万物は一つであり、すべてはアウエアネス(意識)の中に現れる。
アウエアネスを英和辞書で引くと、「意識・気づき」とあります。ボブの使うアウエアネスという言葉の意味は私たちの意識のことです。
個人的には、ボブの使う"awareness"という言葉に「気づき」という訳語をあてるのは良くないと思います。「気づき」とすると、そこに誰か気づく人がいるような印象を与えてしまいます。
「私たちの意識」という言い方も正確ではないのかもしれません。というのも、ボブの教えでは私という存在はいない。
正確な言い方をすると、「意識する私(人)のいない意識」です。
通常、人が何かを意識したり気づいたりする場合、まず私(主体)がいて、対象物(相手や物)があって、私が意識する行為があります。
でも、ボブの言うアウエアネスには、行為だけがあり、主体である私も、対象である物も相手もない状態、純粋な意識だけがある状態のことです。
ボブの教えは、まず最初に、「私はいない」ということを、自分で調べて気づくところから始まります。私はいないということが理解できれば、おのずとそこにあるアウエアネス(意識)は、主体も客体もないものになります。
私たちは、この意識を個人の意識だと思っていますが、個人の意識というものは存在しません。宇宙の果てまで、あまねく、たった一つの意識(アウエアネス)があるだけです。
それがボブの言うたった一つのもの。「ただそれだけ」。
私たちは、この意識の中に体を持って現れる。人間には五感があり、思考があり、意識があります。
そうすると、私たちはその五感、思考、意識が自分のものだと錯覚します。
でもそうではなく、私たちが、そのたった一つのものの中にいて、その一つのものを、五感、思考を通じて感じているだけに過ぎません。
ボブは「アウエアネス(意識)は他には何もない一つのもので、万物はそのアウエアネスの中に現れる」と言います。
前回の訪問の時私は、(万物は私の意識の中に現れるのだ)と解釈していました。それで、「エリザベス通りのビルは私が眠ると消滅するのか?」「エルザベス通りのビルは私が死んだら消えるのか?」とバカみたいな質問を繰り返ししたものです。
私がいなければ、世界は消えるというのは、ある意味では真実です。
私の目と脳が、そこにあるバイブレーションなりエネルギーなりを形あるものとして解釈しているので、そこに私がいなければ、そこにあるのは単なるバイブレーションなりエネルギーなりにすぎません。
ボブは説明の便宜上、万物が現れる舞台であるアウエアネス(意識)のことをuniversal awareness(普遍的アウエアネス)と言い、個人が感じるアウエアネスのことをindividual awareness(個的アウエアネス)と表現する時があります。
でもそれは別々のものではなく、一つのものです。基本的には個人のアウエアネス(意識)というものは存在しません。
あるのはアウエアネス(普遍的な意識)だけです。それは他に何もない一つのもので、世界はそこにエネルギー現象として現れます。宇宙も銀河も星も。あなたも私も、動物もばい菌も、すべてはそのアウエアネス(意識)の中に現れます。
アウエアネスの中にポツンと私が現れます。私は全体の一部、全体と一つだということを知りません。そのため、個人として感じる(意識)を、自分の意識だと錯覚します。
個人の意識(アウエアネス)というのは錯覚です。そもそも私という個人は存在しません。例えて言うなら、宇宙の隅々まで広がるアウエアネス(意識)を人間の感覚器官を通して、ほんの少しだけ感知しているようなものです。
私のアウエアネス(意識)で世界を感知していると錯覚しているのですが、そうではなく、普遍的なアウエアネス(意識)の一部を個人の感覚器官で認識しているにすぎません。
ボブに「アウエアネスとは何ですか」と質問すると、「あなたは外のトラムの音に気付いて(aware)いないのか?それがアウエアネスだ」と答えます。
当時私は、この禅問答のようなやり取りの意味がわからず、何度も同じ質問を繰り返したものです。私という個人の感覚器官である耳がアウエアネスの現れとしての音を感知しているだけのことです。
ボブによれば、アウエアネス(意識)はマインド(思考)では理解できないと言います。そのため、アウエアネス(意識)をうかがい知るポインター(ヒント)として、見ること(seeing)、聞くこと(hearing)など、人間の感覚器官で感知できるものを使います。アウエアネスとは、そういったポインターを通してしか、うかがい知ることができないものなのです。
だからこそ、アウエアネス・awarenessという言葉で、他には何もないただ一つのものを表現しているのです。