2023/02/20
それは誰に起こっていますか?
2023/02/19
バイロン・ケイティ
2023/02/18
習慣に気づくこと
2023/02/17
【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】最終回:第19回 (2023年1月)
【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】最終回:第19回 (2023年1月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師
2023/02/16
知的な理解
2023/02/15
本当の理解
2023/02/14
2023/02/13
生は自己の中心なしで機能し続けます
太陽自身が雲を起こし、太陽自身が雲を吹き飛ばしているということをあなたは理解しました。ということは、やって来る思考は知性エネルギーの活動に他ならないということがわかるでしょう。それはどこにも貼り付いてはいません。その真実を知れば、それは去っていきます。
生は自己の中心の活動なしに機能し続けます。
セイラーボブ
2023/02/12
私がそれを手に入れることを妨げているものは何なのでしょうか?
2023/02/11
2023/02/10
想像をやめること
やってみなさい。思っているほど難しいことではない。
2023/02/09
本当のあなた
「今」というこの瞬間が始まるのはいつですか? 今。そして、それが始まった時、それはもうすでに終わっていて、持続時間はありません。仏教徒はそれを「不生」と呼びます。「不生」とは、まだ始まっていないということです。それには始まりがないということです。それには始まりも終わりもありません。それには時間がないのです。それには空間がありません。それには体がありません。それにはマインドがありません。それは物ではありません。にもかかわらず、それはすべてが現れては消える本質です。それが本当のあなたです。
セイラーボブ
2023/02/08
2023/02/07
あなたの本質
2023/02/06
2023/02/05
2023/02/04
2023/02/03
誰が探求するというのですか?
2023/02/02
2023/02/01
2023/01/31
「在る」と「なる」
2023/01/30
マインドでそれを理解することは決してできません
2023/01/29
2023/01/28
メッセンジャーではなくメッセージ
2023/01/27
実際にそれを生きるのが難しいのですが?
2023/01/26
2023/01/25
自由意志はあるのかと問うてはならない
2023/01/24
あなたはそれです
2023/01/23
2023/01/22
2023/01/21
それがいつ起きるかを決めるのは何のですか?
2023/01/20
胡蝶の夢
2023/01/19
2023/01/18
存在の感覚・私は在る
2023/01/17
2023/01/16
世界を空(くう)なりと観ぜよ
2023/01/15
見破り続けてください
何度あなたはその体であると言われたことでしょう? 最も効果的な学習は、繰り返しによる学習です。今あなたは見抜き始めましたが、世界全体があなたを幻想へと連れ戻そうとするでしょう。見破り続け、それを繰り返すことによって、それがあなたの中で安定するようになります。そうすれば、彼らがあなたを明晰さから連れ戻す代わりに、あなたが彼らを明晰さのなかへと引き込むようになり、それがあなたの中で強化されます。
セイラーボブ
2023/01/13
2023/01/12
空は形であり、形は空である
2023/01/10
2023/01/09
あなたは幸せですか?
昨日ブログに書いた「サピエンス全史」の中で、「文明は人間を幸福にしたのか?」という章があって、その中で、人間はどういう状態にあると幸福だと感じるのかが様々な角度から検討されています。もちろん、安易な結論は出されておらず、読者に考える材料を提示して終わります。
「あなたは幸せですか?」と聞かれたら、何と答えるでしょうか? 「非二元の教えでは、そこには幸せを感じる主体はいないのだから、その質問自体がナンセンスだ」と言ってしまえばそれまでですが、それでは身もふたもないので、ちょっとぶっちゃけて言うと、「おまえは幸せか」と聞かれたら、私の場合は、「幸せだと感じる時もあれば、そう感じない時もある」としか答えようがない気がします。
「幸せか?」と聞かれても、例えば金銭面、人間関係、仕事、家族とかいうふうに限定してくれれば何とか答えようがあるのですが、漠然と「幸せか?」と聞かれても答えようがない気がします。人間の気持ちは一瞬一瞬変化しているので、その全部を総括して、幸せかどうかと判断することは難しいのではないでしょうか。
以前、日記に毎日の気分を天気予報のように、晴れマーク・雨マークなどを使って記録していた時期がありました。でも、気分は一日の内で何度も変化して、雨のち晴れ時々くもり、みたいな日ばかりで収拾がつかなくなり、五段階評価にしてみたり、ABC評価にしてみたりしましたが、どれもうまくいかずに結局やめてしまいました。
「幸せ」もそれと同じで、自分で幸せの度合いを評価するのは難しいのではないでしょうか。「私は幸せか?」と考えるとき、そこには常に比較が入ってきます。「いついつの私よりは幸せ」「私が理想としている基準よりは幸せではない」「あの人よりは幸せ」という具合に比較のニュアンスが入る気がします。
サピエンス全史の中では、既婚者は概して独身者よりも幸福だという心理学や社会学の知見が出てきます。私は独身で一人暮らしなので、極まれに、家族がいたら幸せだろうなあと思うことがあります。ところが、私のまわりには、独身でいることをうらやましいと言う人が少なからずいます。この場合も、比較の問題だと思うのです。自分の境遇と比べて私よりも自由だというふうに考えているのではないでしょうか。
また、殺人事件の6割は家族による犯行だと、どこかで読んだ記憶があります。離婚率の高い現代の状況を見ると、必ずしも家族が幸福の尺度とは言えない気がします。
相田みつをさんが言うように、幸せは自分で決めればいいのかもしれませんが、なかなかそうもいきません。幸せという言葉の裏には、何か欲望の充足といったようなニュアンスがあって、その満足感を幸せと言っているようなふしがある気がします。
「私は幸せだ」と言った裏には、「不幸せ」が隠れていて、その幸せを失うのではないかという恐怖がつきまといます。あたかも塞翁が馬の話のように。
セイラーボブは非二元を理解したら幸せになれるとは言わないし、佐々木先生や横田老師にしても、仏教を理解すれば幸せになれるとは言いません。どちらも、「心理的な苦しみからの解放」だと言います。
私は、非二元や仏教を学ぶ上で、ここが重要なポイントなのだと思います。「幸せだ」「幸せではない」という発想でいるかぎりは、いつまでたっても心の平穏はやってこない気がします。人はいつも何かを追い求めています。たとえそれが「幸福」であったとしても、何かを追い求めているかぎり、今この瞬間にいることができず、平安にはなれないのではないでしょうか。
「あなたは幸せですか?」「私は幸せか?」と問うこと自体が間違いではないでしょうか。存在していることが至福だというボブの言葉が思い出されます。
「人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食ってゆかれたらと思う。かくのごとくに、人はどこまでいって踏み止まることができるものやらわからない」 森鷗外『高瀬舟』
2023/01/08
サピエンス全史
2023/01/07
2023/01/06
ギーターンジャリ
2023/01/05
それがマインドの仕事です。
2023/01/04
2023/01/03
それは投影された世界です。それは現象としての世界です。
2023/01/02
2023/01/01
自然な状態は決して失われません
2022/12/31
【第6回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺
横田南嶺老師のYouTubeの索引
2022/12/30
彼らの本質は依然としてここにあります。この今ある本質と混じり合っています。
2022/12/29
あなたは一番大切なことを知っています
2022/12/28
それが、あなたが調べなくてはいけないことです
2022/12/27
私たちは催眠術にかけられています
私たちは催眠術をかけられ、自分はこの「私」、一個の分離した存在、個人だと信じ込んでいます。名前や性別、国籍などすべては、何度も何度も強化され、繰り返しによって学習させられました。それが一夜にして消えることはありません。それを見破ることは即座にできますが、古い習慣のパターンは何度も何度もやってきます。というもの、パターンは繰り返しだからです。学習したことの解消も同じように、繰り返し認識することによって行われるはずです。
セイラーボブ
2022/12/26
理解が起きる時
私の場合、セイラーボブの言っていることを心の底から確信を持って理解できるまでに随分と時間がかかりました。言っていることの意味が分からなかったわけではありません。説明の内容も理解していました。でも、それが本当のことだとは思えませんでした。
「行為者の不在」「時間の不存在」「何も起こっていない」「あなたは体でもマインドでもない」「あなたは意識(アウエアネス)である」「過去も未来も存在しない」「あなたは実在ではない」。こういった言葉を真実だと理解するのに随分と時間がかかりました。確信が持てなかったのです。
でも、ギルバートが言った、「アウエアネスとは、あなたの普通の意識のことだ」の一言がきっかけとなって、一気に理解が起こりました。でも、同じことをセイラーボブは『ただそれだけ』の中で何度も似たような表現で説いています。でも、何度読んでもそれが私の意識のことだとわかりませんでした。先入観と言ってしまえばそれまでですが、何か特別な意識があって、それを何かのきっかけで獲得するのだと勝手に思っていました。
このことについても、セイラーボブは、何度も何度も「手に入れるものは何もない」と説いていたにもかかわらず、それをちゃんと理解することができませんでした。言葉の意味の理解ではなく、それが本当だと確信できるのは、ふとしたきっかけなのではないかと思います。
例えばセイラーボブは、行為者の不在について様々な説明をします。(行為者の不在の説明のしかた 2022.12.7ブログ)。でも、それですぐに納得できる人がどれだけいるでしょうか。私の場合は何回も聞いたにもかかわらず、確信が持てませんでした。
セイラーボブの教えの理解は、理屈ではなく、心の底から湧いてくる確信のようなもので、理屈や説明は不要で、かつ説明にしようにも説明できないものだと思います。それがいつ、どんなきっかけで起こってくるのかは人それぞれだと思います。
これはセイラーボブが言っているわけではなく、私が勝手に思うのですが、そうした理解が起きるのは、様々なことを、ああでもない、こうでもないとやってきた後で起こるのではないでしょうか。セイラーボブのまわりにいる人たちは、散々あれこれと探求をしてきた人たちです。
ミーティングを見ても、参加者の平均年齢はかなり高く、高齢者も多い気がします。そのほとんどの人が、ああでもない、こうでもないと探求した挙句にやってきます。そして「エンライトメントなんてない」と言われて、なぜないのかがサッパリ理解できないところから始まります。
盤珪は「不生の仏心」を説いたわけですが、何の修行もしていない人が、「そのままで仏なのだ」と言われても、ハイそうですかとは納得できないのではないでしょうか。当の盤珪でさえ病気になるほどの修行の果てに「不生の仏心」にたどりついたわけであり、何もしなかったわけではありません。
そして、ボブのまわりの人たちは、理解が起きても、contraction が起きると言います。私はこの「contraction 」という単語を上手に表現する日本語を知りません。辞書を引くと、「収縮・短縮・縮小、低下・減退」というような意味が出てきます。ジェームズ・ブラハやカタリーナ(カット)が使うので、精神世界特有の特別な意味があるのかもしれません。
要するに、自分が理解したと思っても、疑いが出てきたりして、確信が揺らぐような状態なのではないかと思います。そういうcontraction が起きるうちは、本当に理解したとはいえないと思います。ましてや、もっと別の人の本をと、あれこれあさっているなら、理解は起こっていないのだと思います。あさらなければ出会えないのだから仕方ないのですが、なかなか一人の師に出会うということは容易なことではないと思います。
でも、続けていけば理解は起きます。その起き方は人様々であり、決まったやり方はないと思います。わかったふりをしないで、地道に続けていくことだと思います。理解している人も理解していない人も、それであることには変わりはありません。
2022/12/25
誰が目覚めるというのですか
2022/12/24
それは、あなたの普通の意識のことです
それは、あなたの普通の意識のことです。パドマサンババの『裸の意識で見ることによる自己解放』というシンプルで素晴らしい古文書があります。彼はそれを人々が何と呼ぶか、たくさんの名前を挙げています。マインド、アートマン、自己、自己の不在、タターガタ(如来)、その他多くのサンスクリット語の名前を挙げ、最後に、「普通の意識」と呼ぶ人もいると述べています。
セイラー・ボブ
2022/12/23
命(life)自体は永遠に新鮮なものです
2022/12/22
どうやって決断したらいいのですか?
2022/12/21
それはすべて自然に起こっているのです
2022/12/20
どうやって自身をマインドと分離するのですか?
2022/12/19
自由意志はどこにあるのですか?
2022/12/18
そこには選択者も決定者もいません
2022/12/17
不幸な人は他の人も不幸にします
2022/12/16
「私」は存在しますか?
2022/12/15
セイラー・ボブ・アダムソンの近況⑥
四諦八正道③ 世界のどこにも我はない
という言葉が印象に残りました。改めて仏教の深さ、素晴らしさを感じました。
2022/12/14
四諦八正道② 八正道
2022/12/13
四諦八正道① 総論
2022/12/12
【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第17回 (2022年12月)
2022/12/11
宗教の本性: 誰が「私」を救うのか
2022/12/10
あなたは今認識しています
2022/12/09
執着と一切皆苦
2022/12/08
2022/12/07
行為者の不在の説明のしかた
2022/12/06
どうやったら行為者なしで行為をすることができますか?
2022/12/05
無知から苦しみが生まれる
2022/12/04
正念(マインドフル)
2022/12/03
マインドフルネスの本来の意味
2022/12/02
生の初期設定
盤珪の言う「不生の仏心」や、セイラーボブの言う「自然な状態」というのは、言うならば生まれたままの状態ということですよね。だとすると、人間の初期設定は何なのだろうかと考えます。さらに、人生、人間も含め命の初期設定は何のでしょうか?
私が考えるに、生の初期設定はポジティブなもの、善、良、喜び、光なのではないかと思います。それは、言うならば、ネガティブの反対としてのポジティブではなく、反対のないポジティブ。悪の反対ではない善、良。悲しみの反対ではない喜び。闇の反対ではない光ではないでしょうか。
もし、そうでないなら、「不生の仏心」や「自然な状態」でいる意味はなく、頑張って、善、良、喜び、光の存在になるべく努力しなくはいけません。もちろん、「不生の仏心」や「自然な状態」であるためにだって努力が要ると思いますが、それはまた別の努力になると思います。
私たちは本来、仏心一つで生まれ、自然な状態にいたはずです。それが、社会や環境の条件づけによって、「不生の仏心」や「自然な状態」が見えなくなります。それを見えなくしてしまうのが「私」であり、「私」にまつわる欲望です。
生の初期設定がポジティブなものだと思う理由は、TVやネットで動物の動画を見ている時です。動物には人間のような高度な思考はないはずですから、過去のことをあれこれと思い出したり、明日のことを思い煩ったりしないはずです。でも、何の不自由もなく生きています。
動物の親は誰に教わらなくてもちゃんと子供を育て、仲間を助けます。ウミガメは生まれた瞬間に海の方角へわき目もふらずに歩いていきます。人間も同じです。生まれた瞬間に自分で空気を吸って呼吸を始めます。乳首をあてがってやれば、お乳を飲み始めます。
生存のための本能は、誰に習うこともなく、自然に働くような初期設定になっています。そして、その初期設定は、人生を通して働いているのではないでしょうか。その初期設定を見えなくしてしまうのが、「私」です。「私」があれこれ考え、悩み、条件づけが植え付けられ、初期設定を見えなくしてしまう。
ウミガメは産卵の時期がくれば砂浜に戻ってきます。サケも戻ってきます。人間も、生存のための本能は、利用可能な情報と照らし合わせた上で、最良の答えを選択するように初期設定されているのではないでしょうか。
動物には条件付けが全くないかというと、そうとは言えないと思います。虐待されたペットを見ると、怯えていたり、反抗的であったりします。でも、そうしたペットも、もともとはそうではなかったと思うのです。その初期設定は肯定的なものではないでしょうか。
私達には、見えなくなった初期設定を再認識すること、条件付けの解除が必要です。でも、難しく考えないで、日常的に非二元の教えを学ぶ一方で、何か迷った時は、自然な直観、フィーリングを信頼して行動すればいいのではないでしょうか。何か気が進まない時は止めておくとか、思考はこっちを選びたがっているけど、フィーリングはこっちという場合は迷わずフィーリングに従うという態度が大事な気がします。
恋人になったり、友達になったりする時は、相手を理由づけして選ぶなんてことしませんよね。なんの理由もなく人を好きになるし、なんとなく気の合う人と友達になる。何かの理由で人に近づいても、あんまり良い人間関係は作れません。それと同じで、日々の行動や選択も、初期設定を信頼して自然に任せればいいのではないでしょうか。
そうして選択したら、後であれこれジャッジしないこと。もし直観やフィーリングに従って行動して失敗しても、それがベストな結果なのかもしれません。生の初期設定を信頼して生きることが大切なのではないでしょうか。