2022/01/29

唯識 ⑤ 阿頼耶識 末那識(あらやしき まなしき)

私たちが自分の外側にあると思っている物を認識する場合を考えてみます。
外側の物の姿が、私たちの網膜に像として映ります。その映った像は何らかの信号に変えられ、神経系統経由で脳へと伝達され、脳はその信号を読み取って、脳の中で像を再構成します。

そうなると、外にある物を直接認識しているのではなく、脳が脳の産物を認識しているにすぎないということになります。つまり、心が作り出した像を心が認識しているということになります。心が心を認識している。この認識する働きを仏教では識(しき)と言います。

仏教では、目を単なる感覚器官としてとらえるのではなく、物を見てそれが何であるかを認識する働きがあるものとしてとらえています。物を見るとき、もちろん目で見るのですが、目だけで物を見ることはできません。目には神経系統がつながっていて、そこから脳へ何らかの信号が伝わり、脳がそれを情報として読み取って再現しています。

また、死体に目や神経や脳があるから物を見ることができるかというと、おそらく見ることはできず、何らかの生命としての作用がないと見ることはできません。そうしたことの全体をさして眼識(げんしき)と呼びます。他の感覚器官も同様に、五感はすべて、こころの作用として、眼識(げんしき)・耳識(にしき)・鼻識(びしき)・舌識(ぜつしき)・身識(しんしき)と呼ばれます。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識は、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚のことです。

そして、人間には五感の他にもう一つ認識する道具があります。それは思考、意識です。私たちは、五感以外で物を認識することができます。(昨日会ったあの人はきれいだったなぁ)と思ったとたんに、その人の映像が浮かびます。(あのカレーはおいしかったなぁ)と思ったとたんにおいしい味を思い出します。

眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五つの識と意識によって、心は物を認識します。唯識より前の仏教では、認識作用としてこの六識を説いていました。以上の六つの識は私たちが容易に自覚できるものであり、いわば表層心と呼ばれるものです。唯識の人たちは、ヨーガ(瞑想)によって表層心を沈め、自己の心の内面深くを見つめることによって、心の深層には表層心とは別の識があるということに気づきました。

それが末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)です。一言で言うと、末那識とは、「私」がいると思っている自我執着心のこと。阿頼耶識とは、宇宙のあらゆるものがそこからやってくる情報倉庫のことです。

八識

・眼識(げんしき)……視覚
・耳識(にしき)………聴覚
・鼻識(びしき)………嗅覚
・舌識(ぜつしき)……味覚
・身識(しんしき)……触覚
・意識(いしき)………思考
              ここまでが表層心(六識)
…………………………………………………………………………………………
              ここからが深層心
・末那識(まなしき)………自我執着心
・阿頼耶識(あらやしき)……根本心

末那識(まなしき)

私たちはいつも、「私」が実在であると思っています。このブログを読んでみえる人の中には、いや、「私」は実在ではないと理解していると言う人がたくさんいるとは思いますが、それでも「私」はいるように見えます。

私は会社へ行く、私は悲しい、私は不幸だ。私は~である、私が~する、と私を主語にして考え、思い、主張し、争います。その一方で、私の家、私のお金、私の人生というように、あたかもそこに「私」がいて、何かを所有していると思っています。

一般的に、自我意識には先天的な自我意識と後天的な自我意識との二種類があると言われています。私たちは、生まれるとすぐに母親のお乳にしゃぶりついて、お乳を飲み始めます。本能的な自我があり、お乳を飲まないと生きていけないと知っているからです。

単細胞のゾウリムシが唯一やっていることは、自分とエサを見分けて、エサを食べることだそうです。ということは、どんな生き物にも先天的な自我があるということです。

そして、後天的な自我意識とは、生まれてからの環境によって身についたものです。親から名前を呼ばれ、服を着せられることによって、「私」の名前、「私」の服という概念が身に付き、「私」という概念が身についていきます。

そこには、常に単一の主となる存在、「私」がいると思っています。なぜ私たちは、その思いをなかなか捨て去ることができないのでしょうか。これに対して唯識は、深層に末那識(まなしき)という自我執着心が働いているからだと主張します。

この末那識は深層で働く心であり、眠っている時も働いています。いつもいつも、意識しないのに自我に執着する心があるということです。その「私」や、外の世界にある「物」はどこからやってくるのかというと、阿頼耶識からやってきます。

阿頼耶識(あらやしき)

アラヤシキのアラはサンスクリット語のアーラヤからきていて、蔵・倉庫という意味です。その蔵の中に、私たちが体験する一切が情報として蓄えられています。自分の体、物、山や川などの自然、太陽や月、宇宙。さらには視覚や感触の五感、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識、意識、末那識、これらすべてが阿頼耶識にあります。当然、迷いや悟りもそこにあります。

また、私たちの日々の行いもそこに記録されます。その行いは因果の法則によって、やがては結果となって表れてきます。悪い行いが阿頼耶識に記録されないよう、日々正しい行いをしなくてはいけないという教えでもあります。

人人唯識(にんにんゆいしき)ですから、一人一人の世界なのですが、その世界の中にあるすべてが阿頼耶識からやってきた世界です。逆の言い方をするなら、一人一人はそれぞれの阿頼耶識の中にいるということになります。体も環境も宇宙も、その阿頼耶識の中にあります。ただし、その世界は、前回のブログで書いたように、増上縁(ぞうじょうえん)によって、他の人の世界の影響を受けます。

唯識派がなぜ阿頼耶識というものを主張しはじめたかというと、それは輪廻思想と関係があります。仏教以前のインド社会はバラモン教であり、バラモン教では我(が:アートマン:私)の存在を認め、それが輪廻すると考えていました。そのため、人々は輪廻するのが当然であると信じていました。

ところが釈尊はそのような我、自分というものはないという無我説を主張して登場しました。私たちの体や心を観察しても、そのような我(私)は発見できません。肉体は日々変化し最後には消えていきます。心やまわりの世界も実体がなく、やがては消えていきます。諸行無常、諸法無我です。

では、我がないとしたら、何が輪廻の主体となるのか。輪廻していくものは何なのか。原始仏教では業(ごう)の相続体が輪廻の主体であると考えました。業とは行為にことで、サンスクリット語のカルマに由来します。自業自得のあの業です。

釈尊の生きた時代には、自分の行為には何ら報い、果報は存在せず、自分の行為には責任を持つ必要はないという考えがまかり通っていたようです。また、無我、私はいないのなら、何をしてもよいということになると思う人も出てきます。

しかし、釈尊は、自分の行為には責任を持つべきだと教えました。この世は主宰神が操っているのでもなく、運命が決まっているのでもない。何をやっても無意味だというのではなく、行為には必ず果報があるのだから、自己の行為が重要なのだと説きました。それが業の思想であり、その業が輪廻の主体であると人々は考えました。

しかし、業の相続体が輪廻の主体であるということを人々はなかなか納得せず、部派仏教の時代になると、それぞれの部派は様々な輪廻の主体を考えて説きましたがうまくゆかず、最終的に唯識派が、輪廻の主体は阿頼耶識であると主張し、一応の決着にいたりました。

阿頼耶識は、過去の業の結果を貯蔵しています。つまり、過去の業も貯蔵していて、それが未来に結果をもたらすというのです。説一切有部のように、過去と未来は存在するという立場に立てば、行為(業)が私たちの見えないような形で実在していて、それが影響力を行使しると考えることも可能ですが、唯識派では過去も未来も実在しないと主張しました。

あるのは現在だけで、過去と未来は存在しないというのが唯識の基本的な立場です。過去が存在しないということは、行為を行ってもそれは消えて無くなり、無に帰するということになります。それでどうして業として未来に結果を招くのでしょうか。

仏教では刹那滅(せつなめつ)を説きます。あるのは現在だけです。すべての現象は刹那に生じ、刹那に消えていく。では、どうしたら業が未来へと保持されるのでしょうか。もし、ある行為をしたときに、それがなんらかの形に変わって、刹那刹那に現れては消えることができれば、未来へと保持されることになります。

つまり、ある行為をしたときに、その行為が何らかの情報のようなものとなって残り、それが刹那刹那を超えていくことができれば、過去は消えてもさしつかえないわけです。体や意識は消えていくため、体や意識が情報を保持していくとは言えません。そこで、阿頼耶識というものが考えだされました。身体や心が死んだとしても、阿頼耶識が情報を運んでいくと考えたのです。

阿頼耶識も当然刹那滅なのですが、前回消滅した時の情報を保持したまま、また生まれてきます。つまり、輪廻の主体となって、業を運んでいくのです。それによって、そこには輪廻する人や魂のようなものはいないにもかかわらず、業の輪廻を説明することが可能となりました。

阿頼耶識には、自分が過去に行った行為が情報となって記録されています。自分の行いだけではなく、ありとあらゆる情報がそこにはあります。先祖が行ったこと、人類が行ったこと、生きとし生けるあらゆるものが行ったことが情報としてそこにあります。

また、私たちが何か行動すれば、それが情報となって阿頼耶識に保存されます。なぜそのようなことが起きるかということについては説明がありません。

阿頼耶識も末那識も不可知なものです。深層深くにあって、私たちが知ることができないものだというのです。これに関連して、阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) p41から抜粋させていただきます。

 世親が著した『唯識二十論』は、「外界に事物が実在する」と見る他派からの批判に、一つ一つ反論することによって、「すべては唯だ識のみである」という唯識の根本主張を立証した書ですが、この書の最後の「結び」の頌(じゅ)がたいへん大切なので引用しましょう。
「私は自分の能力に応じて唯識性が成立することを論究してきた。しかし、その唯識性の全体は思推されない」
そしてさらに続きます。
「この唯識であることの全体は、私ごときものによっては思推されることはできない。なぜならば、それは概念的思考の対象ではないからである。ではそのすべては、だれの境界であるか。そこで、仏陀の境界であると説く。実に、その唯識であることの全体は仏陀・世尊たちの境界である。なぜなら、仏陀・世尊たちは、なんらの障害もなく、あらゆるあり方、あらゆる知るべきものを知りつくしているからである」
と、世親は述べているのです。


つまり、「唯識」の全体は仏陀、すなわち覚者となってはじめて真に理解できることであり、世親にも理解できないと言っています。もう、ツッコミどころ満載ですが、こらえてください。どうしてそうなっているのかは説明できんけど、そうなのだと言っています。

私は唯識の本を読んで、「ただ識のみがあるだけ」「心が心を見ている」「阿頼耶識からすべてが現れる」と読んだ時、ひどく感動して、ぜひともブログに書きたいと思いました。なぜかというと、唯識の世界観がセイラーボブの描く世界観にとても似ていたからです。

阿頼耶識という言葉を、知性エネルギーという言葉に置き換えてみてください。その世界観があまりにも似ている。どちらも、私たちが知りえるものではなく、言葉で表すこともできない。そしてすべてはそこから現れる。

参考YouYube『佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その3」』
このYouTubeは、唯識、阿頼耶識について明解に説明されています。

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
唯識十章 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
唯識の心理学
世親 (講談社学術文庫)
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)

2022/01/26

死を考える・正岡子規の〈楽しむ力〉・宮尾本平家物語

死を考える 中野孝次 青春出版

著者は、一昔前の人たちの死は身近にあったという。
「死を自宅で迎えなくなって久しい。私の祖父の時代には、人々は自宅で死を迎えたが、今はほとんどの人が死を病院で迎える。そのため、死が人々から隠されてしまい、死というものに対する理解が希薄になった」という。

一昔前の死についての考察に始まり、よりよい死を迎えるためにはどうしたらよいのかと展開していく。現代においては、一日でも長生きすることが良いことだとされているが、そうではなく、より良く生きることこそが、よい死を迎えるためには必要なのだという。

より良く生きるとはどういうことか。それは、今ここを生きること。現代社会を生きる多くの人が、今ここを生きていないという。金、地位、名誉といった、未来のためにあくせく働いて、今を犠牲にして生きているという。

今を生きるためにはどう生きたらよいのか。それは、今になりきること。今になりきるにはどうしたらいいのか。おなじみのセネカ、エピクロスに加え、道元、大拙、盤珪を引用して、今をどう生きるべきかを説いていきます。

そして、「時間や空間は今を生きている人にはない」、なんて、どこかで聞いたようなことが書いてあり、ちょっと驚きました。
「生きているのは今この瞬間であり、そこには昨日も明日も死もありません。それは不生であり、不滅だ」といいます。まったく同じ話しを中野孝次から聞くとは思っていなかったので、ちょっと驚きました。大拙も同じことを言っています。この本は死についての本ではなく、いかに生きるかの本です。

p96から引用 (「徒然草・吉田兼好」の中野版現代語訳)
 そういうことだ。だから君が死を憎むならば、生を愛するがいい。生きて今あるよろこびを、日々に楽しまないでいてどうしょう。ところが愚かな人は、生きて今あるということの最高の楽しみを忘れて、ご苦労千万にもほかの楽しみを求める。この一番の財を忘れて、わざわざ骨折って他の財をむさぼる。そんなことで心が満たされることのあるはずがないのである。生きているあいだに生を楽しまないでいて、死に臨んで死を恐れるなどと、こんなバカな話はないではないか。大方の人が生を楽しまないのは、心の底から死を恐れていないせいだ。いや、死を恐れないのではない、死が近いということを忘れているからだ。ただし、もしここに自分は生死などということに一切心を労しないという人がいたら、その人は真の悟りを得た人だというべきだろう。 


正岡子規は34歳で亡くなったが、晩年の五年間はほぼ寝たきりだったという。
背中からは膿が出て、毎日一時間かけて妹に包帯を取り換えてもらい、排便も排尿も食事も全部布団の上の生活。

それでも驚くことに、寝たきりのまま新聞の連載を書き、俳句を詠み、絵を描いた。結核からくるカリエスの痛みに苦しみながら、モルヒネを飲みながら生きた。
この本を読むと、子規の闘病生活には微塵も暗さがない。苦しさはある。でも、子規は言っている。

p174
病気の境涯に処しては、病気を楽しむといふことにならなければ生きて居ても何の面白みもない。

寝たきりの部屋で句会を開き、人を集めては和歌を詠み、小説について語り合う。
子規の生き方を読むと、生きるということはどういうことなのか考えさせられる。自分などは曲がりなりにも健康で生きているにもかかわらず、子規のように全力で今ここを生きていないと思い知らされる。

子規は毎日毎日食べたものを記録しているが、病人とは思えないほどの量を毎日食べていた。結核という病気の性格上、精をつけるために食べようとしたのだと思うが、健康な人よりもはるかに食べている。その記録を読むと、痛快ですらある。

病気ということと、生きるということは別個のもののように思えてならない。
子規が死ぬ前の日に詠んだ句。

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰意一斗糸瓜の水も間にあはず
をととひのへちまの水も取らざりき

糸瓜(へちま)の水は結核に効くといわれていて、子規は庭に糸瓜を植えて飲んでいた。
そしてまた子規はこんな言葉を残しています。

禅の悟りとは、どんな場合でも平気で死ぬことだと思っていたが、それは間違いで、どんな場合でも平気で生きていることだとわかった。

宮尾本 平家物語 一 青龍之巻 (文春文庫) 一巻~四巻  宮尾登美子

方丈記や徒然草、法然などの本を読むうちに、平安時代のことをもっと知りたいと思うようになり、YouTube で平家物語関連のサイトをあれこれ見た。そして、実際に平家物語を読もうと思い、宮尾登美子の平家物語を読んだ。

おもしろかった~。宮尾本の平家物語は、女性という視点に重きがあって、血のつながりに重点が置かれている。最初のうち、登場人物が多くて、誰が誰だかよくわからなくなり、一度読んだところを読み返したりしていたが、巻末に詳しい系図があるとわかって読むのが楽になった。

その系図は、平家、天皇家、源氏などがあり、複雑にからみあう人間模様がおもしろい。また、宮尾登美子の描く清盛像は、どちらかというと慈悲深い温かい清盛のようで、とても興味深い。一般的に言われている通説とは異なる解釈が随所にある。安徳天皇の最後に関しては、あっと驚く結末が待っている。今度はまた別の人の平家物語を読むつもり。

仏教、方丈記、エピクロス、中野孝次など、「欲望を追わない生き方」の本を読み、その一方で「どっぷりと欲望を追う」平家物語を読む。そして「すべては幻影である」というブログを書いている。そのいずれにも美学がある。そしてそのいずれにも共通の学びがある。

2022/01/22

唯識④ 人人唯識(にんにんゆいしき)

このブログの「物は実在か?」のところで、私たちは本当に物が存在するのかを確かめるすべを持っておらず、心の中の映像を見ているにすぎないと書きました。では、心の外側には物が存在しないのでしょうか?

一個のレモンは、心の中の像でした。その像を別の心が見ています。では、月や夜空の星はどうでしょう。夜空に広がる星々も、心の中の像です。宇宙の果てまで思いをはせたとしても、それは私の心の中の像でしかありません。

私は今、部屋のパソコンの前に座って、コーヒーを飲みながら、このブログを書いています。今、私の世界は、部屋とパソコンと、コーヒー、そして窓ごしに見える向いの家並みと空。それが私の世界であり、他の人の経験している世界とは関係がありません。

今この瞬間には、エジプトのピラミッドもアフガニスタンの人々も、思考を向けないかぎり存在しません。ということは、私の世界は私の視界や思考だけでできているということになります。すなわち、私の世界はすべて、私の意識の中にある、別の言い方をするなら、世界は私の意識の中にしかないということになります。

では、私の意識の外に、エジプトやアフガニスタンは存在しないのでしょうか? それを確かめる方法はありません。なぜなら、私たちは自分の意識の外へ出ることはできないからです。

唯識では、心の外の物の存在を認めません。前回のブログで取り上げた原子という視点に立つなら、唯識では実体としての原子(究極の物質)の存在を認めません。唯だ、識(心)だけが存在するという教えです。それでは私たちが目にしているものは一体何なのだということになります。

私たちが見ている物は心の内側にあるものであったとしても、それをもたらす何らかの外側の実在があるはずだと考えるのは自然なことだと思います。というのも、私たちが認識している世界が、何もないところから現れるはずもなく、なんらかの要因があるはずだと考えざるえないからです。

部派の中には、経量部(きょうりょうぶ)のように、心の外側に見ている対象が実在するという見方をしている部派もありました。つまり、法(構成要素)の実在を外側に認めつつ、認識は心の内部で行われるというのです。唯識派と経量部の間では、激しい論戦が行われたそうです。

個人的には外側に何かがあって、それを心の中で認識しているのだと考える方が自然だと思うのですが、それだと空(くう)を説く大乗仏教の教えではないし、非二元的でもなくなって、普通の考え方になってしまいます。

心の外側には世界はないとするなら、私たちは一体何を見ているのか? 物自体にあたるもの、外側の世界にあたるものはどこにあるのか? あるいは、私たちが見ているものは何なのか? 唯識では、それは阿頼耶識(あらやしき)であると説明します。

阿頼耶識とは、私たちの心の深層深くに存在する意識。その意識は情報倉庫のようなもので、私たちが目にしたり、体験したりすることの情報がそこにある。そこから、私たちが目にしたり、体験したりすることがやってくるのだといいます。阿頼耶識(あらやしき)についてはまた次回詳しく書きます。

もう一度、私たちが物を認識するしくみについて書きます。例えば、一本の木を見ているとします。目が木を認識して、それを何らかの信号に変え、神経系統を経由して脳に伝達します。脳はその信号を何らかの形で木という像に変え、脳はその像を認識して、脳の中にある情報の中の木と照合して、(木が立っている)と判断することになります。

つまり、脳の中で何らかの方法で像として作られたものを意識が見ているということになります。作られた像は意識の上に現れたものであり、それを見ていることになります。言い方を変えると、意識が意識を見ていることになります。

その場合、目が最初に入手する木の情報は外側からくるのではないかと考えますが、唯識では、その最初の情報そのものが阿頼耶識からくるというのです。そして、目も、脳も、木という情報も全部阿頼耶識からくるというのです。

今ふうに言うなら、木も目も脳も情報も、全部が阿頼耶識というヴァーチャルリアリティの中の出来事だというのです。さらに、その阿頼耶識も実在のものとは考えてはいけない、実体としてあるのではなく、説明のために仮にそう呼ばれているものであるという、おそろしい結末が待っています。

その阿頼耶識から広がったヴァーチャルな世界のことを、心(こころ)と言ってもいいし、意識と言ってもいいのですが、そこに「私」の世界がある。つまり、意識の中で、意識が作り出した木という像を、意識が見ているということになります。

ここで注意しなくてはいけないのは、その意識、心は、一人一人それぞれの意識、心のことであって、集団としての共通のものではないということです。集団としての意識やヴァーチャルな世界があるのではなく、それぞれ一人一人の意識の中で起こっているということ。

これを、人人唯識(にんにんゆいしき)と言います。別の言葉で言うなら、一人一人がそれぞれ別の宇宙(世界)を見ているということです。でもなぜ一人一人が一見同じような共通の世界を見ているのか? なぜ私の世界にもピラミッドがあり、別の人の見ている世界にもピラミッドがあるのか? なぜ私が見ている世界と他の人が見ている世界が同じように見えるのか? 私の世界が地球なら、他の人が見ている世界が、例えば火星や、はたまた天国のような場所であってもいいはずなのに、なぜ他の人も私と同じように地球という世界を見ているのか。

生物にはそれぞれのプラットフォーム(基盤となる環境)があり、人間には人間のプラットフォームがあって、それがそれぞれの阿頼耶識にあるため、同じ情報を持っているのだといいます。猫の世界やライオンの世界にはまたそれぞれ共通のプラットフォームがあって、猫同士で共通の世界を見ているのだといいます。

人間に生まれた場合、同じ世界の情報を阿頼耶識にもっているため、同じ世界をそれぞれの意識の中で見ることになります。それは一見同じものに見えますが、実はそれぞれが別々の世界(宇宙)を見ているということになります。一人一人の宇宙です。

例えていうなら、それぞれの人がヴァーチャルリアリティのゴーグルをつけて、それぞれの世界を見ているような状態です。そして、そのヴァーチャルリアリティの世界の外には何も存在しないというのです。

私たちは、共通の一つの世界に住み、同じ物を見ていると思っていますが、そうではなく、それぞれの世界で、それぞれの阿頼耶識からやってくる世界を見ているということになります。

例えば、三人で一本の木を見ているとします。常識的に考えると、三人の心の外に実在する一本の木を、三人で見ているのだと考えます。しかし、人人唯識(にんにんゆいしき)ですから、三人が共通の一本の木を見ているのではなく、それぞれ各人の世界(意識)の中で映像としての別々の木を見ているということになります。

その木はどこからやってきたのかというと、三人それぞれの阿頼耶識にある情報からやってきたものであり、一見、同じ一本の木を見ているように見えますが、そうではなく、それぞれがそれぞれの世界の中の木を見ていることになります。ここで一つの疑問がわいてきます。

その木はそれぞれの人の意識の中にあって、その意識の外には実体的な木は存在しないというなら、たとえば誰かが、その木を切ったら、それはその人の意識の中にある木を切っただけで、他の人の意識の中にある木を切ることにはならないのではないか。他の人の見ている木は残っているはずなのに、実際には一人が木を切れば、他の人が見ている木も切られてしまう。これをどう解釈したらよいのか。

これを唯識では、増上縁(ぞうじょうえん)という概念で説明します。増上縁があるために、ある人の行為が縁となって、他の人の世界に影響を及ぼすというのです。

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
唯識十章 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
唯識の心理学
世親 (講談社学術文庫)
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)

2022/01/15

唯識③ 量子力学

私が読んだ唯識の本では、物が存在するかどうかという話をする時に、量子力学の話が出てきました。

量子とは何か?

量子とは、粒子と波の性質をあわせ持った、とても小さな物質やエネルギーの単位のことです。物質を形作っている原子そのものや、原子を形作っているさらに小さな電子・中性子・陽子といったものが代表選手です。光を粒子としてみたときの光子やニュートリノやクォーク、ミュオンなどといった素粒子も量子に含まれます。
 量子の世界は、原子や分子といったナノサイズ(1メートルの10億分の1)あるいはそれよりも小さな世界です。このような極めて小さな世界では、私たちの身の回りにある物理法則(ニュートン力学や電磁気学)は通用せず、「量子力学」というとても不思議な法則に従っています。(文部科学省HPより)

要するに、原子やそれを構成する粒子のことですね。このブログの中では、その粒子の間は大きな空間である話や、粒子の中には質量がないものがあるということを書いたことがあります。

私が読んだ唯識の本ではどういうふうに書かれているかを抜粋させていただきます。

 物とはなにかという存在観を根底から変えた二つの科学的発見・発達が二十世紀にありました。それは「相対性原理」の発見と「量子力学」の発達でした。
 前者の相対性原理の発見によって、絶対時間と絶対空間はない、時空は四次元時空として存在するということがわかりました。
 後者の量子力学の発達によって、分子・原子ないし素粒子などから構成される「物」のありようがこれまでの物質観、広くは存在観を根底から覆しました。
 量子力学の発達によってミクロの世界での物のありようがマクロの世界でのありようとまったく異なるという事実が発見されたのです。すなわち量子力学によれば、物質を構成する究極の粒子すなわち素粒子は、ある大きさを持った粒子として存在するのではないという結論に達しました。しかもその存在のありようは、私たち観察する側の心のありようによって左右されるという事実も発見されました。
 量子力学のミクロの世界の解明によって次のような事実が発見されました。すなわち、「私たち人間は、存在のありようを観察しているのではなく、存在に関与しているのである」という事実が解明されたのです。ニュートンまでの古典力学によれば、私たちは、これまで自分の前にある物、広くは存在のありようを、それから抜け出て、「それを客観的に対象として近くしている観察者」であると考えられていましたが、量子力学によれば、そうではなく、「その存在といわば[一つのセット]の中にある関与者である」という事実が判明したのです。
阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) p116より

 しかし、ほんとうにそのような「物」が、そして「物」を構成している原子・分子が、外界に厳として存在するのでしょうか。
 この問いに対して、古くは仏教の唯識思想、新しくは現代の量子力学、この二つがノーと答え、いずれも外界には私たちが考えるような「ある大きさを持った粒子」としての原子・分子は存在しないという結論に達したのです。
唯識の思想 (講談社学術文庫) p182より

 物質的存在は、ふつう分割、分解していくことができます。ですから、具体的な物質的存在に実体を求める場合、大体、原子論、それ以上は分割できない究極の存在に実体を求めようとすることになるわけです。今日、果たしてそれは、見出されているのでしょうか。近年、クォークの存在が立証されたというニュースが新聞にのりました。原子をさらに構成する素粒子の究極の物質と目されるものです。しかし、そのあり方は、実体としてあるのかどうかは、問題でしょう。
 物理学の方では、究極の存在が、一方では粒子としてとらえらるものの一方では波動としてとらえられるとか、その他様々な考え方があるようです。
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズムp69より

本に出てくるこれらの表現、「私たち人間は、存在のありようを観察しているのではなく、存在に関与しているのである」、「ある大きさを持った粒子としての原子・分子は存在しないという結論に達したのです」、「物理学の方では、究極の存在が、一方では粒子としてとらえらるものの一方では波動としてとらえられる」。こうした表現の意味が、よくわかりませんでした。
そこで、YouTubeで量子力学に関するものをいくつか見ました。

内容を全部理解できたわけではないのですが、言っていることの意味自体はだいたい理解できました。量子は人が観察(測定)するまでは波のような存在であり、位置や速度を特定できないというのです。人が観察したとたんに位置または速度が特定できるのだそうです。つまり、人が観察していなかったら、量子は何だかはっきりしない波のようなものだというのです。

物として見えている物を構成する微細な量子は、私たちが注意を向けるまではそこに存在しないというのです。もっと正確に言うなら、どこかに存在するかもしれないが、その場所を特定することはできないというのです。驚きました。

量子力学が仏教の教えを証明しつつあります。私たちが考えているような物質はないのだということを証明するところまできています。




参考文献

2022/01/08

唯識② 世界は言葉でできている。

もし言葉(言語)が無かったらどうなるでしょうか? 言葉がなくても生きてはいける。動物は言葉が無くても生きているし、私たちの祖先だって、最初は言葉を持たなかったはずです。

言葉が無かったら、他の人とのコミュニケーションは難しくなるが、簡単なことはジェスチャーを使って伝えられる。お腹が空けば、言葉など使わずとも何かを探して食べるだろうし、本能に従って子孫も残す。

でも、市役所へ行って婚姻届けを書いて出すなんてことはできなくなる。そもそも、結婚という言葉が無かったら、二人で一緒に暮らして家庭を持って、法的に保護してもらいましょうということをどうやって相手に伝えたらいいのかわからない。市役所も婚姻届けも、言葉がなかったら成立しない。人間生活の中で起きる複雑なことは、言葉が無かったら成り立たたない。

では、思考はどうか。私たちは、思考の道具として言葉を使っています。ものを考えるとき、言葉が無いとどうなるか。言葉が無い場合でも、思考そのものはある。でも、言葉が無かったら、複雑なことを考えることはできない。おそらく、思考というよりは感覚に近いものだけになってしまうような気がします。

映像の記憶だけでも、思考することは可能だと思います。例えば、将棋の棋士が記憶している棋譜のように、手順を記憶していれば、場面を順に思い出すことはできる。行ったことがある場所への行き方は、映像としての記憶を再現すれば思い出すこともできる。

時間の感覚はどうでしょう。言葉が無くても、太陽が高く昇れば昼だとわかるし、太陽が沈めば夜だとわかる。日々の出来事を将棋の棋譜のように順に思い出していけば、以前のことを思い出せるかもしれない。昨日と一昨日ぐらいまでは区別がつくかもしれないが、一か月前とか一年前の区別がつくだろうか。カレンダーが無かったら、過去の記憶がグチャグチャになってしまうような気がします。私の場合、カレンダーがあってもグチャグチャなのだけど。

時々、クイズ番組で、起こった順に出来事を並べよというのがあるが、自分の記憶がいかにグチャグチャなのかを知って驚くことがあります。私の場合、保育園より前の記憶はほとんどない。それ以前の記憶は、アルバムの写真に置き換わってしまっている。

未来のことを考える場合は、言葉がなくてもその日の夜のことぐらいまでは考えることはできるかもしれないが、それより先のことは、言葉がなくては難しい気がします。

私たちの世界は、多くの部分が言葉でできている。フランス語では、蝶と蛾の区別がなく、どちらの場合もパピオンというらしい。英語ではウッドとツリーを分けるが、日本語では木という。日本語ではお兄さん、弟と一言で上下関係を表現できるが、英語ではブラザーしかない。日本語では牛というが、英語ではカウ、カトル、オックス、ブルといって、何だかよくわからない。

それぞれの言語、あるいは民族が別々の概念を持ち、それに対して言葉をあてている。極端なことを言えば、それぞれの世界はそれぞれの言葉でできている。

ということは、私たちが言語を通して認識いるものが、外界にそのまま存在してるということにはならないということになる。混沌とした世界の一部をその言語体系に即して切り取って定義づけして使っているだけであり、つまりそれはそれぞれの概念の反映と解釈できる。世界は言葉でできている。でも、世界はその言葉どおりには存在していないということになる。

例えば、お金。紙幣でもコインでもいいのですが、それはもともと紙か金属のかたまりにすぎません。その紙か金属のかたまりが、私たちの意識の中で思考となって現れたとたん、紙や金属ではなくなり、金という途方もない欲求の対象に変わる。

それは単なる紙か金属にすぎないのに、時によっては命よりも大事なもに見えてしまいます。それを手に入れようとして奮闘し、手に入れると満足感を味わうのですが、そうした価値観は、自身が思考の中で勝手に構築したものだと気づきません。

「私」という言葉に関してはどうでしょうか。セイラーボブはミーティングで、「私の手、私の足と言うのなら、私と手や足は別のものですか? その私とは一体なんですか?」という話をします。私の手と言うのなら、私と手は別のものとなる。私の心臓、私の脳と言うのなら、私は脳でも心臓でもないということなる。

私の心が痛む、というのなら、私は心ではないということになる。私の魂というのなら、私は魂ではないということになる。では一体、その私とは何なのか、どこにいるのかということになり、それは実体のないものであるという話をする。

全く同じ話が唯識の本にも書かれていて、私などいない、無我(むが)であると説いている。無我は仏教の基本の教え。仏教も非二元も、「私」は存在しないと教えるのに、私たちの心の中は「私」だらけです。

私の手、私の足、私の部屋、私の家、私の車、私の服、私の妻、私の母、私の子、私のお金、私の人生、私の気持ち、私の心。そして、日常生活においても、すべて「私」が中心です。私は起きる、私はごはんを食べる、私は会社へ行く、私はテレビを見る、私は泣く、私は怒っている、私は寝る。

その「私」が何かということを確かめようとしても、それはできません。目が自分の目を見ることができないように、主体が主体を見ることはできないからです。よくある例えで言うなら、月を指さすことはできても、指を指さすことはできないからです。

世界は「私」だらけです。生きていくためには、片時も「私」を忘れることはできません。「私」などいないと言って知らんふりしていても、私のお腹は空きます。「私」などいないと言っていたら、生存競争に取り残されて、生きていくことさえ難しくなります。

でも、よくよく考えると、「私」などというものはない。セイラーボブもそう言っているし、釈尊もそう言っている。私たちは、「私」という言葉があまりにも便利なために「私」という言葉を多用しますが、そこには「私」という言葉があるだけで実体はありません。

「私」がないのなら、何があるのか。初期仏教では、「私」はないが、体と心を構成する要素、五蘊(ごうん)はあるのだと説きました。それが発展して、部派仏教では五位七十五法となり、七十五の構成要素で世界を説明しました。

そして唯識ではさらに細かく分類し、構成要素は百となり、五位百法が説かれました。唯識では、何がこの「私」という思いを引き起こすのかについて、私たちの深層心理の中に、「私」という思いを引き起こすもととなる意識が存在するのだと説きました。それを末那識(まなしき)と言います。末那識についてはまた後日書きます。

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
唯識十章 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
唯識の心理学
世親 (講談社学術文庫)
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)

2022/01/06

出家的に生きる人 服部潤氏(書家,詩人)

出家的に生きる人 服部潤氏(書家,詩人)

これは普段私が見ている佐々木閑先生の YouTube から転載です。
世俗の価値観を離れて、自分の道に生きる人を紹介してみえます。

2022/01/05

生きることと読むことと・本物の生き方・春宵十話

生きることと読むことと―「自己発見」の読書案内 (講談社現代新書)  中野孝次

中野孝次が読書について書いたエッセイ集。清貧の思想以来、中野孝次の本を飽きもせず読んでいる。この本には彼が今までにどんな本を読んできたのかということが書いてある。

中野孝次が勧めているのは古典が中心。特に印象に残ったものだけ書いておきます。
「パルムの僧院」スタンダール
「スタンダール」アラン・大岡昇平
「坊ちゃん」漱石
「源氏物語」
「バルザック」アラン
「方丈記」
「徒然草」
「平家物語」
「愚管抄」
「吾妻鏡」
「更科日記」

日本の古典に関しては原典を読んでいる。私も読んでみたいけど、原典は読めない。中野さんは最初からスラスラと読めたかというと、そうではないらしい。解説書を読みながら、少しずつ理解して全部が読めるようになって、そのあと何回も読んだという。私などはYouTubeで見てしまうのだけれど、古典は原典で読まないと良さがわからないのだそうだ。

「正法眼蔵」などの仏教関連になると、道元が作った言葉がたくさん出てくるので、解説なくしては読めないのだという。古典が読めるようになりたいという思いはあるが、戦前の学者が書いたものでもお手上げの私の場合、ちょっと手が出ない。

中野孝次のエッセイ集。中野さんのエッセイに流れている中心思想は、「清貧の思想」と同じ。金や地位を追うのではなく、人として恥ない生き方をするということ。そういう一生を生きた人たちにまつわるエッセイ。

書に関して書いてあるところでは、熊谷守一と中川一政の書がお気に入りだとあった。二人とも画家なので、絵の方は知っているが書の方は良く知らなかった。ネットで二人の書を検索してみて驚いた。

中野孝次さんは、美術や芸術を鑑賞する場合には、自分の中にある審美眼だけを基準として、人の言うことは全く気にしないという。それってものすごく大事だと思う。
調べてみると、熊谷守一も「欲望を追及しない生き方」をした人だとわかった。暖かくなったら、熊谷守一の絵や書を見に行きたい。

春宵十話 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫) 岡潔

岡潔の名前を初めて知ったのは、佐々木閑先生のYouTubeの中です。社会的な地位や金を追及しない人の話の中で出てきたと記憶しています。そしてアバタローの岡潔を見て、ぜひ本を読みたいと思って読みました。

これは岡潔が毎日新聞に書いたエッセイが中心になっているようです。初版は1963年。岡潔は数学の学者ですが、教育で一番大切なことは情緒を養うことだと言っています。情緒を育てるためには、人の気持ちを考えること、人を助けること、そういったことを親や社会が教えること。

この本が書かれたのは60年前で、敗戦から日本が立ち直って高度経済成長の真っただ中のころです。このエッセイでは、戦前の教育を受けた人なら誰もが知っているような神話の話や天皇、論語、仏教の話が引き合いに出されますが、私にはピンとこないような話が多かったです。

戦前の日本の教育では、神話、古事記、日本書紀、論語、天皇、仏教といったことを親や周りの人が子供に教えたと思うのですが、戦後の教育では、そうしたことを教えるのが一種のタブーになっていて、子供をどう教育したらいいのかわからなくなってきているような気がします。

1962年に起きた三河島惨事(死者160人を出した鉄道事故)を引き合いに出して、それは教育上の問題であると言ってみえます。この事故は、脱線の事故処理を手間取る間に、電車から降りて歩いていた乗客を別の列車がはねて、多数の死傷者を出した事故です。

自分の頭でどうしたらよいかを考えるような教育がなされていないのが原因、自分の頭で考えないような教育がなされている、その一因としては、テレビ、雑誌、映画の影響が大きく、そういったものに感情を支配される結果、知覚作用が働かなくなっていると、言ってみえます。(p112)

今から60年前に書かれたことです。前回の東京オリンピックが1964年ですから、テレビもそれほど普及していない頃に書かれたものです。それが60年後の今はどうでしょうか。人々は携帯で映画やテレビを見ている時代です。

状況は当時と比べてどうでしょうか? 人々の意識は当時の何倍も情緒から遠いものになっているような気がします。人々は必要以上に金を求め、テレビ、雑誌、映画どころではなく、四六時中携帯をのぞき込んでいます。

人が困っていても、助けようとはせず、SNSで見せびらかし競争に明け暮れています。これは人のことは言えない。岡潔のエッセイを読んで、情緒とは何なのか考えさせられました。ネットに費やす時間を大いに減らそうと思う今日この頃です。

2022/01/01

唯識① 唯識(ゆいしき)とは

釈尊の説いた教えは、自我を含めて対象への執着を離れよ、ということでした。自我への執着がむなしいことを示すために、五蘊無我説(ごうんむがせつ:個体を構成する五つの要素の上に我(私)は仮に有るとみなされているだけで、本当には存在しない)が説かれました。

釈尊が亡くなって百年ほどたつと、教団が分裂して部派仏教がおこります。そのなかでも有力だったのが説一切有部(せついっさいうぶ)でした。説一切有部は、我(が)は空(くう)であるが、法(ほう)は有るという教えをとなえました。我とは「私」のことで、法とは、構成要素としての物のことです。

部派仏教が経典の研究に明け暮れ、民衆と遊離していく一方で、人間は誰でも釈尊のような仏になることができるという大乗仏教が現れます。大乗仏教として、まず最初に「般若経」にもとづく、空(くう)の思想が起こります。

続いて、ナーガルジュナ(龍樹)に代表される中観派(ちゅうがんは)が起こり、もう一つ大きな学派として唯識派(ゆいしきは)が起こります。唯識派は正式には唯識瑜伽行派(ゆいしきゆがぎょうは)もしくは瑜伽行唯識派(ゆがぎょうゆいしきは)と呼ばれます。

瑜伽(ゆが)とはサンスクリット語でヨーガの意味であり、ヨーガ、すなわち瞑想によって真理を体得しようとするもので、唯識(ゆいしき)とは、ただ識(しき:こころ、意識)のみがあるという意味です。

中観派も唯識派も、どちらも空を説き、我も法も空であると説きましたが、唯識派は、とりあえず識(こころ)だけはあるという教えです。中観派は、言葉の誤謬や縁起によって空を説きましたが、唯識派はまた別のやり方で空を説きました。

般若の空の思想では、空があまりに強調され、ともすれば虚無主義におちいる可能性がありました。そのため、ヨーガを実践する人たちによって、少なくとも識(こころ)はあるという思想を起こしたのが瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきは)です。瑜伽行とはヨーガのこと。彼らはヨーガを実践することによって、心の奥深くに私たちが通常は気がつかない意識があるということを発見し、新しい思想を打ち立てました。

唯識思想では、般若の空思想が否定した部派仏教の諸概念を再び採り入れ、それをさらに発展させて独自の思想を形成し、五世紀頃、無著(むじゃく)と世親(せしん)によって体系化されました。

無著と世親は、インドの人で、インド名では無著はアサンガ、世親はヴァスバンドゥで、二人は実の兄弟です。二人とも、ガンダーラ(現在のパキスタンのペシャワール)の出身。その地方で有力だった部派は説一切有部であったため、二人とも最初は説一切有部で部派仏教を学びましたが、あとになって二人とも唯識派に転向します。世親はこのブログの部派仏教のところで書いた阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)の著者でもあります。

無著の代表作は「摂大乗論:しょうだいじょうろん」であり、この書によって唯識説がほぼ組織的にまとめあげられました。世親はこれを受けて、「唯識二十論:ゆいしきにじゅうろん」、「唯識三十頌:ゆいしきさんじゅうじゅ」を書きました。

唯識を理解するためには、無著、世親の書いた原典を読まないといけないのですが、私は漢文もサンスクリット語も読めないので、学者が書いた市販の本を読むしかありません。学術書を読むのは難しく、一般向けに書かれたものだけが対象となりますが、そうした本はそほど多くありません。私が読んだ唯識関係の本は入門書であり、参考文献として掲載したものがすべてです。そうした本をもとにしてこのブログを書いています。

それも、唯識の世界観や思想に関する部分のみであり、修行やヨーガの実践によって段階的に達成する方法については書きません。なぜかというと、それはこのブログの趣旨ではないからです。唯識三年俱舎八年を、入門書を何冊か読んだだけで理解するのは無理な話で、唯識や俱舎の内容の全体を理解しているわけではなく、あくまでも非二元的な部分についてのみです。

インドでは、イスラム国家の成立により、仏教そのものが消滅してしまいますが、唯識の教えは玄奘(げんじょう)などの三蔵法師(三蔵法師とは仏教を中国へ伝えた人々のこと)によって中国へ伝えられ、玄奘の弟子が法相宗を起こします。しかし、中国での唯識も、百年もしないうちに事実上消滅します。

日本へは、玄奘から直接唯識を学んだ遣唐使たちによってもたらされ、奈良時代には、興福寺、薬師寺、元興寺、法隆寺などで、さかんに研究されました。今日でも興福寺、薬師寺は法相宗の大本山となっています。そして、日本に伝えられた唯識思想は、仏教の基本学として宗派を超えて脈々と学ばれ続け、現在に至っています。

さて、唯識とは、読んで字のごとく、「ただ識のみ」ということです。それは、私たちがふつうあると思っている「私」や物は無い、ただ識(心)のみがあるということです。
仏教は、インド古来の思想である梵我一如の思想、つまり、ブラフマン(宇宙の本体)とアートマン(自己の本体)が一つであるという思想を明確に否定し、アートマンなどない、「私」などいない、無我であると主張して登場しました。

大乗仏教では、主体的存在(我)も、客体的存在(法)も、一切、空であると説きます。つまり一切の実体を認めません。唯識では、我、法の実体を否定して、唯だ識のみ、と主張します。

私たちは、ふつう、自分のまわりに、変わらない存在としての「物」があると思っています。(このブログを読んでいただいている方の多くは、物も「私」も実在ではないということはもうすでに理解されていると思いますが、唯識の思想を説明するために、一般論として書きますので、そのつもりで読んでください)

身のまわりを見渡すと、コップ、机、椅子など、壊れないかぎり、ずっとそこにある物にとり囲まれていて、変わらない「物」があると漠然と考えています。一方で、生まれてからずっと、変わらずに「私」がいると思っています。

体は成長とともに変化していきますが、どこかに変わらない私、魂のようなものが存在していると信じています。そこには、不変、不滅の実体がいると思っていて、それにしがみついています。

私たちは、そうした「私」や物が実体のあるものであると考え、それに執着し、たくさんの物や、より良い「私」を手に入れようとします。唯識では、そのような「私」も、物もない、あるのは、ただ識だけだと主張します。その識も、実体としてあるのではなく、説明のために仮にそう呼ばれているものであり、言うならば、空なるものとしての識だというのです。

釈尊のもともとの教えは、「私」や物に対する執着、煩悩を断つということでした。「スッタニパータ」に出てくるように、煩悩の激流を渡れ、ということでした。

物に執着していると、物を求めて物に振り回されて生きることになります。物を手に入れることに一喜一憂し、心が物にとれつかれて、平穏な心が失われます。「私」に執着すれば、同じように、他人より優れた「私」を手にいれようとして、葛藤の日々を送ることになります。

実体としての「私」や物に対する執着を捨てるということは、そうした執着によって失われた自由を回復するということです。それが仏教の目的であり、唯識の目的でもあります。

繰り返しになりますが、仏教では、「私」のことを我(が)と言い、物のことを法(ほう)と言います。この場合の法とは、構成要素として物質という意味です。そして、「私」に対する執着を我執(がしゅう)と言い、法に対する執着を法執(ほっしゅう)と言います。

唯識では、我も法も本来、存在しないということを示して、我執・法執からの解放を説きます。実体としての我、法は存在せず、唯だ識だけがあると教えるのが唯識です。

参考サイト

心の時代へようこそ
「阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門」「唯識の思想」の著者である立教大学名誉教授 横山紘一先生が、NHKのこころの時代という番組に出演された時の書き起こしがあるサイトです。少し長いので読むのは大変ですが、参考にはなります。766回から771回までの6回のシリーズになっています。

世親 Wikipedia

無著 Wikipedia

参考文献

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 
唯識の思想 (講談社学術文庫) 
唯識十章 
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
唯識の心理学
世親 (講談社学術文庫)
唯識とはなにか 唯識三十頌を読む (角川ソフィア文庫)

2021/12/29

正岡子規 言葉と生きる・笑う子規 (ちくま文庫)・ホトトギス俳句季題辞典・角川学芸ブックス 新版 20週俳句入門・エピクロス―教説と手紙

正岡子規 言葉と生きる (岩波新書)

正岡子規の評伝。少年時代から亡くなるまでを、子規が折々に書いた文章を最初に置いて、それにまつわる話を中心に書いてある。

小学生から中学生の頃の子規は、貸本屋から本を借りて筆写するのが趣味だったそうです。筆写は生涯にわたって続けられ、ものすごい量を筆写しています。でも、もっと驚いたのは、子規と同郷の南方熊楠の話。

熊楠も本が好きだったが、なかなか買ってもらえず、友人の家へ行っては本を見せてもらい、それを暗記して帰って家で半紙に筆写して、自分で何冊も本を作る話が出てきます。熊楠は3年かけて江戸時代の百科事典「和漢三才図会」全105冊を絵入りで筆写してしまったそうです。

そればかりでなく、中国の植物学辞典「本草網目」52巻、古本屋から借りた太平記50冊などなども筆写したそうです。そんなことを8、9歳の頃からやっていたそうです。子規よりも、熊楠の話に驚きました。

子規はまだ学生だった22歳の時に結核を発病します。当時は抗生物質などまだない時代でしから、ずっと病気をかかえながら34歳まで生きるわけですが、それでも新聞社に入り、精力的に俳句や文芸作品を生んでいきます。

読んでいてどうもよくわからなかったのは、結核なのに毎日たくさんの人が家にやって来るし、結構病状が悪化するまで自宅でいくつかの句会を毎月主催していて大勢の人がやってきています。私だったら恐ろしくて近寄れないと思いますが。

子規は交友関係が広く、その中には夏目漱石がいて、弟子には碧梧桐や虚子もいます。「坂の上雲」では秋山真之との交友関係も描かれていました。人気があったということでしょうね。

子規は病床で起き上がれなくなっても原稿を書いたり俳句を読んだりと、短い生涯を目いっぱい生きたようです。ますます子規に興味が湧いたので、また別の評伝を読んでみようと思います。

なぜ子規の評伝を読もうと思ったのかというと、私は毎朝ペン習字の手本を1ページだけ筆写することにしていて、その中に子規の「六月をきれいな風の吹くことよ」という句がある。それがいつも気になって、どんな時に詠んだ句なのだろうと思って読むことにしました。

この句は子規27歳、日清戦争から帰って須磨の保養所で病気療養中に作ったものでした。

***********

笑う子規 (ちくま文庫)

この本は子規の句集。子規は生涯で24000ほどの俳句を読んだそうですが、その中から、笑える句を選んだもの。でも、個人的にはそんなに笑えなかった。いくつか挙げておきます。

内のチュマが隣のタマを待つ夜かな(チョマもタマも猫)

行水や美人住めける裏長屋

金持ちは涼しき家に住みにけり

睾丸をのせて重たき団扇哉(うちわなり)

睾丸の大きな人の昼寝かな

押しかけて余所(よそ)でめしくう秋のくれ

柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺

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ホトトギス俳句季題辞典

初心者向けの歳時記(季語集)はないかと丸善であれこれ見て買いました。他の歳時記はどれもアカデミックで難しいし、厚い。コンパクトで辞典のように使えるものはないかと検討してこれに決めました。5700語収録。

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俳句を詠めるようになりたいと思って購入。プレバトは見ていないのですが、何か入門書はないかと、YouTubeで夏井先生のサイトで調べたところ、この本を推薦してみえたので、これにしました。とりあえず一通り読んだので、これから20週かけてじっくりと練習するつもり。

この本では、四つの型を覚えることによって、とりあえず俳句が詠めるようになるという。そんなに必死で俳句をやろうとは思っていないけど、どうせやるなら上手な方がいいかと。

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エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

エピクロスは紀元前4世紀ごろのギリシャの哲学者。快楽主義を唱えた人です。快楽といっても、みだらな行為にふけるとか、大酒飲んで放蕩するということではありません。エピクロスの言う快楽とは、衣食住が足りて健康という意味。

贅沢なものを食べるということではなく、普通の食事がちゃんととれること。そして体に痛いかゆいがなく健康であることが快楽。
エピクロスの哲学についてはYouTubeのアバタローで見てもらったほうがわかりやすいと思います。

この本の構成は以下の通り。
(目次)
・ヘロドトス宛の手紙:原子論
・ピュクレス宛の手紙:自然観察法
・メノイケウス宛の手紙:哲学
・主要教説
・断片
・エピクロスの生涯と教説

原子論や自然観察法は、二千年以上前のものなので、今読んでもあんまり意味がない。エピクロスの生涯と教説もあまり参考にはならず、主要教説とメノイケウス宛の手紙だけ読めば十分というような構成になっています。

読んでいて思ったのは、言っていることは徒然草と同じじゃないかということ。健康で衣食住足りていれば、それ以上多くを望むのは贅沢というもの。シンプルに生きよということだと思います。
死について書いているところで、ものすごく感銘を受けた一節があるので、転載させていただきます。

p67より

 また、死はわれわれにとって何ものでもない、と考えることに慣れるべきである。というのは、善いものと悪いものはすべて感覚に属するが、死は感覚の欠如だからである。それゆえ、死がわれわれにとって何ものでもないことを正しく認識すれば、その認識は、この可死的な生を、かえって楽しいものとしてくれるのである。というのは、その認識は、この生にたいし限りない時間を付け加えるのではなく、不死へのむなしい願いを取り除いてくれるからである。

なぜなら、生のないところには何ら恐ろしいものがないことをほんとうに理解した人にとっては、生きることにも何ら恐ろしいものがないからである。それゆえに、死は恐ろしいと言い、死は、それが現に存するときわれわれを悩ますであろうからではなく、むしろ、やがて来るものとして今われわれを悩ましているがゆえに、恐ろしいものである、と言う人は、愚かである。

なぜなら、現に存するとき煩わすことのないものは、予期されることによってわれわれを悩ますとしても、何の根拠もなしに悩ましているにすぎないからである。それゆえに、死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。

なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きているものにも、すでに死んだものにも、かかわりがない。なぜなら、生きているもののところには、死は現に存しないのであり、他方、死んだものはもはや存しないからである。以上引用おわり。

最後の、「われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きているものにも、すでに死んだものにも、かかわりがない。なぜなら、生きているもののところには、死は現に存しないのであり、他方、死んだものはもはや存しないからである。」というところがいいですね。

要するに、生きている私たちにとっての死は勝手な想像であり、死んだあとは想像する人もいないのだから、いずれにしても死はない、と言っていると思います。U.G.クリシュナムルティも、「どうして自分が生きているとわかるのか?」と言っていたように、死なんてない。
もう一つ載せておきます

p100より

 すべての欲望にたいし、つぎの質問を提起すべきである、すなわち、その欲望によって求められている目的がもし達成されたならば、どういうことがわたしに起きるであろうか、また、もし達成されなかったならば、どういうことが起きるであろうかと。

2021/12/25

ナーガルジュナ(龍樹)②

中村元先生は、その著書、龍樹 (講談社学術文庫) 中で、中論の中心思想は縁起(えんぎ)であると書いてみえます。p160から引用させていただきます。

縁起を説く帰敬序
さらに『中論』自体について検討してみよう。
ナーガルジュナは『中論』の冒頭において次のようにいう。
「不滅・不生・不断・不常・不一義・不意義・不来・不出であり、戯論(けろん)が寂滅(寂滅)して吉祥(きちじょう)である縁起を説いた正覚者(しょうがくしゃ)を、諸(もろもろ)の説法者の中で最も勝れた人として稽首(けいしゅ)する」
とあり、この冒頭の立言(帰敬序:きけいじょ)が『中論』全体の要旨である。
 
 右の詩の趣旨を解説しつつ翻訳すると、次のようになる。
「(宇宙においては)何ものも消滅することなく、何ものもあらたに生ずることなく、何ものも終末あることなく、何ものも常恒(じょうごう)であることなく、何ものもそれ自身と同一であることなく、何ものもそれ自身において分かれた別のものであることなく、何ものも[われらに向かって]来ることもなく、[われらから]去ることもない、というめでたい縁起のことわりを、仏は説きたもうた」

ではその縁起とは何でしょうか。縁起説にもいろいろありますが、小乗仏教(部派仏教)の説く縁起の一つに十二縁起(十二因縁)があります。それは時間的な流れに関係する縁起であり、人間の苦しみ、悩みがいかにして成立するかということを考察したものです。

十二因縁(十二紙支縁起)

十二因縁は十二支縁起のことであり、初期仏教のところで書いたので、ここでは簡単にまとめておきます。

十二因縁は、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の十二です。最初に無明があります。私たちの根本には無明、無知がある。無知ゆえに識を形成する働き、行ができる。そのために識、意識の識別作用が現れる。それにもとづき、主観と客観の対立ができる。それにもとづいて対象に働きかける「眼・耳・鼻・舌・身・意」という六つの働く場(六所)が考えられる。それがあるために、接触、触が起きる。接触のゆえに受、感受作用が起こる。それによって盲目的、衝動的な妄執の愛が起きる。愛ゆえに執着の取がおこる。それにもとづいて有、生存が起こる。そして生まれ、老いて死ぬ。これが原始仏教の説く十二縁起です。(参考:ブッダの生涯 6(佐々木閑「仏教哲学の世界観」第2シリーズ)

仏教は我(が、アートマン)の存在を認めません。でも、無明(無知)ゆえに自身があるように錯覚し、輪廻するように見える。刹那滅という視点に立つならば、輪廻する主体は実在ではないのですが、それでも輪廻する主体は何なのかという矛盾をかかえることになります。

大乗仏教(ナーガルジュナ)の説く縁起

初期の縁起思想がさらに発展して、一般にもろもろの事物が成立する相互の関係を縁起と呼ぶようになりました。縁起というのは、他のものとの関係が縁となって起きること。つまり、すべての現象は無数の原因や条件が相互に関係しあって成立しているということです。

それを、相依性(そうえしょう:相互依存)の縁起といいます。互いに依存して存在しているのであり、独立した主体としてのものは存在しないということです。

たとえば、行為は行為する主体がなければ存在しない。私は私以外がなければ存在しない。有は無がなければ存在しない。あらゆるものごとは、相互に依存して成り立っていて、どちらかが欠けると成り立たなくなります。

セイラーボブの言葉でいうなら、「あなたの体から水を取り除いてみてください。あなたの体を空間の外に出してみてください。できますか?」です。体は、体単体で存在しているわけではなく、いろんなものに依存して存在しています。空間、水、熱、ありとあらゆるものに依存しています。そうした関係がなかったら、体は存在することができません。

また、別のボブの表現で言うなら、「主体がいなければ客体もない」「見るものがいなければ、見られるものもいない」。そして、セイラー・ボブがよく例に出す、「昼の後には夜が来る」「潮が満ち、潮が引く」など、自然は相反するペアの間で移動するというのも、一種の縁起の思想です。

また、これは中村元先生が YouTubeで語ってみえたことですが、私という個人存在を考えた場合、父がいて母がいる。祖父がいて祖母がいる。そうやって先祖を、たとえば何万年もたどっていくと、おびただしい数の人がかかわっていて、その中の誰かひとりでも欠けると自分は存在しない。自己というのはそれほどかけがえのないものだというようなことを語ってみえました。これも一種の縁起だと思います。

そう考えていくと、たとえば地球の裏側にいる誰かと自分が無縁の存在だとは言えない。それなら、動物とは、小さな虫一匹とはどうだろう。そして、海、山、世界、宇宙と自分との関係においても、同じことが言えるのではないでしょうか。すべては互いに依存していると言えるのではないでしょうか。ちょっと飛躍させると、万物は一つのものなのではないでしょうか。

ちょっと飛躍しすぎたので、縁起の話にもどります。
なぜ、この縁起の思想が重要であるかというと、縁起ゆえに空だからです。般若心経でいうところの、「色即是空」の色(しき:もの)は、そのもの単体では存在することができず、自性(じしょう)がない。だから空だというのです。

空(くう)という場合、何も物がないから空だと考えがちですが、ここでいう空とは、物がないから空なのではなく、自性がない、実在ではないから空だというのです。物は互いに関係しあって存在するから、それぞれが別々のものではなく、一体のものである。何一つ単体で存在するものはない。だから空だというのです。

また、セイラーボブはこうも言います。「実在という言葉の意味は何ですか? 辞書で調べてみてください。実在とは永遠に変化しないもののことです。永遠に変化しないものが、この世界にありますか?」
永遠に変化しないものなどありません。だから空なのです。

セイラーボブの家の居間の椅子をセイラーボブが指さして、「それは何ですか?」と尋ねた時、私はなぜその椅子が実在ではないのかわかりませんでした。でも今はなぜそれが実在ではないのかはっきりわかります。この世界に実在のもの、自性のあるものは存在しません。すべてが空なのです。

参考サイト

縁起(Wikipedia)
十二因縁(Wkipedia)
輪廻(Wikipedia)
中観派(Wikipedia)

参考文献

龍樹 (講談社学術文庫) 
インド仏教の歴史 (講談社学術文庫)
空の思想史 原始仏教から日本近代へ (講談社学術文庫) 
仏教入門 (岩波新書) 

2021/12/22

幸福の原理・人生の短さについて・読書について

幸福の原理―「無い」ことのゆたかさを見つめ直す15章 中野孝次
中野孝次のエッセー集

本の帯より
空(から)だから充実するということ。物のゆたかさだけでは心は満たされない! 「からっぽ」「空腹」「無為」「捨てること「闇」「沈黙」など、<無いこと><からであること>に新たな価値を見い出し、真に落ち着きと安らぎのある暮らしとは何かを問う21世紀の幸福論!!

無に近く、つねに無を意識しているからこそ、なんでもない一日一日の生が輝くのである。もうじき死ぬと考えているから、今年の花が、これを見るは今年限りかと、特別にありがたく眺められる。/人生が無限につづくように思っていた若い時分にはなかった、そういう一刻一日をありがたい贈り物のように感じる心持ちが、老年の日々を充実させるのだといえる。無が有を輝かせるのである。闇が光をありがたいものにするのである。

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この本は20年前に出版された本ですが、その中で著者は、最近のテレビは食い物のことばかりやっていて、おもしろくないからほとんど見ないと書いている。

あれから20年たって、その傾向はもっとひどくなってきている。私はこの本を読む以前からそう感じていて、最近のテレビは食い物のことばかりやっていておもしろくないと思い、ほとんど見なくなった。

私が不満なのは、なぜテレビのこちら側にいる私が食べることができないものを、これみよがしに放送するのかということ。私は基本的には自分で作ったものが一番おいしいと思っている。好きな材料で好きな味付けで好きな温度で食べるのが一番だと思っていて、人の食べているものにはあんまり興味がない。それなのにテレビは毎日のように食い物番組を垂れ流す。

あ、本の内容とかけ離れてきました。この本は老子やマイスター・エックハルトなどが引用してあって、本当の幸せは物への執着にはないということが書いてあります。
紹介のため、本からちょっと引用させてもらいます。

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土をこねてひとつの器を作る
中がくりぬかれて うつろになっている
うつろな部分があってはじめて
器は役に立つ
中までつまっていたら なんのつかい道もない
家の部屋というものは当たりまえのことだが
なかに空間があるから有用なのであり
そこがぎっしり詰まっていたら使いものにならない
その空間 その空虚が その部屋の有用性なのだ
我々が役立つと思っているものの内側に
空(から)のスペースがあり
この何もない虚のスペースが本当の有用さなのだ
                     「伊那谷の老子」加島祥造の中の老子の言葉

物でも知識でも、名声でも、何でも、とにかく欲しがる心をすべて捨て去って、何もいらぬという心ばかりひっさげて、自分のためには何一つ用意することなく、ただ無役無用の者になりきって、わが一生を終えよういう志を立てられるがよい。悟りを得て仏になって何になろう、仏道を達成して何になろうと思われるがよい。とにかく、私の欲する心は、すべてもたぬことが肝心です。           「明恵上人の言葉」

幸せが、生活の快適さに拠るのであれば、中世に生きた私たちの先祖は現代人よりも不幸であったと信じられよう。だが、もし幸せが、生と対峙する態度に拠るのであれば、超俗的な信念を持っていたその時代の人びとは、現代人以上に幸福感、控え目にみても内的な安らぎと心の安定に接していたと考えることができるのである。「中世ヨーロッパの生活」ドークール

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人生の短さについて 他2篇 (光文社古典新訳文庫)
古代ローマの哲学者、セネカが書いたもの。
内容としては、次の三篇が一冊の本に入っている。
・人生の短さについて
・母ヘルウィアへのなぐさめ
・心の安定について

セネカってどんな人?

・人生の短さについて
これは、セネカがパウリヌスという人にあてて書いたもの。パウリヌスは穀物管理の役人として働いている。セネカは、パウリヌスに対して、人生で本当に大切なことは何かを考えて、今すぐ自分のすべきことをやるようにと諭します。「すべての時間を自分のためにだけ使え」「毎日を人生最後の日のように生きよう」
p66から
「真の閑暇は、過去の鉄人に学び、英知を求める生活の中にある。すべての人間の中で、閑暇な人といえるのは、英知を手にするために時間を使う人だけだ。そのような人だけが、生きているといえる。」(閑暇:仕事から解放されていること)
p71
「われわれは、よくこう言うーわれわれは、だれを自分の親にするかを選べなかった。親は偶然によって与えられたものなのだと。ところが、必ずしもそうではない。われわれには、自分の望みどおりの親の子として生まれることも許されのだ。きわめて貴な天才たちには、[学派という]それぞれの家がある。どの家の子になりたいか選びなさい。あなたは、たんに家の名だけではなく、財産も受け継ぐことになるだろう」

これは何を言っているかというと、いにしえの賢人から学びなさいということです。

・母ヘルウィアへのなぐさめ
セネカは8年間、コルシカ島へ島流しにあいます。そこから、母ヘルウィアあてて自分はちっとも不幸ではない、安心してくださいと手紙を書きます。さらに、元気に生きるためには学問をするとよいと言って、学ぶことを勧めます。これはまあ、住めば都と言っているわけですが、結構考えさせられるものがあって、はたから見て不幸に見えても、当時者はそうでもないということは結構あるのではないかと思いました。
それと、学ぶことを喜びとすることの大切さ。人は老年になると無為に過ごしてしまうもの。でももし学ぶ喜びに目覚めたなら、老後でも時間が足りない。私も大いに学んでいこうと思っています。

・心の安定について
ここでは、なるべく質素な生活をしよう、自分の手足を使おう、なんて、鴨長明と同じようなことを言っています。

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読書について (光文社古典新訳文庫)
ショーペンハウアー著


内容は三篇のエッセー
・自分の頭で考える
・著述と文体について
・読書について

・自分の頭で考える
読書は人の頭で考えることであり、めったやたらと多読をすると、くだらない人の思想で汚染されてしまうので、多読をするのではなく、良いものを少し読んで、自分の頭で考えることが大切であると言っています。なんか、身につまされました。

・著述と文体について
書くテーマをしっかり持っている人だけがちゃんとした文章を書ける。稼ぐために書いているやつはけしからんと言っています。できるだけ原著を読むべきであり、その解説本や提灯持ちの書いた本を読むべきではない。また、書き手は読み手が理解できないようなものを書いて煙にまくべきではなく、ちゃんと理解できる言葉で書くべきである。(賛成)

・読書について
自分の頭で考えないで、読書ばかりしていると馬鹿になる。
反芻し、じっくり考えたことだけが栄養になる。
ひっきりなしに次々と本を読み、あとで考えずにいると、せっかく読んだものがしっかり根を下ろさず、ほとんど失われてしまう。
大衆受けする本に手を出すな。悪書を読むな。
偉大な人物について書いたものではなく、偉大な人物が書いたものを読め。
重要な本は続けて二回読め。

まとめると、時代の試練を乗り越えてきた古典を読みなさいということ。特にギリシャ・ローマ時代の古典にはずれがないそうです。

私などは世間が騒ぐ本にすぐに飛びついて洗脳されてばかりいるくちなので、耳の痛い話ばかり。なんたら賞を取った作家のほとんどが数年後には消えていく現実を見れば、やはり古典に親しむ方が有益なのかもしれません。また、精神世界の本も、時代とともにどんどん入れ替わる現実を見ると、本当に時代の試練を越えていく教えは、ほんの一握りだということがわかります。まだセイラー・ボブなの、なんて言われる時がくるのかなぁ。

2021/12/18

ナーガルジュナ(龍樹)① 

インドでは、紀元前一世紀ごろになると、部派仏教に対する反発から大乗仏教がおこり、紀元前後から初期大乗経典が編纂されていきます。その代表的なのものは原始般若経典群です。

それと並行して、空(くう)の思想も発展していきます。部派仏教(説一切初有部など)では、法(ほう:ダルマ:物の構成要素・五蘊や五位七十五法など)はあるという説をとなえていましたが、大乗仏教では、法もないという説が発展しました。

仏教では、「空:くう」の思想を「空観:くうがん」と呼びます。空観とは、あらゆる事物(一切諸法)が空であり、それぞれのものが固定的な実体を持たないという思想です。その思想は原始仏教でも説かれていましたが、大乗仏教の初期の「般若経」ではそれを発展させ、大乗仏教の基本教説としました。

その後、その思想を哲学的・理論的に基礎づけ、確固たるものしたのがナーガルジュナ(龍樹:りゅうじゅ・西暦150~250年ごろ)です。龍樹というのは漢訳ですが、中国の人ではなく、インドの人です。ナーガルジュナの著作と言われているものはいくつか伝えられていますが、伝記的な部分は伝説の域を出ず、詳しいことはわかっていません。

ナーガルジュナの説いた空の思想は、中観派(ちゅうがんは)と呼ばれる学派を形成し、その後の大乗仏教に多大な影響を与えたため、ナーガルジュナは八宗の祖と呼ばれています。(この場合の八宗の祖とは、すべての大乗仏教の祖という意味)

日本に伝わった仏教は大乗仏教です(密教を除く)。大乗仏教とは何かといえば、空の思想ですから、日本の仏教の根底にあるのは空の思想だといってもいいかと思います。

大乗仏教には、中観派の他にもう一つ大きな学派として唯識派(ゆいしきは)があります。時代的にはほぼ同じ時代に発展しましたが、唯識派が少しあとになります。(唯識については後日書きます)

中論

ナーガルジュナの主著として、中論(ちゅうろん)があります。中論は、部派仏教(説一切初有部)のとなえるアビダルマ(法:ダルマは存在するという説)を論破する目的で書かれたものです。ナーガルジュナの主張は、我(が)も法(ほう:ダルマ:物の構成要素・五蘊や五位七十五法)もないという大乗仏教の主張です。

その中論の冒頭の帰敬序(ききょうじょ:仏に対するうやまいの辞)が「中論」全体の要旨であると、中村元先生が書いてみえるので、冒頭部分を龍樹 (講談社学術文庫) の中の中論から引用させていただきます。

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[宇宙においては]何ものも消滅することなく(不滅)、何ものもあらたに生ずることなく(不生)、何ものも終末あることもなく(不断)、何ものも常恒であることなく(不常)、何ものもそれ自身と同一であることなく(不一義)、何ものもそれ自身において分かれた別のものであることはなく(不意義)、何ものも[われらに向かって]来ることもなく(不来)、[われらから]去ることもない(不出)、戯論(けろん:形而上学的論議)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの諸法者のうちで最も勝れた人として敬礼(きょうらい)する。

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不滅・不生・不断・不常・不一義・不異義・不来・不出を八不(はっぷ)といいます。無限にある事柄の中から、特に代表的な八つを取り上げて、それを否定することによって、あらゆるものが空であるということを論証しようとしています。

中論では、この帰敬序に続いて、どうしてあらゆるものが否定されるのかを、言葉の持つ矛盾によって証明していきます。言葉は、どれほど完全を期しても、言葉が表す実体そのものではないため、おのずと限界があることを明らかにしていきます。どのように論証しているのかを、さらに中論から引用させていただきます。

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第二章 運動(去ることと来ること)の考察

一 まず、すでに去ったもの(已去:いこ)は、去らない。また未だ去らないもの(未去)も去らない。さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの>も去らない。
[第一詩の後半、「現在の<さりつつあるもの>が去らないということはいえないはずではないか」という反対者が第二詩を述べる]

二 動きの存するところには去るはたらきがある。そうしてその動きは<現在さりつつあるもの>(去時)に有って<すでに去ったもの>にも<未だ去らないもの>にもないが故に、<現在さるつつあるもの>のうちに去るはたらきがある。
[第二詩に対して、ナーガルジュナは答える]

三 <現在さりつつあるもの>のうちに、どうして<去るはたらき>がありえようか。<現在去りつつあるもの>のうちに二つの<去るはたらき>はありえないのに。

四 <去りつつあるもの>に去るはたらき(去法)が有ると考える人には、去りつつあるものが去るが故に、去るはたらきなくして、しかも<去りつつあるもの>が有るという[誤謬が]不随して来る。
*もしも「去りつつあるものが去る」という主張を成立させるためには、<去りつつあるもの>が<去るはたらき>を有しないものでなければならないが、このようなことはありえない。

五 <去りつつあるもの>に<去るはたらき>が有るならば、二種の去るはたらきが不随して来る。[すなわち」<さりつつあるもの>をあらしめる去るはたらきと、また<去りつつあるもの>における去るはたらきとである。
*すなわち、もしも「去りつつあるものが去る」というならば、主語の「去りつつあるもの」の中に含まれている「去」と、新たに述語として付加される「去」と二つの<去るはたらき>が有るという[誤謬]が付随することとなる。

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なんともわかりづらい文章です。でも、この同じパターンの論証が全編で続きます。あれこれの本を読んで、私が理解した範囲で説明させていただきます。

一 まず、すでに去ったもの(已去:いこ)は、去らない。また未だ去らないもの(未去)も去らない。さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの>も去らない

例えば新幹線を例に出すと、すでに去ってしまった新幹線は、もうすでに行ってしまったので、これから去ることはありません。そして、まだ去っていない新幹線は、まだ到着していないわけですから、去らないということになります。

では、今去りつつある新幹線はどうか? 今、眼の前を走っていく新幹線というものを考えた場合、私たちは時間という概念を頭の中で想像して、去っていくと考えていますが、瞬間瞬間をとらえるならば、それは去っていったものか、あるいはまだ去っていないもののどちらかとなって、去っていきつつあるという状態はないことになります。

さらに、「今新幹線が去りつつある」と言った場合、頭の中で新幹線をいったん停止させて、それを発車させて、「去りつつある」と考えています。それを厳密に表現するならば、「停車している新幹線が今発車しつつある」という状態のことなので、去りつつある新幹線は存在しないということになります。あえて言葉で無理やり表現すると、「去りつつある新幹線がさらに去りつつある」となってしまい、矛盾する表現となってしまいます。(参考インド仏教の歴史 (講談社学術文庫)p210)

中論からもう一つ例をあげます。阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) p90から引用。

物は有るのでもなく、無いのでもないから変化する
そして、このことを次のように論証するのです。
(1)まず、牛乳を有とする。すなわち、牛乳というものが実体として有るとするならば、それはいつまでも牛乳であり続けるから、ヨーグルトに変化することはない。しかし、現実には牛乳はヨーグルトに変化するから、牛乳は有るのではない

(2)次に牛乳は無いとする。すなわち、牛乳という物が実体として無いとするならば、無いものが変化することはありえない。しかし、現実には牛乳はヨーグルトに変化するから、牛乳は無いのではない

と、このように論理を展開して、
「牛乳は有るのでもなく、無いのでもないから変化する」
と結論づけるのです。

ナーガルジュナは、言葉の持つ欠陥ゆえに、世界が実在であるかのように見えるのだと説いているようです。このあたりの説明はセイラーボブの話と似ているような気もします。

ナーガルジュナの教えそのものは、非二元の教えと同じであり、すばらしいと思うのですが、なぜそうなのかという説明にはまったく納得できません。私には、詭弁というか、こじつけとしか思えないのです。

ナーガルジュナは、中論の中で、また別の角度から空の説明をしています。私はそちらの説明の方が龍樹を八宗の祖たらしめていると思っています。それは縁起の思想です。

参考サイト

龍樹(Wikipedia)
中観派(Wikipedia)
中論(Wikipedia)
龍樹と空(中観)広済寺ホームページ

参考文献

龍樹 (講談社学術文庫) 
インド仏教の歴史 (講談社学術文庫)
空の思想史 原始仏教から日本近代へ (講談社学術文庫) 
仏教入門 (岩波新書) 
阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) 

2021/12/15

清貧の思想・本阿弥行状記・贅沢なる人生 ・ぶれない生き方 ・老いの矜持 潔く美しく生きる

中野孝次の本を読み始めたきっかけが何だったかは、はっきりしません。佐々木閑さんの本や仏教を学ぶうちに、「世俗的な欲望を追及しない生き方」に興味を持つようになり、世の中には、金や名誉ではなく、まったく別の価値観を生きている人がいて、そういう生き方の方が人間らしいのではないかと思うようになりました。

もともと私にはそういうところがあって、だからこそセイラー・ボブに会いに行ったり、このブログを一生懸命書いていたりします。

佐々木閑さんに言わせると、「世俗的な欲望を追及しない生き方」をしている人たちは言わば出家者のようなものであり、現代の社会にもたくさんいるというのです。例えば学者や芸術家がそうです。たとえ貧乏であっても、研究したい、良い作品を作りたいと励む人たち。

そして、世俗を半ば放棄して生きた昔の人たちのことをもっと知りたいと思うようになり、方丈記や徒然草を読むうちに、中野孝次の本を読むようになりました。

中野孝次 ウイキペディア
1925年生まれ、2004年逝去。55歳まで國學院大學のドイツ語教授。退職ののち作家として活動。ベストセラーに「清貧の思想」がある。

清貧の思想 (文春文庫) 中野孝次
この本はバブル経済崩壊直後の1992年に書かれたものです。バブル当時、人々は株や不動産投資に熱狂し、金だけが人間の尺度であるかのように夢中になっていました。

そしてまた、著者が諸外国を旅して必ず言われることは、日本は車やカメラなどの優れた工業製品を作って海外へ輸出する一方で、外国を訪れる日本人は金の話しかしないというものでした。

そこで著者は、それは日本人の本来の姿ではない。日本人は古来、たとえ貧しくとも、欲望にとらわれず、清らかに暮らしてきた。自分の中に確固たる律があって、人が見ていなくても悪いことをせず、自分のやりたいことを追及して生きてきたということを、外国に行くたびに講演したそうです。その内容がこの本のベースになっています。

本に登場する人
本阿弥光悦・本阿弥妙秀・本阿弥光徳・本阿弥光甫・鴨長明・良寛・池大雅・与謝蕪村・吉田兼好・芭蕉など。

全部紹介できないので、例えば本阿弥光徳・本阿弥光甫の話。
本阿弥一族は室町時代からの刀の目利き、研ぎ、磨きを家業とした家柄。江戸時代に、本阿弥光甫のもとへ人が刀を持参し、「このボロ刀を売りたいが、誰も買ってはくれないので、二両で引き取って欲しい」と訪ねてきます。

それを見た本阿弥光甫は、それが政宗であることを見定めたうえ、磨いて二五〇両の鑑定をつけて返しました。二両で引き取ることは、自身の心に反することであり、決してそのようなことはしないという一族の律があったため、人をだますようなことは決してしなかったというのです。

また、足利尊氏直筆の添え状付きの政宗の脇差の鑑定を徳川家康から頼まれた本阿弥光徳は、将軍の刀であっても、臆することなく、役に立たないものだと言って家康の機嫌をそこねたそうです。たとえ相手が誰であろうと、自分の中にある信念をまげなかったというのです。

その他、この本に出てくる人たちは、金や世俗にとらわれることなく、たとえ貧しくとも誇りをもって自分のやりたいことを貫いて生きた人たちです。

ひるがえって現代の日本人を見ると、金や情報に振り回されています。ネットやテレビがまき散らす薄っぺらな幸せに憧れて、自分の頭で考えもせず、物を所有することが幸せだと思ってあくせくしています。この本を読んで、どう生きるのが幸せであるかをあらためて考えさせられました。

清貧の思想は貧乏を礼賛しているわけではありません。自分のやりたいこと、自分の信じる生き方をするために、所有欲に捕らわれることなく、簡素に生きるということです。

NHKアーカイブ 中野孝次(清貧の思想について語っています。3分の動画)

ほかにも何冊か読んだのでついでに書いておきます。

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本阿弥行状記 中野孝次
本阿弥光悦やその母・妙秀、その他の本阿弥一族のことが書かれています。これはもともとあった古典を小説仕立てにしたもののようです。本阿弥一族が、いかに金ではなく心の中の律を重んじた一族であったかが書かれています。

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贅沢なる人生 中野孝次
著者と大岡昇平、尾崎一雄、藤枝静男の交遊録。


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ぶれない生き方 中野孝次
エッセイ集です。おのれの心に恥じるようなことをしない生き方を説いています。特に、お金ということに関して心に残ったものを書いておきます。

欲なければ一切足り、求むる有りて万事窮す。(良寛)
求むることの最も少ない者が困窮することの最も少ない人間である。(セネカ)
足ることを知っている者はすべてを持っているのだ。欲深く多くを求める者はどんなに多くのものを得ても、まだ足りないと思うのである。(シレジウス)

似たようなことを釈尊も言っているのでついでに書いておきます。

金銀の山があったとしても、またそれを二倍にしても、それだけでは一人の人を満足させることはできない。このことを知って平らな心で行うべし(サンユッタニカーヤ)

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老いの矜持 潔く美しく生きる (青春新書インテリジェンス) 中野孝次
エッセイ集です。老後をどう生きるのが幸せであるかについて書いてあります。
老後は義理を欠いてでもいいから、自分の好きなことをやって生きよう、それが幸せというものだと言っています。まったく同感です。

2021/12/11

般若心経

日本人にとって一番馴染みがある経典といえば、般若心経ではないでしょうか。
インドで仏滅後400年ごろから次々と起こった大乗仏教の最初は、般若経にもとづく空(くう)の思想でした。空の思想では、部派仏教で説かれた、我も法も否定され、一切は空であると説かれました。

般若経が次々と作られましたが、般若心経は、数ある般若経(約600)をまとめたものだと言われています。しかし、それがいつごろ誰によって作られたのかはわかっていません。この般若心経の本質は大乗仏教の空(くう)の思想であると思うので、まずこの般若心経を取り上げることにしました。

いろんな人が現代語訳を書いていますが、それを転載する訳にはいかないので、いろんな人の訳を参考にして私が訳したものを掲載します。

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仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
般若心経 (Wikipediaより)

すぐれた知恵の経典
観自在菩薩は深い知恵の行(ぎょう)を実践され、五蘊(ごうん:世界を構成する五つの要素)はすべて空(くう)であるということを理解され、苦しみから解放された。
シャリシよ、形あるもの(物質的要素)はすべて空と同じであり、空が形あるもの(物質的要素)を構成している。形あるものはすべて空であり、空が形あるものである。感覚、思い、認識、意識にも実体はない。

シャリシよ、すべてのものは空であって、生ずることも無くなることもなく、けがれてもおらず、清くもなく、増えも減りもしない。
それゆえに、空には色かたちは何もなく、感覚、思い、意思、認識もなく、眼、耳、舌、体も心もなく、声も香りも感触も心の対象となるものもない。眼の領域から認識の領域まで、何もない。

無明(無知)もなく、無明がなくなることもなく、老いることも死ぬこともなく、老いること死ぬことがなくなることもない。苦も、苦の原因もなく、苦がなくなることも、なくす道もない。悟る知恵も、悟りによって獲得するものもない。

何かを得ようとする思いがないゆえに、菩薩はすぐれた知恵(般若波羅蜜)によって、心に障りがない。心に障りがないため、恐れもない。一切の迷いや妄想がなく、やすらぎに至った。過去現在未来の仏も、すぐれた知恵によって、やすらぎを得たのである。

それゆえ、すぐれた知恵(般若波羅蜜)は力のある言葉であり、大いなるやすらぎの言葉であり、比類なき言葉である。
一切の苦しみを取り除き、真実であり、虚偽ではない。そこで、すぐれた知恵(般若波羅蜜)の言葉を教えよう。

行ける者よ、行ける者よ、彼岸に行ける者よ、皆ともに彼岸に行ける者よ、悟りよ幸あれ。般若心経。

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釈迦はみずからを観自在菩薩に例えて、弟子のシャリシに、すぐれた知恵(般若波羅蜜)を説いています。細かい解釈や言葉使いに異論はあるかと思いますが、おおむねこういう解釈でいいかと思います。もっと詳しい解釈が知りたいという方は関連書籍やサイトを参照してください。

今回は三か所だけを取り上げたいと思います。まずは、「照見五蘊皆空」。五蘊(ごうん)とは、色受想行式(しきじゅそうぎょうしき)という五つのあつまり(蘊:うん)のことで、宇宙に「ある」と思われているものすべてを分析して五つに分類した構成要素のことです。

「色:しき」は自分の肉体と、外界にある物質的なもの(正確には物質的要素すべてのことです。「受想行式」は精神的な面です。「照見」とは見抜くという意味。つまり、「すべての構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いた」という意味です。

続いて、「色即是空 空即是色」。セイラーボブもミーティングの中でこの言葉を引用したことがあります。"Form is emptiness, emptiness is form."

色即是空、色(しき)はすなわちこれ空である。これはどう意味でしょうか。色(しき)とは物質(物質的要素)のことです。物質とは、椅子や机、山や海、そして体などのことです。椅子や机や私は存在しないという意味です。

そして今度は「空即是色」。物質は空間(空)がなければ現れることができない。

そしてもう一か所。「無智亦無得 以無所得故」(むちやくむとく いむしょとくこ)。この意味は、悟る智慧も、また悟りによって何かしら獲得できるものもないという意味です。中村元先生は、その現代語訳の中で、こう訳してみえます。(前後も含めて引用)

「さとりもなければ、迷いもなく、さとりがなくなることもなければ、迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制してなくすことも、苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制してなくすことも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。」般若心経手帳 

また、公方俊良蒼竜寺貫主は、その著書(空海たちの般若心経)の中で、「教えを知ることもなく、悟りを得ることもない」と訳してみえます。

要するに、悟りなんてないと般若心経が言っているのです。
人びとは、悟りが開けると、あとは悩みもなくすっきりとして生きていけると思っているが、そうではなく、悩みは生きていれば繰り返しやってくる。それを生きていくことが悟りなのだと中村元先生は言ってみえました。私もそのとおりだと思います。参考:中村元こころの時代YouTube

般若心経では、初期仏教や部派仏教で説いた無明や五蘊もないのだ、すべては空なのだと言っています。初期仏教の教えを否定して登場したのが大乗仏教です。

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中村元 - 空の思想 : 般若心経・金剛般若経の解説

佐々木閑先生の般若心経現代語訳


色とは何か。佐々木閑の仏教講義 3「阿含経の教え 1−21」 

過去に当ブログで書いた般若心経のYouYubeも参考にしてください。

参考文献・サイト

2021/12/08

方丈記・徒然草

仏教のことをブログに書こうと思って、あれこれ本を読んだのですが、その読書感想的なものを記録してきませんでした。

読んだ時は素晴らしいと思ったのですが、今となっては(ブログに書いたこと以外で)、具体的に何をどう素晴らしいと思ったのかよく思い出せない。そこで、これではいかんと思い、今後は分野を問わず、読んだ本の感想をブログに書いていくことにしました。

過去のものについても書こうかと思ったのですが、図書館で借りたものも多く、もう一度読み返すのは大変な作業になってしまうので、やめました。仏教関係の本については、仏教・アドヴァイタ 参考図書を見てください。読んだ当時、おすすめだと感じたものには☆印がしてあります。

仏教について学ぶうちに佐々木閑先生が本やYouTubeで説かれている、「世俗的な欲望を追及しない生き方」に興味を覚えるようになり、「放浪の天才数学者エルデシュ」や現代語訳 方丈記 (岩波現代文庫)新版 徒然草 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)を読みました。

セイラーボブの影響が大きいことは言うまでもありませんが、最近の私は世俗的な欲求がほとんどない。これは良いことなのか悪いことなのかよくわからないのですが、お金とか名誉とかに対する執着がなくなってきています。

年齢的なこともあるのですが、健康で衣食住が足りていれば十分だと思うようになりました。あえて欲求と言えば、もっと本が読みたいということぐらいです。

何者かにならなくてはいけないという焦燥感が全くなく、穏やかな日々が続いています。できるなら、こうした日々がこれからも続いて欲しいと思っています。

このブログに、読書感想を書いていこうと思います。
手始めに、「方丈記」と「徒然草」について書いておきます。

現代語訳 方丈記 (岩波現代文庫)

すらすら読める方丈記 (講談社文庫) (おすすめ)
これは中野孝次による現代語だけでなく、感想や解説が章ごとについている。天災や飢饉の様と自身が体験した戦争との比較も考えさせられるものがある。また、原文には全部ふりがながふってあるので、原文を読むのにもよい。できれば原文を読んで意味がわかるようになりたいと思うのですが、ちょっと先のことになりそうです。

これは文章そのものが短いのですぐに読めてしまいます。今時はYouTubeの方が便利なので、YouTubeも載せておきます。

朗読『現代語訳 方丈記』鴨長明 佐藤春夫訳


アバタロー「方丈記」解説

平安時代も現代と同じように、天災、疫病が流行り、人々を苦しめました。人々の悩みや苦しみは今も昔も変わらない。世の無常。いかに危ういバランスの上に人間の世界は成り立っているのでしょうか。

私はこの朗読が好きで、何度も何度も聞いています。生きていれば、世俗的な欲求が基準点としてやってくることもあります。ついついそうしたことを追いかけたくなるのですが、いやいや、穏やかに暮らした方が幸せだと思い出して朗読を聞いています。

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新版 徒然草 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

すらすら読める徒然草 (講談社文庫)(おすすめ)
これも中野孝次による現代語だけでなく、感想や解説が章ごとについている。もともとの順番どおりではなく、中野さんが項目別に編纂した順に載せてあるので読みやすい。また、解説や中野さんの哲学のようなものがとても参考になる。

こちらもYouTubeが便利なので載せておきます。

朗読『徒然草』(①/4) 吉田兼好 作 佐藤春夫 訳 (序~60)

アバタロー「徒然草」解説  

徒然草もすばらしい。衣食住足りて健康なら穏やかに暮らすことが幸福というもの。それ以上望むのはぜいたくというものだと言っています。

自らの若かりし日々を振りかえってみると、何のために新車を買ったり、ゴルフだ旅行だとあくせくしたりしていたのか…。そして絶えず何者かにならなくてはいけないという強迫観念に支配されていました。何かを手に入れれば幸せになれるというのが、いかに幻想だったかわかります。

鴨長明も吉田兼好も、ある意味で世俗を放棄して生きたのですが、それでいて我慢するとか悲しいといったネガティブな感情とは無縁で、日々を楽しみ、風流を愛して、穏やかに生きたようです。本当の幸せとは何なのかを教えてくれます。

YouTube の朗読はどちらもすばらしいです。本よりも、朗読の方が親しみやすいかもしれません。

2021/12/04

大乗仏教

釈尊が無くなってからの仏教は部派仏教(小乗仏教)として続き、釈尊の説法はニカーヤ(阿含経)としてまとめられて、各部派で伝え維持されました。部派仏教では経典の研究や解釈に明け暮れ、個人の解放にのみやっきになっていましたが、紀元前一世紀ごろになると、インド国内では、釈尊時代の仏教とは根本的に異なる世界観を教義に持つ、新しい仏教が発生してきました。

それは一つではなく、様々に異なる動きが次々と発生して起こりました。こうした多様な新しい仏教のことを後になってまとめて大乗仏教と呼びました。そのため、大乗仏教という一つの仏教宗派があるのではなく、釈尊の直接の教え以降に出てきた新しい仏教の総称のことです。

大乗仏教では、誰もがブッダとなりえる本性を生まれながらに持っているとして、広く人々を救済すべきであると主張し、部派仏教の教えを再定義して、「般若経」や「法華経」などが作成されました。

大乗仏教と小乗仏教の最も大きな違いは、小乗仏教では仏陀は釈尊ただ一人であり、一般の人は出家して修行をして悟ることはできても、それは仏陀ではなく、阿羅漢(仏陀よりもワンランク下の悟った人)であったのであったのに対して、大乗仏教では、出家しなくても在家のままで誰もが仏陀になる可能性がある、仏陀は釈尊以外にも大勢いると説いたことです。悟りを目指して修行する人のことを菩薩と言います。

そのため、大乗仏教は一般の人たちの間で人気を集め、急速に普及しました。北伝(中国、日本など)に伝わった仏教は主として大乗仏教です。大乗仏教は、菩薩思想、六波羅蜜(仏になるための六つの修行)といった一応の基本原理を保持しながら、中観(ちゅうがん)、唯識(ゆいしき)、禅、般若思想、浄土思想、法華、華厳、如来思想、密教と多種多様な思想が現れました。

小乗仏教として、釈尊のオリジナルの教えや形式を今でも守っているのは、南伝の国々、スリランカ、タイ、ミヤンマー、ラオス、カンボジアなどの国々に現存する仏教(テーラワーダ)です。

部派仏教(小乗仏教)では、主体としての私(我)の無我を説きました。我は無いけれども、法(物の構成要素・五蘊や五位七十五法)はあるという立場です。ところが、大乗仏教では、法もない、一切は空(くう)であると説くようになります。無我の思想が発展して、空(くう)の思想が現れました。

大乗仏教というくくりで、そのすべてを説明することは無理なのですが、本からの抜粋を紹介させていただきます。

大乗仏教と小乗(部派)仏教の違いインド仏教の歴史 (講談社学術文庫)p140より)

大乗

・人間は誰でも釈尊と同じ仏となれると考えられている。
・最終的に仏となり、自覚・覚他円満(自分も他者も覚らせる)の自己を実現する。
・一切の人々を隔てなく宗教的救済に導こうと努力し、利他を重視する。
・みずから願って地獄など苦しみの多い世界におもむいて救済行に励む、生死への自由がある。
・釈尊の言葉の深みにある本意を汲み出すなかで、仏教を考えようとした。
・在家仏教の可能性を示唆した。

小乗(部派)

・人間は釈尊にはほど遠く、修行してもとてもおよばないと考えられている。
・最後に阿羅漢となり、身と智とを灰滅して静的な涅槃に入る。
・自己一人の解脱のみに努力し、自利のみしか求めない。
・業に基づく苦の果報から離れようとするのみで、生死からの自由しかない。
・釈尊の言葉をそのまま受け入れ、その表面的な理解に終始する傾向があった(声門といわれる。なお、声門は本来、弟子の意である)。
・明確な出家主義。

さらに、「覚り」と「空」―インド仏教の展開 (講談社現代新書)より引用。

大乗仏教の根底には『空』の思想がある。特に我(主体的存在)の空のみでなく、法(客観的存在)の空をも説いたことが部派佛教とは決定的にことなる点であった。『我空法有』に対する『我法俱空』あるいは『人法二空』の立場こそ、大乗の世界観の核心である。・・主体的存在として構想されている我も、事物を構成する要素的存在として想定されている法も、一切はなんら本体を持つものではなく、空・無自性で、ゆえに仮のもの、幻のようなものでしかない、というのが大乗仏教の根本的立場なのである。・・我のみでなく法も空・無自性であるということは、この我々の世界のどんなものも、実は真に生まれたものでもないし、滅したものでもない、ということになる。すなわち本来生滅も去来もなく、したがって、本来寂静であり、本来涅槃に入っているということである。つまり、我々の生死の世界も、実は本来涅槃の世界そのものだったのである。

逆に言えば我々は、修業して覚りを開いた後、ことさらに涅槃の世界にはいらなければならないのではない。生死の世界が涅槃の世界と別でないなら、自由に生死の世界に入って、しかもそれに染まらないことが可能になる。そこに無住所涅槃(衆生を救うために涅槃にも生死界にもとどまらないこと)という世界がある。この無住所涅槃をみることによって、永遠の利他行も可能とされることとなるのである。・・(我執・法執双方を断つことにより)世界にはなんら実体は存在しないという透徹した智慧が生じる。この智慧が自他平等の本質を如実に解らせ、苦悩に陥っている人々を救おうとする心を発動させていくのである。

もう一度、まとめると、「人無我法有(にんむがほうう)」。人は無であるが、それを構成する法(五蘊など)はあると説くのが小乗。
「人法二空(にんぽうにくう)」。人も法も無いと説くのが大乗です。

小乗仏教は、釈尊の直接の教えとされるニカーヤ(阿含経)に基づいていますが、大乗仏教は、仏滅後400年近くもたって現れた新しい仏教であり、人々によって次々に作られた経典に基づいています。そのため、小乗仏教の人から見れば、大乗仏教の教えは釈尊の教えではないということになりますが、大乗仏教の人から見れば、釈尊の教えの真意は大乗の教えの中にあるということになります。

私からすれば、どちらも、「私は実在ではない」ということを伝えようとしていて、その理由づけが違うだけのような気がします。
空を説く大乗の世界観は、非二元の世界観ととてもよく似ている気がします。

この動画はちょっと簡略化しすぎの感はありますが、参考にはなると思います。これから登場する龍樹、世親(唯識)を理解する上で参考になると思います。


参考文献

2021/12/01

セイラー・ボブ・アダムソンの近況⑤

セイラー・ボブは元気にミーティングを続けています。でも、膝の手術が必要となり、少しの間ミーティングを休むそうです。留守の間はカットがミーティングを開きます。(日本時間日曜日8時30分から10時までFacebookで中継)

セイラーボブのホームページ

 セイラーボブの YouTube

 セイラーボブの Facebook

2021.12.19追記:ボブは退院してミーティングを再開しました。

2021/11/27

部派仏教(アビダルマ)倶舎論②

心(しん)と心所(しんじょ)

五位((Wikipedia 五位))とは、世界を分類する五つのカテゴリーで、その中に七十五の構成要素(法)があります。

五位とは、以下の五つ。(カッコ内は構成要素の数:合計75)
・色(しき):物質的なもの。(11)
・心(しん):外界からの刺激によって起こる認識。(1)
・心所(しんじょ):認識に不随して起こる心の反応。(46)
・心不相応行(しんふそうおうぎょう):認識、心所に関係せず、物質でも精神でもないもの。(14)
・無為法(むいほう):因果関係によって生滅する可能性のない法。(3)

ここまでは前回のブログに書きました。心と心所について、もう少し詳しく書きます。五根(眼・耳・鼻・舌・身)が、認識対象である五境(色・声・香・味・触)と触れ合うと、そこに反応が起こって認識が生じる。その認識そのものを心(しん)といいます。

例えば、レモンを見ると、その色(いろ)や形が認識される。それが心(しん)。それに付随して、(すっぱいかも)(食べたい)(新鮮そうだ)というように、心に付随して起こってくる反応を心所(しんじょ)という。

心所は大きく分けて六つのカテゴリーがあり、その中に46の構成要素がある。どんなものがあるかは、Wikipedia 五位 を参照してください。全部は説明できないので一つだけ説明すると、例えば夏の暑い日に冷たいかき氷を食べると、受(じゅ:感受作用)という心所が起きる。

受には三種類(楽・苦・不苦不楽)の三種類があり、この場合は楽という受が起きる。なぜなら、かき氷を食べることは好ましいことだから。もし、かき氷を大嫌いな人が、人から無理やり食べさせられた場合は、苦という受が生じる。

では、心と心所は、私たちの体のどこあるのか。現代人なら脳の中にあると考えるでしょうし、昔の人なら心臓の中と考えるかもしれません。でも、倶舎論では、心と心所は特定の空間には存在しないと考えます。あえて言うなら、体全体に遍満しているということになります。

心所は心(しん)から起こり、心(しん)は五根によっておきます。五根は色(しき:物質)であると書きました。でも、物質ではない、もう一つの根があります。それは意根といって、心のことです。

私たちが、何かを思い出したり、何かを考えたりして、その結果として心所が起きる場合、具体的な根(原因)なしで起きるのは、おかしいということになり、倶舎論では物質ではない根があるはずだと考えました。

でも、その根は物質ではない。その根はどこにあるかというと、一刹那前の心が根として働くのだという理論づけをしました。

「私」とは、肉体を構成する色法と、そこに遍満する心・心所を合わせた全体の仮称であり、私などという実体はもともとどこにも存在しないということが重要です。この世で生きる生命すべてが無我であり、それは諸要素の集合体としてのみ機能しているということ。諸法無我です。

刹那滅

仏教では、あらゆるものの存在を刹那滅(せつなめつ)という考え方でとらえます。刹那とはきわめて短い時間のこと。あらゆるものは、無数の基本的要素が法(ダルマ、縁起)によって因果関係を結び、存在を構成します。ただし、その存在は一瞬間(刹那)だけだというのです。瞬間的に物事は起こり、瞬間的に消滅する。そして次の瞬間に同じ構成要素によって新たな因果関係が結ばれて、また瞬間に起こり、また消滅する。

私たちにとって、持続して存在しているように見えているものは、瞬間、瞬間の存在が連続して積み重なったものであるという考え方を、刹那滅といいます。

私たちは通常、現在だけが実在であり、過去や未来は実在しないと考えています。例えば今、音楽を聴いているとする。音楽は音の連続なので、ある瞬間に音が聞こえる。その音を聞いているのはその刹那だけ。次の瞬間になれば、その音は消滅して別の音が現れるため、前の音はもう存在しない。また、未来の音はまだ現れてはいない。あるのは、この刹那に現れている音だけ。これが一般的な考えかたです。

しかし、倶舎論の刹那滅では、「現在の法が実在しているのと同様に、未来の法も過去の法も実在している」と考えます。その理由は三つ。一つは、煩悩の発生要件。私たちは様々のものを対象として煩悩を起こす。過去のものや未来のものを対象として煩悩を起こすこともある。ということは、過去や未来のものも実在であると考えざるえない。

二つめは、「認識できるものは実在する」というインドで承認されている考え方。「私たちは、実在するものしか認識できない」という理屈。過去や未来のものでも、認識している以上は実在していると考える。

三つめは、業の因果法則。今現在作っている業が、遠い将来、その結果を生むとするなら、その時間的に隔たった未来の法が実在すると考える。現在行っている業が、未来の法に信号を送り、因果則が成立すると考える。

これを説明するのには、映画のフィルム映写機を使うと理解しやすい。映写機は、上下二つのリールとその中間にある投射装置でできている。上のリールには、今から上映されるフィルムが巻かれていて、投射済みのフィルムは下のリールへと巻きとられていく。

フィルムというのは、アニメーション映画かパラパラ漫画を想像してもらえばわかるように、登場人物を一コマ一コマ、少しずつ移動させることで動いているように見える。コマの中の登場人物は静止している。倶舎論では、私たちの世界がそうなっているという。

もし世界が、一コマずつ一刹那に生じては消えていくものだというなら、あらゆる存在物は静止したものであるということになる。ところが、私たちの認識能力は、それが連続したものとしか認識しないため、世界が変化しているような錯覚をする。「私」という存在についても同様に、そこに「私」がいて、時間とともに変化しているように思ってしまう。

ただし、この映写機の例えには一つ問題がある。映写機の未投射のフィルムは順番が決まっているが、私たちが経験する世界では、未来は確定していない。そのため、未投影のフィルムの並びは決まっていない。これが、倶舎論の説く時間論。

五位七十五法では、この世を構成する要素は七十五種類の法(要素)でした。しかし、その法の中に時間は含まれていない。つまり、時間は実在ではなく、実体のない仮設のものということになる。実際には時間などというものはなく、私たちがそう錯覚しているにすぎない。

フィルムの説明で、倶舎論の説く刹那滅はわかったと思うのですが、では、どうして前の一コマと同じような一コマが次に現れるのかという疑問がわいてきます。一コマ一コマ生じては消えているのであれば、どうしてまったく別のシーンが登場しないのでしょうか。

実際問題として、前のコマと全く関係がないコマが次に現れたら、映像はつながらず、無茶苦茶になって、何が何だかわからなくなると思うのですが、それが連続しているかのごとくに、似たような景色が現れるのはどうしてでしょうか。

それは因果(いんが)によってです。倶舎論では「六因(ろくいん)、五果(ごか)」という因果の法則で説明します。六つの因(げんいん)によって、五つの果(結果)をもたらすというものです。その因の一つに同類因(どうるいいん)というものがあります。

同類因とは、法(構成要素)が未来から現在へ、現在から過去へと変移する際に、「未来に存在している法の中から、現在とよく似た法」を引っ張ってこようとする傾向をもっているというものです。

ある法(構成要素)が現在に現れてなんらかの作用を行うと、それはおのずから、あとに自分と似た法を引っ張ってこようとする一種の継続力を生む。したがってもし特別な事情がなければ、その直後には、それと同類の法が現れることになる。

このプロセスが連続すれば、「同じ法がずっと連続して現れ続ける」ように見えるという状態になります。しかし実際には別の因果則の影響を受け、連続性が断たれる場合も多い。

例えば、テーブルの上に一個のリンゴがあったとする。それは色法でできている。細かく言えば、色・香・味・触の各法でできている。もし、他の因が作用しなければ、そのリンゴはずっとそのままということになるが、実際にはそうならない。

一見、何の変化もないように見えるリンゴでも、半年も置いておけば、やがて腐ってしまう。あらゆるものが実際には少しずつ変化していき、年月とともに姿を変えてゆく。花瓶や石でさえ、長い年月の間に姿を変える。

アビダルマの世界にも、永遠に変化しないものはない。諸行無常である。

初期仏教では、こんな複雑な理論を展開することはなかったのに、部派仏教では複雑な理論を発展させました。二千年前に、これほど難しい理論を発展させたというのは驚きです。

この記事は 仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫) を参考、拝借して書いております。興味のある方はぜひご一読を。

参考文献
仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)
仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ> (角川文庫ソフィア) 

2021/11/20

部派仏教(アビダルマ)倶舎論①

釈尊のもともとの教えは対機説法(悩みを持つ個人に対して個別に説いた教え)であり、決まった聖典というものはありませんでした。釈尊の死後、弟子たちによって、釈尊が語った教えが口頭で伝承され、それがのちに、ニカーヤ(阿含経:あごんきょう・アーガマ)という一連の経典となりました。阿含経はそうした断片的な教えの総称のことです。弟子たちは、そうした断片的な教え(ニカーヤ:阿含経)をたよりに修行をしていました。

釈尊の死後100年ほどたつと、教団が分裂を始めます。最初は大きく二つに分裂し、その後さらに20ほどへと分裂して、たくさんの部派が生まれます。それを部派仏教といいます。

部派仏教は、のちに起こった大乗仏教(乗は乗り物、教義を意味する。偉大な教義の意)側から、小乗仏教(劣った教義)と呼ばれました。大乗仏教は北伝といって、中国やチベット、朝鮮半島、日本に伝わりました。小乗仏教はスリランカを経由して東南アジアに伝わり、現在もタイなどで存在します。そこでは今でも釈尊存命時と同じように、出家した僧は結婚することなく、托鉢によって生計を立て、修行に専念しています。彼らは、自分たちの仏教をテーラワーダと呼び、それこそが釈尊以来の正統であると自認していて、日本の仏教(大乗仏教)を、僧侶たちの生活も含めて、堕落したものと見なしているそうです。

釈尊が亡くなって300年から900年後、部派仏教ではさかんに阿含経の解釈研究がなされ、解説書が作られました。そうした営み、文献研究をアビダルマ(法:ダルマについての研究という意味)といいます。そのため部派仏教はまた、アビダルマ仏教とも言われています。

なぜそのような研究、解説書が必要だったかというと、断片的な教えではなく、体系化された一つの解釈書を必要としていたからです。

部派仏教の教えは、大半の原典が残っていないのですが、後世になって部派仏教の教えを解説した解説書がいくつか残っています。部派仏教の中でも特に有力だった部派の一つに説一切有部(せついっさいうぶ)という部派があり、その教えを解説した注釈書の一つが、世親(せしん:ヴァスバンドゥ 400~480年)の倶舎論(くしゃろん:阿毘逹磨倶舎論:あびだるまくしゃろん)です。

僧侶や学者の間では、「唯識三年、俱舎八年」と言われていて、もし仏教の唯識(ゆいしき)の教えを習得しようとするなら、その前に俱舎論を八年間学ばないと習得できないというのが一般論だそうです。それも、漢文やサンスクリッドなどの古代インド語が読めることが前提での話ではないかと思われます。

原典や、それを翻訳したものは、とても私の手におえるものではありません。私でも理解できるものはないかと探して、佐々木閑先生の仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)を見つけました。この本は倶舎論の入門書として、とてもわかりやすい説明がされています。私がこれから書くことは、この本をもとにしています。この本はアビダルマの世界観を知ることができ、とても有益な本なので、興味のある方は、ぜひ一読されることをおすすめします。

般若心経をはじめとする日本の仏教(大乗仏教)では、「すべてが空である」ということが強調されますが、倶舎論ではそうではありません。「この世の多くの存在は虚構だが、その奥には間違いなく実在するものがある」と言います。

このブログの初期仏教の回、五蘊のところで、「私」は実在ではないと書きました。その思想が発展して、物も実在ではないと説くようになりました。ミリンダ王の問いのところで出てきたように、例えば車は実在か? 車輪が車なのか? 荷台が車なのか? そうした様々な部材の集合体を車と呼んでいるだけで、車という存在は実在ではないと説きます。

ほとんどすべての物は、私たちが勝手に名前をつけてそう呼んでいるだけで、実在ではありません。では、そこには何もないかというと、そうではありません。そこには、その物を構成する要素があると説きます。仏教では、その構成要素のことを法(ほう)と言います。また、法には原理、法則という意味もあります。その法によって世界は構成されている。それが倶舎論のおおもとの世界観です。

釈尊は、無我、無常を説きました。私はおらず、不変なる物(常なる物)は存在しないと説きました。では、私たちが、そこにあると思う人や物は一体何なのか、どうしてそう思うのかということを定義する必要があります。そこにあるのは、実在としての私や物ではなく、構成要素、法則、原理(法:ダルマ)であり、その理論的裏付けとして、部派仏教では五位七十五法が生まれました。これは、五蘊とは別の分類法です。(この他にもいくつかの分類法があるのですが、仏教は時代によって、解釈する人たちよって変化して、様々な分類法が生まれました)

五位七十五法

説一切有部の世界観では、我(が)や実在としての物の存在は否定されます。ただし、個々の法(自性を維持するための法則・原理、構成要素)は有るという立場をとります。それゆえに、説一切有部と呼ばれています。説一切有部では、あらゆる存在を五つに大別し、それをさらに七十五に分けて定義しています。これを五位七十五法と言います。

要するに、現象としての世界のすべては、七十五の構成要素(法則・原理)に分けることができるというもの。

そうして分類することで何を言おうとしているかというと、この世界を構成する人も物も実在ではなく、それを構成する構成要素(法則、原理)のみがあるということを言おうとしています。五位七十五法の全体を説明するのは私の手に負えないし、このブログの趣旨でもないので、概略だけ書きます。

五位((Wikipedia 五位))とは、世界を分類する五つのカテゴリーで、その中に七十五の構成要素(法)があります。

五位とは、以下の五つ。(カッコ内は構成要素の数:合計75)
・色(しき):物質的なもの。(11)
・心(しん):外界からの刺激によって起こる認識。(1)
・心所(しんじょ):認識に付随して起こる心の反応。(46)
・心不相応行(しんふそうおうぎょう):認識、心所に関係せず、物質でも精神でもないもの。(14)
・無為法(むいほう):因果関係によって生滅する可能性のない法。(3)

これでは何のことかわからないと思います。Wikipedia 五位 を読んでも、やっぱりわからない。佐々木閑先生の仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)を読んでもらうのが一番いいと思うのですが、それでは先へ進めないので、私なりの勝手な要約で説明させていただきます。

例えば、レモンがテーブルのあったとします。物質であるレモンが色(しき)。レモンを見て、こころ(意識、脳)の中に映像として現れるものが心(しん)。その、こころに現れた映像(心)に不随して起きる(すっぱそう)(かじりたい)という心(こころ)の反応が心所(しんじょ)。

そうした色、心、心所がバラバラにならないように結びつけておく一種のエネルギーを心不相応行の一つの得(とく)という。他にも心不相応行は13あるが、説明は省略。それらは、物質でも心でも心所でもない、一種のエネルギーのようなもの。

無為法(むいほう)とは、物が存在する場所としての空間(虚空:こくう)や、煩悩が消えた状態(択滅:ちゃくめつ)など、因果関係によって生滅する可能性のない法のこと。有違法(ういほう)とは、因果関係によって生滅する可能性のある法のこと。色・心・心所・心不相応行の四つは、因果関係によって生滅する可能性のある法なので、有為法と呼ばれる。

「物は存在するのか?」という、このブログのテーマに関係するのは色(しき)なので、色(しき)について説明します。色(しき)は物質的なもの、と書きました。

例えば、石を見た場合、常識的な考え方として、そこに石があるから石の色や形が見えるのであり、手に持てば石の肌触りや重さを感じるため、そこに石があると考えます。ところが、倶舎論の場合は、その逆です。

実在するのは、色や形、肌触りや重さだけです。それを五感を使って認識し、その色や形、肌触りや重さという要素から、石を意識の中で想定しているにすぎません。実在するのは、その構成要素である色、形、肌触り、重さだけです。その構成要素のことを色(しき)と言います。

色(しき)は11あります。そのうち、無表色(むひょうしき)は、説明が難しいのと、このブログに関連していないので省略。(仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ> (角川文庫ソフィア) p122参照)。残りの10の色(しき)について説明します。

眼・耳・鼻・舌・身(げん・に・び・ぜつ・しん)…この五つを五根(ごこん)と言う。認識する側の物質。

色・声・香・味・触(しき・しょう・こう・み・そく)…この五つを五境(ごきょう)と言う。認識される側の物質。ここに出てくる色(しき)は、色(いろ)と形と言う意味。

五根は、五感をつかさどる感覚器官。その五根によって認識される物が五境です。眼で何かを見た時の、いろや形を色(しき)と言い、耳で聞いた音を声(しょう)、鼻で嗅いだものを香(こう)、舌で味わったものを味(み)、身(しん:体)で触れたものを触(そく)と言う。

なぜ物質を五根と五境に分けているかというと、根は心とつながっているからです。例えば、眼で何かを見ると、その認識は心の中で起きる。眼は物質でありながら、心とつながっている。眼は他の物質とは異なる。石は心とは結びついていない。同様に、耳・鼻・舌・身も心と結びついている。心に結びついている法(根)と結びついていない法(境)で物質を分類しています。

ここで重要なことは、倶舎論では、五境を物質として分類しているということ。例えば、石を手に取った場合、石があるのではなく、手が感じる肌触りと重さという触だけが実在だということ。レモンを見た時、レモンがあるのではなく、眼が認識する黄色とレモンの形だけが実在だということ。色(いろ)や形を物質として分類しています。

石やレモンは心の中で勝手に想像したものであり、実在ではなく、仮想の存在であり、法ではない。実在するのは、石の肌触りやレモンの色形だけと説く。

倶舎論では、色(しき)を認識する物質(根)と、認識される物質(境)を分けて分類している。でも、眼は認識される物質でもあるのではないか、という疑問がわくかもしれませんが、倶舎論では、眼が物を見ているのではなく、眼の奥にある眼根(げんこん)という物質が物を見ていると説きます。

同様に、耳の奥にある耳根(にこん)が聞き、鼻の奥にある鼻根(びこん)が臭いをかいでいます。眼そのものは眼を守るための単なる土台であり、物を見る能力がないと説きます。そのため、眼が見えない時は、眼に何か問題があるのではなく、眼根に問題があるのだといいます。

では、その眼根を見ることができるのかというと、それは眼の奥に細かく点在する物質であり、決して見ることができないと説きます。他の五感の構造も同じです。

まとめるとこうなります。倶舎論では物質世界を、「認識する物質」と「認識される物質」に厳密に分ける。両方を兼ねるものはない。認識する物質とは、肉体に備わる五種の感覚器官、(五根:眼・耳・鼻・舌・身:げん・に・び・ぜつ・しん)。それは「認識されることがない」から、肉体上に備わっていても、私たちがそれを認識することはできない。

「認識される物質」とは何かといえば、その五根以外のすべての物質。石を見る時、石は「認識される物質」ではなく、石の「いろとかたち」が眼によって「認識される物質」。石そのものは仮想のものであり、実在ではない。

では、その「認識する物質」と「認識される物質」は何でできているか。それは、極微(ごくみ)という粒子でできている。粒子は、四大種(しだいしゅ:地・水・火・風)と呼ばれる基本粒子と、所造色(しょぞうしき:眼・耳・鼻・舌・身・色・声・香・味・触)と呼ばれる可変粒子の組み合わせでできている。詳しい説明は省略しますが、要するに、色(しき=物質)はすべて粒子でできていると説いています。

参考文献
仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)
仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ> (角川文庫ソフィア) 

参考サイト