2023/08/29

あなたは自ら輝く、永遠に新鮮な、非観念の存在意識です。

ゾクチェンの経典で言われているように、あなたは自ら輝く、永遠に新鮮な、非観念の存在意識です。
ただそれだけ。他には何もない。
あなたはずっとそうであったし、これからもずっとそうです。
自身を過小評価しないでください。
20年かそこらかかって探求したことを捨てて、自分が「それ」であると知って、この部屋を出ていくことができるのです。
これまでも、これからも「それ」であるというのは、すばらしいことではないですか?
それ以外のものにはなり得ないのです。
始まりもなく、終わりもなく、誕生も死もなく、時間も空間もなく、体でもマインドでもない。
                                    セイラーボブ

2023/08/25

あなたに選択権がありますか?

2023.8.20ミーティング  52:23から

ギルバート:ボブの最初の本には数百のポインター(ヒントとなる言葉)があり、その中の一つに、「言葉は物ではありません。水という言葉を飲むことはできません」というものがあります。水という言葉を文字で書くことはできます。パソコンで千回書いて、一万回プリントアウトすることもできますが、それが水になることはなく、水という言葉を飲むことはできません。

言葉は実在(being)ではありません。思考は実在ではありません。そして、アウエアネス(意識)には思考がありません。誰しも同じです。もしそれを深く考えると、何が起こるでしょうか? アウエアネスには思考がありません。明晰さ(clarity)。明晰さは、手に入れる特質ではなく、すでにあるものです。それを普遍的な特性、あるいは存在という事もできます。

すべては明晰で明らかです。そして、人は何ものにもなることはできません。実際それは蜃気楼(mirage)にすぎません。蜃気楼の中の水を飲むことはできません。あなたが人を探しても、見つけることはできません。それは単なる思考、イメージ、記憶のかたまりにすぎません。「私」という記憶が犯人のように見えるのです。その「私」が、記憶の図書館の長なのです。

その私は、うわべ上では好みがあります。ある物事を思い出すのを好み、他の出来事を忘れるのを好みます。でも、「私」の記憶はフィクションです。存在(being)のことを、人は究極のものと呼びますが、それを何と呼ぼうと、ラベルはそれではありません。そして、非実在から実在への旅は実在ではありません。

分離した存在という幻想は実在ではなく、それをあなたはどうすることもできません。実在が非実在に対して何かしなくてはいけないことがあるでしょうか? それに何ができるでしょうか? それが何かをする必要はありません。非実在は決して実在になることはありません。

「What's wrong with right now if you don't think about it.」の最後がこの話だったと思いますが、それは、「くつろいで、ありのままでいなさい(Relax, and be what you are.)」という大文字です。そして、あなたに選択権がありますか?(Do you have a choice?)

2023/08/23

唯識(ゆいしき)・世界は実在するのか

佐々木閑 仏教講義 9「仏教の宇宙 その22」(「仏教哲学の世界観」第12シリーズ)

去年一年がかりで、仏教の中にある非二元についてこのブログに書きました。その中でも特に、唯識の思想がセイラーボブの教える非二元の世界に近いことを言っていると書いたつもりです。でも、あまり上手に書けなくて、最後は佐々木閑先生のYouTubeをたくさん転載させていただきました。

現在進行中の倶舎論の話はいまいち非二元とは関係ないなぁ、と思って見ておりましたが、今回、唯識の教えの要点を的確に語っておられます。佐々木先生はそれを「もやもや」「不思議な力」と表現してみえます。

用語も説明も違いますが、佐々木先生の説かれる仏教は、セイラーボブの教える非二元と根本的には同じではないかという気がします。仏教に興味がない人も、ぜひこのYouTubeを見てください。おおいに参考になると思います。

2023/08/22

ただ、そのままにしておいてください

考えることや思考を取り除こうとすることは抵抗です。そうすることで、それを留めさせてしまいます。
実在は、非受容、非拒絶、非執着、非分離です。
ただ、そのままにしておいてください。
そのままにしておくと、そこには二元性に対立する独立した個人という考えはありません。
分離した存在という考えがあると、二元性の中へと戻ってしまいます。
非二元性という観念もろとも、捨ててしまうほうがましでしょう。
                                    セイラーボブ

2023/08/18

恐怖には理由がありません

2023.8.13ミーティング 1:06:06から

アニータ:私は実際に自分に尋ねてみました。そして、ここには(体を指さして)何もないということは明らかです。皆さんがどう見ているのかは知りませんが、それは私にとっては知的なものです。でも、ここには何ないということは明白です。だとすると、どうして私は、自分が私だと思っている人とこれほどまでに同化しているのでしょうか?

私が同化しているのは、この体の中にある何かだと思えるのです。体があって、その体が「私」はいると信じているようなものです。そのことを確認するために座って瞑想して、体の境界を消すのです。私にはその訓練が必要に思えます。というのも、そうすると、そこには何もないということがはっきりするからです。でも、この自己同化がどこからくるのかわかりません。

カット:思考です。

アニータ:何?

カット:それは思考からやってきます。もしあなたがそのことを考えなかったら、それは存在しません。

アニータ:そのとおりです。

カット:思考がなければ、あなたは同化することはできません。あなたは、自分が存在するということを知っています。でも、思考なしでは、自分が誰なのか、それが何なのか、どこにあるか、大きいのか小さいのか、宇宙全体なのか、無なのか。思考なしでは何ひとつわかりません。でも、あなたは、自分が存在するということは知っています。

アニータ:そのとおりです。そして、そこにはたくさんの恐怖があるということを認めます。

カット:どうしてそれが恐怖だとわかるのですか? あなたはそれにラベルを貼り付けています。

アニータ:ええ、ちょっと子供っぽくありたいと思っている時があります。たくさんの恐怖が根底にあって、それが体に痛みとして現れているように感じるのです。そしてここへやってくると、そのことに意識的になる助けになります。

ピーター:それが助けになっている。

アニータ:そうです。夜、家に一人でいる時にはそういう恐怖があるとか、子供っぽい瞑想は全くしません。たくさんの恐怖があって、私が深く入っていくのを止めているように思います。深く入っていくと、恐怖がやってきて、それができなくなるのです。

カット:あなたはそれを恐怖と呼んでいますが、ボブの言うことを信頼していますか? あるいは、このことを理解している他の人の言うことを信頼していますか? そうした人たちが指摘していることが信頼できると思っていますか?

アニータ:ええ、完全に全く信頼していますが、しかし、

カット:「しかし」。いいですか。その「しかし」によって信頼を放棄して、ポインターを見失っているのです。あなたは聞いたことがないかもしれませんが、ボブは何度も指摘しています。恐怖は観念であり、ラベルです。でも、それはまた肉体的な要素もあって、知覚を伴い、心臓が激しく打つかもしれないし、呼吸が激しくなるかもしれません。でも、そうしたことは、すべて思考がもとになっていることです。例えば、サーベル・タイガーが実際に部屋にいるような場合を除けば、恐怖には理由がありません。

恐怖がそこに依然としてあるなら、それは思考がもととなっています。それはとても繊細な思考です。ボブが何度か他の人にアドバイスをしているのを聞いたことがありますが、恐怖に直面した時の最悪のシナリオは、あなたが気を失うことです。あなたは死にはしません。ほんの数秒気を失うだけです。あなたが受け入るべきことは、数秒気を失うだけのことです。でも、それはおそらく起きません。

なぜなら、たくさんの人たちがここへやって来て、「OK、私は見続けることにしよう。真実のため、真実が成就するために喜んで死のう」と言いました。でも、最悪のシナリオは、マインドがはったりを利かして、「おまえを殺す。それは危険だ。やめろ。私と一緒にいろ。同化していろ」と言います。でもあなたがはったりを見抜いて、「OK、私は見つける」と言います。そして、あなたは、決してそれが起きないだろうと知ります。

私がみんなから聞いたことによると、あなたがはったりを見抜くと、マインドがあなたを気絶させることは決してありません。あなたはそれを見抜き、マインドはリラックスして、何も起きません。恐怖には根拠がありません。もしボブの言うことが信頼できるなら、自分で確かめてみてください。自分で見てください。

あるいは、その恐怖に明け渡して、調査することを止めて悩んでもかまいません。その後で恐怖に直面してみてください。そしてそれがあなたを殺すと言うのなら、何を殺すのですか? 体? マインド? それはソフトウエアにすぎません。では、何が殺されるのですか? 

ギルバート:ストーリー。

カット:ええ、ストーリーです。

ギルバート:恐怖は常に未来にあります。

カット:ええ、良い指摘です。恐怖は未来、未知です。

2023/08/15

「今」はいつ始まりましたか?

顕現の中には、どこにも静止した地点はありません。それは自然に起こっていて、時間はありません。
「今」はいつ始まりましたか?
「今」と言ったとたんに、今は終わっています。
「終わった」と言ったとたんにまた始まっています。
それは自然に起こっています。そこには時間は存在しません。
                                    セイラーボブ

2023/08/11

どんな言葉もそれではありません

2023.8.6ミーティング 43:43から

ギルバート:顕現の中には距離があります。「ここ」、「あそこ」があります。そして、私はまだ「あそこ」にはいないと考えます。でも、「あそこ」は存在しないのです。なぜなら、私が「あそこ」へ歩いていくと、「あそこ」が「ここ」になって、実際には「ここ」から出ることはできません。

たとえもしマインドの中で、夢の中へ入っていこう、あるいは、望んだ目的地に行こうと思っても、この直接性の外に出ることはできないのです。なぜなら、その直接性こそが生、永遠の命なのです。生には時間は存在しません。生はどこからやってきたのですか? 命はいつ始まりましたか? 科学者は、それはビッグ・バンだと言います。彼らは望遠鏡を打ち上げて、時間を遡ってそれを探そうとしますが、唯一存在する時間は今だけです。

直接性があり、時間は観念なのです。私たちは時間を想像することができ、うわべの上では空間も見ることができます。でも、空間を見ることができますか? 私たちは大きさを見ることができますが、部屋の大きさは空間の中にあるのです。目は空間の中に現れています。そして、最初に見るのが空間なのです。

そして、私とは何なのか?私はどこから見ているのか?見ているのは誰なのか?というのは、とても重要な問いです。それが直接指し示しているのは、見ることは自然に起こっているということです。あなたが、見ることを起こしているわけではありません。

朝目覚めると、見る働きはすでにそこにあります。ほんの一瞬、自分がどこにいるかわからないかもしれません。部屋の中にいて、ラベルが戻ってきます。ああ、起きてシャワーを浴びて、コーヒーを飲んで、仕事に行かなくてはいけない。どんなストーリーがやってきたとしても、存在意識の直接性の中には、ストーリーも「私」もありません。そして、それを認識することは可能です。そして、それが実在のすべてです。

メッセージとしては、それを調べてみることです。もしあなたが心理的に苦悩しているのなら、その苦悩している「私」は誰なのかを調べてみるのです。実際に調べてみると、「私」は見つかりません。なぜなら科学は、宇宙のどこにも静止した地点はないと告げているからです。それは動きであり、絶えざる変化の流れです。しかし、その絶えざる変化は、変化しないものの上に現れています。

noumenon(本体:哲学用語で現象の反対にあるもの)は顕現となって現れることはありません。存在(being)、知る働き(knowing)など、すべての可能性はnoumenon(本体)の中にあり、あなたがそれを体験することはありません。それはマインド、体験を超えたところにあります。でも、あなたはそれを否定することはできません。

昔ある人が、「神は死んだ」と言いました。その本が書かれた時、いかれた知識人たちがそれに飛びつき、神は死んだ、いや生きていると議論しました。それは単なる観念です。あなたは、自分が存在することを否定することはできません。あなたが誰であろうと、あなたが存在しているということを否定することはできません。というのも、私たちはみな存在そのものだからです。

あなたは、それが何なのかを対象物として描写することも知ることもできません。なぜなら、それは主体だからです。それは一つのものであり、唯一の主体だからです。それを神と呼ぼうと、呼びたければ「私」と呼ぼうと、それは問題ではありません。どんな言葉もそれではありません。

2023/08/08

本質的にはそれもまた知性エネルギーなのです。

忘れているように見えるかもしれませんが、思い出したり忘れたりするものはあなたではありません。
そのアウエアネスがなかったら、思い出すことも忘れることもできないということを理解してください。
忘れることを気にしないでください。
忘れることも、あなたが「忘れる」というラベルを貼るようなパターンとして現れるということをわかってください。
本質的にはそれもまた知性エネルギーなのです。 
                                  セイラーボブ

2023/08/04

あなたはそれを理解する必要はありません

2023.7.30ミーティング 45:19から

カット:コメントが来ています。彼女いわく、「物事が静止した世界の中を私が動くというより、私はいつも変わらずにいて、私の中を物事が動いていくという表現が好きです」。ええ、また私たちは過去数回のzoomミーティングで、似たような理解について話をしていますが、それは、命が私たちを生きているということです。すなわち、目や体は命によって生かされているということです。

私たちは、体が動くのを見ると、それを見たマインドがコメントをするのです。ええ、そのようにデザインされているからです。心臓は血液を送るようにデザインされています。体は危険を避けて心地良さと安全を求めるようにデザインされています。そしてマインドはコメントをするようにデザインされています。

そして、そのいずれもが、いかなる存在によっても行われてはいません。誰も行為者を見つけた人はいません。これはある人から受け取ったすばらしい認識ですが、言ってよいかどうかわからないので名前は伏せておきます。そのシンプルなポインターがマインドを最終的に開かせるのです。

あなたが真実を見破れば、そこには何かをする誰かはいません。それは確固たることです。命が体を生きています。そのことが、あなたにそのほかの単一性のあるゆることを明らかにしてくれます。そこに誰もいなければ、そこには分離、分割、分断する人は誰もいません。そしてまた、今朝、eメールでお便りが届きました。

これも誰からかは言いませんが、理解は、あるがままを認識することからやってくるというものです。あなた(ディーン)が言ったように、変えず、修正せず、正さない。ただ、あるがまま。そして思考。思考が、私が言った、私が聞いた、私がやった、私が影響を与えたと言います。でも、それは単なる思考です。それもその一部です。

そうした思考がなければ、それは単にあるがままです。そして思考は、でも、そこには依然として「私」はまだそれを理解していない、どうしたらボブやカットのようにそれが確かなものになるのかと言います。私にはその確かさがないというのは、すべて思考です。そこには確かな人は誰もいません。確実に理解している人がそこにいると考えても、そこには誰もおらず、空です。それは単なる思考、ブルシットです。なんと明らかなことでしょう。

それがわかると、マインドが開きます。そしてその件は終わります。それは脇に置かれ、あ~あ、それは今この瞬間だ、永遠に新鮮で永遠に新しく、生きている。そして思考。私が見ている。これが私だ。私が聞いている。などなど。それです。そういうわけで、私はこの集まりの話には、それがあふれていて好きなのです。ボブが話の終りに語ったように、誰もがそれを垣間見ていて、誰もが自然な状態に生まれるのです。

誰もが、かつては言葉より先にいました。誰もが、完全に感覚器官の体験に注意を向け、物語が入ってこないで、自由な注意力が起きるような瞬間にいたのです。みんな、夢の中へと落ちて、無からどういうふうに世界がやってくるかを見るのです。ディーンが指摘したように、顕現全体、姿形、対象物は名づけられていて、マインドによって解釈されています。

目を閉じると、同じことが起こります。昨日のことを思い出すと、その中に世界全体が現れます。それは完全に意識の中にあります。意識のアウエアネス、存在の中に、世界全体が現れるのです。あなたは誰なのですか? その存在の中の想像上の生命体ですか? それとも、存在ですか? それを否定することはできません。

そしてまたコメントが来ています。ルチカ。「世界全体が、私たちの中に投影されたものであるということを理解するのはとても難しいです。そのことで何か考えを。ボブ、カットありがとう」。

カット:すばらしい考えですね。でも、注意しなくてはいけないのは、中とか外とかはないということです。なぜなら、私たちの内側に投影されたという考えもまた、投影されたものだということです。中も外も投影です。それを行っている人は誰もいません。それは単に根底にあるソフトウエアが投影して見ているにすぎないということです。昨日ミーティングをしましたが、ある友人がその投影のことを詳しく説明しました。同じ根底にあるパターン、二元性。あらゆるものの根底にあるもの。体、空、ハッブル望遠鏡、動物の行動の中、あらゆるものの中にあるもの。

白と黒、幸せと不幸はどこにでもあります。それを理解するのは難しいことです。そして、ありがたいことに、あなたはそれを理解する必要はありません。

2023/08/01

彼らは古い信念にしがみついて、調べてみようとしないのです

伝統的な教師の中には、「この訓練をしなさい。あれをしなさい。何年もかかります」という人がいます。
彼らには多くの信奉者がいます。
彼らは、そのシンプルさ、自然さに気づくことがありません。
そしてもしあなたが、伝統的な信念を抱いているのなら、このことを理解するのは難しい。
尻込みしてしまうのです。
多くの人がそうです。彼らは古い信念にしがみついて、調べてみようとしないのです。
                                    セイラーボブ

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7月4日のブログで紹介した佐々木閑先生と横田南嶺老師の対談が再公開になりました。興味のある方はぜひご覧になってください。

佐々木閑先生のYouTubeで、またしても仏教の根本思想である「我は存在しない」という場面が出てきました。輪廻や煩悩という思想は、一般的な非二元の考え方とは相入れないかもしれませんが、根底にあるものは同じです。

そして臨済録も続いています。

2023/07/28

虚偽は調査には耐え得ず、真実ではありません

2023.7.23ミーティング 40:22から

ギルバート:昨日、ボブのためにパーティをしました(95歳の誕生日パーティ)。そして私はチョコレートケーキを作りました。

カット:あれは美味しかった。

ギルバート:あれはしびれるほど美味しいチョコレートケーキだった。今まで、それほどたくさんのケーキを作ったわけではないのですが、作ってみようと思ってやってみたら、よくできました。そして何人かの人にレシピを聞かれました。それは内緒にしておきます。でも、もし誰かに、このこと(ボブの教えていること)に対するレシピを聞かれたら、ボブのポインターの一つを教えます。

それは、マインドを見つめ、それがどのように機能するか調べなさいということです。それはとても強力なポインターです。マインドを見つめて、それがどのように機能するかを調べるのは実に強力なポインターです。そして、アウエアネス(意識)には思考がないということを付け加えたいと思います。その二つのポインターが一緒になれば、それで十分です。

マインドを見つめ、それがどのように機能するかを調べてみてください。そして、アウエアネスには思考はありません。うわべ上で物語、ストーリー、お祝い、死などに囚われているキャラクターは、意識(consciousness)の上に観念として現れているものです。では、その意識(consciousness)に気づいているものは何なのか? それに気づいているものは何なのかというのが鍵です。

それに名前を付けることはできません。また、否定することもできません。それが本当のあなたです。それが本当の私たちです。そしてそれは、他には何もない一つのもの。一つの意識(consciousness)であり、私の意識ではありません。あなたの意識であり、ボブの意識であり、カットの意識です。それは分割されてはいません。それを分割することはできません。何も分割されません。

それについて考える時、どうして観念が何かを分割することができるでしょうか? 思考や観念には実体や独立性がありません。ボブが言うように、あなたが調査すると、それは調査には耐え得ません。それは粉々になります。それゆえ、マインドを見つめて、それがどのように機能するかを調べることには潜在的な可能性があります。その潜在的可能性は仮想(numenon)、非顕現からやってきます。

顕現、見せかけには力がありません。それは夢なのです。そして夢の中にも夢があります。夢の中で見ている夢が「私」、私という信念なのです。その「私」は実在ではないということを知ると夢は落ちていきますが、意識(consciousness)という夢は残ります。しかし、その意識に気づいているものは夢を見ていません。ボブ、誕生日おめでとう。

マンジュ:ボブ、質問があります。どうして私たちは完全に自身のことを忘れてしまうのでしょうか? 私がこのことを理解した時、どうして私は自分のことをマンジュだと考えてしまうほど愚かなのかと思ったのです。一体、どうしてこれが私たち皆に起きるのでしょうか? そして最後には、皆がそのことをを理解するのですが、どうしてそのことを完全に忘れてしまって、自分のことを人だと思うのでしょうか? そしてその人が世界に出て、死ぬまで生きていると思うのでしょうか?

カット:ええ、ボブに聞いているのですね。(ボブに向かって)どうして私たちは、本当の自分を完全に忘れてしまうのでしょうか?

マンジュ:完全に。(誰かが、完全にではないと言った)

ボブ:私たちは言葉を身に着けます。言葉を学び、学校へ行き、さらに言葉を学びます。それぞれの言葉には違った意味があります。そして私たちは言葉を信じるようになります。でも、言葉は物ではありません。言葉とは何ですか? 言葉は音です。音とは何ですか? それは波動です。そこにはエネルギーの波動があります。同様に、体は土、空気、水、火、空間といった構成要素でできています。あなたは空気なのか、あなたは火なのか。あなたはその構成要素のいずれでもありません。

構成要素は亜粒子原子、純粋なエネルギーへと分解することができます。つまり、体とマインドはエネルギーに他ならないのです。エネルギーとは何ですか? 波動、動きです。波動として振動しているものが、実在であるかのように現れているにすぎません。海を見てください。海は動かないように見えますが、近寄ると何かが動いています。たくさんの小さな波があります。その一つ一つの波は水以外の何ものでもありません。それは決して変化しません。私たちは、言葉によってすべてを変えてしまいます。

聖書では、始めに言葉があったとあります。言葉が神とともにあり、言葉が神でした。あらゆる神は言葉なのです。あらゆるものが彼によって、言葉によって作られました。言葉によってあらゆるものを手に入れたのです。言葉無くしては、マインドには何もありません。私たちはそうした言葉を学び、言葉を信じたのです。信念という言葉を調べてみてください。信念は実在ではないとわかるでしょう。辞書で信念の定義を調べてみてください。

理由もなく、調べもしないで受け入れているものです。私たちはそれを調べもせず実在だと受け入れたのです。親が何かを告げると、調べもしないでそれを受け入れたのです。確かな知識や証明なしに、理由もなく、調べもしないで言われたことを受け入れたのです。それが真実なのか嘘なのか、それが真実に耐え得るのか調べてみてください。

海へ行って、バケツ一杯の青い水を汲んでくださいと言ったら、あなたは何と言うでしょうか? 馬鹿なことは言わないでと言うでしょう。というのも、海は青くはないと知っているからです。でも、海は青く見え続けます。空は青く見えます。でも、空は単なる空間にすぎません。蜃気楼の中の水。そして有名な、ロープがヘビに見える話。一本のロープがヘビだったことがあるでしょうか? いいえ。暗闇でロープを見て、ヘビだと思う人がいます。その信念ゆえに震えやあるゆる種類の反応が起こります。

私たちは、あまりにも多くの信念を身に着けました。そして、恐怖、怒り、落胆によって自身を動揺させています。でも、それが本当かどうかを認識、質問、調べてみてください。虚偽は調査には耐え得ず、真実ではありません。

****************

この日もミーティングのあと、レストランでボブの誕生パーティをやるということで、ボブはスーツを着ています。そして、今まで見たこともないほど多くの人がミーティングに参加しています。

みんなで食べて歌って楽しそうです。
ボブ、95歳の誕生日、おめでとう。

2023/07/25

世界は今までと何も変わりません

健康には浮き沈みがあります。マインドがペアとなる対極の間で機能し続けるように、健康もペアとなる対極の間で機能し続けます。それが二元性だからです。顕現が二元性であるのと同じです。
しかし、そのすべての背後、あるゆるものの背後には幸福の感覚があります。しかしそれはとても繊細なものです。
原因のない喜び、原因のない幸福と呼ぶこともできます。
それは喜びや悲しみ、幸福や不幸の対極にあるものではありません。
世界は今までと何も変わりません。
                                    セイラーボブ

2023/07/24

非二元の教師たち 目次












      あなた開かれた空間


                 ただ生だけがある

                 あなたは一なるもの

2023/07/21

ネーティ、ネーティ

2023.7.16ミーティング 42:00から

ギルバート:在ること(being)と、何かになること(becoming)の違いは何なのか? 違いはあるのか? 何かになるとは、観念的なものです。在ることは全く観念ではありません。なぜなら、あなたは自らが存在することを否定できないからです。

でも、どんな思考であれ、起こってくるものは否定・拒絶することができます。私はこれではないと。つまり、ニサルガダッタが語ったように、「これでもない、あれでもない(ネーティ、ネーティ)」です。そしてそれを多くの人が誤って解釈しています。たしか「I AM THAT」だったと思いますが、それを初めて読んだ時、静かに座ってマインドを見つめました。

そして、どんな思考がやって来ても、「ネーティ、ネーティ」、私はそれではないとやったのです。どんな思考がやって来ても、私はそれではない。それを繰り返し続けたら、紙袋から何かを取り出すように、マインドが空になっていきました。

次の思考は何だろう。マインドを見つめて調べ、何がやって来ても、私はこれではない。存在することとは。意識(consciousness)とは。それはすべて意識なのですが、その意識に気づいているものは何なのか? それを突き止めることはできません。ボブが言うように、思考はあらゆるものとして、形や特徴となって現れます。なぜなら、そう信じられているからです。でも、もしあなたが、それを本当のあなただと受け入れなかったら、それは単なるマインドの内容物にすぎません。

そして、それを注意深く見ると、マインドの内容物は絶えず変化しています。そして、もし思考が止まっても、私が消えて無くなることはありません。イエスは砂漠に行き、そこで40日、40夜過ごしました。それは家具や家や動物や木々などがないということを象徴しています。砂漠には何もありません。命はあるものの、私たちの思考による家具などは何もありません。

皆さんが砂漠に行ったことがあるかは知りませんが、私はあります。それは全く当惑させられるものでした。360℃が平でした。ムーブラ(?)のロケット基地で働いていた兄を訪ねて行った時のことです。列車に乗っていると、男がやって来て、「君の降りる駅は次の駅だ。朝の5時30分着」と言いました。列車が止まり、私は小さな青いスーツケースを持って降りました。たしか18歳でした。

そして列車が見えなくなると、そこは砂漠の中に小さなプラットホームがあるだけでした。列車が消えて何も見えなくなるのを見ながら、私は取り残されました。まったくの一人ぼっちでした。道路があって、兄は約一時間あとに迎えに来てくれることになっていました。私はコップ半分ぐらいの水を持っていましたが、太陽が昇ってきて、とても暑くなり始めていて、ひどく心配になってきました。

そこに立っているのは妙に現実離れしていました。丸いとは知っているのですが、平な地球の上。砂漠の中を少し歩いて、古い骨などを見つけました。そこにあったのは、社会や、もろもろのことのない存在そのもの(beingness)でした。それは表面上ではひどく困惑してしまうものでしたが、また、他の人から離れてほっとするものでもありました。

確かジャン・ポール・サルトルの言葉ですが、「地獄とは他人のことだ」。(笑い)ええ、そうではありませんか? でも、存在(being)には全体が含まれています。すなわち一つのものであり、全体は分割されていません。決して分割されてはいないのです。うわべ上のマインドによって、他人や私、その他のものに分割されているにすぎません。現象が空であるということを知るのはとても簡単です。

それを知るのは簡単なのですが、私たちは、この、ここにあるパターンを(自分の体を指さして)それに含めることを忘れます。それもまた空なのです。それは恐ろしいことではありませんか? 誰が恐れているのでしょうか? 思考の「私」「自分」です。その「私」は幻想です。

ボブが本やミーティングの中で指摘しているように、「私」を見つけることができるかを自分で調べるのです。そしてそれを、「ああ、わかりました、わかりました」と言ってやり過ごすのは簡単です。そうした人々が、「『私』が戻ってきました」というのを聞いたことがあります。彼らは至福の中にいて、「私」が戻ってきましたというのですが、どうやって「私」が戻ってくることができるでしょうか? もし「私」は幻想であり、あなたがそれを見破ったなら、どうやってそれが戻って来ることができるでしょうか?

それはありふれた感覚であり、ボブが最初の本の中で言っていますが、「もしあなたが、何が真実、あるいは実在ではないと知ったなら、どうしてふたたびそれを信じることができるでしょうか?」。できません。子供は、サンタクロースは実在ではないと知っても、残りの人生で、サンタクローズは実在ではないということを問題にすることはありません。「サンタはいない、サンタいない」と人に言ってまわることはありません。「私」は実在ではありません。

そして、「私」「自分」、その他のものも実在ではありません。そしてそれは見せかけ、一時的な見せかけであり、実際には分裂はないと知った時、それを調査すれば、それは粉々に砕けます。それは調査に耐えることができません。つまり、在ることと何かになることの違いは、存在(在ること)が究極のもの、あるいは究極のものが分割されずに表現されたものということができるなら、何かになることは、未来の時間を含んだ夢なのです。そして、未来という時は存在しません。

2023/07/18

アウエアネス(awareness:意識)とは、何かになることだと思っていますが、そうではありません。

もし、「今あなたに意識はないのか(unaware)?」と尋ねたら、何と答えますか?
あなたに意識はないのですか(unaware)? いいえ。
ということは、意識がある(aware)はずです。
それを探しましたか? いいえ。
つまり、そのことに気づいていないのです。
思考がそれを見えにくくしているのかもしれません。
そえほどシンプルなことなので、見逃してしまうのです。あまりにもシンプルです。人々は、アウエアネス(awareness:意識)とは、何かになることだと思っていますが、そうではありません。
                                    セイラーボブ

2023/07/14

どうやって空間が部屋の中に入ったのか?

2023.7.9ミーティング 1:10:32から

ジェームズ:これは大切なことだと思うのですが、少し前までははっきりとした質問になっていませんでした。何か言わなくてはいけないと思って自分のことで精いっぱいだったからです(20分ほど前に、どうして質問するのはこんなに怖いのかという質問をした)。でも、今は質問があります。(一同笑う)

ある種の理解を得るために必死なのですが、同時に、そのことに対して大きな抵抗があります。先週ここに来た時、心に浮かんできたのは、どうして私はここにいるんだろう、誰が探しているんだろう、何を探しているんだろう、なぜ私はここにいるんだろう、そしてそれをやっているのは誰なのだろうということです。もし、私たちはすでにそのことに気づいているのなら、なぜ私たちはここにいるのだろうかということです。

ジェーン:理由はないのですよ。カビーシャが歌の中で見事に歌ったように、それは神聖なこと。それはラベルなのですが、同じ波長の人とともにいることは、何かすばらしいことです。たとえあなたが自分を連れて行ったとしても、実際には実在があなたを連れて行っているのです。どこへ行っても、あなたが連れていっているのではないのです。あなたと共鳴する人たちといることになるのです。

カビーシャ:滋養を与えているのです。輝くのです。あなたがそれを育てるのを助けてくれる人たちとともにいることが良いことなのです。あたかも私たちは皆一つの庭の中、仲間の中にいて、アウエアネスを成長させているようなものです。

アニータ:そしてまたこれは経験的なことです。これは経験です。私たちは時々観念的な議論しますが、実際これは観念的なことではなく、直接の現在進行形の体験なのです。そして体験している人たちの中にいるということは何かとてもすばらしいこと。あなたが経験したことは、全くの喜びです。それを経験したくない人がいるでしょうか? それは現在進行形の体験であり、マインドではありません。

アンディ:省略

ボブ:何かが共鳴するのです。それが内側の性質です。内側にもともと内在する何かがあなたを引き寄せるのです。それをマインドで知ることはできないかもしれませんが、何かがあなたに共鳴してもっと聞きたくなるのです。(不鮮明のため一部省略)あなたに内在する知性がそれを認識、あるいは認識しようとするのです。それをそのままにして、流れに任せ、それがあなたをどこへ連れて行くのか見てください。

カット:あなたが、「なぜ私が」と尋ねた時、あなたが本当にそう尋ねていると感じました。でも、何が起こったかを見てください。突然皆がそれぞれに異なる物語で質問に答えたがったのです。なぜなら、それが「なぜ」がやることだからです。マインドは、なぜあなたがここにいるかを正当化しようとするのです。

生(life)があなたをここへ連れてきたのです。あなたではありません。あなたには何の選択権もありませんでした。あなたが考えたことが動機になっているのではありません。それが、生が展開する究極の神秘なのです。どうして私たちは行為を行うのか。たくさん正当化することもできます。子供の時のことや、天候やなんかのせいすることもできます。

でも真実は、私たちは行為者ではないのです。私たちは何かを手に入れるためや、何かを理解するため、参加するために来たのか。いいえ。私たちが来たのではありません。なぜなら、私たちは行為者ではないからです。ただ、生がそのように表現しているにすぎません。

なぜ自分がここにいるのかと尋ねる時、誰が尋ねているのか見てください。そこ誰がいるのか。
(雑談が不鮮明のため省略)

ギルバート:ある時ある人が、アーバン・グル・カフェの件で電話をしてきました。何年も前、デーヴィット・ゴッドマンという男と連絡を取りました。彼は、アルナンシェラ(インド)の図書館で図書館員の長をしながら、ラマナなどの本を書いた人です。彼がニサルガダッタのミーティングのたくさんのテープを送ってきたのです。その多くは音が不鮮明でしたが。(誰かの問いに答えて)ええ、ニサルガダッタです。ラマナではありません。ラマナは語りませんでした。

それはアーバン・グル・カフェにあるのですが、そのテープの中で、若い探求者がミーティングの中でニサルガダッタに、「どうして私はここにいるのでしょうか?」と尋ねたのです。どうして私がここにいるのか。するとニサルガダッタが言いました。「どうやって空間が家の中、部屋の中に入ったのか? どうやって空間が部屋の中に入ったのか?」。空間が部屋の中に入ったのではなく、空間の中で何かが家を建てている、と彼は言いました。現在形でです。

空間の中で何かが家を建てている。それはポインターとしてはとても微妙です。メンタルの活動の中で、何かが「私」という構築物や家などを建てているのです。でも、そうした物のうちで変化しないものは空間です。空間のような意識。なぜ私はここにいるのか? 私はここで何をしているのかというのは素晴らしい質問です。

パパジにも別の話があります。彼はラマナの生徒という言い方もできます。ある時彼がラマナを訪ねると、ラマナは、「どうやってここへ来た?」と聞きました。するとパパジは、「リキシャで来ました」と答えました。するとラマナは、「ではそのリキシャは今どこにいる?」と言いました。

「去りました」と答えると、「その前は?」とラマナ。「タクシーです」。
「そのタクシーは今どこにいる?」。「去りました」。
「その前は?」。「マドラスから列車に乗ってきました」。
「その列車はどこにいる?」。「去りました」。

わかりましたか? 私たちは、どうやってここへ来たかという物語を手に入れます。そしてそれが苦しみとなります。なぜなら、あなたはいつもずっと「ここに」いたからです。本質として、実際には一つの意識(consciousness)あるいはアウエアネスがあるだけです。そこには、どうやってここへきたかという物語はありません。

ボブ:空間の中のどこかに中心を指摘することができますか?ここだという場所を指摘することができますか?

ギルバート:いいえ。それゆえ、自己の中心という言葉はフィクションなのです。空間に静止した点がないというのに、自己の中心という静止した点がありえるでしょうか? 留まることなく、無の中を漂っているのです。つまり、「私」を支えているすべての物語はフィクションなのです。それがすぐにわかればわかるほど良いのですが(笑い)。

2023/07/11

そいつがエンライトメントしていればいるほど、そいつはあなたにみじめさと災いをもたらすだろう

もし誰かが、あなたを助けることができる考えると、そいつは必ずあなたを誤り導くだろう。
そいつがイカサマであるほど、そいつの力は強大となる。
そいつがエンライトメントしていればいるほど、そいつはあなたにみじめさと災いをもたらすだろう。
                            U.G. クリシュナムルティ

2023/07/07

あなたは常にそれでした

2023.7.2ミーティング 1:06:50から

ギルバート:自然な状態には言語がありません。それには言葉はなく、静寂です。つまり、実在(being)には言語がありません。言葉を必要としないのです。でも、いわゆる人には言葉が必要です。心配したり、答えを見つけたりするためには言葉が必要です。でも、ボブが言うように、マインドの中には決して答えは見つかりません。

もし、あなたが意識(consciousness)の意識(consciousness)だとしたら、マインドには何が起きるでしょうか? もし、あなたが意識(consciousness)の意識(consciousness)だとしたら、マインドはどこにあるでしょうか? 

参加者:それはノーマインドです。

ギルバート:ええ、それはノーマインドです。では、ノーマインドに問題はありますか? 禅のいにしえの言葉に、"No mind, beginner's mind"(無心は初心)という言葉があります。ニサルガダッタは、「意識の意識でありなさい」と言いました。それを本で読んで、次の文章へ移ることもできます。でも、ポインターの持つ意味は、それが指し示すことが何なのかを理解してこそ価値があります。

意識の意識でありなさいという意味は、そこには一つの意識があるだけだということです。そこには、私の意識もあなたも意識もなく、一つの意識があるだけです。映画館には一つのスクリーンがあり、そこにコメディ、ドラマ、悲劇などが映し出されますが、スクリーンは変化しません。それは変化することはなく、同じスクリーンです。電気が消えると、真っ暗になりますが、スクリーンはそこにあります。

夜眠ると、意識(consciousness)が薄れ、休息します。精神は休息します。でも、アウエアネス(awareness:意識)は依然としてそこにあります。もし誰かが大きな音でドアを叩くと、何かがあなたを揺り動かし、あなたは起き上がってドアに応答します。なぜなら、アウエアネスは常にそこにあり、それには時間がなく、それは物ではないからです。

それは競争ではありません。スピリチュアリティ(精神世界)は巨大な競争のようなものになっていて、そこでは、人々は競ってグルの近くへ行って、グルの足にキスをするのです。人々がグルのもとに駆け寄ってキスするのを初めて見た時、彼らは何をやっているのだろうと思ったものです。(一同笑い)

そしてそのグルは至福の中にいるかのような表情でした。裸足の足にキスを受けて、天国にいるかのようでした。でも、そのシーンは、エゴそのものでした。でも、それも単なる意識(consciousness)なのです。意識が役を演じていて、人々はそれぞれの役を意識の中で演じているのです。それは、一つの意識です。

ニサルガダッタが言ったように、意識の意識で在ると何かが起こります。意識の意識で在るということは、マスターキーのようなものです。自己成就(self-realization)のマスターキーは、「私は在る」という認識です。それが、シッダ・ラメッシュヴァールが指摘したことです。でも、私たちの問題は、その「私は在る」に物事を付け加えてしまうことです。

「私はギルバート」「男性」「オーストラリア人」「いいやつ」「時々はちょっと扱いにくい性格」など(一同笑う)。でも、話を「私は在る」に戻すと、私は在るとは何なのか? 私は在る(I am)の am は、存在するという動詞(to be)です。「私(I)」とはアイデンティティです。私のアイデンティティとは何か? そこに存在(being)するということであり、それは自然に起こっているものです。

アウエアネス(意識)は自然に起こっているものです。それは「私」に依存しているのではなく、意識(aware)しようとしてそうなっているのではありません。アウエアネスはそこにあるものです。ボブはしばしば、「あなたに意識はないのか?(Are you not aware?)」と尋ねます。そしてもちろん、私には意識がある。そして次の質問は、「意識があるために何をしなくてはいけなかったのか?」です。

何もしていないのは明らかです。そして、「私」が何かをやっているという考えが、存在の基盤を歪めてしまうのです。「私」は行為者ではありません。意識(consciousness)がすべてを行っているのです。でも、手柄を横取りする「私」がやってきて、「私がこのことについて何らかの貢献している」というのです。ナンセンスです。

探求者は幻想です。それは幻想にすぎません。探求が問題へと変わるのです。探求者、「私」は幻想です。それは全部ナンセンスです。あなたはそれです。あなたは常にそれでした。あなたはそれ以外ではなく、ボブはそれをミーティングや本の中で指摘しています。それがすべてです。フルストップ! 

意識の意識で在ること。それを理解してください。それは無(nothing)ではありません。ニサルガダッタやボブ、その他の教師たちは、そうしたこと(覚醒・あるいはエンライトメントのことを言っていると思われます)を面白半分にでっち上げたりしません。それをやる人もいますが(一同笑い)。たとえば***。彼は面白がることが大好きでした。いずれにしろ、それは意識(consciousness)なのです。
(***は、とあるインド人の名を挙げていますが、諸事情により伏せておきます。興味のある方は聞き取ってみてください。1:12:58あたりです)

2023/07/04

仏教関係のYouTubeをいくつか紹介

佐々木閑先生の新しいシリーズが始まっています。

佐々木閑 仏教講義 9「仏教の宇宙 その1」(「仏教哲学の世界観」第12シリーズ)

倶舎論の話は非二元からは少し離れてしまうと思いますが、初期の仏教、あるいは江戸以前の人々がどういう世界観を抱いていたかはとても興味深いところです。

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【第二回 臨済録に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2023年6月6日(火)

横田老師は法話名人。いつも深くておもしろいです。非二元という言葉は微塵も出てきませんが、この話はセイラーボブの説く非二元と同じことを説いてみえるのではないでしょうか。

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第151回花園大学創立記念特別企画佐々木閑特別教授就任記念対談 2023年5月25日(木)

このお二人がみえなかったら、私が仏教を理解することはできなかったと思います。
敬愛するお二人の対談を聞き逃すわけにはいきません。いろいろと考えさせられる対談でした。

追記:7月4日朝9時の時点で非公開になっていました。仏教の本質に触れた、非常に有意義な対談だったのに、残念です。また公開されましたら、再リンクさせていただきます。お話の一端は円覚寺のサイトで読めるので、興味のある方は読んでみてください。(円覚寺サイト:戒こそ人を自由にしてくれる – 佐々木閑先生と対談 –

2023/06/30

もしあなたがマインドの召し使いになるなら、苦悩することになります

2023.6.25ミーティング 40:15から

参加者:あなたがおっしゃったことを理解しようとしていますが、あなたがおっしゃったのは、考えていること自体が思考だということですか?

カット:いいえ。考えている人、つまり「私が考えている」という思考の「私」が考えているのではないということです。私が考えているという事自体が別の思考なのです。私が考えているという思考は、思考の内容であり、そこに考える人はいません。そこに「私」がいて、それが考えているというのは想像です。でも、真実は、そこには考えている「私」はおらず、「私が考えている」という思考にすぎません。そこには誰もおらず、他の思考と同じように、「私が考えている」という思考があるだけです。

ジュリア:ただ、そう主張しているだけです。あなたが考えているという主張があるだけです。この幻想の中で、うわべ上それが考えているように見えているだけです。ここには何かを考えている人は誰もいない。もし、あなたが考えていると言うのなら、思考が起こるのを止めるためにはどうしますか? 脳の中のシナプスが働いて思考が起こるのですが、あなたがシナプスを働かせているのですか? それともそれはただ起こっているのですか?

参加者:瞑想している時気づいたのですが、

ジュリア:あなたは瞑想しているの?(笑い)

参加者:いいえ。言葉のあやです。思考は私のせいではなく、起こっています。それはよくわかります。思考は私によって起こるのではありません。それがわかるのにしばらくかかりましたが、それははっきりとわかりました。でも、あなたたが言うことが理解できないのです。

カット:思考はあなたによって起こるのではないと言いましたね?

参加者:ええ。

カット:では、ボブの言ったことに対する質問は何ですか? もし、私が考えるという思考は、思考を考える人ではなく、単なる思考だというのなら、それを起こしている「私」はいないということになります。

参加者:オーケー。

カット:それはすでにあなたが理解したことです。そうでしょ。

参加者:どうしてこんな簡単なことが、ぼんやりとしか理解できないのかわかりません。

カット:もし体の他の機能を調べてみるなら、例えば髪が生えること、あなたが髪を生やしているのですか?

参加者:いいえ。

カット:でもあなたは、ええ、私は髪を伸ばしている、短く切ったけど、もっと長くするつもりだと言います。まるで、あなたが伸ばしているかのように。髪が自然に伸びるように、見る働きは自然に起こっています。思考は自然に起こっています。もちろん、あなたが髪の毛にとって健康なものを食べれば、健康な髪が生えるでしょう。あなたが幸せなら、思考は、より幸せなものとなるでしょう。見る働きなどもすべては相互に作用していて、外側で起こっていることと分離しているわけでありません。

あなたが髪を成長させていないのと同じように、あなたがあなたの思考を考え出しているわけではないのです。では、「私」は一体何をしているのか? それはそこにいる必要さえないというのに。おそらく「私」はまったく余分なものです。髪は自然に生え、思考はやってきて、見る働きも自然に起こっています。

ボブ:呼吸も。

カット:呼吸も自然に起こっています。「私」には何の仕事もありません。唯一の仕事は、自然がすでにやったことを自分の手柄にすることだけです。

参加者:ボブが語ったセンテンス、「もし思考の・・・」、いいえ、ええっと、彼は何と言いましたか?

カット:もし思考の「私は考える」が考える人ではないなら、どうなるのか。

参加者:もし思考の「私は考える」が考える人ではないなら、どうなるのか。

カット:もし思考の「私は考える」が考える人ではないなら、どうなるのか。私が考えていると言っている思考が、実際には考えていないのなら、どうなるのか? それは深淵な言葉です。もし、私は見ていると言っている「私」が見ていないとしたら、どうなるのか? ボブが言うように、思考の「私は見ている」には目がありません。体には目がありますが、私は見ているという思考には考えるための脳も見るための目もありません。思考は単なる音です。それは何もできません。

参加者:私が今この質問をしているのは、以前、一年ほど前のことですが、このことははっきりとわかっていました。それは、深い理解(realization)というより、いくぶん知的な理解(understanding)でした。見ることは起こっています。つまり、聞くことと一緒に起こっています。そこには、聞いている人はいません。それは聞く働きにすぎません。同様に、見る働きも同じだとわかります。そこには、見ている人はいません。見る働きがあるだけです。

でも、それは深い理解(realization)ではなく、シンプルなことで、つまり、どうして以前はこんなことがわからなかったのだろうという程度のものです。もしそれが真実なら、なぜ私は理解(realize)しないのでしょうか? 何が私の理解を邪魔しているのでしょうか? 私には、解消しなくてはいけない自己同化があまりにもたくさんあるからではないでしょうか?

カット:ええ。そこには、「私」という観念があります。あなたは、「私」には見ることができず、見ることは起こっていると理解しています。その「私」は髪を伸ばすことはできず、髪は自然に伸びています。でも、あなたは、依然として、「私」が理解(realize)できると信じています。そこには誰もいないのに、どうしてそれが理解できるでしょうか? 「私」がいない時、そこには理解があります。

参加者:そのことはわかります。それはとてもシンプルです。そこには何もありません。でも、あまりにも私は自己同化しています。それは何かエネルギーのようなもの。それが何なのかはわかりませんが、悪い習慣です。どうやったら、その悪い習慣を乗り越えることができるでしょうか?

ギルバート:その習慣は単なる習慣だと知ることです。理解に到達するためには、理解すべきことの直接的な体験が必要です。この場合、今この瞬間、自分で思考を考え出すことができるかやってみることです。一つの思考を自分で考え出すことができるか。できますか? 

参加者:できるように思います。

ギルバート:オーケー。本当ですか? 

参加者:いいえ。

ギルバート:それが直接の体験です。あなたは、一つの思考も考え出すことはできないと体験しました。そうやって、理解は努力なく自然に変化していくのです。つまり、身に着けた誤った知識を消し去るための洞察力が必要なのです。その知識が「私」の元となっています。知識とは、実際には無知のことです。いにしえのインドの経典にあるように、avidya(アヴィジャ:知恵)と vidya(ヴィジャ:無知)は同じものです。彼らはそれ以上のことを言いませんが、それは深い理解であり、私たちには自分でそれを理解する必要があります。

あなたが自分だと思っているものや、蓄えたすべての知識は、無知以外の何ものでもありません。そしてそれがあなたに問題を引き起こすのです。それを調査することによって消し去る必要があります。ボブが言うように、「私」を見つけることができるかを、自身で調べることです。「私」を見つけることができますか? この「私」を、あなたは見つけることができません。

参加者:自己同化が起こるたびに、その「私」を探す必要があるということですね? 毎回。いつも、絶えず。

ギルバート:アイデンティティ(自己同化)とは何ですか? 「私」のアイデンティティとは何なのですか? この「私」が実在かどうか調べるために、「私」は何かに自己同化しますが、それは決して実在ではありません。人々、愛する誰か、物などに執着します。誰かが私の財布を盗んだ、あるいは車、その他の何かを盗んだとしても、それは私のアイデンティティではありません。私のアイデンティティとは何ですか? それは「私は在る」です。

「私は在る」という知識です。それは皆に共通のものです。でも、私たちはそんな風に生きることに慣れていません。すべては「私」に関わっています。自身が安全だと感じるために、物事を手に入れ、ため込むのです。でも、安全などというものはありません。というのも、それはすべてフィクションだからです。それは完全な全くのフィクションです。それはありふれた知識ではないので、新聞や7時のニュースではやりません。「私」はフィクションです。世界のあらゆる苦悩は、それが元となっています。

一つの思考を考え出すことができますか? あなたは、あらゆることを考え出すことができるアウエアネス(意識)、コンシャスネス(意識)から独立した存在ですか? いいえ。そこにあるのは意識(コンシャスネス)だけであり、その意識(コンシャスネス)がすべてを行っているのです。そこには、どこにも分離した存在はいません。

仏陀は空(くう)を見つけました。彼は、自我(self-nature)はどこにも存在しないと言いました。つまり、あらゆる苦悩の原因となる自己という観念、分離した個人は幻想なのです。それはとてもシンプルです。自身の空間、時間、プライバシーの中に、「私」を見つけることができるかを調べるのです。今それをやってみるのです。

見つかりません。なぜなら、それはフィクションだからです。それは、皆が信じているとてもありふれたフィクションです。そのため、世界は苦悩、戦争などで満ちていますが、それは幻想なのです。それはまったくの幻想です。

私たちは皆、一つの本質がうわべ上で別々の存在として現れたものです。その本質を知る必要があります。なぜなら、あなたはその本質だからです。「私は在る」は知識です。「私は在る」は実在の本質なのです。実在は静寂です。実在には言葉は不要です。実在は静寂であり、あなたはその静寂とともに座ることができます。

そしてあなたは、マインドを観察して、それが動きであり、じっとしていることができないということを理解することができます。瞑想することはできますが、マインドはじっとしてはいられないのです。というのも、それは生(命)であり、動いているからです。その静寂・実在の中に座って、マインドを見つめ、その動きを見て、自分はそのマインドが同化しているものではないと知ることができます。

あなたは、マインドが同化している何かではありません。あなたは、それを目撃者として見つめ、それが何をしているのかを見るのです。すると、あなたはマインドが何なのかを理解します。ニサルガダッタが言ったように、マインドは良い召し使いだが、悪しきマスターです。もしあなたがマインドの召し使いになるなら、苦悩することになります。でも、苦悩する人は誰なのか? ごめんなさい。独占してしまいました。

カット:いいえ。すばらしかった。