この本は当初読む予定に入れていませんでしたが、ジャン・クラインはフランシス・ルシールとルパート・スパイラの師にあたる人だということで興味が湧き、読んでみました。
非二元の本の中には、いくら読み込んでもよく理解できないところがあるものがありますが、この本にはそれがとても多い。でも、本の最初に編集者のエマ・エドワースの言葉があって、この本は心で理解するのではなく、「詩を読むように読めばいいのです」とあり、また、巻末の訳者のあとがきでは、一見平易に見える彼の言葉を理解するのは容易ではないので、エドワースの言うように味わってくださいと書いてある。
でも、それって本としてどうなんでしょうか。挫折しそうなところを我慢して最後まで読みました。こまかいところではよく理解できないところもあるのですが、全体として言っていることは納得できることであり、とても良い内容だと思います。ジャン・クラインは「真我」という言葉でそれを表わしています。真我(セルフ)なんて言葉を使われると、ベーダとかインドを連想してしまいます。純粋意識という言葉も使っているのですが、こういう言葉を使われると、何者かにならないといけないような印象を受けるのですが、決してそうではありません。
本の紹介のため、少し引用させていただきます。
p33から
どうすれば絶え間なく揺れ動く思考の流れから抜け出すことができますか?
現れては消えていく思考の流れをひたすら観察してください。それらを拒絶したり助長したりしてはなりません。決してそれを導こうとしてもなりません。ただ、淡々と注意深く見ていてください。そうすればすぐに、あなたは思考や感情、感覚などがこの無方向的で注意深い意識、つまりあなたの開放性の中に現れるのを感じられるようになるでしょう。それはあなたがいるからこそ存在するのです。ゆえに、それらの現れはそれらの故郷である、真のあなたを指し示します。最初にあなたは、自分が自分自身の思考に介入し、それを抑圧したり、逆にそれらに飲み込まれてしまったりしていることに気づくでしょう。あなたがそんなことをするのは、孤立させられ、今まさに死にそうになってきる自我(エゴ)が不安を感じているせいです。しかし、能動性や受動性といった心の習慣から自由になると、あなたは自分本来の静かな注意の状態になってゆくでしょう。
では、完全に無念無想にならなくても、この本来の注意の状態になれるのですか?
この状態は思考の不在によって起こるのではありません。それは、その中で思考が現れては消えていく場です。それは思考の「背後に」あります。ですから、無理やり心の揺れ動きをなくそうとするのではなく、ただ頭の中を明瞭にしていてください。単にすべてを歓迎するような開放性を保ってさえいれば、自分のネガティブな感情や欲望、恐れなどを受け入れ、理解できるようになるでしょう。ひとたび無方向的な注意の中で受け入れられれば、これらの感情はひとりでに燃え尽きてしまい、後には静寂だけが残ります。現れてくるものすべてに気づくように、注意深くしていてください。すると、まもなくあなたは自分が思考に巻き込まれることなく、それを傍観していることに気づくはずです。これが事実として確立すれば、思考が生じようと生じまいと、あなたはそれに縛られなくなります。
p65から
進歩しよう、向上しようと努力すればよけいに混乱するだけです。外面的な部分だけを見ていると、自分は不動の状態に達したとか、自分にはさまざまな変化が起こっているとか、私たちは進歩しているから恩寵は目の前だとか思うかもしれません。しかし、実際には何も変わっていません。私たちは自分の持っている家具を並べかえただけです。これらはすべて心(マインド)の中で起こる活動であり、想像の産物です。
本当にするべきことは、それよりはるかに簡単です。なぜ、それをそんなにややこしくするのでしょうか? 本来のあなたは、いつもここにあり、いつも完璧です。それを浄化する必要はありません。それは決して変わりません。なぜなら、真我には暗闇がないからです。あなたは真理を発見することも、それになることもできません。なぜなら、あなたは真理だからです。真理に近づくためにすべきことは何もありません。学ぶべきこともありません。自分は絶えず、本当の自分から遠ざかろうとしているのだと気づいていてください。投影するために時間とエネルギーを浪費するのをやめてください。それをやめて生きてください。怠けるのでも受動的になるのでもなく、清明で目覚めた意識で生きるのです。この目覚めた意識は、予想されたり期待したりするのをやめると見つかります。これもまた、あなたにとってのサーダナです。
現実には改善の余地などありません。それは完璧そのものです。それなのに、いったいどうすれば、あなたは今以上完璧さへ近づくことができると言うのでしょうか? あなたが完璧さに近づく方法などありえません。
p77から
どうすれば自我の考えを捨てることができますか?
私たちの中には、錯覚による根深い信念体系があります。それは、対象や私たちの周りにあるものはすべて自分とは分離していて、自分の外にあるというものです。さらに私たちは自分を身体や感覚、心などと同一視し、私とあなたが分離した世界を作り出します。この私たちの信念を最大限に広げ、自分の感情や身体、思考などを、他の木や鳥などのような対象として見ることは、初めのうちは非常に役に立ちます。そうすることによって、私たちと心身との非合理で密接な関係の間にいくらか距離を置くことができるからです。
やがて私たちは、自分の思考、「私」という考え、感情、好き嫌いなどは皆等しく、知覚の対象なのだとわかります。そして、この観点によって、私たちは自然に、「自分は知る者である」と認識し、個人的な実体であるという考えはまったく無意味になります。
p179から
何をして何を考えていても、私たちは気づき(アウェアネス)そのものです。それなのになぜ、気づきになろうとしたり、それについて考えたりするのですか? もし、私たちが気づいていなければ、私たちは自分自身がどんな状態にあるのか、知ることができなかったはずです。もし、気づきがよくある精神機能の一つに過ぎなかったら、それは他の機能と同じように消えてしまったでしょう。しかし、気づきは決して消えません。私がこのことをあなたに証明しようとすれば、どうしても議論になってしまいます。気づきであることこそが証明だからです。しかし、気づきを発見する方法を教えることならできます。ですから、私を信じてください! 最初は受け売りの情報になるでしょう。しかし、人の言うことをずっと信じているだけではなりません。それを自分のものにしてください。
ちょっと引用しすぎました。ここまで読み返してみて、良い本だなあ、と改めて気づかされます。ジャン・クライン、フランス・ルシール、ルパート・スパイラは、同じ系列の人たちで、同じような説き方をします。それは決して平易ではないのですが、どうしたらそれを理解できるのかを詳しく説いています。
そしてまたこの三人は、師を持つことの大切さも説いています。今の時代、ネットの発達により、本を読むだけでなく、サイトやYouTubeで彼らが教えていることを詳しく学ぶこともできるし、ネット経由でミーティングやリトリートに参加することもできます。はたして師を持つことがそれほど必要なのかとも思います。
私の場合は幸運にも師(セイラーボブ)に巡り合うことができ、師のもとに長く滞在することができました。最終的にはセイラーボブが何を教えているのかも理解できました。ただ、メッセージ以上にありがたかったのは、セイラーボブが本当に非二元を体現して生きているのを間近で見ることができたことです。また、カリヤニとピーターの存在も大きかった。一言で言うなら、伝染する安心感のようなもの。
実際に師と面と向かって対話するのが一番良いとは思うのですが、実際に会わなくても自身の師となるべき人を見つけて、本や YouTube で深く学べば十分な気もします。非二元を教えている人はたくさんいます。でも、師と呼べるような存在に巡り合うことは、非常に難しいことのように感じます。ましてや近くで親しく交わることはもっと難しいのではないでしょうか。
Amazonの著者紹介
ジャン・クライン Jean Klein
1912年10月19日、ドイツのベルリンで生まれる。
ラマナ・マハルシとクリシュナ・メノンの伝統を継ぐ
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論・学派、哲学)のマスター。
ノンデュアリティー(非二元)に関する著作が多数ある。
インドで数年間過ごし、アドヴァイタとヨーガを深く究めた。
1955年、ついにノンデュアリティーの真理を体得。
1960年からヨーロッパで、その後にアメリカで指導を始めた。
1998年2月22日他界。
YouTubeでJean Kleinを検索すると、かなりたくさんの動画が出てきます。たくさんの映像が残っていて驚きました。生前から結構有名だったようです。どんな人か。一つだけ貼り付けておきます。
古閑博丈さんのブログには、ジャン・クラインのインタビュー記事があります。