようなことがあると勝手に想像力を働かせて大惨事が起こるのではないか想像します。私はその傾向が強くて、少しでも体調が悪いとネットであれこれ調べて、がんセンターへ駆け込んで、さんざん検査してもらった挙句、がんノイローゼだと笑われたりします。

事が起こってから対処すればいいものを、起こる前に絶対起こらないような事まで想像して自分で自分を苦しめてしまう傾向があります。思い返してみると、想像して恐れていたことのほとんどは実際には起こりませんでした。中には実際に起こったこともあったでしょうけど、忘れてしまって、今日こうして無事に生きているということを考えると、それほどのことでもなかったとわかります。

私たちは死を恐れています。でも、実際に起こったら、それはひょっとしたら大したことではないのかもしれません。もういい加減、自分の想像で自分を苦しめるのはやめにしたいと思います。

日常生活で時々立ち止まって、「これは単なる想像じゃないだろうか?」と問い直してみたらどうでしょう。

2022/11/07

あなたは生かされている。生があなたを生きているのです。

セイラーボブの原文はこうです。

You're being lived. Life lives you.

直訳すると、「あなたは生きられている。命があなたを生きているのです」となります。でも、「生きられている」というのは日本語としておかしいし、「命があなたを生きている」とすると、そこに誰かがいるように解釈されて、非二元的ではないような気がします。

ちょっと意訳して、「生きているのはあなたではありません。生があなたを生きているのです」ぐらいがいいかもしれません。lifeという単語をネイティブが聞けば、命、生、人生、という言葉が同時に思い浮かび、その三つを同時に当てはめて理解していると思うのですが、日本語に訳す場合はそのどれかを選択しなくてはならず、厄介です。

いずれにしても、この人生を生きているのは、lifeなのであって、「私」ではありません。「私」は観念の塊にすぎず、実体のないものです。「私」が生きているのではなく、生(せい=命、人生)が生きているのなら、ジタバタしてもしょうがない。もう起こるに任せようと思うしかありません。

大抵の場合、「私」が何とかできると思ってジタバタするために問題を複雑にしています。病気や死は生のなせる業。さらに、人生で起こってくることはどれも、生のなせる業。私の人生はジタバタの連続なのですが、もうジタバタしたり、心配したりするのはやめにしたいと思います。自分を納得させるために、できるだけのことはやる。あとは生に任せる。

2022/11/06

誰もそこを去ってはいません

1:04:35から

参加者(外見とアクセントから、インド系の女性):お尋ねします。なぜ私たちは、私たちの家である「我はそれなり」を去って、はるばると長い道のり生死を繰り返し、サンサーラ(輪廻)の中で道に迷い、帰り道を探しているのでしょうか? どうして私たちは家を出たのでしょうか?

別の参加者:誰がそれを知りたがっていますか? 誰がその質問をしていますか?

カット:そしてまた、その質問にはいくつかの仮定が含まれています。ボブに答えてもらいたいですか? (ボブに向かって)どうして私たちは何千という生と死を繰り返し、肉体となり、生まれ変わり、サンサーラ(輪廻)へと入っていくのでしょうか? そこにとどまることもできたのに。

ボブ:あなたは実際にそこを去ったことがありますか? あなたは今この瞬間意識がありますか? 

参加者:意識しています。

ボブ:ええ、あなたはその存在意識です。それが表面上、観念や思考によって不鮮明になっているだけです。

カット:そうした観念が不鮮明にしたことによってできる観念は時間です。そこにあるのは過去生、来生ですが、それは想像上のものであり、あなたがそれを考えた時だけ存在します。思考がない瞬間には昨日はありません。そこには千年前はありません。そこには過去生はありません。それは生命の本質、単一性が、自身は体、マインドであり、時間の中にいるという夢を見て、幻想の中で自身を見失うのです。それは遊びです。それはリーラ、神聖な遊びです。それは、自分ではなく、何か他のものであるふりをしているのです。

何かの理由があってやっているわけではないのです。どうして私たちはこれをしたのか、どうして私たちは道に迷ったのかというような理由はないのです。それは、放蕩息子が父親の財産を全部持って放浪し、また父のもとに戻ってやっとわかり始めるという、あの話に似ています。なぜ、という質問に答える物語はたくさんあります。でも、それは実際に起こったのか、本質が実際に去ったのか、実際に迷い、輪廻を繰り返したのか、それとも、それはマインドの中の単なる思考であり、それが時間の中を旅するという幻想全部を作ったのか。

ボブ:ニサルガダッタは、あなたたちは世界と呼ぶ夢を見ていると言いました。彼は言いました。夢の出口を探すのをやめなさい。夢が問題なのではない。あなたの問題は、夢の一部を好み、他の一部を嫌うことだ。全部を好きになるか、全部嫌うかしなさい。私たちが、信じている夢を見始め、それがリアルだと考え、それを調べると、それはすべて起こっていなかったのです。夢なのです。そのように見えているだけなのです。それは現象的な顕現と呼ばれます。現象の定義はそのように現れているものです。すべてそれは見せかけにすぎません。

2022/11/05

どうして思考が思考を静かにすることができるでしょうか?

2022年9月4日ミーティング
37:42ぐらいから。

カット:(オンライン参加者のうちの)何人かからコメントが入っています。30人ぐらいの人がオンラインで参加しています。ターニャからです。思考がやってきて、起こっていることに不満を言っているように見えても、問題はありません。そして彼女はこう言っています。この思考がいまだにやって来て、緊張や収縮が現れるということは、いまだに「私」を信じているということであり、探求を終わらせるために、もっと満足のいく考えを求めているということです。今彼女は大声で笑っています(lol)。探求を終わらせて、最終的にそれが何であるかをはっきりさせたいのです。そこで質問です。でも、それが何であるかがわかりません。そして、平和以外に何を見る必要があるのかわかりません。このことで何かコメントしていただけますか?

ボブ:まず第一に、彼女は「問題ではない」(doesn’t matter)と言いました。matter(物質)は何か堅固なものです。精神と物質がありますが、それは分割されたものではありません。精神は本質です。自然な生命の本質、純粋な実在です。でもそれが堅固なものになると、それは物質となります。あたかも液体、水が氷になるように、物質、何か堅固なものになるようなものです。思考が問題となる時(When thought matter:思考が物質となる時)、それが問題となります。私たちは実際には問題には固着していないのですが、固着していると思っています。離れていてください。それはそのままにしておいて。固着させないで。固着させて問題を作らないで。それをあるがままにしておいてください。そうすればそれは自然と動いていきます。

カット:ええ、すばらしい。ターニャは強調しています。思考が現れて、それが何らかの反応を引き起こし、体の中に緊張を引き起こします。彼女は、別の思考がやってきて、その思考を止めてくれないかと思っています。彼女は、満足できる考えが探求を止めてくれないかと言っています。そこで彼女は、l-o-l (laugh out loud:大笑いしている)。彼女は笑っています。どうして思考が思考を静かにすることができるでしょうか? 

ボブ:ええ。私たちは、何ものにも固着していないということを理解してください。生は動いています。人々はやって来て、去っていきます。仕事が現れ、変化します。すべては絶えず変化して束の間のものです。私たちはそれを固定し、そこに留めようとします。そしてたくさんのトラブルを抱えることになります。

カット:そしてまた時々、(最初に)思考がやってきて、(そのあとで)体が反応するというやり方ではないことがあります。時々、激しい反応の動きが体の中にすでにあって、そこへ思考がやってきて、それを正当化します。例えば、体のどこかに荒い怒りのエネルギーがあって、そこへ思考、物語がやって来て、あいつのせいだ、彼だ。彼が俺を怒らせた。

でも、真実はエネルギーがここ(体を指さして)で動いていて、たとえば何か天気とかホルモンとか食べたものとか何かのせいかもしれません。私たちが知っているリベットの有名な実験のように、おおよそ0.5秒後にマインドがやって来て主張するのです。最初に衝動がやってきます。赤ちゃんを見ると、彼らには実際にはまだ思考はありません。彼らの泣きたいという衝動や笑いたいという衝動が体に現れるのです。

動物には観念的な思考がありません。でも自然な激しい衝動があります。(携帯の質問を見て)もしそこに何らかの収縮や何らかの反応があるなら、それは思考に対するものかもしれません。それは環境によって触発されたものかもしれないし、単に荒いエネルギーが思考によって(後から)解釈されたものかもしれません。いずれにしても、もしあなたが自然な世界をもう一度見ると、そこには収縮と拡張があります。

ボブが言うように、心臓や肺。あるいは季節の循環。すべてのものにはサイクルがあります。そのため、妨害されない、確かな至福の喜びの状態というようなものはありません。というのも、もしそんな状態があったら、あなたはそれを認識することも気づくこともできないからです。

気づいたり、認識したり、しなかったりできるものは、何か他の反対のものか中立のものをバックグランドとして現れる必要があるからです。そのため、中立の自然な状態には、喜び、苦しみという要素がありません。喜びと苦しみ、収縮と拡張はそれの上、あるいはそれの中、認識する意識の空間にやってきます。そこが、全世界が遊ぶ場所、ステージです。

ボブ:これを見て。(ボブの左手が小刻みに震える) 私はそれに固着していません。もし私が固着して、これを止めようとすると、もっとひどくなります。そのままにしておきます。そうすると治まります。(手の震えが止まる)

**************

この会話を掲載したのは、カットが「リベットの有名な実験のように」と言ったからです。私がリベットの実験を知ったのは、前野隆司さんのYouTubeを偶然見たからです。そのあとで、横田南嶺老師経由で佐々木閑先生が、下條信輔先生(リベットの本を翻訳)無我の説明で引き合いに出されたと聞きました。

下條先生がリベットの実験の本を翻訳されたのは2005年7月です。カットが引き合いに出すぐらいだから、このリベットの実験は、スピリチュアルの世界ではかなり有名な話なんですね、きっと。

2022.12.12追記
カットは、彼女の著書SAILOR BOB: Bags of pointers to nondualityの中(書籍版p273,R-Rationality)でも、リベットの実験について触れています。

2022/11/04

あなたは空間のような意識です

セイラーボブは、space-like awareness という言葉を使います。このYouTubeの中でも言っています。(1:16:00あたりぐらいから)

「空間のような意識」という意味は、そこには空間があるだけで、何かを実行する行為者はいないという意味です。行為は起こっても、行為者はいない。あなたは空間のままでいるということです。

この話をする時、次にくる話は信心銘です。「ものごとを区別しなければ、道は難しくない。でも、ひとたび区別をすると、すべては天と地ほど離れる」。要するにマインドでジャッジ(判断)するなということです。次にくるのがシェイクスピアの話で、「良いとか悪いとかいうのは人間が勝手に決めていることで、もともと良いも悪いもない」。その次がニサルガダッタの言葉で「問題は、あなたが夢の一部を好み、一部を嫌うことだ。全部を好きになるか、全部を嫌うかにしなさい」。三つとも記憶で書いているので、言い回しは正確ではないかもしれません。

私たちのマインドは、何か問題が起きると大騒ぎをして、問題を複雑にしてしまう傾向があります。もともと問題などありはしないのに、マインドがそれを問題にしてしまうのです。たいていの問題は、そのままにしておけば自然に解決します。もちろん、病気を放置せよとか、働かないでブラブラしていろという意味ではありません。

問題には対処しなくてはいけないし、今日の食物がなければ何とかしなくてはいけないのですが、解決策は自然に起こってくるから、起こるに任せるということです。例えば、普通に暮らしていれば何とかやっていけるのに、老後資金が2000万円要るとニュースで聞いて株をやって大損してみたり、健康なのに、ちょっと体がだるいからと徹底的に糖質制限して油を取りすぎて肝臓を傷めたり、ちょっと悩みがあるからと悟りを求めてカルトにはまってみたり、あ、気を悪くしないでくださいね、これ全部私のことですから。

要するに、人間のやる失敗のほとんどは自滅というか、余計なことをすることから起こるのではないかと思います。その原因は「私」がいるからです。「私」が問題をこじらせてしまうのです。たいていのことは自然に任せておけば解決します。それが、空間のような意識を自覚するということだと思います。

一年ほど前に仏教のYouTubeをあれこれ見ていた時、中村元先生のYouTubeで、とてもおもしろいものがありました。もうどのYouTubeだったか記憶がないので正確な内容ではなく、おおよその話で書きますが、ある時中村先生が人から悩み事の相談を受けたそうです。

その内容は、職場でとても嫌な上司がいるが、どう接したらよいか、というものでした。私は以前職場でこっぴどいパワハラを受けて悩んでいた時期があったので、中村先生がどう答えるのか興味津々でした。そんな職場はやめろとか、もっと上の人に相談せよとか言うのかと思ったら、「そんなことを考えていてもしょうがないじゃないですか。嫌なやつはどこにでもいるんですから」という答えでした。

私はその答えに大笑いして、妙に納得しました。そういうことなのだと思います。私たちは何か意に沿わないことがあると、それを何とか変えようとします。でも、変えることができるのは自分の態度(反応)だけです。変えようとせず、正そうとせず、起こるに任せる。

あなたは空間のような意識です。

2022/11/03

存在することへの愛

第658回「心が作り出す世界」2022/10/26【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

   

私はこの白隠禅師の話が好きです。この話を聞くと、ニサルガダッタ・マハラジが語る、存在することへの愛(サット・チット・アナンダのアナンダ)を思い出します。生きているだけで至福なのではないでしょうか。それは手に入れるものではなく、私たちがもともと持っているものです。

2022/11/02

誰もあなたの代わりにはやってくれません

2022年10月23日ミーティング 39分30秒あたりから


カット:オンラインコミュニティへようこそ。30人の人が参加しています。おはようのメッセージがきています。みなさんおはようございます。そして、ターニャからの質問です。

「自身の自然な状態を完全には理解できないで、すべてのパターンから自由になることができずにいる人がいると思いませんか? というのも、とても強力な心理的パターンがあって、それを見破るのは難しいように思えるからです」

ボブ:それが信念です。そこには強力な心理的なゾーンがあります。

カット:パターン。

ボブ:パターン、心理的なパターンが繰り返しやって来ます。でも、いいですか。自身に尋ねてください。そのパターンにはどんなパワーがあるのか? 尋ねて、調べて、そこへ踏み込んで、それをテストしてください。もしそれが観念上のパターンなら、それにはどんな力もありません。

お腹が締め付けられたような感じがして、とても怖かった。それはとても強力で調べることができなかった。でも、私には調査する必要があると認識して調べ、テストして、これほど厳しいことをしたのは初めてだとなった時、それは解消します。

盤珪は言いました。「不生の仏心の中ではすべてが完全に解決している」。もしそれをあるがままにしておいて、調べ、自身の注意すべてをそれに注ぎ、注視するなら、もうそこへはエネルギーは行きません。すべてのエネルギーを見ることに注ぎ、見ることに集中するなら、すべてのエネルギーはもうそこへは向かわなくなり、自然に消滅します。そして笑って終わりとなります。

それがやってくるたびに調べて、それを見つめます。そしてあなたがそれを調べて理解します。もし、腕や体のどこかに傷や折れた場所があると、あなたはそこをピンポイントで指さして、ここを見てと言い、悪化しているのを感じるでしょう。でも心理的な思考がやってきたら、マインドのどこにそれがあるのかを指でピンポイントに指し示してみてください。

できません。なぜならそれはマインドが作り上げたものだからです。それはどれも思考であり観念です。ひとたびそれから自由になると、あなたは解放されます。それは人々にとって大変困難なことです。多くの人がやりたがりません。

かつては、やらない人が大勢座っていました。彼らに、自分でやるようにと尋ねました。彼らはやることができず、やろうとしませんでした。もうたくさんと言って、その状態に留まっていました。でも、他の人がそれをやることができません。自分を救うかどうかは、それぞれの人自身が自分でやるかどうかにかかっています。誰もあなたの代わりにはやってくれません。そういうものなのです。

あなたの観念、あなたの考えがパターンを形作ります。他の誰かではありません。自身を救うかどうかはあなた次第です。そこに何か実体のある独立した性質のある誰か、人がいますか?

2022/11/01

犀の角のごとくただ一人進め

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その31」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

まわりの人がなんと言おうと、『私はいない』という真実を見て、ただ一人犀(サイ)の角のごとく進め。

この話は非二元の話です。まったく素晴らしい。