2023/12/29

ハートが理解するには簡単なものです

この見方は途方もなく難しいだけではなくて、心(マインド)には把握することのかなわないものです。ですが、この見方はハートが理解するには簡単なものです。とても簡単で、ほぼ即座に把握することができます。
                    フランシス・ルシール (今、永遠であること

              多治見市永保寺                 

2023/12/26

「今、永遠であること」フランシス・ルシール

今、永遠であること

とても良い本です。フランシス・ルシールは、ルパート・スパイラの師だということで、興味をもって読みました。ブログに引用させてもらうところに付箋を貼って読みましたが、この本も付箋だらけになってしまって、どこを引用しようか迷ってしまいます。この本は全編が質疑応答の形式をとっていて、最初に質問があって、それにフランシス・ルシールが答えます。

それぞれの質問に対する答えが長いのと、答えが格調高い語り口なので、その前後を読まないと理解できない部分が多い。前後まで引用すると、とても長くなってしまって、どうしたものかと。あんまりたくさん引用すると𠮟られますが、本の宣伝だということで許していただいて、何か所か引用させていただきます。

p88
 子育てをしながら、家計を支えながら、個人的な不幸せを抱えながら、真実を追求したいと思うのであれば、どのようにすればよいのでしょうか?

 知性を通してできます。理解するために、物質的に自分の生活を変える必要はありません。今すでにあるもの、自分が何者なのか、自分の知覚、感じ、考えとは何なのか詳細に問いかけることから始めます。わたしたちの現実(リアリティ)をこのように探っていくことは単に概念的なものではなく、人生のすべての面に及ぶものです。

 非常に忙しい生活のさなか、このように追及していくことは可能なのでしょうか?

 もちろん可能です。それにこの方法だけが、あなたの幸せはあなたにあり、あなたの宝物であり、外側の状況には何も関係がないことを明確にしてくれるのです。もしあなたの幸せが外側の要素、例えば調和に満ちた状況といったものに依存するものなら、郵便局にいるときや、騒々しいところにいるときにその美しい体験はなくなってしまいます。ですから、こういった体験は真にあなた自身の幸せではなく、単に幸せな状態ということです。

 幸せそのものは外側の何にも依存しないとわかっているのですが……。

 その理解を得るには大変な成熟さが必要になります。ほとんどの人は、幸せは何かしらの客体にあると思っているのですから。

p93
 この世界は幻想であるとおっしゃいますが。これはどのように見つけられたのですか?

 この質問の裏にある質問は、こうですね。「この世界は幻想であるとおっしゃいますが。これはどのように見つけられますか?」

 そのとおりです!

 この世界は幻想だと言うとき、この世界はないという意味ではありません。わたしはただ、この世界は気づきから切り離されたり隔てられている客体としてはない、と言っているのです。言い換えると、古典物理学がわたしたちに信じさせようとしているように世界は自律的ではありません。これは知覚として認識されれば否定されることはありませんが、認識されなければ、あると証明できません。

 ですが、幻想はそのまま、幻想と呼ばれるもののまま、見かけ上はあるということは認めてらっしゃいますか?

 認めています。幻想はふたつの要素からなっています。根本的な現実(リアリティ)と、重ね合わされて幻想の概念です。暗がりにロープがあるとして、それを間違って蛇と思ったりします。ですが、明かりをつけると、蛇というものの現実(リアリティ)はただのロープだということがわかります。蛇など初めからいなかったのです。蛇はまったくの幻想でした。幻想とは、非実在です。蛇はいませんでした。蛇の現実(リアリティ)はロープだったのです。

p121
 自分は分離した人物であるという自己認識から、真実に気づいている状態に意識を移行するには、どうすればよいのでしょうか?

 「人物らしさ」が偽物だと知るのに人物ができることは何もありません。個人は個人としての自己認識にしつこく固執しますが、この自己認識から自由になる瞬間があります。自己認識から距離をとり、自分であるこの現存(プレゼンス)を垣間見る、つまり気づきを得るチャンスは、この瞬間にあります。
 わたしたちにとって、一番大切なものとは何でしょうか? わたしたちの体の一部ではありません。命を救うためであれば体の切断手術がされていることからも、これは明らかです。一番大切なものとは、体全体でさえありません。わたしたちが真に愛しているのは、意識です。真に問われているのは、意識は体の中にあるのか、体が意識の中にあるのか、ということです。自分の置かれている環境や、先生たち、広く信じられている物質主義から、わたしたちの体は世界にあり、わたしたちの頭脳は体の中にあって、この頭脳の一機能が意識であると条件付けられています。非二元の視点では、この図はまったくの正反対です。本源的な現実(リアリティ)は気づきであって、この内に心(マインド)があります。この体、この考え、残りの宇宙はすべて、心(マインド)の内にあります。それでは、このふたつの立場のうちどちらが真実だと、どうやって決めるのでしょうか? わたしたちの論理的な装置である心(マインド)では、この問いに対する答えを出すことはできないと理解することが大切です。これらの立場からひとつを選ぶとすると、これは信念であり、信仰による行為になってしまいます。これが明確にわかっていれば、わたしは世界の中にいて、わたしはわたしの体である、という概念からすでに自由になっています。この世界での実在とは信仰による行為であり、絶対的は真実ではない、ということを理解しているのです。そして、もう一方の可能性にオープンになります。心(マインド)は心自身の内にあるものしか知らないので、心(マインド)では決められません。心(マインド)を超えたものを、心が知ることはできないのです。心(マインド)にできるのは、きめられないということを理解することだけです。心(マインド)が、自分では本源的な答えを見つけられないということを理解すると、静かになります。私たちの本質が自分を掴む可能性は、この静寂のうちにあります。自分では掴むことができません。ただオープンになり、迎え入れることしかできないのです。

p178答えの途中から
 より多くの知識や能力を積み重ねることで、この探求を終わらせることは決してできません。この探求は学習するものではなく、もしろ積み重ねた概念、信念、習慣といった捨て去るものなのです。そういったものがこのシンプルさ、自発性、自分の本質であるよろこびを体験することを妨げています。
 あなたは知覚される客体ではなく、概念でもなく、感情でも、感覚認識でもないというわたしの助言を調べることで、本当に自分であるものを理解する道が拓けます。これを調べるのであれば、知的な次元、体感覚の次元の両面で、徹底的に追及されなければなりません。これを調べた結果、得られる理解は、「わたしは誰なのか?」という問いに対する答えですが、これは心(マインド)を超えたところ、時空間の先にある、あなた本来の美と永遠性にまであなたを運んでいく体験となります。この体験で、あなたは自分が探し求めていたものだったと知ることになります。これが問いの終りであり、すべての問い、すべての探求、すべての恐れや願望の終りになります。

フランシス・ルシールは何も特別なことは言ってはいません。自分で調べてみなさいと言っているのです。そして、その到達点は「確信」という言葉を使っています。私は以前、このブログにおたよりをいただき、「理解するとはどういうことなのか?」という質問をもらいました。その時、「確信」という言葉を使ったのを覚えています。非二元の教師たちが語っている内容を客観的に証明できるような方法はありません。詰まるところは本人が揺るぎない「確信」の地点に到達できるかどうかだと思います。そして、その確信を得るためには自分で調べるしかないとフランシス・ルシールも教えています。

ルパート・スパイラの「プレゼンス」の時も思ったのですが、この本は非二元の教えを理解していないと読みこなせないような気がします。すばらしい本でした。

フランシス・ルシール Francis Lucille

Amazonの著者紹介より
フランス国立理工科高等教育機関、フランス国立航空宇宙学科高等教育機関で
化学を学んだ後、1973年、ヴェーダ哲学や仏教の文献から東洋の叡智を見つける。
これをきっかけとして自己同一性を深く探求し、1975年、スピリチュアルの指導
者であるジャン・クラインに出会ってまもなく、その探求が終わる。
現在、米国在住。ヨーロッパと米国でリトリートを行っている。

補足
1944年生まれ 79歳 フランス生まれ
J.クリシュナムルティの本を読んだことにより探求が始まる。もともとはフランス軍のために洗練された武器の設計・開発する科学者だったが、辞めて、探求の道へと入った。

日本語でネット上で検索しても、フランシス・ルシールに関する情報はほとんどありませんでした。


2023/12/24

セイラーボブの近況(2023.12.24)


2023.12.24ミーティング
冒頭でカットが、ボブがコロナ陽性だと伝えています。無観客で、スピールは短めでしたが、画面で見るかぎりは大丈夫そうです。
以前ボブが、「コロナは気にしない」と言っていたのを思い出します。ミーティング参加者もほとんどマスクなしなので、日本と随分温度差があるなと思っていました。それにしても、なんでこの人たちはマスクしないんでしょうか?

2023.12.31追記
ボブはコロナ陰性になったということで、いつも通りにミーティングを再開しました。

2023/12/22

思考だけが見かけ上の多様性を作りだすのです

スクリーン上の映像がつなぎ目のないひとつの全体であるように、この現存しているように見える「ひとつのもの」も、つなぎ目のないひとつの全体です。思考だけが、映像の各部分の周りに架空の線を引き、対象物の見かけ上の多様性を作りだすのです。
             ルパート・スパイラ (プレゼンス―第2巻 あらゆる体験の親密さ

12月9日 名古屋マリオット

2023/12/19

幸せとは

幸せとは、常にものごとのありのままを受け入れるというだけのことなのだ。
                ルパート・スパイラ(ザ・グレイテスト・シークレット

                       12月9日 ナナちゃん

2023/12/15

「生まれながらの自由」ジャック・オキーフ

「生まれながらの自由」ジャック・オキーフ

このブログの方針として、まったく支持できない人のことは書かない方針です。ただ、はっきりと評価できない人のことはどうしようかと考えたあげく、一応書くことにしました。
この本は、わかりやすいし、非常に良い本だと思って最後まで読みました。でも、終わりの方にきて、過去生や輪廻転生を肯定するような文章が出てきたので、どう評価していいのか判断できずにいます。

私の理解では、過去生も輪廻転生もないと理解しています。だって、「私」がいないのに、誰が転生するのですか? 私が気になった文章を引用させていただきます。

p153 7行目途中から

肉体的な死のあと、思考との同一化が残っていれば、本当のこととして信じられていた信条は、また別の状態を存在として発生させ、体験を継続させます。ゆえに、あなたが何を信じているかによって、意識・無意識にかかわらず、他の次元(死後の世界)や、輪廻転生の中で体験は続きます。

彼女のホームページを見たらわかるかもしれないと思って見てみたのですが、そこに過去生について学ぶコースはあるものの、197ドルのビデオコースになっていて、無料では見ることができません。無料の記事もたくさんあるのですが、量が多すぎて確認できません。YouTubeも量が多いので、タイトルだけ確認しましたが、それらしきものは見当たらず。

ただし、それ以外の内容はとても良いと思ったので、簡単にまとめておきます。
この本では、セイラーボブやルパート・スパイラが awareness (意識、あるいは気づき)と呼んでいるものを、真我(Self)と呼んでいます。

私たちは、この真我を実際の体験として知ることはできないし、それを手に入れることはできないと言います。というのは、私たちはもともとそれだからです。その真我の中に「私」や「世界」が現れます。その実体は思考です。その「私」や「世界」を消すためには、観照者として、「私」や「世界」や世界を観照することだといいます。

観照者とは何かというと、「私は在る」です。「私は在る」もマインドです。それがマインドではあっても、人や出来事、ストーリーと同一化しないのだと言います。このあたりの説明はセイラーボブとよく似ていて、セイラーボブは「『私は在る』とは、マインドで到達できる最高地点」「自らが存在するという感覚」という表現を使います。

セイラーボブもルパート・スパイラもジャック・オキーフも同じ説明をしていますが、私たちが夢さえ見ない深い眠りの状態にあるときは、真我、あるいはアウエアネス(意識、あるいは気づき)そのものの状態にいて、思考がない状態にあると言います。そしてジャックは、その深い眠りから覚めた一瞬に、真我の余韻が残っていて、「私」がやって来る前のほんの一瞬の状態が「私が在る」状態なのだと言っています。

その状態(私は在る)に留まって、観照者として、「私」や「世界」、つまり思考を観照することによって、「私」や「世界」が消えていくと言います。では、どうやったら、常に観賞者であることができるのか。この辺がよく読み取れなかったのですが、私たちはもともと観照者なのだから、観照者になろうとせずに、観照者として思考を見つめなさいと言っているようです。

本の内容は良いと思います。なお、ジャック・オキーフは南アイルランド生まれと本に記載がありますが、それ以上のことはネットで調べてもわかりませんでした。




2023/12/12

それは本当でしょうか?

それは本当でしょうか?
その考えが本当であると、絶対言い切れますか?
そう考えるとき、あなたはどのように反応しますか? 何が起きますか?
その考えがなければ、あなたはどうなりますか?
                                   バイロン・ケイティ

11月27日 虎渓山 永保寺

2023/12/08

外界のものは、何ひとつ私たちを妨げません

外界のものは、何ひとつ私たちを妨げません。私たちが苦しむのは、ありのままのものごとを変えたいと願ったときだけなのです。
               バイロン・ケイティ(ザ・グレイテスト・シークレット
                
              11月27日 虎渓山 永保寺

2023/12/05

「人生を変える四つの質問」バイロン・ケイティ

人生を変える4つの質問 バイロン・ケイティ

この本は絶版です。翻訳者が変わり、新版として、
があります。私が読んだのは旧版です。

バイロン・ケイティについては、セイラーボブのミーティングで参加者の何人かが話したことがあります。また、ザ・グレイテスト・シークレットの賢人としても取り上げられていて、引用された言葉に感じるものがあったため、本を読んでみました。念のために書いておきますが、バイロン・ ケイティは非二元の教師という範疇には入らないし、非二元そのものを教えているわけではありません。でも、教えていることは、非二元の根幹となる教えに通ずるところがあります。

本の内容は、バイロン・ケイティが、「ワーク」と呼ぶ方法で悩みを抱える人を癒しへと導く実際のやり取りを記録したものです。悩みの内容は様々で、対人関係、家族との関係、レイプ、虐待、戦争の記憶、愛する人の喪失など、多岐にわたります。

ワークがどんな方法なのか、バイロン・ケイティとはどんな人なのかは、日本語のホームページがあるので、そちらを読んでもらった方が正確かと思います。


ワークの具体的なやり方は、このホームページにあります。それを読めば、一人でワークができます。やり方は簡単で、ホームページにあるワークシートに自分の思いを書き込み、一つ一つの書き込みに四つの質問を自問します。そして、質問を入れ替えて、それが本当に事実なのかを確かめていきます。

ホームページの上段に、「その考えがなければ、あなたはどうなりますか?」という言葉あるとおり、自分の悩み、恐れ、苦しみは、自分が生み出しているものだということを気づかせるための方法がワークです。

非二元の教師たちは、「私」を根こそぎ消すことによって悩みや苦しみを解決しようとしますが、バイロン・ケイティは逆に、個々の悩みや苦しみを詳しく調べることによって、それは単なる思考(思い込み)にすぎないということを理解させます。

「私」がなかなか消えない人、「私」はいないと理解しても、個別の問題をどうしていいのかわからない人にとっては、バイロン・ケイティのやり方は有効だと思います。

私もワークをやってみようと思ったのですが、今現在、何か大きな悩みや問題を抱えているということはありません。セイラーボブを学んだことで解消された部分は大きいのですが、今現在、悩ましい対人関係はなく、わずらわしい仕事についていないというせいもあると思います。

それでも、せっかく本を読んだのだから、何か試してみたいと思って、いくつかリストアップしました。嫌な思いをしたまま放置している対人関係、体のこと、傷つけた人のこと、恥ずかしい思い出、後悔していること、最近冷たいのではないかと思う人のこと。ホームページから「ジャッジメント・ワークシート」をプリントアウトして、いちいちの問題を書き込み、やってみました。

やってみてわかったのですが、「ジャッジメント・ワークシート」を書いた段階で、いくつかの問題はクリアになり、それだけで十分なものもありました。そして、四つの質問をしていくうちに、問題の根本は私の思考にすぎないということに気づかされます。何かをする必要も、誰かを責める必要もないということがわかってきます。

私の場合、書き出した問題が、どれもそれほどシリアスな問題ではないせいもあって、それほど難しくはありませんでした。大きな問題を抱えて、それこそ狂いそうな毎日を生き延びていた昔に「ワーク」を知っていたら助けになったかもしれないと思います。

この本には、そんなことをやれとは書いてないのですが、誰か他の人から悩み事の相談を受けた時に、この方法に沿って相談に乗ってあげるのはとても良い方法だと思います。私の身近に介護をしている人がいて、時々介護の悩み事の相談を受けることがあります。

先日、電話がかかってきて相談を受けたので、ワークシートに書いてあるようなことを聞いたあとで、四つの質問や入れ替えをやってみました。細かくやったわけではなく、アレンジして、短くやりました。そうしたら、最後に、「よくわかった。そのままにしておく」と言われました。

人間は自分のことだと客観的に物事を見ることが難しいけど、人のことだと簡単になります。誰かから悩み事の相談を受けたら、この方法が役に立つのではないかと思います。悩んでいる人がいると、非二元の教えを説きたくなるのですが、「私」はいないなんて話をしても嫌われるだけで何の役にもたちません。でも、この方法なら、十分に相手の役に立つと思います。そして、これは根本的には非二元の教えと同じことを教えています。

ホームページに参考になる動画がありますが、YouTubeにも参考になる動画があります。



これはなかなか良かったです。

ワークの実際の様子は、バイロン・ケイティのワーク 思考という刑務所 パート1から5までを見るとわかりやすいです。

バイロン・ケイティ(英語版Wikipediaなどを参考に補足)
Byron Kathleen Reid 1942年12月6日アメリカ生まれ 80歳。 「バイロン・ケイティのワーク」または単に「ワーク」として知られる自己探求法を教えるアメリカの講演者、作家。バイロン・ケイティ・インターナショナルの創設者。タイム誌は彼女を「21世紀のスピリチュアル・イノベーター」と評している。
1986年、43歳で3人の子供をもうけ、2番目の夫と不幸な結婚生活を送っていた彼女は、うつ病、広場恐怖症、過食に苦しみ、コデイン(薬)とアルコールで自己治療をしていたと言われている。保険会社に助けを求め、ロサンゼルスの女性カウンセリングセンター、ホープ・ハウスを紹介された。自宅で2週間自分を見つめ直した後、自分の考え方に啓示を受け、長年の信念の有害な影響に挑戦し、それを軽減する方法を生み出した。
自分の哲学について話し合う非公式な会合を開き始め、1990年代初頭には、より正式なワークショップを開催し始めた。ビジネス・セミナー、学校、病院、教会、刑務所など、世界中のあらゆる場所で「ワーク」を実践している。

2023/12/01

自分とは

私たちが自分であると思っている「自分」は、ひとつの思考にしかすぎない
                カリヤニ・ローリー(ザ・グレイテスト・シークレット


カリヤニとピーターの記事を最初から読む方はこちらから

2023/11/28

意識とはものごとを経験するうえでもっとも明白な要素だ

意識とはものごとを経験するうえでもっとも明白な要素だ。それなのに、ほとんどの人々が見落としてしまっているのだ。
                ルパート・スパイラ(ザ・グレイテスト・シークレット

多治見市 虎渓山 永保寺 樹齢700年の大銀杏 11月27日撮影

2023/11/24

エンライトメント、あるいは目覚めとは

過去二回のブログでは、ルパート・スパイラがエンライトメントについて語っているYouTubeを掲載させていただきました。それによって、ルパート・スパイラがエンライトメントをどう考えているのかがはっきりしたと思います。

特に、前回のブログでは、エンライトメント、あるいは目覚めということの定義をはっきり語っています。そこには、何も神秘的な要素はありません。あるのは、認識、あるいは理解です。そして、その理解がどのように起きるかもはっきりと語っています。くどいようですが、もう一度その部分を掲載させていただきます。

「この平和と喜びとのつながりが失われたように思え、その結果私たちはそれを取り戻そうとして、外側の世界で大いなる旅へと乗り出すのです。遅かれ早かれ、外側の世界や体験は私たちが切望する平和や喜びをもたらさないと直観、あるいは理解することになります。遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。

そして、何度も何度も繰り返し戻っていき、生まれつきの平和と喜びが私たちの体験の中に感じられるまで戻っていきます。それが起きれば起こるほど、日常の生活での体験が私たちを自己(self)から連れ出す力を失っていくことに気づきます。これは伝承の中では、自身の本性に定着することと呼ばれています。私たちは存在(being)が個人としての自己の境界をはるかに超えているように感じ始めます。

その存在(being)は私たちの自己(self)の本質ですが、それはあらゆるものの本質であり、そこから私たちの自己(self)という感覚がやってきます。そこから、あらゆる人、うわべ上でのあらゆる個人、うわべ上でのあらゆる存在物がやってきます。別の言葉で言うなら、私たちは内側では同じ実在、同じ存在(being)、すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始めるのです。」

大切な部分は、「遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。」という部分です。要するに、そうやって個人としての「私」は実在しないということを理解・認識していき、さらには、「私たちは内側では同じ実在、同じ存在(being)、すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始めるのです。」

このとをルパート・スパイラはエンライトメント・目覚めと呼んでいるわけです。そこには突然何かが起きるとか、体が光に包まれるとか、自分はいなかった体験をするということは出てきません。これはものすごく重要なメッセージだと思います。

「すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始める」。そういう意味で言うなら、私はすでにエンライトメントしています。また、このブログをずっと続けて読んでいただいている方の多くもすでにエンライトメントしてみえると思います。私は、(エンライトメントある派)のマスターや教師は支持しないし、このブログでは取り上げません。でも、こういう意味のエンライトメントなら支持します。

かつては、グルやマスターの話をYouTubeで誰でも聞けるなんてことはありませんでした。私がセイラーボブに会いに行った9年前ですら、ボブのYouTubeの動画は2~3本があっただけです。ルパート・スパイラのYouTubeで一番古いものは12年前です。ありがたいことに日本語字幕を付けてくださっている方もみえます(4年前から)。

YouTubeが盛んになる以前、非二元関連の情報は翻訳されたごく限られた本しかありませんでした。すると、いくら翻訳者の方が正確に訳しても、読み手の方では勝手に想像して、非二元の教師たちは全員覚醒・エンライトメントした人たちだと思い込んでしまいます。ネット上で、「ただそれだけ」の書評を書いてみえる人の記事を読んでも、ほぼ全員が、セイラーボブをエンライトメントした人だと思っています。あれだけYouTubeで明確に「エンライトメントはない」と本人が言っているにもかかわらずです。ルパート・スパイラにも同じことが言えます。

YouTube以前は、直接会いに行くしか方法がありませんでした。でも今はYouTubeがあります。これってすごいことだと思います。ニサルガダッタ・マハラジの言葉だって聞けるわけですから。

そして、セイラーボブのミーティングにズームで参加することもできます。ルパート・スパイラもオンラインのセミナーをやっています。英語という壁があるので、少しハードルが高いのですが、どうしても知りたい疑問があればメールという手もあります。

インターネットの発達に伴い、もうそろそろ、彼らが私たちとは違う特別な意識の状態にある人たちだという幻想を手放してもいいのではないでしょうか。そこにあるのは、同じ一つの意識、存在(being)だと教えているのですから。

「遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。」

戻っていく(理解する)ためには、彼らが私たちとは違う特別な人たちだという先入観を捨てて、何も特別なことは起きないということを理解したうえで、手に入る媒体を通じて学ぶことだと思います。そしてそれは、誰にでも可能なことです。

2023/11/21

「エンライトメントとは何か?それはどのように起こるのか?」ルパート・スパイラ

What is Enlightenment? How Can it Happen For Me? Enlightenment is possible for everyone 
エンライトメントとは何か?それは私にどうやって起こるのか? エンライトメントは誰にでも可能です。 

最近、エンライトメント、あるいは目覚めとは何ですかという質問がありました。このことについては、あまりにも多くの誤解があるので、それについて話そうと思います。

私たちの多くは、エンライトメント、目覚め、解放について聞くために、肉体的、あるいは知的に東洋へと向かい、インド、日本、中国、チベット、タイなどを訪れました。こうした国の文化は西洋文化に比べて並外れて魅力的なものであるため、私を含めて多くの人は、エンライトメント、あるいは目覚めをこうした国の並外れて魅力的な文化と混同しました。

エンライトメントそのものが、何か並外れた魅力的なもの、私たちの想像を超えた奇跡のような体験だと信じ、その結果、私たちが読んだり聞いたりしたこの奇跡的な体験をゴールとして作り上げたのです。これほど真実とかけ離れたことはありません。エンライトメント、あるいは目覚めは並外れて魅力的な体験ではありません。実際それは、体験でさえありません。

それは単に私たちの存在の本質を認識(recognition)することです。存在の本質とは、あらゆる体験の根底にあり、さらに言うなら、いかなるものの中にも浸透しているもののことです。こうした理由から私は、認識する方法によるアプローチをしばしば説いています。認識とはもちろん、いつも知っていたにもかかわらず見落とし、あるいは無視したり忘れたりしてしまったことをふたたび知るという意味です。

私たちが見落としたり、無視したりしていることとは何でしょうか? それは私たちという存在(being)、本質としての自己(essential self)のことです。なぜそれを無視したり見落としたりしてきたのでしょうか? それは、私たちが体験、思考、イメージ、フィーリング、知覚、認識、活動、関係性などといった内容の虜になったからにすぎません。

こうしたことが、私たちの注意を独占したために、存在(being)のシンプルな事実を忘れたり見落としたりしたのです。存在(being)は私たちの体験の、いわば背後、あるいは根底にあるものです。エンライトメント、あるいは目覚めと呼ばれるものは、私たちの存在(being)の本質的な性質(essential nature)を認識することにすぎません。

物事の本質的な性質とは、それから取り除くことも分離することもできない性質のことです。私たちから取り除くことができるものをすべて取り除いた時に残るものが私たちの本質です。思考、イメージ、フィーリング、知覚、認識、活動、関係性など、こうしたことはすべて私たちに現れ、遅かれ早かれ消えていきますが、私たちには、決して現れることなく、変化することなく、消えることのない一面があります。それは存在(being)、あるいは気づいている存在(being aware)というシンプルな事実です。

そして、認識するという方法は、自身から取り除くというやり方ですが、文字通り取り除くという意味ではなく、想像力を使って自身の中に入っていき、捨て去ること、拒絶するのではなく、私たちの本質ではないものを捨て去ることです。思考、イメージ、フィーリング、知覚、認識などを捨てるのです。そうやって、これ以上何も捨て去ることができない本質的な自己、すなわち存在(being)までさかのぼっていきます。

あたかもそれは、夜に服を脱ぐようなものです。私たちは夜ベッドに入る前に、裸になるまで順に服を脱いでいきます。突然裸の体になるわけではありません。体は日中私たちの体を包んで覆っていた服の層の下から現れるのです。一方、認識による方法も同じようなやり方で進んでいきます。

いわば、脱いでいくのです。私たちの存在( being)が着ている体験、思考、イメージ、フィーリングなどの層を全部脱いでいくのです。そして、ある時点で、これ以上は脱ぐことができない裸の本質的な自己(essential self)、すなわち存在(being)が現れます。この存在(being)になるのではありません。私たちは経験の中ではいつも服を着ていますが、本質的にはこの存在(being)にすぎないなのです。

大多数の人にとって、このプロセスは一度に起きるようなことではありません。一度に起こったとしても、たいていは習慣の力によって、思考、イメージ、フィーリングなどのせいで、私たちの存在(being)は、ふたたび覆い隠されてしまいます。実際には、スクリーンの上に映画が映し出されてもスクリーンが消えるわけではないのと同様に、私たちの本質的な存在(essential being)が消えるわけではないのです。

でも、私たちの存在(being)は、体験した内容によって色付けされ、うわべ上では修正され、その本質的な性質(essential nature)はベールで覆われたり、不鮮明に見えたりするのです。そしてその場合、私たちは再び、認識する方法に乗り出さなくてはいけません。再び逆の道をたどり、層となっている経験を通り抜けて、裸の存在(being)まで戻らなくてはいけません。

これをやるたびに、私たち自身、すなわち存在(being)から私たちを連れ出す外的な経験の持つ力が弱まっていくのがわかります。そうして私たちは私たち自身を見つけるのです。それは短い一瞥や、一時的に私たちの存在(being)を味わうということではなく、その中にそれとして確立されるのです。

私たちが経験したことによって身についた性質が、私たちの存在(being)から脱がされていくに従って、私たちの思考の特徴となっている不安が消えていきます。そしてそれは平安として体験されます。私たちの苦しい感情の特徴である欠乏の感覚が消えていきます。そしてその体験は、私たちが幸福として知っているものです。別の言葉で言うなら、平和と静かな喜びは私たちの存在(being)の本質そのものです。

それは、理解を超えた平和と呼ばれています。それは、私たちの体験の中で起きることや起きないことに左右されることのない平和です。それは原因のない平和、喜びです。その平和、喜びは体験の中に原因があるのではなく、私たちの存在(being)の本質そのものなのです。この、生まれながらの平和と喜びは、経験したことによって私たちの存在(being)と混同されて不鮮明になってしまいました。

この平和と喜びとのつながりが失われたように思え、その結果私たちはそれを取り戻そうとして、外側の世界で大いなる旅へと乗り出すのです。遅かれ早かれ、外側の世界や体験は私たちが切望する平和や喜びをもたらさないと直観、あるいは理解することになります。遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。

そして、何度も何度も繰り返し戻っていき、生まれつきの平和と喜びが私たちの体験の中に感じられるまで戻っていきます。それが起きれば起こるほど、日常の生活での体験が私たちを自己(self)から連れ出す力を失っていくことに気づきます。これは伝承の中では、自身の本性に定着することと呼ばれています。やがて私たちの存在(being)は、実際には私たちの存在ではないと感じ始めます。

別の言い方をするなら、私たちの存在(being)は個人としての私たちに帰属しているものではないのです。私たちの存在(being)は経験したこによって身につけた性質を脱がされ、単なる存在(being)として現れます。それはまったく親密であるにもかかわらず、非個人的で無限なものです。その結果、私たちは存在(being)が個人としての自己の境界をはるかに超えているように感じ始めます。

その存在(being)は私たちの自己(self)の本質ですが、それはあらゆるものの本質であり、そこから私たちの自己(self)という感覚がやってきます。そこから、あらゆる人、うわべ上でのあらゆる個人、うわべ上でのあらゆる存在物がやってきます。別の言葉で言うなら、私たちは内側では同じ実在、同じ存在(being)、すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始めるのです。

そしてこの認識はもちろん、人々や動物との関係性に対しては私たちが愛と呼ぶもののことであり、物や自然に対しては美と呼ぶもののことです。数週間後、あるいは近い将来、私は週末にオンラインで認識による方法をやるつもりです。そこで私たちは本質的な自己(essential self)へと戻る数々の道を探検します。そしてまた、ふたたび経験の内容へと戻る道、特に体を感じ、世界を認識する方法によって、私たちの存在(being)の本質を認識するだけでなく、あらゆる人や物と私たちの存在(being)を分かち合うことをもっと感じる方法をやります。

では、皆さまのご健勝と平安をお祈りします。またすぐにお会いできますように。お元気で。

2023/11/17

「私が未だに悟れないのはなぜ?」ルパート・スパイラ

Rupert Spira 非二元のエッセンス  私が未だに悟れないのはなぜ?

このYouTubeはまったくすばらしい。字幕をつけていただいた方に感謝します(歯車アイコンをクリック→字幕→日本語)。
このYouTubeの中で、ルパート・スパイラは悟り(エンライトメント)とは何なのかを端的に説明しています。

セイラーボブのミーティングで何十回も聞いたフレーズに似た言葉が出てきました。

「私はまだ目覚めていないのですが」という質問者の問いに対して、

「You are not awake? (あなたは目覚めてないのですか?)」とルパートは問いかけました。

セイラーボブだったら、Are you unaware right now?と聞くところです。ボブの場合は、「それが awareness だ」と続くところですが、この質問者はその意図を理解せず、会話を先へと進めてしまっています。

続いてルパートは、「あなたはまだ、何かが起きることを期待していますね。それが問題です」と答えています。

もし、非二元の教えを理解したら、何かエンライトメントのようなことが起きるはずだと思い込んでいると、非二元の教えを理解することができません。私もそうでした。

このYouTubeの中でルパート・スパイラは、悟り(エンライトメント)とは、何かを体験することや、何かになることではないと明言しています。彼らは私たちと何も違わない普通の人です。

説明の仕方や使うフレーズが、あまりにもセイラーボブと似ているので驚いています。

2023/11/14

「気づき」と「意識」

私は「気づき」という言葉が苦手でした。非二元の本を読んでいて、「気づき」という言葉が出てくると、そこに気づいている人がいるように思ってしまい、とたんに不鮮明になってしまいます。私はセイラーボブ以外の非二元の教師の本をあまり読んではいませんが、書店の精神世界のコーナーにあるような非二元の本はたいてい立ち読みしたことがあります。その時、「気づき」と出てくると、わかりづらく感じていました。

カリヤニに、「ヨーロッパの非二元の教師はわかりにくい」と言ったのも、その程度の理由で、じっくり本を読んで言ったわけではありません。前回ブログに書いた、ルパート・スパイラの「プレゼンス」では、それこそ山のように「気づき」という言葉が出てきます。そこで、この「気づき」という言葉の裏にはどんな英語があるのか、ちゃんと調べようと思い、「プレゼンス」英語版を買おうと思って調べたところ、日本語版の三倍もする。円安の影響かどうか知らないけど、あんまりなので買うのをやめて、ルパート・スパイラのYouTubeを何本か見て確認しました。

それから推理すると、「気づき」に相当する言葉は awareness。やっぱりな、と思う一方で、どうして、ある本では「意識」と訳され、またある本では「気づき」と訳されるのだろうかと思いました。翻訳家によって違うのかと思って、あれこれ調べてみましたが、そうでもないらしい。高木悠鼓さんは、「ただそれだけ」では、「意識」を使い、「何でもないものが あらゆるものである」では「気づき」が多い。古閑博丈も「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」では「気づき」なのに対して、「すでに目覚めている」では「意識」が多い。

おそらく、こうした本に出てくる言葉の原語は、awareness もしくは aware だと思います(「プレゼンス」には一部に cosciousnessという言葉もあります)。私の場合、非二元の本として最初に読んだのが「ただそれだけ」なので、「意識」という言葉がしっくりきて、「気づき」だと違和感がありました。

awareness という言葉は、英語の場合、「気づき」という意味と「意識」という意味があって、英語ネイティブは、awareness と聞いたとたんに、「気づき」と「意識」が同時に頭に浮かぶわけですが、日本語にはそんな便利な言葉はないので、どちらかの訳語をあてなくてはいけません。また、非二元の教師によっては、awareness と consciousness の両方を同時に使う人もいて、その場合には consciousness を「意識」と訳して、awareness  を「気づき」と訳すなどの区別が必要になると思います。

今回、「プレゼンス」を読んでいくうちに、「気づき」という言葉に対する違和感や苦手意識がなくなりました。最初のうちは「気づき」が出てくるたびに「意識」と直して読んでいましたが、途中からどっちでも同じではないかと思うようになったからです。

「気づき」とするか「意識」とするかは、翻訳家の方も気分でやってみえるわけではなく、原文の微妙なニュアンスを嗅ぎ取って、どちらかに決めてみえるのだろうと思います。というのも、「プレゼンス」の1巻では、ほぼ「気づき」だったものが、2巻の後半には「意識」という言葉が使ってあって、その場面では「意識」という言葉の方がしっくりくる感じを受けました。そして今は、「プレゼンス」の場合は、前述の一部の場面を除いて、「気づき」という言葉の方が的確だと思っています。気づきという言葉については、古閑博丈さんのブログが参考になると思います(気づきとはルパート・スパイラ

この「気づき」という言葉に対する苦手意識が消えたことや、カリヤニからロンダ・バーン、ルパート・スパイラを教えてもらったことで、もっといろんな人の本をちゃんと読んだ方がいいのではと思いました。セイラーボブのミーティングだけせっせと見て、セイラーボブのことだけをせっせと書いて、まるでセイラーボブ教、セイラーボブ原理主義みたいになっているのではないか。セイラーボブの言っていることを理解したからといって、非二元の教え全体を理解したと思うのは短絡的ではないのか。もっと広い視野で非二元を捉えるべきではないかと思いました。

そこで、ザ・グレイテスト・シークレットの賢人リスト、the urban guru cafe古閑博丈さんのブログ高木悠鼓さんのブログを参考にさせていただき、以下の本をアマゾンで買いました。


そして、図書館で、

ほとんどがよく見聞きする人や本です。今ごろになって、何を読んでいるのかと言われるかもしれませんが、もしセイラーボブを通じて非二元を理解する前にあれこれ読んだとしても、おそらくチンプンカンプンで、非二元難民なっていたと思います。

少しずつ読んで、思うところを書いていきたいと思っています。こういう本の性格上、そんなに急いで読んでも役に立たないので、ゆっくりやっていきます。

2023/11/10

「プレゼンス」ルパート・スパイラ


カリヤニと話をした時、ふとしたきっかけで私が、「ヨーロッパの非二元の教師はわかりにくい」と言いました。するとカリヤニが、「ヨーロッパの教師の中では、ルパート・スパイラがわかいやすい」と教えてくれました。

ルパート・スパイラの名前は知っていましたが、本は立ち読み程度にしか読んだことがありませんでした。せっかくカリヤニがすすめてくれたのだからと、入手してじっくりと読んだところ、すばらしい内容でした。

読み始めは、少し理解するのが難しいところがあり、何回か同じところを読むことがありましたが、次第に慣れて、それほど難しく感じなくなりました。私はセイラーボブに会う前に、「ただそれだけ」を7回読みましたが、さっぱりチンプンカンプンでした。この本は、「ただそれだけ」より難しい気がします。

何が難しく感じさせるかと考えてみました。独特の言い回しと、それを使って緻密かつ厳密に話すこと。また、詩的、感覚的言い回しが多いことではないかと思います。

セイラーボブは、私たちの本質を「意識(アウエアネス)、知性エネルギー、実在、認識する空」などと表現しますが、ルパートの場合は、「気づき、現存、自己、気づいている現存、真の自己、現存の空の空間、気づいている空間、純粋な気づき、気づきの光、いつもここにある存在、見る事、つなぎ目のない全体性、唯一の自己、知、知の光、自身の存在の光、愛」といった表現を使います。こういった表現は、大胆に解釈すれば、「意識」あるいは「気づき」のことを言っているのですが、まず最初にそれが理解できていないと、難しく感じるかもしれません。この本では「気づき」という言葉が中心になっていますが、「気づき」については次回書きたいと思うので、ここでは深入りしません。

内容はというと、非二元の教えの本ですから、「私は実在ではない」ということであり、セイラーボブが教えていることとまったく同じです。説明に使われる例えも、セイラーボブと似ているところもあります。空間の例え、スクリーンの例え、ラベルを貼り付けているといった例えは何回も出てきます。

第1巻の最初は、「私は在る(I am)」から始まります。自分が存在するということは、誰でも知っています。存在するということは、つまり presence であり、それが本のタイトルになっています。そして「私」はただ現存するだけでなく、気づいている存在です。そして私たちは、このシンプルな気づきに、様々な要素を付け足して、体と心(マインド)の中に私がいるという信念が生まれます。そうした信念を私だと思うことによって、様々な苦悩が生まれる課程を順に説明していきます。このあたりの説明は、セイラーボブとよく似ています。

ブログに引用するといいなと思う箇所に付箋を貼って読みましたが、結果的にほとんど全ページに付箋を貼ってしまい、貼る意味がなくなってしまいました。どんな感じで説明されているのか、ちょっと引用させていただきます。このブログで、「物は実在か?」という記事を書いた時、私たちが見ているレモンには実体がないという内容の記事を書きましたが、それとよく似た説明があって、おもしろいなと思ったので、引用させていただきます。

第2巻p150から
 
 リンゴの記憶が心(マインド)の中のイメージにすぎないというのは事実です。しかし、実際のリンゴを見るとき、それもただのイメージにすぎないということを私たちは見落としています。私たちがリンゴについて知っていることは、この場合、「見ること」だけです。そして、リンゴに触るとき、私たちが知っているのは「触ること」だけです。リンゴを味わうとき、知っているのは「味わうこと」だけです。

 通常考えられているような形で、私たちが実際のリンゴを体験することはありません。つまり、分離独立して存在する対象物のリンゴを体験することはないのです。

 ですから、実際の体験において、記憶の中に現れるリンゴの実質と、「現実の時間」の中に現れる実際のリンゴの実質には、何の違いもありません。それらについて私たちが知っている唯一の知識は、心(マインド)からーーー見る事、味わうこと、触ること、嗅ぐことからーーーでできています。そして、心(マインド)の実質は気づきだけです。

 気づきが、それ自身の不在や消滅を体験することなどできるでしょうか? この、常に現存し、いつもここにある気づきが私たちであり、すべての体験の唯一の実質です。私たちはそのことを直接的に、親密に、即座に体験します。体験のこのシンプルな事実を表面的に忘れてしまうと、リンゴや対象物、世界といったものが実在するように見えるのです。

ここだけ読んでも素晴らしいと思いますが、全体がこんな調子で続きます。では、私たちが、実在すると思っている「私」「体」「世界」は、実際には気づきが気づいている対象にすぎないということを理解するにはどうしたらいいのか。

驚くことに、これもセイラーボブと同じで、自分で調べることだと言っています。ルパートの場合は「探求」「探す」という言葉を使っています。そのやり方は、第1巻に順に説明されています。最初に、「分離した自己」次に「体」、そして「世界」を調べていきます。ことの性質上、このあたりの説明は抽象的に思えるかもしれませんが、やり方が書いてあるだけでも私にとっては貴重な本です。

ルパートによると、調べることはそれほど難しくはなく、「私」や「体」が実在ではないということを理解することも、容易にできることだと言います。でも、それを理解したからと言って、「私」や「体」に対する認識や、ボブの言葉で言うなら条件付けのようなものは、すぐには無くならないというのです。その説明はこの本の中で何回も表現を変えて出てきますが、一番印象に残った箇所を引用させていただきます。

第1巻 p135から

 私たちの実際の体験において、分離した内側にある自己は存在しない、存在していなかったということがはっきりわかると、それは再生されません。ですが、ひとたび真の性質へと溶け込んだからといって、架空の存在の古い余韻が体と心(マインド)から完全に洗い流されるわけではありません。

 それは、波が浜辺に打ち寄せることで、こどもたちが浜辺に描いた砂の絵が少しずつ消えていくのと似ています。波が打ち寄せれば、絵は部分的に消えますが、その線がどれだけ深く掘られたかによって、波がどれだけ打ち寄せなければならないかが違ってきます。

 同じように、分離した内側にある自己の思考と感情の残滓(筆者注: ざんし=残りかすのこと)は、心(マインド)、特に体に爪痕を残します。透明で開かれた、愛に溢れた私たちの真の性質が本当の意味で浸透するには、いくらかの時間、場合によっては数年を要することもあるのです。

ボブのミーティングでも、「あなたの教えは理解しましたが、『私』は消えません」、「知的には理解しました。でも、『私』がいるような気がします」といった類の質問が未だに後を絶ちません。そんな時ボブは、「自分で調べてみてください」「『でも』はあなたをそれから遠ざけます」「今そのことを考えなかったら、条件付けはありますか?」といった、ニサルガダッタ譲りの一喝で終わらせてしまう傾向があり、それがいつも参加者のジレンマになっている感じがします。

ボブは、「私」が消えるには時間がかかるなんてことは決して言いません。「時間は存在しない。それは即時だ。あなたはもともとそれだ」の一点ばりです。ルパートも、「時間はあなたの記憶の中にしか存在しない」と言っていますが、私が消えるには時間がかかると、ちゃんとわかりやすく説明してくれています。

ルパートは、一回や二回の調査ではだめで、調査して、自分は実在ではないという体験を何回も積み重ねることが大事だと言っています。一番やってはいけないのは、その体験をすることなく、「私はいない。体は実在でなない」とマントラのように自分に言い聞かせることだそうです。これは状況を悪化させるだけだと言います。

ここで勘違いしてはいけないのは、物理的な「体」や「私」という認識が消えると言っているのではないということです。そんなことが起きれば、体は家具にぶつかってしまうし、車に轢かれてしまうでしょう。「私」という認識が消えれば、社会で生きていくことさえできなくなります。あくまでこれは、自分は「体」でも「思考」でもなく、「私」は実在ではないという理解のことを言っています。

セイラーボブのように、「あなたはもともとそれだ」と一喝する教師もいれば、ルパート・スパイラのように、「すぐには消えないよ」と優しく説く教師もいていいと思います。

ルパートもボブと同じように、私たちの本質を覆い隠す思考を雲に例えています。「私」「体」「世界」が実在するという思考、雲の後ろには何があるのか。そこには、平安、幸福、愛があると言います。セイラーボブも、サット・チット・アナンダ(存在・意識・愛)として、愛を引き合いに出すこともありますが、ボブの場合は「知性」「ほのかな至福」といったことを強調するのに対して、ルパートの場合は「愛」を強調しています。

これは、健康食品の宣伝の注意書きのようなもので、「個人の感想です」ので、あまり表現にとらわれない方がいいと思います。そして、私はまだ、平安、幸福、愛を感じないからダメだと思う必要もないと思います。ルパートもボブも、私たちはもともとそれなのだと言っています。

ここでルパートが言っている平安、愛、幸福とは、マインドや体が感じる平安、愛、幸福のことではありません。愛する家族がいて幸せだというのはマインドの幸福です。暖かいお風呂に入って幸福だというのは、体の幸福です。そうではなく、愛する人が去った悲しみに打ちひしがれている時も、吹雪の中を歩いている時も、マインドや体の背後にいつもあるものことを言っています。

やってはいけないのは、ルパート・スパイラやセイラーボブが私たちとは違う意識にあるのではないかと思って、それを探してしまうことです。彼らは特別な人ではなく、私たちと何も変わりません。もし彼らが私たちとは別の意識状態にあると思って、それを探し求めるなら、エンライトメントを探し求める人と同じ誤りを犯すことになります。たった一つの、同じ意識があるだけです。


ルパート・スパイラについて

Amazonの著者紹介より

ルパート・スパイラ Rupert Spira
幼少の頃から現実の本質に多大な関心を寄せていた。
20年以上にわたりピョートル・ウスペンスキー、ジドゥ・クリシュナムルティ、ルーミー、シャンカラチャリヤ、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、ロバート・アダムスらの叡智を探究した後、1996年、彼の師となるフランシス・ルシールに出会う。
ルシールの導きにより、ジャン・クライン、アートマナンダ・クリシュナメノンらの教えに触れ、さらには経験の真の性質を知るに至る。
現在はイギリスに暮らし、ヨーロッパおよびアメリカ各地で、ミーティングやリトリートを定期開催している。

Wikipedia を参考にして、私なりに略歴をまとめてみます。

Rupert Spira 
1960年3月13日ロンドン生まれ イギリス人 現在63歳。職業:著述家・スピリチュアル教師・哲学者・陶芸家。1977年、ロンドンで開催されたマイケル・カーデュの陶芸展に触発され、ウエスト・サリー芸術デザイン大学に入学して美術を学ぶ。1980年から1982年まで、マイケル・カーデュのもとで陶芸家の見習い修行をする。

大学卒業後の1984年、自身のアトリエを持つ。
どんな作品を作っているのかgoogleで画像検索してみました。陶器に言葉を書き込んだものも見られます。
陶芸家として成功していたようで、日本で個展を開催したこともあり、作品は東京国立近代美術館にもあるようです。(情報源はここ
ザ・グレイテスト・シークレットの賢人リストによると、元陶芸家となっているので、今は陶芸家としては活動していないのかもしれません。

スピリチュアル関連
15歳のときにルーミーの詩を読んだことが、スピリチュアルな旅の始まり。ロンドンのコレット・ハウスでフランシス・ロールズ博士に師事した。フランシス・ロールズ博士は神秘哲学者ウスペンスキーとグルジェフ、そしてスワミ・シャンタナンダ・サラスワティのマントラ瞑想を学んだ人物。その結果、古典的なアドヴァイタ(非二元論)にも興味を持つようになる一方、メヴレヴィ・ターニング(祈りと瞑想を組み合わせた神聖な動きの一種)を通してスーフィズムの研究も続けた。また、ニサルガダッタ・マハラジとラマナ・マハルシの教えを読み、1970年代後半にはブロックウッド・パークで行われた J.クリシュナムルティの最後の集会に参加した。1990年代半ば、ロバート・アダムス、フランシス・ルシールとの出会いが彼をアートマナンダ・クリシュナ・メノンのダイレクト・パスの教えに導いた。20年以上にわたる瞑想と修練の結果、自己の本質に目覚め、以後、講演やリトリートを主催。日本でもセミナーを開いたことがあるそうです。
スピリチュアル関連の経緯は、古閑博丈さんのブログによくわかるインタビュー記事があります。


このチャンネルには1000本以上の動画があります。ちょっとした宝物を見つけた気分です。一本だけ紹介させていただきます。この動画の中でルパートは、エンライトメントは東洋で信じられているような神秘的かつ途方もないものではなく、単に私たちの存在(being)の本質を気づくことだと言っています。

日本語で字幕をつけてみえるYouTubeチャンネルもあります。「Rupert Spira非二元のエッセンス」。まだよく見ていませんが、ありがたいことです。

ルパート・スパイラについては、古閑博丈さんのブログ(resonanz360 塩人間の海底探検)にたくさんの記事があります。全部読ませていただきました。古閑さんは、この本が世に出るずっと以前にルパート・スパイラのリトリートに何度も参加されているようです。また、ルパート・スパイラのホームページのQ&Aや教えの概要の翻訳が掲載されています。今のホームページとは連動していないようですが、教えを理解する助けにもなり、貴重なものだと思います。リトリートの体験記もあって、どんな様子なのかを知ることができます。

thE uRbaN guru Cafe には、3回のインタビューがあります。(ポッドキャスト・英語)

ちなみに、「ザ・グレイテスト・シークレット」では、ルパート・スパイラの言葉は17回引用されていて、おそらく最多だと思います。

************

ルパート・スパイラのファンになりました。そしてもし、ルパート・スパイラのセミナーに出たことがある方、あるいは陶芸展で会われた方がみえるなら、「こんな感じの人だったよ」「こんなこと言っていたよ」、何でも結構ですので、シェアしていただけるとありがたいです。

2023/11/07

黄檗 Huang-po

カリヤニのおすすめの禅マスターは、黄檗(Huang-po)だそうです。
黄檗は、このブログでも一度取り上げています(黄檗希運)。あの時は、どこかの英文サイトから拝借して書いた記憶があるのですが、どこだったかよく覚えていません。もう一度、黄檗について学びなおそうと思って、何か参考になる本はないかと調べたのですが、黄檗に関する本はあまりない。一冊だけ手頃なものを見つけたので、アマゾンで買った。


おそらくこれは読めないだろういうことは、注文の時点で察しがついた。著者は有名な仏教学者の宇井伯寿。この時代の人の文章は、古くて読めない漢字が使ってある。文章も漢文調だったりする。復刻版なので、現代語に直してあるかもしれないと思って買ったが、だめだった。この時代の人の文章はおいそれとは読めない。鈴木大拙にも同じことが言える。鈴木大拙全集を読もうとしても、全く歯がたたなかった。

黄檗に関する記録はそれほど多くないようなので、おそらくこの本の元となったものが英訳されたのではないかと思います。

英語版としては、これが良さそう。
今、時間的な余裕があまりなくて、英語の本をじっくり読もうという気になりません。また時間に余裕ができたら読もうと思っています。一応備忘録として書いておきます。この本の参考サイト(Buddhist Wisdom)。

カリヤニがおすすめのヨーロッパの非二元の教師は、ルパート・スパイラだそうです。次回はルパート・スパイラについて書きます。

2023/11/03

引き寄せの法則と非二元の教え

前回のブログで、ロンダ・バーンの「ザ・グレイテスト・シークレット」について書きました。でも、私の中のひねくれ爺さんが、もう少し言いたいことがあるというので書いています。

一般的に非二元の教えでは、自由意志はないと言います。そもそも、その自由意志の主体である「私」はいないというのが非二元の教えの根幹ですので、自由意志があるかないかと問うこと自体がおかしい。もし、「自由意志はある」と言えば、その主体である「私」がいることになる。もし、「自由意志はない」と言っても、そこには自由意志を持っていない「私」がいることになってしまう。

それゆえ、自由意志があるとかないとか問うこと自体が間違い。「私」は実在ではない。そこで終わり。では、「引き寄せの法則」はあるのか? これも同じ理屈が成り立つような気がします。誰が引き寄せるのかと問うてみれば、答えは明らかな気がします。そこに、「引き寄せる私」がいないのなら、引き寄せの法則は成り立たない。

でも、そのあたりの整合性を、ロンダ・バーンはこの本の中でまったく説明していません。もちろん、誤った思い込み、信念を消し去れば、そこにあるのは意識だけだという趣旨の説明はしていて、非二元の説明としては全く正しいのですが、じゃあ、今までの本で、思考や信念の力で金や物、幸せを引き寄せましょうと言っていたことはどうなるのか、という疑問がわきます。

ロンダ・バーンの引き寄せの法則の基本は「信念、あるいは思考は現実化される」というものです。そしてロンダ・バーンはこの本の中で、否定的な思考を持てば、否定的な現実を引き寄せてしまうので、否定的な思考を持たないようにと言っています。

でも、そもそも、肯定的な思考だけを持つということが可能でしょうか? 肯定的な思考の裏には必ず否定的な思考が潜んでいます。肯定的な思考だけ持つことが可能なら、誰も悩んだりしません。思考で現実を引き寄せることが可能なら、誰も願望が実現して欲しいと思って「引き寄せ本」を読んだりしません。

ロンダ・バーンは、「否定的な思考、信念は、それを意識した瞬間に消える」と書いています。このあたりは非二元の教師と同じことを言っていて間違いではありません。でも、思考は現実化されるという前提が間違っている気がしてなりません。

変節漢の私としては、「引き寄せの法則」ある派の立場に立って、理屈を考えてみました。非二元の教えでは、私たちが見ている現実社会は夢、幻想であり、例えていうなら、意識というスクリーンの上に映し出された物語だという例えがよく使われます。ロンダ・バーンもスクリーンの例えを使っています。

もし私たちの見ている現実が、夢や物語であるなら、そこには「私」がいて、その「私」には自由意志があって、仕事を選んだり、結婚相手を選ぶ自由意志があると思っていてもいいと思います。夢や物語の中にはなんだってある。体だってあるし、「私」だっている。

本当は「私」は実在ではないけれど、夢や物語の中では「私」が存在するように見える。それゆえ、自由意志もあるように見える。なんかややこしい話になってきました。

夢だ物語だと言ってみても、実際には現実問題として、会社に行って働かなくてはいけないし、家族だって養っていかなければいけない。そうなると、意思を使って起きて会社へ行き、意思を使って働かなくてはいけない。

それが夢であろうと物語であろうと、そこには夢や物語のルールがあって、どうせ夢なんだからと働かなければ食っていけない。夢だからとむやみに人を傷つけたら刑務所に行かなくてはいけない。私たちはそういう世界に生きている。自由意志がなかったら、マクドナルドにもスタバにも行けない。カフェモカにホイップ増量も頼めない。(セイラーボブは、それは自由意志ではなく、起こってくることだと言うでしょうけど、ややこしくなるのでひとまず脇に置いておいて)

ニサルガダッタ・マハラジが言うように、夢を夢だと理解して、その夢の中で自由意志でも引き寄せの法則でも何でも使って生きていけばいいのではないでしょうか? と、ここまで、引き寄せの法則ある派の立場で考えてみました。でも、こんな理屈がなり立つなら、夢や物語の世界には、転生や輪廻や天国だってあることになってしまう。

「ザ・グレイテスト・シークレット」は、手っ取り早く非二元の教えを学ぶことができる(ロンダ・バーンは非二元という言葉は一切使っていないが)。そういう意味では画期的な本だといえる。でも、何か釈然としないものを感じる。非二元の教えを学ぼうとする場合、いろんな人の本をあれこれと読むよりも、一人の人の本をじっくり読んだ方がいいような気がします。人によって説き方が違うし、言っていることが細部で多少違う。あれこれ読んでもかえって混乱してしまうような気がします。

ちょっと思ったのは、ロンダ・バーンの引き寄せ本を読んで、今まで願望の実現に必死になっていた人が、いきなりこの本を読んで、「私」は実在ではないという教えをすんなり理解できるだろうかということ。じゃあ、今まで必死になっていた「私」は何なのかということになりはしないかということ。

amazonのサイトの書評を読む限り、この本を違和感なく受け入れている「引き寄せの法則ある派」の人も結構いるようですので、あんまりとやかく言わなくてもいいのかもしれません。引き寄せの法則はあってもなくても、それは夢の中なのだと気づいていれば、それでいいのかもしれません。

個人的には「引き寄せの法則」はないと思っています。でも、宝くじでも当ったら、「夢の中では引き寄せの法則はある」と言うに決まっています。私の場合。

2023/10/31

「ザ・グレイテスト・シークレット」ロンダ・バーン

前回からの続き。

ザ・グレイテスト・シークレットを読みました。結論から先に言うと、この本は紛れもなく非二元の教えについて書かれた本です。そして、ロンダ・バーンは、「ザ・シークレット」も「引き寄せの法則」も否定しておらず、それはそのままで自説を曲げてはいない。「引き寄せの法則」の上に、もっとグレイトな秘密として非二元の教えがあるというのです。ただし、ロンダ・バーンは、この本の中では「非二元」「ノンデュアリティ」「アドヴァイタ」という言葉は一切使っていません。それは、ザ・グレイテスト・シークレット。勝手に訳すと、最も偉大な秘密なのです。

本の紹介のため、冒頭部分を少しだけ引用させていただきます。黒字は引用部分。

p17
はじめに
 2006年に『ザ・シークレット』を世に送り出してからというもの、私は夢という言葉でしか言い表すことのできない人生を歩んできました。『ザ・シークレット』に書かれた原則の数々を心から実践し続けることで、私の心は考えられないほどポジティブになり、そのポジティブな心が日々の幸せに、健康に、人間関係に、そして経済面にも表れるようになりました。そして気づけば、自分を取り巻くあらゆるものに、心からの感謝を抱くようにもなっていたのです。
 それでも胸の中で何かが、真理をもっと探究しなさいと私をずっと駆り立て続けていました。私自身まだ何を探せばいいのかもわからないというのに、私の背中を押していたのです。
 私は自分でも知らないうちに、10年の旅路に続く道へと歩み出しました。はじまりは古代ヨーロッパの伝統、薔薇十字団の教えを学びはじめたことでした。何年にもわたり、私は薔薇十字団の深淵な教えの数々学んでいたのです。それだけでなく、仏教、キリスト教神秘主義、神学、ヒンドゥー教、道教、イスラム教神秘主義も長年かけて学びました。そうして古代の伝統と歴史に残る教えの数々を学んだ私はふたたび今の時代へと立ち返り、J・クリシュナムルティ、ロバート・アダムス、レスター・レヴェソン、ラマナ・マハルシなど近代の賢者たちや、現代を生きる賢者たちの教えを学びはじめました。(引用おわり)

そして2016年に、デーヴィット・ヴィンガムという人物と出会ったことで、彼女の10年間の探求は終わります。その後も彼女は様々な人から教えを学び、それをもとにして、この本を書きあげます。

本の内容は、彼女が様々な人から学んだことを12章からなる文章で説明していきます。主となる説明はロンダ・バーンの言葉で説明され、それを補完する形で、様々な人の言葉が引用されています。形式としては「ザ・シークレット」と似たような形式です。各章の最後には、「ザ・シークレット」の時と同じように、その章のまとめがあって、わかりやすい言葉で説明されています。

本の中の太字で書かれている題目から、いくつか選んで引用させてもらいます。

p35
あなたは肉体ではない

p37
あなたはマインドではない

p39
本当にあなたは自分が考える自分自身だろうか?

p43
大胆ななりすまし屋

p50
あなたは、すべてに気づいている意識

p54
マインドという覆い

p69
意識で在り続けるために(ここでは、意識で在り続けるためのプラクティスが説かれています)

p72
ステップ1:「意識がありますか?」と自分に訊ねてみる

p87
覚醒する(エンライトメントという言葉はなく、例えば、「私たちではないものから覚醒する」というムージの言葉が引用されています)

p102
トラブルの源を信じてはいけない(トラブルの源とはマインドのことです)

p186
意識は幸せと同じ

p187
外界に幸せは存在しない

p218
すべては意識

p220
世界映画(意識は世界を投影するスクリーンであると説いています)

p242
終わりなどないのです(私たちは永遠の意識)

この太字の部分を読むだけでも、非二元の教えそのものだと思いませんか? でも、彼女は非二元という言葉は一切使っていません。非二元よりも、もう少し大きな枠組みでとらえています。というのも、引用する人たちが、必ずしも非二元という枠組みで語られる人たちばかりではないからです。

この本の巻末には、「賢者たち」として、言葉を引用した主な人たちや団体など、30人以上のリストとその説明が掲載されていますが、その人たちは、必ずしも非二元という枠組みには納まらない人たちも入っています。

私が知っている、もしくは聞いたことがある人の名前を挙げると、
セイラー・ボブ・アダムソン、
ディーパック・チョプラ™医学博士、
ジョエル・S・ゴールドスミス、
バイロン・ケイティ、
J・クリシュナムルティ、
ピーター・ロウリー、カリヤニ・ロウリー、
ラマナ・マハリシ、
ムージ、
スリ・プーニャ(パパジ)、
ルーミー、
ルパート・スパイラ、
エックハルト・トール、
ウパニシャド、
アラン・ワッツ、
バラマハンサ・ヨガナンダです。
この他にも20人ほどの名前がありますが、私はその人たちの名前を聞いたことがありません。

このブログは、あくまでもセイラーボブのことを中心に書いているブログなので、リストの中から、セイラーボブとカリヤニ、ピーターの部分を引用させていただきます。光栄なことに、セイラーボブは、その「賢者たち」のリストの最初に掲載されています。

セイラー・ボブ・アダムソン
 セイラー・ボブ・アダムソンはオーストラリア人で、私のふるさとであるメルボルンに住んでいます。私が彼を知ったのは2016年、私たちの真の姿に気づいたあとのことでした。当時私はアメリカに住んでいたのですが、その何年も前にまだメルボルンに住んでいた当時、通勤のために毎日毎日、何年にもわたり、セイラー・ボブの家の前を通っていました。まさか、将来自分の人生にとって重要な役割を果たすことになる自己実現の導師の自宅を車で通り過ぎていたなどとは、思いもよらなかったのです。2016年にセイラー・ボブのことを知った私は、すぐに彼に会おうと飛行機に飛び乗りました。彼はもう80代になっていましたが、私は何度か彼のセミナーに参加し、一対一のセッションを持つこともできました。そして彼に会うたびに気持ちが軽くなり、幸せが増し、解放感が増えていったのです。まだ私はスピリチュアル的に覚醒しはじめたばかりで、今はもうはっきりと理解していることをなんとか把握しようと必死になっていました。セイラー・ボブがニサルガダッタ・マハラジの弟子としてインドで自分の本質に目覚めたのは、もう数十年も前のこと。それ以来ボブは真実を聞きたいと願う人々に、自宅から彼の教えを教え授け続けてきたのです。今は90代になっていますが、まだ自宅でセミナーを開催し続けています。「今それを考えるのをやめて、何か問題があるかね?」という彼の言葉ほどシンプルで重要なものは、そうありません。セイラー・ボブは『今何か問題が?(What's Wrong With Right Now?)』『存在と意識:ただこれがあるだけ(Presence-Awareness: Just This and Nothing Else』という本を出版しています。また、彼のウェブサイトを見れば、彼のことをよく理解できるでしょう。sailorbobadamson.com

ピーター・ロウリー、カリヤニ・ロウリー
 ふたりは、私のふるさとであるメルボルンに住む、オーストラリア人の夫婦です。長年の壮絶なスピリチュアルの探求とインドへの旅を経て、ピーターとカリヤニはふたりとも自分の本質に覚醒しました。そろって覚醒する夫婦は非常に珍しいのですが、おかげでふたりがメルボルンで開くセミナーは本当に特別なものになっています。数年前にメルボルンを訪れた私はふたりのセミナーで、人生が変わるような体験をしました。そして幸運にも何度か、カリヤニと電話でのセッションを持つ機会にも恵まれたのです。ふたりの本『宝石の輝き(A Sprinkling of Jewels)』『ただそれだけ(Only That)』(邦訳はナチュラルスピリット)は、カリヤニの執筆によるものです。詳細はウェブサイトにて。nonduality.com.au

正直なところ、この本を読んで、どう評価していいのかわかりませんでした。これは、まぎれもなく非二元の教えについて書かれた本だと思います。わかりやすくて、内容もいい。具体的にどうしたらいいのかというプラクティスも書いてある。一部、引き寄せの法則と絡めて語られる部分があったりして、全面的に賛同するわけではありませんが、ずいぶんと参考になることがありました。

ちなみに、この本の中では、ざっと数えたところ、セイラー・ボブ、カリヤニ、ピーターの言葉がそれぞれ5回ずつ引用されています。もちろん、ニサルガダッタ・マハラジからの引用もあります。大半の引用はわかりやすく、すばらしいものです。ただ、一見非二元とは関係ないと思われるものもあります。

昔からある教えなのに、大げさなタイトルをつけて、こんなに多くの人の言葉を引用して、あざといではないか!と、私の中のひねくれ爺さんがつぶやきました。でも、ロンダ・バーンは、掲載された人の多くに会っているし、何度もセミナーに出たり、可能なかぎりの資料を読んだりして、ちゃんと体験、理解して書いています。もちろん、そうした人の了解も取っていることでしょう。

引用されている人の中には、私的には疑問を感じる人もいます。でも、私はその人たちの本を少しかじった程度の知識しかなく、会ってもいないので、偉そうなことは言えません。また、そうした人たちの言葉もすばらしいものなので、どうしたものかと困ってしまいます。

もっと困るのは、「引き寄せの法則」は自由意志にかかわる問題であり、非二元の教えの根本は、自由意志はないという点です。ロンダ・バーンは、「引き寄せの法則」は真理であるといい、その上にもっと偉大な秘密があると言って、この本を書きました。この本の中にも、「引き寄せの法則」について述べる箇所が何か所も出てきます。大前提が矛盾している気がしてなりません。

釈然としない思いをカリヤニにメールしたところ、カリヤニの答えは明快でした。カリヤニはロンダ・バーンの「ザ・シークレット」は読んだことはないけれども、「ザ・グレイテスト・シークレット」にカリヤニの言葉や名前が出たおかげで、何人かの人から連絡があり、まったく非二元を知らなかった多くの人たちを非二元に導いたのだから、それでいいのだということでした。

過去一年ほどの間、セイラー・ボブのミーティングのYouTubeを見ていて思ったのは、アメリカやヨーロッパからやってくる人が以前より多いような気がするということでした。今では、アメリカとヨーロッパ向けに時間をずらして、それぞれズームミーティングをやっています。ひょっとすると、この本のせいかもしれません。この本は、世界中で、ものすごい数の人に読まれているはずです。

カリヤニの話を聞いて、ロンダ・バーンに対する評価が変わりました。ロンダバーンは、非二元とは無縁の人たちを、非二元という言葉は使わないにしても、非二元的な教えに目を向けさせたということで、その功績は大きいのではないでしょうか。また、セイラーボブや、カリヤニ、ピーターのことを的確に理解していて、好意的に書いているところも好感がもてます。

私がこの本で一番感心したのは、非二元の教えの理解というのは、ともすると、特別な人にしか起きない神秘的な出来事(例えばエンライトメントのようなもの)としてとらえてしまう傾向がありますが、ロンダ・バーンはそういうものとしてはとらえておらず、誰にでも理解できる教えとして書いているところです。

そしてまた、私たちの本質は意識であり、それは手に入れたり、何かになったりするものではなく、すでにあるものだということをちゃんと書いているところです。この本の非二元(あるいは非二元的教え)は、一般の人にとっては、例えば、「I AM THAT」や「ただそれだけ」よりもはるかにわかりやすいと思います。

非二元の教えはスピリチュアルの分野でもマイナーな教えで、それほど多くの人に興味を持たれている分野ではないと思います。でも、ロンダ・バーンのおかげで、徐々に一般の人に広がっていくかもしれません。

非二元の教えを理解した人の中には、世界は幻想や夢だと知って厭世的になる人もいるかもしれません。幻想や夢だと理解したうえで、この世界の中で、引き寄せの法則はあると思って、希望に満ちて生きることは悪いことではないし、願望が実現した人にとっては、引き寄せの法則はあるということになると思います。

あれこれと書きましたが、非二元の本をあれこれ読んだけど、非二元で教えていることが何なのかよくわからないという人には、この本がわかりやすいかもしれません。とりあえず引き寄せの法則は脇に置いておいて読んでみてください。あ、新品なんか買わなくていいですよ。そんなことをすると、また印税が彼女に入って、ほら、引き寄せはある、と言いかねません。

ただ、一言だけ言わせてください。「ザ・グレイテスト・シークレット」の裏表紙には、ロンダ・バーンの写真が載っています。この本を書いた時点で、ロンダ・バーンは70歳のはずなのに、それがどう見てもせいぜい30代か40代にしか見えない。しかも美しい。その15年前に書かれた「ザ・シークレット」の写真より若く見えるやないか! 若さも引き寄せたと言うのか!と、また余計なことを書くと、しかられる。でも私の中のひねくれ爺さんがどうしても書けという。
ロンダ・バーンは変節漢ではない。変節漢とは私のこと。

2023/10/27

ロンダ・バーン

前回のつづき

私がロンダ・バーンの「ザ・シークレット」を読んだのは、2007年頃だと思います。私の住んでいる街の小さな書店でも山積みになって売られていました。すぐに引き寄せ本だとわかったのですが、当時とっても苦しい状況にあった私は、キャッチ―なタイトルにつられて、またしても引き寄せ本に引き寄せられてしまいました。当然、何も状況は変わらず、いつものごとく、本は処分しました。

詳しい内容はまったく覚えていません。そこで図書館でロンダ・バーンの本を五冊借りてきました。


ロンダ・バーンはWikipediaによると、1951年生まれの72歳(日本語版Wikiは1945年生まれになっているが、英語版では1951年生まれ)。ロンダ・バーンWikipedia
もともとはテレビのプロデューサーで、2006年にインタビューを集めた映画「ザ・シークレット」を制作。それを下敷きにして書籍の「ザ・シークレット」を書いた。(以上ザ・シークレットWikiより)

ロンダ・バーンと「ザ・シークレット」の一般知識はWikipedia を読んでもらったほうが手っ取り早いのでそちらを読んでください。要するに引き寄せの法則です。「ザ・シークレット」は「ザ・グレイテスト・シークレット」の帯の記載によると、2021年の時点で3500万部を売り上げているそうです。印税はいかほどか。勝手に想像すると、一冊100円としても35億円。映画や、その後の関連書籍の印税も含めると、彼女の手にした額は、もう一つゼロが多いかもしれない。

英語版Googleの画像検索で、ロンダ・バーンを検索していたら、彼女のカルホルニアの家が売りに出されているという記事が出てきた。そのお城みたいな家の売値は23億9000万だそうです。(ロサンゼルスタイムズ)。まさに引き寄せそのもの。

「ザ・シークレット」はどんな本かというと、いわゆる「引き寄せの法則」がシークレット(秘密)であり、それを24人の人の言葉を引用して裏付けする形式になっている。もともとは、秘密を知っている偉大なマスターたちを探してインタビューをするという映画がベースになっている。実際には秘密でも何でもなくて、何十年も昔からある「引き寄せの法則」を化粧直しして映画、あるいは本にしたにすぎない。

彼女の巧みなところは、そのパッケージ化の仕方と売り方。登場人物の大半は著名な作家か博士であり、昔からある手垢のついた本や人を登場させていないところ。いろんな博士や作家の言葉引用して、無理やり「引き寄せの法則」にしてしまう。

「ザ・シークレット」の中に、どれほど「非二元的な教え」が書かれているかと、読み直してみました。すると、不思議なことに、「非二元的な教え」と読み取れないこともないところが何か所かある。しかも、そこから「引き寄せ」のパワーがくるのだそうだ。

p256(以下引用部は太線で表示)
宇宙の一つの意識
ジョン・ハガリン博士
「宇宙は本質的に思考から発生しました。量子力学や量子宇宙学がこれを確認しています。私たちの周りに物質も凝結した思考から出来ているのです。究極的には私達は宇宙の源です。ですから、私達は自らの体験を通し、自分の力を本当に認識した時、その力を利用して、もっともっと多くの事を達成できるようになります。何でも創造してください。私達の内なる意識の場で全てを知ってください。それが最終的に宇宙を動かしている宇宙意識でもあるからです」

p258
「神の心は一つのもので、それだけが唯一の現実です」チャールズ・フィルモア

p261
ジョン・アサラフ
「私たちは全員繋がっています。それが見えないだけです。『あちら』も『こちら』もありません。宇宙の全てのものは繋がっています。ただ一つのエネルギーの場なのです」
 私たちが全て一つだという観点から「引き寄せの法則」を考えるとその完璧さがわかるでしょう。
これで、なぜあなたが他の人に否定的な思いを抱いた場合に、それがあなたに戻って来て、なぜあなた自身を害するかが理解できるでしょう。私たちは一つなのです!
 あなたが否定的な思いや感情を放射し、害を現実化しなければ、あなたは害される事はありません。あなたには選択する自由意思があります。あなたが否定的な思考をして、否定的な気持ちになると、こと一つであることや全ての善から自分を引き離してしまうのです。あなたには否定的な思考が、全て恐れに基づいていることがわかるでしょう。恐れは分離の思考、自分が他の人から切り離された存在だと思うことから来ているのです。
(このあとも非二元的ととれる文章が続くが、ちょっと長いので省略)

p278(秘密のまとめの中の一節)
私達はみんな繋がっていて、すべては一つです。

時々、ネット上で、「引き寄せの法則」と「非二元の教え」をごちゃ混ぜにしている人を見かけますが、ひょっとするとそれはロンダ・バーンからきているのかもしれません。私としては「引き寄せの法則」は「非二元の教え」とは相容れないと思っています。

他の四冊も内容を検証してみましたが、どれも完全な「引き寄せの法則」本です。

「ザ・マジック」・・・魔法の実習法の書。28日間の実習によって引き寄せる。
「ザ・パワー」・・・ザ・シークレットの続編。この本では、イエス、仏陀、ハーフェズの言葉までも引用して「引き寄せの法則」を補足している。
「ザ・シークレット日々の教え」・・・一日一ページの日めくりになった言葉で「引き寄せ」を実践する。
「ザ・シークレット人生を変えた人たち」・・・引き寄せた人たちの実例集。

五冊の本を検証してみましたが、ここまでのところでは、ロンダ・バーンは非二元の語り部ではなく、「引き寄せの法則」の人です。これを非二元について書かれた本だと読むのはかなり無理がある。そのロンダ・バーンが、「ザ・グレイテスト・シークレット」では非二元について書いている。

次回につづく。

2023/10/24

引き寄せの法則

私は、いわゆる「引き寄せの法則」を全く信じていません。「引き寄せの法則」というのは、強く信じていると、それが現実化するという教えです。この類の教えは、「引き寄せの法則」という呼ばれ方をされるはるか昔からあって、時代によって、体裁を変え、説き方を変えて繰り返し説かれてきたものです。

私の場合は、「引き寄せの法則」系の教えをもう50年以上前から知っていて、その教えを信じては捨て去り、またしばらくしては信じては捨て去るということを繰り返してきました。最初は父からでした。父は当時、「信念の魔術」という本を私に読むようにと勧めてくれました。当時まだ中学生だった私は、この本を読んで、強く心に念ずれば、思考は現実化するのだと思うようになりました。

病この治りやすきもの」という本は、「治る、治る」と念ずることによって、病気が治るという本でした。その他に、本のタイトルは思い出せないのですが、ジョセフ・マーフィーの本も父のすすめで読んだ記憶があります。

それから月日は流れ、30代の頃に、弟が癌を患ったため、なんとかそれを思考の力で治せないものかと思い、生長の家の本(生命の實相全40巻)や日本教文社の本をたくさん読みました。それも、思考は現実化するという類の教えです。

それからしばらくして、強迫神経症、いろんな悩みや苦しみの時期があり、それを思考の力で乗り越えられないものかとナポレオン・ヒル関連の本に凝った時期がありました。また、ワクワクしたことをやれば、願望が実現するというのも一種の引き寄せと考えるなら、広い意味ではバシャールも引き寄せの教えかもしれません。

そしてまた月日は流れ、お金にひどく困った時期があり、思考の力でなんとかならないものかと思い、エスター・ヒックス(エイブラハムの教え)やロンダ・バーンの本を読んだ時期がありました。でも、そうした本に傾倒しても、しばらく必死になってやってみるものの、しばらくするとやめてしまうのです。

どうしてやめてしまうのかというと、いくら信じても念じても、何も思い通りにならないからです。お金も健康も恋愛も、何もうまくいかなかった。今だって、経済的に裕福でもないし、あえて嫌いな表現を使うなら、人から見れば負け組。家庭を持たなかったおかげで、世界を回る長期旅行はできたのですが、それだって、いい歳をしてバックパッカー宿ばかり泊まる旅でした。

社会的な成功とは程遠い人生で、人生は苦しみの連続であるというのが私の人生観です。そういう人生観を持っているからそうなるのだというのが、「引き寄せ」本の常套句なのですが、初めからそんなふうに思っていたわけではなく、人生は思い通りになると思っていた時期もありました。でも、人生が思い通りにいっている人は精神世界の本なんか読まないし、引き寄せの法則なんかに興味を示さないのではないでしょうか。苦しいから、解放されたいと思ってあれこれの本を読み、探求をするのではないでしょうか。

もちろん今では、そんな「私」は実在ではないと知っているので、何も問題はありません。セイラーボブに出会えたのは友人のおかげですが、まったくの偶然であり、非二元の教えに出会いたいと思っていたわけではなく、むしろエンライトメントしたいと思っていました。それなのに、エンライトメントはないだなんて、ひどい。

引き寄せの法則は、非二元の教えとは関係ないと思っています。セイラーボブや、その関係者から、引き寄せの法則の話を聞いたことはありません。そもそも非二元の教えでは、私たちの生きている現実は幻想であり夢なのですから、その幻想や夢の中での成功を目指してジタバタするのは意味がないような気がします。それに、セイラーボブの教えでは、思考は起こってくるものであり、それを自分でコントロールすることはできないというのが基本です。

なぜこんなことを書いているかというと、カリヤニ、ピーターと話をした時、日本ではどんな非二元の本が読まれているのかと聞かれたため、日本で出版されている非二元の教師の名前を何人かあげたあとで、精神世界の本の中でも、非二元という分野はマーケットが小さくて、あまり読まれておらず、むしろ願望実現のためのロンダ・バーンのような本の方が売れている、ロンダ・バーンなんてちっともよくないと私は言いました。

すると二人が、驚くべきことを教えてくれました。ロンダ・バーンは、カリヤニのミーティングにも出たことがあり、カリヤニからいろいろと学んで本を書いたが、その本は引き寄せの法則のさらに上にある教えの本として、「ザ・グレイテスト・シークレット」を書いたというのです。

私が読んだのは「ザ・シークレット」が最後で、その後のロンダ・バーンの本は気にもとめていませんでした。ザ・グレイテスト・シークレットは2021年4月発行なので、最近はもうあまり精神世界のコーナーへは行かない私が知らないのも無理はありません。

それにしても、引き寄せの法則の教えのロンダ・バーンが非二元の教えの本を書くとはどういうことだろうと思いました。それまでの自説を曲げて、もっと上の教えがあるよなんて本を書く変節漢は許せないと思い、そんなのは良くないのではと言ったのですが、カリヤニはロンダ・バーンのことを悪くは言いませんでした。

家に帰ってからロンダ・バーンの本を読めばいいかと思い、それ以上のことは聞きませんでした。帰ってきてさっそく図書館へ行き、ロンダ・バーンの本を調べたところ、多治見市図書館には7冊のロンダ・バーンの本がある。非二元の本なんて、誰の本も一冊も置いてないのに、ロンダ・バーンだけで7冊もある。人間の欲望の深さが知れようというもの。

そのうち2冊は貸し出し中で、肝心のザ・グレイテスト・シークレットは貸し出し中だった。いつ返却になるかわからないので、しかたなく、ザ・グレイテスト・シークレットはAMAZONに中古を注文し、在架の5冊を借りた。

次回に続く。

2023/10/20

カリヤニとピーターがやってきた。

「10月になったら、観光旅行で日本に行くから、機会があれば会いましょう」というメールをもらったのは4月のこと。待つこと半年。日程が届いたら、京都がメインの旅。京都なら日帰りできると、カリヤニ夫妻に会ってきました。

8年前、カリヤニとピーターは私をメルボルンの自宅に招いてくれて、ボブを囲んでとても親切にしてくれた。カリヤニには、その翌年にも会っているが、ピーターとは8年ぶり。何か手土産をと思ったが何にしたらいいのか思いつかない。名古屋には美味しい銘菓はたくさんあるが、それをオーストラリアの人が美味しいと思うかがわからない。あれこれ考えたあげく、スーパーで売っているお菓子をたくさん買って、浮世絵の絵はがきを添えて持っていった。


海外のスーパーに行っていつも思うのは、日本のように美味しいお菓子が売っていないということ。メルボルンのスーパーでは、せいぜいポテチ、クッキー、ビスケット、チョコレートぐらい。万一口に合わなくてもお土産にしてもらえばいい。


新幹線に乗って、ちょっとした旅気分。名古屋から30分で到着。彼女たちの旅の時間の多くを使ってしまっては申し訳ないし、会って話をするだけで十分だと思っていたので、午後に待ち合わせ。さりとて半日あるので、カリヤニのホテルから歩いて行ける範囲をちょっと観光して夕食を食べる計画。

ホテルのロビーで再会の挨拶。お茶を飲みながら、今日の打ち合わせ。さっそく歩いて八坂神社へ。

本殿の前で、「お賽銭を投げて、二回頭を下げて、二回手を叩いてお祈りする」と手本を見せたら、ピーターも同じようにやってお祈り。
「みんなは何をお祈りしてるの?」と聞くので、ここは縁結びの神様として有名だから、良いパートナーが見つかるようにとお祈りしてるよと教えたら、
「ひえ~つ、もうカリヤニがいるから要らないよ~」だって。
カリヤニがおみくじを引いたら中吉でした。


丸山公園を抜けて知恩院へ。友禅苑という庭園を見学。カリヤニもピーターも日本庭園が大好きだそうで、喜んでもらえた。


さらに歩いて祇園の花見小路通へ。平日だというのに、結構な数の外国人観光客でにぎわっていた。やっぱりここが外国人にはうける。

さて夕食。もちろん京都には何回か来たことはあるが、最後に来たのはもう15年ぐらい前。全然詳しくない。ネットで事前に夕食の店をあれこれ検索してみたが、どの店が良いのかよくわからないうえに高い。どうしたものかと思ったが、気取った店なんかより、私がいつも行くような庶民の行く店がいいだろうと思って、スシローにしようと思った。事前にネットで調べたところ、四条にあるスシローは外人観光客に人気で、予約しても1時間以上待たされることがザラだと口コミにあった。

何か他にないかとGoogle mapを見ていたら、くら寿司がある。くら寿司は全然混まないと判明。しかも、そこは個室風のつくりになっていて、まだ多少コロナを恐れている私にはもってこい。くら寿司で夕食。全然混んでなくて、待ち時間ゼロだった。メルボルンにも回転ずし屋は何軒かあり、彼女たちもよく行くという。でも、本場日本の回転ずしだから、これでいいのだ。

夕食後、また歩いてホテルへ。ホテルのロビーでお茶を飲みながら、またお話。この旅のこと。お互いの近況。非二元の話など。街歩きをしながらも、あれこれと話をしたが、話は尽きない。

メルボルンのカリヤニの家に行った時、とても大きな家と庭に驚いたが、そこは山火事の多いところなので、引っ越す予定だと言っていたのを思い出し、引っ越したのか聞いたところ、携帯に入っていた新しい家の庭の写真をたくさん見せてくれた。

ピーターはガーデニングが好きだそうで、自分で庭を手いれしているという。その庭がどうみても大きい。藤棚のコーナー、日本庭園風のコーナー、木がいっぱい植えてあるコーナーなどがある。「今度の家も馬鹿でかい(huge)家だね」と言ったら、「そんなことはないよ。日本の家に比べたら大きいけど、オーストラリアでは普通だよ」とピーター。そういう問題じゃないでしょ!

非二元の話では、彼女たちがU.G.クリシュナムルティに会った時の話がとても興味深かった。非二元の話には、いくつか参考になるような話があり、シェアしたいと思いますが、長くなってしまうので、また別の日に書きます。

話は尽きないが、二人の貴重な旅の時間をあまり多く使わせてもらってもいけないと思い、一時間半ほど話したあとで帰路につきました。別れ際、まだコロナの影響もあるいし、握手をしたものかどうかと一瞬迷っていたら、カリヤニがしっかりハグしてくれて、ホッペにチュー。ピーターもがっちりハグ。あちらにしてみたら、ごく普通の挨拶なんでしょうけど、こっちは慣れないので照れることしきり。

二人に会って思ったのは、彼女たちはまぎれもなく非二元の教えを体現して生きているということ。私と話をするときも、しっかりと目を見て話し、決して上から目線ではなく、気取ることもなく、あなたも私も同じ一つのものだよという雰囲気を感じさせる。一緒にいて、なんともいえず心地良い。

非二元の教えを理解することはそれほど難しくない。でも、それを体現して生きることはそれほど容易ではない。さらに、それを体現して生きている人が、非二元の教師となって教えることは誰にでもできることではない。非二元の教師になること自体はそれほど難しくない。誰かの教えを読んで、丸暗記するか少しアレンジして、あとはオウムのように繰り返しそれを話せばできる。

ただ、その人が心底教えを体現して生きているかどうかが問題。それは、その人に直接会って、目と目を見つめあって話せばわかる。それはボブが言うところの「共鳴」であり、「heart to heart」というもの。

カリヤニとピーターは、もう何十年も非二元を教えていて、不定期ではあるものの、今もミーティングを続けている。本物の非二元の教師は稀有な存在であり、教えを理解したからといって、誰でもなれるわけではない。なったとしても本物であるかどうかはすぐにバレてしまう。カリヤニとピーターは、信頼に足る非二元の教師。

カリヤニとピーターとの再会は忘れられない思い出になりました。帰ってきて、カリヤニとピーターのホームぺージやYouTubeを見返していたら、参考になるようなことがいっぱいある。了解が得られたら、少しづつそれもブログに載せていきたいと思います。

2023/10/17

私の探求は終わった

私はあらゆる場所を探求して、自らの疑問に対する答えを見つけようとした。
「そこにエンライトメントはあるのか?」
だがしかし、探求そのものに疑問を抱いたことはなかった。
エンライトメントは存在すると思い込んでいたため、探求しなければならなかった。
探求そのものが私を窒息させ、自らの自然な状態から遠ざけていた。
精神的にも心理的にも、エンライトメントなどというものは存在しない。
なぜなら、魂や精神などというものは全く存在しないからだ。
私は生涯を通して、ありもしないものを探す愚か者だった。
私の探求は終わった。
                              U.G.クリシュナムルティ

2023/10/13

悟りなどというものはありません

 「悟りなどというものはありません。完全なる命が、一人ひとり、そしてあまねくすべてのものとして出現している。ただそれだけです」
                               
U.G. クリシュナムルティ


“There is no such thing as enlightenment, only the perfection of life arising as each person and every thing.”
ーU.G. Krishnamurti

2023/10/10

人とは、単なる記憶にすぎない

人とは、単なる記憶にすぎない。
あなたは、植え付けられた知識によって周りの物事を理解する。
あなたはおそらく現代芸術を理解するためにはそのアーティストの説明を必要とするだろうが、花を理解するためには誰の説明も必要としない。
あなたはどんな事にも対処できる。
あなたはどんな事もできる。
もし、ありもしない想像上のゴールを目指してエネルギーを浪費しなければ。
                                                                                              U.G.クリシュナムルティ

2023/10/06

意思の果たす役割は何ですか?

ミーティング2023.10.10 36:53から

質問者:意思の果たす役割は何ですか? 私の言っているのは、注意を意図的に向ける能力、意思のことです。

ボブ:もしそこに生(life)がなかったら、あなたに意思はありますか?

質問者:ですから私はあなたにそのことについて話してもらいたのです。それが重大な鍵だと知っています。それは未解決の質問です。

ボブ:あなたは今、生きていますか? それで、あなたの役割は何ですか?

質問者:私は今、認識しています。

ボブ:あなたの役割は、その質問をすることです。

質問者:そうなんですか?

ボブ:よくわかりませんが、あなたは質問しています。

質問者:どのようにして、ボブという人間が、自分はそれであるということを知るようになったのですか? その当時それが起こった時、ボブの注意力の果たす役割は何でしたか?

ボブ:私が指摘するのは、役割があると思っていたボブには、役割はなかったということです。彼には役割があると思っていたために、問題をかかえていました。そこに誰かがいると思っているときは、いつも問題があります。そこには、ただ生(life)だけがあり、あなたはその生(life)なのです。あなたのまわりに現れているあらゆるものは、その生(life)の表現です。誰、あるいは何がそれから分離しているでしょうか?

質問者:私に尋ねているのですか? それとも(一同笑い)

カット:ええ、それは考えるまでもないことです。でも、それはたびたび尋ねられる重要な質問、自由意志という幻想についてです。それはたやすく見破ることができます。たとえば、意思が注意力となって、特定のものをボブ、花、部屋として見つめます。そこには選択をしている誰かがいるのか? それとも、単なる思考が意識の中に現れているのか? そしてその思考に続いて、意識の中に行動がやってくるのか? 自身が、特定の物事が存在するということの信者であることを選んだのか? 特定の音楽や食べ物の好みを自分で選んだのか? 

それともそれは、体の条件付けによって、単に意識の中に現れたのか? 私たちがその中に深く入っていくことによってそれがわかります。行為者、コントローラー、自己という幻想が、いかに余分なものであるかということがわかります。生ははるかにシンプルなことです。幻想が邪魔しなければ、生はもっとシンプルに展開していきます。なぜなら、苦悩も邪魔しなくなるからです。

動物を見てみると、どうやって獲物を捕まえるのか? たとえば、ライオンがアンテロープの群れを襲う時、どうやって一匹を選ぶのか? そこに意思、意識的な選択があるのか? いいえ、それは本能です。体の条件づけによって獲物を選び、本能的にそれを追いかけるのです。私たちも同じです。でも大きな違いがあります。私たちの頭の中にはコメンテーターがいて、いつも物語を語っています。

そこには、食べる事、交尾をする事などへの欲求があります。そしてそこにはコメンテーターがいて、「いや、これは私だ。私がやっている。私が選択している」と言います。そして、幻想の「私」にだまされるのです。その「私」は物語の中にだけ存在します。それが人間の条件付けとなり、苦悩、感情的心理的苦悩を生み出すのです。

途中省略

1:04:25から、カビーシャが、スーフィの詩人ハーフェズの詩の歌を歌いました。

Beyond the idea of right doing.
Beyond the idea of wrong doing.
There is a field.
A beautiful field.
I'll meet you there.

善悪の思考を超えたところにある場所
そこには美しい場所がある
そこであなたと会いましょう

****************
ボブが lifeと言う時、「命」と訳した方がいいのか、「生(せい)」と訳した方がいいのか、いつも迷います。時には「命」と訳し、時には「生」と訳しています。いわゆる生物ではないものも lifeの現れとして現れているとボブが言う時、命と訳すと違和感があるような気がします。
あらゆるものが、一つの lifeあり、一つの生、一つの命なのだという意味です。言葉には限界があります。

2023/10/03

あるともないとも言えません

鏡の中には何が見えますか? 反射です。
反射しているものは鏡の中にはないとは言えませんね?
でも、鏡に近づいていって、反射しているものを掴もうとしても、それがそこにあると言うことはできません。
あるともないとも言えません。
でも、鏡は反射によって汚れることはありません。鏡は反射が現れるための基盤です。
それを今理解してください。反射かどうかを調べるために、鏡の中へ入ることはできません。
                                   セイラーボブ

2023/09/29

もしあなたが問題を認識したなら、あなたは問題を手に入れたことになる

2023.9.24ミーティング  59:55から

ギルバート:調査することは不可欠です。そして、その調査は誰がやっているのか? でも、ただ単にそれは印象(impression)にすぎないと認識することです。まわりを見渡してみると、印象がどこかに現れています。観念としては、それはここ(自分を指さして)、私、自身、何と呼んでもいいですが、「私」がそれを見ているとなります。

でも、おそらくそれは真実ではありません。おそらく、印象は、まさしくそれがある場所で起こっています。例えば猫を見る時、猫という印象は、まさしく猫がいる場所に現れています。でも、それはここ(自分を指して)に現れているという催眠にかかっています。そして、「私が見ている」というのは、分離した考えです。

なぜなら、顕現の中のどんなものの間にも実際には距離はないからです。それは、アウエアネス(意識)、あるいはコンスシアスネス(意識)の動的な現れであり、それには分離はないからです。あなたはそれです。それゆえ、私は分離した存在・人であるという思考は催眠術のようなものです。それは泡のようなものであり、はじけます。きれいな泡がはじけると、消えてしまい、子供は泣きます。

あるいは虹。虹を見つけて掴もうとしても、消えてしまいます。あなたが子供だったら、虹のふもとにあるはずの壺に入った金貨が掴めなくて、がっかりします。でも、その印象はどこに現れているのかを調べると、そこには分離はありません。知る働きは、エネルギーの動きであり、意識の動きです。すべてはそれなのです。分離はなく、すべては知る働きの活動なのです。

その活動は、私たちが見る世界の活動と同じものです。私たちは犬が野原を横切るのを見ます。それは同じものの同じ活動なのです。それは物ではありません。すると、すべてのものは分離しているという考えは崩壊します。それは、時間と空間の中の出来事ではないのです。

最近、インタビューを受け、「あなたの旅はどうでしたか?」「あなたの物語は何ですか?」と尋ねられましたが、それは間違っています。そうやって人々は個人に関連づけるのです。彼らは物語を聞きたいのです。「どうやってそれを手に入れましたか?」「それはどんなものですか?」。そうしたことは、誰かに投影した物語にすぎません。

「ボブ、あなたはエンライトメントした。それはどんなものか、教えてください」「エンライトメントするとはどんなふうですか?」といった具合です。私たちは、真似をすることで話すことを学びます。親が話すのを聞いて、音を真似します。鳥や動物たちも同じことをします。私たちには真似する能力があります。でも、それは私たちの本性ではありません。

私たちの本性は、すでに完成されたものです。それに何かを付け加えたり、取り除いたりする必要のないものです。それは輝いています。すべての人からその知性エネルギーが輝いています。いわゆる憂鬱や苦悩のせいで、曇っているように見える人もいますが、それは単なる幻影です。

空(そら)にとどまる雲はありません。太陽を不鮮明にする雲はありません。太陽ははるか遠くにあります。ボブが指摘したように、太陽が雲を作ります。海から水が蒸発して、水蒸気となり、雲となります。望遠鏡で雲を見ると、とても興味深いものが見えます。それは静止しておらず、動いています。水蒸気が空間の中へと消え、 空間から水蒸気が現れています。大きな白い球が絶えず変化しています。

宇宙には、どこにも静止した地点はありません。でも、自己の中心という思考が、うわべ上の静止した地点となり、あらゆる苦悩を引き起こします。それは実在ではありません。誰が問題を手に入れているのかを調べてみてください。何年か前に、ボブに向かって何か不満を言った時のことを覚えています。ボブは私にこう言いました。

「もしあなたが問題を認識したなら、あなたは問題を手に入れたことになる」(笑い)

2023/09/26

それは、疑い深いマインドで理解するよりもシンプルなことです

あなたはそれがわかった。でも・・・。あなたは理解した。でも・・・。
本当に? いいですか、「でも」は一瞬にしてあなたを現在から連れ出します。
というのも、「でも」は、未来の異なる状況を意味するからです。
それは、今ここにあるものではありません。それは、今この瞬間ここで、あなたが持っていない何かを意味します。
その繊細さを見てください。
あなたが心を開いて聞いている時、あなたはまさにその中にいたのに、どれほどすぐに「でも」がやってくるのか?
それは、疑い深いマインドで理解するよりもシンプルなことです。
                                    セイラーボブ

2023/09/22

それは言葉によるものです

2023.9.17ミーティング 0:37から

ボブ:みなさん、おはようございます。みなさんに会えてうれしいです。生(life)、そしてエネルギーがこの部屋の中に現れているのがわかります。私たちみんな、それぞれが、それをこの部屋にもたらしています。そしてそれが、私たちの話している非二元についてです。世界で最もシンプルなことです。非二元、二つではない。

それは、いにしえのすべての聖典で語られています。異なる言葉で語られ、うわべ上では分割しているように思えますが、それでもそれは非二元について語っているのです。一つのもの。もしそれが指し示していることが本当なら、どこへ行って、何をする必要があるでしょうか? もし、一つのものしかないのなら、探求をする必要があるでしょうか?

それが、それ以外のものとなることができるでしょうか? それから何かを取り去ることができるでしょうか? それは、私たちの目の前にあるのに、認識されておらず、無視されています。というのも、私たちは言葉を学んだからです。言葉によって、その他の観念、思考を手に入れ、分割できないとはっきり言われているものを、うわべ上で分割したからです。

それは、互いに依存しあっています。あらゆるものが、何か他のものと依存しあっています。そうしなければ、存在しえなかったし、これからも存在しえません。でも、言葉を使うために、分割できないものを、うわべ上では分割しています。

一つは、究極のものです。二つはそれ以外のものであり、それが一以外のものとなって現れ、問題となります。もし今そのことを考えなかったら、何が問題ですか? 物事は起こり続けています。それは死んだものや終わったもの、静止したものではりません。機能は働き続けています。一つのものを分割することができるでしょうか? 

一つのものが存在しなかったら、他のものは存在するでしょうか? 私たちは、エンライトメントしようとか、何かを成就しようと考えます。でも、もしあなたが、もうすでにそれだったとしたら、何になろうとして、何を成就しようというのですか? それゆえ、今それに気づいていようがいまいが、あなたはそれであるという事実から始めなさいと言われているのです。

どんな方法であろうと、そのことを認識していれば、それが存在するすべてあるということが絶対的に確かなことです。そしてそれがパターンとなり、無数の異なる姿形となって現れています。でも、それを分解してみると、すべては生(life)、エネルギーなのです。私たちはそれに異なるラベルを貼り付けます。神、偉大な存在、劣った存在、あれやこれや。そうした言葉によって、それを分割します。

みなさんの中に、自分は分離して存在していると思っている人はいますか? 調べてみてください。それは不可能だとわかるでしょう。そこには何か別の異なるものがあるように思えるですが、それはすべて一つのものです。そこには、異なる別のものはありません。そして、それは真実です。それは、何の中にありますか? 調べてみてください。この部屋の中の「私」や人々は今、この部屋の中にいますか?

その部屋は、何の中にありますか? それは空間(space)の中にあります。では、空間とは何ですか? 空間には中心がありますか? 境界は? ここから始まったという場所や、終わりはありますか? それとも、それはただあるがままですか? いわゆるこの体はパターン、姿形となって現れています。それは一見強固なものに見えますが、それを顕微鏡で見てみると、そこにはたくさんの隙間、空間があるということがわかります。

空間は、無/何ものでもないもの(no thing)です。中心や境界を見つけることはできません。私たちは、あちこちで空間を見ますが、その中心を見つけることができますか? 一羽の鳥が空を飛んで、空間の終りまで飛ぶぞと言うようなものです。それはどこにたどり着くことができるでしょうか? どこが終わりでしょうか? 始まりは? 無/何ものでもないものは認識する空と呼ばれています。空間は空です。

空。無/何ものでもないもの(no thing)。無/何ものでもないものから、何かがやってくることができるでしょうか? もし、私たちみなが、空間の内容物であるなら、空間の外へどうやって出ることができるでしょうか? できません。それは確かなことであり、いつもそうでした。でも、思考、感情、感覚によって観念化が始まります。それを見失って、あらゆる種類の観念、イメージが起こります。それは言葉によるものです。

2023/09/19

あなたは確かに知っています

人々は、「知的には理解できるのですが、それを体得(keep)することはできません」といいます。
どうして、「知的に」というラベルを貼るのですか?
理解しているか、していないかのいずれかです。「知的に」というラベルを貼ることによって、ふたたび分離を生み出しているのです。
あなたは知っているのに、知りたくない・・・。
あなたは確かに知っています。あなたは、「知らない」ことが現れる知る働きなのです。
「知らない」がやってくるたびに、その知る働きがなければ、「知らない」は現れることができないということを理解してください。
                                    セイラーボブ

2023/09/15

言葉は決してそれではありません

2023.9.10ミーティング 50:26から

ギルバート:何年も前、ボブはよくオークの木のどんぐりの話をしました。それぞれのどんぐりは、オークの木で地球をおおう潜在能力を持っています。それを臼にいれて粉々にすると、それは粉末になって吹き飛ばすことができます。すると、その潜在能力はどうなるのか?と、ボブはよく言ったものです。

それはどこからやってきたのか。一本のオークの木には、おそらく2000から3000のどんぐりが実ります。それらはお互いのことを知りません。彼らは、とても似かよった兄弟姉妹です。でも、何らかの共通点があります。それらは、地球、つまり大陸をおおう潜在能力があるのです。

では、私の潜在能力はどこにあるのか? あらゆるものが現れ出る究極・無限の潜在能力とは何なのか? そして、私はそれと分離しているのか? どうして私がそれと分離することができるだろうか?  観念上では、自身をそれから分離することはできます。可哀そうな私は何にもなりませんが、もし私がどんぐりだったら、オーストラリアをおおうことができるでしょう。

自身を調べてみることは、必須のことであり、本質的なことです。もし、苦難と混乱の人生を歩みたくないのなら、内側へ向きを変えて、見てください。目を閉じて、内側へ向きを変えて、その空間を見るのです。その空間には、後ろも左右も上下もありません。そしあなたが実際に注意深く調べてみると、それは空です。それは、あたかも空の舞踏場のようなものです。

そこでは、誰も自転車に乗っておらず、街角で枯れ葉をはいている人もいません。単なる空です。それは死んだ空ではなく、認識する生きている空であり、生(life)そのものです。おそらく、体は現れておらず、感覚が現れているかもしれません。目を開けた時だけ、体が形となって現れますが、すでに指摘されたように、私は体でもマインドでもありません。

私が体でもマインドでもないとしたら、私とは何なのか? 私とは何なのかを、対象物として実際に知ることはできません。それは純粋な主体、無限の潜在性の現れに違いありません。それは、一粒の種のようなものです。ニサルガダッタが言ったように、それは意識の種なのです。それは永遠に新鮮で永遠に新しいものが自身を表現しているのです。

オークの木を切り倒して、小さな破片にしても、それはどんぐりには戻りません。過去を未来にすることも、未来を過去にすることも、オークの木をどんぐりに戻すこともできません。また、その必要もないのです。なぜなら、生(life)が私たちとして、永遠に新鮮で永遠に新しいものとして、観念なしで、言葉なしで表現しているからです。

「私」とは何か? それを否定することはできません。言葉では、言葉がやってくるところのものを表現することはできません。今までの人生で語ったことすべてを、取り戻すことはできません。それは表現です。良いものもあれば、それほど良くないものもあるでしょう。そういったたわ言に対して、自らを罰することも可能です(笑い)。他の人が私を罰することでしょう(笑い)。ええ、実際そうでした。

「私」とは何なのか? 「私」とは何なのかを、対象物として知ることはできません。それは主体であり、無限の潜在能力。常に自身を表現する永遠に新鮮で、永遠に新しいもの。過去に語られたすべての言葉をもってしても、それを言い表すことはできません。誰かによって語られ、あるいは書かれたものでも、永遠に新鮮で、永遠に新しいものを言い表すことはできません。それは、腐ってしまうような、新鮮で新しいパンではないのです。

それは毎瞬毎瞬新鮮で新しいもの。毎瞬という言葉さえ時間を意味せざるえませんが、それには時間はありません。時間も死もない存在(spirit)なのです。私たちは言葉でそれを表現しますが、言葉は決してそれではありません。

2023/09/12

あなたは、みずから輝く、永遠に新鮮な、非観念の存在意識です

太陽は光です。光とはエネルギーの別名です。それはあなたの目を通して輝きます。それはあなたの目を通して放射されます。
クリスタルを太陽にかざすと、何が起こりますか? 光は違った色、パターンとなるのでしょう? 中に何が見えますか? たくさんの色、パターンが見えませんか? 
そのエネルギーのパターンは堅固で実在しているように見えますが、それも知性エネルギーなのです。
あたかも、クリスタルの中に知性エネルギーである光が放射されて輝くように、その中に世界や物事を作り出すようなものです。
あなたは、みずから輝く、永遠に新鮮な、非観念の存在意識です。ただそれだけ。他には何もありません。
                                    セイラーボブ

2023/09/08

誰が努力をするというのですか?

2023.9.03ミーティング 46:13から

参加者:ボブ、ありがとうございます。あなたがおっしゃることには多くの気づきがあり、理性的なレベルではよくわかります。でも、それを体験的に習得することは私には困難です。私は聞きたいのです。私はインドの出身ですが、私たちは、言うならば異なる思想体系や内面の技術に接してきました。

長年かかって発展してきたヨーガ、タントラ、あるいはダルマなどの体系には価値がなく、そうしたことを試みることは的はずれだと、おっしゃるのですか? 私たちが理解、把握すべきことは、今この瞬間、ここだけであり、どんな努力も無駄だとおっしゃるのですか?

ボブ:あなたが調査をして、努力をする人がフィクションであるということがわかったなら、誰が努力をするというのですか? でも、一方では、あなたがそれをやると信じています。あなたが、あなただと信じているものが、くるりと向きを変えて調べるのですが、そもそも、生の本質(life essence)があなたを通して働かなければ、その行為もまったく起こりません。

生(life)があなたの行くべきところへ運んでいくのです。それが常に働いています。経典の中では、私たちの問題は無知であると言っています。それは私たちが鈍いとか愚かだと言っているのではなく、目の前にあることに背を向けていると言っているのです。あなたはそれであり、それがすべてだと言っているのです。でも、私たちはそれを信じることなく、その前にあれをやらなくては、これをしなくてはと言うのです。調べて、見てください。

ギルバート:あなたは、あらゆるやり方で、あらゆることを分割することができます。でも、段階的な道、例えばヨガ、宗教、キリスト教、善良なら天国へ行けるといったことはどれもみな、未来のことです。そこには、何かをしなくてはいけない誰かがいます。そして、このメッセージは、段階的な道を信じている人にはまったく人気がありません。

なぜなら、人々はエネルギー、時間やお金を段階的な道に費やしているからです。そうした人々は、「私はスピリチュアルな道の上を歩いている」と言います。でも、彼らはあなたに、その道の上にある小石一つさえ見せることはできません。なぜなら、それは比喩的な道だからです。

スピリチュアルな道などというのもは存在しません。それは単なる言葉です。そして、人生をスピリチュアルな道に捧げるというのは罠なのです。なぜなら、あなたが将来なろうとして費やしている人というのは、費やす必要のないものだからです。

「あなたはもともとそれなのだ、というところから始めなさい」とボブは言います。そして、あなたをそのことからそらしてしまうものを見てください。私たちを、それから引き離してしまうのは思考なのです。思考の流れが過去や未来へと導くのです。それは、この瞬間の直接性の中に存在することはできません。

なぜなら、実際には持続する時間はないからです。それは単なる微妙なバイブレーションです。でも、私たちはそうした思考に巻き込まれます。一つ例をあげると、誰かが、「私は良くない。私は何も達成していない」と言います。これはマントラです。仏陀は、「私たちは思考によって世界を創造する」と言いました。

誰かが、「私は良くない。私は何も達成していない」と言う時、それがマントラとなって、人生の体験を形成します。そしてその体験が、人をこのマントラの罠にはめるのです。マントラは、あなたのマインドが絶えずあちこちへとさまよっている時にはとても有効なものです。もしあなたに、グルや誰かから授かったマントラがあると、とても有益なものとなります。

なぜなら、あなたがマントラを唱えている間は、思考の流れが引き起こす通常のナンセンスに関わらずに済むからです。マントラを唱えている間は、成就の可能性が高いように見えるのです。アウエアネスはいつでも束縛はされていないのですが、本当の私を認識するということが、マントラを唱えている間は、よりたやすく思えるのです。

でも、思考の流れに囚われて、絶えず未来に何かを達成しようと努力していると、たとえば、瞑想やヨガ、教会へ行って祈るとか、そうしたことをすることで、「私」という未来の存在に関わることになるのです。ですから、ボブが言うように、この『私』が見つかるか調べてください。

彼がよく語るように、愚か者がやってきて、「ボブは『私』はいない言っている。彼は正しいのか間違っているのか?」と言うのです。あなたは自分で調べなくてはいけません。誰もあなたの代わりにはやってくれません。そしてそれは、実はとてもシンプルなことです。内側へと向きを変えて、見てください。この「私」を見つけることができるのか? あなたがそれを見つけることはありません。なぜなら、それはフィクションだからです。

そのフィクションの奴隷でいることは、まったく不要なことです。あらゆる心理的な苦悩がそこからやってきます。あらゆる可哀そうな「私」は、この分離した存在からやってきます。でも、分離は存在しません。ボブは、最初の本やその他の本の中で明確に指摘しています。「子供は、この『私』という言葉を学び、ある時点で外側の世界に目を向けると、そこには、『私』ではないものがある。それから傷つきやすさが生まれます」。なぜなら、あらゆるものが「私」ではないからです。

もしあなたが傷つきやすければ、この「私」という考えの周りに何らかの砦を築こうとします。でもそれは苦悩となるだけです。それは実在ではありません。でも、このことは人気がありません。ニューヨークタイムズも7時のニュースも取り上げません。ニュースの対象にはなりませんが、このメッセージはとてつもなく驚くべきものです。そしてそれはとてもシンプルです。私の言うべきことは以上です。

2023/09/05

何かをしようとすることで、それを妨げてしまうのです

もし、そのことを考えなかったら、どんな条件付けがあるでしょうか? 人々は条件付けについて話します。もし、そのことを考えなかったら、座って瞑想する必要も、どこかを探したり、条件付けを取り除こうとする必要もありません。
善良な人でありなさいと言われるかもしれません。でも、自愛や愛情やその他のことを身に着けようとすることは、それをしようとする存在がいることを意味します。
あなたは、自然の愛を見つけるでしょう。それは今この瞬間にここにあり、何かをしなくても、自然に努力なく現れています。
何かをしようとすることで、それを妨げてしまうのです。
                                   セイラーボブ

2023/09/01

Stop it!

2023.8.27ミーティング 48:13から

ギルバート:それは、「私」にまつわる悲しい物語です。悲しい悲しい「私」の物語。あたかも、自身のイメージが地面深くの箱に入っているようなものです。誰かがやってきて、「私」をこの箱から出してくれないかと期待しているのです。

それは悲しい物語です。というのも、誰もそれを掘り起こしてはくれないからです。すなわち、自分以外は誰も調査をすることができないからです。それは、「私」ではないのですが、それでも私にかかっています。意識それ自体が調査しなくてはいけないのです。

抑圧(depression)という言葉は、何かが押しつぶされているということを意味します。私は抑圧されているという時、調べてみるのです。誰が抑圧されているのか? 誰が悲しんでいるのか? 誰がその物語にふけっていて、その奇妙な楽しみを得ているのか? 以前誰かが私に、「誰も楽しんでいないのならどうなるのか?」と言いました。

でも、自己を中心とした活動にふけるということは、何らかの見返りを受け取っている何かがいるに違いありません。その見返りを受け取っているものを見つけてみると、それは「私」であり、フィクションなのです。

あなたは、悲しい「私」の物語と一緒に生きたまま箱に入って埋められていますか? 私はあなたに二語の言葉を贈ります。「メモする必要がありますか?」。いいえ。たった二語だけです。

Stop it!

2023/08/29

あなたは自ら輝く、永遠に新鮮な、非観念の存在意識です。

ゾクチェンの経典で言われているように、あなたは自ら輝く、永遠に新鮮な、非観念の存在意識です。
ただそれだけ。他には何もない。
あなたはずっとそうであったし、これからもずっとそうです。
自身を過小評価しないでください。
20年かそこらかかって探求したことを捨てて、自分が「それ」であると知って、この部屋を出ていくことができるのです。
これまでも、これからも「それ」であるというのは、すばらしいことではないですか?
それ以外のものにはなり得ないのです。
始まりもなく、終わりもなく、誕生も死もなく、時間も空間もなく、体でもマインドでもない。
                                    セイラーボブ

2023/08/25

あなたに選択権がありますか?

2023.8.20ミーティング  52:23から

ギルバート:ボブの最初の本には数百のポインター(ヒントとなる言葉)があり、その中の一つに、「言葉は物ではありません。水という言葉を飲むことはできません」というものがあります。水という言葉を文字で書くことはできます。パソコンで千回書いて、一万回プリントアウトすることもできますが、それが水になることはなく、水という言葉を飲むことはできません。

言葉は実在(being)ではありません。思考は実在ではありません。そして、アウエアネス(意識)には思考がありません。誰しも同じです。もしそれを深く考えると、何が起こるでしょうか? アウエアネスには思考がありません。明晰さ(clarity)。明晰さは、手に入れる特質ではなく、すでにあるものです。それを普遍的な特性、あるいは存在という事もできます。

すべては明晰で明らかです。そして、人は何ものにもなることはできません。実際それは蜃気楼(mirage)にすぎません。蜃気楼の中の水を飲むことはできません。あなたが人を探しても、見つけることはできません。それは単なる思考、イメージ、記憶のかたまりにすぎません。「私」という記憶が犯人のように見えるのです。その「私」が、記憶の図書館の長なのです。

その私は、うわべ上では好みがあります。ある物事を思い出すのを好み、他の出来事を忘れるのを好みます。でも、「私」の記憶はフィクションです。存在(being)のことを、人は究極のものと呼びますが、それを何と呼ぼうと、ラベルはそれではありません。そして、非実在から実在への旅は実在ではありません。

分離した存在という幻想は実在ではなく、それをあなたはどうすることもできません。実在が非実在に対して何かしなくてはいけないことがあるでしょうか? それに何ができるでしょうか? それが何かをする必要はありません。非実在は決して実在になることはありません。

「What's wrong with right now if you don't think about it.」の最後がこの話だったと思いますが、それは、「くつろいで、ありのままでいなさい(Relax, and be what you are.)」という大文字です。そして、あなたに選択権がありますか?(Do you have a choice?)

2023/08/23

唯識(ゆいしき)・世界は実在するのか

佐々木閑 仏教講義 9「仏教の宇宙 その22」(「仏教哲学の世界観」第12シリーズ)

去年一年がかりで、仏教の中にある非二元についてこのブログに書きました。その中でも特に、唯識の思想がセイラーボブの教える非二元の世界に近いことを言っていると書いたつもりです。でも、あまり上手に書けなくて、最後は佐々木閑先生のYouTubeをたくさん転載させていただきました。

現在進行中の倶舎論の話はいまいち非二元とは関係ないなぁ、と思って見ておりましたが、今回、唯識の教えの要点を的確に語っておられます。佐々木先生はそれを「もやもや」「不思議な力」と表現してみえます。

用語も説明も違いますが、佐々木先生の説かれる仏教は、セイラーボブの教える非二元と根本的には同じではないかという気がします。仏教に興味がない人も、ぜひこのYouTubeを見てください。おおいに参考になると思います。

2023/08/22

ただ、そのままにしておいてください

考えることや思考を取り除こうとすることは抵抗です。そうすることで、それを留めさせてしまいます。
実在は、非受容、非拒絶、非執着、非分離です。
ただ、そのままにしておいてください。
そのままにしておくと、そこには二元性に対立する独立した個人という考えはありません。
分離した存在という考えがあると、二元性の中へと戻ってしまいます。
非二元性という観念もろとも、捨ててしまうほうがましでしょう。
                                    セイラーボブ

2023/08/18

恐怖には理由がありません

2023.8.13ミーティング 1:06:06から

アニータ:私は実際に自分に尋ねてみました。そして、ここには(体を指さして)何もないということは明らかです。皆さんがどう見ているのかは知りませんが、それは私にとっては知的なものです。でも、ここには何ないということは明白です。だとすると、どうして私は、自分が私だと思っている人とこれほどまでに同化しているのでしょうか?

私が同化しているのは、この体の中にある何かだと思えるのです。体があって、その体が「私」はいると信じているようなものです。そのことを確認するために座って瞑想して、体の境界を消すのです。私にはその訓練が必要に思えます。というのも、そうすると、そこには何もないということがはっきりするからです。でも、この自己同化がどこからくるのかわかりません。

カット:思考です。

アニータ:何?

カット:それは思考からやってきます。もしあなたがそのことを考えなかったら、それは存在しません。

アニータ:そのとおりです。

カット:思考がなければ、あなたは同化することはできません。あなたは、自分が存在するということを知っています。でも、思考なしでは、自分が誰なのか、それが何なのか、どこにあるか、大きいのか小さいのか、宇宙全体なのか、無なのか。思考なしでは何ひとつわかりません。でも、あなたは、自分が存在するということは知っています。

アニータ:そのとおりです。そして、そこにはたくさんの恐怖があるということを認めます。

カット:どうしてそれが恐怖だとわかるのですか? あなたはそれにラベルを貼り付けています。

アニータ:ええ、ちょっと子供っぽくありたいと思っている時があります。たくさんの恐怖が根底にあって、それが体に痛みとして現れているように感じるのです。そしてここへやってくると、そのことに意識的になる助けになります。

ピーター:それが助けになっている。

アニータ:そうです。夜、家に一人でいる時にはそういう恐怖があるとか、子供っぽい瞑想は全くしません。たくさんの恐怖があって、私が深く入っていくのを止めているように思います。深く入っていくと、恐怖がやってきて、それができなくなるのです。

カット:あなたはそれを恐怖と呼んでいますが、ボブの言うことを信頼していますか? あるいは、このことを理解している他の人の言うことを信頼していますか? そうした人たちが指摘していることが信頼できると思っていますか?

アニータ:ええ、完全に全く信頼していますが、しかし、

カット:「しかし」。いいですか。その「しかし」によって信頼を放棄して、ポインターを見失っているのです。あなたは聞いたことがないかもしれませんが、ボブは何度も指摘しています。恐怖は観念であり、ラベルです。でも、それはまた肉体的な要素もあって、知覚を伴い、心臓が激しく打つかもしれないし、呼吸が激しくなるかもしれません。でも、そうしたことは、すべて思考がもとになっていることです。例えば、サーベル・タイガーが実際に部屋にいるような場合を除けば、恐怖には理由がありません。

恐怖がそこに依然としてあるなら、それは思考がもととなっています。それはとても繊細な思考です。ボブが何度か他の人にアドバイスをしているのを聞いたことがありますが、恐怖に直面した時の最悪のシナリオは、あなたが気を失うことです。あなたは死にはしません。ほんの数秒気を失うだけです。あなたが受け入るべきことは、数秒気を失うだけのことです。でも、それはおそらく起きません。

なぜなら、たくさんの人たちがここへやって来て、「OK、私は見続けることにしよう。真実のため、真実が成就するために喜んで死のう」と言いました。でも、最悪のシナリオは、マインドがはったりを利かして、「おまえを殺す。それは危険だ。やめろ。私と一緒にいろ。同化していろ」と言います。でもあなたがはったりを見抜いて、「OK、私は見つける」と言います。そして、あなたは、決してそれが起きないだろうと知ります。

私がみんなから聞いたことによると、あなたがはったりを見抜くと、マインドがあなたを気絶させることは決してありません。あなたはそれを見抜き、マインドはリラックスして、何も起きません。恐怖には根拠がありません。もしボブの言うことが信頼できるなら、自分で確かめてみてください。自分で見てください。

あるいは、その恐怖に明け渡して、調査することを止めて悩んでもかまいません。その後で恐怖に直面してみてください。そしてそれがあなたを殺すと言うのなら、何を殺すのですか? 体? マインド? それはソフトウエアにすぎません。では、何が殺されるのですか? 

ギルバート:ストーリー。

カット:ええ、ストーリーです。

ギルバート:恐怖は常に未来にあります。

カット:ええ、良い指摘です。恐怖は未来、未知です。

2023/08/15

「今」はいつ始まりましたか?

顕現の中には、どこにも静止した地点はありません。それは自然に起こっていて、時間はありません。
「今」はいつ始まりましたか?
「今」と言ったとたんに、今は終わっています。
「終わった」と言ったとたんにまた始まっています。
それは自然に起こっています。そこには時間は存在しません。
                                    セイラーボブ

2023/08/11

どんな言葉もそれではありません

2023.8.6ミーティング 43:43から

ギルバート:顕現の中には距離があります。「ここ」、「あそこ」があります。そして、私はまだ「あそこ」にはいないと考えます。でも、「あそこ」は存在しないのです。なぜなら、私が「あそこ」へ歩いていくと、「あそこ」が「ここ」になって、実際には「ここ」から出ることはできません。

たとえもしマインドの中で、夢の中へ入っていこう、あるいは、望んだ目的地に行こうと思っても、この直接性の外に出ることはできないのです。なぜなら、その直接性こそが生、永遠の命なのです。生には時間は存在しません。生はどこからやってきたのですか? 命はいつ始まりましたか? 科学者は、それはビッグ・バンだと言います。彼らは望遠鏡を打ち上げて、時間を遡ってそれを探そうとしますが、唯一存在する時間は今だけです。

直接性があり、時間は観念なのです。私たちは時間を想像することができ、うわべの上では空間も見ることができます。でも、空間を見ることができますか? 私たちは大きさを見ることができますが、部屋の大きさは空間の中にあるのです。目は空間の中に現れています。そして、最初に見るのが空間なのです。

そして、私とは何なのか?私はどこから見ているのか?見ているのは誰なのか?というのは、とても重要な問いです。それが直接指し示しているのは、見ることは自然に起こっているということです。あなたが、見ることを起こしているわけではありません。

朝目覚めると、見る働きはすでにそこにあります。ほんの一瞬、自分がどこにいるかわからないかもしれません。部屋の中にいて、ラベルが戻ってきます。ああ、起きてシャワーを浴びて、コーヒーを飲んで、仕事に行かなくてはいけない。どんなストーリーがやってきたとしても、存在意識の直接性の中には、ストーリーも「私」もありません。そして、それを認識することは可能です。そして、それが実在のすべてです。

メッセージとしては、それを調べてみることです。もしあなたが心理的に苦悩しているのなら、その苦悩している「私」は誰なのかを調べてみるのです。実際に調べてみると、「私」は見つかりません。なぜなら科学は、宇宙のどこにも静止した地点はないと告げているからです。それは動きであり、絶えざる変化の流れです。しかし、その絶えざる変化は、変化しないものの上に現れています。

noumenon(本体:哲学用語で現象の反対にあるもの)は顕現となって現れることはありません。存在(being)、知る働き(knowing)など、すべての可能性はnoumenon(本体)の中にあり、あなたがそれを体験することはありません。それはマインド、体験を超えたところにあります。でも、あなたはそれを否定することはできません。

昔ある人が、「神は死んだ」と言いました。その本が書かれた時、いかれた知識人たちがそれに飛びつき、神は死んだ、いや生きていると議論しました。それは単なる観念です。あなたは、自分が存在することを否定することはできません。あなたが誰であろうと、あなたが存在しているということを否定することはできません。というのも、私たちはみな存在そのものだからです。

あなたは、それが何なのかを対象物として描写することも知ることもできません。なぜなら、それは主体だからです。それは一つのものであり、唯一の主体だからです。それを神と呼ぼうと、呼びたければ「私」と呼ぼうと、それは問題ではありません。どんな言葉もそれではありません。