とても良い本です。フランシス・ルシールは、ルパート・スパイラの師だということで、興味をもって読みました。ブログに引用させてもらうところに付箋を貼って読みましたが、この本も付箋だらけになってしまって、どこを引用しようか迷ってしまいます。この本は全編が質疑応答の形式をとっていて、最初に質問があって、それにフランシス・ルシールが答えます。
それぞれの質問に対する答えが長いのと、答えが格調高い語り口なので、その前後を読まないと理解できない部分が多い。前後まで引用すると、とても長くなってしまって、どうしたものかと。あんまりたくさん引用すると𠮟られますが、本の宣伝だということで許していただいて、何か所か引用させていただきます。
p88
子育てをしながら、家計を支えながら、個人的な不幸せを抱えながら、真実を追求したいと思うのであれば、どのようにすればよいのでしょうか?
知性を通してできます。理解するために、物質的に自分の生活を変える必要はありません。今すでにあるもの、自分が何者なのか、自分の知覚、感じ、考えとは何なのか詳細に問いかけることから始めます。わたしたちの現実(リアリティ)をこのように探っていくことは単に概念的なものではなく、人生のすべての面に及ぶものです。
非常に忙しい生活のさなか、このように追及していくことは可能なのでしょうか?
もちろん可能です。それにこの方法だけが、あなたの幸せはあなたにあり、あなたの宝物であり、外側の状況には何も関係がないことを明確にしてくれるのです。もしあなたの幸せが外側の要素、例えば調和に満ちた状況といったものに依存するものなら、郵便局にいるときや、騒々しいところにいるときにその美しい体験はなくなってしまいます。ですから、こういった体験は真にあなた自身の幸せではなく、単に幸せな状態ということです。
幸せそのものは外側の何にも依存しないとわかっているのですが……。
その理解を得るには大変な成熟さが必要になります。ほとんどの人は、幸せは何かしらの客体にあると思っているのですから。
p93
この世界は幻想であるとおっしゃいますが。これはどのように見つけられたのですか?
この質問の裏にある質問は、こうですね。「この世界は幻想であるとおっしゃいますが。これはどのように見つけられますか?」
そのとおりです!
この世界は幻想だと言うとき、この世界はないという意味ではありません。わたしはただ、この世界は気づきから切り離されたり隔てられている客体としてはない、と言っているのです。言い換えると、古典物理学がわたしたちに信じさせようとしているように世界は自律的ではありません。これは知覚として認識されれば否定されることはありませんが、認識されなければ、あると証明できません。
ですが、幻想はそのまま、幻想と呼ばれるもののまま、見かけ上はあるということは認めてらっしゃいますか?
認めています。幻想はふたつの要素からなっています。根本的な現実(リアリティ)と、重ね合わされて幻想の概念です。暗がりにロープがあるとして、それを間違って蛇と思ったりします。ですが、明かりをつけると、蛇というものの現実(リアリティ)はただのロープだということがわかります。蛇など初めからいなかったのです。蛇はまったくの幻想でした。幻想とは、非実在です。蛇はいませんでした。蛇の現実(リアリティ)はロープだったのです。
p121
自分は分離した人物であるという自己認識から、真実に気づいている状態に意識を移行するには、どうすればよいのでしょうか?
「人物らしさ」が偽物だと知るのに人物ができることは何もありません。個人は個人としての自己認識にしつこく固執しますが、この自己認識から自由になる瞬間があります。自己認識から距離をとり、自分であるこの現存(プレゼンス)を垣間見る、つまり気づきを得るチャンスは、この瞬間にあります。
わたしたちにとって、一番大切なものとは何でしょうか? わたしたちの体の一部ではありません。命を救うためであれば体の切断手術がされていることからも、これは明らかです。一番大切なものとは、体全体でさえありません。わたしたちが真に愛しているのは、意識です。真に問われているのは、意識は体の中にあるのか、体が意識の中にあるのか、ということです。自分の置かれている環境や、先生たち、広く信じられている物質主義から、わたしたちの体は世界にあり、わたしたちの頭脳は体の中にあって、この頭脳の一機能が意識であると条件付けられています。非二元の視点では、この図はまったくの正反対です。本源的な現実(リアリティ)は気づきであって、この内に心(マインド)があります。この体、この考え、残りの宇宙はすべて、心(マインド)の内にあります。それでは、このふたつの立場のうちどちらが真実だと、どうやって決めるのでしょうか? わたしたちの論理的な装置である心(マインド)では、この問いに対する答えを出すことはできないと理解することが大切です。これらの立場からひとつを選ぶとすると、これは信念であり、信仰による行為になってしまいます。これが明確にわかっていれば、わたしは世界の中にいて、わたしはわたしの体である、という概念からすでに自由になっています。この世界での実在とは信仰による行為であり、絶対的は真実ではない、ということを理解しているのです。そして、もう一方の可能性にオープンになります。心(マインド)は心自身の内にあるものしか知らないので、心(マインド)では決められません。心(マインド)を超えたものを、心が知ることはできないのです。心(マインド)にできるのは、きめられないということを理解することだけです。心(マインド)が、自分では本源的な答えを見つけられないということを理解すると、静かになります。私たちの本質が自分を掴む可能性は、この静寂のうちにあります。自分では掴むことができません。ただオープンになり、迎え入れることしかできないのです。
p178答えの途中から
より多くの知識や能力を積み重ねることで、この探求を終わらせることは決してできません。この探求は学習するものではなく、もしろ積み重ねた概念、信念、習慣といった捨て去るものなのです。そういったものがこのシンプルさ、自発性、自分の本質であるよろこびを体験することを妨げています。
あなたは知覚される客体ではなく、概念でもなく、感情でも、感覚認識でもないというわたしの助言を調べることで、本当に自分であるものを理解する道が拓けます。これを調べるのであれば、知的な次元、体感覚の次元の両面で、徹底的に追及されなければなりません。これを調べた結果、得られる理解は、「わたしは誰なのか?」という問いに対する答えですが、これは心(マインド)を超えたところ、時空間の先にある、あなた本来の美と永遠性にまであなたを運んでいく体験となります。この体験で、あなたは自分が探し求めていたものだったと知ることになります。これが問いの終りであり、すべての問い、すべての探求、すべての恐れや願望の終りになります。
フランシス・ルシールは何も特別なことは言ってはいません。自分で調べてみなさいと言っているのです。そして、その到達点は「確信」という言葉を使っています。私は以前、このブログにおたよりをいただき、「理解するとはどういうことなのか?」という質問をもらいました。その時、「確信」という言葉を使ったのを覚えています。非二元の教師たちが語っている内容を客観的に証明できるような方法はありません。詰まるところは本人が揺るぎない「確信」の地点に到達できるかどうかだと思います。そして、その確信を得るためには自分で調べるしかないとフランシス・ルシールも教えています。
ルパート・スパイラの「プレゼンス」の時も思ったのですが、この本は非二元の教えを理解していないと読みこなせないような気がします。すばらしい本でした。
フランシス・ルシール Francis Lucille
Amazonの著者紹介より
フランス国立理工科高等教育機関、フランス国立航空宇宙学科高等教育機関で
化学を学んだ後、1973年、ヴェーダ哲学や仏教の文献から東洋の叡智を見つける。
これをきっかけとして自己同一性を深く探求し、1975年、スピリチュアルの指導
者であるジャン・クラインに出会ってまもなく、その探求が終わる。
現在、米国在住。ヨーロッパと米国でリトリートを行っている。
補足
1944年生まれ 79歳 フランス生まれ
J.クリシュナムルティの本を読んだことにより探求が始まる。もともとはフランス軍のために洗練された武器の設計・開発する科学者だったが、辞めて、探求の道へと入った。
日本語でネット上で検索しても、フランシス・ルシールに関する情報はほとんどありませんでした。