2018/11/10

セイラーボブの言葉

他には何もない一つのものを理解しようとするのは罠です。それを手放してください。

2018/11/07

セイラー・ボブ・アダムソンの近況②

セイラーボブは今年90歳になり、人工股関節の手術、歯の治療、パーキンソン病から来る記憶障害、関節炎の痛み、度重なる風邪などの影響で、最近のミーティングでは以前ほど多くは語りませんが、2018年11月現在、以前と変わらずミーティングを行っています。

Facebook越しに見るボブの声はますます聞き取りづらくなったうえ、時々言葉に詰まる場面もあります。
ボブに頼まれて Katarzyna(カタリーナ)が Spiel(講和)を語り、途中でボブが発言するというスタイルでミーティングは今も行われています。

カタリーナはポーランド人なので、英語ネイティブではないのですが、英語が堪能で、かえってありがたいことにとても聞き取りやすい。
彼女は、ボブの教えをよく理解していて、とてもわかりやすく説明してくれます。
ボブの英語がお手上げの人はカタリーナの話が理解の助けになると思います。

Katarzyna のfacebook (2019年1月現在、毎週日曜日にボブのミーティングをライブ中継)追記:2020年よりFacebook(Sailor Bob - Nonduality Melbourne) にて生中継(無料)。

生中継時間:日本時間日曜朝8:00から9:30まで(夏時間の間2019/4/7まで。冬時間では日本時間9:00から)

Sailor Bob Adamson-YouTube(Katarzyna 主催。Facebookでミーティングを生中継した翌日にはここに公開される。英語字幕が出せるので、ボブ英語が苦手な人はこちらで)


Sabine のYouTube(ボブと他のアドヴァイタ関連のYouTubeあり)
また、サビーナのFacebookには2017年、2018年頃のミーティング録画多数あり。詳しくは資料室で。

最近のミーティングの中から、特によかったものを一つ載せておきます。
普段はしんどそうにして、あまり話さないボブですが、この日は初めてやってきたバレリーのために頑張ってわかりやすく説明してくれています。

23:30ぐらいのところでバレリーは言っています。
「(独立した個人という存在がいないということは)知的には完全に理解しているけど、まだそれを実感したことがないの」

画面右下中央寄りにある自動字幕機能を使ってYouTubeで見てください。ボブの言葉はそれほど正確には拾いませんが、理解する助けにはなります。

セイラーボブの最新情報、ミーティングの様子はセイラー・ボブ・アダムソン 資料室にありのでそちらで見てください。

(2019.2.22追記:最近はボブの健康状態も回復し、以前のように自分でspielを語っています)

2019.10.6追記
セイラーボブの facebook ができました。ここで毎週日曜日に生中継しています。
Sailor Bob - Nonduality Melbourne

2018/11/05

プロローグ

万物は一つのものである。分離した個人は存在しない。
そこにあるのは他には何もないたった一つのもの。

それは意識。アウエアネスもしくは知性エネルギーとセイラーボブが呼ぶもの。
それは私たちの意識。日常に普通にある意識のこと。思考や記憶の背景にある意識のこと。

私たちは、それを個人の意識だと思っているが、個人の意識ではない。
宇宙の果てまで、あまねく空間に、このアウエアネス、知性エネルギーだけが広がっている。

そこに人間が現れる。人間はその意識を五感と思考を使って感じ取り、この意識は個人の意識だと錯覚する。個人の意識も全体の意識も同じもの。たった一つの意識があるだけ。ただそれだけ。

深い森の中で一本の木が倒れた。木こりはドシーンという音を聞いた。
音とは何だろう。それはバイブレーション。バイブレーションが空間を伝わり、木こりの耳に届き、それを脳が変換してドシーンという音を感じることができる。

そこに木こりがいなかったら、ドシーンという音がするだろうか。
バイブレーションはあるかもしれないが、ドシーンという音はない。

海辺で一人の少女が青い海を見ていた。色とは何だろう。それは光の波長、バイブレーション。その波長が少女の目に入り、脳が青い色へと変換する。
もしそこに少女がいなかったら、青い海はあるだろうか。
波長はあるかもしれないが、青い海はない。

人工衛星から一人の宇宙飛行士が丸くて青い地球を見ていた。形とは何だろう。それは光のコントラスト。波長、バイブレーションのコントラストが宇宙飛行士の目に届き、脳が丸くて青い地球に変換している。
もしそこに宇宙飛行士がいなかったら、丸くて青い地球はあるだろうか。

もし全宇宙に、人間が一人もいなかったら、そこに宇宙はあるだろうか。
もちろんそこには、バイブレーション、波長、エネルギーのようなものはある。
しかし、それを五感で認識して変換する人間が一人もいなかったら、そこには何があるだろうか。

バイブレーション、波長、エネルギーのようなものはやがては消えていく。
するとそこには何があるだろうか。

そこにあるのはセイラーボブが知性エネルギー、アウエアネスと呼ぶもの。
それは私たちの意識。そこに万物は現れる。それは他には何もないたった一つのもの。

あなたは、その意識(アウエアネス)そのもの。
あなたは肉体でもなければ思考でもない。
あなたは生まれたこともなければ死ぬこともない。
あなたは、他には何もないたった一つのもの。

万物は一つのものである。分離した個人は存在しない。
そこにあるのは他には何もないたった一つのもの。ただそれだけ。

2016/02/29

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング2016 ⑪最終回

セイラーボブ・ミーティング・2016を①から読む方はこちら

「Sailor Bob Adamson Inter-view・ギルバート・シュルツ編纂」から抜粋

筆者注:以下の発言はすべてセイラー・ボブ・アダムソンの発言です。原文には前後に質問者の質問や応答がありますが、それを載せると長くなるうえに、かえって焦点がボケてしまってわかりにくくなるので割愛します。
ボブの発言部分については省略・改変することなく、原文に忠実に翻訳掲載しました。


p3
「まず初めに、あなたは体でもなければマインドでもありません。あなたは、アウエアネス、意識、注意深さ、目覚めている状態と言われている生のエッセンスそのもの、すなわち知性エネルギーであり、それがこの森羅万象を機能させています。それはたった一つの実在。」

p3
「ちょっと考えてごらんなさい。あなたはアウエアネス(意識)を掴むことができるでしょうか? それを形にできるでしょうか? 形態や大きさ、場所を与えることができるでしょうか? それは空間のようなものであり、物ではありません。それにはパターンや形は無く、中心も周辺もありません」

p4
「仏教で使われる別の言葉では、wakefulness(目覚めている状態)と彼らは呼びます。wakefulness は アウエアネス(意識)によく似ています。あなたは朝目を覚まし、そして今も起きています。

そして今朝あなたが目を覚ましてから、すべての物事が起きました。それは、何の中で起こったのですか? それは、目覚めていることの中で起こったのではないですか? しかし、その目覚めていることとは一体何でしょうか? そして、その目覚めていることを手に入れるために、あなたは何かをしなければならなかったでしょうか?」

p4
「アウエアネスという言葉を聞いたとたんに、たいていの人はアウエアネスを手に入れようと捜し始めますが、捜しても無駄です。人々はアウエアネスが何なのかを考え始めます。そして人々はそれに対して、それはこうあるべきだという概念を抱きます。

しかし、(目覚めている状態)という言葉を使うとき、目を覚ましていることに対して、あなたは何をしなければならないというのですか? あなたは自分が眠ってはいないことを知っています。それなら、あなたはそれを捜す必要はなく、何もする必要などないのではないですか?あなたが眠っていないのなら、起きているに違いありません。

それをそのままにしておいてください。それをいかなる方法でも、変えたり、正したり修正したり、また捜し求めたりしないこと。それは昼であろうと夜であろうと、どんな活動がなされていようが、すべてはその中で起こります」

p5
「それは常に明白で明らかなことです。はっきりしているにもかかわらず、気づかない。それゆえニサルガダッタや、たいていのいにしえの教典ではこう説きます。(我々の問題は無知からくる)と。それは愚かだと言っているのではなく、知らないふりをしているのだということです。我々は、自分たちの本質を無視して、その内容物、その中で起こっているいくつかの活動に焦点をあて、この部分は私、残りの部分は私じゃない、などと常に選んでいます」

p41
質問者の「日常の普通のアウエアネス(意識)ではなく、何かもっと深淵ですばらしい何かが起こることを待ち続けている私たちに向って何か言ってください」という質問に答えて。

「それで今あなたはどうですか? 起きて(awake:目を覚まして)いますか?」

「それでその目覚めている状態に、あなたは何をしなければならないと言うのですか? あなたはそれを捜さなくてはいけないのですか? あなたは自分が眠ってはいないということを理解するだけでいいのです。あなたは確かに眠ってはいない。そして眠っていないのなら目覚めているに違いないのです。

目覚めている(awake)を別の言葉で言うとどうなりますか? 目覚めている(awake)はアウエアネス(awareness・意識)でしょう?」

「それが目覚めている状態、すなわちアウエアネスです。フル・ストップ!(ピリオド)。あなたはそれに何を付け加えられるのでしょうか? あなたはそれから何を取り去ることができるのでしょうか? それから、どんな深淵なことを得る必要があるのでしょうか?」

p42
「その他に何を求めているのですか? あなたは精神の高揚や下降が欲しいのですか? もしそれが得られたとして、それがいつまで続くと言うのですか? 何かすばらしい体験? たぶんあなたも人生の中で、途方もなくすばらしい経験をしたことが何度かあるでしょう。それを思い出してみてください。それが長く続いたかを?」

p43
「あなたはそれを何と呼びますか? 普通のアウエアネス(意識)です。普通の、ただの日常の普通のアウエアネス(意識)です。

さて今、すばらしい、偉大な経験をしたとします。すばらしい一瞥、ビジョンやあらゆる種類のものを。また、極上のエクスタシーを体験して、あなたはまたそれを捜し求めます。もし、その状態が一週間続いたらどうなりますか? 一ヶ月、一年。そしたらどうなりますか?」

「それが普通の状態になります。普通のありふれた日常の状態となります」

「あなたはまた何かもっと良いものを捜し始めるでしょう。というのも、この目覚めている状態がいつもの状態であるために、それがありふれた普通のものに見えてしまうからです。とても普通の状態に。しかし、その本質を見てください。くつろいで。自分の本当の姿を知ること。それがいわゆる再認識(re-cognize)というものです。

あなたはすでに知っていて(cognized)、何度も何度も認識しいていますが、思考という一団の雲に覆い隠されてうわべ上は認識できなくなっています。しかし、それを再認識してください。そうすれば、雲が無ければ太陽が燦然と輝いていることを認識できるでしょう。

この例えを利用してください。そして太陽は暖かく、明るく、輝いていて、とても幸せです。その本質はあなたも同じです。明晰で空、暖かく、そう言いたければ愛情に満ちていると言ってもいい。」

***

以上で抜粋翻訳終わり。

セイラー・ボブが説くのは非二元・他に何もない一つのもの。一方で私たちが見ているのは分離だらけの二元性の世界。世界はそのように現れるしかないのだとボブは言います。

セイラー・ボブは、その見ることも理解することもできないものを、様々なポインターを使って私たちに指し示そうとしています。

ボブの教えが真実だと思われた方、おとぎ話のたわごとだと思われた方、お前の説明ではよくわからないと思われた方、言っていることはなんとなくわかるけど・・・。感想は様々だと思います。

でも、こうだと決めつけて、ラベルを貼ってしまうことのないようお願いします。
よくわからないままにしておけば、いつか何かの瞬間に卵が孵化する瞬間があるかもしれません。
また逆に、すっかり忘れて思い出すこともないのかもしれません。
何かのラベルを貼りつけずに、どうぞそのまま自然に起こるに任せておいてください。

2016/02/28

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ⑩

ボブの教えの一番大切なところ

What's wrong with right now unless you think about it.(今そのことを考えなかったら何も問題ないじゃないか)

これはギルバート・シュルツがボブのミーティングの録音から編纂した本の題名です。この本がもとでボブのことが多くの人に知られるようになりました。

この「What's wrong with right now unless you think about it.」という言葉は、ボブがよく使うポインター(ヒント)の一つですが、なぜギルバート・シュルツが、数あるボブのポインターの中からこの言葉を選んで題名にしたかというと、これがボブの教えの中でも、特に大切なところと考えているからではないでしょうか。

私も、この言葉がボブの教えの核だと思っています。
この言葉の意味するところは、私たちの問題はすべて、自分の思考が作り出しているという意味です。

何か問題が起こったら、ボブの言葉を思い出してください。自分など存在しない、誰もいないのだから問題など起こりようがないと理解するのが一番ですが、そこまでの理解に至っていなくても、起こっている問題は何なのか、それは単なる思い込みではないかと疑ってみてください。

愛する人が去ってしまった。もうあの人の愛がえられないと涙にくれている現実を前にして、傷つく「私」は実在しないのだから悲しむ必要はないと思っても、なかなか受け入れがたいことかもしれません。

いくらそれは実在ではなく概念だから悲しむ必要はないと言っても、悲しんでいる当人には受け入れがたいことでしょう。

でも、考え方を少し変えるだけで、状況の見え方は全然違ってきます。
自分が悲しんでいるもととなっている思考は何なのかを見つめてみたらどうでしょう。

愛する人が去ったのは、もっと大切な人に出会うためだという思考が持てるなら、また、今は恋愛ではなく、もっと大切な何かに打ち込むべきだと天が合図してくれているのだと考えられるなら、泣いている暇なんてないはずです。

問題を作り出しているのは、思考からくる概念です。そしてそれに巻き込まれ、しがみついているのは、そこにいるはずのないあなたです。それに気づくことこそがセイラー・ボブの教えの神髄だと思います。

セイラー・ボブの教えは、ある時何かが起こって、何かが変わるという教えではありません。エンライトメントも、特別な理解もありません。セイラー・ボブの教えは、学んで理解するだけではだめで、実践しないと意味がありません。

セイラー・ボブのまわりには、何年も通っている常連がたくさんいますが、彼らは皆、セイラー・ボブの教えをよく理解しているし、精神世界にも精通した人たちです。

ある時6人でカフェで話をしていたら、全員が過去にインドのどこかのアシュラムで瞑想したことがある人たちで、オタクばっかりだと笑ったことがあります。
彼らは様々な方法で何年も瞑想したり、探求したりしてきた人ばかりです。

その彼らが、なぜ長年ボブのところへ通っているかというと、ボブの教えを日々の生活の中で実践しようとしているからです。

ボブは言います。空気が透明なのは皆知ってはいるが、空は青く見える。青い海の水をバケツ一杯汲んで来いと言っても、海の水が実際は青くないことはみんな知っている。
いくら教えを理解しても、「私」は現れるし、問題も次々と起こってくるように見える。

セイラー・ボブがインドのニサルガダッタ・マハラジのもとで教えを学んで帰ったあとでも、経営していた農場が流されたり、病気に苦しんだりと様々な問題がボブに起こりました。

そんな時ボブは、マハラジの教えを思い出し、起こっていることは単なる見せかけの現象で、そこには何もないんだということを繰り返し思い出したと「ただそれだけ」に出てきます。

また、ボブの師であるニサルガダッタ・マハラジは、「私が死んだあとに娘たちはちゃんと生活していけるだろうか」と絶えず心配していたと「Living Reality」に出てきます。

生きている以上、問題は避けられないし、心配の種は尽きません。それが私たちが身を置く二元性の世界なのです。
ボブの教えは、ある時エンライトメントが起こって恍惚感の中で暮らせるという教えではないのです。

ボブはlife essence という言葉を使います。これもアウエアネスのポインター。体に目や脳があっても、そこにlife essenceがなければ、あなたは見ることも聞くこともできない、というふうに言います。要するに、アウエアネス・知性エネルギーがなければ、体は機能しないよと言っています。なぜなら、私たちはその現れだからです。

ボブはまた、"Live your livingness."と言います。livingnessという言葉も、ボブがよく使うポインターの一つです。あえて日本語に訳すとすれば、「生き生きとした命」。生き生きとした命を生きなさいという意味です。

ボブの教えは、どうせ私は実在しないし、世界は幻なんだからと、厭世的にしらけて生きろという教えではありません。
むしろその逆で、あなたが思考にとらわれることなく、livingness に身を任せて生きるなら、もっともっと可能性が広がるよと教えています。

努力が必要な時には自然に努力が起こります。考えなくてはいけない時には自然に思考がやってきます。

問題や思考に縛られて動けなくなったら、心配するのをやめて、五感を開いて livingness に身を任せてください。内在する知性が自然にあなたを別の展開へと運んでいきます。

あなたは自分で仕事やパートナーを選んだと思っているかもしれませんが、そもそも、その選択肢を用意したのは誰ですか?

あなたが生まれてすぐ、まだ目も開かない時に、どうやってあなたは母親の乳房を捜しだして吸ったのですか?

あなたの体や両親、境遇を、あなたは自分で選んで生まれてきたのですか?

あなたが自分で何かをしたことなど一度もなかった。好むと好まざるとにかかわらず、物事は自然に起こり、自然に変化してゆく。思い煩うことは何もないのです。

You are being lived. あなたは生かされている。

***

以上で私の説明は終わりです。でも、やはり最後はボブに登場してもらわないといけません。そこで明日は最終回として、ボブの本「Sailor Bob Adamson Inter-view」からの抜粋翻訳を結びとして掲載します。


2016/02/27

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ⑨

概念のラベル

ボブは、
「概念のラベルを剥がしたら、何も見えない」
「世界はあなたの意識の中に現れ、概念のラベルが貼り付いている」
という言い方をします。

私たちが経験的にあれこれを学んだ過程で、すべての物や出来事に概念のラベルを貼っていて、それが私たちの世界を構成しているということは、昨日までに書きました。概念のラベル貼りということがわかりづらいと思いますので、もう少し説明します。

私がメルボルンで泊まっていたのは、YHAメルボルンというユースホステルです。一階には大きな食堂があって、夜になると、世界中からやって来た若者たちが、ビール片手に大きな声で話をしています。

たいてい私は隅の方に座って一人でビールを飲みます。私は日本語と英語はわかるのですが、その他の言語はまったくわかりません。
日本語も英語も聞こえない時、そこにはいろんな国の言語が飛び交っています。

あれはフランス語かな、中国語もあるな、程度のことはわかるのですが、基本的には雑音にしか聞こえません。みんな一斉に大きな声で喋るので、かなりの雑音です。音とは何かというと、ヴァイブレーションであり、エネルギーです。

そこに誰かが突然日本語で「ねえ、聞いてよ。今日、ヤラパークでいい部屋見つけたんだけど、大家に交渉してもまけてくれないのよ」と誰かが言ったとします。

すると突然、私の脳裏には、ワーキングホリデーでメルボルンにやって来た女の子が今日ヤラパークへ部屋探しに行って、良い部屋を見つけたのに大家が家賃を負けてくれなかったからダメだったんだという世界が広がります。

もともと雑音でしかない音(日本語)に、私は経験的に「家」「大家」「交渉」というラベル(概念)を貼りつけているために、そこに世界が現れました。

また別の例をあげるなら、だまし絵。ここに魔女が隠れているよ、と教えてもらうと、その瞬間からおじいさんのヒゲが魔女に見えてしまうやつ。

ここに魔女がいるよと学習して概念のラベルを貼ると、それからは何度見てもおじいさんのヒゲには見えず、魔女に見えてしまう。
形や色というのは、後天的に学んだものです。そのラベルを剥がしてしまったら、魔女もおじいさんも消えてしまい、何が書いてあるのかわからない。

もっと極端なことを言えば、焦点を合わせる作業さえも後天的に学んだものです。空、雲、ビル、お母さんの顔との距離感も後天的に学んでラベルを貼ったものなので、そのラベルを全部剥がしたら、全部ぼやけてしまって、何が何だかわからない世界が現れる。

例えば、メルボルンのエリザベス通りを歩いているとします。
私は成長する過程で、「歩道」「ビル」「車道」「車」「歩行者」という物事を学び、そこに概念を貼りつけています。

その概念があるために、「ビル」にぶつからないように、「歩行者」を避けながら「歩道」の上を歩きます。もしうっかり「車道」に出て「車」にぶつかると「ケガ」をする事も知っています。
もし、そのラベルを全部剥がしてしまったら、何が起きるでしょうか。

遠近感も経験的に学んだものですから、空とビルの区別や、車やトラムが何なのかもわからなくなり、歩道と車道の区別は消え、ビルも車も判別がつかなくなります。
おそらくその時見えるのは、ぼんやりとした色彩だけの世界が広がっているはずです。

ぼんやりとした色彩の世界の言い方を変えると、エネルギーだけが広がっている世界。
そしてその色彩が現れているのは、あなたの意識(awareness)の中です。
あなたの意識の中に広がるエネルギー現象に概念のラベルを貼って定義して、世界を出現させているのはあなたです。

感情や思考など、目に見えないものにも同様のラベルが貼られています。ある時好きな人が視界から消えて、何か不安定な感情になって泣いた。その感情に「悲しい」というラベルが貼られます。

次にまた誰か大好きな人に去られると、「悲しい」という感情が自動的に起こってきて、その感情にとらわれてしまいます。ラベルなど貼らなければ、すぐにどこかへ消えてしまう一過性の感情にすぎないのに。

「あなた」「私」「建物」「椅子」「約束」「悲しい」、すべては概念です。そこに実際にあるのは、エネルギーだけなのです。

「あなた」が「私」を捨てた。「彼」が「私」を傷つけた。これらは単なるエネルギー現象で、実際には何も起こっていない空間に、あなたが貼りつけたラベル(概念)です。

そしてそれはどこで起こっているのか。あなたの意識の中です。
もしあなたがこのことに気づいて、すべての不幸や問題は、あなたが貼りつけた概念(ラベル)でしかないと気づいたなら、そこに問題は何もありません。

2016/02/26

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ⑧

もう少し具体的に

「私はいない」
「万物は一つのもの」
「時間は存在しない」

「何も起こっていない」
「死は存在しない」

こういった言い回しを、そのまま直接使ってしまうと、誤解が生じやすくなる。前回訪問時のブログで私は、こういった直接的な表現を不用意に多用してしまい、わかりづらくしてしまったかもしれないと反省しています。

ボブの定義では、実在(reality)とは永遠不変のもの。顕現(appearance)とは、見せかけのもので、変化していくもの。

私たちが目にしている世界は顕現であり、永遠不変ではない二元性の世界。その世界には、物質としての私の肉体もあなたの肉体も存在するし、山も海も椅子も壁も存在する。それは当たり前のこと。

これらのものは、永遠不変ではない。肉体は死ぬし、「私」という思考も死ぬ。山も海も椅子も壁もやがては姿を変えていく。それらの物は実在ではない。実在ではないから「私はいない」「何も起こっていない」という言い回しになる。

私たちが見ている世界は二元性の世界です。私とあなた、昼と夜、見る人と見られる物。それはそのように現れるしかありません。それが無いと言っているわけではなく、それは実在(reality)ではなく、顕現(appearance 見せかけ)だと言っているのです。

「万物は一つ」という言い回しは、実在のレベルの話であり、見せかけの世界の話ではありません。顕現(見せかけ)の世界では万物は一つではなく、バラバラに存在する。あなたもいるし、私もいる。

そのバラバラに見える物たちも、顕現として現れているもととなる実在としては分離のない一つのものだと言っているだけのことです。

「時間は存在しない」という言い回しも、もっと正確に言うなら、「時間という概念は、思考の中にしか存在しない」という意味であり、昨日の出来事が全部なかったという意味ではない。

ところが、「昨日の出来事」も、もっと深いレベルで使われた場合は、「何も起きていなかった」という言い回しになる。私たちは、現象の世界で起こっていることに、さまざまなラベルを貼る。そこに実在としてあるのはエネルギー現象だけ。それにラベルを貼っているにすぎない。

「死は存在しない」という言い回しも、顕現として現れた肉体は当然死ぬし、「私」という思考も死ぬ。それは当たり前。ボブが「死は存在しない」と言っているのは、肉体でも思考でもない実在としての「私」のことを言っている。

実在という点から見れば、そこにあるのはすべて単なるエネルギー現象であり、それをわれわれの思考が勝手に、「私」が「あなた」を「傷つけた」とか、「イラク」で「戦闘」が「起こった」というふうにラベル(概念)を貼っているだけのこと。実在の点から見ればそれは単なるエネルギー現象であり、「何も起こっていない」ということになる。

もちろん、物理的に、私の肉体は存在するし、あなたの肉体も存在する。それらは一つではないし、別々に存在する。当たり前の話ですが、それがないと言っているわけではない。
イラクで戦闘は起こっていて、それが起こってないとは言っていない。

ただそれらは、人間が勝手に貼りつけた概念で解釈しているだけのこと。実在(reality)という点から見れば、それは単なるエネルギー現象で、何も存在せず、何も起こっていない。

ボブの定義では、実在とは永遠不変のもの。そういう意味において、肉体も物質も実在ではない。人も物もすべての物もやがては、姿を変え、変化してゆく。
肉体は死に、山もビルもやがては姿を変えていく。

私たちの本質は肉体ではない。だから「死などない」という言い回しになるが、肉体は死ぬ。

ボブは言う。
「あなたは永遠不変の実在です。生まれてから、変化していないものは何ですか。あなたの生まれた時の細胞は変化し、すべて生まれ変わりました。それはあなたではありません。思考はどうか。すべての思考はやってきては去っていく。それはあなたではありません」

では、生まれてから今まで変化せずにあるものとは何か。その変化しないものこそがあなただという。生まれてこのかた、ずっと変わらずにあるものとは何か。

それは、あなたの意識(awareness, consciousness)、見ること(seeing)、聞くこと(hearing)、認識すること(knowing)。

あなたが見た景色、思考、音などは、絶えず変化してどこかへ行った。しかし、あなたの意識(awareness, consciousness)、見ること(seeing)、聞くこと(hearing)、認識すること(knowing)は今も変わらずにある。

あなたの意識(awareness, consciousness)、見ること(seeing)、聞くこと(hearing)、認識すること(knowing)は、アウエアネスを表すポンター(ヒント)。それは個人のものではなく、普遍的アウエアネスの一部。

あなたの子供ころから、世界を認識してきた意識(アウエアネス)だけが変化せず、今もこの瞬間もここにある。それが本当のあなたであり、その内容物として現れる現象はあなたではない。

ボブは、私たちはアウエアネス(意識)そのものだと言う。それを「知性エネルギー」と言う時もあれば「認識する空」と言う時もある。思考や物質がエネルギー現象となって現れるスペースだという時もあるし、惑星を動かしたり、鼓動や呼吸をつかさどったりするエネルギーだという時もある。

どの表現も別の側面を表しているにすぎず同じもの。そしてそれは他に何もない一つのものであり、万物は一つのものだと言っている。ボブは使いませんが、神という言葉がわかりやすければそれでもいい。

ボブが、万物は一つのものということを説明する時は、クオーク(微粒子)の説明をする時があると前回のブログで書きました。

物質は実はスカスカの空間で、その空間を見て勝手にラベル(概念)を貼りつけているだけだという説明で納得できる人はそれでいいと思います。

最近よく耳にするニュートリノもクオークの一つなのだそうですが、そのクオークが飛び交う空間を見て、概念のラベルを貼りつけているのは我々の意識(consciousness)だという説明で納得できる人はそれでいい。ボブのところへ来る人の多くはこの説明で納得しています。

アウエアネスは一つのもの。万物はその中に現れるものという意味で、一つのもの。

またボブは、このことを説明するのに鏡の例えをよく使う。鏡がアウエアネスであり、あなたの意識。鏡に反射して映る世界が万物。反射はいろいろなものを映し出す。あなた、私、椅子、花瓶。ありとあらゆるものを映し出すが、鏡の中の反射という意味では一つのもの。アウエアネス(鏡)無くして反射(万物)は存在しえない。

鏡の中に映った「私」は、自分は個人的な存在で、そこから世界を認識していると思っている。でも、「私」も「あなた」も鏡に映った全体の一部。あなたが世界を認識しているのではなく、鏡という全体の一部にすぎない。

またボブは、海の例えを使う時もある。海がアウエアネスで、そこに起こった小さな波が「あなた」や「私」。「あなた」や「私」は海という一つの存在(アウエアネス)から分離した個人だと考えているが、実は海(アウエアネス)。全体の一部で同じものだということに気づかない。

ボブがどんな説明をしようと、それはポインター(ヒント)にすぎない。なぜならそれはマインドでは理解できないものだから。「アウエアネス」という言葉も「知性エネルギー」という言葉も「それ」そのものではない。それはマインドでは理解できないもの。

マインドで理解できないなら、まやかしではないかと言う前に自分で調べてみてください。
ボブは、「基本は自分がいるかいないかを自分で調べることだ」と言っています。

ニサルガダッタ・マハラジはI am.「私はいる」という言葉から、自分の実在(本質)に気づくのに三年を要した。ところが、ボブのガイダンスに従えばそれほど時間はかからない。「私はいない」という答えがわかっているのだから、答案用紙に答えが書いてあるようなもの。あとは答えから解いていけば済む。

「私」が実在でないとわかれば、同様に「あなた」も実在ではないとわかるし、すべての生物も実在ではないとわかる。物はどうだろうか。変化していく物も実在でないとわかれば、永遠不変の実在とは何なのだろうとなって、そこにあるのはアウエアネス(意識)だろうとたどり着く。

もう一度書きます。アウエアネスとは意識。私たちの意識。空間のようなもので、そこに万物がエネルギー現象として現れる。そのアウエアネスが私たちの本質。それは他に何もない一つのもの。

初日に、記憶を無くした父の話を書きました。もし、すべての記憶を失い、言葉も忘れ、さらに、自分の手足が動くことや、自分が体の中に閉じ込められた存在だという感覚も忘れたらどうなるでしょうか。そうした感覚も、後天的に学習した感覚でしかありません。

そこにあるのは、意識(アウエアネス)です。その意識の中に世界が現れ、同じものが星を動かし、心臓を脈動させ、木々の緑となって輝きます。

ボブはそれを知性エネルギーと呼びます。それは生まれることも死ぬこともない永遠不変の実在。それがあなたです。

2016/02/25

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ⑦

エンライトメント

アウエアネス(awareness)は、aware(気づいて)いる状態。つまり、目覚めている状態。別の言い方をすれば、覚醒(エンライトメント)している状態。
私たちはアウエアネスそのものであり、エンライトメントしている状態です。(「私」はいないのですが、便宜上「私」という言葉を使います)

ボブの教えを理解しても、エンライトメントは起きません。何か特別な理解も起こりません。
もしそれが起こったというなら、それはトリップであり、トラップ(罠)です。私たちは、気づいていようがいまいが、もともとエンライトメントしている状態にあるのです。

「もともとエンライトメントしている状態」という表現はあまりよくないのかもしれません。そんなものはなく、私たちの平素の普通の意識以外には特別な意識などない、と言った方が正確なのかもしれません。

ボブは「今この部屋でaware(目覚めて)していない者はいるのか? みんな目覚めているでしょう? 今朝目覚めてからずっと目覚めているでしょう? もしこの目覚めている状態の外に出られるものなら出てみてください」と言って笑わせます。

私は、覚醒体験そのものは否定しません。私もボブの本を読んでいて、時間が無くなった感覚が起こり、まわりの物すべてが鮮明に見え、何もかもがクリアーになって恍惚感にひたった一瞬がありました。私は自分がエンライトメントしたのだと思い、友人にメールしたものです。

でもその感覚は翌日には消えてしまいました。そんなことは誰にでも起きる体験にすぎないとボブは言います。ボブの教えは、何かを得ることや、何かが起きることとは全く関係ありませんし、ボブの教えを理解しても何も起きません。

何かが起きることを期待して瞑想したり、修行を続けたりするのなら、ボブの本に出てくる修行者と同じ過ちを犯すことになります。

真理を得るために修行者はグルのもとで12年間修行するように言われます。12年経ってグルに尋ねると、グルは「汝それなり」とだけ言います。

納得できなかった修行者は別のグルを訪ね、そこでも12年間修行するように言われます。12年が経ち、修行者がグルに尋ねるとグルは、「汝それなり」と言います。それを聞いて修行者は自分がもうそれなのだと理解します。

ここで多くの読者は、修行者にエンライトメントもしくは何か特別な理解が起こったのではないかと勝手に解釈してしまいますが、実際は何も起こっていません。普通に、自分はもうそれだったと理解しただけの話です。

私は正直なところ、いわゆるエンライトメント・覚醒があるのかどうかは知りません。
光明を得た、覚醒したというグルやマスターが嘘をついているとは思いません。でも、それは単に体験として一時的に起こったことであり、恍惚感が永続するような状態はないのではないかと思っています。

また、そういう経験が、「私は実在しない」「万物は一つのもの」ということを理解する契機にはなっているかもしれません。
でも、セイラーボブが教えているのは、そうした体験とは関係のないことです。

セイラーボブが教えているのは、そうした体験が現れる背景に、いつも変わらずにある何かです。

20年以上もあちこちをフラフラさまよい、気休め程度にしかならないあれこれの瞑想や方法を繰り返した私が偉そうなことは言えないのですが、永続するエンライトメントは無いように思えてなりません。

何十年も瞑想して、ごく稀な人にしか起きないエンライトメントを求めて瞑想を続けることに何の意味があるのでしょうか。本当にそんな状態があると思いますか。

私は、本当に自分が実在なのかを自分で調べて、アウエアネスの顕現とも言えるこの世界こそが奇跡なのだということを理解し、そこにはただ一つ、アウエアネス(意識)があるだけだということを理解することの方が大切に思えてなりません。

もし、私もあなたも実在ではなく、同じ一つのものの現れにすぎないということを理解したら何が起きるでしょうか。
路上の売春婦も乞食も、ロックスターも大統領も、実は同じ一つのものの現れなのだと知ったなら、人々に対する途方もない慈愛が生まれ、争いは地上から消えると思いませんか。

思考や概念が実態のないもので、消えていくものだと知ったなら、恨んでいる私も、恨む相手も実在ではないと知ったなら、人を恨んだり、憎しみを抱いたりすることすらばかばかしくなるのではありませんか。

過ちや後悔も、実際はアウエアネスの中で起こった概念にすぎないと知れば、とてつもない癒しが起きると思いませんか。

ボブの教えは、何十年も瞑想して、ごくまれな選ばれた人しか手に入れることができない何かではありません。言葉が理解できて、自分で調べる勇気のある人なら誰でも理解できる教えです。

ただ、教えを知的に理解できたとしても、自分は実在しない、万物は一つのもの、といったことが、当たり前の現実として絶対的な確信が持てるのはそう簡単ではないように思います。
私の場合はかなりの時間がかかりました。

2016/02/24

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ⑥

アウエアネスについて

アウエアネス(意識)をボブは、space-like awareness(空間のような意識)と表現する時もあります。
それは、万物が現れる場所という意味でそういう表現を使っています。

また別の表現では、「認識する空」「知性エネルギー」と言う言葉を使う時もあります。
では一体それは具体的には何なのかということになるのですが、ボブは、「それはマインド(思考)では理解できない、マインドを超えたもの」と言います。

要するに、考えてもわからないし、正体を突き詰めようとしても無駄だと言っているのです。

私たちは「意識」(アウエアネス)という言葉を簡単に使っていますが、それは一体何ですか?
そこにあるのはわかっている。そこに、昨日のことも、架空の私も小さいころの思い出も美しい景色も悲しい出来事も思考も悩み事も現れる。

でも、それは一体何ですか?

ボブは、「万物は一つのもので、エネルギー現象としてアウエアネスの中に現れる」といったことを、頭で理解しようとしても無駄だと言うのです。

科学的に立証できないし、理論的には説明できない。
だってそうでしょう、そんなことが立証できるなら、NHKがドキュメンタリーにして放送するでしょうし、ピュリッツアー賞だってノーベル賞だってもらえるはずです。

そんな時ボブは、風が木を揺らす例えを使います。
アウエアネスは風のようなもの。風が吹いているかどうかは、遠くで見ていてもわからない。でも、風が木々の枝を揺らすと、ああ、風が吹いているんだなとわかると。

ボブは、風のかわりに様々なポンター(ヒント)を使います。consciousness(意識)、seeing(見ること)、knowing(認識すること)を使う時もあります。

「万物は、consciousness(意識)の中に現れる」
「万物はseeing(見ること)の中に現れる」
「万物はknowing(認識)の中に現れる」

というふうに使います。

説明の都合上、「私」という言葉を使いますが、「世界は私の意識の中に現れる」「世界は私の見ることの中に現れる」「世界は私の認識の中に現れる」という意味です。

ところが、ボブの教えるアドヴァイタの世界では、「私」はいない。つまり、「私の」と思っているのは錯覚で、そこには主体のないawareness、conscious、seeing、knowing があり、そこに世界が現れるという意味です。

awareness、conscious、seeing、knowingはアウエアネスを指すポインター(ヒント)です。

私たちの脳が認識しているのではく、アウエアネスが現れているのです。
私たちの目が見ているのではなく、アウエアネスが現れているのです。

私たちは椅子を見て、それが椅子だということを経験的に学習して、椅子というラベル(概念)を椅子に貼りつけます。月を見て、あれが月というものだと習って、月というラベルを貼ります。同様に、すべての物にラベル(概念)を貼りつけていきます。

二歳ぐらいになると、親が「ジョニーはいい子だね」「ジョニーはかわいいね」と言うのを聞いて、そうか私はジョニーというものなのだと学習し、ジョニーという概念のラベルを貼ります。

そうした概念のラベル貼りを何度もやった結果、あたかも現実としてそれらが存在するかのような強固なものとなり、あなたのまわりの世界を構成します。

そしてその概念の集積があなたの内側で「私」を形成しています。このブログの最初に私の父の話を引き合いに出して、もしすべての記憶をなくしたらどうなるだろうかと書きましたが、もしすべてのラベルをはがしてしまったら、そこにいるのは何者なのでしょうか。

awarenessとは、要するに、私たち人間の意識のことなのですが、ボブの教えでは私はいないのです。

seeing も knowing も同様に、アウエアネスを表すポインターです。
アウエアネスは掴むこともできなければ、認識することも理論的に説明することもできないものです。そのため、人間の意識や五感が、それを垣間見るポインターとなります。

満天の星空を見た時、真紅のバラを見た時、私たちは「私」の目が見ていると思っています。でもそうではなく、目を通してアウエアネスを感知しているのです。

降るような満天の星空を見た時、そのこと自体が奇跡だということに私たちは気づかない。真紅のバラを見た時、それを当たり前のことと受け止めているが、ものすごい奇跡が起きているのだと気づかない。
すべては知性エネルギー、アウエアネスの現われです。

2016/02/23

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ⑤

万物は一つであり、すべてはアウエアネス(意識)の中に現れる。

アウエアネスを英和辞書で引くと、「意識・気づき」とあります。ボブの使うアウエアネスという言葉の意味は私たちの意識のことです。

個人的には、ボブの使う"awareness"という言葉に「気づき」という訳語をあてるのは良くないと思います。「気づき」とすると、そこに誰か気づく人がいるような印象を与えてしまいます。

「私たちの意識」という言い方も正確ではないのかもしれません。というのも、ボブの教えでは私という存在はいない。

正確な言い方をすると、「意識する私(人)のいない意識」です。
通常、人が何かを意識したり気づいたりする場合、まず私(主体)がいて、対象物(相手や物)があって、私が意識する行為があります。

でも、ボブの言うアウエアネスには、行為だけがあり、主体である私も、対象である物も相手もない状態、純粋な意識だけがある状態のことです。

ボブの教えは、まず最初に、「私はいない」ということを、自分で調べて気づくところから始まります。私はいないということが理解できれば、おのずとそこにあるアウエアネス(意識)は、主体も客体もないものになります。

私たちは、この意識を個人の意識だと思っていますが、個人の意識というものは存在しません。宇宙の果てまで、あまねく、たった一つの意識(アウエアネス)があるだけです。

それがボブの言うたった一つのもの。「ただそれだけ」。
私たちは、この意識の中に体を持って現れる。人間には五感があり、思考があり、意識があります。

そうすると、私たちはその五感、思考、意識が自分のものだと錯覚します。
でもそうではなく、私たちが、そのたった一つのものの中にいて、その一つのものを、五感、思考を通じて感じているだけに過ぎません。

ボブは「アウエアネス(意識)は他には何もない一つのもので、万物はそのアウエアネスの中に現れる」と言います。
前回の訪問の時私は、(万物は私の意識の中に現れるのだ)と解釈していました。それで、「エリザベス通りのビルは私が眠ると消滅するのか?」「エルザベス通りのビルは私が死んだら消えるのか?」とバカみたいな質問を繰り返ししたものです。

私がいなければ、世界は消えるというのは、ある意味では真実です。
私の目と脳が、そこにあるバイブレーションなりエネルギーなりを形あるものとして解釈しているので、そこに私がいなければ、そこにあるのは単なるバイブレーションなりエネルギーなりにすぎません。

ボブは説明の便宜上、万物が現れる舞台であるアウエアネス(意識)のことをuniversal awareness(普遍的アウエアネス)と言い、個人が感じるアウエアネスのことをindividual awareness(個的アウエアネス)と表現する時があります。

でもそれは別々のものではなく、一つのものです。基本的には個人のアウエアネス(意識)というものは存在しません。

あるのはアウエアネス(普遍的な意識)だけです。それは他に何もない一つのもので、世界はそこにエネルギー現象として現れます。宇宙も銀河も星も。あなたも私も、動物もばい菌も、すべてはそのアウエアネス(意識)の中に現れます。

アウエアネスの中にポツンと私が現れます。私は全体の一部、全体と一つだということを知りません。そのため、個人として感じる(意識)を、自分の意識だと錯覚します。

個人の意識(アウエアネス)というのは錯覚です。そもそも私という個人は存在しません。例えて言うなら、宇宙の隅々まで広がるアウエアネス(意識)を人間の感覚器官を通して、ほんの少しだけ感知しているようなものです。

私のアウエアネス(意識)で世界を感知していると錯覚しているのですが、そうではなく、普遍的なアウエアネス(意識)の一部を個人の感覚器官で認識しているにすぎません。

ボブに「アウエアネスとは何ですか」と質問すると、「あなたは外のトラムの音に気付いて(aware)いないのか?それがアウエアネスだ」と答えます。

当時私は、この禅問答のようなやり取りの意味がわからず、何度も同じ質問を繰り返したものです。私という個人の感覚器官である耳がアウエアネスの現れとしての音を感知しているだけのことです。

ボブによれば、アウエアネス(意識)はマインド(思考)では理解できないと言います。そのため、アウエアネス(意識)をうかがい知るポインター(ヒント)として、見ること(seeing)、聞くこと(hearing)など、人間の感覚器官で感知できるものを使います。アウエアネスとは、そういったポインターを通してしか、うかがい知ることができないものなのです。

だからこそ、アウエアネス・awarenessという言葉で、他には何もないただ一つのものを表現しているのです。

2016/02/22

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ④

私とは何者か

今から八年ほど前に父が脳梗塞で倒れた。直接の原因は過度の飲酒。大量に酒を飲んだ後で外出し、路上で倒れて救急車で病院に運ばれた。

二日ほど経ち、酒が抜けてからの医師の診断は、脳梗塞から来る認知症。脳以外にどこも異常がなく、体に麻痺はなかった。会話も普通にできたし、食欲も普通にあった。

ところが、記憶の大部分が失われていた。自分の名前と、私が息子であることはかろうじて覚えていたが、その他の記憶がないのである。

年齢を尋ねると、二十八歳と答える。父は当時八十歳に近かった。家はどこにあるのかと聞くと、名古屋と答えるが、父は名古屋に住んだことは一度もない。

何を聞いても覚えておらず、そこにいるのは父ではなかった。ところが不思議なことに本人は、記憶がないということに対して、不安やネガティブな感情がないのである。

その時私は、人間がすべての記憶を失ったら、そこにいるのは誰なのだろうと思った。自分の名前すら忘れてしまったら、私は一体何者なのだろうかと。

すべての記憶を無くしても、誰かが衣食住の世話をしてくれたら、生きていくことは可能で、それが悲しいとか不安な気持ちはない。思い出す記憶がないのだから、思い出して不安になることも悲しくなることもない。比べる記憶がないのだから、未来を不安に思うこともない。

一か月ほど病院で過ごしたが一向に回復しなかったため、施設に移って生活するようになると、少しずつ記憶が回復し、半年後にはほとんどの記憶を取り戻した。

そうなると、どうして俺をこんな施設に入れたのだ、早く自宅に戻せと言い出し、不安やネガティブな感情の中で過ごすようになった。

私とは一体何者なのか。すべての記憶を取り去ったそこにいるのは誰なのか。

***

2015年4月にボブのもとを離れる時、私はボブの言っていることを完全に理解していると思っていました。ところが日本に帰って一人になって考えてみると、どうもしっくりこない部分や、理解の浅い部分があることに気づきました。

そして毎日ボブとギルバートの本を読む日々。それでもしっくりこない部分があったので、もう一度メルボルンのボブに会いに行きました。

今回は2016年1月28日から2016年2月14日の間に八回ミーティングに参加。そのほか、ボブを囲んで有志でランチに1回行きました。
9か月ぶりに訪ねたセイラー・ボブは、

ここでは、あなたに何も教えはしないし、何かを伝えるわけでもない。
あなたにポイントを指し示し、あなたが自分でそれを調べるようにと求めているにすぎない。」と、毎度おなじみのフレーズでspielを始め、昨年私がボブのもとを離れた時と変わらず、元気でミーティングを続けていました。

今回このブログで書くのは、前回のブログではわかりにくかった部分、説明不足だったなと思う部分だけを書きますので、「セイラーボブ・ミーティング・2015」を読んでない方は、前回のブログも併せて読んでください。

2016/02/15

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ③

さて今日は日曜日。この旅最後のセイラー・ボブとのミーティング。
完全にボブの教えを理解納得しました。満足して日本に帰ります。

今朝のヴィクトリアマーケット

街角で見かけた英語

トラム乗り場の映画の宣伝。この映画を見ていないので正確には訳せませんが。「俺が行くまで待っていろ」もしくは「今に見ていろ」。場面によって訳は変わる。

トラムでボブの家へ。

フリンダース駅も見納め。

今日のミーティングは大勢の人。たぶん24人。

今日は日曜日だったので、ミーティングのあとのボブとのランチを楽しみにしていたが、ボブが用事で行かないって言うので、こう言ってお別れしました。

"Please take care of yourself and be healthy. I'll be back to listen to your spiel next year, not for tennis."

「健康に気をつけて元気でいてください。来年またspiel を聞きに来るから。テニスじゃなくて」

ボブはハグしてくれて、何かテニスの冗談を言うのかと思ったら真顔で、

「日本のみんなに(ボブの教えを)教えてあげて」と言いました。

帰ろうとしたら、オーストラリア在住、ボブ歴2年のサビーナ夫婦がシティーでお茶するからおいでと誘ってくれたので、彼らの車で街へ。

街の中心にあるショッピングモールへ。

ショッピングモールの中に、円錐のドームがあって、その中に古い建物が保存されている。

ここはメルボルンの街歩きの中心。

二人が連れて行ってくれたこの店がメルボルンで一番美味しいコーヒーの店なんだって。

確かに美味しい。カプチーノとチョコレートバナナケーキをおごってもらった。値段は聞かなかったけど、こんなものでもメルボルンで食べたらびっくりするぐらい取られる。

ボブのミーティングでは、まわりの参加者と仲良くして交流するのも大切。お互いの理解を確かめたり、情報交換したり。

二人は、ボブのミーティングを動画に撮ってYou-Tubeで公開している。その中に、英語字幕を付けたものがあるという。なぜそんなことをしたのか聞いたところ、ボブの英語はオーストラリア訛りがきついうえにモゴモゴ喋るので、アメリカ人でも聞き取れない部分があるそうで、アメリカ人の友人から字幕を付けるように頼まれて付けたという。

そして、さらにその字幕をスペイン語とクロアチア語に翻訳して字幕を付けて公開しているという。

私は、ボブの英語を耳で聞いて翻訳するのは無理だが、英語字幕を日本語字幕に翻訳するならできる。
その作業がどれくらいの手間がかかるかわからないし、やるかどうかも今のところわからない。

なお、英語字幕で見てみたい方は以下のサイトのどこかにあるそうなので見てください。

サビーナのサイトはこちら


今日のライブラリー。いよいよ見納めです。

今日は日曜日で旧正月の行事をあちこちでやっている。

獅子舞。太鼓、鐘、爆竹がやかましいです。

帰りにヴィクトリアマーケットの日本人ワーホリのお姉さんが4人いる店でパパイヤ購入。2ドル。

いよいよメルボルンともお別れ。明日の夜行バスでシドニーへ向かいます。
シドニー観光ののち日本へ。日本に帰ったら、観光気分を抜いて続きを書きます。

2016/02/08

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ②


今日は中国の春節(旧正月)イヴ。ヴィクトリアマーケットでの飾りつけ。

さて日曜日。セイラー・ボブ・アダムソンのミーティングへ。

今日も大勢の人で、18人。カリヤニも元気でした。


初めて来た人が質問した。

「私はずっと瞑想を習慣にしています。瞑想中にアウエアネスというか、ハイレベルの状態に入る時もあるのですが、なかなか長く続きません。そのサマーディのような状態を保つためにはどうしたらいいのでしょうか?」

誰かが、"It's a golden question."と言った。

ボブはいつものように、"Are you not aware now?"(今、気づいていないのか?)から始めて、いつもの説明。ボブが一通り説明したが、その人は納得しなかった。

私は、一年前にここに初めて来た時、その人と同じようなレベルの質問を尋ねたのを思い出した。

「どうしてエンライトメントしないのですか?私はまだエンライトメントしていません」「なぜ万物は一つなのですか?科学的に説明してください」などと。

今日のミーティングに出た人は、その質問をした人以外は全員、セイラー・ボブの教えを正確に理解している人たち。それが証拠に、ボブの説明が終わっても納得しないその人に向けて、みんながそれぞれの言い方で、「アウエアネスは達成するものではなく、私たちはもうすでにそれなのだ」ということを入れ替わり立ち代わり説明した。

私は説明には加わらなかったが、みんなの説明は非常に役立った。みんなの説明を聞いて、自分の理解が間違っていないこと、ボブの教えを完全に理解できていることが確認できたから。

私が前回滞在した五か月の間、こういう初歩的な質問をする人は私以外にほとんどいなかったが、時にはこういう初歩的な質問は場を盛り上げるし、貴重な質問だと思う。
この日のミーティングのYouTUbeはこちら。(The Spiel⑧)


ミーティングが終わって有志でレストランでランチ。


ボブが私に聞いた。

ボブ「タクのブログに(私の教えに対する)質問は来るのか?」

私「質問はほとんど来ない。でもたくさんの人には読んでもらったと思うよ」

ボブ「それで、みんなは私の言っている事をちゃんと理解しているのか?」

私「ほとんどの人が理解していないと思うよ。いくら説明しても、今日の人と同じで、みんなエンライトメントやサマーディを捜しているんだ。サマーディは今この瞬間で、みんなもうエンライトしているんだっていくら説明しても理解しないんだ。みんな、どこかで特別な理解が起きると思っている」

ボブ「マインドは常に答えを欲しがる。それが問題の種だということに気づかない」

今日は暑い一日で、めずらしくミーティングでクーラーを入れていた。

青い空。とても良い一日でした。

これは宿の屋上からの写真で、夜8時10分撮影。西日が差している。夏時間なので、実際は夜7時10分ですが、それにしても日が長い。暇なので酒を飲むわけですが、飲みすぎちゃって・・・。

2016/01/29

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ①

夕方からセイラー・ボブのミーティングへ。

ボブと関係者に何か手土産をと思って、名古屋から「都あられ」の詰め合わせを持参。なんで「都あられ」なのかというと、ボブに会う前の二週間にケアンズ滞在、全豪オープンを見るため、最低でも三週間以上賞味期限があるものでないといけなかった。

名古屋のデパートをあれころ探したが、三週間以上日持ちする菓子がほとんどない。何とかせんべいや、何とかパイ、サブレは全滅。パックに入った「羊かん」や「ういろ」も、意外と日持ちしない。ところが、この「都あられ」だけは賞味期限が三か月もある。

オーストラリア人が醤油味のあられを美味しいと思うかどうかは疑問だったが、他に選択肢がなかった。

セイラー・ボブは一年前と変わらず、元気にミーティングをやっていた。

今日の参加者は9人。うち7人が以前見たことがある人たちだった。

始まる直前まで集まりが悪くて、まだ三人しかいなかった時、常連の女の人が、「今日はテニスで好カードあるからみんな来ないのよ。○○に電話したら、テニスを見るから行けないというの。私はテニスなんかより、ボブの方が大事だわ」。もう一人の男が「俺も」と言った。

そのすぐあとでボブが「タクはいつメルボルンに着たの?」と私に聞いた。

ドキッ。「実は一週間前に着いたんだけど、テニスを見に行っていました。もちろんボブのところへ来るのがメインで、テニスは友人がどうしても見たいと言うのでしかたなく行ったけど」

「ダメじゃないか」とボブ。もちろん冗談ですけどね。

ミーティングの形式は一年前とまったく同じ。最初の40分間ぐらいspielがあって、そのあと質疑応答。spielも以前とまったく同じで、いつも聞いていたやつ。少しはパターンを変えればと思うが変わってない。

これは逆にありがたい。というのもボブの英語は聞き取りにくいので、以前聞いたことがあるspielなら完璧に聞き取れるが、世間話のジョークとなると、聞き取れないことも多いので。

質疑応答では、最初に遠来の客である私を指名してくれたので、少し質問。日本を出る時は、疑念や疑問がいっぱいあって、全部聞こうと思っていたが、こうしてボブの前に出ると、質問が消える。

ボブの存在感のなせるわざなのか、ボブの言うことが全部真実に聞こえて、質問することがなくなる。他の人がボブの言っていることを正しいという前提で会話を進めることあって、今更「どうして万物は一つだとわかるんですか?」なんて聞けない雰囲気もある。

ずっと黙って聞いていたら、終わりにまたボブが私を指名した。

「日本にいる時はたくさん質問があったんですが、ここに来たらなくなってしまいました。次回までに考えてきます」と言ったら、

「そうですね。タクはテニスを見に行っていたくらいだですから」と言ってラケットを振るふりをして大笑い。ボブは相変わらずユーモアたっぷり。

2015/02/01

2014年11月 拓訪問時の写真


ボブとカリヤニ宅で


ボブ、カリヤニ夫妻




この写真はカリヤニからのプレゼント


大勢の人がミーティングに来た


迫力のあるボブ


アメリカからの来客と近くのレストランで


ボブの家の玄関

2016年1月 再訪時の写真


カリヤニと

2015/01/30

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑲最終回

セイラーボブ・ミーティング・2015を①から読む方はこちら

結びに代えて


長い間、ボブに関するレポートを読んでいただきありがとうございました。

私は、中村元さんの仏教関係の本とかも何冊か読んだことがありますが、仏教で言っていることすらよく理解していなかった。
今回、ボブを学ぶ中で、般若心経のあの部分が何を言っているのかわかったので書いておきます。

般若心経では、色即是空・空即是色と言っています。私の家は禅宗なので、葬儀や法事の時など、この文句を何百回と聞いて育ちました。

これをボブが引用した英語で言うと、"Form is emptiness, emptiness is form."(ボブが引用したのは後半の部分)。

直訳すると、「形は空、空は形」。

色即是空・空即是色をネットで解説しているサイトなどで調べると、色(しき)というのはすなわち(いろ)のことで、万物を指しています。
やさしい言葉になおすと、「万物はすなわち、これ空である。空はすなわち、これ万物である」。

驚きました。仏教で言っていることはそういうことだったんですね。日本人の私がボブを経由して「空」の本当の意味を知りました。
ボブの話は「禅」からの引用も多く、禅に対する理解も深まりました。

私は、"Out on a limb"という言葉が好きです。
これはシャリー・マクレーンの本の題名にもなっている言葉ですが、直訳すると、「枝の先」という意味で、もともとは聖書からの言葉だそうです。

その意味は、果実を手に入れるには危険をかえりみず、枝の先まで登って行って、手を延ばさないと手に入らないという意味だそうです。
枝は折れて、地面に叩きつけられるかもしれない。でもそうしないと果実は手に入らない。

私は教えを学びたいと思った時は、いつも枝の先まで行って手を延ばすようにしてきました。そのため、はたから見ればそれほど平安な人生ではなかったかもしれません。

でも今回、手の中に一つの果実が残りました。
この果実が、この先、花を咲かせるのか、枯れてしまうのかはわかりませんが、今はそれがとてもすばらしい果実に思えてなりません。
                                           
                                          近所のレストランでアメリカからの来客と談笑するボブ。
今回のメルボルン滞在は、2014年11月から2015年4月まで、途中ニュージーランドへのビザ更新旅行を入れての5か月でした。
ボブのミーティングには60回以上参加。日曜日のミーティングのあとにボブと一緒にランチを食べた回数は20回以上です。本当に幸せな5か月でした。

2015/01/25

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑱

長々とセイラー・ボブ・アダムソンのことについて書いてきましたが、一番良いのはボブ本人の話を直接聞くことです。
そこで最後に、ボブ本人の話を翻訳掲載します。

私が読んだ書籍の中では、カリヤニ・ローリー、ピーター・ローリーが編纂した書籍「A Sprinkling Of Jewels」のP7からP15までが、いつも行われるボブの講和の冒頭部分をもっともうまく再現収録してあるので、カリヤニ、ボブ両名の了解のうえ、ここに翻訳掲載します。

出典は以下の本のP7からP15までの、The Spielの部分。

A Sprinkling Of Jewels」Kalyani Lawry & Peter Lawry編纂

この本はボブの講和の冒頭の部分(私が翻訳する部分)に続き、厳選された短いボブの言葉とともに、ボブ本人と彼の自宅とその周辺を撮ったコンパクトな写真集になっています。非常に美しい写真集で、中の英語もわかりやすく、英語がそれほど得意ではないという方にもお薦めの一冊です。
上のサイトで購入すると、36ドル(本と送料込代金)でカリヤニがオーストラリアから送るそうです。

ボブは自分の話を、冗談まじりに、The Spiel(長い演説・口上)と言って話を始めます。

***
The Spiel

ここでは、あなたに何も教えはしないし、何かを伝えるわけでもありません。
あなたにポイントを指し示し、あなたが自分でそれを調べるようにと求めているにすぎません。

たとえあなたが何を信じていようが、何を言われていようが、誰かがあなたに何かを与えることもなければ、あなたが受け取ることもありません。
それは、あなたがもうすでにそれなのだという何かであり、あなたはそのことに気がつきさえすればいいだけのことです。

そのことは、あなたがもう知っていることなのですが、もう一度再認識する必要があります。なぜならそれは容易に見失われるものだからです。
このことは、信仰や宗教とは関係がなく、概念や知識とも違います。そしてまた目新しいことでもありません。

詳しく調べれば、このことはすべての偉大な伝統に含まれていて、その基礎となっているとわかるでしょう。それは明快かつ直接に、あなたの自然な状態を指し示すものです。

あなたは、もうすでに、あなたが探し求めているものなのです。探し求めることこそが問題です。なぜなら、探し求めるということは、将来に見つける何かがあるということを意味しているからです。

例えばヒンズー教では、彼らはそれをアドヴァイタと呼んでいますが、それは非二元性と翻訳される。非二元性を説明するために彼らは「他には何もない一つのもの」という表現を使います。それは、一つという概念でさえ、他にもう一つのものがあることを暗示しかねないからです。
「それ」以外のものがあるという考えを打ち消すために、彼らは「他には何もない一つのもの」と言います。

仏教の伝統の中にも同じことがあります。ゾクチェンはその究極の教えですが、その中で、それは非概念的で、常に新鮮、遍在する意識そのもので、それ以外のものではないものと言われています。繰り返しになりますが、「それ」はそこにあるすべてを指しています。

多くの伝承や聖典は、いわゆる真理や実存について伝えていますが、それは遍在、全能、全知のものであるといいます。それは三つのもののことを言っているのではなく、一つのものの三つの側面、完全な遍在性、完全な力、完全な知性のことです。

この完全性の他に何があると言うのでしょうか。そしてその完全性の中で、何を、そして誰が探しているというのでしょうか。

あなたは、私たちがそれぞれ分離した存在、個人だという誤った信念を抱いていて、その誤った信念のせいで、自分が完全ではないと感じているのに気づくでしょう。
その分離の感覚が起こると、不安定で傷つきやすくなり、そこから探し求めることが始まります。

それは、物事の道理がわかり始める二歳ごろから始まります。以降、人は安全を探し求め、そのことが問題となります。
分離した存在という二元的な考えから始めて、非二元性を手に入れようと試みますが、それは不可能です。なぜならもともと分離などないからです。

多くの文献や聖典では、このことを顕現と呼んでいますが、それは見せかけのことを言っているにすぎず、それはそのように現れるしかないのです。
もし詳しく調べるなら、それがバイブレーションとなって現象として現れなければ、どんな顕現も現れえないということがわかるでしょう。

夜無くして昼があるでしょうか、ざわめき無くして静寂があるでしょうか、静止無くして動きがあるでしょうか、夏無くして冬があるでしょうか、引き潮無くして上げ潮があるでしょうか。

すべての顕現は形作られ二元的に現れます。しかしそれは束の間のものです。それは常に変化し続け、定義づけできず、実在とは言えません。
実在の定義は決して変化しないものですが、顕現は常に変化しています。それはそのように見えているにすぎません。

私たちはそれが現実で確固とした実体あるものだと信じ込んでいます。それも詳しく調べれば、本当のことではないとわかるでしょう。
あなたはあれやこれやを信じているかもしれませんが、絶対的に確かだと言えることは何でしょうか?
あなたは、自分が実在すると信じているのか、それとも自分が実在することを知っているのですか?

信じているということと、知っているということでは微妙な違いがあります。あなたは知っていることを否定することはできません。「私はいない」と言える人は誰もいません。
そのことについて、あなたが何を信じていようと、実際にはあなたは自分がいるということを知っています。

しかしながら、自分が何なのかということを、あなたは知りません。あなたはある種の概念を身につけ、自分が知っているということと結びつけています。
そのことが現実を、あなたが一度も分離したことなどないという現実を直視するのをさまたげています。

あなたが探し求めているものについて言うと、あなたはもうすでにそれなのです。このことを調べたことのない人たちには酷なことです。というのも、あなたは探し回って、自分の周りにあるあらゆる分離を見るでしょうから。

そして言うでしょう。「えっ、どうして分離など無いと?」
そして私が言います。「じゃあ、あなたはその体なのか?心なのか?」

そしてもし一度も調べたことがなければ、「そうです」とあなたは言うでしょう。しかし本当でしょうか。
指し示すところをちょっと調べてみて、体の中に中心が見つかるかどうか見てください。

体のどこかに、ここからあなたが始まったという場所や、あなたがそこにいて、これが私だという場所があるでしょうか?
たいていの人は、頭か胸かもしくはその他の場所から始まったと言うでしょう。しかし本当でしょうか?

もし体を調べてみれば、ここから自分が始まった、もしくは、ここが私自身だと言える場所はどこにもないということに気付くでしょう。

体を調べてみれば、それが基本的な構成要素でできているのがわかるでしょう。空気、土、火、水、空間。あなたを取り巻く構成要素と同じように。
もし自分が分離していると思うなら、自分自身を空気と分離してみてください。水をあなたの体から取り除き、どれほど生きられるか見てください。

地面から離れ、空間の外へ出てみてください。体の熱、体温、火を取り除いてみてください。あなたは、それらの構成要素から、自分自身を分離できないことを知るでしょう。

そしてそれらの構成要素は原子よりもさらに小さな粒子、純粋なエネルギーへと分解することができます。
それゆえ、体は知性エネルギーの一様式そのものにすぎません。

私は神という言葉を使いません。それは混乱をもたらすからです。私たちは皆異なるバックグラウンドを持っています。
無神論者もいれば、不可知論者もいる。キリスト教徒、ユダヤ教徒、仏教徒、モスリム、ヒンズー教徒などなど。

神について話せば、あなたは自分の伝統的な信仰と私の話を結び付けて混乱してしまうでしょう。
私は知性エネルギーという言葉を使いますが、私が知性という時、それはあなたの知性のことを言っているのではありません。

自然を見てそれが、様式化され、形作られ、具現化されるのを見なさいと言っているのです。
銀河が形成され、地球や惑星が動き回り、季節が来ては去っていき、潮が満ちては引いていく。

それが意味するのは、自然界全体はもともと知性に満ち溢れているということ、そしてあなたもエネルギーの一様式にほかならないということです。
その知性があなたに呼吸をさせ、髪の毛や爪を成長させ、体の細胞を入れ替え、食べ物を消化させています。それはまったく自然に努力なく起こっていることです。

ではあなたは心(マインド)と呼ばれる物でしょうか?調べてみて、心という物を見つけられるでしょうか? あなたは正確にどこかの位置を示して、これが心だと言うことはできません。
私たちが心と呼ぶものを通して「私はいる」と翻訳される存在の感覚、振動するパターンのエネルギーがあります。

しかし、もしあなたが心なら、あなたは思考なのですか? 心はすべて思考です。そして思考は繊細なバイブレーション、エネルギーの動きです。

「私はいる」という思考がやってくる時、それは私たちが思考と呼ぶものを通して、あなたがいるという繊細な存在の感覚がバイブレーションとなって表れています。

繊細なバイブレーションとしての思考が振動しパターンとなってやってくるのはむしろ自動的です。過去に関しては記憶として、未来に関しては、期待や想像となって現れます。
それは常に反対に向かって振動します。 善と悪、快感と不快、幸福と不幸、愛と憎しみ、肯定と否定。自分の心を見つめ、それ以外のやり方で心が機能するかを見てください。

その原初の思考が「私はある」という思考です。さてあなたはその思考なのですか?「私はいる」という思考はあなたと一緒に一日中いる訳ではないことを理解してください。もしあなたがその思考なら、それを見失ったりしないでしょう。

一日中、たくさんの別の思考がやって来ます。あなたが眠っている時や、麻酔にかけられて無意識の時には「私はいる」という思考はありません。「私はいる」という思考が無い時、あなたは消滅したりバラバラになったりするでしょうか?それとも、知性エネルギー、生そのものが機能し続けているでしょうか?だとすると、どうしてあなたが思考でありえるでしょうか。

思考は言葉でできていますが、言葉はあなたの生得のものではありません。あなたが使ってきた言葉やこの先使いそうな言葉でさえ、すべては学んだものです。

赤ん坊は生まれてきた時、どれだけの言葉を知っているでしょうか。あなたは一体いつから始まったのか。誕生の時からとあなたは言うでしょう。しかし、誰が自分の誕生の瞬間を覚えていますか。
あなたは自分の誕生の瞬間を覚えていないこと、自分では二歳かそこらぐらいという一定の時期までしか遡れないこと、それ以前のことは覚えていないことに気づくでしょう

自分の始まりが出生だと思うのなら、どの時点でそれは始まったのですか。内在する知性が様式化し、形作られ、具現化する。その一つのパターンをあなたは父と呼びます。知性がそのパターンの中にあふれ、精子を作り出すことを可能にします。

その同じエネルギーが母親の中で様式化し、形作られ、具現化され、卵子を作り出します。卵子には知性エネルギーが宿っています。というのも、卵子は自分で子宮内膜に着床するからです。
精子の中にも知性エネルギーが宿っています。なぜなら精子は卵子に泳ぎ着くからです。このことは、精子もまた知性エネルギーに満ち溢れていることを意味します。

そして精子は子宮に入るためにはどうすればいいのかを知っています。卵子と精子は一つになり、その知性エネルギーが細胞を分裂させ、さらに細胞分裂を繰り返し、小さな胎芽、つまりは小さな胎児を形作ります。

あなたが分離した存在だと思うのなら、あなたの胎児の時はどうだったでしょうか。「今日は腕を成長させなくちゃ、肝臓か、たぶん脳かなんかを少し」と言ったのでしょうか。
それとも、それは何の努力もなく自然に起こったのでしょうか。

その段階では分離した個人という考えがないことに気づくでしょう。あなたが生まれ出た瞬間に、「さあ、最初の呼吸をしなくては」とは言いませんでした。
あなたは、生まれつき、どうすればよいのか知っていました。あなたは乳首にしゃぶりつくことを学んだわけではなく、生まれつき、どうすればいいのかを知っていました。

内在する知性は、あなたがあなたと呼ぶパターンを通して働きかけ、あなたを成長させました。そこには、何かをやったあなたという存在がいたわけではなく、内在する知性、生そのものが機能し、すべてを表現しています。顕現はあたかも本物のように見えますが、そこには何もなく、エッセンス(実在)があるにすぎません。

仏陀は空即是色と言いました。仏陀はそれを空と呼び、それでも真空や何もない空間ではないと言います。仏陀はそれを認識する空、知性または知ることそのもので満ちた空、認識そのものと呼びました。

仏陀はまた逆に、色即是空とも言っていますが、その意味は、様式化され形作られ具現化されるすべての物もまた本質は純粋な内在する知性エネルギーだということです。

私たちは見せかけを現実として受け取っているために、実在の本当の姿が見えなくなっています。多くの聖典の中でそれは無知と呼ばれています。それは頭が悪いとか愚かだと言っているのではありません。それは単に本当の姿を無視して、見せかけの姿を見ていると言っているにすぎません。

スピリチュアルな探究を10年、20年、30年と続ける人もいます。彼らは瞑想し、あらゆることを試みますが、自分が間違った場所を探していることに気付かないようです。
あらゆる瞑想、あらゆる探究、何かを達成しようとするあらゆる試みは、必ず失敗に終わります。なぜなら、あなたは、自分がもうそれである何かを達成しようとしているからです。

言っておきますが、あなたはマインドの中には決して答えを見つけられません。なぜならマインドは二元的で、常に変動しているからです。
二元的に揺れ動くマインドは、いつも反対の方向に動くということがわかれば、あなたはどうするでしょうか?

知性はあなたが間違った場所を探していると知らせるでしょう。どこへ行こうがそれがマインドの中だということに気づいてください。マインドから出る方法は一つしかありません。それはフルストップ。マインドにかかわらないこと。

自身にこう問いかけてみてください。「もし今そのことを考えなかったら、何の問題があると言うのか?」

ちょっと思考を止めて、何を話すことができるか、思考無しで何ができるか試してみてください。
その間、自分は消えたりバラバラになったりはしないし、呼吸が止まったり、心臓が止まったりもしないのがわかるでしょう。

機能は引き続き働き続けています。そこでは概念化は止まっています。仏教徒はそれを一つのセンテンスで表します。彼らは、大いなる完成は概念化されない意識だと言います。

思考は一瞬停止したあとに、また別の思考がやってきますが、それにもかかわらず、あなたは一瞥を得ます。

思考が停止したとき、あなたはばらばらになったり、消滅したりはしません。実在としてのあなたは思考以前に存在します。そこには、生そのもの、生のエッセンスがあり、思考が停止している間もそこにあります。そしてそれは次の思考がやってきた時も依然としてそこにあります。

次の思考がそこへやって来て、変化し続けます。しかし思考はその気づきを崩壊させたり、汚したりは決してしないでしょう?

外の自然を見てごらんなさい。自然は、その反対の極へと揺れ動きます。しかし、自然には参照点がない。昼は夜と張り合うことはありません、静寂はざわめきと戦いません、動きは静止と格闘しません。上げ潮は下げ潮とは争いません。

しかし私たちはいつも争っていて、それが恐れ、心配、ストレス、罪悪感、恥辱、後悔、意気消沈などをもたらします。すべての心理的苦悩は関係性が原因ですが、それは私たちが自分だと思い込んでいる参照点に関係しています。

「私」だけが恐れを抱き、「私」だけが心配します。「私」だけが不幸や意気消沈、すなわち自己憐憫を抱く。つまり、「私」がすべての心理的苦悩の原因なのです。その「私」というのは、自分自身に対して自分で抱いてきたイメージであり、そうあるべく努めてきたものです。

心配、恐れや意気消沈はそれが原因です。それがいわゆるカルマと言うもの、因果(原因と結果)です。もし、私が言うその「私」が、実体、つまりはなんら独立したものではなく、全くのフィクションだとわかったら、原因なくして結果がありえるでしょうか。

もしそれが、どこにも結びつく場所がないとしたら、結果はありえないとわかるでしょう。それはただそのままあるだけです。
すべての自分の問題の原因が、自分は分離した一個の存在であると信じていることにあることを、あなたははっきりと認識することができます。

さて私たちは、ここに分離した一個の存在がいるかどうかを調べてみる必要があります。私はくだらない考えの話をしているわけではありません。というのも、そういう心理的な概念や、心理的なたわごとは、ここではもう昔に置き去りにされているからです。

かつて私はそういうことで手いっぱいでしたが、ずいぶん前にそれはなくなり、私が言っていることを理解する人たちが現れました。
玉ねぎの皮むきのように、この感覚やあの感情というふうに働きかける必要はないし、今日はこの情動で明日はまた次などと働きかける必要もありません。

それがしがみつく物が何もないとか、関連付けるものが何もないなどと確かめる必要もない。それはひとりでに自然に消えていきます。

そしてそれは、この自己の中心がフィクションであるということを調べることによってできます。

今みなさんにお尋ねしますが、今みなさんは見ていますか?
そう、みなさんは今この瞬間見ていて、改めて見ることを始める必要はないとわかっています。

今朝起きたときに、あなたは見ることをわざわざ始める必要はありませんでした。見ることは即座に起こり、聞くことも同様でした。

あなたが目覚めた時、聞くことを始める必要はありませんでした。
聞くことは起こっていて、そのままずっと一日中続いています。

もしあなたが眠っている間に誰かが呼びかけたとしても、あなたは依然として聞いています。聞くことをわざわざ始めたわけではないのに一日中ずっと続いています。
それはあたかもあなたの呼吸、心臓の鼓動やその他の生理機能のようなものです。

見ることはあなたの目を通じて起きますが、目はあなたに、「私が見る」とは言いません。それは、それを通して見ることができる器官に過ぎません。
それから、あなたは思考を使って、「私は見る」という思考に変換します。

思考が「私は見る」と変換すると、あなたはその存在が「私」が見る能力を持っていると信じてしまいます。
物事を良いとか悪いとか判断することも、すべてこの架空の存在と関係しています。

そのように、見ることは目を通じて起こり、思考によって、「私は見る」と変換されます。
聞くことは単に耳を通じて起こり、「私は聞く」という思考に変換されます。

しかし、「私は見る」という思考が実際に見ることができますか? 思考が聞くことができますか?

あなたが意識しているという思考が意識なのですか? あなたに思考がやって来る以前にあなたの意識はあります。
あなたが選ぶという思考が実際に選ぶのですか?

私たちが非常に重要だと考えている、この思考でできた存在には、見たり、聞いたり、考えたりする能力はありません。
考えることは自然に起こり、思考によって変換されます。その思考でできた存在はそれらのどれをする能力も持っておらず、実体や独立した性質を持つものではありません。

すべては一つのエッセンス、一つのエネルギー、それと同一の認識する空が、すべての顕現を様式化し、形作り、具現化する。そこには驚くべき知性が宿っていて、あらゆる姿や形となって、常に現れています。

ニサルガダッタは言いました。「自分ではない物のふりをするな、また、本当の自分を拒絶するな」
私たちは、本当はあの純粋なる知性エネルギーだということを認識しないで、見せかけを本当だと信じて、分離した存在として振る舞っています。

エネルギーのパターンが具現化し、パターンがあちこちに現れ、パターンが消えて行くが、本質は変わらないままです。その本質は崇高で遍在、それがあなたです。

さて今ここで話したことをちょっと調べてみましょう。そしてこれは限られた人だけのものではなく、自分自身で本気で調べてみようという人たちのものです。

誰もあなたにこれを与えてはくれない。あなたは自分でこれを調べなければなりません。さあ今、このまま続けて、始めてください。 

Sailor Bob Adamson 

A Sprinkling Of Jewels」Kalyani Lawry & Peter Laery編纂から翻訳転載:著作権者了解済み)

2015/01/24

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑰

今日は、今まで長々と書いてきたセイラー・ボブ・アダムソンの教えを私なりにまとめてみます。
これは私が勝手にまとめることであって、ボブは、これが彼の教えだなんて全く公認していません。

そもそもボブの教えの全体を、短いブログで紹介しようというのは無理です。もともとこのブログは旅ブログなんですから。
しかも、大胆にも今日はその教えを箇条書きにしようと思います。

①自分が自分だと思っている存在は実在しない。

②私たちが目にしている万物は実体のないものである。

③私も含めて、万物はそれ(知性エネルギー、純粋な意識、他には何もない一つのもの)の中に現れている。

④時間は人間の思考の中にだけしか存在しない。

⑤死は存在しない。人は生まれることも死ぬこともない。

⑥私たちは意識(アウエアネス)そのものであり、覚醒する人はどこにもいない。

⑦今この瞬間、すべては完全な状態にあり、マインド(思考)にとらわれなければ、何の問題もない。

⑧五感にまんべんなく注意を向け、今この瞬間を生き、起こるに身を任せる。

***

もし、私たちが、ボブの言うように、自分という存在は実在せず、自己と他者は一つのものであるということが、本当に心から理解できたら、どうなるでしょうか。

関係性にまつわるすべての問題はすべて消え去ります。あなたが私を傷つけた。私が彼を裏切った。私より彼の方が金持ちだ。私はあの人より不幸だ。そういった問題はすべてなくなります。

自己と他者が一つであり、人間も動物も物も実は一つのものだと理解すれば、万物に対して、途方もない慈愛が生まれるのではないでしょうか。

死は存在しないと理解すれば死の恐怖は消えます。たとえ恐怖が消えたとしても、病は人の常、癌にかかって死ぬことだってある。でも、自分が肉体でも思考でもなく、死は単にエネルギーの変化にすぎないと理解していれば、死に対する恐怖が和らぐかもしれません。

すべての問題は、実在ではない私が勝手にしがみついている架空の基準点によるものだと理解すれば、物事に対する見方も変わっていくのではないでしょうか。

私たちは、過去を悔やむ必要もなければ、未来に向けて不要な心配をする必要もなく、ただこの瞬間を起こるがままに任せて生きていけばいいだけです。

私は、この旅に出る時、なぜ自分が世界一周を始めるのかよくわかりませんでした。得体の知れない不安を感じながら、それほど世界が見たいわけでもないという気もしていました。

この旅も私が選択しているように見えても、実は「知性エネルギー」が私を通じて表現しているにすぎず、私はただ生かされているにすぎません。

もし旅に出ていなかったら、もしまだ会社勤めをしていたら、きっとメルボルンに来ることはなかったでしょう。もし仮に来たとしても、短い休暇の旅では、ボブの教えの全体を理解することはなかったと思います。

ある時ギルバートが言いました。ボブの教えをちゃんと理解しているかどうかの基準は、困難や問題が起こった時、その基準点に捕らわれているかどうかでわかると。

私はボブの教えを学びましたが、自分が以前とそれほど変わったとは思っていません。ボブの教えが本物かどうかも、今の時点でははっきりわかりません。

それは私が、この先どう生きるかでわかると思います。
五年後、十年後に、基準点をものともせず、死をも恐れぬようになっているかどうかで、ボブの教えが本物かどうか、ボブの教えを正しく理解しているかどうかがわかると思います。

長い間、私の説明に付き合っていただきありがとうございました。

明日からはいよいよ本人登場で、ボブ自身の講和の翻訳を掲載します。


2015/01/23

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑯


五感を開いて、意識をまんべんなく五感に向けて、この瞬間を生きる。

私たちは、今まで受けた条件付けのせいで、様々なラベル(概念)を貼りつけて物を見ています。

あれが、拓ちゃん、あれがボブ、ギルバート、トビー、ラーム。人の名前もラベル(概念)にすぎません。
椅子、カーペット、時計、すべてにラベル(概念)が貼りついています。

マインド、宇宙、万物、こうした言葉もラベル(概念)です。言葉にした瞬間にラベル(概念)が貼りついて、一つのものではなくなり、概念になってしまいます。

すべては、one essence(ボブの語彙の中から別の表現にしてみましたが、知性エネルギーのことです。アウエアネスも同じ意味です。)が、具現化して、現象(見せかけ)の世界に現れでたもの。

それに私たちが勝手に名前(ラベル・概念)を貼りつけてそう呼んでいるだけです。あなたの見ている世界は記憶というラベル(概念)で成り立っている。
ボブは、そのラベルをすべて取りなさいと言います。

ラベル(概念)を外せば、万物はみな同じ一つのもので、そこには境界はない。
そこには過去も未来もない。その瞬間だけがある。

私たちは、夜夢を見ますが、朝になると、それはどこかへ消えていく。
それと同じように、昼間も夢を見ているにすぎない。ただ違うのは、誰かが、これは夢なんだと叫んでも、誰も覚めることはないということ。私たちは死なない限りこの夢からは出られません。すべては実体のない幻、マヤ。

私たちが見ている現実は、鏡の中に写っている風景と同じ。あたかもそこには何かがあるように見えるが、実際にはない。そして私たちは鏡。

鏡の中では、良いことも悪いことも起きる。
しかし、それを写している鏡(私たちの意識)は、鏡の中に何が写ろうが、影響されない。

鏡は私たちの意識。鏡に映るものは概念(思考)。

ある時誰かが、「ポジティブに考えた方がいいので、そうするようにしている」と言ったらボブは言った。

「鏡の中がポジティブだろうがネガティブだろうが、鏡は影響されません。シェイクスピアは言っています。良いとか悪いとかは、人間が勝手に決めていることで、本当は良いも悪いもないと。マインド(思考)そのものが善悪の間を二元的に動きます。しかし、マインド、思考には何の実態もありません」

私たちは、人生で起こる出来事を、(あれは良かった、これはひどかった)と勝手にラベルを貼り、(こんな良い事が起こってほしい、あんなひどいことは起こってほしくない)と考えます。でも、それはすべて自分で勝手に良いとか悪いというラベルを貼っているだけで、良いも悪いもないのです。

すべては鏡の中に写る出来事にすぎません。言い方を変えると、すべては意識の上を通り過ぎる思考に過ぎません。問題は、その鏡に映る一部分は良くて、一部分は良くないと勝手に判断することです。

思考がどこからくるかを突き止めようとしたり、それを良い思考、悪い思考と選別したりするのは意味のないこと。またそれを止めようなどとしないこと。そこから抜け出す方法は、ただ一つ。Full Stop!(ピリオド)
この瞬間にとどまりなさいと言う。

すべてのラベルを剥がした時に何が起こるか。そこにはあなたを縛り付ける基準点も、過去も未来もなく、あるのは今この一瞬だけがあり、そこには何の問題もない。

ボブは、進行形の(-ing)の中に留まりなさいと言います。「私が~をする」と言った瞬間に、「私」が現れて、行動と私の間に分離が起きます。
五感(seeing, hearing, tasting, touching, smelling)は、私の思考以前に存在します。

試しにちょっと思考を止めてみてください。(タク、タク、タク、タク、Full Stop!)
そうすると、次の思考がやってくるほんのわずかの間、seeing, hearing, tasting, touching, smelling は一人でに自然に機能しています。

思考より以前にあるその瞬間、純粋なる意識、それは普通の日常にある私たちの意識。それがボブのいう知性エネルギー。

ボブは、seeing, hearing, tasting, touching, smelling は、awareness(アウエアネス、意識、知性エネルギー)そのものだと言います。私の目が物を見ていると思っているのは間違いで、awareness(意識)の中に現象として物が現れている。目は単に器官として働いているにすぎず、awareness(意識)が無かったら何も見えない、という言い方をします。

見る人(主体)もおらず、見られる物(客体)も実在せず、seeing(アウエアネス、純粋な気づいている意識、知性エネルギー) だけが起こっているという言い方をします。ボブの言うアウエアネスとは、個人の気づき(意識)のことであり、知性エネルギーのことです。個人のawareness をpersonal awareness、全体のawarenessをuniversal awarenessという言い方をする時もありますが、それは同じものです。
個人の意識などというものはなく、たった一つのものです。

私はボブに、
「でも、seeing(見ること)は、人間の目があるから起こっているのであって、私に属しています。もし、そこに私がいなかったら、つまり、私の目や耳が無かったら、そこにawareness(意識) は、あるのでしょうか?」と聞いた。

「例えば、あなたが眠っている時のことを考えてみてください。あなたは眠っていて、目も眠っている。ところが耳はどうでしょう? もし、誰かが耳元で、あなたに向かって起きるように言えば、あなたは起きる。あなたは眠ってはいるが、耳だけが起きているということではありません。そうではなくて、そこにはアウエアネス(意識)そのものがあります。アウエアネスがあなたを通じて機能しています」

2015/01/22

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑮

あなたが選択したことなど一度もなかった。

私たちは、自分の人生を自分で選択して生きてきたと考えています。どの学校へ行くかを自分で選択し、仕事を自分で選んで職に就き、恋人を自分で選んで恋に落ち、家庭を築いたと考えています。

ところが、ボブの教えでは、そもそもその自分という存在が実在ではないという。じゃあ一体誰が学校を選び、誰が仕事を選んだのか。恋人を選んだのは誰なのか。

誰でもありません。すべては起こるべくして自然に起こったのです。
あなたは、自分があれこれ選択して人生を生きてきたと思っているが、果たしてそうでしょうか。

あなたは自分で性別を選んで生まれてきましたか?あなたは国籍を自分で選択しましたか?肌の色は?身長は?誕生日は?両親は?血液型は?

あなたに自由裁量権はありません。
あなたは自分で仕事を選んだり、パートナーを自分で決めたりしたと思い込んでいますが、そもそもその選択肢をあなたに運んできたのは誰ですか?
自由な選択が許されているなら、もっと別の仕事や、別のパートナーを選んでいたのではありませんか?

多くの出来事を自分で選んでいるかのように見えるかもしれませんが、それはあなたの選択ではありません。

呼吸の一回、鼓動の一回だって、あなたの意志でやったことなどありません。
すべては自然に起こるべくして起こって、すべては完璧で、何の問題もありません。
勝手な基準点を作って困っているのは、そこにいるはずのないあなた自身です。

すべては「知性エネルギー」が自然に表現しているだけのことにすぎません。
私たちは、自分で生きていると思っていますが、実は生かされているにすぎません。

起こるべきことは、あなたが努力しようがしまいが、避けようが避けまいが、起こるべくして起こるのです。
だとしたら、何を心配する必要がありましょうか?

ボブの教えを学ぶと、生き方がシンプルになって、とても楽になります。
後悔する過去はなく、憂うべき未来もない。あるのはこの瞬間だけ。

これは、何かに向けて努力をしなくてもいいとか、場当たり的刹那的に生きろということではありません。
努力や準備が必要な時には、自然とそれが起こるというのです。

ボブは、spontaneouslyに生きろ、と言います。
リーダース英和辞典で、spontaneousを引くと、

自発的な、内発的な、任意の、無意識的な;<文体など>(無理が無く)自然な、のびのびした 2自生の<樹木・果実>;自然にできる、自然発生的な、自発性の

となっています。

spontaneouslyに生きるとは、条件付けや基準点にとらわれないで生きること。これは条件付けだ、これは基準点だと思った瞬間に問題は起こってきます。これは条件付けだとか、これは基準点だと思う必要もなく、あるがままに生きること。

川の流れが止まったら、水は淀んでしまう。常に流れ続けて生きること。
問題の解決は、自然に起こってきます。そもそも問題など何もありはしないのですから。

今日まで長々とボブの教えについて書いてきましたが、ボブの教えが生活の中でどう生かすかが重要だと思います。

私はいない、万物は一つのもの、時間はない、死は存在しない。こういうことがどうしても理解できなくても全然かまわない。
でも、これだけはすべての人に役に立つと思います。

五感を開いて、意識をまんべんなく五感に向けて、この瞬間を生きる。

人は、あまりにも思考にとらわれ過ぎていて、多くのエネルギーを失い、思考はあなたを過去や未来へ振り回し、ありもしない基準点を持ち出して困らせます。
もちろん思考は使い方によっては重要な働きをしますが、問題はそれに囚われてしまって、肝腎な、目の前の今を生きようとはしないことです。

五感(見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触れること)を開いて、そこにまんべんなく意識を注ぎ、今この瞬間を生きること。これこそがボブの教えの神髄のような気がします。

盤珪(ばんけい)について

ボブは講話の中で時々、江戸時代の臨済宗の禅僧、盤珪を引き合いに出します。彼が盤珪の話をする時は、"unborn mind"(不生の心)の中では、物事は完璧で、どこにも問題なんてないじゃないか、なぜそれをマインド(思考)で置き換えてしまうのか、と盤珪は言っているという風に言います。(盤珪の話は、「ただそれだけ」のp.119にも載っています)

unborn mind(生まれていない思考)とはどういう意味かというと、まだ思考がないマインドの状態。思考がなければ、何も問題なんてないじゃないか、と言っているのです。ボブの言葉で言うなら、"What's wrong right now, Unless you think about it"(今そのことを考えなければ、何も問題ないじゃないか)。

思考が無い状態とはどういう状態か。Full Stop! ほんのわずかの時間でも、思考を止めてみるとわかる。そこに思考は無くても、seeing, hearing, smelling, touching, tasting は自然に起こっている。

そこに思考がなければ、見ている人(私、主体)と見られる物(あなた、客体)の区別は無く、ただseeing(見ていること)だけが起こっている。それはたった一つのもの。それが awareness(意識)。私たちの日常の普通の意識。 それが知性エネルギーの現れ。