2016/02/26

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2016 ⑧

もう少し具体的に

「私はいない」
「万物は一つのもの」
「時間は存在しない」

「何も起こっていない」
「死は存在しない」

こういった言い回しを、そのまま直接使ってしまうと、誤解が生じやすくなる。前回訪問時のブログで私は、こういった直接的な表現を不用意に多用してしまい、わかりづらくしてしまったかもしれないと反省しています。

ボブの定義では、実在(reality)とは永遠不変のもの。顕現(appearance)とは、見せかけのもので、変化していくもの。

私たちが目にしている世界は顕現であり、永遠不変ではない二元性の世界。その世界には、物質としての私の肉体もあなたの肉体も存在するし、山も海も椅子も壁も存在する。それは当たり前のこと。

これらのものは、永遠不変ではない。肉体は死ぬし、「私」という思考も死ぬ。山も海も椅子も壁もやがては姿を変えていく。それらの物は実在ではない。実在ではないから「私はいない」「何も起こっていない」という言い回しになる。

私たちが見ている世界は二元性の世界です。私とあなた、昼と夜、見る人と見られる物。それはそのように現れるしかありません。それが無いと言っているわけではなく、それは実在(reality)ではなく、顕現(appearance 見せかけ)だと言っているのです。

「万物は一つ」という言い回しは、実在のレベルの話であり、見せかけの世界の話ではありません。顕現(見せかけ)の世界では万物は一つではなく、バラバラに存在する。あなたもいるし、私もいる。

そのバラバラに見える物たちも、顕現として現れているもととなる実在としては分離のない一つのものだと言っているだけのことです。

「時間は存在しない」という言い回しも、もっと正確に言うなら、「時間という概念は、思考の中にしか存在しない」という意味であり、昨日の出来事が全部なかったという意味ではない。

ところが、「昨日の出来事」も、もっと深いレベルで使われた場合は、「何も起きていなかった」という言い回しになる。私たちは、現象の世界で起こっていることに、さまざまなラベルを貼る。そこに実在としてあるのはエネルギー現象だけ。それにラベルを貼っているにすぎない。

「死は存在しない」という言い回しも、顕現として現れた肉体は当然死ぬし、「私」という思考も死ぬ。それは当たり前。ボブが「死は存在しない」と言っているのは、肉体でも思考でもない実在としての「私」のことを言っている。

実在という点から見れば、そこにあるのはすべて単なるエネルギー現象であり、それをわれわれの思考が勝手に、「私」が「あなた」を「傷つけた」とか、「イラク」で「戦闘」が「起こった」というふうにラベル(概念)を貼っているだけのこと。実在の点から見ればそれは単なるエネルギー現象であり、「何も起こっていない」ということになる。

もちろん、物理的に、私の肉体は存在するし、あなたの肉体も存在する。それらは一つではないし、別々に存在する。当たり前の話ですが、それがないと言っているわけではない。
イラクで戦闘は起こっていて、それが起こってないとは言っていない。

ただそれらは、人間が勝手に貼りつけた概念で解釈しているだけのこと。実在(reality)という点から見れば、それは単なるエネルギー現象で、何も存在せず、何も起こっていない。

ボブの定義では、実在とは永遠不変のもの。そういう意味において、肉体も物質も実在ではない。人も物もすべての物もやがては、姿を変え、変化してゆく。
肉体は死に、山もビルもやがては姿を変えていく。

私たちの本質は肉体ではない。だから「死などない」という言い回しになるが、肉体は死ぬ。

ボブは言う。
「あなたは永遠不変の実在です。生まれてから、変化していないものは何ですか。あなたの生まれた時の細胞は変化し、すべて生まれ変わりました。それはあなたではありません。思考はどうか。すべての思考はやってきては去っていく。それはあなたではありません」

では、生まれてから今まで変化せずにあるものとは何か。その変化しないものこそがあなただという。生まれてこのかた、ずっと変わらずにあるものとは何か。

それは、あなたの意識(awareness, consciousness)、見ること(seeing)、聞くこと(hearing)、認識すること(knowing)。

あなたが見た景色、思考、音などは、絶えず変化してどこかへ行った。しかし、あなたの意識(awareness, consciousness)、見ること(seeing)、聞くこと(hearing)、認識すること(knowing)は今も変わらずにある。

あなたの意識(awareness, consciousness)、見ること(seeing)、聞くこと(hearing)、認識すること(knowing)は、アウエアネスを表すポンター(ヒント)。それは個人のものではなく、普遍的アウエアネスの一部。

あなたの子供ころから、世界を認識してきた意識(アウエアネス)だけが変化せず、今もこの瞬間もここにある。それが本当のあなたであり、その内容物として現れる現象はあなたではない。

ボブは、私たちはアウエアネス(意識)そのものだと言う。それを「知性エネルギー」と言う時もあれば「認識する空」と言う時もある。思考や物質がエネルギー現象となって現れるスペースだという時もあるし、惑星を動かしたり、鼓動や呼吸をつかさどったりするエネルギーだという時もある。

どの表現も別の側面を表しているにすぎず同じもの。そしてそれは他に何もない一つのものであり、万物は一つのものだと言っている。ボブは使いませんが、神という言葉がわかりやすければそれでもいい。

ボブが、万物は一つのものということを説明する時は、クオーク(微粒子)の説明をする時があると前回のブログで書きました。

物質は実はスカスカの空間で、その空間を見て勝手にラベル(概念)を貼りつけているだけだという説明で納得できる人はそれでいいと思います。

最近よく耳にするニュートリノもクオークの一つなのだそうですが、そのクオークが飛び交う空間を見て、概念のラベルを貼りつけているのは我々の意識(consciousness)だという説明で納得できる人はそれでいい。ボブのところへ来る人の多くはこの説明で納得しています。

アウエアネスは一つのもの。万物はその中に現れるものという意味で、一つのもの。

またボブは、このことを説明するのに鏡の例えをよく使う。鏡がアウエアネスであり、あなたの意識。鏡に反射して映る世界が万物。反射はいろいろなものを映し出す。あなた、私、椅子、花瓶。ありとあらゆるものを映し出すが、鏡の中の反射という意味では一つのもの。アウエアネス(鏡)無くして反射(万物)は存在しえない。

鏡の中に映った「私」は、自分は個人的な存在で、そこから世界を認識していると思っている。でも、「私」も「あなた」も鏡に映った全体の一部。あなたが世界を認識しているのではなく、鏡という全体の一部にすぎない。

またボブは、海の例えを使う時もある。海がアウエアネスで、そこに起こった小さな波が「あなた」や「私」。「あなた」や「私」は海という一つの存在(アウエアネス)から分離した個人だと考えているが、実は海(アウエアネス)。全体の一部で同じものだということに気づかない。

ボブがどんな説明をしようと、それはポインター(ヒント)にすぎない。なぜならそれはマインドでは理解できないものだから。「アウエアネス」という言葉も「知性エネルギー」という言葉も「それ」そのものではない。それはマインドでは理解できないもの。

マインドで理解できないなら、まやかしではないかと言う前に自分で調べてみてください。
ボブは、「基本は自分がいるかいないかを自分で調べることだ」と言っています。

ニサルガダッタ・マハラジはI am.「私はいる」という言葉から、自分の実在(本質)に気づくのに三年を要した。ところが、ボブのガイダンスに従えばそれほど時間はかからない。「私はいない」という答えがわかっているのだから、答案用紙に答えが書いてあるようなもの。あとは答えから解いていけば済む。

「私」が実在でないとわかれば、同様に「あなた」も実在ではないとわかるし、すべての生物も実在ではないとわかる。物はどうだろうか。変化していく物も実在でないとわかれば、永遠不変の実在とは何なのだろうとなって、そこにあるのはアウエアネス(意識)だろうとたどり着く。

もう一度書きます。アウエアネスとは意識。私たちの意識。空間のようなもので、そこに万物がエネルギー現象として現れる。そのアウエアネスが私たちの本質。それは他に何もない一つのもの。

初日に、記憶を無くした父の話を書きました。もし、すべての記憶を失い、言葉も忘れ、さらに、自分の手足が動くことや、自分が体の中に閉じ込められた存在だという感覚も忘れたらどうなるでしょうか。そうした感覚も、後天的に学習した感覚でしかありません。

そこにあるのは、意識(アウエアネス)です。その意識の中に世界が現れ、同じものが星を動かし、心臓を脈動させ、木々の緑となって輝きます。

ボブはそれを知性エネルギーと呼びます。それは生まれることも死ぬこともない永遠不変の実在。それがあなたです。