2022/04/02

達磨(だるま)③

前回のつづき

根源としての本質は心であり、心は仏陀である。仏陀は道であり、道は仏陀である。しかし、驚くほど目覚めている知性を意味する仏陀という言葉は、普通の人にも聖人にも容易には理解できない。それゆえ、もし仏陀を見たいと思うなら、自らの根源的な本質を知らなければならないと言われているのだ。

あなたは高座に座して、一日中何千という経典や注釈書の解説をすることはできるが、自らの根源としての本質に通じていなければ、それは単なる無意味なおしゃべりとなる。道は深淵で神秘的であるが、言葉を通じてそれを理解することはできない。どれだけ読んでも、どんな説明も助けとはならない。

あなたがそれを十二支縁起のどこかで見つけることはない。あなたはそれを自ら経験しなくてはならない。あなたは、自分で飲んで初めて水がどんな味かを知る。それを人に伝えることはできない。

しかし人々は自身のまわりで朝から晩まで起きることに心を奪われているため、見せかけにだまされて取りつかれてしまう。彼らは自身の心がもともと完全なものであり、分割できないものであるということを理解しない。もしあなたがすべてのものごとは心から現れ、つかの間のものだということを理解すれば、初めからこうしたことに執着することはない。

あなたが執着したとたんにそれは起こる。あなたはもう正しくものごとを見ることができない。数千の経典はこのことを説明しているにすぎない。でももしあなたが、このことを理解して自らの本質に気づいた瞬間、そうした古びた書は必要ではなくなる。

道には形はなく、言葉もない。観念を生み出すのは言葉である。しかしそれは単なるあなたの思考にすぎない。それは夢と何の違いもない。夜、あなたは夢の中ですばらしい家、場所、森、庭、湖といって美しい景色を見るだろう。

あなたが夢から覚めると、そのすべてはどこへ行ってしまうのか。そうしたものにとらわれてはならない。自分自身を自らの想像や考えというわなに落としてはいけない。もしあなたがこのことを理解しなければ、あなたは永久に振り回されてしまうだろう。自由で束縛されたくないのであれば、ものごとに執着してはならない。

私以前の27代にわたるインドからの先達たちが伝えてきたことはたった一つであり、それがこの心のことである。私がここ中国に来た唯一の目的は、心が仏陀であると指摘するためである。

金言、苦行、禁欲、熱い炭の上を歩く力、水の上を歩くこと、剣を飲み込むこと、一日に一食、立って眠ること。こうしたことに私は興味がない。こうしたことに励んでいる人たちは誤解している。もしあなたがこうしたことのいずれかが有意義なことだと思っているのなら完全に間違っている。

道は何かをあれこれすることとは何の関係もない。あなたの心はすでに仏陀の心である。あなたのすべきことは、常にこの心に気づいていることだけだ。過去、現在、未来の仏陀たちはたった一つことを教えていて、それはあなた自身の心のことを直接指し示している。

あなたは非常によく学んでいて、一日中人に十二支縁起を説いているかもしれないが、もしあなたが自身の心について目覚めていないのなら、そうしたことはすべて無益なことだ。一方、あなたが読み書きできなかったとしても、この心に気づいているのなら、あなたは最終的に完全な自由を達成できるだろう。

仏陀とは目覚めた知性に与えられた名称である。この心には形がなく、原因がなく、筋も骨もない。それはちょうど空の空間のようなもの。あなたはそれをつかむことはできない。そしてまた、心は肉体と切り離すことはできない。この心無しでは肉体は機能しない。

心無しでは肉体は生気がなく、感じることができない。体は何も感じない。体は何もすることができない。心のおかげであなたは、見て聞いて歩いて話して考え、行動することができる。こうしたことは心が持つ生きた知性としての機能である。

つまり、この機能は心が動かしているということができる。動くことや機能することなしに心はありえない。そして、心なしに動きはありえない。それでも、動いているのは心ではない。というのも、知性は動かないからだ。知性としての心自体に動きはない。

同時に機能としての動きは心と切り離すことはできない。心は行動と切り離されてはいない。それゆえ経典の中では、心は動くことなしに動くと言われている。毎日毎日それはやってきては去っていくが、それはどこへも行きはしない。毎日それは物事を見て聞くが、それでも何かが見えることも聞こえることもない。

同様に、毎日それは笑い、泣き、喜び、悲しむが、こうしたことはどこにも見つからない。それゆえ経典ではこう言われている。
言葉や描写でそれを説明することはできない。
思考や分析でもそれに到達することはできない。

*************

「心の外に仏陀なし」は達磨の作だと言われていますが、おそらくそうではなく、後代の人の創作であるという人もいます。

心が仏陀である、と最初に読んだ時、いったいそれはどういう意味だろうと考えこんでしまいました。心というと、「思考」と考えがちですが、そうではなく、思考の背後にある「意識」をとらえて心と言っているように思います。心を、アウエアネス(意識)と読み替えてみてください。

いくつか別のバージョンが伝わっているので、次回別のバージョンを掲載したいと思います。

2022/03/30

春琴抄・日本語の作文技術・実戦 日本語の作文技術・中学生からの作文技術・天平の甍・風の果て・あい永遠にあり・容疑者Xの献身

春琴抄 谷崎潤一郎
谷崎潤一郎の「文章読本」を読んだので、どんな文章を書くのか興味が湧いて読んでみた。まず文章について書くと、この小説は句読点を極端に省略した文体で書かれている。通常、文章と文章の間にある「。」が省略してある箇所がたくさんあって、最初のうち、とても読みにくかった。おそらく意図してそうしたものと思われる。

物語に関して言えば、大筋はなんとなく知ってはいたが、全然おもしろくなかった。なぜこれが名作なのか全くわからず。

日本語の作文技術  本多勝一
この本を買うのは三回目です。過去二回はずっと昔に断捨離。また読みたくなって買いました。吉川英治の「新平家物語」のブツ切りの文章を読んで、自分も最近同じ傾向があるのではと思い、もう一度この本を読み直そうと思いました。
句読点の打ち方や、長い修飾語の語順をどうすると読みやすい文章が書けるかについて書かれています。いくつかの原則を守るだけで、かなり読みやすい文章を書けるようになります。

なかテン「・」の打ち方について考えさせられました。私が文章を書く場合、「クジラ、ウマ、サル、アザラシなどは」というようにテン「、」を使いますが、本多さんは、なかテン「・」を使うべきだと言っています。なるほどなぁという理由が書いてあるのですが、市販の本では「、」を使った書き方が多い。

また、例えば「セイラー・ボブ」という表記も「セイラー=ボブ」としているそうです。その理由は納得できるものですが、一般的には「セイラー・ボブ」が多い。

今回特に参考になったのは、漢字とひらがな、送り仮名の使い方。漢字とひらがなについては、文章が読みやすくなるように、その場その場で漢字にするかひらがなにするのか決めているということが参考になった。また、送り仮名についても、送るかどうかは、読みやすくなるように、文章によって決めるということ。

また、私はこのブログに翻訳文も書いていますが、翻訳調になってしまうことがあります。なぜ翻訳調になるのかも書いてみえます。この本に書いてあるいくつかの原則を守るだけで、翻訳調を防ぐことができます。文章を書く技術の本としては、今のところこの本がベスト。もう断捨離はしません。

実戦・日本語の作文技術 本多勝一
この本では、句と節の定義が「日本語の作文の技術」と違い、読んでいて少し混乱するところがあります。「日本語の作文の技術」では、『節を先に、句を後に』となっていた箇所が、この本では『句を先に』となっています。「日本語の作文の技術」も『句を先に』に直すべきだと思います。

前半は「日本語の作文技術」の内容の延長ですが、後半は『日本語をめぐる「国語」的状況』となっています。そこでは本多さんがいつも主張されている言語帝国主義、植民地用語としての英語について書いてあります。

長年英語を学び、そして今でも学んでいる身としては考えさせらることがたくさんありました。なぜ英語だけが世界の共通言語であるかのようにまかり通っているのかという疑問。それは言葉による支配、西洋文化を自分たちの文化よりも優れた文化として妄信している卑屈さの表れではないかということを改めて考えさせらました。

その昔私は本多さんの大ファンで、かたっぱしから読んでいた時期があったのですが、途中からちょっとついていけないと思うようになって読まなくなりました。これを読んで、また読んでみようかと思うようになりました。

中学生からの作文技術 本多勝一
内容は「日本語の作文技術」の文章の一部をそのまま転載して中学生向けに編集したもの。基本的にはこれだけ読めばいいような気もします。
本多さんの三冊を読んで、あらためて自分の文章を読みかえしたみたが、本多さんの文章技術をそれほどはずしてはいないと思いました。そりゃあ過去に何回も読んでいるからそうなんですけど、詳しく見ると、不要な句読点を打っていたり、誤解釈されそうな箇所もある。これを機に気を付けていきたい。

天平の甍 井上靖
遣唐使として唐へ渡った僧・普照(ふしょう)が、二十年の歳月をかけて鑑真を日本に連れてくる話。おもしろかった。奈良時代の日本の仏教がどんな状態だったのか、当時の唐の様子や遣唐使たちの生活はどうだったのかがよくわかる。また、どれほど多くの報われない遣唐使がいたのか、どれほど多くの人が仏教を日本に伝えるために努力したのかがわかる。

風の果て(上) 藤沢周平
風の果て(下) 藤沢周平
とてもおもしろかった。ともに青春を過ごした仲間たちがどのような道をたどっていくのか。蝉しぐれよりもこっちのほうが良かった。

あい 永遠に在り 高田郁
実在の人物・関寛斎の妻・あいの物語。まったくすばらしい。こんなふうに一途に生きられたなぁ。

容疑者Xの献身 東野圭吾
う~ん。イマイチ。

2022/03/26

達磨(だるま)②

心の外に仏陀なし

心は仏陀であり、仏陀は心である。心の外には仏陀はいない。そして、仏陀の外に心はない。過去の仏陀、現在の仏陀、未来の仏陀たちは、この同じ心のことを指している。

しかし、混乱した人々はこのことを理解しない。彼らは他を探し続ける。始まりのないほど遠い過去から、終わりのない未来まで、あなたがどこへ行こうと、何にかかわろうと、この心から離れることはできない。それゆえ、心は仏陀であると言われている。仏陀とは、それを理解している人のことである。凡庸な人とは、それを理解しない人のことである。

心はすでに光を放ち、静かに輝いている。それを完全なものにする必要はない。心の外で仏陀となるために何か達成すべきことがあると想像するのは重大な誤りである。その仏陀がどこで見つかるというのか。それがどこからやってくるというのか。

それを例えるために空(くう)の空間を考えてほしい。どうやってあなたは空の空間をつかむことができるだろうか。空の空間というのは名前にすぎない。実際それには形、大きさ、サイズがない。それを見ることはできない。あなたはそれをつかみあげて落とすことはできない。

同様に、想像上の仏陀をさがすということは、空の空間をつかもうとするのと同じである。それはできない。あなたが想像する仏陀は、あなたの心の投影にすぎないというのに、どうやってそれを見つけようというのか。あなた自身の心の外には、見つけるものは何もない。不幸なことに、自身のもともとの心を理解しない人たちは、あれこれと考え、自らの間違った考えにしがみつく。そのやり方では決して解放されることはない。

もし私の言うことを信じなければ、あなたはもっと深い穴に落ちることになる。私の言うことに耳を傾け、あなた自身の心がすでに仏陀であるということを理解しなさい。もし私の言うことに従うなら、あなたが心の外をさがすことはない。仏陀は仏陀によって解放されず、仏陀を心で見ることはできない。

あなたはもうすでに仏陀なのだから、仏陀像を崇拝してはいけない。イメージ上の仏陀に対して祈るような行為にかかわってはいけない。仏陀自身は経典で学ぶこともなければ、教えを守ることもない。仏陀は立派な行為には興味がない。仏陀が善意の原因となることはない。

もしあなたが本当に仏陀を知りたいのなら、一つだけ方法がある。あなたは自身の本質を知らなければならない。私は率直に言っている。もしあなたが自身の本質を知らなければ、仏陀の名を唱え、神聖な経典を読み、礼拝をして誓いを守るというすべての宗教的な行為は全く価値のないものとなる。自身を解放するということに関しては、何の足しにもならない。

仏陀の名を唱えることは将来あなたが何らかの幸福を手にいれるために役立つかもしれない。経典を読めば、知識を増やすのに役立つかもしれない。誰かを助けることはあなたに幸運をもたらすかもしれない。しかし、こうした行為のどれも、あなた自身の本質を理解する助けにはならない。たとえもし万巻の経典すべてを読んだしても、あなたは生と死の海を泳いで自身のカルマを作り続けるだろう。あなたがそうしたことから自由になることはない。

自身の本質を理解しない者は、仏陀に関して無意味なたわ言を言うにすぎない。それゆえ、もし彼らが十二縁起のすべての章を暗唱していて説明することができたとしても、それはたわ言にすぎない。もしそうした人々があなたに、いわゆる宗教的な行いや、あれやこれやを行うことによって何か達成すべきことがあると言うのなら、それは日常的な行いに関する伝統的な教えにすぎない。それは誕生と死の領域の中にあるもの。それはあなたの本質とは何の関係もない。

私の言うことをしっかりと聞きなさい。仏陀とは、主張したり拒絶したりすることとは関係ない。どのような考えや信条に執着していようと、それはあなたが道を達成することをさまたげる。もしあなたが物事に対して自身の考えに執着するなら、そこには仏陀のための余地はない。

自己の本質とは、本質的に空である。そこには純、不純はない。遵守すべきことは何もない。何かを完全にする必要もない。何かを達成する必要もない。仏陀とは、良いことや悪いことをすることとは関係ない。仏陀とは、あれやこれやをすることとは関係ない。仏陀とはまさしく何もしない者である。

あなたが、自分であれやこれやをしなくてはいけないとか、あれやこれやの観念を身につけるやいなや、もはや仏陀の余地は残されていない。あなたの心に仏陀という観念が浮かんだ時点で、それはもう仏陀ではない。それゆえ、仏陀について考えてはならない。観念化してはならない。

そしてまた、無為の意味を誤解している人たちがいる。そうした人たちは、無為とは休止して何もしないことだと思っている。なんという見当ちがいだろう。同様に、それは心を常に空の状態に保つことだと考えている人もいる。それも間違いである。こうした人たちは何もわかっていない。

そしてまた、すべてはもともと初めから空なのだから、自分の思い通りにふるまい、たとえそれが人を傷つけたとしても、自分のやりたいことをやるという人たちもいる。こうした人たちは愚かな酔っ払いのようなものだ。その結果は悪いカルマを積むことだけだ。私が言いたいのは、もしあなたが本当に無為を理解したいのなら、あなた自身の本質を理解することだ。

さて、この心は初めから今ある心と何の違いもない。それは生まれたこともなければ死ぬこともない。それは現れることもなければ消えることもない。増えることもなければ減ることもない。正しかったこともなければ間違っていたこともない。男性であったことも女性であったこともない。若かったことも老いていたこともない。

聖人であったことも普通の人であったこともない。それは原因と結果を超越している。それには形がない。それは空の空間のようなもの。それをつかむことも離すこともできない。心では理解できない。

私が心について話すと、人々はそれを見たがる。「わかりました。ではそれはどこにありますか。もしそれがあるなら見せてください」。彼らは心のただ中にいる。それは朝から晩まであなたの手足を動かし、あれゆる奇跡的な事をやっている。

心は計り知れないほど神秘的で、その機能には制限がない。もしあなたがそれを自身の目で見ようとさがしているなら、決してそれを見ることはない。それは見えるようなものではない。あなたがそのただ中にいても、それを見ることはできない。それゆえ経典では、如来だけがそれを完全に理解できると言っている。

もし仏陀に突然出くわしたとしても、少しも気にとめてはいけない。私は仏陀だったと興奮してはいけない。そうではない。それが何か特別なことだと思ってはいけない。それは単なる幻覚にすぎない。あなたの心がトリックを演じているにすぎない。特別な見せかけや現象が現れても、構わないでおきなさい。私は万一に備えて言っている。

人々は簡単にこうしたことに巻き込まれて、まったくあべこべに理解する。私が話をしている心には姿形がないということを理解しなさい。仏陀には形はない。仏陀にはどんな姿もない。本質には次元も時間もない。

霊や神を礼拝して助けを請うのをやめなさい。それをすれば、自らトラブルを招くことになる。それをやめなさい。形に執着してはならない。それゆえ経典の中では、形あるものはすべて一時的なものであり、究極的には幻影であると言っている。仏陀にはどんな性質も外観もない。

もっとはっきり言えば、仏陀は驚くほど目覚め、気づいている。それが機能として働いている。時々目をまばたきさせ、眉を上げさせる。腕を動かし、足を動かす。こうしたことはすべて、驚くほど目覚めた知性の働きである。

次回へつづく

2022/03/23

自分らしく生きる・覚えておきたい極めつけの名句1000・反応しない練習・苦しまない練習・考えない練習・敦煌・よろずや平四郎活人剣 (下)・夜消える・暗殺の年輪

 自分らしく生きる 中野孝次
エッセイ集。
君はいま、本当に心の充足を感じながら生きているか? 道具や機械、組織や制度に支配されず、本当に自律的な人生を生きているか?あり余るほどの“モノ”に囲まれ、情報や娯楽が氾濫する日常生活。過剰な生産=消費のサイクルの中で、自分らしさを失わずに生きるには、人はいったい何を必要とし、何を必要としないのか。現代を真摯に見つめてきた著者が、迷える若い世代に呼びかける熱い魂のメッセージ。」本の表紙より
 筆者のメッセージは「常に自分の信じるところによって生きよ」ということ。人は世間の価値観や条件付けの中で生きている。それがいかに意味のないことかを問うている。

覚えておきたい極めつけの名句1000
音読用に購入。俳句というのは本当にどうでもいいようなささいなことを詠んで、それでいて「う~ん」とうならせてしまう。
これを音読して名句に親しむつもり。

反応しない練習 草薙龍瞬
苦しまない練習 小池龍之介
考えない練習  小池龍之介
三冊ともタイトルが気になって読んでみました。同じような内容なので一括して感想を書いておきます。
参考になるところはあったのですが、違和感が残りました。何が違和感なのかというと、「練習」ということ。
この本三冊に共通しているのは、反応しないこと、苦しまないこと、考えないことに対して、どういう風に対処したらいいのかということが書いてある。でも、何も根本的な解決になっていない。
セイラー・ボブの教えのように、「『私』は実在しない!以上終わり」とバッサリやった方がすっきりします。それは「練習」ではなくて「理解」なのだと思います。
いちいちの問題に、ああしましょう、こうしましょうとやっていると、玉ねぎの皮向きと同じで永久に終わらない。
二人とも僧侶なので、「無」や釈尊の教えからバッサリとやる方法が書いてあるのかと思ったけど、それはなかった。

敦煌 井上靖
仏教のことをブログに書くために仏教関係の本を読んだ時、何度も何度も出てきた敦煌文書。どのように発見され、その多くがどうやって国外に持ち出されたかは仏教関係の本で知った。その敦煌がテーマになっている小説なので読んでみた。
まったくすばらしい。あっという間に読んでしまった。
物語は主人公の意図とはまったく関係なく、予想もしない方向へと展開していく。わくわくして読んだ
以下本の扉より
「官吏任用試験に失敗した趙行徳は、開封の町で、全裸の西夏の女が売りに出されているのを救ってやった。その時彼女は趙に一枚の小さな布切れを与えたが、そこに記された異様な形の文字は彼の運命を変えることになる……。
西夏との戦いによって敦煌が滅びる時に洞窟に隠された万巻の経典が、二十世紀になってはじめて陽の目を見たという史実をもとに描く壮大な歴史ロマン。」

夜消える  藤沢 周平
短編集。いまいちかなあ。

暗殺の年輪  藤沢 周平
短編集。ぞっとするような話ばかり。でもそれがよかった。

よろずや平四郎活人剣 (下) 藤沢周平
おもしろかった~。主人公のキャラクター大好き。

2022/03/19

禅(ぜん) 達磨(だるま)①

「禅」という言葉を広辞苑でひいてみました。

ぜん【禅】
① 略。
②〔仏〕(梵語dhyyanaの音写。禅那とも)心を安定・統一させる修行法。禅定(ぜんじょう)。六波羅蜜の第五。
③禅宗の略。

明鏡国語辞典では、

ぜん【禅】
①雑念を捨てて精神を集中させ、無我の境地に入って真理を悟ること。「座禅・参禅」禅那の略。
②禅宗。 「禅僧・禅問答」
③「座禅」の略。

禅という言葉は、古代インド語であるパーリ語の dhyana(静かに考えるという意味)の俗語形jhanaが中国語で音写されて禅となったものだそうです。

インドでは、仏教以前からヨーガ(瞑想)による修養がさかんに行われてきました。仏教もその影響を受けていて、仏教の基礎的修道論である三学(戒・定・慧:かい・じょう・え)の一つに定(禅定)があります。三学とは仏語で、仏道修行に必要な三つの大切な事柄のこと。悪をやめる戒め(戒)、心の平静を得るための禅定(定)と、真実を悟る智慧(慧)のことです。

禅という漢字は現在の中国語ではchan(チェン)、日本語ではzen(ゼン)と発音され、欧米では両者を併用するようですが、二人の鈴木(鈴木大拙:たいせつ鈴木俊隆:しゅんりゅう)の活躍によって、アメリカでは zen と呼ばれる場合が多いようです 。英語表記では、Ch’an もしくは Zen。

禅とは、仏教の修養法(瞑想)のことであり、仏教経典の中に、その修養法について書かれたものがあって、それが中国へもたらされました。達磨以前に禅を中国へ伝えた人もたくさんいたのですが、中国での禅は達磨以降に大いに発展したことにより、禅は達磨から始まったと言われています。このブログでは達磨以降の禅について書く予定です。達磨以前の中国の禅の歴史について興味のある方は、禅と悟りというサイトを参照してください。

中国で発展した禅は、禅宗と呼ばれるようになります。釈尊が説いた初期仏教と禅宗の最大の違いは、作務(さむ)です。釈尊の説かれた仏教では、たとえば畑で作物を育てるというような生産活動は禁止されていましたが、禅宗では修行の一環として作務に積極的に取り組むようになりました。

もともとの仏教では、修行に専念するため、生産活動に従事することは禁止され、托鉢などをして社会に依存していましたが、禅宗においては作務そのものが修養の一環となったのです。

中国における禅の系譜

開祖 菩提達磨(だるま・ボーディダルマ:生年不明 、釈迦から28代目とされる)
二祖 大祖慧可(えか:487年~529年)
三祖   鑑智僧璨(そうさん:推定500年~505年頃 信心銘の作者)
四祖 大医道信(どうしん:580年~651年)
五祖 大満弘忍(ぐにん:601年~674年)
六祖 大鑑慧能(えのう:632年~713年 六祖壇教の作者)
八祖 馬祖道一(ばそどういつ:709年~788年)

さらに六祖慧能が起点となって、それから急速に禅が中国国内に広まり、五家七宗と呼ばれる禅の興隆時代へと入っていきます。(詳しくは禅の視点 - life -を参照してください)

日本における禅の歴史

12世紀に入り栄西禅師が中国へ渡って禅を学び、印可を受けて日本に戻ることによって、禅が本格的に日本へともたらされます。

日本の禅宗で現在も残っているのは、臨済宗、曹洞宗、黄檗(おうばく)宗の三宗です。栄西と道元は中国へ渡って学んだ僧であり、隠元は中国からやってきた僧です。

臨済宗(開祖は栄西:1141年~1215年、一休、盤珪、白隠)
曹洞宗(開祖は道元:1200年~1253年、良寛、永平寺)
黄檗宗(開祖は隠元:1592年~1673年、いんげん豆や煎茶をもたらした)

ちなみに、文化庁がまとめた平成28年版(平成29年2月発表)の「宗教年鑑」によると、曹洞宗の信者数は351万人、臨済宗妙心寺派は36万人だそうです。私の家は臨済宗妙心寺派です。中国で起こった禅が脈々と私までつながっているというのはおもしろいですね。

達磨(だるま)

達磨については詳しいことがわかっていません。その存在すらも疑う学者も多いようです。伝説として伝わっていることを簡単にまとめておきます。

南インドの香至国(こうしこく)の第三王子で、本名を菩提多羅(ぼだいたら)という。520年にインドから金陵(南京)へやってきた。当時中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁が治めていた。南朝梁の武帝は仏教を厚く信仰しており、インドからやって来た高僧(達磨)を喜んで迎え、質問した。

「あなたはどんな教えで人々を救済されるのか」
「どんな教えも持っていません」
「私は王となって以来、寺を建て、人を救い、写経もし、仏像も作ったが、いかなる功徳があるだろうか」
「何もありません」
「どうしてないのか」
「それはみな形として現れた善行ですが、真の功徳とはいえません」
「真の功徳とはどういうものか」
「廓然無聖」(かくねんむしょう:大空のようにからりと晴れあがったもの)
「私と話している者は誰だ」
「まったくわかりません」

達磨は梁を去り、洛陽の嵩山(すうざん)少林寺に行くが、入場を断られたたため、近くの洞窟に入り、壁に向かって座禅をした。

ある寒い雪の日、達磨が壁に向かって座禅をしていると、一人の男がやってきて弟子入りを請うたが無視される。男は何年にもわたって修行し、経典を読みあさったが、納得がいかず、達磨を訪ねたのだった。

男は夜通し立ち尽くし、やがて雪は膝の上まで積もった。そこで達磨が話かけると、男は達磨に弟子入りを願い出た。しかし達磨は冷たく言った。

「仏の道はたやすい道ではない。覚悟がなければ道は開けぬ」

すると男は刀を取り出して自分の左腕を切り落として差し出し、弟子入りが世俗的な動機ではないということを示した。

「おまえが腕を切り落としたのどうしてか?」達磨は尋ねた。

「私の心は安らかではありません。どうか私の心を安らかにしてください」

「ではその心を出して見せろ。安らかにしてやろう」

「心を探しましたが、つかまえることはできません」

「これでお前の心は安らかになった」

達磨はその男を弟子として認めた。それが二祖、慧可である。達磨は嵩山で9年間座禅をしたが、その間弟子に取ったのは慧可だけだった。

達磨は150歳で亡くなったとされる。達磨の死後3年後、宋の役人がパミール高原の葱嶺(そうれい)という場所で達磨に出会ったという。その時達磨は一本のさおをかついで歩いており、そのさおの先にはサンダルの片方だけがぶらさがっていた。

役人が「どこへ行かれるのか」と問うと達磨は「インドに帰る。あなたの主君はすでに亡くなられた」と答えたという。役人は帰国してから主君が亡くなったことを知り、このことを話してまわった。それを聞いた孝荘帝が不思議に思い、達磨の墓を開けさせると、棺の中にはサンダルが片方のみ残されていたという。

***

達磨の語録とされるものに、「二入四行論」(ににゅうしぎょうろん)があります。これは、達磨が弟子に示した教えを記録したものとされてきた禅の典籍で、自己修養の入り方・行じ方に関するものですが、その説明は私の手に余るので、専門家の説明を聞いてください。

【禅とこころ / 禅の思想に学ぶ】第1回 達磨の教え | 花園大学総長 横田南嶺

【禅とこころ / 禅の思想に学ぶ】第2回 達磨の教え | 花園大学総長 横田南嶺

参考サイト

禅の視点 - life -
禅と悟り
Wikipedia 鈴木大拙
Wikipedia 鈴木俊隆
Wikipedia 禅
Wikipedia 達磨
夏期講座 令和二年特別編】:「無門関 第四十一則

参考図書

禅とは何か-それは達磨から始まった (中公文庫)
世界の名著 禅語録
ダルマ (講談社学術文庫)
新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)
禅学入門
禅の語録 20 導読 (シリーズ・全集) 

2022/03/16

ひらめく! 作れる! 俳句ドリル・俳句のための文語文法 実作編・俳句 ・文庫 俳句発想法 100の季語・俳句鑑賞入門 ・俳句歳時記夏 ・俳句歳時記春

 ひらめく! 作れる! 俳句ドリル 岸本 尚毅 ・夏井 いつき 
俳句の練習ドリル。俳句の一部が空欄になっていて、そこに 自分で作ったフレーズを入れて練習するというもの。でもこれだと単なる言葉遊びになってしまう。どういう句を作るとかというヒントが欲しいかったが、そういう点では全く役にたたなかった。

角川俳句ライブラリー 俳句のための文語文法 実作編  佐藤 郁良
日本語の文法を学んでも日本語が上達しないのと同じで、俳句を文法から学ぼうとするのは無理だということがわかった。

俳句 (講談社学術文庫)  阿部 ショウ人
こういう俳句がダメだという例がいっぱい書いてある。分厚い本で読みずらい。途中で、ダメな例を読んでも上達しないし、ダメな俳句はワシでも作れるということに気づいて、読むのをやめた。

文庫 俳句発想法 100の季語 ひらのこぼ
100の季語にそれぞれいくつか有名な人の俳句が載せてある。こういうことを俳句にすればいいのかと大いに参考になった。

俳句鑑賞入門 山口誓子
有名な句に山口誓子が解説したもの。解説がわかりやすく、文章がすばらしい。読み物としてすばらしい。

俳句歳時記 第五版 春 (角川ソフィア文庫)
俳句歳時記 第五版 夏 (角川ソフィア文庫)
他の歳時記も欲しくなって買った。

2022/03/12

華厳経・楞伽経(けごんきょう・りょうがきょう)

中村元先生の 『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典) を参考にして、非二元的な部分を要約して掲載させていただきます。

華厳経(けごんきょう)

事事無礙(じじむげ)

「事」とは現象、あるいは現象界の事実。「無礙」とは物質的に場所を占有しないということ。事事無礙ということば自体は華厳宗の言葉で、ものごとは一つ一つお互いに異なっているのではなく、溶け合っているという意味。

「じじむげ‐ほっかい【事事無礙法界・事事無碍法界】仏語。華厳宗でいう四法界の一つ。現象世界のすべてのものごとが相互に関連・融合し、そのままで真実の世界を完成していること。究極のさとりの眼から見た存在の世界のあり方。コトバンクから

私たちは通常、自然界において、物理的な空間に何か物があると、その場所を他の物が占有することはできないため、その物は独立した存在だと考えています。でも、実際には、例えばミクロの世界を考えた場合、その物体以外の物も存在していて、互いに共存していると考えることもできます。

そしてまた、物質と物質は様々な因果によってつながっています。例えば人間は、その体だけでは存在できず、空気が必要であり、適当な温度、空間などが必要です。もちろん、よって立つ地球が必要であり、太陽が必要です。

そうして考えると、人間は地球とも宇宙ともつながっていると言えます。このように、物と物が決して無関係ではなく、見えないところで結ばれている。それを法界縁起といいます。そう考えると、私、他人という区別がなくなります。

華厳経の根底にあるのは縁起の思想です。縁起の思想は仏教の中心思想であり、いかなるものも孤立して存在するのではなく、すべてのものは相寄って存在するという思想です。

この縁起のつながりは、人と人とのあいだに限りません。人と物もそうです。あなたの着ている服が綿であるなら、その綿は中国やインドとつながっていて、それを栽培した人、日本へ運んだ人、縫製した人とつながっています。

当然、綿は大地とつながっていて、太陽の光とつながっています。つまり、宇宙とつながっています。そう考えると、この世のあるゆる物がつながっています。

非二元的に解釈するなら、縁起ゆえに万物は一つのものと言えるのではないでしょうか。そこには独立した物は存在しない。また、独立した物が存在しないがゆえに空であると言えるのではないでしょうか。

さて経典に入ります。と言っても、経文を書くことができないので、(やればできるかもしれないけど、あまり意味がないので)経文の漢文書き下しを書きます。経典そのものを知りたい方は参考サイトで見てください。奈良の東大寺では、儀式の時に、この唯心偈(ゆいしんげ)を三回唱えることになっているそうです。

****

唯心偈(ゆいしんげ)抜粋

心は工(たく)みなる画師(がし)の如(ごと)く 種種の五陰(ごうん)を画き
一切世界の中に 法として造らざる無し
心の如く仏もまた爾(しか)り 仏の如く衆生も然り
心と仏と及び衆生との 是の三に差別無し
諸仏は悉(ことごと)く了知す 一切は心從(よ)り転ずと

その意味は、

心は巧みな画家のようなものであり、あらゆるものを描きだし、
この世界の中にはそれ以外のものはない。
心と同じように、仏もそうであり、人々もそうである。
心と仏と人々も皆、この三者は同じように、心が描きだしたものである。
仏たちはこのことを知っている。すべては心から現れていると。

***

世界はどこに現れているのか。心、意識です。巧みな絵描きが書いたように、心に世界は現れている。これはすでに書いた唯識の教えと同じことを教えているのだと思います。そして、心と同じように仏も人々もそうだと言っています。

中村先生は「心がなければ、外界のものも在るとは認められないわけで、心があってこそ、在るということができます。仏も同じです。衆生もまた同じです。心と仏と衆生のこの三つは区別のないものです。つまり仏は、私たち凡夫から遠く離れたものだと人々は思いがちですが、そうではなく、仏も本来は衆生であり、それをさらにつきつめて考えると心にほかならないというのです」と言ってみえます。

つまり、心が仏であると言ってみえます。

楞伽経(りょうがきょう)

楞伽とは、スリランカのランカを音写して漢字をあてたものだそうです。内容としては、釈迦がランカー島(スリランカ)を訪れて、ラーヴァナ王と対話するというものです。伝説によれば、楞伽経を中国に伝えたのは達磨であり、禅宗に大きな影響を与えました。

内容は唯識で教えていることと同じです。漢文書き下し文は長いし、掲載するのが大変なので省略して、書き下し文のみ掲載します。

***

あるとき、仏は大勢の菩薩(ぼさつ:修行者のこと)とともに、大きな海辺のそばの摩羅耶山(まらやさん)の頂にある、スリランカの町の中にいらっしゃいました。「城」というのは城壁に囲まれた都市のことです。そのもろもろの菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)はことごとくすでに、五法(ごほう)、三性(さんしょう)、諸識(しょしき)の義に通達していました。

摩訶薩は「マハーサッドヴァ(mahasattva)」の音を写したもので、「立派な人」「偉い人」という意味です。また無我の義でふつういわれるのは法(ほう)無我と人(にん)無我ですが、法無我というのは、個体存在としての我というものは、そのとおりには存在しないで、もろもろの要素から構成されているということです。

そしてもろもろの対象は、自分の心の現し出したものであることをよく知っています。いかなる対象でも、自分の心に意識されているから存在するのだということをいっています。
(以上『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典) p180より)

***

仏は修行の方法について尋ねられて、それに答えています。ここでも漢文は省略して、説明文のみ掲載します。

***

ここでは(大修行)を説いているわけですが、それは苦行をしたり、特別の実践法を行うことではなくて、真理を観ずることにほかならないのです。それは四種類のしかたがあります。
(一)現象世界の種々なるすがたは、自分の心の現し出したものだという道理を体得することです。唯識の理(ことわり)を知ることだといってもよいでしょう。
(二)現象世界の諸事物が生起し、住(とどまり)、消滅するのは、仮のすがたである、と知ることです。
(三)外界の事物には実体がない、ということを知るのです。空の理を体得するのです。
(四)真理は自分で直観しなければならない、ということです。

(以上『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典) p210より)

***

まとまりのないブログになってしまったかもしれませんが、全体をまとめるのは大変なので、非二元的な部分のみ抜粋して書きました。

こうして見ると、大乗仏教、禅というのは非二元そのものだという気がします。

参考文献

『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典)

参考サイト

Wikipedia 華厳経

Wikipedia 楞伽経

総本山智積院HP

名文電子読本・解説サイト(華厳経 唯心偈)

円覚寺 唯心の教え

2022/03/09

文章読本・翻訳語成立事情・理科系の作文技術・久保田万太郎句集

翻訳家の夏目大さんがYouTubeで、「翻訳をする人の必読書三冊」として紹介してみえるので、その三冊(文章読本 (中公文庫)翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)理科系の作文技術(リフロー版) (中公新書))を読んだ。

文章読本 (中公文庫) 谷崎潤一郎
驚いたのは、谷崎潤一郎は作品によって文体や句読点の打ち方を意図的に変えているということ。
ある小説ではひらがなを多用したり、ある小説では句読点をあまり打たないようにしたり、逆に頻繁に打ったりしているという。そんなことまでして小説を書いているとは知らなかった。
参考になった点は句読点の打ち方。読み手が一息ついて欲しいところに打っているという。この点は多いに納得。
それと、私はこのブログで文章を翻訳して載せているが、本来訳さなくてもよい代名詞や指示代名詞を訳しているということがよくわかった。この本は多いに参考になた。

この本は驚くことばかり。私たちが日常で何げなく使っている言葉の中に、明治以前には日本語になかった言葉がたくさんあり、それは翻訳によって新しく作られた言葉だという。
たとえば、「恋愛」「社会」「個人」「美」「自然」「権利」「自由」「彼」「彼女」。
そして、その訳語が、本来の英語とズレていて、そのまま今でもズレたまま使われているという。
たとえば「恋愛」とは何だ?と聞かれても何となく理解はしているが、はっきりとは説明できない。「社会」なんてもっとわからない。こうした言葉は、翻訳されて何度も何度も目にするうちに、「だいたいこういう意味で、こういう状況で使われる」という暗黙の了解ができてみんなが使っているだけで、実はよく意味がわかっていないという。「自由」などは、日本語では「俺の勝手だ」という意味で「俺の自由だ」と言うが、もともとの"liberty"にはそいう意味はなかったという。
それと、セイラー・ボブのブログの中で『I Am That 私は在る』の「私は在る」という訳はおかしい、「私はいる」が正しいのではないかと書いて覚えがあるが、この本でも同じことを言っていて、「私は在る」は日本語としては間違いだという。
私は存在するという訳から、私は在るという訳になったのではないかと筆者は指摘している。この本も多いに参考になった。

この本は理系の報告書を書くときのテキストとして100万部以上売れているそうです。例として引き合いに出されているものの多くが理系の研究報告のようなものが多く、ついていけない部分が大半。個人的にはあんまり参考にならなかった。

以上の三冊はある程度参考になったのですが、これを読んだからといって、技術的に文章や翻訳が上手になるということはないような気がします。私が今まで読んだ作文の技術に関する本では、本多勝一さんの日本語の作文技術が一番良かったです。
翻訳関連では安西徹雄 翻訳英文法ー訳し方のルール翻訳英文法トレーニング・マニュアルが良かった。
翻訳に関して言えば、夏目大さんのYouTubeがとても参考になります。夏目さんは翻訳学校の先生もやってみえます。

久保田万太郎俳句集
あれこれの本を読んでいるうちに、久保田万太郎の句がいいなあと思って買ってみた。座右の書にして少しづつ読むつもり。座右の書が増えてきて、困ったな~。断捨離派ではなくなりつつある今日この頃。ささやかな欲望に捕らわれつつある今日この頃。
一句載せておきます
神田川祭の中をながれけり  

2022/03/05

華厳

華厳経とは何かというと、奈良の大仏様のもととなった経典です。
では奈良の大仏様(毘盧遮那仏)とは何か?
あれは釈尊そのものではありません。

吉田叡禮さんの説明によると、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ、略して盧遮那仏:るしゃなぶつ)は釈尊が悟った「大宇宙の真理」のことを言うそうです。すべての仏の集合体と言ってもいいし、宇宙にまんべんなく広がるパワーと言ってもいい。そういったものの象徴としての仏だそうです。(ようわからん)

華厳経とは具体的に何かいうと、もともとはインドにあった経典の一部を、四世紀末から五世紀初頭に中央アジアのコータン(現在の新疆ウイグル自治区)で編纂されたと言われています。

華厳とはどう意味かというと、華(はな)で厳か(おごそか)に飾ると言う意味。華厳とは、花で飾られた荘厳な仏の世界の教えという意味。

華厳経に何が書かれているかというと、大きく分けると四つの要素からなる。(実際に教えを説くのは廬舎那仏ではなく、脇を固める菩薩が説いていきます)

①廬舎那仏が不動のまま地上から天へ行って、また地上に降りる。
釈尊が菩提樹の下で悟りを開くと、釈尊は動かないけれど、廬舎那仏は7つの世界を移動する。

②「蓮華蔵世界」を中心とする宇宙観
蓮華蔵世界の説明

③華厳の哲学的世界観

④善財童子が53の師に会って修行をする話。

私が華厳経の中に非二元があるというのは、③の部分です。
華厳経の中には様々な思想が説かれています。唯心、如来蔵思想、空もあります。その中でも中心となる思想は「一即一切・一切即一:いっそくいっさい・いっさいそくいち」「一入一切・一切一入:いちにゅういっさい・いっさいいちにゅう」「事事無碍法界:じじむげほっかい」「融通無碍:ゆうづうむげ」です。

「一即一切・一切即一」「一入一切・一切一入」とは何かというと、「一つのものが全部・全部が一つのもの」「一瞬が全体であり、全体が一瞬である」という意味です。「事事無碍法界」とは、事物と事物とが、さまたげなく溶けあっている世界。

今回は私が説明するよりも、専門家にお願いすることにしました。

華厳経の世界観1「唯心思想」吉田叡禮

唯心の思想というのは、他の多くの仏教の根底にあります。空の思想も同様です。

華厳経の世界観3 「ミクロとマクロ」吉田叡禮

華厳の教える世界は、宇宙の隅々まで、どこへ行ってもそこには仏がいる世界です。
これはまさしく非二元の世界ではないでしょうか。

吉田叡禮さんのYouTubeチャンネルはとても勉強になります。吉田叡禮さんは、華厳経と中国の初期の禅が専門だそうです。華厳経を詳しく知りたい方は、華厳に関するものを順番に見ていくといいと思います。専門に学ぶ学生向けのものが多く、ちょっと難しいかもしれません。

参考文献
仏教の思想 6 無限の世界観<華厳> (角川ソフィア文庫) 
講座・大乗仏教 3 華厳思想 
『華厳五教章』を読む 
華厳とは何か 〈新装版〉
華厳思想 (1960年) 
華厳の思想 (講談社学術文庫) 
鈴木大拙全集〈第5巻〉般若経の哲学と宗教.華厳の研究.金剛経の禅.楞伽経.楞伽経研究序論 (1981年)

参考サイト
NHKこころの時代:さとりへの道―華厳経に学ぶ(652回~657回)

2022/03/02

三屋清左衛門残日録・よろずや平四郎活人剣・新平家物語・子規365日・夏井いつき365日季語手帳

三屋清左衛門残日録 (文春文庫) 藤沢周平
そんなにおもしろくなかった。身につまされるような話が多くて、しんどい感じがした。読んでいるうちに、若気の至りというか、自分もやってきたような過ちがあれこれ思い出されて考えさせられた。そういうことにちゃんと向き合えるような歳になったということかもしれない。

新装版 よろずや平四郎活人剣 (上) (文春文庫) 藤沢周平
これはおもしろかった。冷や飯喰いの下級武士浪人が、ひょんなことから揉め事の仲裁屋を始め、揉め事を解決していく。揉め事はどれも江戸の庶民の他愛のない話。痛快、爽快な読後感。

新・平家物語(一) (吉川英治歴史時代文庫) 吉川英治
半分読んだところで中止。何がいけないかというと、物語の設定が史実と違いすぎる。まず、物語の冒頭で清盛は父忠盛の命令で親戚へ借金をしに行く。忠盛は貧乏でしょっちゅう清盛を借金に行かせたことになっているが、これは史実と違う。忠盛は日宋貿易で莫大な金を設けていたし、官位も高く裕福であった。
次に、清盛と他の兄弟が血のつながった兄弟のように描かれているが、これも違う。母である祇園女御と同居していたような設定になっているがこれも違う。乳母(めのと)というシステムを無視している。
そして、極めつけは吉川英治の文章。やたらと句読点が多くて読みづらい。いわゆる講談調で書かれていて読みづらい。文章に宮尾登美子や藤沢周平のような品格がない。これを全16巻最後まで読むのはしんどい。
YouTube恐るべし。現代語訳の平家物語の朗読があった。代わりにこれを聞くべ。
【古典朗読】現代語訳 平家物語(1)/尾崎士郎

子規365日 (朝日文庫)
この句集は子規の俳句が一日一日その季節の季語にあわせて載せてある。子規の句を季節毎に載せてあるという点で優れている。子規句集 (岩波文庫) の方は2,306句載っていて、あんまりよくないものもあるが、これは夏井さんが選んだ365句だけなので読みやすい。座右の書としたい。

この本も一日一日その季節の季語と俳句が載っている。毎日参考にしていく予定。ただ、今は使わないだろうなぁという季語も多い。歳時記を見た方が便利かも。

2022/02/26

唯識⑨ 唯識の教えていること。

唯識の教えていることの本質は何だろうかと考えると、「私が私だと思っている私は実在ではない」ということであり、それは非二元で教えていることと同じではないかと思います。

「心があるだけ、物は存在しない」「人人唯識」「阿頼耶識、末那識」「刹那滅」「縁起」、こうした言葉の説明をちょっと聞いただけでは、トンデモナイことを言っているように聞こえます。

物は実在しているではないか。一人一人が別々の宇宙に住んでいるなんて、なんてバカなことを言っているんだ。阿頼耶識、末那識なんてものが本当にあるのか、誰も見たことがないじゃないか。時間は存在しないなんてトンデモナイことを言うな。あなたは独立した存在であり、体もあるじゃないか。

難しい言葉や、用語の定義はどうでもいいと思います。でも、唯識で教えているトンデモナイことは、非二元で教えているトンデモナイことと全く同じだと思います。もちろん、用語や細かい思想体系は違います。一緒にするなという人もいると思います。でも、考えれば考えるほど、同じではないかという気がします。

本当に阿頼耶識や末那識があるか、人人唯識は本当かといったことは別にして、そうしたことを生み出した背景にある思想が素晴らしいと思うのです。

私はこのブログで唯識の全体を書いたわけではありません。書いたのは、本当に基本的な中心思想だけです。しかもできるだけ難しい用語は使いませんでしたし、細かな理論的説明も書きませんでした。また、修養、修行的な部分には一切触れていません。

唯識の全体を書こうとすれば、唯識三年俱舎八年ですから、全体を学ぶのに最低でも十一年を必要とします。また、修養、修行的な部分について書こうとするなら、それなりの実践を必要とするので、宗教に入っていくことになってしまい、非二元をベースにしたこのブログの主旨からそれてしまいます。

表面上の用語や、その定義の違いはどうでもいいのです。唯識、そして仏教の教えていることの本質が、非二元で教えていることと全く同じであると思えてならないのです。

「心があるだけ、物は存在しない」。これは、非二元で言うところの概念のラベル貼りと同じだと思います。世界は概念のラベルでできています。言葉どおりに世界が存在するわけではありません。

「人人唯識」。一人一人はそれぞれの宇宙の中で生きている。非二元的に言うならば、一人一人は思考に閉じ込められて、個人的な基準点を持って生きています。私たちは、この思考の中に閉じ込められた存在であり、基準点から世界を見ています。

「阿頼耶識、末那識」。阿頼耶識という言葉を、アウエアネス、あるいは知性エネルギーという言葉に置き換えてみてはどうでしょう。もともとどちらも不可知なものであり、私たちはそれが何なのかをはっきりと知ることはできないのですが、すべてはそこからやってきます。末那識によって、いるはずのない「私」がいるように見えてしまう。

「刹那滅」。時間は「私」が作り出した創造の産物にすぎません。

「縁起」。万物は一体のものであり、互いに関係性で成り立っているもの。言葉を変えて言うなら、そこに独立した存在はなく、空(くう)です。もしすべての人々が、縁起の思想、非二元(ふたつのものではない)の思想を理解したなら、争いはなくなるのではないでしょうか。

時々、部屋の窓から、向いの家並みと、それに続く空を眺めながら、そこに広がるのは自分だけの宇宙で、その外には何もないということに思いをはせています。

参考図書

唯識の入門的な本として、以下の三冊をおすすめします。ブログを書くにあたり、以下三冊を主に参考としました。

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム

2022/02/23

佐々木閑の仏教講義 5「出家的に生きるために」

佐々木閑先生の新しいシリーズが始まりました。

佐々木閑の仏教講義 5「出家的に生きるために 1」

人は、社会一般に信じられている価値観に従って普通に平凡に生きることが幸せなのかもしれません。でも中にはそうした価値観に沿って生きられない人がいます。私もその一人です。

そうした人の中には出家して僧となって仏道を歩む人もいます。でも、仏道でなくとも、出家的に生きている人はたくさんいます。佐々木先生は仏教の中での出家について講義される予定だと思いますが、仏教に興味のない人でも、どう生きたらいいのかの参考になると思います。

佐々木閑の仏教講義 5「出家的に生きる」再生リスト

2022/02/19

唯識⑧ 三性説(さんしょうせつ)

唯識では、世界を認識するやり方には三つがあると説きます。世界を三通りのやり方で見ることができるということです。それが三性説(さんしょうせつ)です。

三性説(さんしょうせつ)とは、おおまかにいえば、迷いの眼で見た世界、覚りの眼で見た世界、その両方に共通した縁起(関係性)で見た世界があるという、世界に対する三つの見方があるという教えです。

遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)=迷いの眼で世界を見る見方
依他起性(えたきしょう)=縁起で世界を見る見方
円成実性(えんじょうじっしょう)=覚りの眼で世界を見る見方

遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)

遍計所執性の文字通りの意味は、「遍く(あまねく)すべてのものを思い計り、それが実在であると執着すること」です。私たちの末那識、意識は世界を見て、そこにはものが実在すると思いこみ、それに執着します。私たちの世界に対する見方は、この遍計所執性です。唯識では、この見方は妄想であり、本当はそうではない、執着しているものは実在ではないと説きます。

私たちが誤ったものの見方をしてしまう大きな原因の一つは言葉です。例えば、「体」という言葉。体という言葉を思い浮かべた瞬間に、体が思考の中に登場します。その瞬間に存在の一体性は失われ、体が切り離されて物となります。そこへ、「私の」という修飾語がついて、「私」が登場します。

さらにそれを見て、「老けたな~」「もっとシェイプアップしなきゃ」と執着が生まれます。しかし、その体はこのブログで何度も書いたように実在ではありません。「見えているもの」は心の中の映像であり、心の外にあるものではありません。眼識、意識、末那識が認識した心の内側の像であり、実体のないものです。

私たちは言葉によって、存在しないものを存在すると思いちがえ、それに執着して生きているということになります。私たちがものごとを認識することができるのは縁起によってであり、物がそこにあるからではありません。

前回のブログげ書いたように、「私」は様々な縁起によって成り立っている存在であり、体もその縁起の中で成り立っています。ところが私たちの心は、その縁の方ではなく、物の外観にとらわれてしまいます。それが眼識、意識、末那識の持つ性質です。

依他起性(えたきしょう)

依他起性とは、「他に依って起こったもの」という意味です。原始仏教以来、「一切は縁起の法である」と説かれてきました、唯識では「縁起」を「依他起」と言い換えて、「一切は依他起の法」であると説きます。

縁も他によって起こるため、依他起(他に依って起こる)と縁起(縁によって起こる)は同じ意味となります。釈尊以来、「縁起の故に無我なり」というのが仏教の根本ですが、唯識では、縁起を依他起と言い換えました。前回のブログで説明したように、現象世界では、自らの力だけで生じたものはなに一つなく、すべては縁起によって生じており、つながった一体のものです。

私たちは、本当は一体のものであるものに名前をつけ、概念化して区別します。太陽、月、地球、私、あなた。それぞれが別々に存在していると思っています。しかし、太陽も月も私も地球も全部一つのものとしてこの瞬間に存在しています。

それに名前さえつけなければ、それは一体のもの、ただそれだけです。名前をつけたとたんにそこに実体があると錯覚します。そこにあるのは、別々の物ではなく、縁起としての関係性があるだけです。

円成実性(えんじょうじっしょう)

円成実性とは、「円となって全部が一つである完成した真実の世界」という意味です。遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)の世界も依他起性(えたきしょう)の世界も実在ではありません。それらは思考でとらえた世界です。

もし、「私」が消えたら世界はどうなるでしょうか。自分という基準点(視点)が世界から消えると、そこには一つの完成された世界、円があります。これは仏陀の見る世界です。残念ながら、私たちがこの円成実性の世界を見ることはできません。なぜなら、私たちは識(心)の外へ出ることはできないからです。私たちは常に識の内側にいて、遍計所執性、依他起性にとらわれています。

存在しないものに執着して生きるか、ものごとはすべて縁起によって起こっていると理解して生きるかのいずれかです。いずれにしても、そこには「私」がいて、無我ではありません。円成実性は、いうならば無我の世界です。

非二元でいうところの実在の世界と同じで、円成実性の世界を実際に見ることはできません。見ることも触れることもできない世界だけど、それが実在の世界であるということは理解でます。それが確信に変わる日まで、私たちは学び続けなくてはいけません。

三性説(さんしょうせつ)を知って、唯識の教えは非二元の教えそのものだと感じました。言葉や説き方はまったく違いますが、ある意味で仏教は非二元よりもわかりやすい。いや、先に非二元を学んでいるからそう思えるのかもしれません。

もし非二元の教えを学んでいなかったら、仏教で説く空(くう)、無、縁起という思想を理解できなかったかもしれません。

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
唯識十章 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
唯識の心理学
世親 (講談社学術文庫)
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)

2022/02/16

聖地サンティアゴ巡礼・今日から始める楽しい俳句入門・存命のよろこび・蝉しぐれ・たそがれ清兵衛・初つばめ

聖地サンティアゴ巡礼 増補改訂版 日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会
コロナが収束したら、歩きたいなと思って読んでみた。結論から言うと、行く気がなくなった。巡礼の路と聞いて、日本で言えば熊野古道とか中山道のような山の中の道を想像したいたが、そうではない。
写真を見る限りでは木々がほとんどない高原のような道か舗装された道をひたすら歩いていくことになる。これでは立小便にも困るではないか。寒い季節には行きたくないし、夏に行けば毎日暑い日差しの中を歩くことになる。日本の旧街道を歩くような繊細さがないように思われる。
何人かのブログを確認したが、写真で見るかぎりではやっぱりそうだ。
東海自然歩道や日本の山を歩いてきた者としては魅力を感じなかった。
この本に関して言うと、何がどう感動するのかが全く伝わらず、単に町の特徴と宿のリストがあるだけ。ろくな地図も載っていないのにこんな重い本を持って歩くのは嫌。参考:NPO法人日本カミーノ・デ・サンティアゴ友の会

今日から始める 楽しい俳句入門 鴇田智哉
わかりやすくて共感できる句が解説つきで載っている。とっても良い本です。こんな俳句が詠めるようになりたいもの。

存命のよろこび―古典にいまを読む 中野孝次
兼好、長明、良寛、道元、ヘッセ、西行の作品と生き方を通して、いかに生きたらよいかを考えさせられます。ただちょっと古典の引用部分は詳しい現代訳がない部分もあり、ハードルが高かったです。この人たちはある意味で世俗的な欲望を捨てて生きた人たち。その生き方はすがすがしい反面、とても厳しい。幸せとはそうした厳しさの中にこそあるものなのかもしれません。世の中が便利で豊かになった反面で人の心や生き方はこうした人々と比べて卑しいものになったきたような気がします。金や若さが人間の価値の尺度のようになってしまった今、どう生きるのが幸せなのかを考えさせられました。

蝉しぐれ (文春文庫) 藤沢周平
中野孝次が「藤沢周平はすばらしい、全部読んだ」と書いていたので読むことに。
切なさ、甘酸っぱさ、爽快感が残りました。こんなふうに清くありたいものです。

たそがれ清兵衛 (新潮文庫) 藤沢周平
これは短編集。表題作のたそがれ清兵衛はじめ、この短編に出てくる主人公たちは、うだつの上がらない下級武士たち。その誰もがのっぴきならない事情で藩の権力抗争へと巻き込まれていく。そして、うだつのあがらない表向きとは裏腹にめっぽう腕がたつ。
 たそがれ清兵衛はたしかにおもしろかった。でもあとは似たようなパターンでそれほどおもしろいと思わなかった。まだ藤沢周平の初心者なので、もう少し読まないと評価できない。

初つばめ―「松平定知の藤沢周平をよむ」選 (実業之日本社文庫) 藤沢周平
十作品からなる短編集。
この短編に出てくる人たちは江戸の街に住む普通の庶民。その誰もが、そうとしか生きられないような境遇の中で逃げることもできずに必死に生きている。そうした人たちが抱える切なさ、悲しさ、愛情のようなものを描く。
「蝉しぐれ」「たそがれ清兵衛」を読んでも、それほどすばらしいとは思わなかったけど、これはすばらしかった。どれとは書きませんが、そのいくつかで泣きました。
どうやら藤沢周平に咬まれたようです。毒が全身にまわるのかどうかはまだわかりません。

2022/02/12

唯識⑦ 縁起(えんぎ)

縁起については、初期仏教のところで十二支縁起について書きましたが、唯識関係の本にも出てきますので、もう一度考えてみたいと思います。

一般的には、「仏陀は縁起を悟った」と言われるほどで、縁起は仏教の中心的な教えです。十二支縁起では苦しみの原因は無明(無知)であると説きました。ただ、釈尊の説かれたもともとの縁起の教えは、「原因があるから結果がある」、「執着があるから苦があり、執着がなければ苦もない」、「善いことをすれば楽がくるし、悪いことをすれば苦しみがくる」といったシンプルなものだったに違いありません。

それが十二支縁起へと発展し、アビダルマの「倶舎論」では、輪廻の説明として使われるようになり、中観(龍樹)や唯識(世親)においても同じような使われ方をしました。

一方で、縁起の教えは、単に輪廻にかかわることだけでなく、存在の法則として現象界のありようを説明するために用いられました。すべてのものごとは、縁によって起こっているということ。わかりやすく言うと、「あれをやったからこうなった」「AがあるからBがある」「他者があるから自己がある」という教えです。

この縁起は、龍樹のところでも書いたのですが、縁起ゆえに空(くう)であるという大乗仏教の根本的な教えです。私はこの、縁起ゆえに空であるという説き方が非常にわかりやすくて気に入っています。縁起の話を読むと、いつもセイラーボブの話を思い出します。

過去のブログからのボブの言葉。

『あなたは体ではありません。完全に調べるまでは信じられないかもしれませんが。あなたはいつ、私の体と言いますか? あなたは、私のコートと言いませんか? 私の車、私の家、私の靴。あなたはコートですか? あなたは車ですか? あなたは家ですか? あなたは靴ですか? いいえ。それは単に私たちが別々のものに貼ったラベルです。だとすると、あなたは体ではないでしょう。

体が何でできているか調査してください。あなたは、体が構成要素でできていると知るでしょう。それはすべて、土、火、空間、エネルギー、五つの要素、水、火、空間など、体は構成要素でできています。もしあなたは自分が分離した存在、個人、人であると考えているなら、自身を構成要素と分離してみてください。

自分が分離していると言うなら、呼吸を止めて、どれだけ長く自分が空気無しでいられるかやってみてください。できません。水を飲むのをやめてください。どれだけ長く水無しでいられますか? 体の80%は水です。体温、火を取ってください。構成要素無しで、どれだけ長くいられますか? 空間から外へ出てください。空(くう)の外へ出てください。できるものなら。』


これは縁起の思想に他なりません。空間と体は切り離すことはできず、空間ゆえに体があり、構成要素ゆえに体があります。私たちは、非二元の教えで、物は実在ではないということを理解しようとするとき、量子論などを用いて、何とかして物が実在ではないということを理解しようとしますが、そうではなくて、縁起による理解がわかりやすいし、合理的なのではないかと思います。仏教的に言うなら、縁起ゆえに空(くう)である。非二元的に言うなら、独立して存在する実在はない、万物は一つの物であるということになると思います。

そこで、どんな縁起が考えられるのかを、自分(私)を中心に考えてみたいと思います。人間関係のつながりから考えると、まず最初に家族があります。両親、兄弟、祖父母、子供、孫。会社の同僚。クラスメート。友人。町内会の人。仕事関係。人間関係をたどっていくと、おそらく地球上で今生きている人のほとんどとつながっているのではないでしょうか。

父と母から祖先をさかのぼっていくと、人類発生までさかのぼることができるかもしれません。そのうちの誰か一人が欠けても、私は存在しません。人類発生のころから、精子と卵子のレベルで考えるなら、そのどれかの精子か卵子一つが欠けてもあなたはここにいません。今ここに私がいることはほとんど奇跡にほかなりません。

体はどうでしょう。生まれてから、どれだけの食べ物を食べてきたでしょうか。ということは、どれだけの生き物を食べてきたことか。魚、動物、直物。どれだけの命の上に私の体は今ここにあることか。これもある意味縁起ではないでしょうか。

あなたを育ててくれた人。あなたを教育してくれた人。あなたに影響を与えた人たち。あなたの考え方はそうした人々の影響によってできています。そしてあなたもまた、まわりの人たちに影響を与えている。

体は60兆個の細胞でできています。そして、体の中にはたくさんのバクテリア、菌、ウイルスが住んでいます。そしてまた体は人類発生時点から、延々と蓄積されたDNA情報を持っています。人類発生よりさらにさかのぼれば、ホモサピエンス、類人猿となり、さらには単細胞の生物へと進化の歴史をさかのぼることになります。

進化の歴史をさかのぼるということは、人類誕生以前の地球の歴史をさかのぼることになり、さらには地球の誕生、宇宙の誕生へとつながっていきます。

私たちの身の回りはどうでしょう。例えば服。綿は大地とつながっていき、大地は雨とつながり、雨は海とつながっています。科学繊維は原油とつながり、原油は太古の生物とつながります。

電気は発電所とつながり、発電所も原油とつながり、中東へとつながります。水道の水はどうでしょう。多治見市の水道は木曽川水系とつながり、長野県の山々とつながっている。水は雲から雨となってもたらされ、雲は海からもたらされました。

あなたの住んでいる家はどうでしょう。その木材はどこからきたのか。どこで育ったのか。道路は何でできているのか。その材料はどこからきているのか。

そう考えると、私という存在は、単なる独立した存在とは言えない。たくさんの縁でつながっている。数えきれないほどの原因と結果のくりかえりの結果として私がいる。すべては縁起でつながっているのであり、「私」という個人がポツンと単独でいるわけではないといえます。

多くの人は、「私」という存在は、宇宙の中の孤立した存在だと思っていますが、そうではない。宇宙は全部つながっている。たまたま「私」という存在の中に基準点(視点)があるにすぎず、万物は一つのもの。その一つのものを分割しているのは「私」の思考。思考で分割しなければ、そこには何もない。空です。

そんなことを千五百年も前の人たちが考えていたとは、仏教とは本当に深い思想です。

2022/02/10

思索の旅発見の旅・生きたしるし・生きること老いること・子規句集・道の一句・平家物語

思索の旅・発見の旅 (同時代ライブラリー) 中野孝次
著者が旅した十か所の国、地域にまつわるエッセイ集。大学教授でドイツ語が堪能なこと、作家であるため、いろんな国の文学者会議に参加していること、などにより、現地の人と深く交流している。こういう旅は深い教養と見識がないとできない。旅をするというのはこういうことなのだと感心させられる。

30年以上前に様々な刊行物に書かれたエッセイ集。中野孝次の人となりをほとんど知らなかったが、この本である程度知った。大学教授を55歳までしていて、その傍らで文筆業もしていた。山にの登り、たくさん外国を訪ね、犬を飼い、毎晩三合5勺の日本酒を飲んでいた。
一つ一つのエッセイが読みがいあり、深い。文章もすばらしい。2004年に亡くなっているけれど、生前の中野さんを知らなかった。私は中野さんを通して古典を読む楽しさを知った。もっともっと中野さんのものを読むことにする。
さらば、人、死を憎まば生を愛すべし。存命の喜び、日々楽しまざらんや。「徒然草」

どう生きたらよいのか、美しい生涯とは、品性を磨くとは、清く生きるにはどうしたいいのか。そういったことにまつわるエッセイ集。影響されたいことたくさん。

子規の句集を調べてみると、全集を別にすると、この本ぐらいしかない。量が多すぎるので、座右の書として時々読んでいる。子規の俳句はわかりやすい。子規に続く弟子格の人達の俳句がわかりにくくてお高くとまっているのはいかがなものか。高浜虚子が選者なのが気にいらん。

三重県が募集した俳句集。
読めない漢字が多くて困った。電子辞書で手書きしてもわからないものがある。
例えば
「旅人に道蹤いていく帰り花」黛まどか
これは「たびびとにみちついてゆく」ということがネットで調べてやっとわかった。俳句は常用漢字にない漢字や辞書にない漢字が多いけど、パッと読んで読めない俳句はあかんと思う。やさしい言葉でみんなが読めるものでないとあかん。

この平家物語は若年層の読者を対象としているものと思われる。おそらく原典のダイジェストとしてはよくできているのではないかと思われるが、読み物としてはあまりおもしろくなかった。挿絵がすばらしかった。

2022/02/05

唯識⑥ 非有非無(ひうひむ)

非有非無(ひうひむ)、「有にあらず、無にあらず」という言葉は、唯識を理解するために重要な言葉です。「あるとも言えないし、ないとも言えない」、「あるようでない、ないようである」という意味です。また、非有非空(ひゆひくう)も同じ意味です。
私は、この非有非無(ひうひむ)という言葉が大乗仏教を理解する鍵であり、そしてまた非二元を理解する助けにもなると思っています。

釈尊の教えの一つに、中道(ちゅうどう)があります。中道とは、極端な道を離れて、真ん中を歩んでいきなさいという教えです。この中道の教えの一環として、非有非無があります。あるでもない、ないでもない。極端な見方をしないということです。

私はこのブログの仏教入門のところで、以下のように書きました。

『釈尊は、当時の哲学者たちが論争を繰り返していた、哲学的な形而上学的(けいじじょうがくてき)論争に加わることをしませんでした。哲学的な形而上学的論争とはどういう意味かというと、例えば、「世界は有限か無限か」「身体と霊魂は同一か」「悟りをえた人にとって死後の世界はあるのか?」「アートマンは実在か?」といったようなことです。こうした問題に関して釈尊は肯定も否定もしませんでした。』

形而上学的(けいじじょうがくてき)って、よくわからない言葉ですけど、その意味は、「よくわからないような難解な」という意味のようです。要するに、よくわからないような質問にはお答えにならなかった。

唯識の場合、「物は実在か?」と聞かれたら、非有非無です。有るとも言えないし、無いとも言えない。
私たちは、物は存在するかしないかで考えます。でも、答えは、有るとも言えないし、無いとも言えないというのが唯識の答えです。

このことについて、唯識の本では、「言葉どおりに世界は存在しない」という説明がしてあります。このあたりのことは、ナーガルジュナ(龍樹)①のところでも書きました。要するに、言葉どおりに世界はないのだから、有るとか無いとか言うことはできないという説明です。

私は、この非有非無(ひうひむ)を非二元的に解釈しています。例えば、「物がある、ない」ということを考える時、誰が考えているのかというと、「私」です。「物がある、ない」という問いを投げかけた瞬間に、主体しての「私」を作り出してしまうわけです。

もし、「私」という基準点(視点・参照点)が無かったら、物はあるのか、ないのか?  もし、「私」という基準点がなかったら、質問そのものが消えます。そこには質問する人がいないので、そうなると、物があるのか、ないのかわからない。いや、「私」がいなくても物はあるでしょ、という人は、そう言うとき、「私」という基準点から判断しています。

もっとわかりやすい例を出すと、「私が死んでもこの世界は存在するのか」です。例えば、今この瞬間にあなたが死んだと想像してください。突然あなたはこの世界から消えます。そしたら、そのあと、この世界は引き続き変わらずにあるのでしょうか。

もちろん大多数の人は、「世界はある」と答えるでしょう。でも、よくよく考えてみてください。あなたがいなくなった世界を想像しているのは、今生きているあなたです。基準点(視点)は、今生きているあなたにあって、消えてしまったあなたにはありません。

もし、消えてしまったあなたに視点を置くことができるとしたらどうなるでしょう。消えてしまったあなたは、目もなければ脳もないので、考えることも見ることもできません。「いいや、空の上から見ている」とか、「あの世から見ている」と言うかもしれません。

でも、よくよく考えると、空の上にいる自分を想像しているのは、今のあなたなのです。それゆえ、あなたが死んだあとのこの世界は非有非無であり、あるともないとも言えないことになります。私が死んだあとの世界は非有非無であり、あるともないとも言えません。

そもそも、私たちは基準点(視点)のない世界がどういう世界なのかを全く知りません。このあたりのことはセイラーボブのところで何度も書いたことですが、主体が消えれば客体も消える。質問者が消えれば質問も消えるということです。仮定や質問自体が意味のないことであり、仮定や質問が消えれば答えも消えるということです。それこそが非有非無だと思います。

実在は、私たちという基準点(視点)とはまったく関係のないものであり、私たちの仮定や質問そのものがピントはずれだということになります。それゆえ、禅の公案に対しては、「お茶でも召し上げれ」という答えがくるのです。考えても答えの出ないことなのです。

私は輪廻も死後の世界もないと思っていますが、行ったこともないのに断定することはできません。死んでから帰ってきた人が誰もいない以上、死後の世界は非有非無、あるとも言えないし、ないとも言えません。

今朝見た夢の世界があったとも言えないし、なかったとも言えないように、今生きているこの世界が夢だとも夢ではないとも言えないのと同じです。

知性エネルギーも阿頼耶識も非有非無、あるとも言えないし、ないとも言えない。誰も見たことがないのですから。

同様に、釈尊が答えなかった形而上学的(けいじじょうがくてき)な問いに対する答えも非有非無、あるとも言えないし、ないとも言えないのだと思います。

大乗仏教の空の思想も同じで、非有非空であり、有るとも言えないし、空(くう)であるとも言えない。誰も空の世界を見た人はいないわけですから。

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 

2022/02/02

法顕伝・実作俳句入門・子規漱石・B面の夏・平家ものがたり

法顕伝・宋雲行紀 (東洋文庫0194)
佐々木閑先生の YouTube を見るうちに、法顕伝を読みたくなって読んだ。
もう少し冒険談のようなものを想像していたのですが、旅の行程と、そこにはどんな仏教があったのか、どんな仏教遺跡があったのかということが淡々と書いてある。

驚くべきことは、法顕が中国を出発したのは紀元399年で、法顕が64歳の時。当時の平均年齢からすると、ものすごく高齢になってから出発している。行くときは何人か一緒に出発したのに、帰る時はたった一人。死別したり、別れたり。ちなみに、玄奘三蔵法師よりも、200年以上前。よくぞこんな旅行記が残っていることか。

インドにたどり着くまでに6年。インド滞在6年。インドから中国に帰るのに3年。合計15年の旅で、中国に帰ったのは78歳の時。帰ってからは持ち帰った経典の翻訳に従事。85歳で亡くなる。これを読むと、人間何かを始めるのに年齢はあまり関係がないかもしれない。でも、60歳を超えてタクラマカン砂漠を歩いてインドまで行ける人がどれだけいることか。



回想 子規・漱石 (岩波文庫)
高浜虚子という人の文章はひどすぎる。物語の構成力もない。この人が小説家として大成しなかったのもうなずける。これは読み物としては失格。漱石とのやり取りなど、資料としては意味があるかもしれないが。

角川俳句ライブラリー 新版 実作俳句入門
俳句の作り方の本をあれこれと読んでみたが、あまり良いものがない。この本も、読んでいて納得できない場面が多かった。以前買った角川学芸ブックス 新版 20週俳句入門の暗記用の句を言われたとおり全部覚えたけど、かえって下手になっただけ。俳句の作り方の本を読むのはもうやめ。実際に俳句を作る時間を多く持つようにする。だいたい、虚子とか碧梧桐とか秋櫻子とか、解説がないと意味がわからないような俳句ではどうしようもない。そういう人たちが子規の作った俳句の世界をお稽古ごとにおとしめたのだと思う。虚子とか碧梧桐とか秋櫻子の句を読んでも、はっと感動することがない。子規の俳句を継承しているとはいいがたい。

B面の夏 (角川文庫)
俳句もさることながら、ルックスがいいので師事してしまう。
一つだけ引用させてもらいます。

流星を受けそこねたる相模灘(さがみなだ)

学研まんが 日本の古典 まんがで読む 平家物語
これはいい。このシリーズで古典をさらっと読んでから難しい本を読むといいかも。

平家物語 (すらすらよめる日本の古典 原文付き)
確かにすらすら読める。抜粋ではあるが、原文もついている。なかなかいい。

2022/01/29

唯識 ⑤ 阿頼耶識 末那識(あらやしき まなしき)

私たちが自分の外側にあると思っている物を認識する場合を考えてみます。
外側の物の姿が、私たちの網膜に像として映ります。その映った像は何らかの信号に変えられ、神経系統経由で脳へと伝達され、脳はその信号を読み取って、脳の中で像を再構成します。

そうなると、外にある物を直接認識しているのではなく、脳が脳の産物を認識しているにすぎないということになります。つまり、心が作り出した像を心が認識しているということになります。心が心を認識している。この認識する働きを仏教では識(しき)と言います。

仏教では、目を単なる感覚器官としてとらえるのではなく、物を見てそれが何であるかを認識する働きがあるものとしてとらえています。物を見るとき、もちろん目で見るのですが、目だけで物を見ることはできません。目には神経系統がつながっていて、そこから脳へ何らかの信号が伝わり、脳がそれを情報として読み取って再現しています。

また、死体に目や神経や脳があるから物を見ることができるかというと、おそらく見ることはできず、何らかの生命としての作用がないと見ることはできません。そうしたことの全体をさして眼識(げんしき)と呼びます。他の感覚器官も同様に、五感はすべて、こころの作用として、眼識(げんしき)・耳識(にしき)・鼻識(びしき)・舌識(ぜつしき)・身識(しんしき)と呼ばれます。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚のことです。

そして、人間には五感の他にもう一つ認識する道具があります。それは思考、意識です。私たちは、五感以外で物を認識することができます。(昨日会ったあの人はきれいだったなぁ)と思ったとたんに、その人の映像が浮かびます。(あのカレーはおいしかったなぁ)と思ったとたんにおいしい味を思い出します。

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五つの識と意識によって、心は物を認識します。唯識より前の仏教では、認識作用としてこの六識を説いていました。以上の六つの識は私たちが容易に自覚できるものであり、いわば表層心と呼ばれるものです。唯識の人たちは、ヨーガ(瞑想)によって表層心を沈め、自己の心の内面深くを見つめることによって、心の深層には表層心とは別の識があるということに気づきました。

それが末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)です。一言で言うと、末那識とは、「私」がいると思っている自我執着心のこと。阿頼耶識とは、宇宙のあらゆるものがそこからやってくる情報倉庫のことです。

八識

・眼識(げんしき)……視覚
・耳識(にしき)………聴覚
・鼻識(びしき)………嗅覚
・舌識(ぜつしき)……味覚
・身識(しんしき)……触覚
・意識(いしき)………思考
              ここまでが表層心(六識)
…………………………………………………………………………………………
              ここからが深層心
・末那識(まなしき)………自我執着心
・阿頼耶識(あらやしき)……根本心

末那識(まなしき)

私たちはいつも、「私」が実在であると思っています。このブログを読んでみえる人の中には、いや、「私」は実在ではないと理解していると言う人がたくさんいるとは思いますが、それでも「私」はいるように見えます。

私は会社へ行く、私は悲しい、私は不幸だ。私は~である、私が~する、と私を主語にして考え、思い、主張し、争います。その一方で、私の家、私のお金、私の人生というように、あたかもそこに「私」がいて、何かを所有していると思っています。

一般的に、自我意識には先天的な自我意識と後天的な自我意識との二種類があると言われています。私たちは、生まれるとすぐに母親のお乳にしゃぶりついて、お乳を飲み始めます。本能的な自我があり、お乳を飲まないと生きていけないと知っているからです。

単細胞のゾウリムシが唯一やっていることは、自分とエサを見分けて、エサを食べることだそうです。ということは、どんな生き物にも先天的な自我があるということです。

そして、後天的な自我意識とは、生まれてからの環境によって身についたものです。親から名前を呼ばれ、服を着せられることによって、「私」の名前、「私」の服という概念が身に付き、「私」という概念が身についていきます。

そこには、常に単一の主となる存在、「私」がいると思っています。なぜ私たちは、その思いをなかなか捨て去ることができないのでしょうか。これに対して唯識は、深層に末那識(まなしき)という自我執着心が働いているからだと主張します。

この末那識は深層で働く心であり、眠っている時も働いています。いつもいつも、意識しないのに自我に執着する心があるということです。その「私」や、外の世界にある「物」はどこからやってくるのかというと、阿頼耶識からやってきます。

阿頼耶識(あらやしき)

アラヤシキのアラはサンスクリット語のアーラヤからきていて、蔵・倉庫という意味です。その蔵の中に、私たちが体験する一切が情報として蓄えられています。自分の体、物、山や川などの自然、太陽や月、宇宙。さらには視覚や感触の五感、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識、意識、末那識、これらすべてが阿頼耶識にあります。当然、迷いや悟りもそこにあります。

また、私たちの日々の行いもそこに記録されます。その行いは因果の法則によって、やがては結果となって表れてきます。悪い行いが阿頼耶識に記録されないよう、日々正しい行いをしなくてはいけないという教えでもあります。

人人唯識(にんにんゆいしき)ですから、一人一人の世界なのですが、その世界の中にあるすべてが阿頼耶識からやってきた世界です。逆の言い方をするなら、一人一人はそれぞれの阿頼耶識の中にいるということになります。体も環境も宇宙も、その阿頼耶識の中にあります。ただし、その世界は、前回のブログで書いたように、増上縁(ぞうじょうえん)によって、他の人の世界の影響を受けます。

唯識派がなぜ阿頼耶識というものを主張しはじめたかというと、それは輪廻思想と関係があります。仏教以前のインド社会はバラモン教であり、バラモン教では我(が:アートマン:私)の存在を認め、それが輪廻すると考えていました。そのため、人々は輪廻するのが当然であると信じていました。

ところが釈尊はそのような我、自分というものはないという無我説を主張して登場しました。私たちの体や心を観察しても、そのような我(私)は発見できません。肉体は日々変化し最後には消えていきます。心やまわりの世界も実体がなく、やがては消えていきます。諸行無常、諸法無我です。

では、我がないとしたら、何が輪廻の主体となるのか。輪廻していくものは何なのか。原始仏教では業(ごう)の相続体が輪廻の主体であると考えました。業とは行為にことで、サンスクリット語のカルマに由来します。自業自得のあの業です。

釈尊の生きた時代には、自分の行為には何ら報い、果報は存在せず、自分の行為には責任を持つ必要はないという考えがまかり通っていたようです。また、無我、私はいないのなら、何をしてもよいということになると思う人も出てきます。

しかし、釈尊は、自分の行為には責任を持つべきだと教えました。この世は主宰神が操っているのでもなく、運命が決まっているのでもない。何をやっても無意味だというのではなく、行為には必ず果報があるのだから、自己の行為が重要なのだと説きました。それが業の思想であり、その業が輪廻の主体であると人々は考えました。

しかし、業の相続体が輪廻の主体であるということを人々はなかなか納得せず、部派仏教の時代になると、それぞれの部派は様々な輪廻の主体を考えて説きましたがうまくゆかず、最終的に唯識派が、輪廻の主体は阿頼耶識であると主張し、一応の決着にいたりました。

阿頼耶識は、過去の業の結果を貯蔵しています。つまり、過去の業も貯蔵していて、それが未来に結果をもたらすというのです。説一切有部のように、過去と未来は存在するという立場に立てば、行為(業)が私たちの見えないような形で実在していて、それが影響力を行使しると考えることも可能ですが、唯識派では過去も未来も実在しないと主張しました。

あるのは現在だけで、過去と未来は存在しないというのが唯識の基本的な立場です。過去が存在しないということは、行為を行ってもそれは消えて無くなり、無に帰するということになります。それでどうして業として未来に結果を招くのでしょうか。

仏教では刹那滅(せつなめつ)を説きます。あるのは現在だけです。すべての現象は刹那に生じ、刹那に消えていく。では、どうしたら業が未来へと保持されるのでしょうか。もし、ある行為をしたときに、それがなんらかの形に変わって、刹那刹那に現れては消えることができれば、未来へと保持されることになります。

つまり、ある行為をしたときに、その行為が何らかの情報のようなものとなって残り、それが刹那刹那を超えていくことができれば、過去は消えてもさしつかえないわけです。体や意識は消えていくため、体や意識が情報を保持していくとは言えません。そこで、阿頼耶識というものが考えだされました。身体や心が死んだとしても、阿頼耶識が情報を運んでいくと考えたのです。

阿頼耶識も当然刹那滅なのですが、前回消滅した時の情報を保持したまま、また生まれてきます。つまり、輪廻の主体となって、業を運んでいくのです。それによって、そこには輪廻する人や魂のようなものはいないにもかかわらず、業の輪廻を説明することが可能となりました。

阿頼耶識には、自分が過去に行った行為が情報となって記録されています。自分の行いだけではなく、ありとあらゆる情報がそこにはあります。先祖が行ったこと、人類が行ったこと、生きとし生けるあらゆるものが行ったことが情報としてそこにあります。

また、私たちが何か行動すれば、それが情報となって阿頼耶識に保存されます。なぜそのようなことが起きるかということについては説明がありません。

阿頼耶識も末那識も不可知なものです。深層深くにあって、私たちが知ることができないものだというのです。これに関連して、阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) p41から抜粋させていただきます。

 世親が著した『唯識二十論』は、「外界に事物が実在する」と見る他派からの批判に、一つ一つ反論することによって、「すべては唯だ識のみである」という唯識の根本主張を立証した書ですが、この書の最後の「結び」の頌(じゅ)がたいへん大切なので引用しましょう。
「私は自分の能力に応じて唯識性が成立することを論究してきた。しかし、その唯識性の全体は思推されない」
そしてさらに続きます。
「この唯識であることの全体は、私ごときものによっては思推されることはできない。なぜならば、それは概念的思考の対象ではないからである。ではそのすべては、だれの境界であるか。そこで、仏陀の境界であると説く。実に、その唯識であることの全体は仏陀・世尊たちの境界である。なぜなら、仏陀・世尊たちは、なんらの障害もなく、あらゆるあり方、あらゆる知るべきものを知りつくしているからである」
と、世親は述べているのです。


つまり、「唯識」の全体は仏陀、すなわち覚者となってはじめて真に理解できることであり、世親にも理解できないと言っています。もう、ツッコミどころ満載ですが、こらえてください。どうしてそうなっているのかは説明できんけど、そうなのだと言っています。

私は唯識の本を読んで、「ただ識のみがあるだけ」「心が心を見ている」「阿頼耶識からすべてが現れる」と読んだ時、ひどく感動して、ぜひともブログに書きたいと思いました。なぜかというと、唯識の世界観がセイラーボブの描く世界観にとても似ていたからです。

阿頼耶識という言葉を、知性エネルギーという言葉に置き換えてみてください。その世界観があまりにも似ている。どちらも、私たちが知りえるものではなく、言葉で表すこともできない。そしてすべてはそこから現れる。

参考YouYube『佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その3」』
このYouTubeは、唯識、阿頼耶識について明解に説明されています。

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
唯識十章 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
唯識の心理学
世親 (講談社学術文庫)
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)

2022/01/26

死を考える・正岡子規の〈楽しむ力〉・宮尾本平家物語

死を考える 中野孝次 青春出版

著者は、一昔前の人たちの死は身近にあったという。
「死を自宅で迎えなくなって久しい。私の祖父の時代には、人々は自宅で死を迎えたが、今はほとんどの人が死を病院で迎える。そのため、死が人々から隠されてしまい、死というものに対する理解が希薄になった」という。

一昔前の死についての考察に始まり、よりよい死を迎えるためにはどうしたらよいのかと展開していく。現代においては、一日でも長生きすることが良いことだとされているが、そうではなく、より良く生きることこそが、よい死を迎えるためには必要なのだという。

より良く生きるとはどういうことか。それは、今ここを生きること。現代社会を生きる多くの人が、今ここを生きていないという。金、地位、名誉といった、未来のためにあくせく働いて、今を犠牲にして生きているという。

今を生きるためにはどう生きたらよいのか。それは、今になりきること。今になりきるにはどうしたらいいのか。おなじみのセネカ、エピクロスに加え、道元、大拙、盤珪を引用して、今をどう生きるべきかを説いていきます。

そして、「時間や空間は今を生きている人にはない」、なんて、どこかで聞いたようなことが書いてあり、ちょっと驚きました。
「生きているのは今この瞬間であり、そこには昨日も明日も死もありません。それは不生であり、不滅だ」といいます。まったく同じ話しを中野孝次から聞くとは思っていなかったので、ちょっと驚きました。大拙も同じことを言っています。この本は死についての本ではなく、いかに生きるかの本です。

p96から引用 (「徒然草・吉田兼好」の中野版現代語訳)
 そういうことだ。だから君が死を憎むならば、生を愛するがいい。生きて今あるよろこびを、日々に楽しまないでいてどうしょう。ところが愚かな人は、生きて今あるということの最高の楽しみを忘れて、ご苦労千万にもほかの楽しみを求める。この一番の財を忘れて、わざわざ骨折って他の財をむさぼる。そんなことで心が満たされることのあるはずがないのである。生きているあいだに生を楽しまないでいて、死に臨んで死を恐れるなどと、こんなバカな話はないではないか。大方の人が生を楽しまないのは、心の底から死を恐れていないせいだ。いや、死を恐れないのではない、死が近いということを忘れているからだ。ただし、もしここに自分は生死などということに一切心を労しないという人がいたら、その人は真の悟りを得た人だというべきだろう。 


正岡子規は34歳で亡くなったが、晩年の五年間はほぼ寝たきりだったという。
背中からは膿が出て、毎日一時間かけて妹に包帯を取り換えてもらい、排便も排尿も食事も全部布団の上の生活。

それでも驚くことに、寝たきりのまま新聞の連載を書き、俳句を詠み、絵を描いた。結核からくるカリエスの痛みに苦しみながら、モルヒネを飲みながら生きた。
この本を読むと、子規の闘病生活には微塵も暗さがない。苦しさはある。でも、子規は言っている。

p174
病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白みもない。

寝たきりの部屋で句会を開き、人を集めては和歌を詠み、小説について語り合う。
子規の生き方を読むと、生きるということはどういうことなのか考えさせられる。自分などは曲がりなりにも健康で生きているにもかかわらず、子規のように全力で今ここを生きていないと思い知らされる。

子規は毎日毎日食べたものを記録しているが、病人とは思えないほどの量を毎日食べていた。結核という病気の性格上、精をつけるために食べようとしたのだと思うが、健康な人よりもはるかに食べている。その記録を読むと、痛快ですらある。

病気ということと、生きるということは別個のもののように思えてならない。
子規が死ぬ前の日に詠んだ句。

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰意一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひのへちまの水も取らざりき

糸瓜(へちま)の水は結核に効くといわれていて、子規は庭に糸瓜を植えて飲んでいた。
そしてまた子規はこんな言葉を残しています。

禅の悟りとは、どんな場合でも平気で死ぬことだと思っていたが、それは間違いで、どんな場合でも平気で生きていることだとわかった。

宮尾本 平家物語 一 青龍之巻 (文春文庫) 一巻~四巻  宮尾登美子

方丈記や徒然草、法然などの本を読むうちに、平安時代のことをもっと知りたいと思うようになり、YouTube で平家物語関連のサイトをあれこれ見た。そして、実際に平家物語を読もうと思い、宮尾登美子の平家物語を読んだ。

おもしろかった~。宮尾本の平家物語は、女性という視点に重きがあって、血のつながりに重点が置かれている。最初のうち、登場人物が多くて、誰が誰だかよくわからなくなり、一度読んだところを読み返したりしていたが、巻末に詳しい系図があるとわかって読むのが楽になった。

その系図は、平家、天皇家、源氏などがあり、複雑にからみあう人間模様がおもしろい。また、宮尾登美子の描く清盛像は、どちらかというと慈悲深い温かい清盛のようで、とても興味深い。一般的に言われている通説とは異なる解釈が随所にある。安徳天皇の最後に関しては、あっと驚く結末が待っている。今度はまた別の人の平家物語を読むつもり。

仏教、方丈記、エピクロス、中野孝次など、「欲望を追わない生き方」の本を読み、その一方で「どっぷりと欲望を追う」平家物語を読む。そして「すべては幻影である」というブログを書いている。そのいずれにも美学がある。そしてそのいずれにも共通の学びがある。

2022/01/22

唯識④ 人人唯識(にんにんゆいしき)

このブログの「物は実在か?」のところで、私たちは本当に物が存在するのかを確かめるすべを持っておらず、心の中の映像を見ているにすぎないと書きました。では、心の外側には物が存在しないのでしょうか?

一個のレモンは、心の中の像でした。その像を別の心が見ています。では、月や夜空の星はどうでしょう。夜空に広がる星々も、心の中の像です。宇宙の果てまで思いをはせたとしても、それは私の心の中の像でしかありません。

私は今、部屋のパソコンの前に座って、コーヒーを飲みながら、このブログを書いています。今、私の世界は、部屋とパソコンと、コーヒー、そして窓ごしに見える向いの家並みと空。それが私の世界であり、他の人の経験している世界とは関係がありません。

今この瞬間には、エジプトのピラミッドもアフガニスタンの人々も、思考を向けないかぎり存在しません。ということは、私の世界は私の視界や思考だけでできているということになります。すなわち、私の世界はすべて、私の意識の中にある、別の言い方をするなら、世界は私の意識の中にしかないということになります。

では、私の意識の外に、エジプトやアフガニスタンは存在しないのでしょうか? それを確かめる方法はありません。なぜなら、私たちは自分の意識の外へ出ることはできないからです。

唯識では、心の外の物の存在を認めません。前回のブログで取り上げた原子という視点に立つなら、唯識では実体としての原子(究極の物質)の存在を認めません。唯だ、識(心)だけが存在するという教えです。それでは私たちが目にしているものは一体何なのだということになります。

私たちが見ている物は心の内側にあるものであったとしても、それをもたらす何らかの外側の実在があるはずだと考えるのは自然なことだと思います。というのも、私たちが認識している世界が、何もないところから現れるはずもなく、なんらかの要因があるはずだと考えざるえないからです。

部派の中には、経量部(きょうりょうぶ)のように、心の外側に見ている対象が実在するという見方をしている部派もありました。つまり、法(構成要素)の実在を外側に認めつつ、認識は心の内部で行われるというのです。唯識派と経量部の間では、激しい論戦が行われたそうです。

個人的には外側に何かがあって、それを心の中で認識しているのだと考える方が自然だと思うのですが、それだと空(くう)を説く大乗仏教の教えではないし、非二元的でもなくなって、普通の考え方になってしまいます。

心の外側には世界はないとするなら、私たちは一体何を見ているのか? 物自体にあたるもの、外側の世界にあたるものはどこにあるのか? あるいは、私たちが見ているものは何なのか? 唯識では、それは阿頼耶識(あらやしき)であると説明します。

阿頼耶識とは、私たちの心の深層深くに存在する意識。その意識は情報倉庫のようなもので、私たちが目にしたり、体験したりすることの情報がそこにある。そこから、私たちが目にしたり、体験したりすることがやってくるのだといいます。阿頼耶識(あらやしき)についてはまた次回詳しく書きます。

もう一度、私たちが物を認識するしくみについて書きます。例えば、一本の木を見ているとします。目が木を認識して、それを何らかの信号に変え、神経系統を経由して脳に伝達します。脳はその信号を何らかの形で木という像に変え、脳はその像を認識して、脳の中にある情報の中の木と照合して、(木が立っている)と判断することになります。

つまり、脳の中で何らかの方法で像として作られたものを意識が見ているということになります。作られた像は意識の上に現れたものであり、それを見ていることになります。言い方を変えると、意識が意識を見ていることになります。

その場合、目が最初に入手する木の情報は外側からくるのではないかと考えますが、唯識では、その最初の情報そのものが阿頼耶識からくるというのです。そして、目も、脳も、木という情報も全部阿頼耶識からくるというのです。

今ふうに言うなら、木も目も脳も情報も、全部が阿頼耶識というヴァーチャルリアリティの中の出来事だというのです。さらに、その阿頼耶識も実在のものとは考えてはいけない、実体としてあるのではなく、説明のために仮にそう呼ばれているものであるという、おそろしい結末が待っています。

その阿頼耶識から広がったヴァーチャルな世界のことを、心(こころ)と言ってもいいし、意識と言ってもいいのですが、そこに「私」の世界がある。つまり、意識の中で、意識が作り出した木という像を、意識が見ているということになります。

ここで注意しなくてはいけないのは、その意識、心は、一人一人それぞれの意識、心のことであって、集団としての共通のものではないということです。集団としての意識やヴァーチャルな世界があるのではなく、それぞれ一人一人の意識の中で起こっているということ。

これを、人人唯識(にんにんゆいしき)と言います。別の言葉で言うなら、一人一人がそれぞれ別の宇宙(世界)を見ているということです。でもなぜ一人一人が一見同じような共通の世界を見ているのか? なぜ私の世界にもピラミッドがあり、別の人の見ている世界にもピラミッドがあるのか? なぜ私が見ている世界と他の人が見ている世界が同じように見えるのか? 私の世界が地球なら、他の人が見ている世界が、例えば火星や、はたまた天国のような場所であってもいいはずなのに、なぜ他の人も私と同じように地球という世界を見ているのか。

生物にはそれぞれのプラットフォーム(基盤となる環境)があり、人間には人間のプラットフォームがあって、それがそれぞれの阿頼耶識にあるため、同じ情報を持っているのだといいます。猫の世界やライオンの世界にはまたそれぞれ共通のプラットフォームがあって、猫同士で共通の世界を見ているのだといいます。

人間に生まれた場合、同じ世界の情報を阿頼耶識にもっているため、同じ世界をそれぞれの意識の中で見ることになります。それは一見同じものに見えますが、実はそれぞれが別々の世界(宇宙)を見ているということになります。一人一人の宇宙です。

例えていうなら、それぞれの人がヴァーチャルリアリティのゴーグルをつけて、それぞれの世界を見ているような状態です。そして、そのヴァーチャルリアリティの世界の外には何も存在しないというのです。

私たちは、共通の一つの世界に住み、同じ物を見ていると思っていますが、そうではなく、それぞれの世界で、それぞれの阿頼耶識からやってくる世界を見ているということになります。

例えば、三人で一本の木を見ているとします。常識的に考えると、三人の心の外に実在する一本の木を、三人で見ているのだと考えます。しかし、人人唯識(にんにんゆいしき)ですから、三人が共通の一本の木を見ているのではなく、それぞれ各人の世界(意識)の中で映像としての別々の木を見ているということになります。

その木はどこからやってきたのかというと、三人それぞれの阿頼耶識にある情報からやってきたものであり、一見、同じ一本の木を見ているように見えますが、そうではなく、それぞれがそれぞれの世界の中の木を見ていることになります。ここで一つの疑問がわいてきます。

その木はそれぞれの人の意識の中にあって、その意識の外には実体的な木は存在しないというなら、たとえば誰かが、その木を切ったら、それはその人の意識の中にある木を切っただけで、他の人の意識の中にある木を切ることにはならないのではないか。他の人の見ている木は残っているはずなのに、実際には一人が木を切れば、他の人が見ている木も切られてしまう。これをどう解釈したらよいのか。

これを唯識では、増上縁(ぞうじょうえん)という概念で説明します。増上縁があるために、ある人の行為が縁となって、他の人の世界に影響を及ぼすというのです。

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
唯識十章 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
唯識の心理学
世親 (講談社学術文庫)
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)

2022/01/15

唯識③ 量子力学

私が読んだ唯識の本では、物が存在するかどうかという話をする時に、量子力学の話が出てきました。

量子とは何か?

量子とは、粒子と波の性質をあわせ持った、とても小さな物質やエネルギーの単位のことです。物質を形作っている原子そのものや、原子を形作っているさらに小さな電子・中性子・陽子といったものが代表選手です。光を粒子としてみたときの光子やニュートリノやクォーク、ミュオンなどといった素粒子も量子に含まれます。
 量子の世界は、原子や分子といったナノサイズ(1メートルの10億分の1)あるいはそれよりも小さな世界です。このような極めて小さな世界では、私たちの身の回りにある物理法則(ニュートン力学や電磁気学)は通用せず、「量子力学」というとても不思議な法則に従っています。(文部科学省HPより)

要するに、原子やそれを構成する粒子のことですね。このブログの中では、その粒子の間は大きな空間である話や、粒子の中には質量がないものがあるということを書いたことがあります。

私が読んだ唯識の本ではどういうふうに書かれているかを抜粋させていただきます。

 物とはなにかという存在観を根底から変えた二つの科学的発見・発達が二十世紀にありました。それは「相対性原理」の発見と「量子力学」の発達でした。
 前者の相対性原理の発見によって、絶対時間と絶対空間はない、時空は四次元時空として存在するということがわかりました。
 後者の量子力学の発達によって、分子・原子ないし素粒子などから構成される「物」のありようがこれまでの物質観、広くは存在観を根底から覆しました。
 量子力学の発達によってミクロの世界での物のありようがマクロの世界でのありようとまったく異なるという事実が発見されたのです。すなわち量子力学によれば、物質を構成する究極の粒子すなわち素粒子は、ある大きさを持った粒子として存在するのではないという結論に達しました。しかもその存在のありようは、私たち観察する側の心のありようによって左右されるという事実も発見されました。
 量子力学のミクロの世界の解明によって次のような事実が発見されました。すなわち、「私たち人間は、存在のありようを観察しているのではなく、存在に関与しているのである」という事実が解明されたのです。ニュートンまでの古典力学によれば、私たちは、これまで自分の前にある物、広くは存在のありようを、それから抜け出て、「それを客観的に対象として近くしている観察者」であると考えられていましたが、量子力学によれば、そうではなく、「その存在といわば[一つのセット]の中にある関与者である」という事実が判明したのです。
阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) p116より

 しかし、ほんとうにそのような「物」が、そして「物」を構成している原子・分子が、外界に厳として存在するのでしょうか。
 この問いに対して、古くは仏教の唯識思想、新しくは現代の量子力学、この二つがノーと答え、いずれも外界には私たちが考えるような「ある大きさを持った粒子」としての原子・分子は存在しないという結論に達したのです。
唯識の思想 (講談社学術文庫) p182より

 物質的存在は、ふつう分割、分解していくことができます。ですから、具体的な物質的存在に実体を求める場合、大体、原子論、それ以上は分割できない究極の存在に実体を求めようとすることになるわけです。今日、果たしてそれは、見出されているのでしょうか。近年、クォークの存在が立証されたというニュースが新聞にのりました。原子をさらに構成する素粒子の究極の物質と目されるものです。しかし、そのあり方は、実体としてあるのかどうかは、問題でしょう。
 物理学の方では、究極の存在が、一方では粒子としてとらえらるものの一方では波動としてとらえられるとか、その他様々な考え方があるようです。
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズムp69より

本に出てくるこれらの表現、「私たち人間は、存在のありようを観察しているのではなく、存在に関与しているのである」、「ある大きさを持った粒子としての原子・分子は存在しないという結論に達したのです」、「物理学の方では、究極の存在が、一方では粒子としてとらえらるものの一方では波動としてとらえられる」。こうした表現の意味が、よくわかりませんでした。
そこで、YouTubeで量子力学に関するものをいくつか見ました。

内容を全部理解できたわけではないのですが、言っていることの意味自体はだいたい理解できました。量子は人が観察(測定)するまでは波のような存在であり、位置や速度を特定できないというのです。人が観察したとたんに位置または速度が特定できるのだそうです。つまり、人が観察していなかったら、量子は何だかはっきりしない波のようなものだというのです。

物として見えている物を構成する微細な量子は、私たちが注意を向けるまではそこに存在しないというのです。もっと正確に言うなら、どこかに存在するかもしれないが、その場所を特定することはできないというのです。驚きました。

量子力学が仏教の教えを証明しつつあります。私たちが考えているような物質はないのだということを証明するところまできています。




参考文献

2022/01/08

唯識② 世界は言葉でできている。

もし言葉(言語)が無かったらどうなるでしょうか? 言葉がなくても生きてはいける。動物は言葉が無くても生きているし、私たちの祖先だって、最初は言葉を持たなかったはずです。

言葉が無かったら、他の人とのコミュニケーションは難しくなるが、簡単なことはジェスチャーを使って伝えられる。お腹が空けば、言葉など使わずとも何かを探して食べるだろうし、本能に従って子孫も残す。

でも、市役所へ行って婚姻届けを書いて出すなんてことはできなくなる。そもそも、結婚という言葉が無かったら、二人で一緒に暮らして家庭を持って、法的に保護してもらいましょうということをどうやって相手に伝えたらいいのかわからない。市役所も婚姻届けも、言葉がなかったら成立しない。人間生活の中で起きる複雑なことは、言葉が無かったら成り立たたない。

では、思考はどうか。私たちは、思考の道具として言葉を使っています。ものを考えるとき、言葉が無いとどうなるか。言葉が無い場合でも、思考そのものはある。でも、言葉が無かったら、複雑なことを考えることはできない。おそらく、思考というよりは感覚に近いものだけになってしまうような気がします。

映像の記憶だけでも、思考することは可能だと思います。例えば、将棋の棋士が記憶している棋譜のように、手順を記憶していれば、場面を順に思い出すことはできる。行ったことがある場所への行き方は、映像としての記憶を再現すれば思い出すこともできる。

時間の感覚はどうでしょう。言葉が無くても、太陽が高く昇れば昼だとわかるし、太陽が沈めば夜だとわかる。日々の出来事を将棋の棋譜のように順に思い出していけば、以前のことを思い出せるかもしれない。昨日と一昨日ぐらいまでは区別がつくかもしれないが、一か月前とか一年前の区別がつくだろうか。カレンダーが無かったら、過去の記憶がグチャグチャになってしまうような気がします。私の場合、カレンダーがあってもグチャグチャなのだけど。

時々、クイズ番組で、起こった順に出来事を並べよというのがあるが、自分の記憶がいかにグチャグチャなのかを知って驚くことがあります。私の場合、保育園より前の記憶はほとんどない。それ以前の記憶は、アルバムの写真に置き換わってしまっている。

未来のことを考える場合は、言葉がなくてもその日の夜のことぐらいまでは考えることはできるかもしれないが、それより先のことは、言葉がなくては難しい気がします。

私たちの世界は、多くの部分が言葉でできている。フランス語では、蝶と蛾の区別がなく、どちらの場合もパピオンというらしい。英語ではウッドとツリーを分けるが、日本語では木という。日本語ではお兄さん、弟と一言で上下関係を表現できるが、英語ではブラザーしかない。日本語では牛というが、英語ではカウ、カトル、オックス、ブルといって、何だかよくわからない。

それぞれの言語、あるいは民族が別々の概念を持ち、それに対して言葉をあてている。極端なことを言えば、それぞれの世界はそれぞれの言葉でできている。

ということは、私たちが言語を通して認識いるものが、外界にそのまま存在してるということにはならないということになる。混沌とした世界の一部をその言語体系に即して切り取って定義づけして使っているだけであり、つまりそれはそれぞれの概念の反映と解釈できる。世界は言葉でできている。でも、世界はその言葉どおりには存在していないということになる。

例えば、お金。紙幣でもコインでもいいのですが、それはもともと紙か金属のかたまりにすぎません。その紙か金属のかたまりが、私たちの意識の中で思考となって現れたとたん、紙や金属ではなくなり、金という途方もない欲求の対象に変わる。

それは単なる紙か金属にすぎないのに、時によっては命よりも大事なもに見えてしまいます。それを手に入れようとして奮闘し、手に入れると満足感を味わうのですが、そうした価値観は、自身が思考の中で勝手に構築したものだと気づきません。

「私」という言葉に関してはどうでしょうか。セイラーボブはミーティングで、「私の手、私の足と言うのなら、私と手や足は別のものですか? その私とは一体なんですか?」という話をします。私の手と言うのなら、私と手は別のものとなる。私の心臓、私の脳と言うのなら、私は脳でも心臓でもないということなる。

私の心が痛む、というのなら、私は心ではないということになる。私の魂というのなら、私は魂ではないということになる。では一体、その私とは何なのか、どこにいるのかということになり、それは実体のないものであるという話をする。

全く同じ話が唯識の本にも書かれていて、私などいない、無我(むが)であると説いている。無我は仏教の基本の教え。仏教も非二元も、「私」は存在しないと教えるのに、私たちの心の中は「私」だらけです。

私の手、私の足、私の部屋、私の家、私の車、私の服、私の妻、私の母、私の子、私のお金、私の人生、私の気持ち、私の心。そして、日常生活においても、すべて「私」が中心です。私は起きる、私はごはんを食べる、私は会社へ行く、私はテレビを見る、私は泣く、私は怒っている、私は寝る。

その「私」が何かということを確かめようとしても、それはできません。目が自分の目を見ることができないように、主体が主体を見ることはできないからです。よくある例えで言うなら、月を指さすことはできても、指を指さすことはできないからです。

世界は「私」だらけです。生きていくためには、片時も「私」を忘れることはできません。「私」などいないと言って知らんふりしていても、私のお腹は空きます。「私」などいないと言っていたら、生存競争に取り残されて、生きていくことさえ難しくなります。

でも、よくよく考えると、「私」などというものはない。セイラーボブもそう言っているし、釈尊もそう言っている。私たちは、「私」という言葉があまりにも便利なために「私」という言葉を多用しますが、そこには「私」という言葉があるだけで実体はありません。

「私」がないのなら、何があるのか。初期仏教では、「私」はないが、体と心を構成する要素、五蘊(ごうん)はあるのだと説きました。それが発展して、部派仏教では五位七十五法となり、七十五の構成要素で世界を説明しました。

そして唯識ではさらに細かく分類し、構成要素は百となり、五位百法が説かれました。唯識では、何がこの「私」という思いを引き起こすのかについて、私たちの深層心理の中に、「私」という思いを引き起こすもととなる意識が存在するのだと説きました。それを末那識(まなしき)と言います。末那識についてはまた後日書きます。

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
唯識十章 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
唯識の心理学
世親 (講談社学術文庫)
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)

2022/01/06

出家的に生きる人 服部潤氏(書家,詩人)

出家的に生きる人 服部潤氏(書家,詩人)

これは普段私が見ている佐々木閑先生の YouTube から転載です。
世俗の価値観を離れて、自分の道に生きる人を紹介してみえます。

2022/01/05

生きることと読むことと・本物の生き方・春宵十話

生きることと読むことと―「自己発見」の読書案内 (講談社現代新書)  中野孝次

中野孝次が読書について書いたエッセイ集。清貧の思想以来、中野孝次の本を飽きもせず読んでいる。この本には彼が今までにどんな本を読んできたのかということが書いてある。

中野孝次が勧めているのは古典が中心。特に印象に残ったものだけ書いておきます。
「パルムの僧院」スタンダール
「スタンダール」アラン・大岡昇平
「坊ちゃん」漱石
「源氏物語」
「バルザック」アラン
「方丈記」
「徒然草」
「平家物語」
「愚管抄」
「吾妻鏡」
「更科日記」

日本の古典に関しては原典を読んでいる。私も読んでみたいけど、原典は読めない。中野さんは最初からスラスラと読めたかというと、そうではないらしい。解説書を読みながら、少しずつ理解して全部が読めるようになって、そのあと何回も読んだという。私などはYouTubeで見てしまうのだけれど、古典は原典で読まないと良さがわからないのだそうだ。

「正法眼蔵」などの仏教関連になると、道元が作った言葉がたくさん出てくるので、解説なくしては読めないのだという。古典が読めるようになりたいという思いはあるが、戦前の学者が書いたものでもお手上げの私の場合、ちょっと手が出ない。

中野孝次のエッセイ集。中野さんのエッセイに流れている中心思想は、「清貧の思想」と同じ。金や地位を追うのではなく、人として恥ない生き方をするということ。そういう一生を生きた人たちにまつわるエッセイ。

書に関して書いてあるところでは、熊谷守一と中川一政の書がお気に入りだとあった。二人とも画家なので、絵の方は知っているが書の方は良く知らなかった。ネットで二人の書を検索してみて驚いた。

中野孝次さんは、美術や芸術を鑑賞する場合には、自分の中にある審美眼だけを基準として、人の言うことは全く気にしないという。それってものすごく大事だと思う。
調べてみると、熊谷守一も「欲望を追及しない生き方」をした人だとわかった。暖かくなったら、熊谷守一の絵や書を見に行きたい。

春宵十話 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫) 岡潔

岡潔の名前を初めて知ったのは、佐々木閑先生のYouTubeの中です。社会的な地位や金を追及しない人の話の中で出てきたと記憶しています。そしてアバタローの岡潔を見て、ぜひ本を読みたいと思って読みました。

これは岡潔が毎日新聞に書いたエッセイが中心になっているようです。初版は1963年。岡潔は数学の学者ですが、教育で一番大切なことは情緒を養うことだと言っています。情緒を育てるためには、人の気持ちを考えること、人を助けること、そういったことを親や社会が教えること。

この本が書かれたのは60年前で、敗戦から日本が立ち直って高度経済成長の真っただ中のころです。このエッセイでは、戦前の教育を受けた人なら誰もが知っているような神話の話や天皇、論語、仏教の話が引き合いに出されますが、私にはピンとこないような話が多かったです。

戦前の日本の教育では、神話、古事記、日本書紀、論語、天皇、仏教といったことを親や周りの人が子供に教えたと思うのですが、戦後の教育では、そうしたことを教えるのが一種のタブーになっていて、子供をどう教育したらいいのかわからなくなってきているような気がします。

1962年に起きた三河島惨事(死者160人を出した鉄道事故)を引き合いに出して、それは教育上の問題であると言ってみえます。この事故は、脱線の事故処理を手間取る間に、電車から降りて歩いていた乗客を別の列車がはねて、多数の死傷者を出した事故です。

自分の頭でどうしたらよいかを考えるような教育がなされていないのが原因、自分の頭で考えないような教育がなされている、その一因としては、テレビ、雑誌、映画の影響が大きく、そういったものに感情を支配される結果、知覚作用が働かなくなっていると、言ってみえます。(p112)

今から60年前に書かれたことです。前回の東京オリンピックが1964年ですから、テレビもそれほど普及していない頃に書かれたものです。それが60年後の今はどうでしょうか。人々は携帯で映画やテレビを見ている時代です。

状況は当時と比べてどうでしょうか? 人々の意識は当時の何倍も情緒から遠いものになっているような気がします。人々は必要以上に金を求め、テレビ、雑誌、映画どころではなく、四六時中携帯をのぞき込んでいます。

人が困っていても、助けようとはせず、SNSで見せびらかし競争に明け暮れています。これは人のことは言えない。岡潔のエッセイを読んで、情緒とは何なのか考えさせられました。ネットに費やす時間を大いに減らそうと思う今日この頃です。

2022/01/01

唯識① 唯識(ゆいしき)とは

釈尊の説いた教えは、自我を含めて対象への執着を離れよ、ということでした。自我への執着がむなしいことを示すために、五蘊無我説(ごうんむがせつ:個体を構成する五つの要素の上に我(私)は仮に有るとみなされているだけで、本当には存在しない)が説かれました。

釈尊が亡くなって百年ほどたつと、教団が分裂して部派仏教がおこります。そのなかでも有力だったのが説一切有部(せついっさいうぶ)でした。説一切有部は、我(が)は空(くう)であるが、法(ほう)は有るという教えをとなえました。我とは「私」のことで、法とは、構成要素としての物のことです。

部派仏教が経典の研究に明け暮れ、民衆と遊離していく一方で、人間は誰でも釈尊のような仏になることができるという大乗仏教が現れます。大乗仏教として、まず最初に「般若経」にもとづく、空(くう)の思想が起こります。

続いて、ナーガルジュナ(龍樹)に代表される中観派(ちゅうがんは)が起こり、もう一つ大きな学派として唯識派(ゆいしきは)が起こります。唯識派は正式には唯識瑜伽行派(ゆいしきゆがぎょうは)もしくは瑜伽行唯識派(ゆがぎょうゆいしきは)と呼ばれます。

瑜伽(ゆが)とはサンスクリット語でヨーガの意味であり、ヨーガ、すなわち瞑想によって真理を体得しようとするもので、唯識(ゆいしき)とは、ただ識(しき:こころ、意識)のみがあるという意味です。

中観派も唯識派も、どちらも空を説き、我も法も空であると説きましたが、唯識派は、とりあえず識(こころ)だけはあるという教えです。中観派は、言葉の誤謬や縁起によって空を説きましたが、唯識派はまた別のやり方で空を説きました。

般若の空の思想では、空があまりに強調され、ともすれば虚無主義におちいる可能性がありました。そのため、ヨーガを実践する人たちによって、少なくとも識(こころ)はあるという思想を起こしたのが瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきは)です。瑜伽行とはヨーガのこと。彼らはヨーガを実践することによって、心の奥深くに私たちが通常は気がつかない意識があるということを発見し、新しい思想を打ち立てました。

唯識思想では、般若の空思想が否定した部派仏教の諸概念を再び採り入れ、それをさらに発展させて独自の思想を形成し、五世紀頃、無著(むじゃく)と世親(せしん)によって体系化されました。

無著と世親は、インドの人で、インド名では無著はアサンガ、世親はヴァスバンドゥで、二人は実の兄弟です。二人とも、ガンダーラ(現在のパキスタンのペシャワール)の出身。その地方で有力だった部派は説一切有部であったため、二人とも最初は説一切有部で部派仏教を学びましたが、あとになって二人とも唯識派に転向します。世親はこのブログの部派仏教のところで書いた阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)の著者でもあります。

無著の代表作は「摂大乗論:しょうだいじょうろん」であり、この書によって唯識説がほぼ組織的にまとめあげられました。世親はこれを受けて、「唯識二十論:ゆいしきにじゅうろん」、「唯識三十頌:ゆいしきさんじゅうじゅ」を書きました。

唯識を理解するためには、無著、世親の書いた原典を読まないといけないのですが、私は漢文もサンスクリット語も読めないので、学者が書いた市販の本を読むしかありません。学術書を読むのは難しく、一般向けに書かれたものだけが対象となりますが、そうした本はそほど多くありません。私が読んだ唯識関係の本は入門書であり、参考文献として掲載したものがすべてです。そうした本をもとにしてこのブログを書いています。

それも、唯識の世界観や思想に関する部分のみであり、修行やヨーガの実践によって段階的に達成する方法については書きません。なぜかというと、それはこのブログの趣旨ではないからです。唯識三年俱舎八年を、入門書を何冊か読んだだけで理解するのは無理な話で、唯識や俱舎の内容の全体を理解しているわけではなく、あくまでも非二元的な部分についてのみです。

インドでは、イスラム国家の成立により、仏教そのものが消滅してしまいますが、唯識の教えは玄奘(げんじょう)などの三蔵法師(三蔵法師とは仏教を中国へ伝えた人々のこと)によって中国へ伝えられ、玄奘の弟子が法相宗を起こします。しかし、中国での唯識も、百年もしないうちに事実上消滅します。

日本へは、玄奘から直接唯識を学んだ遣唐使たちによってもたらされ、奈良時代には、興福寺、薬師寺、元興寺、法隆寺などで、さかんに研究されました。今日でも興福寺、薬師寺は法相宗の大本山となっています。そして、日本に伝えられた唯識思想は、仏教の基本学として宗派を超えて脈々と学ばれ続け、現在に至っています。

さて、唯識とは、読んで字のごとく、「ただ識のみ」ということです。それは、私たちがふつうあると思っている「私」や物は無い、ただ識(心)のみがあるということです。
仏教は、インド古来の思想である梵我一如の思想、つまり、ブラフマン(宇宙の本体)とアートマン(自己の本体)が一つであるという思想を明確に否定し、アートマンなどない、「私」などいない、無我であると主張して登場しました。

大乗仏教では、主体的存在(我)も、客体的存在(法)も、一切、空であると説きます。つまり一切の実体を認めません。唯識では、我、法の実体を否定して、唯だ識のみ、と主張します。

私たちは、ふつう、自分のまわりに、変わらない存在としての「物」があると思っています。(このブログを読んでいただいている方の多くは、物も「私」も実在ではないということはもうすでに理解されていると思いますが、唯識の思想を説明するために、一般論として書きますので、そのつもりで読んでください)

身のまわりを見渡すと、コップ、机、椅子など、壊れないかぎり、ずっとそこにある物にとり囲まれていて、変わらない「物」があると漠然と考えています。一方で、生まれてからずっと、変わらずに「私」がいると思っています。

体は成長とともに変化していきますが、どこかに変わらない私、魂のようなものが存在していると信じています。そこには、不変、不滅の実体がいると思っていて、それにしがみついています。

私たちは、そうした「私」や物が実体のあるものであると考え、それに執着し、たくさんの物や、より良い「私」を手に入れようとします。唯識では、そのような「私」も、物もない、あるのは、ただ識だけだと主張します。その識も、実体としてあるのではなく、説明のために仮にそう呼ばれているものであり、言うならば、空なるものとしての識だというのです。

釈尊のもともとの教えは、「私」や物に対する執着、煩悩を断つということでした。「スッタニパータ」に出てくるように、煩悩の激流を渡れ、ということでした。

物に執着していると、物を求めて物に振り回されて生きることになります。物を手に入れることに一喜一憂し、心が物にとれつかれて、平穏な心が失われます。「私」に執着すれば、同じように、他人より優れた「私」を手にいれようとして、葛藤の日々を送ることになります。

実体としての「私」や物に対する執着を捨てるということは、そうした執着によって失われた自由を回復するということです。それが仏教の目的であり、唯識の目的でもあります。

繰り返しになりますが、仏教では、「私」のことを我(が)と言い、物のことを法(ほう)と言います。この場合の法とは、構成要素として物質という意味です。そして、「私」に対する執着を我執(がしゅう)と言い、法に対する執着を法執(ほっしゅう)と言います。

唯識では、我も法も本来、存在しないということを示して、我執・法執からの解放を説きます。実体としての我、法は存在せず、唯だ識だけがあると教えるのが唯識です。

参考サイト

心の時代へようこそ
「阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門」「唯識の思想」の著者である立教大学名誉教授 横山紘一先生が、NHKのこころの時代という番組に出演された時の書き起こしがあるサイトです。少し長いので読むのは大変ですが、参考にはなります。766回から771回までの6回のシリーズになっています。

世親 Wikipedia

無著 Wikipedia

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
唯識十章 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
唯識の心理学
世親 (講談社学術文庫)
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)