2023/07/28

虚偽は調査には耐え得ず、真実ではありません

2023.7.23ミーティング 40:22から

ギルバート:昨日、ボブのためにパーティをしました(95歳の誕生日パーティ)。そして私はチョコレートケーキを作りました。

カット:あれは美味しかった。

ギルバート:あれはしびれるほど美味しいチョコレートケーキだった。今まで、それほどたくさんのケーキを作ったわけではないのですが、作ってみようと思ってやってみたら、よくできました。そして何人かの人にレシピを聞かれました。それは内緒にしておきます。でも、もし誰かに、このこと(ボブの教えていること)に対するレシピを聞かれたら、ボブのポインターの一つを教えます。

それは、マインドを見つめ、それがどのように機能するか調べなさいということです。それはとても強力なポインターです。マインドを見つめて、それがどのように機能するかを調べるのは実に強力なポインターです。そして、アウエアネス(意識)には思考がないということを付け加えたいと思います。その二つのポインターが一緒になれば、それで十分です。

マインドを見つめ、それがどのように機能するかを調べてみてください。そして、アウエアネスには思考はありません。うわべ上で物語、ストーリー、お祝い、死などに囚われているキャラクターは、意識(consciousness)の上に観念として現れているものです。では、その意識(consciousness)に気づいているものは何なのか? それに気づいているものは何なのかというのが鍵です。

それに名前を付けることはできません。また、否定することもできません。それが本当のあなたです。それが本当の私たちです。そしてそれは、他には何もない一つのもの。一つの意識(consciousness)であり、私の意識ではありません。あなたの意識であり、ボブの意識であり、カットの意識です。それは分割されてはいません。それを分割することはできません。何も分割されません。

それについて考える時、どうして観念が何かを分割することができるでしょうか? 思考や観念には実体や独立性がありません。ボブが言うように、あなたが調査すると、それは調査には耐え得ません。それは粉々になります。それゆえ、マインドを見つめて、それがどのように機能するかを調べることには潜在的な可能性があります。その潜在的可能性は仮想(numenon)、非顕現からやってきます。

顕現、見せかけには力がありません。それは夢なのです。そして夢の中にも夢があります。夢の中で見ている夢が「私」、私という信念なのです。その「私」は実在ではないということを知ると夢は落ちていきますが、意識(consciousness)という夢は残ります。しかし、その意識に気づいているものは夢を見ていません。ボブ、誕生日おめでとう。

マンジュ:ボブ、質問があります。どうして私たちは完全に自身のことを忘れてしまうのでしょうか? 私がこのことを理解した時、どうして私は自分のことをマンジュだと考えてしまうほど愚かなのかと思ったのです。一体、どうしてこれが私たち皆に起きるのでしょうか? そして最後には、皆がそのことをを理解するのですが、どうしてそのことを完全に忘れてしまって、自分のことを人だと思うのでしょうか? そしてその人が世界に出て、死ぬまで生きていると思うのでしょうか?

カット:ええ、ボブに聞いているのですね。(ボブに向かって)どうして私たちは、本当の自分を完全に忘れてしまうのでしょうか?

マンジュ:完全に。(誰かが、完全にではないと言った)

ボブ:私たちは言葉を身に着けます。言葉を学び、学校へ行き、さらに言葉を学びます。それぞれの言葉には違った意味があります。そして私たちは言葉を信じるようになります。でも、言葉は物ではありません。言葉とは何ですか? 言葉は音です。音とは何ですか? それは波動です。そこにはエネルギーの波動があります。同様に、体は土、空気、水、火、空間といった構成要素でできています。あなたは空気なのか、あなたは火なのか。あなたはその構成要素のいずれでもありません。

構成要素は亜粒子原子、純粋なエネルギーへと分解することができます。つまり、体とマインドはエネルギーに他ならないのです。エネルギーとは何ですか? 波動、動きです。波動として振動しているものが、実在であるかのように現れているにすぎません。海を見てください。海は動かないように見えますが、近寄ると何かが動いています。たくさんの小さな波があります。その一つ一つの波は水以外の何ものでもありません。それは決して変化しません。私たちは、言葉によってすべてを変えてしまいます。

聖書では、始めに言葉があったとあります。言葉が神とともにあり、言葉が神でした。あらゆる神は言葉なのです。あらゆるものが彼によって、言葉によって作られました。言葉によってあらゆるものを手に入れたのです。言葉無くしては、マインドには何もありません。私たちはそうした言葉を学び、言葉を信じたのです。信念という言葉を調べてみてください。信念は実在ではないとわかるでしょう。辞書で信念の定義を調べてみてください。

理由もなく、調べもしないで受け入れているものです。私たちはそれを調べもせず実在だと受け入れたのです。親が何かを告げると、調べもしないでそれを受け入れたのです。確かな知識や証明なしに、理由もなく、調べもしないで言われたことを受け入れたのです。それが真実なのか嘘なのか、それが真実に耐え得るのか調べてみてください。

海へ行って、バケツ一杯の青い水を汲んでくださいと言ったら、あなたは何と言うでしょうか? 馬鹿なことは言わないでと言うでしょう。というのも、海は青くはないと知っているからです。でも、海は青く見え続けます。空は青く見えます。でも、空は単なる空間にすぎません。蜃気楼の中の水。そして有名な、ロープがヘビに見える話。一本のロープがヘビだったことがあるでしょうか? いいえ。暗闇でロープを見て、ヘビだと思う人がいます。その信念ゆえに震えやあるゆる種類の反応が起こります。

私たちは、あまりにも多くの信念を身に着けました。そして、恐怖、怒り、落胆によって自身を動揺させています。でも、それが本当かどうかを認識、質問、調べてみてください。虚偽は調査には耐え得ず、真実ではありません。

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この日もミーティングのあと、レストランでボブの誕生パーティをやるということで、ボブはスーツを着ています。そして、今まで見たこともないほど多くの人がミーティングに参加しています。

みんなで食べて歌って楽しそうです。
ボブ、95歳の誕生日、おめでとう。

2023/07/25

世界は今までと何も変わりません

健康には浮き沈みがあります。マインドがペアとなる対極の間で機能し続けるように、健康もペアとなる対極の間で機能し続けます。それが二元性だからです。顕現が二元性であるのと同じです。
しかし、そのすべての背後、あるゆるものの背後には幸福の感覚があります。しかしそれはとても繊細なものです。
原因のない喜び、原因のない幸福と呼ぶこともできます。
それは喜びや悲しみ、幸福や不幸の対極にあるものではありません。
世界は今までと何も変わりません。
                                    セイラーボブ

2023/07/24

非二元の教師たち 目次












      あなた開かれた空間


                 ただ生だけがある

                 あなたは一なるもの

2023/07/21

ネーティ、ネーティ

2023.7.16ミーティング 42:00から

ギルバート:在ること(being)と、何かになること(becoming)の違いは何なのか? 違いはあるのか? 何かになるとは、観念的なものです。在ることは全く観念ではありません。なぜなら、あなたは自らが存在することを否定できないからです。

でも、どんな思考であれ、起こってくるものは否定・拒絶することができます。私はこれではないと。つまり、ニサルガダッタが語ったように、「これでもない、あれでもない(ネーティ、ネーティ)」です。そしてそれを多くの人が誤って解釈しています。たしか「I AM THAT」だったと思いますが、それを初めて読んだ時、静かに座ってマインドを見つめました。

そして、どんな思考がやって来ても、「ネーティ、ネーティ」、私はそれではないとやったのです。どんな思考がやって来ても、私はそれではない。それを繰り返し続けたら、紙袋から何かを取り出すように、マインドが空になっていきました。

次の思考は何だろう。マインドを見つめて調べ、何がやって来ても、私はこれではない。存在することとは。意識(consciousness)とは。それはすべて意識なのですが、その意識に気づいているものは何なのか? それを突き止めることはできません。ボブが言うように、思考はあらゆるものとして、形や特徴となって現れます。なぜなら、そう信じられているからです。でも、もしあなたが、それを本当のあなただと受け入れなかったら、それは単なるマインドの内容物にすぎません。

そして、それを注意深く見ると、マインドの内容物は絶えず変化しています。そして、もし思考が止まっても、私が消えて無くなることはありません。イエスは砂漠に行き、そこで40日、40夜過ごしました。それは家具や家や動物や木々などがないということを象徴しています。砂漠には何もありません。命はあるものの、私たちの思考による家具などは何もありません。

皆さんが砂漠に行ったことがあるかは知りませんが、私はあります。それは全く当惑させられるものでした。360℃が平でした。ムーブラ(?)のロケット基地で働いていた兄を訪ねて行った時のことです。列車に乗っていると、男がやって来て、「君の降りる駅は次の駅だ。朝の5時30分着」と言いました。列車が止まり、私は小さな青いスーツケースを持って降りました。たしか18歳でした。

そして列車が見えなくなると、そこは砂漠の中に小さなプラットホームがあるだけでした。列車が消えて何も見えなくなるのを見ながら、私は取り残されました。まったくの一人ぼっちでした。道路があって、兄は約一時間あとに迎えに来てくれることになっていました。私はコップ半分ぐらいの水を持っていましたが、太陽が昇ってきて、とても暑くなり始めていて、ひどく心配になってきました。

そこに立っているのは妙に現実離れしていました。丸いとは知っているのですが、平な地球の上。砂漠の中を少し歩いて、古い骨などを見つけました。そこにあったのは、社会や、もろもろのことのない存在そのもの(beingness)でした。それは表面上ではひどく困惑してしまうものでしたが、また、他の人から離れてほっとするものでもありました。

確かジャン・ポール・サルトルの言葉ですが、「地獄とは他人のことだ」。(笑い)ええ、そうではありませんか? でも、存在(being)には全体が含まれています。すなわち一つのものであり、全体は分割されていません。決して分割されてはいないのです。うわべ上のマインドによって、他人や私、その他のものに分割されているにすぎません。現象が空であるということを知るのはとても簡単です。

それを知るのは簡単なのですが、私たちは、この、ここにあるパターンを(自分の体を指さして)それに含めることを忘れます。それもまた空なのです。それは恐ろしいことではありませんか? 誰が恐れているのでしょうか? 思考の「私」「自分」です。その「私」は幻想です。

ボブが本やミーティングの中で指摘しているように、「私」を見つけることができるかを自分で調べるのです。そしてそれを、「ああ、わかりました、わかりました」と言ってやり過ごすのは簡単です。そうした人々が、「『私』が戻ってきました」というのを聞いたことがあります。彼らは至福の中にいて、「私」が戻ってきましたというのですが、どうやって「私」が戻ってくることができるでしょうか? もし「私」は幻想であり、あなたがそれを見破ったなら、どうやってそれが戻って来ることができるでしょうか?

それはありふれた感覚であり、ボブが最初の本の中で言っていますが、「もしあなたが、何が真実、あるいは実在ではないと知ったなら、どうしてふたたびそれを信じることができるでしょうか?」。できません。子供は、サンタクロースは実在ではないと知っても、残りの人生で、サンタクローズは実在ではないということを問題にすることはありません。「サンタはいない、サンタいない」と人に言ってまわることはありません。「私」は実在ではありません。

そして、「私」「自分」、その他のものも実在ではありません。そしてそれは見せかけ、一時的な見せかけであり、実際には分裂はないと知った時、それを調査すれば、それは粉々に砕けます。それは調査に耐えることができません。つまり、在ることと何かになることの違いは、存在(在ること)が究極のもの、あるいは究極のものが分割されずに表現されたものということができるなら、何かになることは、未来の時間を含んだ夢なのです。そして、未来という時は存在しません。

2023/07/18

アウエアネス(awareness:意識)とは、何かになることだと思っていますが、そうではありません。

もし、「今あなたに意識はないのか(unaware)?」と尋ねたら、何と答えますか?
あなたに意識はないのですか(unaware)? いいえ。
ということは、意識がある(aware)はずです。
それを探しましたか? いいえ。
つまり、そのことに気づいていないのです。
思考がそれを見えにくくしているのかもしれません。
そえほどシンプルなことなので、見逃してしまうのです。あまりにもシンプルです。人々は、アウエアネス(awareness:意識)とは、何かになることだと思っていますが、そうではありません。
                                    セイラーボブ

2023/07/14

どうやって空間が部屋の中に入ったのか?

2023.7.9ミーティング 1:10:32から

ジェームズ:これは大切なことだと思うのですが、少し前までははっきりとした質問になっていませんでした。何か言わなくてはいけないと思って自分のことで精いっぱいだったからです(20分ほど前に、どうして質問するのはこんなに怖いのかという質問をした)。でも、今は質問があります。(一同笑う)

ある種の理解を得るために必死なのですが、同時に、そのことに対して大きな抵抗があります。先週ここに来た時、心に浮かんできたのは、どうして私はここにいるんだろう、誰が探しているんだろう、何を探しているんだろう、なぜ私はここにいるんだろう、そしてそれをやっているのは誰なのだろうということです。もし、私たちはすでにそのことに気づいているのなら、なぜ私たちはここにいるのだろうかということです。

ジェーン:理由はないのですよ。カビーシャが歌の中で見事に歌ったように、それは神聖なこと。それはラベルなのですが、同じ波長の人とともにいることは、何かすばらしいことです。たとえあなたが自分を連れて行ったとしても、実際には実在があなたを連れて行っているのです。どこへ行っても、あなたが連れていっているのではないのです。あなたと共鳴する人たちといることになるのです。

カビーシャ:滋養を与えているのです。輝くのです。あなたがそれを育てるのを助けてくれる人たちとともにいることが良いことなのです。あたかも私たちは皆一つの庭の中、仲間の中にいて、アウエアネスを成長させているようなものです。

アニータ:そしてまたこれは経験的なことです。これは経験です。私たちは時々観念的な議論しますが、実際これは観念的なことではなく、直接の現在進行形の体験なのです。そして体験している人たちの中にいるということは何かとてもすばらしいこと。あなたが経験したことは、全くの喜びです。それを経験したくない人がいるでしょうか? それは現在進行形の体験であり、マインドではありません。

アンディ:省略

ボブ:何かが共鳴するのです。それが内側の性質です。内側にもともと内在する何かがあなたを引き寄せるのです。それをマインドで知ることはできないかもしれませんが、何かがあなたに共鳴してもっと聞きたくなるのです。(不鮮明のため一部省略)あなたに内在する知性がそれを認識、あるいは認識しようとするのです。それをそのままにして、流れに任せ、それがあなたをどこへ連れて行くのか見てください。

カット:あなたが、「なぜ私が」と尋ねた時、あなたが本当にそう尋ねていると感じました。でも、何が起こったかを見てください。突然皆がそれぞれに異なる物語で質問に答えたがったのです。なぜなら、それが「なぜ」がやることだからです。マインドは、なぜあなたがここにいるかを正当化しようとするのです。

生(life)があなたをここへ連れてきたのです。あなたではありません。あなたには何の選択権もありませんでした。あなたが考えたことが動機になっているのではありません。それが、生が展開する究極の神秘なのです。どうして私たちは行為を行うのか。たくさん正当化することもできます。子供の時のことや、天候やなんかのせいすることもできます。

でも真実は、私たちは行為者ではないのです。私たちは何かを手に入れるためや、何かを理解するため、参加するために来たのか。いいえ。私たちが来たのではありません。なぜなら、私たちは行為者ではないからです。ただ、生がそのように表現しているにすぎません。

なぜ自分がここにいるのかと尋ねる時、誰が尋ねているのか見てください。そこ誰がいるのか。
(雑談が不鮮明のため省略)

ギルバート:ある時ある人が、アーバン・グル・カフェの件で電話をしてきました。何年も前、デーヴィット・ゴッドマンという男と連絡を取りました。彼は、アルナンシェラ(インド)の図書館で図書館員の長をしながら、ラマナなどの本を書いた人です。彼がニサルガダッタのミーティングのたくさんのテープを送ってきたのです。その多くは音が不鮮明でしたが。(誰かの問いに答えて)ええ、ニサルガダッタです。ラマナではありません。ラマナは語りませんでした。

それはアーバン・グル・カフェにあるのですが、そのテープの中で、若い探求者がミーティングの中でニサルガダッタに、「どうして私はここにいるのでしょうか?」と尋ねたのです。どうして私がここにいるのか。するとニサルガダッタが言いました。「どうやって空間が家の中、部屋の中に入ったのか? どうやって空間が部屋の中に入ったのか?」。空間が部屋の中に入ったのではなく、空間の中で何かが家を建てている、と彼は言いました。現在形でです。

空間の中で何かが家を建てている。それはポインターとしてはとても微妙です。メンタルの活動の中で、何かが「私」という構築物や家などを建てているのです。でも、そうした物のうちで変化しないものは空間です。空間のような意識。なぜ私はここにいるのか? 私はここで何をしているのかというのは素晴らしい質問です。

パパジにも別の話があります。彼はラマナの生徒という言い方もできます。ある時彼がラマナを訪ねると、ラマナは、「どうやってここへ来た?」と聞きました。するとパパジは、「リキシャで来ました」と答えました。するとラマナは、「ではそのリキシャは今どこにいる?」と言いました。

「去りました」と答えると、「その前は?」とラマナ。「タクシーです」。
「そのタクシーは今どこにいる?」。「去りました」。
「その前は?」。「マドラスから列車に乗ってきました」。
「その列車はどこにいる?」。「去りました」。

わかりましたか? 私たちは、どうやってここへ来たかという物語を手に入れます。そしてそれが苦しみとなります。なぜなら、あなたはいつもずっと「ここに」いたからです。本質として、実際には一つの意識(consciousness)あるいはアウエアネスがあるだけです。そこには、どうやってここへきたかという物語はありません。

ボブ:空間の中のどこかに中心を指摘することができますか?ここだという場所を指摘することができますか?

ギルバート:いいえ。それゆえ、自己の中心という言葉はフィクションなのです。空間に静止した点がないというのに、自己の中心という静止した点がありえるでしょうか? 留まることなく、無の中を漂っているのです。つまり、「私」を支えているすべての物語はフィクションなのです。それがすぐにわかればわかるほど良いのですが(笑い)。

2023/07/11

そいつがエンライトメントしていればいるほど、そいつはあなたにみじめさと災いをもたらすだろう

もし誰かが、あなたを助けることができる考えると、そいつは必ずあなたを誤り導くだろう。
そいつがイカサマであるほど、そいつの力は強大となる。
そいつがエンライトメントしていればいるほど、そいつはあなたにみじめさと災いをもたらすだろう。
                            U.G. クリシュナムルティ

2023/07/07

あなたは常にそれでした

2023.7.2ミーティング 1:06:50から

ギルバート:自然な状態には言語がありません。それには言葉はなく、静寂です。つまり、実在(being)には言語がありません。言葉を必要としないのです。でも、いわゆる人には言葉が必要です。心配したり、答えを見つけたりするためには言葉が必要です。でも、ボブが言うように、マインドの中には決して答えは見つかりません。

もし、あなたが意識(consciousness)の意識(consciousness)だとしたら、マインドには何が起きるでしょうか? もし、あなたが意識(consciousness)の意識(consciousness)だとしたら、マインドはどこにあるでしょうか? 

参加者:それはノーマインドです。

ギルバート:ええ、それはノーマインドです。では、ノーマインドに問題はありますか? 禅のいにしえの言葉に、"No mind, beginner's mind"(無心は初心)という言葉があります。ニサルガダッタは、「意識の意識でありなさい」と言いました。それを本で読んで、次の文章へ移ることもできます。でも、ポインターの持つ意味は、それが指し示すことが何なのかを理解してこそ価値があります。

意識の意識でありなさいという意味は、そこには一つの意識があるだけだということです。そこには、私の意識もあなたも意識もなく、一つの意識があるだけです。映画館には一つのスクリーンがあり、そこにコメディ、ドラマ、悲劇などが映し出されますが、スクリーンは変化しません。それは変化することはなく、同じスクリーンです。電気が消えると、真っ暗になりますが、スクリーンはそこにあります。

夜眠ると、意識(consciousness)が薄れ、休息します。精神は休息します。でも、アウエアネス(awareness:意識)は依然としてそこにあります。もし誰かが大きな音でドアを叩くと、何かがあなたを揺り動かし、あなたは起き上がってドアに応答します。なぜなら、アウエアネスは常にそこにあり、それには時間がなく、それは物ではないからです。

それは競争ではありません。スピリチュアリティ(精神世界)は巨大な競争のようなものになっていて、そこでは、人々は競ってグルの近くへ行って、グルの足にキスをするのです。人々がグルのもとに駆け寄ってキスするのを初めて見た時、彼らは何をやっているのだろうと思ったものです。(一同笑い)

そしてそのグルは至福の中にいるかのような表情でした。裸足の足にキスを受けて、天国にいるかのようでした。でも、そのシーンは、エゴそのものでした。でも、それも単なる意識(consciousness)なのです。意識が役を演じていて、人々はそれぞれの役を意識の中で演じているのです。それは、一つの意識です。

ニサルガダッタが言ったように、意識の意識で在ると何かが起こります。意識の意識で在るということは、マスターキーのようなものです。自己成就(self-realization)のマスターキーは、「私は在る」という認識です。それが、シッダ・ラメッシュヴァールが指摘したことです。でも、私たちの問題は、その「私は在る」に物事を付け加えてしまうことです。

「私はギルバート」「男性」「オーストラリア人」「いいやつ」「時々はちょっと扱いにくい性格」など(一同笑う)。でも、話を「私は在る」に戻すと、私は在るとは何なのか? 私は在る(I am)の am は、存在するという動詞(to be)です。「私(I)」とはアイデンティティです。私のアイデンティティとは何か? そこに存在(being)するということであり、それは自然に起こっているものです。

アウエアネス(意識)は自然に起こっているものです。それは「私」に依存しているのではなく、意識(aware)しようとしてそうなっているのではありません。アウエアネスはそこにあるものです。ボブはしばしば、「あなたに意識はないのか?(Are you not aware?)」と尋ねます。そしてもちろん、私には意識がある。そして次の質問は、「意識があるために何をしなくてはいけなかったのか?」です。

何もしていないのは明らかです。そして、「私」が何かをやっているという考えが、存在の基盤を歪めてしまうのです。「私」は行為者ではありません。意識(consciousness)がすべてを行っているのです。でも、手柄を横取りする「私」がやってきて、「私がこのことについて何らかの貢献している」というのです。ナンセンスです。

探求者は幻想です。それは幻想にすぎません。探求が問題へと変わるのです。探求者、「私」は幻想です。それは全部ナンセンスです。あなたはそれです。あなたは常にそれでした。あなたはそれ以外ではなく、ボブはそれをミーティングや本の中で指摘しています。それがすべてです。フルストップ! 

意識の意識で在ること。それを理解してください。それは無(nothing)ではありません。ニサルガダッタやボブ、その他の教師たちは、そうしたこと(覚醒・あるいはエンライトメントのことを言っていると思われます)を面白半分にでっち上げたりしません。それをやる人もいますが(一同笑い)。たとえば***。彼は面白がることが大好きでした。いずれにしろ、それは意識(consciousness)なのです。
(***は、とあるインド人の名を挙げていますが、諸事情により伏せておきます。興味のある方は聞き取ってみてください。1:12:58あたりです)

2023/07/04

仏教関係のYouTubeをいくつか紹介

佐々木閑先生の新しいシリーズが始まっています。

佐々木閑 仏教講義 9「仏教の宇宙 その1」(「仏教哲学の世界観」第12シリーズ)

倶舎論の話は非二元からは少し離れてしまうと思いますが、初期の仏教、あるいは江戸以前の人々がどういう世界観を抱いていたかはとても興味深いところです。

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【第二回 臨済録に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2023年6月6日(火)

横田老師は法話名人。いつも深くておもしろいです。非二元という言葉は微塵も出てきませんが、この話はセイラーボブの説く非二元と同じことを説いてみえるのではないでしょうか。

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第151回花園大学創立記念特別企画佐々木閑特別教授就任記念対談 2023年5月25日(木)

このお二人がみえなかったら、私が仏教を理解することはできなかったと思います。
敬愛するお二人の対談を聞き逃すわけにはいきません。いろいろと考えさせられる対談でした。

追記:7月4日朝9時の時点で非公開になっていました。仏教の本質に触れた、非常に有意義な対談だったのに、残念です。また公開されましたら、再リンクさせていただきます。お話の一端は円覚寺のサイトで読めるので、興味のある方は読んでみてください。(円覚寺サイト:戒こそ人を自由にしてくれる – 佐々木閑先生と対談 –