2016/02/24

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ⑥

アウエアネスについて

アウエアネス(意識)をボブは、space-like awareness(空間のような意識)と表現する時もあります。
それは、万物が現れる場所という意味でそういう表現を使っています。

また別の表現では、「認識する空」「知性エネルギー」と言う言葉を使う時もあります。
では一体それは具体的には何なのかということになるのですが、ボブは、「それはマインド(思考)では理解できない、マインドを超えたもの」と言います。

要するに、考えてもわからないし、正体を突き詰めようとしても無駄だと言っているのです。

私たちは「意識」(アウエアネス)という言葉を簡単に使っていますが、それは一体何ですか?
そこにあるのはわかっている。そこに、昨日のことも、架空の私も小さいころの思い出も美しい景色も悲しい出来事も思考も悩み事も現れる。

でも、それは一体何ですか?

ボブは、「万物は一つのもので、エネルギー現象としてアウエアネスの中に現れる」といったことを、頭で理解しようとしても無駄だと言うのです。

科学的に立証できないし、理論的には説明できない。
だってそうでしょう、そんなことが立証できるなら、NHKがドキュメンタリーにして放送するでしょうし、ピュリッツアー賞だってノーベル賞だってもらえるはずです。

そんな時ボブは、風が木を揺らす例えを使います。
アウエアネスは風のようなもの。風が吹いているかどうかは、遠くで見ていてもわからない。でも、風が木々の枝を揺らすと、ああ、風が吹いているんだなとわかると。

ボブは、風のかわりに様々なポンター(ヒント)を使います。consciousness(意識)、seeing(見ること)、knowing(認識すること)を使う時もあります。

「万物は、consciousness(意識)の中に現れる」
「万物はseeing(見ること)の中に現れる」
「万物はknowing(認識)の中に現れる」

というふうに使います。

説明の都合上、「私」という言葉を使いますが、「世界は私の意識の中に現れる」「世界は私の見ることの中に現れる」「世界は私の認識の中に現れる」という意味です。

ところが、ボブの教えるアドヴァイタの世界では、「私」はいない。つまり、「私の」と思っているのは錯覚で、そこには主体のないawareness、conscious、seeing、knowing があり、そこに世界が現れるという意味です。

awareness、conscious、seeing、knowingはアウエアネスを指すポインター(ヒント)です。

私たちの脳が認識しているのではく、アウエアネスが現れているのです。
私たちの目が見ているのではなく、アウエアネスが現れているのです。

私たちは椅子を見て、それが椅子だということを経験的に学習して、椅子というラベル(概念)を椅子に貼りつけます。月を見て、あれが月というものだと習って、月というラベルを貼ります。同様に、すべての物にラベル(概念)を貼りつけていきます。

二歳ぐらいになると、親が「ジョニーはいい子だね」「ジョニーはかわいいね」と言うのを聞いて、そうか私はジョニーというものなのだと学習し、ジョニーという概念のラベルを貼ります。

そうした概念のラベル貼りを何度もやった結果、あたかも現実としてそれらが存在するかのような強固なものとなり、あなたのまわりの世界を構成します。

そしてその概念の集積があなたの内側で「私」を形成しています。このブログの最初に私の父の話を引き合いに出して、もしすべての記憶をなくしたらどうなるだろうかと書きましたが、もしすべてのラベルをはがしてしまったら、そこにいるのは何者なのでしょうか。

awarenessとは、要するに、私たち人間の意識のことなのですが、ボブの教えでは私はいないのです。

seeing も knowing も同様に、アウエアネスを表すポインターです。
アウエアネスは掴むこともできなければ、認識することも理論的に説明することもできないものです。そのため、人間の意識や五感が、それを垣間見るポインターとなります。

満天の星空を見た時、真紅のバラを見た時、私たちは「私」の目が見ていると思っています。でもそうではなく、目を通してアウエアネスを感知しているのです。

降るような満天の星空を見た時、そのこと自体が奇跡だということに私たちは気づかない。真紅のバラを見た時、それを当たり前のことと受け止めているが、ものすごい奇跡が起きているのだと気づかない。
すべては知性エネルギー、アウエアネスの現われです。