この本の副題は「ダイレクトパスの基本と対話」となっています。私はダイレクトパスという言葉の意味を知りませんでした。そこで、それは何かということで、p188の「訳者のあとがき」を引用させていただきます。
ひとことで言うと、この本はダイレクトパスの入門書だ。シュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノンが生んだ、現実の本質や自分の本質を誰でも直接確かめることができる方法。それがダイレクトパスだ。
ダイレクトパスという名称は、「自分とは誰か」「自分とは何か」を問いつづけるラマナ・マハルシの自己探求を指すときにも使われることがあるが、アートマナンダのダイレクトパスでは、問い続けるというよりも実際の経験を具体的に確認していく。自分という人間やティーカップのような物体を含め、存在しているように感じられるものを調べる。
シュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノンはラマナ・マハルシとほぼ同時代を生きたインドのグル(アドヴァイタ)だそうです。(Wikipedia)
本書は、最初の三分の一がグレッグの書下ろしになっていて、後半の三分の二はグレッグと参加者の対話が収録されています。
タイトルの「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」の、気づきの視点に立つというのはどういう意味なのかを最初に説明しています。
p12
気づきは「意識」と呼ばれることもある。気づきと意識というふたつの言葉は、ここで扱う教えでは同じ意味を持つ。気づきは「存在」と呼ばれることもある。これは気づきが非実在でも空虚でもないということを表わしている。気づきは「知識」という言葉で呼ばれることもあるが、それは気づきによって無知が消えることを伝えている。また、気づきは「愛」と呼ばれることもあり、これは気づきが開かれていて、魅力的で寛容で親密で、そこには制限も苦しみもないという側面に注目した表現だ。
以前のブログで、「気づきと意識」について書いたことがあり、私の場合は「気づき」という言葉が苦手でした。ここでも、「意識の視点に立ってみたらどうなるんだろう?」というタイトルの方が人によってはわかりやすいような気がするのですが、そうすると後に出てくる「意識」という言葉とダブってしまうために、「気づき」とされたのだと思います。あるいは、実際にはその視点に立つ「人」は実在ではないけれども、実験的にその視点に立ってみようという意味で、「気づき」という比喩的な表現にされたのかもしれません。原題は「Stand as awareness 」となっています。
p20
どのように気づきの視点に立つのか?
まずできるのは、二十四時間どこをとっても、そのほとんどのあいだ自分がすでに気づきの視点に立っているのを認めるということだ。たとえばさきほど挙げたような、主体と対象のあいだの隔たりが経験されていない時間がそれだ。
そして、気づきの視点に立ったあと、いくつかの実験によって、物が実在なのか、それとも単なる気づきなのかということを調べていきます。最初はコーヒーカップです。コーヒーカップを見て、それを見る時、何が経験されているのかを調べていきます。するとそれは、視覚であり、色と輪郭であるとわかります。色と形を経験することによってコーヒーカップを認識しているが、実際にコーヒーカップそのものを認識しているのではなく、単に色と形を認識しているにすぎない。それは、単なる気づきの中のものだということを理解します。
今度は、同じ実験を体を見ることによってやります。体の中に気づきがあるのか、気づきの中に体があるのかを調べていきます。すると、体は気づきの中にあるのであって、体の中に気づきがあるのではないということがはっきりします。同じ実験を心(マインド)についても行います。そうやって次々に実験をしていって、そこにあるのは気づきだけであるということを体験します。この手法をダイレクトパスと呼んでいるようです。
私はここまで読んだところで、これはどこかで読んだことがあるぞと思いました。これは仏教の唯識のところで出てきた説明とよく似ています。唯識では、ただ識だけがあるというところを、グレッグ・グッドは気づきだけがあると説明しています。
そして、どんなものも気づき以外のなにものでもないと感じられるようになった状態を、「観照が実現した状態」と呼んでいます。そして、観照がしっかりと定着すると、観照は純粋意識へと消えてなくなり始めると説いています。観照を崩壊させる実験で、観照を崩壊させる方法を説いていますが、このあたりはちょっと難しいところで、まるで中観(ナーガルジュナ)の説明を読んでいるような印象を受けます。ここも、その説明の仕方が中観のそれとよく似ています。
グレッグ・グッドは大乗仏教にも造詣が深いそうで、おそらく唯識や中観派の教えの影響を受けていると思われます。仏教ではダイレクトパスより二千年も前に同じことを説明していますが、グレッグ・グッドのすばらしいところは、同じ内容を現代の人向けにわかりやすく説明しているところにあると思います。
そのあとは対話集になっています。対話の中で、質問者から、グレッグの悟りはどのように起こったかという質問がありました。それに対してグレッグは、最初は観照が起こり、最後にはそれが純粋意識の中へ消えていくという二段階の経過で起こったと説明しています。このくだりは、注意深く読まないと、グレッグ・グッドにエンライトメント、あるいは覚醒が起こったと勘違いしてしまいます。
これはあくまで理解の過程を説明しているにすぎません。純粋意識とは、それを何と呼ぼうと私たちがもともとそうである普通の意識のことです。純粋でない意識なんてありません。
そして、その理解がどんな風に起こるのかは人様々です。私たちがグレッグ・グッドと同じ道筋をたどらなくてはいけないということではありません。これは毎回言うように、健康食品の広告の但し書きと同じで、「個人の感想です」。何かのきっかけで理解したと思う人もいれば、自然に理解したと思う人もいると思います。
p147
(質問者)あなたのように、そう確信できるようになる方法はあるんですか?
(グレッグ)とても真剣に調べることです。私が言っている気づきは脳の働きではありません。この気づきは、すべての見かけがそれに対して現れているそれなんです。気づきから遮断されているときを見つけられますか? 気づきがないときがあるでしょうか? 熟睡しているときでもあなたは気づきとしてあって、対象が存在しないという事実を認識しています。気づきは存在しています。あなたが存在なんです。
この本は、物は実在か、世界は実在かということを体験的に理解したいという人にはとても有効な本だと思います。こうした実験的な方法が自分には合うだろうと思われる方は、グレッグのもう一冊の本、ダイレクトパスにはたくさんのエクササイズが載っていたと記憶しています。
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著者について
グレッグ・グッド Greg Goode
南カリフォルニアで育つ。カリフォルニア州立大学で心理学、ドイツのケルン大学で哲学を学び、ロチェスター大学で哲学の修士号と博士号を取得。アメリカ哲学実践者協会(APPA)認定の哲学カウンセラー。
西洋哲学、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、大乗仏教など広い知見をベースにした自己探求を、著作やコンサルティングを通じて指導している。
著書に"The Direct Path:A User Guide"、"Emptiness and Joyful Freedom"などがある。
妻メイとニューヨーク在住。
グレッグ・グッドのYouTubeチャンネルな無いようですが、ホームページの中にいくつかの動画があります。→動画(video)