2022/09/30

生きている限り、「私」を消すことはできない

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その12」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

「誰が輪廻するのか?」。その問いが間違っている。
今回もまたすばらしい話です。これは、下手な非二元の本よりも非二元です。

佐々木閑先生の説明は、セイラーボブの説明を一層わかりやすくしてくれる気がします。

2022/09/24

理解がすべてである

マハラジが繰り返し言っていたように、「理解することがすべてである。エンライトメントとは、達成すべき何かではないということを理解することである」。

エンライトメントは対象物ではないため、達成することはできない。エンライトメントは、「達成すべきものではない」ということのシンプルな理由は、私たちがそのエンライトメントだからである。何かを達成するとか達成しないとかいう問題は、もしその何かが本当の私たちとは違っている場合に起きる。

本当の私たちとは、いかなる対象物でもない永遠の主体、「私」である。
したがって、エンライトメント、光明とは、探求者が探しているものは自分自身であり、実在としては探求者も探求すべきことも探求も存在しないということを理解することである。

この「探求者」「探求すべきこと」「探求」の三つが存在するのは、一時的な観念化の中だけであり、観念化が終われば探求も終わり、そこに残るのは自分自身を認識することもない永遠の主体だけである。
                 ラメッシ・バルセカールの言葉(カリヤニのFBより
         
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「理解」ということについて、もう一度考えてみたいと思います。以前、おたより(2019.9.3)のコーナーでも理解について書いているので、そちらも参考にしてみてください。

理解するとはどういうことなのか? ぶっちゃけた話をすると、私の理解は知的な理解です。文章やボブの発言を聞いて、それを理解するということです。そこには、(自分がいない体験をした)とか、(私がいない世界を一瞥した)という体験はありません。特別な理解や体験ではなく、普通の理解です。もし特別な体験があるなら、それは一瞥体験かエンライトメントということになりますが、そうではありません。

セイラーボブはそうした体験を否定しています。一瞥であれエンライトメントであれ、それが体験であるなら、いつかは去っていきます。それに、たいていの人が体験する一瞥体験は、(そんな感じがした)(あれが一瞥体験に違いない)(自分はそこにいないかった気がした)程度のものであり、マインドの産物にすぎません。それは、非二元とは何の関係もありません。

非二元とは、あらゆるものが「二つではない」と言っているにすぎません。もし、それを体験した自分と、体験していない自分がいるなら、二つの自分がいることになり、非二元ではなくなります。この世界の他に非二元の世界があると体験したなら、その時点で二つの世界があり、非二元ではなくなります。

そして次に来る問いは「おまえは非二元を理解したと言っているが、それは単に『私』は実在ではないと信じているだけではないか?」です。これもぶっちゃけて言うと、そうです。

でも、「信じている」とはどういうことでしょうか。私の場合は、「それが真実であるに違いないと確信しています」。以前、おたよりをいただいた時も、この確信という言葉が問題になりましたが、やはりこの表現が一番適切ではないかと思います。

また地球の例を出しますが、私たちは、地球が丸いと確信しています。でも、ほとんどの人は実際に宇宙空間に行って丸い地球を見たわけではありません。でも、写真や科学の授業で学んで、地球は丸いと確信しています。それと同じ程度に、「私は実在しない」と確信しています。

すると、次に来る問いは、「それが理解するということなら、お前のブログや非二元の人の本を読んでいるたいていの人は、非二元を理解したことになるではないか?」というものです。そのとおりです。非二元で教えていることは全然難しいことではありません。誰でも理解できることです。私の理解もセイラーボブの理解も、これを読んでいただいている人の理解も同じものです。ネット上では、もうたくさんの人がサイトやブログで非二元のことを書いていて、あたりまえに非二元(私は実在ではないということ)を理解しています。

たいていの人は「非二元を理解した」という特別な人になりたいという潜在的な願望を持っています。私もそうでした。でも、理解した人、理解していない人には何の違いもありません。理解していない人は、理解した人は自分が知らない何かを知っている、あるいは体験しているにちがいないと勝手に思っているだけです。でも実際は何の違いもありません。

そして最後に来る問いは、おそらく、「おれはお前のブログを理解したし、他の非二元の人の本も理解した。でも何も変わらない。あいかわらず悩みごとでいっぱいで、苦しいばかりだ」というものです。

非二元の教えを理解することは難しいことではありません。言葉が理解できれば誰でも理解できます。「私は実在しない」と確信することも難しいことではないでしょう。時間をかけて、何度も何度も調べればわかることであり、誰にでもできます。誰にでもできるからセイラーボブは教えているのです。偶発的にしか起きないエンライトメントなら、教えても無駄ということになります。

では、セイラーボブの理解と私の理解、あなたの理解では何が違うのでしょうか? それは、その理解を生きているかどうかだと思います。理解そのものは誰の理解であれ変わりません。

私は、「私は実在ではない」と理解していると思っています。でも、またぶっちゃけた話をすると、実生活の中で、「私がいる」という体験をたくさんします。もし「私は実在ではない」ということが完全に身に染みるとどうなるかというと、体の感覚が消えます。そうすると歩いていても人にぶつかるでしょう。私はいないのですから。私と人の区別がつかなくなって会話もできなくなります。そこまでいってしまうと、社会生活が困難になるので、そこまでなりたいとは言いません。その一歩手前まで、「私は実在ではない」と身に染みた場合は、どういうことが起きるでしょうか?

いくつか例をあげると、まず、人と自分を差別することがなくなるはずです。私はいないのですから、他の人もいません。そうなると差別が消えて、他の人も私も、一つの物語の登場人物がスクリーンに映っているにすぎないと思うようになるでしょう。

でも、私の場合、依然として人を差別している自分がいます。無意識に肌の色や国籍で人を差別している自分がいます。もちろん、そうしたことは以前より減ってきてはいます。でも、依然として、後進国の人や、アフリカの人を見るとき、自分を基準に据えて差別している自分がいます。

また、コンプレックスも依然としてあります。人と比べる自分がいるのです。もし「私」がいないのなら、優越感も劣等感もなくなるはずです。でも私は依然として、劣等感も優越感もあるし、人と比較している私がいます。もちろん、それは実体のないものだといことは十分理解しています。

自分にまつわる物語についても同じことが言えます。「私は実在ではない」のなら、自分にまつわる物語は消え、過去を後悔することも、未来を不安に思うこともないはずです。でも実際には完全にそうなってはいません。もちろん、これも、以前よりは随分減ってきています。

また、「私は実在ではない」のなら、金に対する欲望も消えていくはずです。それを所有する「私」はいないのですから。財産、地位、名誉に対する執着、欲望も同様に消えていくはずです。これは随分となくなりました。お金はとりあえず暮らしていけるだけあればいいし、何かが欲しいという欲望は随分減りました。これを消すのはそれほど難しくはありません。我慢すればそのうち消えていきます。

何が問題なのかというと、非二元を理解することと、それを生きることとは別だということです。理解の度合いが違うという表現を使うとまた誤解を招くので使いませんが、心底理解したら、差別やコンプレックスや欲望、自己にまつわる物語、心理的な苦悩は消えていくはずです。それが帰属する「私」がいないのですから。

セイラーボブを実際に横で見ていると、そういった差別やコンプレックス、欲望、自己の物語、心理的な苦しみが私より少ない、あるいはほとんどないように思えます。同じように非二元を理解していても、それを生きているかどうかが違うように思えます。

セイラーボブの教えを理解すると、しばらくは調子の良い時期が続きます。でも、ハネムーン期間が過ぎると、やがてまた「私」が戻ってきます。そしてまた調べて、また調子の良い時期が続き、また「私」が戻ってきます。この繰り返しです。

私個人のことを言えば、以前と比べて随分と楽になりました。「もう何も悪くはない」です。そして、それは年々ますます楽になっていく感覚があり、理解が深まっているのだと思っています。でも、実際には理解に深いも浅いもなく、ある種の修練ではないかと思います。セイラーボブもニサルガダッタの家を出てから、古い思考(私)が戻って来て、そのたびに(私は実在しない)と調べたと言っています。

長い間に身についた条件づけや「私」を消し去るには、やはりそれなりの時間がかかるのだと思います。
何度「私は実在しない」と調べても、依然として「私」は戻ってきます。それはこの体がある以上、ずっと続くのだと思います。

「私」は実在のように見える、という説明の佐々木閑先生紹介の図形を見るのが好きなので、またこの動画を載せておきます。 

 佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その44」(「仏教哲学の世界観」第9シリーズ)

2022/09/23

宗教とは何かを考える

非二元とは関係ない話でしたが、良い話だったので、個人的な備忘録として載せておきます。特に、人は何らかの宗教を生きている、それが会社だったり、TVのCMだったりする、というところ。

【日曜説教:令和4年9月】宗教とは何かを考える | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

2022/09/22

肉体が滅ぶ時、断ち切られる自己は存在しない

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その11」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)


私とは五蘊の集まりにすぎない。五蘊は自己ではない。

2022/09/21

ルーパ(肉体)は壊れゆくものである

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その10」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)


五蘊(色・受・想・行・識)の語源解説。色とはパーリ語でルーパ。

セイラーボブは、「ナーマ・ルーパ」(名前と形)というヒンディー語を引用したことがあります。

2022/09/16

盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む 第11回 (2022年9月)

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第11回 (2022年9月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

五蘊について詳しく説明されているので、昨日、一昨日の佐々木先生のYouTubeと併せてに見るとわかりやすいと思います。
鏡の例え話、夢の話などは、セイラーボブの話とだぶってよくわかります。

2022/09/15

この手は私ではない

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その9」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)


これはわかりやすかったです。
「仏教は快楽を得るための教えではなく、苦しみを取り除く教え」という言葉が良かった。セイラーボブの教える非二元もそうだと思います。

2022/09/14

私とは何か

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その8」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)


私とは何か? 心なのか、肉体なのか? 
自分とは何かを軽々しく問うてはならない。間違った問いからは間違った答えしか得られない。

セイラーボブは、「誤りの始まりは無知からである」と言うけど、これは仏教の縁起でいう「無明」と同じことを言っている。

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佐々木閑先生のYouTubeの転載を続けています。佐々木先生のYouTubeは現時点で400本以上ありますが、今までは、非二元的だと思える話はそれほど多くありませんでした。三蔵法師の旅や、仏跡をめぐる話もあって、非二元とは直接関係ない話が大半です。

でも、前のシリーズに入ってから、急に非二元的な話が増えました。今現在は、阿含経の相応部(五蘊)の話をしてみえますが、相応部の因縁編と蘊編に非二元的な話がたくさんあるということがわかりました。

相応部(サンユッタニカーヤ) 因縁篇I (パーリ仏典 第3期3)(佐々木先生が出典を説明してみえるYouTubeはこちら)をアマゾンで買って読もうかと思って調べたら、因縁編ⅠとⅡだけで36000円以上する。(片山一良さんの相応部の本は全部そろえると10万円以上かかる)。愛知県図書館にあるとわかったので借りる手もある。(私の家から片道二時間ぐらい)

でも、おそらく自力で読んで理解するのは大変だろうし、佐々木閑先生が講義してくださるYouTubeを見た方がわかりやすい。どのYouTubeが非二元的だったかという備忘録の意味もあって、このブログに掲載していきたいと思います。(第7シリーズまでは板書を全部ノートに書き写していたのですが、時間がかかる割には記憶に残らないので、今は二、三回見て、なるべく内容を覚えるようにしています)
そういうわけで、しばらく佐々木閑先生のYouTubeを転載させていただきますので、よろしくお願いします。

佐々木閑先生のYouTubeは、非二元を理解する大きな助けになると思います。また、非二元を語る上で、仏教を学ぶことは必須なのではないかと思います。

2022/09/10

自由意志はあるのか?

以前このブログで、ベンジャミン・リベット博士の実験のことを書きました。

脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳
「死ぬのが怖い」とはどういうことか
マインド・タイム

「指を動かそうと思う0.35秒前に、脳から指を動かせという指令が出ている」というのがリベットの実験結果です。それで、果たして人間に自由意志はあるのか・ないのかが問題となりました。そのことについて考えてみます。

確かセイラーボブは動画の中で「自由意志でもないし、運命論でもない」と言っていたように記憶しています。ボブがこの類の話をするたびに、じゃぁ一体どっちなんだと思ったものです。

私としては、「あるのはこの瞬間だけである」ため、自由意志を考えたとたんに未来を思考として持ち込むことになり、自由意志のある・なしを考えることそのものがナンセンスだということで納得していました。運命論も同じで、運命を持ち出したとたんに時間という観念を持ち込むことになります。もし、時間などないのなら、自由意志も運命論も考えることそのものがナンセンスです。

問題は、私たちのマインドは「自由意志がある・ない」、「運命は決まっている・いない」と、二元的に割り切ろうとするところにあると思います。要するに、そうした思考はマインドの餌でしかないのです。

最近になって、佐々木閑先生のYouTubeで、なるほどなぁという説明に出会ったので、もう一度載せておきます。佐々木先生曰く、「世界に実体はあるのか?」という問いそのものが誤りであるというのです。「世界に実体はあるのか?」と聞いたとたんに、その前提として、何かの存在を前提としています。その問いに答えること自体が、その存在の有無を容認してしまっているというのです。

そもそも非二元の教え(仏教においても同様)では、自由意志や運命論の主体となる「私」はいないのですから、自由意志や運命論の有無を問うこと自体がナンセンスなのです。それを問うた瞬間に、「私」という存在を前提としてしまっているのです。
セイラーボブも同じようなことを言っていて、「質問が質問者であり、質問がなければ質問者は消える」と言っています。

自由意志があるのか・ないのかを議論すること自体がナンセンスなのです。
この説明は、「死後の世界はあるのか?」「エンライトメントはあるのか?」など、あらゆる問いの答えとしても有効です。もともと「私」は実在でなく、生きてさえいないのですから、死後の世界があるのか、エンライトメントがあるのかと問うこと自体が間違いなのです。

世界に実体はあるのか? 佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その16」

問いが間違っている。(11分ぐらいまでは我慢して聞いてください。そこからが本題)

2022/09/09

自分は存在しないということを理解する機能が自分にはある

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その7」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

「自灯明 法灯明」は私の大好きな言葉です。

ここのところ、佐々木閑先生のYouTubeの転載を続けていますが、佐々木閑先生が紹介してくださる阿含経・相応部の経典は非二元の教えだと言えると思います。

今までの佐々木先生のYouTubeは全部(パーリ語講座を除いて)見ていて、非二元に関連すると思われる箇所はたいていこのブログに取り上げています。すばらしい内容ですが、もっと早く相応部の講義をやっていただけたら、私の下手な仏教のシリーズを書かなくてもよかったのではないかと思う今日このごろです。でも、それを書く途中であれこれ調べているうちに佐々木先生に出会えたのだから、必然といえば必然なんですけど。

仏教、非二元に限定しなくても、佐々木先生のYoTubeは学ぶことが多いし、おもしろいので、これからもどんどん取り上げさせていただきます。

佐々木先生の非二元関連(と私が勝手に思っている)YouTubeは、仏教その他禅・Buddhismにありますので、もし見逃した方は見てみてください。

2022/09/08

欲望を追わない

阿含経では、「欲望を追うな」と教えています。

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その3」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

では、セイラーボブはどう言うかというと、欲望を追うなとも、追えとも言いません。セイラーボブ個人はどうなのかというと、はたで見る限り、欲望を追っている人には見えません。年齢的なこともあるのでしょうが、それほどお金に執着があるようには見えません。

ミーティングの入場料が一回20ドル(約1900円)、個人面談90分60ドルです。それが高いのか安いのかは意見が分かれるところですが、メルボルンの物価を考えると、妥当なのかなとも思います。ニサルガダッタ・マハラジやラメッシはお金を取らなかったと聞いたことがありますが、本当かどうかは知りません。

オーストラリアの年金制度では、国民は年金(保険料)を払い込む必要はなく、すべて税でまかなわれているそうです。それも、日本の生活保護水準よりも多いぐらいの額がもらえるそうなので、セイラーボブは全然お金に困らない。だから、本当は入場料なんて要らないのかもしれませんが、無料にすると、来る人が多すぎて困るのかもしれません。

もし、「エゴは作り話である」ということを理解すると、その人は欲望を追いかけるでしょうか。欲望、たとえばお金。それは、私がいると思っているから欲しくなるのではないでしょうか。地位や名誉。家族。そうしたものは、「私の」という枕詞をともなうものです。

もし、「私」が実在ではないのなら、お金や地位や名誉に執着する必要はないような気がします。「私」がいないのなら、誰のためにあくせくしているのでしょうか? セイラーボブの教えていることは、仏教(阿含経)で教えているのと同じで、結局は欲望を追わないことなのではないでしょうか? もし欲望を追わないのなら、悩み事のほとんどは消えてしまいます。執着を捨てられないから悩んでいるのであって、それができれば苦労はしないと言われると困るのですが、そこが仏教の教えの大事なところです。

これは私の勝手な解釈ですが、非二元も欲望を追わないことを教えているような気がします。

2022/09/07

「あなたのものではないもの」は捨てなさい

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その6」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

あなたのものではないものとは「私」、五蘊。そもそも自分自身が私のものではない。それに執着することが苦しみを生む。それを捨てることが安楽への道。
年老いて、死んでゆく自分の体にも執着しなければ、何も恐れるものはない。

「わたしのものはあるのか」2022/9/5【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

2022/09/03

非二元を理解するとどんな良いことがあるのか?

先週のブログで、非二元を理解してからは問題が解決するのが速くなった、とジェームズ・ブラハが書いていると書きました。

セイラー・ボブは、「私」は実在ではないと理解すると、「心理的な苦悩が消える」と言いました。ニサルガダッタ・マハラジは、「もう何も悪くはない」と言いました。

「私」は実在ではないということを理解すると、どんな良いことが起きるのかは人それぞれではないかと思います。でも、非二元の教えを理解したからといって、その瞬間から幸せになれるということではないと思います。

人が、「私は幸せだ」と言う時には必ず、比較・区別があります。「以前の私より幸せだ」「あの人より幸せだ」。そして、「私は幸せだ」と言った瞬間に、その対極にある不幸を生み出します。というのも、今ある幸せは、必ず変化して、対極へと動くからです。

私は、自分が幸せだとも、不幸だとも考えないようにしています。どちらもマインドの産物であり、幸せと不幸は必ずペアになっているからです。生きていれば幸せな瞬間もあれば、不幸な瞬間もあります。幸せな瞬間だけ続いて欲しいと思っても、そんなわけにはいきません。不幸な瞬間がなければ幸せはないからです。

じゃあ、「私は実在ではない」と理解すると、どんな良いことがあるのか?

私が思うには、物事に対する対応の仕方が変わるのだと思います。私が実在でなければ、人との差別や区別が消え、思いやりや慈しみが生まれます。争う必要も、過度に欲望を追ってあくせくすることもなくなります。

これは以前にもブログにあげた佐々木閑先生のYouTubeですが、そのあたりのことがとても参考になるので、もう一度掲載させていただきます。

佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その44」(「仏教哲学の世界観」第9シリーズ)

 

佐々木閑先生のYouTubeを今後も何本か当ブログで掲載予定ですが、佐々木先生の更新はほぼ二日に一回あるため、掲載が追いつきません。もっと早く見たいという方は、佐々木閑先生のYouTubeで、オンタイムで見てください。

特におすすめは、現在進行中の、佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)(仏陀が蓮の花を持っている絵のもの)です。

2022/09/02

「私」はありもしない架空のもの

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その5」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

五蘊・五取蘊を荷物の比喩で説明。
煩悩を含んだ五蘊を運んでいるのは架空の人である。渇愛(無明)を断てば架空の私は消える。
「私」がいるという思考も、本当はいないと理解する思考も私にプログラムされている。

2022/09/01

この世に永続するものは何もない

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その4」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

自分自身に執着しないこと。

2022/08/31

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第10回 (2022年8月)

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第10回 (2022年8月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師  
これを聞いていると、セイラーボブの話を聞いているような……。
鏡の話などは、ほとんど同じ内容ですね。

2022/08/30

叛逆の十七文字・日本人の「遺伝子」からみた病気になりにくい体質のつくりかた・お知らせ

叛逆の十七文字 角川春樹

角川春樹さんが主宰する俳誌「河」の投句に角川さんが批評を加えたもの。解説で意味がわかるものと、解説を読んでも意味がわからないものがある。なぜそれが良い句なのかもさっぱりわからない。でも絵と同じで芸術の世界なので、受け手の判断基準で感じればそれでいい。いいなと思う句はまれにしかない。それは絵を見る時と同じ。前衛芸術が理解できないからといって絵が鑑賞できないということではない。

日本人の「遺伝子」からみた病気になりにくい体質のつくりかた 奥田昌子

奥田さんは日本人は穀物などの炭水化物が体質に合っていると説く。炭水化物を取ることによって、腸内環境を正しく保つことができ、病気を防ぐことができるという。米類、海藻を中心とした日本食が健康によいのだそうだ。

最近私は二年ほど続けた糖質制限食(炭水化物を取らない)をやめて、穀物を積極的に取るようになった。それは魚柄さんの本の影響。以前だったら、奥田さんの本を読むことはなかったし、奥田さんの意見には反対だった。炭水化物を取ることによるデメリットはあるが、メリットの方が大きいと思うようになった。体調も良い。要はバランス。いろんなものをバランスよく少しずつ食べるのが良いと思う。

今までかたくなに信じていたことが、ある日突然崩れて方向を変えてしまう私。まさか非二元の教えはそうならないとは思うけど、自分を過信してはいけない。

おしらせ

諸事情により、今後、「読書日記」は精神世界とあまり関係ないような本は掲載しない方向でいきます。

2022/08/27

非二元を理解するということ

非二元を理解するとはどういうことなのか。どんな良いことがあるのか。

非二元を理解するとは「私は実在ではない」「世界は実在ではない」ということを理解することです。もっとやさしい言い方をするなら、「私はいない」「世界は幻想である」です。

非二元の語り部たちだけでなく、仏教でも同じことを言っていて、最近では脳科学でも同じことを言っています。もうそれは驚くほど特別なことではなく、いろんな伝統の中にあることであり、珍しいことではないように思えます。

では、それを理解すると、どんな良いことが起きるのか。もし、「私」がいないのなら、「私」にまつわるあらゆる問題から解放されます。「私」は生まれてさえいないのですから、死ぬこともありません。死への恐怖が消えます。「私」がいないのですから他者との比較や競争が消えます。

人と競争して、金、地位、名声を手に入れようとする必要がなくなります。仏教でいうところの執着が消えます。私の家、私の家族、私の子供という執着が消えます。「私」がいないのなら、他者もいないので、人と争う必要がなくなります。私もあなたも一つのものの現れにすぎないとわかれば、どうして人を憎むことができるでしょうか。もちろん、好き嫌いはあっていいのですが、それは自然に起こってくるものであり、そこには個人はいません。

「私」はあらゆる悩みの根源です。「私」がいないとわかれば、悩みは消えていきます。幸せだとか、不幸だと思っている「私」はいないのです。もちろん、自然な欲求はあると思いますが、それはあくまでゲームの中で自然に起こってくることであり、悩むほどのことではありません。

と、ここまでは教科書に載っていることを偉そうに書いてみました。でも実際には、理解したからと言って、そう簡単にある日突然あらゆる執着や悩みが消えるわけではありません。少なくとも私の場合はそうなっていません。体はあるように見えるし、悩みや問題も次々に起こってきます。それは生きている限り続くのではないでしょうか。苦しいことも悲しいことも起こってきます。人生はいいとこだけ取るようにはできていないのではないでしょうか。

だから、非二元を理解したから終わりではなく、ずっと忘れないでいて、時々ボブの本を読み、日々気をつけて生きていかないといけないと思います。そうした自戒の意味を込めて、このブログをずっと続けていこうと思っています。

非二元を理解すると、具体的にどんな良いことがあるのでしょうか? それは人それぞれ悩みや苦しみが違うように、人それぞれなのだと思います。

ジェームズブラハは、Living Reality: My Extraordinary Summer With "Sailor" Bob Adamson (English Edition)の中でこう書いています。

非二元を理解することで得られる最も興味深い効果の一つは、問題や心配事、動揺がいかに早く過ぎ去るかということです。一見悪いように思われる出来事が起きても、問題に対処する知性エネルギーが湧き起こります。動揺するような考えが起こり始め、いつものようにトラブルを起こそうとしても、取りつく島がありません。そうした問題が最初に出会うのは、ジェームズは実在しないという認識です。そして、過去も未来も実在しないという理解と格闘します。そして、真の私は永遠で不死であるという認識にぶち当たります。たいていの場合、問題が起こっても取るに足らないこととなります。

非二元を理解するとは、「自分は実在ではない、過去も未来も実在しない、真の私は永遠で不死である」ということを理解するということです。そうすれば、何の問題もありません。

逆に言うと、それをちゃんと理解していない人は問題が過ぎ去っていかないということになるのではないでしょうか。何か問題が起こった時に、どれほど早くその問題が過ぎ去っていくのかを見ることで、自分がちゃんと非二元を理解しているかどうかがわかるのかもしれません。それは、問題を無視したり、黙殺したりすることとは違うと思います。

もし、ちゃんと理解していると思っているのに、悩みや問題が消えず、少しも楽にならないのなら、その理解が本物かどうかをもう一度確かめる必要があると思います。私の場合、10年前と今ではあきらかに精神状態が違います。幸せでしょうがないということはありません。イライラする時も憂鬱な時もあります。悩む時もあるし、厄介な問題も起こります。まわりの状況は何も変わっていません。でも「もう何も悪くはありません」。以前のように、恐怖を雪だるま式に大きくしたり、悩みに巻き込まれてしまうということはなくなりました。死の恐怖は依然としてありますが、以前ほどではありません。

私の場合、非二元を理解したことの最大の恩恵は、もう何かを探したり、追い求めたりしなくなったことです。丸善の精神世界のコーナーへも、あまり行かなくなりました。人との比較や、誰かを恨むこと、憎むことで悩むこともなくなりました。もちろん、そうしたことがまったくないわけではないのですが、やってきても長居をすることはありません。過度な願望や欲望は次第に消えています。ありもしない幻想で自分を悩ますことは減っています。これはゲームだとわかったからです。

もう二度と同じではないだろうという思いはありますが、体とマインドがある以上、「私」が完全に消えることはないでしょうし、思考は繰り返しやってきます。もし「私」が完全に無くなれば、すぐに車にはねられてしまうか、何も食べなくて餓死してしまうでしょう。思考がまったくやってこなければ、人とも会話できず、すぐに病院に入れられてしまうでしょう。

命あるかぎり、体も思考もあり、「私」も完全には消えません。落ち込むことも悲しむこともあるでしょう。でも、もう以前のようなわだちにはまることはないだろうと思います。すべてはゲームだとわかったうえで、ルールを守って、できれば楽しんで、前向きに生きて行こうと思っています。

2022/08/24

私という実体があると考えることは病である。

 佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その1」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)


私という実体があると考えることは病である。現実の世界の中に架空の私を作っていることが病である。真実を見よ。私とは架空である。それを理解するのが健康な心である。
病気は苦しみをもたらす。

そのことを理解していても、日常生活に戻ると、繰り返し「私」が戻ってくる。そのたびに何度でも、「私」はいないということを理解すること。それが日々のトレーニング。どこかで聞いたような……

最近の佐々木閑先生のYouTubeは、仏教なのか非二元なのかよくわからなくなってきました。

2022/08/20

The Spiel ⑱ 2007年 あの部屋の真実

Sailor Bob Adamson, 2007. Truth's in that room・あの部屋の真実

この動画は2021年5月にセイラーボブのサイトに公開されたものですが、作成は2007年です。太字はセイラーボブの発言。聞き取り不能な箇所を一部省略しています。

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ナレーター:週三回、メルボルン郊外の自宅で、セイラーボブは来訪者すべてを歓迎します。このDVDは私の初めての夜のセッションを編集したものです。

まだよくわかりません。私は単に探求しているのか、それとも無という真実、あの部屋の真実に通っているだけなのかわかりません。

それはアドヴァイタ、非二元と呼ばれています。アドヴァイタは、ゾクチェン、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、その他の宗教の伝統の本質と同じものです。というのは、それらはどれも究極的に、非二元、他には何もない一つのものを指し示しているからです。他には何もないという言葉を付け加えるのは、「一つ」でさえ、他に何かがあるのではないかと暗示させるからです。

(チャイムが鳴ってボブが招き入れる)
ナレーター:少し遅れてやって来る人もいますが、ボブが気にする様子はありません。

ここでは、あなたはもともとあなたが探しているものなのだということから始めます。私はあなたに何も教えません。何かを伝えることもありません。私はどんな体にも話かけていません。私はどんなマインドにも話しかけていません。言い方を変えると、肉体として現れているもの、心身という有機体に話しかけているのではないのです。私はあの「私は在る」に話しかけていて、それが私です。その「私は在る」は思考の私は在るのことではなく、存在の感覚のことです。存在の意識、すなわち、自分が存在するという認識のことです。

偉大な知恵、言葉は「我はそれなり、汝それなり、これがそれだ、あれがそれだ」。あらゆるものの根底にあるものが、彼らが「それ」と呼ぶものです。それと彼らが指摘、話すものは、それからやってきて、それへ帰ります。それゆえ、それには分離がありません。そのため私は、「あなたはもともとあなたが探しているものなのです」と言うのです。

私たちはみな、私は在ると知っています。それは思考の「私は在る」のことではありません。それは実在のことです。「私は在る」は、存在の感覚、すなわち知性としての意識が翻訳されたものを表しています。自分が存在しているという認識が思考の私はあるとして翻訳されたものです。

その翻訳、思考が起こっている時でさえ、その認識はそこにあります。もしある思考が終わると、また別の思考がやってきますが、その根底には依然として、その認識があります。詳しく調べてみて、それが決して変化しないことを理解してください。それはいつもそこにあります。

私たちはそれを実在と呼びます。でも、それもまた概念です。実在が存在するためには、非実在が必要です。非実在なくして実在はありません。また、実在なくして非実在はありません。その二つの言葉がなかったら、あなたはどこにいますか?それは見ることと同じです。見るという思考が起きる時、私はこれを見る、私はあれを見ると言います。

でも、私は見るという思考なくして、偽の見る人、主体が存在しえるでしょうか? 私が椅子、テーブル、その他のものを見るなど、私たちが見るという概念が対象物を作ります。対象物なくして主体はありません。また、主体なくして対象物はありません。それは互いに打ち消しあい、根底となる見ることだけが残ります。

そしてあなたは、見ることなくしては、見る人、主体も、見られるものもありえないということを理解します。つまり、見ることが機能として今この瞬間に起こっていることなのです。ここに、誰か見ることが起こっていない人がいますか? ここに、聞くことが起こっていない人がいますか? 存在意識、すなわち意識が存在しない人がいますか?
つまり、それは何かを達成したり、手に入れたりすべきものではないのです。それなしでは、ここでは何も起こっていないということは明らかなことです。

星々がどうのように軌道の上を動いていくのかを見てください。どうやって地球は太陽のまわりをめぐり、潮が満ちては引き、季節がやってきては去っていくのか、どうやって種が芽吹いて木となり、草や葉となり、繭がかえって幼虫となり虫となり、さなぎが蛾や蝶となり、すばらしい色をまとうのか、どうやって白と黄色の卵から鮮やかな孔雀となるのか。どうやって精子と卵子が一緒になってこの人間というパターン、考える能力、発明したり、芸術や科学技術を創造したりする能力を持つものをつくるのか見てください。

それが意味しているのは、この顕現としての森羅万象には知性が内在しているということです。内在する認識、その知性について私は話ているのです。その知性はあなたが手に入れることができるもののことではありません。観念化することができることでもありません。見ることができるものでもありません。その自然な状態が本当のあなたであり、その自然な働きは自然の中の森羅万象と同じもので、自らを認識しています。自らパターンとなり、自ら機能します。

それゆえ、あなたはもともとあなたが探しているものなのですと言うのです。というのも、あなたがそうでなかったことなどなかったからです。一つの知性エネルギー、他には何もない一つのものが、思考、フィーリング、感情など、この顕現のすべてとなって現れています。森羅万象はその表れです。私たちはそれを知っていて、それを現象世界と呼びます。世界が現象でできています。辞書で「現象」という言葉を調べると、「そのように現れているもの」です。

現象の反対は非現象、非顕現です。顕現は非顕現がなければ存在しません。非顕現の現象の定義は、実際に存在するものであり、それが実在です。それには姿や形がありません。でもあなたはそれから逃れることも、それを否定することもできません。思考や概念、イメージでそれを掴むこともできません。言葉やラベルなしでは、それはあるがままなのです。それは今までも、これからもそうです。

実在としては、何も起こっていません。何も生まれ出てはいません。そのように見えているだけです。それが意味することは、自己という束縛から自由だということです。それは存在しておらず、あなたはいつも自由だということです。でもそれは理解されず、私はこの自己である、私は分離した存在であると信じられてきました。私とは自分のことであり、自分は良くない、制限されている、自己評価が低い、不幸だ、偉大だ、すばらしい、世界で一番など、どんな観念やイメージも「私」という思考に付け足しました。

そしてその心理的な絵やイメージを自分だと信じているのです。それを私たちは自己の中心、エゴと呼びます。心理的な絵、イメージには実体も独立した性質はありません。詳しく調査してみると、そのイメージは絶えず変化しています。あなたが5年前に自分に対して抱いていたイメージと同じイメージを今抱いていますか? 一週間前は? 一か月前は? あなたが子供だった時は? 

あなたは人々の言ったことを身に着け、そして身に着けたことを手放し、自身のイメージは絶えず変化しています。そこには何か確かで実体のあるものはありません。それには間違った信念に形作られた観念以外、独立した実体のあるものはありません。それを理解すると、この思考、すなわち分離した存在という間違った信念は存続することができません。

これが虚偽だとわかれば、それは存続することができません。信念なくして、どうしてそれを何かと結びつけることができるでしょうか? それが私たちに推論する力ついて以来、ずっとやってきたことです。幼い子供に推理する力がついて、みんながジョニーと呼ぶ存在は「私」だ。波動としての「私」という思考は常にその反対へと動きます。「私」の反対は、「私ではない」です。思考としての「私」がやってくる以前は、あるがままに見ていたものが、推理する能力によって、これは私ではない、これは自分ではない、となり、「私」ではない、「自分」ではないものとなります。

その「私」や「私ではない」という思考とともに、分離の感覚が生まれます。それはそれ以前にはなかったものです。分離の感覚は不安、傷つきやすさとなります。自身が何かから分離、孤立していると感じると、それが何かわからず、傷つきやすさ、不安となり、それをどうしてよいかわかりません。そしてあらゆることが、自身が自分に対して身に着けたイメージに関連付けされることになります。

「私」はこれが好き、嫌い、恐ろしい、腹が立つ、怒りを覚える、みじめだ、罪悪寒を感じる、よくない、あらゆることがその参照点に関連付けられ、それによって、良い悪い、心地よい、苦しい、幸せ、苦しい、などとなります。それはすべて過去の経験にもとづいています。それは死んだイメージであり、すでに死んだ何かに関連しています。死んだ何かが、どうやって残された生を知ることができるでしょうか? そうするためには、死んだものによって実際生きている生を、思い出し、回顧することとなります。どうして偽の参照点が有効な参照点となりえるでしょうか? どうして死んで無効な参照点で有効な理解をえることがでしょうか?

それはあたかも川からバケツ一杯の水を汲むようなものです。汲んだ水はよどみ、死んだものとなります。それが、私たちが繰り返しやっていることです。絶えず、死んだイメージを参照しているのです。私が何かを手に入れる、何かやる、何かになると考える時はいつも、自分はもともと理解していない、知らない、完全ではないという考えにもとづいています。その、完全ではないという信念ゆえに完全さを永久に追い求めることとなります。

仏陀やその他の偉大な伝統のメッセージは、あなたはこの心理的な苦悩から自由になることができるというものです。それはそうあるべきではないのです。いにしえの人たちは、苦しみからの平和、理解について語っています。そして人々はマインドの平和について語ります。心が平和であったことも、こらから平和になることもないということを誰も理解しません。なぜなら、マインドの本質は振動することだからです。それはそのように働きます。
マインドが働かない時が平和なのです。

そこに観念が無い時、マインドはありません。観念がなかったら、あなたは何を言うことができるでしょうか? 平安の他に何と言うことができるでしょうか? 観念がなかったら、平安だと言うことさえできません。それはただ、あるがままです。それゆえ私は、平安はあらゆる理解を超えると言うのです。観念やマインドでは理解できないのです。それが自然な状態です。それがまさしく今あなたがいる場所なのです。

あなたがここにいる時、それはいつも今です。人々は、外に行った時はどうかと言うのですが、あなた外に行けば、そこが、ここ、そして今になるのです。詳しく調べてみてください。どこにいても、いつどんな場所にいても、今ここ以外ではありませんでした。調べてみてください。それがなすべきことのすべてです。今、あなたがたの何人かは、調べて、それをちゃんと理解しました。ここでは何も隠し事はありません。そしておそらく人々はこのビデオを見たいと思うはずです。みなさん全員によい知らせがあります。質問や自分の意見を言うことをためらわないで。今まで長い間探求してきたのですから。(笑い)
ジム、何か言いたいことはありますか?

ジム:私には(あなたの話は)十分に役立ったと思います、ボブ。あなたの話を最初に聞いたときは驚きました。そして、とても不快でした。というのも、思い出せるかぎり昔から私が頼ってきたものが、私の問題の原因だということが驚きだったからです。この存在を信じていることに働きかける必要があると知って不快になったのです。(一部省略)

ボブ:それはすべての人に共鳴を起こします。というのも、もともと誰もがそのことを知っているからです。もともとそれを知っているのですが、観念化という雲に覆われていて見えなくなっているのです。でも、あらゆる人がそれなのです。それは限られた人たちのためだけの特別なものではありません。それは認識(知る働き)そのものであり、それを否定することはできません。それは、そのもの自らを再認識するということです。

男性A:それで、その空間、時間のない意識と私たちが描写するものは、実際にはあなたは何も言うことができません。というのも、それには特質も質量もないからです。そのためあなたは、言葉や心理的な概念として実際にそれを言うことができません。それは何なのですか?

それは心理的な概念でも理解することはできません。推論する力が身に備わって以来、私たちはそれを概念で理解しようとしました。でも、ニサルガダッタはビデオの中で言っています。あなたが概念で理解しようとすると失敗する。あなたは必ず失敗する。というのも、それを観念化することができないからだ、と。それを一言で言うなら、非観念の意識です。
キャサリンはどうですか?

キャサリン:その点に関しては、私が調査してみると、そこには意識をしている何かがあるのですが、それにラベルを貼ることはできません。というのも、私が調査するやいなや、それはそれではないからです。聞くこと、見ることは知る働き(認識)と同様に、そうしたことに対して私が何かを言うことができないからです。それはただそこにある何かです。生と呼ばれるもの、あるいはそれ以上のもの。それはマインドが落ちたようなもの。マインドではないもの。それはミステリーのようです。

そうした見方も悪いことではありません。あなたは、いにしえの人たちがやった、「これでもない、あれでもない」というのを自然にやっているようなものです。あとには何も残らず、無だけです。
マンガスはどうですか?

マンガス:私はずっと、世界の中で分離した存在だという考えにそそのかされてきました。私が経験してきたのは鬱状態です。もう長い間そうです。まだその状態かどうかはわかりません。でも、ここで実際に私が感じるのは、「私がどこに存在するのか調べる」という基本的な問いを十分に調べていないような気がします。私は理論も知的なアプローチの仕方も完全に理解しています。分離した「私」という思いを強めてしまうと、苦悩や痛みが大きくなるということもわかっています。でも、その分離した自己という幻想をちゃんと見抜いてその痛みを和らげる能力が私にないように思うのです。

あなたは理解しています。そこには「私」はいなということを見抜きましたね? 

マンガス:ええ、そう思います。

では、曇りの日に外へ出てみてください。曇りの日には太陽が雲で覆われていて、一日中太陽を見ることができません。でも、その日、太陽が空から無くなった瞬間があると思いますか?

マンガス:いいえ。

消えません。それと同じことです。見た目の上では思考という雲に覆われています。あたかも思考という雲が自ら輝く意識を覆っているのです。でもあなたは根底にある本質を知っています。時々は雲がそれを覆い隠しているように見えます。時々は光がもれてきます。それによって、あなたはいつもそれであり、これからもそれであると知るのです。どんなに雲が厚く見えていたしても。そのため、真実を知れば間違った思考の束縛から解放されると言われているのです。
私は青い海や蜃気楼の中の水、太陽と雲などの例えを使ってそれを指し示そうとしています。

アンガス:でも、私は本当に真実を知っているだろうかと思うのです。というも、それは例えば、何かが、オーケー、このアウエアネスの中で住んで、どこに喜びがあるのだ、と言うのです。というのも、人生の喜びをえることをあきらめたくないのです。アウエアネスの中に住んで、喜びたいのです。ちょっと変に聞こえるかもしれませんが、お金が欲しい、まだ手に入れてない、といったようなことです。

自分に問うてみてください。「そのことを考えなかったら、今何が問題なのか?」と。

マンガス:ええ、やりましたよ。最初の頃に。

(思考を)休止しましたか?

マンガス:ええ。

思考が休止している時、「それは喜びではない」と言うことができましたか?

マンガス:いいえ。

「それは喜びだ」と言うことはできましたか?

マンガス:いいえ。

それが至福です。

マンガス:それでは十分ではありません。(笑い)

それとともに十分長く留まってください。そうすれば、精妙さとともに、もっとそれに気づくようになります。

マンガス:それが私にとっては重要です。

そうです。ほんのちょっとだけ垣間見て、これではない、これでは十分ではないと言って、また古い習慣に戻り、マインドの中に答えを見つけようとします。その感覚がやってきたら目を閉じて、絶えずそこにあるもの、精妙なその本質とともにいると、幸福な感じが、どこにいてもあります。それには原因がありません。原因のない喜びです。

それは悲しみの反対ではありません。喜びと悲しみ、愛と憎しみ、心地よいと苦しい、といったことはどれも心理的な観念化です。それには浮き沈みの大きな起伏があります。私たちは精妙な原因のない愛、繊細な喜び、自然な慈しみが見えません。そうしたものすべてがそこにあります。勇気、美、愛。そして私たちはそれにラベルを貼ります。でもラベルがなければ、それは単なる感覚です。その感覚を掴んでください。それが本質、自然な状態です。見ることです。何かをしようとすることが罠なのです。

ジム:何か技法をもちいることの問題は、そこには依然として「私」がいるという信念が背景にあって、思考を分離しようと思考を見て、問題が解決しても、また同じ問題が繰り返し起こってくるということです。でも、それはもっと簡単なことです。私は、深いだとか、良いとかいう思考がやってきた時、「そのことを考えなかったら、今何が問題なのか?」と言うことです。そうすれば、他の人が自然に身につけることをえられます。自然に身に着けることができない人もいますが、それは、ゆるい上着を自分のアイデンティティとして身につけているようなものです。

女性:私たちが見ていないものがとてもはっきりわかりました。私たちが自分だと思っているものより、私たちが見ていないもののほうが実在であるということです。それは誰でも手に入れられるものです。それは純粋な可能性であり、確かな考えとして存在するものです。

私はそれを無努力の生活と呼びます。多くのことがこれによってなされます。時々それが不思議に思われるほどです。

女性:ええ、奇跡的です。

盤珪は、不生の中ではあらゆるとことが解決していると言いました。

女性:ええ。疑いありません。

どうして不生を思考と交換するのですか?

キャサリン:それが私がここへ通うのが好きな理由です。ボブは、明白なことや、それほど明白ではないことを指摘してくれますが、ボブが指摘するとそれは明白なことになるのです。あるのは今だけで、みんなが言うように、あらゆることが起こっていても、それはオーケーです。というのも、物事が起こっていても、そのことについて考えなかったら、何も問題ではないからです。それはいつもそこにあり、それはいつも今であり、今までも、そしてこれからもそうです。

何年も前、海に出ている時、何度も赤道を超えました。でも、そこに通過するような門があったことは一度もありませんでした。(笑い)それで思いついたのですが、宇宙船に乗って下を見ても国境はないでしょう。私たちは、あまりにも多くのありもしない信念や物事を貼り付けています。それをそこに探してもありはしないのです。もしそこに行為者がいるという信念があると、バン! また評価するための参照点が起こります。そこから、良い悪い、心地良い不快、幸せ不幸と判断します。でも、もしその参照点がなかったら、どうやって判断するのでしょうか? それは互いに無効なものとなります。
あなたは、ほんの少し前を生きることができますか?

キャサリン:いいえ。

できません。思い出すことはできます。今この瞬間にできるのは、それを思い出すことだけです。ほんの少し未来を生きることはできますか?

キャサリン:いいえ。

それを想像することはできますが、未来を生きることはできません。それが起こっているのはいつですか? 今です。今から出ることはできますか? できません。つまり、そこから逃れることはできないのです。もしそうしようとしても決してできません。それをやろうとしても、それが起きるのは今この瞬間です。それは、見ることを試みることではなく、あなたが何をしていようと、常にそれなのです。

キャサリン:見ることは自然の知性であるという言い方はできますか? 

信心銘ではこう言っています。空(くう)がここにある。空がそこにある。それでも無限の宇宙があなたの目の前に広がっている。それは、宇宙が消えると言っているのではありません。それは空ではあるが、見た目の上ではそこにあるように見える。それは見られる客体としての場面ではありません。というのも、そこには見る人がいないからです。そこには境界がなく、制限のないものです。

女性:そこには大きな喜びの感覚があります。ここやあそこに。何が起ころうと、何であろうと、喜びを感じるのです。

マンガス:これはむしろゲームのようなものです。このゲームをプレイして、ここ、この場所のようなところへたどり着く。もしそこで、真剣に座って耳を傾けると、ゲームをプレイするのを止めます。

もしあなたが真剣に座って耳を傾けると、ゲームをプレイする「私」はいないということを理解します。今、「私」がいないとすると、それはいついたのですか? 今存在しないなら、それは一度も存在しなかったということを、あなたは理解します。そのゲームはあなたという存在によってプレイされたのではなく、本質があらゆる多様性となって現れたものであり、その本質は決して変化しなかったのです。それはうわべ上でそう見えているにすぎません。

キャサリン:それでもゲームは続くのですが、もっと楽しくなります。

男性:そのとおり。

キャサリン:それがニルバーナ(涅槃)です。

何も為すべきことがないと知って、あなたの心配事は何ですか?

マンガス:何もありません。

あなたはきっとまた尋ねるでしょう。

マンガス:ええ、処方箋を。

いくつの理解がありますか?

マンガス:二つ?(一同笑い)

一同:ありがとう。