2022/11/30
病気で苦しい時に平気でいられるか
2022/11/29
肉体的な苦しみを心の苦しみにしない
2022/11/28
2022/11/27
佐々木閑先生のYouTubeの索引
2022/11/26
横田南嶺老師のYouTubeの索引
【第5回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺
2022/11/25
仏教のどこに非二元があるのか
2022/11/24
行動は自然に起こっている
2022/11/23
それは日常の単なる純粋な普通のありふれた意識です
あなたに必要なのは、その普通の目覚めた状態で座ることだけです。それはそこにあります。それは一番近くにあります。どんな観念化もされず、今まさにあなたと共にあります。それは日常の単なる純粋な普通のありふれた意識です。私たちは、それとともに座るのではなく、マインドでそれを理解しようとします。
ーセイラーボブー
2022/11/22
すべてがそれなのです
2022/11/21
2022/11/20
【第4回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺
2022/11/19
「あなた」は虚構のキャラクター
2022/11/18
探求が終わっても古い頑固な習慣が消えるわけではない
2022/11/17
佐々木閑先生と横田南嶺老師に感謝します
2022/11/16
【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第15回 (2022年11月)
2022/11/15
世界(十二処)のどこにも「私」はいない
2022/11/14
物は実在か
2022/11/13
「私」とは予想にすぎない
2022/11/12
私(我)はどのように生まれるか?
2022/11/11
十二処・人はどのように世界を認識しているのか
2022/11/10
どうしたら、あなたが見ているものを見ることができますか?
2022/11/09
そうかもしれないし、そうではないかもしれない
2022/11/08
あなたの想像以外、何もあなたを苦しめはしない
これはニサルガダッタ・マハラジの言葉です。
私たちは普段、人の評判や世間体をものすごく気にして生きています。でも、よくよく考えてみると、自分が人のことなどそれほど気にしていないのと同じように、人は私のことなど気にしていません。
でも、人が何か言うと大げさに考えて、傷ついたり怒ったりします。でも、その大半は自分の想像なんですね。人はそんなつもりで言ったのではなかったかもしれないし、一時の気持ちで何気なく言っただけなのに、勝手に想像を膨らませて、いつまでも傷ついていたり、怒っていたりします。
「私」が実在ではないのと同じように、「相手」も実在ではないのです。実在ではないものの言葉を、実在ではないものがマインドの中で勝手に想像しているだけ。それがわかると、人が何か言ったからといつまでも怒っているのがバカバカしくなります。
そしてまた、何か不安になるようなことがあると勝手に想像力を働かせて大惨事が起こるのではないか想像します。私はその傾向が強くて、少しでも体調が悪いとネットであれこれ調べて、がんセンターへ駆け込んで、さんざん検査してもらった挙句、がんノイローゼだと笑われたりします。
事が起こってから対処すればいいものを、起こる前に絶対起こらないような事まで想像して自分で自分を苦しめてしまう傾向があります。思い返してみると、想像して恐れていたことのほとんどは実際には起こりませんでした。中には実際に起こったこともあったでしょうけど、忘れてしまって、今日こうして無事に生きているということを考えると、それほどのことでもなかったとわかります。
私たちは死を恐れています。でも、実際に起こったら、それはひょっとしたら大したことではないのかもしれません。もういい加減、自分の想像で自分を苦しめるのはやめにしたいと思います。
日常生活で時々立ち止まって、「これは単なる想像じゃないだろうか?」と問い直してみたらどうでしょう。
2022/11/07
あなたは生かされている。生があなたを生きているのです。
セイラーボブの原文はこうです。
You're being lived. Life lives you.
直訳すると、「あなたは生きられている。命があなたを生きているのです」となります。でも、「生きられている」というのは日本語としておかしいし、「命があなたを生きている」とすると、そこに誰かがいるように解釈されて、非二元的ではないような気がします。
ちょっと意訳して、「生きているのはあなたではありません。生があなたを生きているのです」ぐらいがいいかもしれません。lifeという単語をネイティブが聞けば、命、生、人生、という言葉が同時に思い浮かび、その三つを同時に当てはめて理解していると思うのですが、日本語に訳す場合はそのどれかを選択しなくてはならず、厄介です。
いずれにしても、この人生を生きているのは、lifeなのであって、「私」ではありません。「私」は観念の塊にすぎず、実体のないものです。「私」が生きているのではなく、生(せい=命、人生)が生きているのなら、ジタバタしてもしょうがない。もう起こるに任せようと思うしかありません。
大抵の場合、「私」が何とかできると思ってジタバタするために問題を複雑にしています。病気や死は生のなせる業。さらに、人生で起こってくることはどれも、生のなせる業。私の人生はジタバタの連続なのですが、もうジタバタしたり、心配したりするのはやめにしたいと思います。自分を納得させるために、できるだけのことはやる。あとは生に任せる。
2022/11/06
誰もそこを去ってはいません
2022/11/05
どうして思考が思考を静かにすることができるでしょうか?
2022/11/04
あなたは空間のような意識です
セイラーボブは、space-like awareness という言葉を使います。このYouTubeの中でも言っています。(1:16:00あたりぐらいから)
「空間のような意識」という意味は、そこには空間があるだけで、何かを実行する行為者はいないという意味です。行為は起こっても、行為者はいない。あなたは空間のままでいるということです。
この話をする時、次にくる話は信心銘です。「ものごとを区別しなければ、道は難しくない。でも、ひとたび区別をすると、すべては天と地ほど離れる」。要するにマインドでジャッジ(判断)するなということです。次にくるのがシェイクスピアの話で、「良いとか悪いとかいうのは人間が勝手に決めていることで、もともと良いも悪いもない」。その次がニサルガダッタの言葉で「問題は、あなたが夢の一部を好み、一部を嫌うことだ。全部を好きになるか、全部を嫌うかにしなさい」。三つとも記憶で書いているので、言い回しは正確ではないかもしれません。
私たちのマインドは、何か問題が起きると大騒ぎをして、問題を複雑にしてしまう傾向があります。もともと問題などありはしないのに、マインドがそれを問題にしてしまうのです。たいていの問題は、そのままにしておけば自然に解決します。もちろん、病気を放置せよとか、働かないでブラブラしていろという意味ではありません。
問題には対処しなくてはいけないし、今日の食物がなければ何とかしなくてはいけないのですが、解決策は自然に起こってくるから、起こるに任せるということです。例えば、普通に暮らしていれば何とかやっていけるのに、老後資金が2000万円要るとニュースで聞いて株をやって大損してみたり、健康なのに、ちょっと体がだるいからと徹底的に糖質制限して油を取りすぎて肝臓を傷めたり、ちょっと悩みがあるからと悟りを求めてカルトにはまってみたり、あ、気を悪くしないでくださいね、これ全部私のことですから。
要するに、人間のやる失敗のほとんどは自滅というか、余計なことをすることから起こるのではないかと思います。その原因は「私」がいるからです。「私」が問題をこじらせてしまうのです。たいていのことは自然に任せておけば解決します。それが、空間のような意識を自覚するということだと思います。
一年ほど前に仏教のYouTubeをあれこれ見ていた時、中村元先生のYouTubeで、とてもおもしろいものがありました。もうどのYouTubeだったか記憶がないので正確な内容ではなく、おおよその話で書きますが、ある時中村先生が人から悩み事の相談を受けたそうです。
その内容は、職場でとても嫌な上司がいるが、どう接したらよいか、というものでした。私は以前職場でこっぴどいパワハラを受けて悩んでいた時期があったので、中村先生がどう答えるのか興味津々でした。そんな職場はやめろとか、もっと上の人に相談せよとか言うのかと思ったら、「そんなことを考えていてもしょうがないじゃないですか。嫌なやつはどこにでもいるんですから」という答えでした。
私はその答えに大笑いして、妙に納得しました。そういうことなのだと思います。私たちは何か意に沿わないことがあると、それを何とか変えようとします。でも、変えることができるのは自分の態度(反応)だけです。変えようとせず、正そうとせず、起こるに任せる。
あなたは空間のような意識です。
2022/11/03
存在することへの愛
2022/11/02
誰もあなたの代わりにはやってくれません
2022年10月23日ミーティング 39分30秒あたりから