非二元の教師たちが教えているのは、何かになることや、何かを体験することではありません。ましてや覚醒でも目覚めでもありません。彼らは私たちと何も変わらない普通の人たちです。この本はそのことを全く平易な言葉でわかりやすく教えてくれています。悟りとはなにか、本当のあなたとは何かを、これほどわかりやすく説明している本はないのではないでしょうか。
本を紹介するために、一部を引用させていただきます。
p24
あなたはもうすでに向こうにいる。悟り、あるいは自己認識は、少数の選ばれた人のためにあるようなものではない。それはあなたの本質であり、たった今まさにここにあると本書は断言する。最初から読み進めるのがいいとは思うが、本書は悟りを開く方法を段階を追って教えるマニュアルではないし、そのようなものではありえない。それから、これは自己改善や知識の獲得についての本でもない。これは、実際一度も忘れられていなかったことを思い出すという逆説に関する本だ。自分とは本当は誰か、何なのかということがテーマであり、どうあらねばならないか、どうなるべきかを説く本ではない。
p37
悟りは、少数の選ばれた者にしか成就できないような、起こる可能性が低い至難の業ではない。それどころか、悟りはそもそも成就可能なものではなく、悟りを自分のものにできる個人的存在がいるという幻想が取り除かれることを通じてそれ自体を明らかにする。それは<純粋意識>として今ここに完全にある。どこか別の場所で、あるいは達成される日が来るまで未来のどこかで待っているわけではない。悟りは時空内の出来事ではない。逆に、時空が<純粋意識>のなかの出来事であって、<純粋意識>はあなた、私、そして存在するすべてとしてそれ自体を絶えず現わしている。それはここに並んでいる言葉であり、これらの言葉を読むことであり、言葉が現れている背景だ。それは入っては出ていくあなたの息であり、心臓の鼓動であり、淹れたての朝のコーヒーの香りであり、歩道に落ちている犬の糞であり、星々であり、惑星であり、そしてすべてが起こっている広大な空間だ。それはこのすべてであり、それと同時にこのすべてを超えている。それはすべてを包含し、知覚し、創造し、破壊する者だ。
p97
あなたは本当にこの意識なのだ! 本書を通じてここまでずっとそうだったように、これも文字通りに受け取ることを勧めたい。もし<一なるもの>しか存在しないのであれば、それが存在するすべてであり、あなたはそれでしかありえない---それの一部(離れるもの)ではなく、そのものだ! 千の湖に映る月という魔法に惑わされてはならない。あるのはそれでひとつの<自己>であり、それが多として現れているだけだ。それはこの現象を観照し、映し出し、生成し、破壊し、包含し、維持しながら、この現象である何もなさだ。
p191
悟りとはどのようなものかと質問した人たちが、その返答を聞いてから、「それは単なる言葉、概念です。以前も聞きましたがそれでは足りません。私が知りたいのはそれが実際どんなものなのかということです」と言って答えを退けるのを見たことがある。そのような探求者が待ち望んでいるのは、特別な出来事を通じた確認か、あるいはもしかしたら至高体験んなのかしれないが、そう望むことによって、探している<目覚め>がすでに完全に今あるという認識を先延ばしにしている。彼らが見落としているのは、見るということをしているそれ---すべてに共通しているもの---あらゆる現象を維持しているひとつの普遍のキャンバスが今ここにあるという事実だ。それは見かけ上のあらゆる多様性の土台にある基層だ。
p203 翻訳者(古閑博丈さん)のあとがきより
英米のネット書店では本書に対する絶賛のレビューが多く投稿され、またセイラー・ボブからは「共鳴と認識の大きな歓び。見事だ!」という賛辞が寄せられている。
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本のタイトルは「夢へと目覚める」というすばらしいタイトルなのですが、目覚めること自体がまた夢なのです。目覚める「私」は実在ではないのですから。
この本には、「純粋意識」という言葉が何回も出てきます。原語は何なのかは確認していませんが、文脈から判断すると、この「純粋意識」というのは、他の非二元の教師たちが、awareness(アウエアネス)、気づき、意識と呼んでいるもののことです。間違えてはいけないのは、それを手に入れなくてはいけないとか、それを体験しなくてはいけないと考えないことです。
この「純粋意識」とは、もともと私たちがそうであるもののことです。もっとわかりやすく言うと、思考(マインド)の背景にある意識のことです。日常の普通の意識のことです。意識に純粋でない意識なんてありません。おそらくレオ・ハートンは思考と明確に区別するために「純粋意識」という表現を使ったのだと思います。
「私はまだそれを体験していない」「私はそれを手入れていない」と言うのは的外れであり、非二元を理解していないということになります。これだけはっきりとレオ・ハートンが書いていても、深読みして、(いや私はまだその状態にはない)(彼らには何か特別なことが起こったはずだ)という人がいるかもしれません。それを手に入れるための覚醒も目覚めも起こりません。もともとそうなのですから。
私たちは、この意識を「私」の意識だと思っています。でも、逆なのです。意識の中に「私」が現れているのです。「私」の意識ではないのです。じゃあ、それは何なのかと聞かれる方は、ぜひこの本を読んでください。
レオ・ハートンは21歳の時にある種の神秘体験、超越体験、至高体験と呼ばれる状態を経験します。そしてそれを悟りだと思ったそうです。でも、あとになって、それは単なる体験であり、意識の上を流れていく雲のようなものだとわかったそうです(p145)。このあたりのくだりはとても参考になるところです。
この本の中には多くの賢人の言葉が引用されていて、その言葉もすばらしいものばかりです。信心銘、ルーミー、ニサルガダッタなどなど。セイラーボブのミーティングで出てくる話もいくつかありました。また、ボブがミーティングの中でこの本について語ったこともありました。
この本で語られる説明は、私にはものすごく腑に落ちるわかりやすいものでした。読みやすいし、解釈に困るようなところはありません。すばらしい本です。絶賛おすすめします。ぜひ読んでみてください。
Amazonの著者紹介
著者について
レオ・ハートン(Leo Hartong)
1948年、オランダのアムステルダムで貧しい夫婦のもとに生まれる。
自宅で降霊術がおこなわれるなどスピリチュアルな環境で幼少期をすごす。
10代でハシシをおぼえ、問題児として行政の矯正施設に入れられるが、 脱走して路上生活を経験。
結婚し子どもをもうけ、陸路でインドまで旅をするなどの生活を送る。
読書や瞑想を重ね、ウェイン・リカーマンらのミーティングに通ううちに
現実と自己の本質に目覚める。
2018年に膵臓がんのため他界。(参考:古閑博丈さんのブログ)
その他
レオ・ハートンでネット上を検索しても、ほとんど情報はありませんでした。YouTubeも一本も見当たりません。本人のサイトも抹消されているようです。古閑博丈さんのあとがきによると、基本的にはサットサンやトークをしていなかったということです。著作は、この本の他に「From Self To Self」があります。
写真(この一枚だけ)