この本は正直ちょっと手ごわい本でした。373ページもあって、全部が書下ろしになっています。たいていの非二元の本には質疑応答の部分があって、質問に対して答えが展開していくパターンが多いのですが、その場合は何について話しているのか展開が読めます。でも、この本は話の展開が予想できない上、説明が長い。よく言えば詳細かつ緻密に説明が続くのですが、悪く言うと冗漫で繰り返しが多い。
私は非二元の本を読む場合はなるべく先入観を持たないようにと、全部読み終わるまでは著者のプロフィールを読んだり調べたりしないのですが、この本の場合は読むのがしんどくなって途中で調べました。驚いたことに、この人は1980年生まれで今年44歳です。YouTubeもちょっと見てみたのですが、若い。一体何歳の時にこの本を書いたのかと元本の著作権を見ると2012年。32歳の時にこの本を書いている。
では一体何歳でここまでの理解に到達したのか。Wikipediaによると、20歳の頃に鬱をわずらい、様々な本を読み、26歳の時に分離の感覚が消えたのだという。その後、何冊かの本を書き、ミーティングやリトリートを主催して32歳の時にこの本を書いている。驚きました。セイラーボブは現在95歳。トニー・パーソンズは91歳。このブログに掲載した非二元の教師で存命の人は大半が70代です。ティモシー・フリークは比較的若いのですが、それでも63歳です。
非二元の教師として有名な人は、悩みや問題を抱えてあれこれと探求して、試行錯誤を繰り返してやっとの思いで非二元にたどり着く、というのが私のイメージです。それを26歳でたどり着いた。それがわかって、彼の本の手ごわさの原因がわかった気がしました。若さゆえの情熱、冗漫さ、多弁さなのではないでしょうか。手ごわい本ではあるものの、内容は非常に良いと思います。本の紹介のため、少し引用させていただきます。
p58から
たまに、私にどうやったら悟りを得られるのかと聞いてくる人たちがいる。その人たちは、私が悟りを開いていると信じていて(私がそうだとは決して言ったことはないのだが)、どうやったら私のようになれるのかを私が教示できると思っている。そこで私はよく、「そうですね、では悟りという言葉はどういう意味ですか? 悟りを得ると、あなたの体験はたった今のありのままの状態とどう違ってくるのでしょうか?」と言う。そうすると、こういった返答がよく返ってくる。「悟りを得たら、恐れがなくなるのだと思います。悲しみや苦痛が消えていくのだと思います。悟りが、自分自身にまつわるあらゆる悪いことを取り払ってくれるのだと思います」
わかるだろうか、誰しも本当に「悟り」を得たいとは思っていないのだ。望んでいるのは、今現在ある不満足、悲しみ、痛み、怒り、欲求不満、倦怠感といった気持ち、あるいは愛されていない、望まれていない、満たされていないといった気持ちから逃げること──要は、苦しみを終わらせたいのだ。それなのに、その苦しみにたった今真正面から向き会うことをしないで、その中にある全体性を見ないで、将来やってくる出来事や状態、体験が苦しみを終わらせてくれるのを待っている。その人たちは、誰しも皆そうであるように、ただふるさとへ帰りたいだけなのだ。ところが、自分のストーリーの中で、将来たどり着けるふるさととして、悟りを得るという発想に固執しているのである。
普通、非二元の教師は、「あなたが私だと思っている私は実在ではない」というようなことを最初に言っておいて、なぜそうなのかという説明をするというパターンで話を展開させていくが、ジェフの場合はそうではない。最初に人々の持つ悩みや問題から入っていく。そして、その背後には何があるのかを解き明かしていき、最終的に「あなたは開かれた意識の空間である」というところへ話をすすめていく。その説明は理詰めで続いていき、もちろんそこにはエンライトメントも覚醒もない。この説明はとてもわかりやすい。私もジェフの言うように、悟りを求めていたのではなく、苦しみから解放されたいだけだった。
p80から
次に、受容という観念をもっと深く見ていこう。その言葉は、だいぶ間違って解釈されているように思える。
海としてのあなたという存在は、すべての波を受容しているということになる。それは単に、海はすべての波そのものであるからだ。つまり、受容する以外に選択肢はないのだ! 海は、ある波を受け入れてある波を拒絶するなどということはしない。それは無条件の受容であり、受容に関して人が持っている観念をはるかに超えたものだ。海が受容するということは、非受容か受容かといった相反する概念を超越している。受容とは海と切り離せないということであり、それゆえ相反するものは存在しないのだ。すべての波が、海によってすでに受容されている。そして、本質的にはあらゆる波がすでに受容されているという事実こそが、この本の言わんとすることのすべてだ。これが生命の最も深い受容であり、それは個としてのあなたが実現できるものではない。
実際ここで扱っている問題は、この最も深い受容を実現しようとすることではなく、あらゆる体験の中でそれを認識すること、それがわかること、それが気がつくということだ。深い受容を実現する必要などない。それはすでに起こっているのだ。後は、この瞬間、すべての瞬間に、すでに起こっていることにただ自然のままに気づくだけだ。体験のあらゆる波、あらゆる考え、あらゆる感覚、あらゆる感情、あらゆる音、あらゆる匂いはここに存在することがすでに許されている。波が現れるときには、あなたという存在によってすでに受け入れられているのだ。波がやってくること自体がすなわち受容である。水門はすでに開かれていて、この瞬間は、たった今あるがままの通りになることが許されている。人は、すでに許されていることしか体験しないのだ!
あなたという存在は、すでに今の瞬間をありのままに受容している。あなたという存在は、あるがままをすでに受け入れている。そうでなければ、今現れていることは現れていない。あなたという存在は、今現れているものがどんなものであれ抵抗することはできない。というのは、それが今現れているすべてであるからだ。すべてのものが、あなたという存在にとって、決して抵抗できないものなのだ。
私が受容について話すとき、私たちがこれまで条件付けされて理解しているような意味では受容という言葉を用いていない。その言葉は新しい意味合い、つまり、この生命の最も深い受容を指し示している。それはすでに起こっている受容、許しだ。私があるがままを受容して許すことを提言するときは、それがあなたの注意をその事実に向けさせる近道だからだ。事実とはすなわち、この瞬間、思考や感覚、感情、視覚、音、匂いはすでにここに存在することを許されているということである。なぜなら、それはすでに現れているのだから!
思考や感情を受容することとは、この瞬間に、そういった思考や感情がすでに受容されている、すでにそこにあることが許されているということに、ただ穏やかに、自然のまま気づくことだ。それはすでにそこにあるのだ。受容することとは時間をかけて達成されるものではなく、決して終わることのない今の瞬間の現実である。
あなたという存在が受容そのものであるがゆえに、あなたが受容することなどできない。あなたは実際分離した人物ではなく、あるがままのあなたそのものがこの瞬間に対する肯定なのだ。
ここでジェフの言う「海」とは個人として現れているように見えている個人のことであり、「波」とは、その個人に起こってくる様々な事象のことです。あらゆる波はどれも海の中に起こっているものであり、それを変える必要もないし、変えようとしても無駄だと言っています。
私たちは、何か嫌な思いや感情、問題が起きると、何とかしてそれを変えようとします。でも、そうした波を変えようとすること自体が無駄だと言っているのです。それはすでに受容されていると言っているのです。つまり、あるがままです。
p168から
私が言っている自由とは、そういうことではない。それは、ありのままの人生から逃避することや、自分でないものでいるふりをすることとはまったく関係ない。自由とうは、完全に、徹底的に正直でいることに尽きる。すなわち、現実をありのままに見ること、それを(認めるという言葉が持つ二つの意味において)認めることだ。認めるとは美しい言葉だ。それには、「真実を伝えること」と「許し入れること」という二つの意味がある。今起こっている体験を認めること──実際に今何が存在しているかについて真実を伝えること──とは、今存在しているものは人生の中にあることが認められている。そして、それらの波の存在を認めることこそが、ここで教えていることの絶対的な中核だ。目覚めるとは、要は本当の自分という存在を認めることなのだ!
本当の癒しとは、苦しみから逃避して、未来のどこかで全体性に到達することではない。それは、たった今、ここで、苦しみの真っ只中に全体性を見ることだ。「whole(全体)」と「heal(癒し)」の語源が同じであるのも不思議ではない。癒されることとは、全体性を今ここで再発見することなのだ。真の癒しとは、痛みから逃避して未来にある全体性に到達することとはまったく違う。最初にどんなにか逆説的に聞こえたり直観に反するように思えたりするかもしれないが、真の癒しは実際まさに痛みの中にある。
あなたは、「いつか」癒されるのではない(繰り返すが、それは探求者の声だ)。あなたはすでに癒されている。あなたという存在は、たとえそれに気づいていなくても、すでに全体そのものだ。それは、海にある波が海そのものからずっと切り離せないのと同じことだ。痛みの中にあるときでさえ、あなたは癒されている。
p204から
痛みと病気は、人生のストーリー、コントロールすることのストーリーを粉々に打ち砕いてくれる──ここが本当に大切なポイントだ。痛みや病気で苦しんでいる裏にあるのは実は、こうあるべきだったのにという夢に対する嘆きである。こうあるべきだった、今はこうあるべきだ。将来はこうあるべきだといった観念を持たなければ、そこにあるのはただあるがままだ。人生で向き合わなければいけないのは、この瞬間の絶えず変化し続ける風景だけなのだ。そして、私たちはこの瞬間があるべき姿とちょっと違うなどと知る由もない。この状況は今ここにあるような形になるはずではないなどということがわかるはずもない。私たちの人生が宇宙のどんな種類の台本からもは逸れてしまったなどということがわかるはずもない。そもそも宇宙の台本などというものが存在するのかもわかりえない。
病気のストーリーや、人生の計画通りにいっていないというストーリー、こうあるべき、こうあるべきでないとう概念を超えて、私は今ここにいる。呼吸をしている。心臓が鼓動している。音が聞こえる。あらゆる思考、感覚、感情が舞っている。痛みも多少あるだろう、恐怖も多少はあるだろう。愛されていない気持ち、捨てられたような気持ち、絶望的な気持ち、弱々しい気持ち、疲れ果てた気持ち、寂しい気持ちもあるだろう。次にどの波が浮かんでくるのかは誰にもわからない。ここにあるこの空間の中ですべてが深く受容されているということが偉大なる発見なのだ。たとえ起こっていることを受容できないと今は感じていても、今起こっている体験はいつでも本当の私という存在によって深く受容されている。本当の私という存在は、すでにすべてをその中で許していて、すべてを承知している。生命の水門は永久に開かれている。だから、今現在の体験に意識を戻してみたとき、たとえたった今それを耐えられないように感じるとしても、この瞬間が耐えられないということは決してない。それは、まさに海にとってたえられない波などないのと同じだ。本当の私という存在は、すべてのものを包み込み、許し、認める。痛みや病気のなかでさえ、そこには人知を超えた平和が存在する。
あれこれ事情があって、私は痛みや病気に対していつも大きな不安を抱えています。重い病気になったらどうしよう。痛みに耐えられるだろうか。非二元の理解はどうなるだろうかと。でも、この文章を読んだ時、きっと大丈夫だろうという気になりました。病気になったら病気のまま生きていけばいいし、痛かったら痛いまま生きていけばいい。それをどうこうしようとジタバタせずに、治療を受け、良くても悪くてもあるがままに生きていけばいいという気になりました。
この本はくどい本なので、今回は特別許していただいて、くどいほど引用させていただいています(もちろん良い本ですので、ぜひ読んでください)。
p361から
悟りとは、すべての波を受容できるほど強くあることとはまったく関係ない。それは、どんな形であれ、波をコントロールすることとは違う。今の瞬間から逃避することではない。悟りを得た人という自分のイメージを掲げて、いかに自分が四六時中スピリチュアルで恍惚状態にあって平和な気持ちでいるかを証明することではない。それは本当のあなたという存在──徹底的なオープンさ、傷つきやすさ、無防備さ、弱さ──を発見することであり、ある意味、今浮かんでいる波から逃れることがますます不可能になることだ。しかし、この弱さは本当の弱さではまったくない。この弱さの中にあるのが最大の強さなのだ。それが、生命の最も深い受容である。この受容を「行う」必要はない。あなたはそのようにできているのだ。
この文章はあと6ページほど続いてこの本は終わります。その最後の6ページがとてもすばらしい。最後まで引用させてもらおうかと思ったのですがやめました。というのも、この最後のページがこの本の核となる部分であり、そこを全部引用するのはよくないだろうと思いました。
それに、この最後のページは、長々とこの本を読んできた人のご褒美のようなもので、そこだけ抜粋してもよく理解できないのではないかという気がします。興味のある人はぜひ本を手にして読んでみてください。
私たちは苦しさから抜け出したいために探求をして、やがて非二元の教えに出会います。非二元を理解すれば、心は平安になり、もう二度と悩むことなどないだろうと期待します。でも、そんなことは起こりません。問題や悩みは以前と同じように起こってきます。でも、ジェフ・フォスターは、そうした問題や悩みもすべて含めて、あらゆることは「もっと深いところで、すでに受け容れられている」というのです。二十代でこの理解に到達したなんて、なんとすばらしいことでしょう。
Amazonの著者紹介
ジェフ・フォスター Jeff Foster
イギリス、ブライトン周辺に在住。ケンブリッジ大学で天文学を学ぶ。
長く鬱を患ったのち、20代半ばスピリチュアルの悟りの概念に夢中になり、実存の究極の真実に対する徹底的な追及を始める。
ワトキンス・レビューによる、世界の「最もスピリチュアルな影響力のある現存する100人」の2012年の投票で51位。