2016/02/25

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ⑦

エンライトメント

アウエアネス(awareness)は、aware(気づいて)いる状態。つまり、目覚めている状態。別の言い方をすれば、覚醒(エンライトメント)している状態。
私たちはアウエアネスそのものであり、エンライトメントしている状態です。(「私」はいないのですが、便宜上「私」という言葉を使います)

ボブの教えを理解しても、エンライトメントは起きません。何か特別な理解も起こりません。
もしそれが起こったというなら、それはトリップであり、トラップ(罠)です。私たちは、気づいていようがいまいが、もともとエンライトメントしている状態にあるのです。

「もともとエンライトメントしている状態」という表現はあまりよくないのかもしれません。そんなものはなく、私たちの平素の普通の意識以外には特別な意識などない、と言った方が正確なのかもしれません。

ボブは「今この部屋でaware(目覚めて)していない者はいるのか? みんな目覚めているでしょう? 今朝目覚めてからずっと目覚めているでしょう? もしこの目覚めている状態の外に出られるものなら出てみてください」と言って笑わせます。

私は、覚醒体験そのものは否定しません。私もボブの本を読んでいて、時間が無くなった感覚が起こり、まわりの物すべてが鮮明に見え、何もかもがクリアーになって恍惚感にひたった一瞬がありました。私は自分がエンライトメントしたのだと思い、友人にメールしたものです。

でもその感覚は翌日には消えてしまいました。そんなことは誰にでも起きる体験にすぎないとボブは言います。ボブの教えは、何かを得ることや、何かが起きることとは全く関係ありませんし、ボブの教えを理解しても何も起きません。

何かが起きることを期待して瞑想したり、修行を続けたりするのなら、ボブの本に出てくる修行者と同じ過ちを犯すことになります。

真理を得るために修行者はグルのもとで12年間修行するように言われます。12年経ってグルに尋ねると、グルは「汝それなり」とだけ言います。

納得できなかった修行者は別のグルを訪ね、そこでも12年間修行するように言われます。12年が経ち、修行者がグルに尋ねるとグルは、「汝それなり」と言います。それを聞いて修行者は自分がもうそれなのだと理解します。

ここで多くの読者は、修行者にエンライトメントもしくは何か特別な理解が起こったのではないかと勝手に解釈してしまいますが、実際は何も起こっていません。普通に、自分はもうそれだったと理解しただけの話です。

私は正直なところ、いわゆるエンライトメント・覚醒があるのかどうかは知りません。
光明を得た、覚醒したというグルやマスターが嘘をついているとは思いません。でも、それは単に体験として一時的に起こったことであり、恍惚感が永続するような状態はないのではないかと思っています。

また、そういう経験が、「私は実在しない」「万物は一つのもの」ということを理解する契機にはなっているかもしれません。
でも、セイラーボブが教えているのは、そうした体験とは関係のないことです。

セイラーボブが教えているのは、そうした体験が現れる背景に、いつも変わらずにある何かです。

20年以上もあちこちをフラフラさまよい、気休め程度にしかならないあれこれの瞑想や方法を繰り返した私が偉そうなことは言えないのですが、永続するエンライトメントは無いように思えてなりません。

何十年も瞑想して、ごく稀な人にしか起きないエンライトメントを求めて瞑想を続けることに何の意味があるのでしょうか。本当にそんな状態があると思いますか。

私は、本当に自分が実在なのかを自分で調べて、アウエアネスの顕現とも言えるこの世界こそが奇跡なのだということを理解し、そこにはただ一つ、アウエアネス(意識)があるだけだということを理解することの方が大切に思えてなりません。

もし、私もあなたも実在ではなく、同じ一つのものの現れにすぎないということを理解したら何が起きるでしょうか。
路上の売春婦も乞食も、ロックスターも大統領も、実は同じ一つのものの現れなのだと知ったなら、人々に対する途方もない慈愛が生まれ、争いは地上から消えると思いませんか。

思考や概念が実態のないもので、消えていくものだと知ったなら、恨んでいる私も、恨む相手も実在ではないと知ったなら、人を恨んだり、憎しみを抱いたりすることすらばかばかしくなるのではありませんか。

過ちや後悔も、実際はアウエアネスの中で起こった概念にすぎないと知れば、とてつもない癒しが起きると思いませんか。

ボブの教えは、何十年も瞑想して、ごくまれな選ばれた人しか手に入れることができない何かではありません。言葉が理解できて、自分で調べる勇気のある人なら誰でも理解できる教えです。

ただ、教えを知的に理解できたとしても、自分は実在しない、万物は一つのもの、といったことが、当たり前の現実として絶対的な確信が持てるのはそう簡単ではないように思います。
私の場合はかなりの時間がかかりました。