2023/07/28

虚偽は調査には耐え得ず、真実ではありません

2023.7.23ミーティング 40:22から

ギルバート:昨日、ボブのためにパーティをしました(95歳の誕生日パーティ)。そして私はチョコレートケーキを作りました。

カット:あれは美味しかった。

ギルバート:あれはしびれるほど美味しいチョコレートケーキだった。今まで、それほどたくさんのケーキを作ったわけではないのですが、作ってみようと思ってやってみたら、よくできました。そして何人かの人にレシピを聞かれました。それは内緒にしておきます。でも、もし誰かに、このこと(ボブの教えていること)に対するレシピを聞かれたら、ボブのポインターの一つを教えます。

それは、マインドを見つめ、それがどのように機能するか調べなさいということです。それはとても強力なポインターです。マインドを見つめて、それがどのように機能するかを調べるのは実に強力なポインターです。そして、アウエアネス(意識)には思考がないということを付け加えたいと思います。その二つのポインターが一緒になれば、それで十分です。

マインドを見つめ、それがどのように機能するかを調べてみてください。そして、アウエアネスには思考はありません。うわべ上で物語、ストーリー、お祝い、死などに囚われているキャラクターは、意識(consciousness)の上に観念として現れているものです。では、その意識(consciousness)に気づいているものは何なのか? それに気づいているものは何なのかというのが鍵です。

それに名前を付けることはできません。また、否定することもできません。それが本当のあなたです。それが本当の私たちです。そしてそれは、他には何もない一つのもの。一つの意識(consciousness)であり、私の意識ではありません。あなたの意識であり、ボブの意識であり、カットの意識です。それは分割されてはいません。それを分割することはできません。何も分割されません。

それについて考える時、どうして観念が何かを分割することができるでしょうか? 思考や観念には実体や独立性がありません。ボブが言うように、あなたが調査すると、それは調査には耐え得ません。それは粉々になります。それゆえ、マインドを見つめて、それがどのように機能するかを調べることには潜在的な可能性があります。その潜在的可能性は仮想(numenon)、非顕現からやってきます。

顕現、見せかけには力がありません。それは夢なのです。そして夢の中にも夢があります。夢の中で見ている夢が「私」、私という信念なのです。その「私」は実在ではないということを知ると夢は落ちていきますが、意識(consciousness)という夢は残ります。しかし、その意識に気づいているものは夢を見ていません。ボブ、誕生日おめでとう。

マンジュ:ボブ、質問があります。どうして私たちは完全に自身のことを忘れてしまうのでしょうか? 私がこのことを理解した時、どうして私は自分のことをマンジュだと考えてしまうほど愚かなのかと思ったのです。一体、どうしてこれが私たち皆に起きるのでしょうか? そして最後には、皆がそのことをを理解するのですが、どうしてそのことを完全に忘れてしまって、自分のことを人だと思うのでしょうか? そしてその人が世界に出て、死ぬまで生きていると思うのでしょうか?

カット:ええ、ボブに聞いているのですね。(ボブに向かって)どうして私たちは、本当の自分を完全に忘れてしまうのでしょうか?

マンジュ:完全に。(誰かが、完全にではないと言った)

ボブ:私たちは言葉を身に着けます。言葉を学び、学校へ行き、さらに言葉を学びます。それぞれの言葉には違った意味があります。そして私たちは言葉を信じるようになります。でも、言葉は物ではありません。言葉とは何ですか? 言葉は音です。音とは何ですか? それは波動です。そこにはエネルギーの波動があります。同様に、体は土、空気、水、火、空間といった構成要素でできています。あなたは空気なのか、あなたは火なのか。あなたはその構成要素のいずれでもありません。

構成要素は亜粒子原子、純粋なエネルギーへと分解することができます。つまり、体とマインドはエネルギーに他ならないのです。エネルギーとは何ですか? 波動、動きです。波動として振動しているものが、実在であるかのように現れているにすぎません。海を見てください。海は動かないように見えますが、近寄ると何かが動いています。たくさんの小さな波があります。その一つ一つの波は水以外の何ものでもありません。それは決して変化しません。私たちは、言葉によってすべてを変えてしまいます。

聖書では、始めに言葉があったとあります。言葉が神とともにあり、言葉が神でした。あらゆる神は言葉なのです。あらゆるものが彼によって、言葉によって作られました。言葉によってあらゆるものを手に入れたのです。言葉無くしては、マインドには何もありません。私たちはそうした言葉を学び、言葉を信じたのです。信念という言葉を調べてみてください。信念は実在ではないとわかるでしょう。辞書で信念の定義を調べてみてください。

理由もなく、調べもしないで受け入れているものです。私たちはそれを調べもせず実在だと受け入れたのです。親が何かを告げると、調べもしないでそれを受け入れたのです。確かな知識や証明なしに、理由もなく、調べもしないで言われたことを受け入れたのです。それが真実なのか嘘なのか、それが真実に耐え得るのか調べてみてください。

海へ行って、バケツ一杯の青い水を汲んでくださいと言ったら、あなたは何と言うでしょうか? 馬鹿なことは言わないでと言うでしょう。というのも、海は青くはないと知っているからです。でも、海は青く見え続けます。空は青く見えます。でも、空は単なる空間にすぎません。蜃気楼の中の水。そして有名な、ロープがヘビに見える話。一本のロープがヘビだったことがあるでしょうか? いいえ。暗闇でロープを見て、ヘビだと思う人がいます。その信念ゆえに震えやあるゆる種類の反応が起こります。

私たちは、あまりにも多くの信念を身に着けました。そして、恐怖、怒り、落胆によって自身を動揺させています。でも、それが本当かどうかを認識、質問、調べてみてください。虚偽は調査には耐え得ず、真実ではありません。

****************

この日もミーティングのあと、レストランでボブの誕生パーティをやるということで、ボブはスーツを着ています。そして、今まで見たこともないほど多くの人がミーティングに参加しています。

みんなで食べて歌って楽しそうです。
ボブ、95歳の誕生日、おめでとう。

2023/07/25

世界は今までと何も変わりません

健康には浮き沈みがあります。マインドがペアとなる対極の間で機能し続けるように、健康もペアとなる対極の間で機能し続けます。それが二元性だからです。顕現が二元性であるのと同じです。
しかし、そのすべての背後、あるゆるものの背後には幸福の感覚があります。しかしそれはとても繊細なものです。
原因のない喜び、原因のない幸福と呼ぶこともできます。
それは喜びや悲しみ、幸福や不幸の対極にあるものではありません。
世界は今までと何も変わりません。
                                    セイラーボブ

2023/07/24

非二元の教師たち 目次


     *この他にもたくさんのルパート・スパイラのYouTubeを掲載しています。ルパート・スパイラのラベルから見てください。










      あなた開かれた空間


                 ただ生だけがある

                 あなたは一なるもの

2023/07/21

ネーティ、ネーティ

2023.7.16ミーティング 42:00から

ギルバート:在ること(being)と、何かになること(becoming)の違いは何なのか? 違いはあるのか? 何かになるとは、観念的なものです。在ることは全く観念ではありません。なぜなら、あなたは自らが存在することを否定できないからです。

でも、どんな思考であれ、起こってくるものは否定・拒絶することができます。私はこれではないと。つまり、ニサルガダッタが語ったように、「これでもない、あれでもない(ネーティ、ネーティ)」です。そしてそれを多くの人が誤って解釈しています。たしか「I AM THAT」だったと思いますが、それを初めて読んだ時、静かに座ってマインドを見つめました。

そして、どんな思考がやって来ても、「ネーティ、ネーティ」、私はそれではないとやったのです。どんな思考がやって来ても、私はそれではない。それを繰り返し続けたら、紙袋から何かを取り出すように、マインドが空になっていきました。

次の思考は何だろう。マインドを見つめて調べ、何がやって来ても、私はこれではない。存在することとは。意識(consciousness)とは。それはすべて意識なのですが、その意識に気づいているものは何なのか? それを突き止めることはできません。ボブが言うように、思考はあらゆるものとして、形や特徴となって現れます。なぜなら、そう信じられているからです。でも、もしあなたが、それを本当のあなただと受け入れなかったら、それは単なるマインドの内容物にすぎません。

そして、それを注意深く見ると、マインドの内容物は絶えず変化しています。そして、もし思考が止まっても、私が消えて無くなることはありません。イエスは砂漠に行き、そこで40日、40夜過ごしました。それは家具や家や動物や木々などがないということを象徴しています。砂漠には何もありません。命はあるものの、私たちの思考による家具などは何もありません。

皆さんが砂漠に行ったことがあるかは知りませんが、私はあります。それは全く当惑させられるものでした。360℃が平でした。ムーブラ(?)のロケット基地で働いていた兄を訪ねて行った時のことです。列車に乗っていると、男がやって来て、「君の降りる駅は次の駅だ。朝の5時30分着」と言いました。列車が止まり、私は小さな青いスーツケースを持って降りました。たしか18歳でした。

そして列車が見えなくなると、そこは砂漠の中に小さなプラットホームがあるだけでした。列車が消えて何も見えなくなるのを見ながら、私は取り残されました。まったくの一人ぼっちでした。道路があって、兄は約一時間あとに迎えに来てくれることになっていました。私はコップ半分ぐらいの水を持っていましたが、太陽が昇ってきて、とても暑くなり始めていて、ひどく心配になってきました。

そこに立っているのは妙に現実離れしていました。丸いとは知っているのですが、平な地球の上。砂漠の中を少し歩いて、古い骨などを見つけました。そこにあったのは、社会や、もろもろのことのない存在そのもの(beingness)でした。それは表面上ではひどく困惑してしまうものでしたが、また、他の人から離れてほっとするものでもありました。

確かジャン・ポール・サルトルの言葉ですが、「地獄とは他人のことだ」。(笑い)ええ、そうではありませんか? でも、存在(being)には全体が含まれています。すなわち一つのものであり、全体は分割されていません。決して分割されてはいないのです。うわべ上のマインドによって、他人や私、その他のものに分割されているにすぎません。現象が空であるということを知るのはとても簡単です。

それを知るのは簡単なのですが、私たちは、この、ここにあるパターンを(自分の体を指さして)それに含めることを忘れます。それもまた空なのです。それは恐ろしいことではありませんか? 誰が恐れているのでしょうか? 思考の「私」「自分」です。その「私」は幻想です。

ボブが本やミーティングの中で指摘しているように、「私」を見つけることができるかを自分で調べるのです。そしてそれを、「ああ、わかりました、わかりました」と言ってやり過ごすのは簡単です。そうした人々が、「『私』が戻ってきました」というのを聞いたことがあります。彼らは至福の中にいて、「私」が戻ってきましたというのですが、どうやって「私」が戻ってくることができるでしょうか? もし「私」は幻想であり、あなたがそれを見破ったなら、どうやってそれが戻って来ることができるでしょうか?

それはありふれた感覚であり、ボブが最初の本の中で言っていますが、「もしあなたが、何が真実、あるいは実在ではないと知ったなら、どうしてふたたびそれを信じることができるでしょうか?」。できません。子供は、サンタクロースは実在ではないと知っても、残りの人生で、サンタクローズは実在ではないということを問題にすることはありません。「サンタはいない、サンタいない」と人に言ってまわることはありません。「私」は実在ではありません。

そして、「私」「自分」、その他のものも実在ではありません。そしてそれは見せかけ、一時的な見せかけであり、実際には分裂はないと知った時、それを調査すれば、それは粉々に砕けます。それは調査に耐えることができません。つまり、在ることと何かになることの違いは、存在(在ること)が究極のもの、あるいは究極のものが分割されずに表現されたものということができるなら、何かになることは、未来の時間を含んだ夢なのです。そして、未来という時は存在しません。

2023/07/18

アウエアネス(awareness:意識)とは、何かになることだと思っていますが、そうではありません。

もし、「今あなたに意識はないのか(unaware)?」と尋ねたら、何と答えますか?
あなたに意識はないのですか(unaware)? いいえ。
ということは、意識がある(aware)はずです。
それを探しましたか? いいえ。
つまり、そのことに気づいていないのです。
思考がそれを見えにくくしているのかもしれません。
そえほどシンプルなことなので、見逃してしまうのです。あまりにもシンプルです。人々は、アウエアネス(awareness:意識)とは、何かになることだと思っていますが、そうではありません。
                                    セイラーボブ

2023/07/14

どうやって空間が部屋の中に入ったのか?

2023.7.9ミーティング 1:10:32から

ジェームズ:これは大切なことだと思うのですが、少し前までははっきりとした質問になっていませんでした。何か言わなくてはいけないと思って自分のことで精いっぱいだったからです(20分ほど前に、どうして質問するのはこんなに怖いのかという質問をした)。でも、今は質問があります。(一同笑う)

ある種の理解を得るために必死なのですが、同時に、そのことに対して大きな抵抗があります。先週ここに来た時、心に浮かんできたのは、どうして私はここにいるんだろう、誰が探しているんだろう、何を探しているんだろう、なぜ私はここにいるんだろう、そしてそれをやっているのは誰なのだろうということです。もし、私たちはすでにそのことに気づいているのなら、なぜ私たちはここにいるのだろうかということです。

ジェーン:理由はないのですよ。カビーシャが歌の中で見事に歌ったように、それは神聖なこと。それはラベルなのですが、同じ波長の人とともにいることは、何かすばらしいことです。たとえあなたが自分を連れて行ったとしても、実際には実在があなたを連れて行っているのです。どこへ行っても、あなたが連れていっているのではないのです。あなたと共鳴する人たちといることになるのです。

カビーシャ:滋養を与えているのです。輝くのです。あなたがそれを育てるのを助けてくれる人たちとともにいることが良いことなのです。あたかも私たちは皆一つの庭の中、仲間の中にいて、アウエアネスを成長させているようなものです。

アニータ:そしてまたこれは経験的なことです。これは経験です。私たちは時々観念的な議論しますが、実際これは観念的なことではなく、直接の現在進行形の体験なのです。そして体験している人たちの中にいるということは何かとてもすばらしいこと。あなたが経験したことは、全くの喜びです。それを経験したくない人がいるでしょうか? それは現在進行形の体験であり、マインドではありません。

アンディ:省略

ボブ:何かが共鳴するのです。それが内側の性質です。内側にもともと内在する何かがあなたを引き寄せるのです。それをマインドで知ることはできないかもしれませんが、何かがあなたに共鳴してもっと聞きたくなるのです。(不鮮明のため一部省略)あなたに内在する知性がそれを認識、あるいは認識しようとするのです。それをそのままにして、流れに任せ、それがあなたをどこへ連れて行くのか見てください。

カット:あなたが、「なぜ私が」と尋ねた時、あなたが本当にそう尋ねていると感じました。でも、何が起こったかを見てください。突然皆がそれぞれに異なる物語で質問に答えたがったのです。なぜなら、それが「なぜ」がやることだからです。マインドは、なぜあなたがここにいるかを正当化しようとするのです。

生(life)があなたをここへ連れてきたのです。あなたではありません。あなたには何の選択権もありませんでした。あなたが考えたことが動機になっているのではありません。それが、生が展開する究極の神秘なのです。どうして私たちは行為を行うのか。たくさん正当化することもできます。子供の時のことや、天候やなんかのせいすることもできます。

でも真実は、私たちは行為者ではないのです。私たちは何かを手に入れるためや、何かを理解するため、参加するために来たのか。いいえ。私たちが来たのではありません。なぜなら、私たちは行為者ではないからです。ただ、生がそのように表現しているにすぎません。

なぜ自分がここにいるのかと尋ねる時、誰が尋ねているのか見てください。そこ誰がいるのか。
(雑談が不鮮明のため省略)

ギルバート:ある時ある人が、アーバン・グル・カフェの件で電話をしてきました。何年も前、デーヴィット・ゴッドマンという男と連絡を取りました。彼は、アルナンシェラ(インド)の図書館で図書館員の長をしながら、ラマナなどの本を書いた人です。彼がニサルガダッタのミーティングのたくさんのテープを送ってきたのです。その多くは音が不鮮明でしたが。(誰かの問いに答えて)ええ、ニサルガダッタです。ラマナではありません。ラマナは語りませんでした。

それはアーバン・グル・カフェにあるのですが、そのテープの中で、若い探求者がミーティングの中でニサルガダッタに、「どうして私はここにいるのでしょうか?」と尋ねたのです。どうして私がここにいるのか。するとニサルガダッタが言いました。「どうやって空間が家の中、部屋の中に入ったのか? どうやって空間が部屋の中に入ったのか?」。空間が部屋の中に入ったのではなく、空間の中で何かが家を建てている、と彼は言いました。現在形でです。

空間の中で何かが家を建てている。それはポインターとしてはとても微妙です。メンタルの活動の中で、何かが「私」という構築物や家などを建てているのです。でも、そうした物のうちで変化しないものは空間です。空間のような意識。なぜ私はここにいるのか? 私はここで何をしているのかというのは素晴らしい質問です。

パパジにも別の話があります。彼はラマナの生徒という言い方もできます。ある時彼がラマナを訪ねると、ラマナは、「どうやってここへ来た?」と聞きました。するとパパジは、「リキシャで来ました」と答えました。するとラマナは、「ではそのリキシャは今どこにいる?」と言いました。

「去りました」と答えると、「その前は?」とラマナ。「タクシーです」。
「そのタクシーは今どこにいる?」。「去りました」。
「その前は?」。「マドラスから列車に乗ってきました」。
「その列車はどこにいる?」。「去りました」。

わかりましたか? 私たちは、どうやってここへ来たかという物語を手に入れます。そしてそれが苦しみとなります。なぜなら、あなたはいつもずっと「ここに」いたからです。本質として、実際には一つの意識(consciousness)あるいはアウエアネスがあるだけです。そこには、どうやってここへきたかという物語はありません。

ボブ:空間の中のどこかに中心を指摘することができますか?ここだという場所を指摘することができますか?

ギルバート:いいえ。それゆえ、自己の中心という言葉はフィクションなのです。空間に静止した点がないというのに、自己の中心という静止した点がありえるでしょうか? 留まることなく、無の中を漂っているのです。つまり、「私」を支えているすべての物語はフィクションなのです。それがすぐにわかればわかるほど良いのですが(笑い)。

2023/07/11

そいつがエンライトメントしていればいるほど、そいつはあなたにみじめさと災いをもたらすだろう

もし誰かが、あなたを助けることができる考えると、そいつは必ずあなたを誤り導くだろう。
そいつがイカサマであるほど、そいつの力は強大となる。
そいつがエンライトメントしていればいるほど、そいつはあなたにみじめさと災いをもたらすだろう。
                            U.G. クリシュナムルティ

2023/07/07

あなたは常にそれでした

2023.7.2ミーティング 1:06:50から

ギルバート:自然な状態には言語がありません。それには言葉はなく、静寂です。つまり、実在(being)には言語がありません。言葉を必要としないのです。でも、いわゆる人には言葉が必要です。心配したり、答えを見つけたりするためには言葉が必要です。でも、ボブが言うように、マインドの中には決して答えは見つかりません。

もし、あなたが意識(consciousness)の意識(consciousness)だとしたら、マインドには何が起きるでしょうか? もし、あなたが意識(consciousness)の意識(consciousness)だとしたら、マインドはどこにあるでしょうか? 

参加者:それはノーマインドです。

ギルバート:ええ、それはノーマインドです。では、ノーマインドに問題はありますか? 禅のいにしえの言葉に、"No mind, beginner's mind"(無心は初心)という言葉があります。ニサルガダッタは、「意識の意識でありなさい」と言いました。それを本で読んで、次の文章へ移ることもできます。でも、ポインターの持つ意味は、それが指し示すことが何なのかを理解してこそ価値があります。

意識の意識でありなさいという意味は、そこには一つの意識があるだけだということです。そこには、私の意識もあなたも意識もなく、一つの意識があるだけです。映画館には一つのスクリーンがあり、そこにコメディ、ドラマ、悲劇などが映し出されますが、スクリーンは変化しません。それは変化することはなく、同じスクリーンです。電気が消えると、真っ暗になりますが、スクリーンはそこにあります。

夜眠ると、意識(consciousness)が薄れ、休息します。精神は休息します。でも、アウエアネス(awareness:意識)は依然としてそこにあります。もし誰かが大きな音でドアを叩くと、何かがあなたを揺り動かし、あなたは起き上がってドアに応答します。なぜなら、アウエアネスは常にそこにあり、それには時間がなく、それは物ではないからです。

それは競争ではありません。スピリチュアリティ(精神世界)は巨大な競争のようなものになっていて、そこでは、人々は競ってグルの近くへ行って、グルの足にキスをするのです。人々がグルのもとに駆け寄ってキスするのを初めて見た時、彼らは何をやっているのだろうと思ったものです。(一同笑い)

そしてそのグルは至福の中にいるかのような表情でした。裸足の足にキスを受けて、天国にいるかのようでした。でも、そのシーンは、エゴそのものでした。でも、それも単なる意識(consciousness)なのです。意識が役を演じていて、人々はそれぞれの役を意識の中で演じているのです。それは、一つの意識です。

ニサルガダッタが言ったように、意識の意識で在ると何かが起こります。意識の意識で在るということは、マスターキーのようなものです。自己成就(self-realization)のマスターキーは、「私は在る」という認識です。それが、シッダ・ラメッシュヴァールが指摘したことです。でも、私たちの問題は、その「私は在る」に物事を付け加えてしまうことです。

「私はギルバート」「男性」「オーストラリア人」「いいやつ」「時々はちょっと扱いにくい性格」など(一同笑う)。でも、話を「私は在る」に戻すと、私は在るとは何なのか? 私は在る(I am)の am は、存在するという動詞(to be)です。「私(I)」とはアイデンティティです。私のアイデンティティとは何か? そこに存在(being)するということであり、それは自然に起こっているものです。

アウエアネス(意識)は自然に起こっているものです。それは「私」に依存しているのではなく、意識(aware)しようとしてそうなっているのではありません。アウエアネスはそこにあるものです。ボブはしばしば、「あなたに意識はないのか?(Are you not aware?)」と尋ねます。そしてもちろん、私には意識がある。そして次の質問は、「意識があるために何をしなくてはいけなかったのか?」です。

何もしていないのは明らかです。そして、「私」が何かをやっているという考えが、存在の基盤を歪めてしまうのです。「私」は行為者ではありません。意識(consciousness)がすべてを行っているのです。でも、手柄を横取りする「私」がやってきて、「私がこのことについて何らかの貢献している」というのです。ナンセンスです。

探求者は幻想です。それは幻想にすぎません。探求が問題へと変わるのです。探求者、「私」は幻想です。それは全部ナンセンスです。あなたはそれです。あなたは常にそれでした。あなたはそれ以外ではなく、ボブはそれをミーティングや本の中で指摘しています。それがすべてです。フルストップ! 

意識の意識で在ること。それを理解してください。それは無(nothing)ではありません。ニサルガダッタやボブ、その他の教師たちは、そうしたこと(覚醒・あるいはエンライトメントのことを言っていると思われます)を面白半分にでっち上げたりしません。それをやる人もいますが(一同笑い)。たとえば***。彼は面白がることが大好きでした。いずれにしろ、それは意識(consciousness)なのです。
(***は、とあるインド人の名を挙げていますが、諸事情により伏せておきます。興味のある方は聞き取ってみてください。1:12:58あたりです)

2023/07/04

仏教関係のYouTubeをいくつか紹介

佐々木閑先生の新しいシリーズが始まっています。

佐々木閑 仏教講義 9「仏教の宇宙 その1」(「仏教哲学の世界観」第12シリーズ)

倶舎論の話は非二元からは少し離れてしまうと思いますが、初期の仏教、あるいは江戸以前の人々がどういう世界観を抱いていたかはとても興味深いところです。

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【第二回 臨済録に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2023年6月6日(火)

横田老師は法話名人。いつも深くておもしろいです。非二元という言葉は微塵も出てきませんが、この話はセイラーボブの説く非二元と同じことを説いてみえるのではないでしょうか。

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第151回花園大学創立記念特別企画佐々木閑特別教授就任記念対談 2023年5月25日(木)

このお二人がみえなかったら、私が仏教を理解することはできなかったと思います。
敬愛するお二人の対談を聞き逃すわけにはいきません。いろいろと考えさせられる対談でした。

追記:7月4日朝9時の時点で非公開になっていました。仏教の本質に触れた、非常に有意義な対談だったのに、残念です。また公開されましたら、再リンクさせていただきます。お話の一端は円覚寺のサイトで読めるので、興味のある方は読んでみてください。(円覚寺サイト:戒こそ人を自由にしてくれる – 佐々木閑先生と対談 –

2023/06/30

もしあなたがマインドの召し使いになるなら、苦悩することになります

2023.6.25ミーティング 40:15から

参加者:あなたがおっしゃったことを理解しようとしていますが、あなたがおっしゃったのは、考えていること自体が思考だということですか?

カット:いいえ。考えている人、つまり「私が考えている」という思考の「私」が考えているのではないということです。私が考えているという事自体が別の思考なのです。私が考えているという思考は、思考の内容であり、そこに考える人はいません。そこに「私」がいて、それが考えているというのは想像です。でも、真実は、そこには考えている「私」はおらず、「私が考えている」という思考にすぎません。そこには誰もおらず、他の思考と同じように、「私が考えている」という思考があるだけです。

ジュリア:ただ、そう主張しているだけです。あなたが考えているという主張があるだけです。この幻想の中で、うわべ上それが考えているように見えているだけです。ここには何かを考えている人は誰もいない。もし、あなたが考えていると言うのなら、思考が起こるのを止めるためにはどうしますか? 脳の中のシナプスが働いて思考が起こるのですが、あなたがシナプスを働かせているのですか? それともそれはただ起こっているのですか?

参加者:瞑想している時気づいたのですが、

ジュリア:あなたは瞑想しているの?(笑い)

参加者:いいえ。言葉のあやです。思考は私のせいではなく、起こっています。それはよくわかります。思考は私によって起こるのではありません。それがわかるのにしばらくかかりましたが、それははっきりとわかりました。でも、あなたたが言うことが理解できないのです。

カット:思考はあなたによって起こるのではないと言いましたね?

参加者:ええ。

カット:では、ボブの言ったことに対する質問は何ですか? もし、私が考えるという思考は、思考を考える人ではなく、単なる思考だというのなら、それを起こしている「私」はいないということになります。

参加者:オーケー。

カット:それはすでにあなたが理解したことです。そうでしょ。

参加者:どうしてこんな簡単なことが、ぼんやりとしか理解できないのかわかりません。

カット:もし体の他の機能を調べてみるなら、例えば髪が生えること、あなたが髪を生やしているのですか?

参加者:いいえ。

カット:でもあなたは、ええ、私は髪を伸ばしている、短く切ったけど、もっと長くするつもりだと言います。まるで、あなたが伸ばしているかのように。髪が自然に伸びるように、見る働きは自然に起こっています。思考は自然に起こっています。もちろん、あなたが髪の毛にとって健康なものを食べれば、健康な髪が生えるでしょう。あなたが幸せなら、思考は、より幸せなものとなるでしょう。見る働きなどもすべては相互に作用していて、外側で起こっていることと分離しているわけでありません。

あなたが髪を成長させていないのと同じように、あなたがあなたの思考を考え出しているわけではないのです。では、「私」は一体何をしているのか? それはそこにいる必要さえないというのに。おそらく「私」はまったく余分なものです。髪は自然に生え、思考はやってきて、見る働きも自然に起こっています。

ボブ:呼吸も。

カット:呼吸も自然に起こっています。「私」には何の仕事もありません。唯一の仕事は、自然がすでにやったことを自分の手柄にすることだけです。

参加者:ボブが語ったセンテンス、「もし思考の・・・」、いいえ、ええっと、彼は何と言いましたか?

カット:もし思考の「私は考える」が考える人ではないなら、どうなるのか。

参加者:もし思考の「私は考える」が考える人ではないなら、どうなるのか。

カット:もし思考の「私は考える」が考える人ではないなら、どうなるのか。私が考えていると言っている思考が、実際には考えていないのなら、どうなるのか? それは深淵な言葉です。もし、私は見ていると言っている「私」が見ていないとしたら、どうなるのか? ボブが言うように、思考の「私は見ている」には目がありません。体には目がありますが、私は見ているという思考には考えるための脳も見るための目もありません。思考は単なる音です。それは何もできません。

参加者:私が今この質問をしているのは、以前、一年ほど前のことですが、このことははっきりとわかっていました。それは、深い理解(realization)というより、いくぶん知的な理解(understanding)でした。見ることは起こっています。つまり、聞くことと一緒に起こっています。そこには、聞いている人はいません。それは聞く働きにすぎません。同様に、見る働きも同じだとわかります。そこには、見ている人はいません。見る働きがあるだけです。

でも、それは深い理解(realization)ではなく、シンプルなことで、つまり、どうして以前はこんなことがわからなかったのだろうという程度のものです。もしそれが真実なら、なぜ私は理解(realize)しないのでしょうか? 何が私の理解を邪魔しているのでしょうか? 私には、解消しなくてはいけない自己同化があまりにもたくさんあるからではないでしょうか?

カット:ええ。そこには、「私」という観念があります。あなたは、「私」には見ることができず、見ることは起こっていると理解しています。その「私」は髪を伸ばすことはできず、髪は自然に伸びています。でも、あなたは、依然として、「私」が理解(realize)できると信じています。そこには誰もいないのに、どうしてそれが理解できるでしょうか? 「私」がいない時、そこには理解があります。

参加者:そのことはわかります。それはとてもシンプルです。そこには何もありません。でも、あまりにも私は自己同化しています。それは何かエネルギーのようなもの。それが何なのかはわかりませんが、悪い習慣です。どうやったら、その悪い習慣を乗り越えることができるでしょうか?

ギルバート:その習慣は単なる習慣だと知ることです。理解に到達するためには、理解すべきことの直接的な体験が必要です。この場合、今この瞬間、自分で思考を考え出すことができるかやってみることです。一つの思考を自分で考え出すことができるか。できますか? 

参加者:できるように思います。

ギルバート:オーケー。本当ですか? 

参加者:いいえ。

ギルバート:それが直接の体験です。あなたは、一つの思考も考え出すことはできないと体験しました。そうやって、理解は努力なく自然に変化していくのです。つまり、身に着けた誤った知識を消し去るための洞察力が必要なのです。その知識が「私」の元となっています。知識とは、実際には無知のことです。いにしえのインドの経典にあるように、avidya(アヴィジャ:知恵)と vidya(ヴィジャ:無知)は同じものです。彼らはそれ以上のことを言いませんが、それは深い理解であり、私たちには自分でそれを理解する必要があります。

あなたが自分だと思っているものや、蓄えたすべての知識は、無知以外の何ものでもありません。そしてそれがあなたに問題を引き起こすのです。それを調査することによって消し去る必要があります。ボブが言うように、「私」を見つけることができるかを、自身で調べることです。「私」を見つけることができますか? この「私」を、あなたは見つけることができません。

参加者:自己同化が起こるたびに、その「私」を探す必要があるということですね? 毎回。いつも、絶えず。

ギルバート:アイデンティティ(自己同化)とは何ですか? 「私」のアイデンティティとは何なのですか? この「私」が実在かどうか調べるために、「私」は何かに自己同化しますが、それは決して実在ではありません。人々、愛する誰か、物などに執着します。誰かが私の財布を盗んだ、あるいは車、その他の何かを盗んだとしても、それは私のアイデンティティではありません。私のアイデンティティとは何ですか? それは「私は在る」です。

「私は在る」という知識です。それは皆に共通のものです。でも、私たちはそんな風に生きることに慣れていません。すべては「私」に関わっています。自身が安全だと感じるために、物事を手に入れ、ため込むのです。でも、安全などというものはありません。というのも、それはすべてフィクションだからです。それは完全な全くのフィクションです。それはありふれた知識ではないので、新聞や7時のニュースではやりません。「私」はフィクションです。世界のあらゆる苦悩は、それが元となっています。

一つの思考を考え出すことができますか? あなたは、あらゆることを考え出すことができるアウエアネス(意識)、コンシャスネス(意識)から独立した存在ですか? いいえ。そこにあるのは意識(コンシャスネス)だけであり、その意識(コンシャスネス)がすべてを行っているのです。そこには、どこにも分離した存在はいません。

仏陀は空(くう)を見つけました。彼は、自我(self-nature)はどこにも存在しないと言いました。つまり、あらゆる苦悩の原因となる自己という観念、分離した個人は幻想なのです。それはとてもシンプルです。自身の空間、時間、プライバシーの中に、「私」を見つけることができるかを調べるのです。今それをやってみるのです。

見つかりません。なぜなら、それはフィクションだからです。それは、皆が信じているとてもありふれたフィクションです。そのため、世界は苦悩、戦争などで満ちていますが、それは幻想なのです。それはまったくの幻想です。

私たちは皆、一つの本質がうわべ上で別々の存在として現れたものです。その本質を知る必要があります。なぜなら、あなたはその本質だからです。「私は在る」は知識です。「私は在る」は実在の本質なのです。実在は静寂です。実在には言葉は不要です。実在は静寂であり、あなたはその静寂とともに座ることができます。

そしてあなたは、マインドを観察して、それが動きであり、じっとしていることができないということを理解することができます。瞑想することはできますが、マインドはじっとしてはいられないのです。というのも、それは生(命)であり、動いているからです。その静寂・実在の中に座って、マインドを見つめ、その動きを見て、自分はそのマインドが同化しているものではないと知ることができます。

あなたは、マインドが同化している何かではありません。あなたは、それを目撃者として見つめ、それが何をしているのかを見るのです。すると、あなたはマインドが何なのかを理解します。ニサルガダッタが言ったように、マインドは良い召し使いだが、悪しきマスターです。もしあなたがマインドの召し使いになるなら、苦悩することになります。でも、苦悩する人は誰なのか? ごめんなさい。独占してしまいました。

カット:いいえ。すばらしかった。

2023/06/27

探求はエンライトメントなどというものはないという理解とともに終わる

探求はエンライトメントなどというものはないという理解とともに終わる。
探求することによって、あなたは自己を解放したいと思うが、自己を解放するために何をしようと、それをやっているのは自己なのだ。
どうしたらこの単純なことを理解してもらえるだろうか。
「どうやって」と問うべきではない。私があなたに言えるのは、そう問うことでさらに探求心を強めてしまうということだ。
それこそがあらゆる疑問から来る問いである。「どうやって、どうやって、どうやって?」                          
                             U.G.クリシュナムルティ

2023/06/23

そこには行為者はいません

2023.6.18ミーティング 1:11:12から

ジーン:やってきては去っていく意識・思考を、そのままにしておくということは理解しました。それには賛成です。心理学をたくさん学んだせいかどうかはわかりませんが、感知することができる思考のさらに下に潜在意識としての信念が動いていると思います。

そのうちの、どれほどが広がっている感情、運命、あるいは何と呼んでもいいのですが、それを操作しているのでしょうか。それは、私が自分に植え付けたものかもしれません。つまり、成長する課程において、世界は安全・幸福な場所ではないと自身に植え付けた観念なのかもしれません。

そしてそれは実際、私がどうすることもできないレベルで動いています。そのため私はいつも中毒という問題を抱えています。ネガティブな感情から逃れようとして、どれほど何度もこの困難を乗り越えようと努力したことでしょうか。するとまた、別の中毒がやってくるのです。ムードを変えようとする行動のことです。

酒、ドラッグ、セックス、猛スピードでの運転、私は詳しくはありませんが、極端な情事などは、自分ではコントロールすることができない感情から逃れるためのものです。それはある感情であり、潜在意識下で起こっていることだと私は思っています。そして私は、この生活のやり方を、どうしたらいいのかわかりません。

カット:残念ながら、何もすることはできません。どんな生活のレベルにおいても、何もすることはできません。そしてそれが、このメッセージの断固とした基本です。そこには行為者はいません。何が起ころうと、たとえそれがPTSD、子供の時に遺棄されたことからくる根深い感覚であろうと、それは単なる解釈であり、その感覚は実際の世界で起こる必要はなかったものです。

もちろん、どんなことでも起こりえます。そしてそれが起きなかったとしても、そこには行為者はいません。それに対しては何もすることができません。認識することだけが唯一の道です。もし、ボブの人生のストーリーを見てみるなら、30歳の時、喧嘩をして歯を失いました。その時点で14年もの間、アル中でした。ホームレスの無職、就労不適格者、疲れて果てて道に横たわっていました。

彼にとって、世界が安全な場所だというのはジョークでした。しがみつく何ものもありませんでした。絶望してAA(断酒会)に戻りました。しらふになるためです。そして、8~9か月後にまたそこを出ました。そしてまた、酒を飲み続けたのです。なぜなら、そこには自己の中心だけがあったからです。そこにはその感覚だけがあったからです。そこにはエゴの感覚だけがあり、エゴは脅され、世界は安全な場所ではありませんでした。

そして、自分はどうしたらいいのか。鈍感になるためにできることは何でもやった。酒でもなんでもやった。「私」が中心にいる間は、何をやってもだめなのです。まったく無駄です。認識は、「私」を超えたところからやってきます。ボブの場合、何者かが自分に人生で二度目のチャンスを与えてくれた、ということは、自己の中心の外に何かがあるのかもしれない、それは神かもしれない、実在、あるいは生、知性かもしれないということから始まりました。

そして今、探求そのものは幻想、マインドの想像物です。それは、マインドの外にある何かです。でも、探求はボブを成熟、準備の整った地点へと連れていきました。疲れ切った思考のパターンが、探し求め、自らを苦しめ、夢を見させ、熱望させ、そして最後にギブアップして、やすらぎへと導いたのです。というのも、それにできることは何もなく、それは機械的なプログラムであり、何もできないからです。それはある意味、自己という視点からは完全に無力であり、何もできないということを受け入れるようなものです。

それは、生に対して理解が生まれるようなもの。生がいつもあなたにそうしてきたように、あなたの世話をいつもしているということへの理解。あなたは今ここにいて、あなたの心臓は脈を打っている。あなたは健康で、寝る場所がある。ボブは以前よりもひどい状態ですが、それでも生(命)は彼の世話をしています。

ミーティングの記事はここまで。

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ここからはどうでもいい話。
私はセイラーボブに会った初期の段階から、どうしてボブの英語はこんなに聞き取りにくいんだろうと思っていました。モゴモゴ言って、とっても聞き取りにくい。英語ネイティブの人にとっても聞き取りにくいのだそうです。YouTubeの自動字幕装置もほとんどお手上げです。

そしてもう一つ思っていたのは、ボブの歯が上下とも異常にきれいだということ。なんとなく、入れ歯かなぁと思っていたのですが、総入れ歯と思ったことはなく、それほど突き詰めて考えたことはありませんでした。でも、今回と前々回のミーティングの中でカットが語ったことによると、ボブがまだアル中だった頃にケンカをして、歯を全部なくしたと言っています。

それから考えると、ボブは少なくとも30代の前半から総入れ歯だったということになります。だからあんなにモゴモゴと不鮮明な話し方になるんですね。それにしても、ケンカをして歯を全部なくすとは、どれほど荒れた生活をしていたんでしょうか。よくそんな境遇から立ち直ったなぁと思います。

2023/06/20

成ることは在ることではありません

そして不完全性と分離が起こります。それが探求の始まりです。しばしばそれには終わりがありません。自分で調べて見抜かない限り、それは続きます。
成ることは在ることではありません。
今この瞬間ここで、意識のない人、実在しない人、存在しない人はいません。
                                    セイラーボブ

2023/06/16

草はひとりでに生える

2023.6.11ミーティング 36:18から

カット:(携帯を見ながら)今日は27人から30人ぐらいの人がオンラインで参加しています。質問はありませんが、いくつかのメッセージがきています。何人かの人から皆さんへおはようのメッセージが届いています。ラムから、「今日のボブは、まるで10年前のようで、エネルギーがみなぎっていた」。ギルバートから、「人々の欲求を満たすためではないポインター。自然ですばらしい。それを知的に理解しようとすれば失敗する。それで何も悪いことはない。あるがままは、あるがまま」。

そしてまたラム、「カットはボブに何を食べさせたのか」。(ボブに向かって)彼はあなたのエネルギーが良かったけど、何を食べさせたかですって。(笑い)ええ、もちろん愛情です。それに、皆さんからいただいたもの。ディーンの有機野菜園で作ったすばらしい作物などをスープや汁に、違った形の愛として入れています。JBから、「とてつもなく素晴らしいスピールでした」。そしてサラから、「ありがとう」。オンライン参加者からは質問は届いていません。誰か質問したい人やシェアしたい人はいますか? カビーシャ、質問ですか?

カビーシャ:質問かどうかはわからないのですが、ボブの話でちょっと感じることろがありました。何かをする必要はないというところです。それはとても強力でした。というのも、私は生涯を通して、善良であろうと努力したり、両親や教師にほめられるように努力してきたりして、子供の頃からそうするようにと社会に条件づけされてきたからです。

そのため、努力を要しない? ワオ! とてもショックでした。でも、私は天国へ行くつもりなのではないか? 私の言っていることがわかりますか? それは奮闘するエネルギーです。そして、あなたは、努力は必要ないと言いました。それが今日とても胸を打ちました。どうやってそうしたらいいのかわかりません(笑い)。

カット:あなたがやる必要はないのです。

カビーシャ:まさしく、そのとおりです。(笑い)ああ、どうしよう、私は努力しようとしている。(笑い)

カット:やらないようにと努力しなくていいのです。(笑い)

カビーシャ:ええ。サンキュー、ボブ。

ボブ:サンキュー。私も何年も努力しましたよ。

カビーシャ:そしてまた、スピリチャアルの道では、エンライトメントや、なんやかんやを達成するまで、努力することにエネルギーを注ぐことで手一杯です。それはたぶん、なんやかんやなのですが、それは、ただ在る状態にリラックスすることではありません。それは常に私たちを取り巻いているのに、私たちは夢の中で努力してその周りをかけずりまわっているのですね。サンキュー。

ボブ:サンキュー。

カット:すばらしいですね。努力するという概念は、その根底に様々な仮定を含んでいます。ありのままではいけない。何か違ったものになるため、変えるためには何かに向かって奮闘しなくてはいけない。そのため、この瞬間を受け入れるかわりに拒絶するのです。拒絶するということは、違うものになって、この瞬間から分離することになります。もはやあなたはこの瞬間にいません。この瞬間にある何かから、傷つけられたり抑圧されたりすることになります。

そしてまた、あなたが言ったように、努力、奮闘することは、将来、何かが起きること、成し遂げることを意味します。今、この瞬間がいけないというだけでなく、おそらく後でいつか別の瞬間が来るということを意味しますが、後はありません。どんな未来の瞬間も、今この瞬間の想像の中にあるだけです。そして、「私」と、この知る働きのフィールドには分離はありません。

でも、努力することは驚くべきことです。あなたは実際耳にしました。というのも、それはあらゆる苦悩、苦しみを含んでいるからです。私は人間であり、分離している。私の外にあるのは世界であり、それと折り合いをつけなくてはいけない。そして、世界は間違っていて、私はそれを変えるために努力をしなくてはいけない。そしてまた、私はよくない、自分を変えなくてはいけない。

カビーシャ:私たちは、原罪を背負っているために、それほど勝ち目がありませんでした。そうでしょ? 最初から背負っているのです。あなたは原罪とともに生まれた。ええ? 私は何もやっていなのに。私はただの赤ちゃんなのに。(笑い)

カット:原罪についてボブは、私たちが言葉を覚えたために天国から追い出されたと言っています。子宮から出た時ではないのです。その時点では原罪、分離はありません。でも、私たちは言葉を学びます。私たちは善悪の木から食べるのです。両親から、これは良くない、これは良い、私はここにいて、世界はここにあると学びます。

そうして分離が創造されます。たくさんの概念、たくさんの言葉。一歳半から二歳半の頃。それは言葉によります。ある言葉はより易しいでしょう。概念ができあがり、まわりの人を真似ることによってそれを学びます。それが、天国から追い出される瞬間です。善悪の知識、言葉によって、分離の感覚がやってきます。

42:32から55:40まで省略。

55:40から
カビーシャ:歌を歌ってもいいですか?(一同拍手)

[Spring comes and the grass grows by itself sitting silently doing nothing.]
(何もしないで静かに座ると、春がきて草はひとりでに生える)

あとはこの繰り返しで、みんなで合唱でした。

****************

カビーシャの歌の歌詞の出典は何だろうと思って、ネットで英文を検索してみました。すると、驚くことに、この言葉は松尾芭蕉の言葉であるという画像がたくさん出てきました。そこで、芭蕉の言葉を日本語で検索して、それらしい言葉か俳句があるかと探したがみつかりませんでした。

調べていくうちに、その情報源は、OSHO(ラジニーシ)の「草はひとりでに生える」であり、どうもOSHOが芭蕉の言葉であると誤って語ったことが、ネット上で拡散したものらしいとわかりました。(参考:草はひとりでに生える

もともとの出典は景徳伝灯録(中国、北宋の禅の書)のようです。(参考:茶席の禅語選黄檗宗大本山塔頭 宝善院) おそらく、カビーシャは禅の本から歌詞を取っていると思われます。

この言葉の禅的な解釈は禅の専門家にお任せして、非二元的な解釈をするなら、行為者の不在ということだと思います。私たちはもともとそれなのだから、必要なことは、ただ理解することだけです。
このミーティングの中のスピールでも、ボブは、「私」がそれをやるのではなく、生(命)が自然にそれ(理解)を起こすのだと言っています。カビーシャの質問も、そのスピールに対するものです。

2023/06/13

それはいつもここにあります

ニサルガダッタは、「私は在るという感覚に留まりなさい」と言いました。
思考や言葉の「私は在る」のことを言っているのではありません。存在の感覚のことを言っているのです。自然発生的な存在の感覚に留まると、それから出ることはできないと気づくはずです。
曇りの日に外に出て、空に太陽がないと言いますか? 太陽は自ら輝いています。
でも、あなたには太陽が見えません。十分な光がありません。
あなたは太陽がそこにないと言ってまわることはしません。もし真っ暗だったら、空に雲があることもわからないでしょう。
太陽が見えなくても、あなたはそこに太陽があると知っています。
自然発生的な実在も同じです。それはいつもここにあります。
                                    セイラーボブ


2023/06/09

それは単なる感情、ラベルにすぎないと理解することです

2023.6.4ミーティング 36:17から

参加者:ボブ、カット。目覚め、個人の目覚め、つまり、自分自身になるために、マインドとトラウマが、どんな役割を果たすのか、少し話していただけますか?

カット:(ボブに向かって)何か話したいですか?

ボブ:いいえ。

カット:それは落とし穴のある質問ですね。なぜなら、まず第一に、個人が目覚めることはもちろんないからです。ええ、これは言葉のあやであるということはわかっています。ええ、条件付け、トラウマは、あなたも知っているように、存在します。例えば、動物にもトラウマがあります。でも、動物はそれを阻止したり増大させたりすることはありません。というのも、動物はいつも自然な状態にいるからです。

もし動物、例えばオオカミが罠にかかったら、あるいは、犬が虐待されたり、猫がいじめられたりしたら、彼らの脳は生存のための反応を身につけます。もちろん、それは結局は役に立たないものとなります。人間のトラウマを考えると、例えば退役軍人や虐待の犠牲者は、その瞬間を生きのびるために何らかの戦略を身につけますが、そうした戦略は、もはや役に立たなくなっても持ち運ばれます。そしてそれがさらなる苦悩を生み出すのです。

人間と同じように、動物にもトラウマがあるのは事実です。人間の特定の行為に対して、特定の反応をするように条件づけられます。そしてその反応がしばらくは続くのですが、時がたつと、抵抗や悪い感覚は消えていきます。そして、トラウマがあってもなくても、そこには自然な状態があります。

人間の場合は、トラウマを何度も生きることになります。私たちには物語という別のソフトウェアがあります。時には、トラウマをもう一度生きることは、トラウマの解消になることがありますが、トラウマを強めてしまうこともあります。一つのやり方がすべてに当てはまるとは言えません。

ボブは、そうした場合はいつも、本当のあなたである静寂の状態に戻って、何が自然に起こるか見守ってくださいと言います。というのも、顕現として現れるすべてのものには適所があるからです。セラピー、指圧、瞑想、何でも自然に起こってきます。物語だけが特定の物語を強化し続け、トラウマを持続させ、トラウマが「私」の目覚めを妨げているという物語さえ生みます。あらゆることが「私」が目覚めることを妨げているとなります。

もちろん、「私」が目覚めることは決してありません。どんな物語もそこにあります。それは実際には落とし穴のある質問ではありません。それはどんな場合も個人によって異なるという問題です。そしてそれは、トラウマをどう定義するかによります。もしあなたがボブに、彼の人生の前半30年について尋ねたら、どれほど多くのトラウマが起こったかを言うことはできないほどです。ケンカをしてほとんど全部の歯をなくした屈辱や、クビになったこと、虐待されたことなど、たくさんのことがありました。

トラウマ的な反応を一度も経験しなかった人が世界にいるのかは知りません。脳が発達して空間を観念化する途中で、母親や世話をしてくれる人を無くした人さえいます。それが(頭を指さして)、コンピューター、機械によってトラウマと翻訳されて反応を起こします。誰しも、ある程度はそうした反応を経験していて、それにトラウマというラベルを貼って非難して、その犠牲者となるのです。

そのかわりに、ボブが言うように、トラウマをあるがままに見つめ、もしそのことを考えなかったら、そこにトラウマはあるのか?と言うこともできます。もしそれにトラウマというラベルを貼らなかったら、もしそれに、汚れた重苦しいラベルを貼らなかったら、そこにトラウマはあるのでしょうか? それは単なる条件付けされた反応です。それがそのようになされても、自然はすべてを、無判断の清浄な空間のような意識によって、変えることなく、変更することなく、正すことなく解消します。それが解消のプロセスです。もちろん、それでも生き残るための手立ては必要です。あなた自身にはトラウマになるような経験や、トラウマについて熟考したことがありますか?

参加者:いいえ。今日ここへ車で来る途中、家族の集まりのことについて話していました。それはある意味、家系に引き継がれたトラウマのようなものです。それは行動の中の、何かパターン化されたようなもので、ある種の行動、条件づけされた振る舞いのようなものです。それは、誰か他の人からのものではなく、そのトラウマに直接悩まされるということではなく、遺伝的にあるもののことです。そのことについてずっと考えてきました。

もちろん、今この瞬間、空間の広がりの中には、何一つ固着したものはありません。でも、それでもやはり、収縮となるような行動はあります。そのために、それを理解したいと思ったのです。それで、あなたの考えに興味があったのです。

ボブ:思考、フィーリング、感情はどれも機能です。思考が最初にやってきて、フィーリングが感情をもたらします。そして私たちは、恐れ、怒り、不安と、どんなラベルも貼り付けます。ラベルとして貼り付けた言葉によって、実際よりも悪くしてしまうのです。それは単なる感情、ラベルにすぎないと理解することです。私たちは、それが絶えず変化しているということ見ようとせず、それにかまわずそのままにするかわりに、それに執着して、そこに留まるのです。それを続けて、最後には強化してしまうのです。

2023/06/06

私たちの問題はどれも、不安と傷つきやすさから起こります

私たちの問題はどれも、不安と傷つきやすさから起こります。自身の分離に気づく前、すなわち自分が分離していると気づく前、つまり、自分は分離した存在だと信じ込む前には、不安も傷つきやすさも感じることはありませんでした。
今やそれを感じ、温かくて愛情ある家族をまわりに求めます。もし、温かくて愛情ある家族がいれば、より安心して、傷つきにくく感じるのです。
                                    セイラーボブ

2023/06/02

それが、深い苦悩をもたらすことはありません

2023.5.28ミーティング 49:06から

ボブ:それは空間のような意識と言われていて、意識とは空間のようなものです。その意識の中に中心を見つけることはできますか? 中心、あるいは始まりを見つけることができますか? 境界はありますか? 境界も始まりもありません。ただそこにあるのです。空間の外で、何かを仮定・考えることはできますか? それは、空間の中だということに気づくはずです。

空間は物ではありません。それには姿・形がありません。空間の外では何も仮定することができません。いわゆる、物はすべて空間の内容物なのです。空間は物ではありません。物が物ではないものから生まれるでしょうか? いいえ。ということは、空間のような意識が、うわべ上でそのように見えているだけなのです。

あなたはどこから来ましたか? あなたの両親の本質は、空間の内容物なのです。あなたは空間の内容物ではありませんか? あなたはその外に出ることができますか? 

参加者:ボブ、そのことに関して短い質問があります。空間がなかったら、そこには何もないのですか?

ボブ:ええ、あらゆるものは、物ではないもの/無(no thing)であり、物ではないもの/無がすべてなのです。空間さん、こんにちは!(一同笑う)

カット:今日はたくさんの人が来ていますが(参加者が多く、キッチンや玄関にも座っている)、それでも部屋の中には空間があります。(笑い)
そこに、たくさんの意識(アウエアネス)があります。ボブがいつも尋ねるように、「あなたには意識がないのですか?」。そこに意識があって、それが体・マインドを通して現れています。それがそこにあることは否定できません。

存在、実在がそこにあり、それが唯一重要なものであり、その他のことは過ぎ去っていく物語です。それは変化していく現象。それはエンターテインメントです。ある状況においては、それが展開して、とてもつらいもの、押しつぶされそうなものと感じるかもしれません。あたかも、川が流れて岩にぶつかって、大きな渦を作るようなものです。

それは私たちが出会った、オンラインショップの宅配便の人のようなものです。彼は、可哀そうなことに、四か月前に奥さんを亡くしました。娘はてんかんで病院にいます。四か月の間に、父親、母親などに次々と不幸が続き、彼はそうしたドラマで煮え立っていました。私は当事者ではなく、彼は沸騰状態でした。

ええ、生とはそういうものです。明晰さがあろうと無かろうと、生は川の流れのようなものです。動物を見ると、彼らは自然な状態で生きています。彼らは傷つけられ、争いをかいくぐり、干ばつや洪水にあい、あらゆることが起きます。でも、心理的な苦悩は、それに付け足されたものです。

災難、苦痛、病気、老齢など、うわべ上に現れるものを避けることはできません。それは夢の中のことであり、夢のルールの一部です。その形には始まりと終わりがあります。あらゆるものが形となって、車、衣装、乗物、体となって現れ、それは重力の法則を受け、建てられ、朽ちていきます。

でも、苦悩、精神的な苦悩、心理的な苦悩は、付け加えられたものです。というのも、その配達人が別の配達のために数日後にやってきたのですが、彼は完全に明晰な空間の中にいました。「こんにちは、またお会いできてよかった。今度は玄関を間違えませんでしたよ」と言ったのです。

驚いたことに、今回彼は、マインド・ドラマ・物語の中にはおらず、存在する幸せの中にいました。私たちも、癌、子供の死、病気、何であれ、周りの状況に関わらず、同じように生きることが可能です。周りの状況のことを考えると、それが重くのしかかってきますが、その解釈の外に出てリラックスして、奇跡の展開とともに、ただ在るようにする。もしもっと湿っぽいドラマが起こっても、それに注意を向けなければ、それを体験することはありません。

心理的な苦悩は、そうした考え・物語に注意を向けることから起こります。ええ、もちろん、それを否定することはできません。世界には飢えもホロコーストも、どんな考えもあります。でも、もしそのことを考えなかったら、それを経験することはありますか? その思考を持ち出さなければ、その思考を具現化しなければ、その思考に多くの心を向けなければ、それを経験することはないのです。

それが実在かどうかを議論することはしません。なぜなら、世界は単なる現象にすぎないからです。もしこれが実在ではなく、例えば過去や他の場所が実在であったとしたら、何が問題ですか? でも事実として、直接の現在進行形の体験のレベルにおいては、あなたは自分が存在するということを知っています。そして、物語を具現化して信じることがなければ、それだけのことです。

そして、純粋な実在の中には苦悩は存在しません。もしそれを、罪悪、恥辱、悔恨と呼ばなかったら、自身のことを犠牲者と呼ばなかったら、世界を裏切り者と呼ばなかったら、それに上張りを貼らなかったら、苦悩は存在しません。たとえもしそこに上張りがあったとしても、それはシネマ・映画・ネットフリックス・スクリーンと同じです。それは見せかけです。それを映画と同じように眺めると、それがあなたを傷つけることはありません。それが、深い苦悩をもたらすことはありません。

2023/05/30

あなたはもともとあなたが探しているものなのです

もしあなたが真実、神、あるいは何と呼ぼうと、それを探しているなら、私はあなたが絶対に確信している唯一の現実、つまり、あなた自身の存在から始めることをお勧めします。私は感覚について話していて、思考の「私は在る」のことではありません。
存在の感覚、自分が存在しているという認識があります。意識の存在が今ここにあります。それが、私たちが絶対に確信している唯一の現実です。誰も真実として「私は存在しない」と言うことはできません。それを言うことさえ、まずそこに存在しなくてはいけません。その認識は絶えず、常に私たちにあるものであり、それゆえ私は「あなたはもともとあなたが探しているものなのです」と言うのです。
                                                                                                  セイラーボブ

2023/05/26

あなたは空(くう)であり、無である

2023.5.21ミーティング 55:23から

カット:オンライン参加者からいくつかのコメントが届いています。ブラッドリーから。「最初、人が一杯飲み、その一杯がもう一杯飲み、そしてそのもう一杯が人を飲む」いいですね。「人は考えることを学び、思考が思考を生み、その思考が人を飲み込む」(笑い)すばらしいですね。そのとおり。

ギルバートから。「誰も何も行っていない。責めても何の得もない」(笑い)そしてまたギルバート。「私の中の信念が調査されない限り、心理的な苦悩は続く。かまうもんか。私という物語、私の物語なんて要らない。放っておけ」。

ブラッドリーから。「あるがままに対してイエスと言う時、あるがままは愛と呼ばれるスクリーンの上で自然に変化する」。すばらしいですね。そしてまたギルバート。「意識は完全なもの。誰も実際に意識のあらを見つけることはできない」。まさしく。

アメリカのジュリアから。「行く場所などなく、なすべきこともない。もともとそうであるものになるために」。そのとおりです。ええ。この言葉のカードを出しましょう。この言葉にはすばらしい続きがあります。(カードを箱から出して探す)

もし迷ったら、ここにたくさんのリマインダー、ボブの知性の真珠があります。もしあなたが何か苦しんでいたら、一枚選んでください。どの一枚もあなたを我が家へと導くはずです。もしそうならなかったら、ここへやって来て、私たちに披露してください。私たちが詳しく説明します。(笑い)きっと役に立つはずです。

これは私が最初に作ったやつだと思います。この美しい空と海のやつです。(青空に海と雲が写っている写真のカードを見せる)

「何もすべきことはなく、何かになるものもおらず、行くべき場所も、見るべき場所もない。あなたはもともとそれなのです。あなたは空(くう)であり、無なのです」