カリヤニと話をした時、ふとしたきっかけで私が、「ヨーロッパの非二元の教師はわかりにくい」と言いました。するとカリヤニが、「ヨーロッパの教師の中では、ルパート・スパイラがわかいやすい」と教えてくれました。
ルパート・スパイラの名前は知っていましたが、本は立ち読み程度にしか読んだことがありませんでした。せっかくカリヤニがすすめてくれたのだからと、入手してじっくりと読んだところ、すばらしい内容でした。
読み始めは、少し理解するのが難しいところがあり、何回か同じところを読むことがありましたが、次第に慣れて、それほど難しく感じなくなりました。私はセイラーボブに会う前に、「ただそれだけ」を7回読みましたが、さっぱりチンプンカンプンでした。この本は、「ただそれだけ」より難しい気がします。
何が難しく感じさせるかと考えてみました。独特の言い回しと、それを使って緻密かつ厳密に話すこと。また、詩的、感覚的言い回しが多いことではないかと思います。
セイラーボブは、私たちの本質を「意識(アウエアネス)、知性エネルギー、実在、認識する空」などと表現しますが、ルパートの場合は、「気づき、現存、自己、気づいている現存、真の自己、現存の空の空間、気づいている空間、純粋な気づき、気づきの光、 いつもここにある存在、見る事、つなぎ目のない全体性、唯一の自己、知、知の光、自身の存在の光、愛」 といった表現を使います。こういった表現は、大胆に解釈すれば、「意識」あるいは「気づき」のことを言っているのですが、まず最初にそれが理解できていないと、難しく感じるかもしれません。この本では「気づき」という言葉が中心になっていますが、「気づき」については次回書きたいと思うので、ここでは深入りしません。
内容はというと、非二元の教えの本ですから、「私は実在ではない」ということであり、セイラーボブが教えていることとまったく同じです。説明に使われる例えも、セイラーボブと似ているところもあります。空間の例え、スクリーンの例え、ラベルを貼り付けているといった例えは何回も出てきます。
第1巻の最初は、「私は在る(I am)」から始まります。自分が存在するということは、誰でも知っています。存在するということは、つまり presence であり、それが本のタイトルになっています。そして「私」はただ現存するだけでなく、気づいている存在です。そして私たちは、このシンプルな気づきに、様々な要素を付け足して、体と心(マインド)の中に私がいるという信念が生まれます。そうした信念を私だと思うことによって、様々な苦悩が生まれる課程を順に説明していきます。このあたりの説明は、セイラーボブとよく似ています。
ブログに引用するといいなと思う箇所に付箋を貼って読みましたが、結果的にほとんど全ページに付箋を貼ってしまい、貼る意味がなくなってしまいました。どんな感じで説明されているのか、ちょっと引用させていただきます。このブログで、「
物は実在か? 」という記事を書いた時、私たちが見ているレモンには実体がないという内容の記事を書きましたが、それとよく似た説明があって、おもしろいなと思ったので、引用させていただきます。
第2巻p150から
リンゴの記憶が心(マインド)の中のイメージにすぎないというのは事実です。しかし、実際のリンゴを見るとき、それもただのイメージにすぎないということを私たちは見落としています。私たちがリンゴについて知っていることは、この場合、「見ること」だけです。そして、リンゴに触るとき、私たちが知っているのは「触ること」だけです。リンゴを味わうとき、知っているのは「味わうこと」だけです。
通常考えられているような形で、私たちが実際のリンゴを体験することはありません。つまり、分離独立して存在する対象物のリンゴを体験することはないのです。
ですから、実際の体験において、記憶の中に現れるリンゴの実質と、「現実の時間」の中に現れる実際のリンゴの実質には、何の違いもありません。それらについて私たちが知っている唯一の知識は、心(マインド)からーーー見る事、味わうこと、触ること、嗅ぐことからーーーでできています。そして、心(マインド)の実質は気づきだけです。
気づきが、それ自身の不在や消滅を体験することなどできるでしょうか? この、常に現存し、いつもここにある気づきが私たちであり、すべての体験の唯一の実質です。私たちはそのことを直接的に、親密に、即座に体験します。体験のこのシンプルな事実を表面的に忘れてしまうと、リンゴや対象物、世界といったものが実在するように見えるのです。
ここだけ読んでも素晴らしいと思いますが、全体がこんな調子で続きます。では、私たちが、実在すると思っている「私」「体」「世界」は、実際には気づきが気づいている対象にすぎないということを理解するにはどうしたらいいのか。
驚くことに、これもセイラーボブと同じで、自分で調べることだと言っています。ルパートの場合は「探求」「探す」という言葉を使っています。そのやり方は、第1巻に順に説明されています。最初に、「分離した自己」次に「体」、そして「世界」を調べていきます。ことの性質上、このあたりの説明は抽象的に思えるかもしれませんが、やり方が書いてあるだけでも私にとっては貴重な本です。
ルパートによると、調べることはそれほど難しくはなく、「私」や「体」が実在ではないということを理解することも、容易にできることだと言います。でも、それを理解したからと言って、「私」や「体」に対する認識や、ボブの言葉で言うなら条件付けのようなものは、すぐには無くならないというのです。その説明はこの本の中で何回も表現を変えて出てきますが、一番印象に残った箇所を引用させていただきます。
第1巻 p135から
私たちの実際の体験において、分離した内側にある自己は存在しない、存在していなかったということがはっきりわかると、それは再生されません。ですが、ひとたび真の性質へと溶け込んだからといって、架空の存在の古い余韻が体と心(マインド)から完全に洗い流されるわけではありません。
それは、波が浜辺に打ち寄せることで、こどもたちが浜辺に描いた砂の絵が少しずつ消えていくのと似ています。波が打ち寄せれば、絵は部分的に消えますが、その線がどれだけ深く掘られたかによって、波がどれだけ打ち寄せなければならないかが違ってきます。
同じように、分離した内側にある自己の思考と感情の残滓(筆者注: ざんし=残りかすのこと)は、心(マインド)、特に体に爪痕を残します。透明で開かれた、愛に溢れた私たちの真の性質が本当の意味で浸透するには、いくらかの時間、場合によっては数年を要することもあるのです。
ボブのミーティングでも、「あなたの教えは理解しましたが、『私』は消えません」、「知的には理解しました。でも、『私』がいるような気がします」といった類の質問が未だに後を絶ちません。そんな時ボブは、「自分で調べてみてください」「『でも』はあなたをそれから遠ざけます」「今そのことを考えなかったら、条件付けはありますか?」といった、ニサルガダッタ譲りの一喝で終わらせてしまう傾向があり、それがいつも参加者のジレンマになっている感じがします。
ボブは、「私」が消えるには時間がかかるなんてことは決して言いません。「時間は存在しない。それは即時だ。あなたはもともとそれだ」の一点ばりです。ルパートも、「時間はあなたの記憶の中にしか存在しない」と言っていますが、私が消えるには時間がかかると、ちゃんとわかりやすく説明してくれています。
ルパートは、一回や二回の調査ではだめで、調査して、自分は実在ではないという体験を何回も積み重ねることが大事だと言っています。一番やってはいけないのは、その体験をすることなく、「私はいない。体は実在でなない」とマントラのように自分に言い聞かせることだそうです。これは状況を悪化させるだけだと言います。
ここで勘違いしてはいけないのは、物理的な「体」や「私」という認識が消えると言っているのではないということです。そんなことが起きれば、体は家具にぶつかってしまうし、車に轢かれてしまうでしょう。「私」という認識が消えれば、社会で生きていくことさえできなくなります。あくまでこれは、自分は「体」でも「思考」でもなく、「私」は実在ではないという理解のことを言っています。
セイラーボブのように、「あなたはもともとそれだ」と一喝する教師もいれば、ルパート・スパイラのように、「すぐには消えないよ」と優しく説く教師もいていいと思います。
ルパートもボブと同じように、私たちの本質を覆い隠す思考を雲に例えています。「私」「体」「世界」が実在するという思考、雲の後ろには何があるのか。そこには、平安、幸福、愛 があると言います。セイラーボブも、サット・チット・アナンダ(存在・意識・愛)として、愛を引き合いに出すこともありますが、ボブの場合は「知性」「ほのかな至福」といったことを強調するのに対して、ルパートの場合は「愛」を強調しています。
これは、健康食品の宣伝の注意書きのようなもので、「個人の感想です」ので、あまり表現にとらわれない方がいいと思います。そして、私はまだ、平安、幸福、愛を感じないからダメだと思う必要もないと思います。ルパートもボブも、私たちはもともとそれなのだと言っています。
ここでルパートが言っている平安、愛、幸福とは、マインドや体が感じる平安、愛、幸福のことではありません。愛する家族がいて幸せだというのはマインドの幸福です。暖かいお風呂に入って幸福だというのは、体の幸福です。そうではなく、愛する人が去った悲しみに打ちひしがれている時も、吹雪の中を歩いている時も、マインドや体の背後にいつもあるものことを言っています。
やってはいけないのは、ルパート・スパイラやセイラーボブが私たちとは違う意識にあるのではないかと思って、それを探してしまうことです。彼らは特別な人ではなく、私たちと何も変わりません。もし彼らが私たちとは別の意識状態にあると思って、それを探し求めるなら、エンライトメントを探し求める人と同じ誤りを犯すことになります。たった一つの、同じ意識があるだけです。
ルパート・スパイラについて
Amazonの著者紹介より
ルパート・スパイラ Rupert Spira
幼少の頃から現実の本質に多大な関心を寄せていた。
20年以上にわたりピョートル・ウスペンスキー、ジドゥ・クリシュナムルティ、ルーミー、シャンカラチャリヤ、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、ロバート・アダムスらの叡智を探究した後、1996年、彼の師となるフランシス・ルシールに出会う。
ルシールの導きにより、ジャン・クライン、アートマナンダ・クリシュナメノンらの教えに触れ、さらには経験の真の性質を知るに至る。
現在はイギリスに暮らし、ヨーロッパおよびアメリカ各地で、ミーティングやリトリートを定期開催している。
Rupert Spira
1960年3月13日ロンドン生まれ イギリス人 現在63歳。職業:著述家・スピリチュアル教師・哲学者・陶芸家。1977年、ロンドンで開催されたマイケル・カーデュの陶芸展に触発され、ウエスト・サリー芸術デザイン大学に入学して美術を学ぶ。1980年から1982年まで、マイケル・カーデュのもとで陶芸家の見習い修行をする。
大学卒業後の1984年、自身のアトリエを持つ。
陶芸家として成功していたようで、日本で個展を開催したこともあり、作品は東京国立近代美術館にもあるようです。(
情報源はここ )
ザ・グレイテスト・シークレットの賢人リストによると、元陶芸家となっているので、今は陶芸家としては活動していないのかもしれません。
スピリチュアル関連
15歳のときにルーミーの詩を読んだことが、スピリチュアルな旅の始まり。ロンドンのコレット・ハウスでフランシス・ロールズ博士に師事した。フランシス・ロールズ博士は神秘哲学者ウスペンスキーとグルジェフ、そしてスワミ・シャンタナンダ・サラスワティのマントラ瞑想を学んだ人物。その結果、古典的なアドヴァイタ(非二元論)にも興味を持つようになる一方、メヴレヴィ・ターニング(祈りと瞑想を組み合わせた神聖な動きの一種)を通してスーフィズムの研究も続けた。また、ニサルガダッタ・マハラジとラマナ・マハルシの教えを読み、1970年代後半にはブロックウッド・パークで行われた J.クリシュナムルティの最後の集会に参加した。1990年代半ば、ロバート・アダムス、フランシス・ルシールとの出会いが彼をアートマナンダ・クリシュナ・メノンのダイレクト・パスの教えに導いた。20年以上にわたる瞑想と修練の結果、自己の本質に目覚め、以後、講演やリトリートを主催。日本でもセミナーを開いたことがあるそうです。
このチャンネルには1000本以上の動画があります。ちょっとした宝物を見つけた気分です。一本だけ紹介させていただきます。この動画の中でルパートは、エンライトメントは東洋で信じられているような神秘的かつ途方もないものではなく、単に私たちの存在(being)の本質を気づくことだと言っています。
VIDEO
ルパート・スパイラについては、古閑博丈さんのブログ(
resonanz360 塩人間の海底探検 )にたくさんの記事があります。全部読ませていただきました。古閑さんは、この本が世に出るずっと以前にルパート・スパイラのリトリートに何度も参加されているようです。また、ルパート・スパイラのホームページのQ&Aや教えの概要の翻訳が掲載されています。今のホームページとは連動していないようですが、教えを理解する助けにもなり、貴重なものだと思います。リトリートの体験記もあって、どんな様子なのかを知ることができます。
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ルパート・スパイラのファンになりました。そしてもし、ルパート・スパイラのセミナーに出たことがある方、あるいは陶芸展で会われた方がみえるなら、「こんな感じの人だったよ」「こんなこと言っていたよ」、何でも結構ですので、シェアしていただけるとありがたいです。