セイラーボブの教えを理解するために最適な本は、LIVING REALITY(未邦訳)だと思います。そのLIVING REALITYの裏表紙に、三人の非二元の教師が推薦文を書いています。レオ・ハートン、グレッグ・グッド、そしてジョーン・トリフソンです。そのため、この三人はセイラーボブの教えを支持しているか、あるいはまったく同じことを教えていると思われます。
ジョーン・トリフソンはセイラーボブと面識があります。古閑博丈さんのブログで、セイラーボブと会っているくだりがあります。LIVING REALITYの中でも、セイラーボブがアメリカに行ったら再会したいというくだりがあります。
さて、この本の感想ですが、この本はとても読みやすかったです。非二元の本を読んでいると、時々翻訳された日本語の意味がはっきりとわからない時があります。でも、この本にはまったくそれがない。古閑博丈さんのブログや本を読んでいつも思うのは、翻訳からくるストレスがまったくないということ。これは高木悠鼓さんにも言えることで、この二人の翻訳は安心して内容に集中できるのでありがたいと思っています。
本の内容もすばらしいものでした。本の構成は27の表題からなる書下ろしになっていて、それぞれの最初にいろいろな賢人の短い言葉が引用されています。最初の項目「生」の頭には、セイラーボブの言葉(生はつねに生を糧にして生きています。生はあらゆるかたち、あらゆる姿をとって現れます。それでもそれは同じ生であり、同じ知性=エネルギーです。そしてあなたはその生なのです。)があって、嬉しく思いました。セイラーボブの言葉はその一回だけで、あとはブッダやラマナ・マハリシなど様々な人の言葉が掲載されています。賢人たちの言葉もすばらしいのですが、書下ろしの内容もすばらしいものです。
本の紹介のために何か所か抜粋させていただきます。
P50から
いわゆるスピリチュアルな覚醒の旅は、どこか別の場所にたどり着くこととも、新しい何かを手に入れることとも関係ありません。それはもっとも明白はことを認識するということであり、また、自分のまさに目の前にあってもっとも親密で呼吸よりも近く本当の意味では避けることも見落とすこともできない何かを見かけの上で覆い隠している誤った観念や蜃気楼のような空想の正体を見抜く(またはそこから目覚める)ということです。
覚醒や悟りという言葉を耳にすると、私たちはよく、砂の上に引かれた魔法の線を「私」が未来のいつかに飛び越えて「覚者」となり、ある種の完璧な(そしてもし可能であれば永久に心地良い)境地に永遠に定着できるのではないかといった想像をします。それはおとぎ話であり、幻想です。そういう考えかたから目を覚ますことこそが、覚醒です。
P55から
「自己がない」というのは、「あなた」がこれまで経験したことがないような魅惑的で神秘的な経験のことではありません。
成長の過程で、今ここにいて気づいているという否定しようがない感覚が、一つの心身の内側にいる分離した個別の人間だという観念と混ざってしまいます。私たちが毎瞬、実際に経験していることーー境界なしにあるということーーが、主体と客体、自己と他者とに概念の上で分割されます。蜃気楼のような分離した「自分」、空想上の客体が、<究極の主体>(あらゆるものとしてありながらあらゆるものを見守り、位置を持たず、気づきながら今にあるということ)と取り違えられてしまうのです。目が覚めているときの生という映画は、ひとりひとりが別々のものを観ているように感じられます。そのため、私たちのそれぞれが意識の分離して独立した単位(心)であって、他とは切り離された体の内側に閉じ込められているその個人が、「外側」にある客観的な物質世界、人によってさまざまに違って見える世界を見ているのだと考えます。
けれども、世界は「外側」にあるでしょうか? そして「内側」に意識の分離した単位(心)があるのでしょうか? あなたが私の映画に現れていて、私があなたの映画に現れているとしたら、この見かけ上では別々の映画は、ひとつひとつの宝石が他のすべての宝石の姿を映している<インドラの綱>の宝石のようなもの、もしくはどんな小さな部分も全体を包含しているホログラムのようなものだということはありえないでしょうか?
p214から
瞑想などのスピリチュアルな実践をはじめたばかりだったり、先鋭的な非二元のミーティングや本に接しはじめたばかりだったりする人たちは、これは自己を向上させてどこかにたどり着くという話なのだとたいていは思い込みます。道なき道(直接の道)とは、じつはそうした考えの本質を見抜くことにほかなりません。それは究極的には、宇宙の他の部分から切り離された「自己」はここにはいないという発見です。明晰さと混乱のあいだ、「わかる」と「わからなくなる」のあいだ、境界のない気づきとの一体化と一人の個人との同一化のあいだ、そうした両極のあいだを行ったり来たりしている「私」はいません。「スピリチュアリティ」と「それ以外の生」のあいだの境界は、実際には存在しません。あるのは、今あるとおりの<ここ・今>という境界のない直接性だけです。
どんな境地も経験も、やって来ては消えていきます。非二元の絶対は経験ではありませんし、永久にせよ一時的にせよ「人」が至る境地でもありません。「人」というのは、非二元的な無境界性の内側で現れて消えていく一時的な見かけです。
非二元の本というのはどれも、一種のパラドックスになっていると思います。たいていの人は、非二元の教師たちは、私たちとは違う意識の状態にあると思っていて、自分もそうなりたいと思って本を読みます。
自分も悟りを手に入れたい。エンライトメントしたい。一瞥体験をしたい。彼らのように理解を手に入れたい。特別な理解が起こるはずだ。でも、最後まで読んでも何も起こりません。何も起こらないばかりか、彼らが何のことを言っているのかよくわからないまま終わってしまいます。すると、(ああ、やっぱり私はまだエンライトメントしていないから理解できないのだ)となって、また別の本を読むことになります。
非二元の本を正しく理解するためには、彼らは私たちと何も違わない普通の人だということを前提に読むことです。彼らに何かが起こって、特別な意識の状態になったに違いないという誤った思い込みをなくして読むことです。もし、彼らが私たちと同じ普通の意識の状態にあるのなら、一体何のことを話しているんだろうという視点に立つと、彼らの話している内容に注意が向かい、自分にも理解できることだという目で読むことになります。そうすると、彼らの話していることは何も特別難しいことではなくなります。
私はセイラーボブに会う前に「ただそれだけ」を7回読みましたが、何のことだかさっぱりわかりませんでした。でも、教えを理解した後では、これほどわかりやすい本はないと思っています。他の非二元の教師の本も同じです。彼らが特別な意識の人だという思い込みを捨ててしまえば、やがては「わかっちゃった人たち」の仲間入りです。
何がわかるかというと、それは説明できません。それは「つかめないもの」だからです。ジョーン・トリフソンはこの本の中で、最初から最後まで繰り返し「つかめない」ものを説明してくれていますが、私たちがそれをつかむことはできません。
非二元の教えを理解していない人がこの本を読むと、繰り返し繰り返し「つかめないもの」のことが書いてあって、あ~、わからんとイライラするかもしれません。でも、私にとってはこの繰り返しがとても心地よくて、(そうそう、そうそう)と最後まで楽しく読むことができました。ジョーン・トリフソンはセイラーボブと同じ香りがします。偉ぶったところや気取ったところがなく、普通の人感満載です。また一人好きな教師が増えました。
ジョーン・トリフソンについて
1948年 米生まれ 女性 75歳。
Amazonの著者紹介より
ジョーン・トリフソン Joan Tollifson
アドヴァイタ、仏教、先鋭的な非二元を好んでいるが、 どんな伝統にも属していない。
著書に『Bare Bones Meditation』『Awake in tne heartland』
『Painting the sidewalk with water』がある。
アドヴァイタ、仏教、先鋭的な非二元を好んでいるが、 どんな伝統にも属していない。
著書に『Bare Bones Meditation』『Awake in tne heartland』
『Painting the sidewalk with water』がある。
本の最後の訳者のあとがきにジョーン・トリフソンの詳しい経歴などが書いてありますが、それを勝手に要約して書いてもしかられるので、掲載を控えさせていただきます。古閑さんのブログに短い略歴が掲載されていますので、そちらを参考にしてください。英語版のWikipediaには名前がありませんでした。ジョーン・トリフソンのサイトに自己紹介がありますので、リンクしておきます。
ジョーン・トリフソンのYouTubeチャンネルは見当たりませんでしたが、YouTubeでJoan Tollifsonを検索するとたくさんの動画が出てきます。どんな人か。比較的再生回数の多いものを一つ掲載しておきます。