私は高木悠鼓さんが翻訳された「ただそれだけ」を読み、メルボルンへセイラーボブに会いに行き、非二元の教えを学ぶことができました。非二元もセイラーボブもすべて高木さんが翻訳された本から始まったことです。感謝に堪えません。高木さんの仕事はいつも先駆的ですばらしと思うのですが、この本もまたすばらしい本でした。いつもながら、高木さんの翻訳はわかりやすくて読みやすい。
本の内容はすべて質疑応答になっています。質問者の質問も適切なものが多く、その質問に対してトニーは徹底的に「私」を排除するように答えていきます。
本の紹介のため、少し引用させていただきます。
p30から
あなたは見かけの分離した個人としてここに来て、そこで座って何かを探し求めていると仮定しましょう。それはすでにこれです。起こっているように見えることは何であれ、これです。起こっていることは何であれ、この部屋の誰にも起こっていないのです。この部屋には何かが起こっている誰もいないのです。起こっていることがあるだけです。これが空間です。これが空っぽさです。これが何でもないものです。ここに座っているのは何でもないものであり、その何でもないものの中に起こっていることは、肉体の感覚、音を聞くこと、感情を感じること、考えることです。考えることもまた誰でもないものに起こります。誰も今まで何も考えたことがありません。なぜなら、誰もいないからです。ですから、考えること、感じること、この声を聞くことが起こっているのです。
あるものすべては、生命が起こっているのです。あるものすべては、生の感覚です。生の感覚は存在です。それ以外には何もありません。そこに座っているのは生の感覚だけであることが、突然に見られるかもしれません。誰もあなたに生きていることを教えることはできません。ただ存在だけがあるときに、あなたに在ることを教える傲慢さを誰がもっているでしょうか? あなたは変わらなければならないと言う傲慢さを誰が持っているでしょうか? 何でもないものとあらゆるものだけがあります。これは理解を超え、人間のハートと心(マインド)を超えています。
私たちは一緒に話し合い、言葉を使うことができますが、言葉は超越した何かを指摘したり、指摘し続けるだけでしょう。言葉は分離があるという心の中の幻想を破壊するかもしれません。なぜなら、心は物語作家であるからです。ここで崩壊する可能性があるのは、分離した個人といったものがあるという観念です。もちろん、為される必要がある何かがあるとか、かつて何かをやったことがある誰かがいるという観念も崩壊します。
ですから、達成すべきことも、理解すべきことも何もなく、存在しているのはこれです。ただこの生の感覚が誰のためでもなく、わき起こっているのです。
解放はエネルギー的な転換です。それは向こうの世界にいる分離した誰かであるという収縮から、ただあらゆるものがあるという自然で非常に普通の感覚へ戻る転換です。ですから、その収縮があらゆることの中へ拡大し、あなたが自分だと思っていたものがあらゆるものになるのです。
このコミュニケーションはトニー・パーソンズとは何の関係もありません。それはトニー・パーソンズが所有しているものでも、達成したものでもありません。それは個人的な努力や活動を知ることとは何の関係もありません。トニー・パーソンズはこの部屋の中の他の誰とも何の違いもありません。トニー・パーソンズはその腕を振り回しながら話している単なる肉体精神機構にすぎません。
問題は、探求するときに私たちはあらゆることを個人化することです。私たちはこんなことを言いがちです。「私に何が待ち受けているのか? 私はこれから抜け出るために何をすることができるのか? 私はこれになるために何をしなければならないだろうか?」。これが混乱です。あなたは何もする必要がありません。なぜなら、あなた──これ──はすでに為されているからです。それは為されています。生の感覚が起こっています。存在がシンプルに在り続けています。
そして、自分は何かを見つけなければならない、何か新しく異なったことを見つけなければならないといつも思っているこの探求者が抜け落ちるとき、突然そこに完全はくつろぎがあり、これであるという完全な喜びの中に落ちるのです。存在を知るということではなく、ただシンプルに直接的に存在します。
この本を読む時は、「何でもないもの」「あらゆるもの」「存在」という言葉の裏にある原語の意味を頭の片隅に起きながら読むといいと思います。本の表紙のデザインを見てもらうとわかるとおり、「何でもないものがあらゆるものである──無、存在、すべて──」という題名の下に、nothing being everything という単語がデザインされています。
つまり、「何でもないもの」の原語はnothing (無)、「あらゆるもの」はeverything (あらゆるもの)、「存在」はbeing(存在)です。その意味を読者に感じて欲しいからこそ表紙にデザインされているのだと思います。nothing という言葉はセイラーボブも頻繁に使います。このブログの中でも何度も出てきたのですが、いつもどう訳したらいいのか迷います。英語のnothingは、「無」「空」という意味と「つまらないもの」という意味があり、英語ネイティブが nothing と聞けば、その両方の意味が頭に浮かぶはずです。
それを訳す場合にはどうしたらいいのか困ります。私の場合、適当な訳語が思いあたらないので、「何ものでもないもの/無」としてブログに書いています。高木さんの「何でもないもの」という訳語は、なるほどなと思いました。その「何でもないもの」が「あらゆるもの」であるというのは非二元の教えの本質であり、別の言葉で言うなら、一つのものです。
「生」という言葉はセイラーボブもよく使います。おそらく言語は「 life 」だと思います。私のブログでは「生」あるいは「命」と訳していますが、やっぱり「生」という言葉の方がしっくりくるとわかりました。
そしてもう一か所引用させていただきます。
p100から
ですからこれは、あなたや私や誰かが何かを得るというメッセージではありません。これは何も得るものがないという理解です。……求められてきたものは、決して失われたことがないという理解です。
これは求めることや求めないことについてではありません。それはアドヴァイタや非二元主義という概念を超え、気づきや注意深さの状態に到達するという観念も超えています。どんな目標もありませんし、何も提供されていません。これは知ることを完全に超えています。どんな目標もありませんし、何も提供されていません。これは知ることを完全に超えています。ですから、これは個人としているには最悪の場所です。なぜなら、希望するものが何もないからです。
これは本当は描写です。つまり達成を超えている何か、失われたり、掴まれたり、獲得されたりできない何かの描写を、みんなで分かち合っているのです。
分離があるかぎりは喪失感があり、完全ではない何かがあるという感覚があります。ですから、探求者はその空虚感を何かで埋めようとします。そして、一部の人は「悟り」と呼ばれている何かを待望します。なぜなら、悟りがこの喪失感を満たしてくれるものになるかもしれないと感じられるからです。それは私たちがまったく理解しないある秘密への答えになりうるだろう、というわけです。
私たちが悟りについて読むとき、まるで誰かがその秘密を発見したかのように聞こえます。でも、そんな秘密を発見した人は誰もいないのです。
悟った人というような人はいません。それは完全に間違った概念です。しかし問題は、探求者をやっていると、探求のエネルギーのせいで、私たちは誰か他の人が発見した何かを自分も見つけることができるという考えに押しやられ、惹きつけられます。なぜなら私たちは、努力は結果を生むと信じながら成長したからです。ですから、もし努力が結果をもたらし、私たちが悟りとか解放と呼ばれている何かについて聞いたなら、私たちは努力することができ、解放されたり、悟ったりすることができる……私たちが噂を聞いているすぐ近くに住むこの男とか、サットサンをしているあの女性のように。彼らは私が欲しがっている何かをもっている。もし私もあそこへ行けば、どうやってそれを得るのかを学ぶことだろう。
夢の中では、悟りや解放は達成できる何かであるという考えがまだあります。ですから、あなたは選択をもつ個人であり、そして今、個人として自己探求や瞑想や何かをすることを選択でき、いずれ悟ることができるという考えを再強化する教えがあるのです。
あなたは世界中へ出かけて、何か得るものを提供する教えを見つけることができます。しかしながら、探求者にまったく何も提供しない妥協なきメッセージを見つけることはまれです。
この生の感覚は、何でもないものがあらゆるものであることです。それはただ生が起こっていますが、誰かに起こっているのではありませせん。ここで一組の全経験が起こっていて、それらは空っぽさの中で起こっているのです……それは自由落下の中で起こっているのです。それはただ起こっていることです。あるものすべては生です。あるものすべては存在性です。それをもっていたり、もっていなかったりする人は誰もいません。生をもっている人はおらず、他の誰も生をもっていません。ただ生があることだけがあるのです。
この本を読んで感じたのは、用語の使い方がセイラーボブとよく似ているということです。nothing, being, everything 、life (生)など。また、ボブのよく使う「intelligence energy(知性エネルギー」という言葉を他の非二元の教師から聞いたことはありませんでしたが、トニー・パーソンズは使っています。例えばp88。
どんなレベルでも誰もそれをやっていませんし、やっている人は誰もいません。それはただ知性的なエネルギーです。
そして、もっとも似ていると思ったのは、トニー・パーソンズもセイラーボブと同じように、妥協のない断固とした非二元の教師であり、質問に対してきっぱりと「私」や「時間」は存在しないと言い切るところです。質問者の「何かになる」とか「何かをする」という言葉に鋭く反応して、「誰もいない」「何も起こっていない」と言い切ります。
まるで、ボブの家の居間でボブの話を聞いているような感じがしました。私はトニー・パーソンズの経歴は知りません。調べてみたのですが、よくわかりませんでした。セイラーボブよりは6歳若いのですが、非二元の教師としてはボブよりも有名のようです。おそらく世界に知れたのも、トニー・パーソンズの方が先だと思います。セイラーボブはトニーの本を読んだことがあり、ある程度トニーの影響を受けているのではないかと思われます。それほど語り口が似ています。
個人的には、あれこれと説明する教師よりも、「誰もいない」「何も起こっていない」、以上終わり! と断定的に言いきるような厳格な非二元の教師が好きです。非二元の教えは結局のところ頭で考えても理解できないことであり、「なぜ?」は要らないのだと思います。「誰もいない」「何も起こっていない」と何度も聞いているうちに理解が起こってくるものだと思います。
これはちょっと蛇足ですが、以前このブログの中で書いた「深い森の中で一本の大きな木が倒れたとする。そして、そこには人間が誰もいなかったとする。その場合、果たして木が倒れる音がするだろうか?」(参考記事)という命題が誰の言葉なのかが本書の中で出てきたので書いておきます。
p178
森の中で木が倒れても、それを聞く人は誰もいない……(訳注:「誰も見ていない森の奥で倒れた木は存在しているといえるのか」というアイルランドの哲学者・聖職者ジョージ・バークリーの命題の引用)
Amazonの著者紹介から
トニー・パーソンズ Tony Parsons
1933年にロンドンで生まれる。
21歳のとき見かけの目覚めがあり、長年この「公然の秘密」を分かち合ってきた。
著書に『The Open Secret(公然の秘密)』『Invitation To Awaken(目覚めへの招待)』
『As It Is(あるがままに)』『All There Is(存在するすべて)』がある。
古閑博丈さんのブログには、トニー・パーソンズに関するいくつかの記事があります。