2022/04/30

慧能(えのう)①

達磨に始まった中国の禅を大成させたのは、六祖である慧能(えのう:638~713)であると言われています。その理由は、慧能のもとからすぐれた禅僧がたくさん生まれ、後に中国において形成される5つの宗(潙仰宗・臨済宗・曹洞宗・雲門宗・法眼宗)と、臨済宗の2つの派(横龍派・楊岐派)、いわゆる五家七宗が生まれる起点となったからです。もちろん、日本の禅宗も、ルーツを辿れば慧能へとたどり着きます。

慧能の教えを学ぶ材料として、六祖壇経(ろくそだんきょう)という語録があります。内容は、慧能(えのう)が行った説法を弟子の法海(ほうかい)が書き留めたものです。語録は師から師へと直接伝授され、すぐには広まりませんでしたが、九世紀以降多くの人に読まれました。

六祖壇経には様々なバージョンがあって、内容も多少違うようです。参考文献やサイトを参考にして、慧能の生涯と教えをまとめてみます。

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第六祖・慧能(えのう)は唐の時代の人。慧能の父は范陽(はんよう)の出身だったが、左遷されて嶺南(れいなん)の新州に流され、慧能が三歳の時に亡くなった。慧能は母と二人で南海の地に移り住み、薪を売って極貧の生活をしていた。慧能は学問もなく、文字も読めなかった。

ある時、薪を配達した帰りに通りを歩いていると、一人の僧侶が経を唱えながら歩いていた。それを聞いた慧能は、たちまち内容を理解して強く惹かれ、その僧侶に、それは何という経であるかとたずねた。

僧侶は、それが金剛経であること、そしてそれは五祖弘忍(ぐにん)から学んだもので、金剛経を弘忍(ぐにん)のもとで学んで唱えさえすれば、たちまち仏になることができると言われていると教えた。それを聞いた慧能は、すぐにでも弘忍のところへ行って金剛経を学びたいと思ったが、母の面倒を見なければならず、すぐには行くことができなかった。

やがてその話を聞いたある人が、弘忍の母の衣食の費用にと銀十両の提供を申し出たため、慧能は弘忍のもとへと旅立つことができた。慧能は数十日歩いて、弘忍の住む黄梅山に到着し、弘忍に入門を願い出た。

「お前はいったいどこの者か。私のところへ何を求めて来たのか」弘忍は尋ねた。

「私は嶺南の新州の平民でございます。ただただ仏になりたくて、はるばるやってきました」

「お前は嶺南の人間で、そのうえ獦獠(かつりょう:南方の野蛮人)だ。どうして仏になることができようか」

「人間には南と北の区別がありますが、仏性にはもともと南北の違いも身分の違いもありません。仏性にはどんな差別がありましょうや」

弘忍は慧能を力量を認めたが、まだ出家していない慧能を他の修行僧と同じように扱うことはできず、寺の雑務を命じた。弘忍のもとには700人の修行僧がいたが、慧能は出家僧ではなかったため、僧たちよりも下の立場の雑用がかりとして、一日中薪を割り米をひいて暮らした。

そんな生活が八か月ほど続いたある日、弘忍が修行僧全員を集めてこう言った

「私は日頃、お前たちに教えを説いて聞かせた。世の人々にとって生死の問題こそが最も重要であり、生の不安や死への恐れという問題の解決こそが大切である。お前たちの修行がどれほど進んでいるのか、各々の悟った境地を一遍の詩に表現して提出せよ。もし、教えを正しく理解して悟っている者あらば、私の後継者として先祖伝来の袈裟を授け、第六代の祖師としよう」

修行僧なかに、他の修行僧の先頭にたって修行にまい進する神秀(じんしゅう)という修行僧がいた。神秀は、身の丈八尺、容姿端麗、儒教、老荘、仏教を修めた博学秀才。長年まじめに仏道修行した結果、五祖弘忍のおぼえも高く「神秀にわれも及ばぬ」と言わしめた逸材だった。

修行僧たちは口々に、「われわれは詩を提出する必要はないだろう。現に教授師という立場におられる神秀(じんしゅう)様が六祖となられるであろう。われわれが詩を作って提出しても無駄になるだけだ」と言って、詩を提出しなかった。

神秀は人々の気持ちがわかっていて、ぜひとも詩を提出しなければならないと思たったが、下手な詩を書いて出せば、弘忍の信頼を失うことになると躊躇した。詩を書きあげ、提出しようとしたが、何度も迷ったあげく、直接提出することができなかった。

そこで神秀は考えた。弘忍の目に留まるように弘忍の部屋の近くの廊下の壁に詩を貼りつけ、弘忍がその詩を良いと言ったなら、すぐに名乗り出ることにしよう。弘忍は誰にも見られないように詩を夜中に貼りつけた。

身は悟りの樹、心は澄んだ鏡台。
いつもきれいに磨きあげ、塵や埃を着かせまい。

体は悟るための木であり、心は澄んだ鏡のようなものであるから、いつもきれいに磨いてちりやほこりを付かせないように修行しなければいけないという意味である。

弘忍は神秀にはまだ悟りが開けていないことを知っていた。しかし、弘忍はこの詩を読んで、このように修行を続ければ確かに勝れた成果を得るだろう、皆この詩を唱えて修行するよにと言って褒めた。これを聞いた修行僧たちは、弘忍が神秀の詩を褒めたといって、弘忍の法を継ぐのは神秀で決まりだと思った。

修行僧たちはそれぞれ神秀の詩を唱えて歩いた。たまたま一人の僧が慧能がいる米ひき小屋の前を通りかかり、慧能はその詩を聞いた。慧能はすぐに、その詩がいまだ悟った人のものではないとわかった。慧能が尋ねると、その僧はことの成り行きを説明してくれた。

慧能は、その僧に頼んでその詩の場所へ連れていってもらった。そこで慧能は、自分も詩を書いて貼りだしたいと言い、文字が書けないから代わりに誰か書いてほしいと頼んだ。するとそこにいた僧が言った。

「獦獠(かつりょう)のお前も詩をつくるのか、それは珍しい」

「仏の知恵を学ぶ者なら、初学者の知恵をあなどってはなりません。ことわざにもあるとおり、最低の人にも最上の智慧があり、最上の人にも智慧の盲点があります。もし人をあなどれば、たちまちはかり知れない罪をおかすことになりますぞ」と慧能は答えた。

「それでは詩を唱えなさい。お前のために私が書いてあげよう。もしお前が悟りをえたなら、まず最初に私を救っておくれ。この言葉を忘れなさるな」とある僧が答えた。

そして慧能は詩を唱えた。

悟りにはもともと樹はない。澄んだ鏡も悟りの土台ではない。
あらゆるものは、もともと何ものでもなく、常に清らかだ。どこに塵や埃があるというのか。

貼り出された2つの詩を読んで、弘忍は慧能こそが自分の法をつぐのにふさわしい器であると見抜いた。しかし、そんなことになれば、他の修行僧らが黙っていないことも容易に想像がついた。

その夜、修行僧らが寝静まったころ、弘忍は慧能を自室に呼んで、慧能に金剛経を読んで聞かせた。すると慧能は即座に悟りが開けて言った。

「和尚様、何とまあ、自己の本性はもともときれいなものだとわかりました。何とまあ、自己の本性は、生まれることも死ぬこともありません。自己の本性はもとから完全なものでした。自己の本性は微動だにせず、あらゆる現象は去っていきます」

慧能に悟りが開けたことを確認した弘忍は、自分が受け継いできた袈裟を慧能に与え、自分の法を受け継ぐものはお前であると伝えた。

しかし、修行僧たちの先頭であり続けた神秀をさしおいて、まだ出家すらしていない米ひきの雑用係が弘忍の法をついだことが他の修行僧らに知れ渡ったら、どんな騒動がおきるかわからない。ねたんだやつが慧能の命をねらうかもしれない。

弘忍はその晩のうちに慧能を寺から連れ出すと、船を漕いで湖を渡って対岸へと送りとどけ、その身を逃がした。そして慧能に、弘忍から法をついだことをすぐには公にせず、数年は山の中で隠れ住んで、ほとぼりが冷めるのを待つように伝えた。

月日は流れ、慧能は南方(広州)で得度して僧侶となり弟子を育て、その後弟子たちが様々な宗派をたて、禅宗(南宗)として発展していった。一方神秀は五祖弘忍のもとを去り、後に唐の都で、並ぶ者のない天下の名僧として王室、貴族、庶民にいたるまで厚い帰依を受け北宗と呼ばれたが、北宗は先細りとなり、やがては消えてしまった。

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参考文献

六祖壇経 (タチバナ教養文庫)
世界の名著 禅語録
ダルマ (講談社学術文庫)
新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)
禅学入門

参考サイト

禅と悟り
禅の視点 - life -
イーハトーブ心身統合研究所
Wikipedia 慧能
Wikipedia 六祖壇経
Wikipedia Platform Sutra

以下はPDF(六祖壇経の英訳版)
THE PLATFORM SUTRAOF THE SIXTH PATRIARCH by PHILIP B. YAMPOLSKY
On the High Seat of "The Treasure of the Law" The Sutra of the 6 th Patriarch, Hui Neng
The Sixth Patriarch’s Dharma Jewel Platform Sutra

2022/04/28

佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2」

佐々木閑先生の阿含経の講義が始まりました。

阿含経は釈尊がなくなってから釈尊の直接の教えを口伝えで伝えられたものを経典にしたものです。そのため、釈尊の教えにもっとも近いものです。

2022/04/27

胡蝶の夢・ランドセル俳人からの「卒業」・寺山修司の俳句・へたも絵のうち・自足して生きる喜び・出世花

 胡蝶の夢( 一~四) 司馬遼太郎
あい 永遠に在り高田郁を読んで関寛斎に興味を持ち、胡蝶の夢に関寛斎のことが出てくるということで読んだ。関寛斎がなぜ最後に自死を選んだのかもおぼろげながらわかった。

私はもともとノンフィクション系の本が好きで、小説はそれほど読んでこなかった。でも、この作品に関してはノンフィクションと言っていいほど資料や史実に裏打ちされていて、登場人物のドキュメンタリーを読んでいるような感じがした。一体どれほど調べればこんな小説が書けるのだろうか。司馬遼太郎こそが私が探していた小説家なのかもしれない。

話は徳川幕府崩壊期の幕府の医者である松本良順、農民から苦学して医者になった関寛斎、並外れた記憶力を持ち、数か国語を習得した伊之助を中心にした話。幕末のことや佐渡のこと、長崎や陸別のこと。新選組。慶喜。そして医学とは何か。いろいろ考えさせらた。まったく素晴らしい。

ランドセル俳人からの「卒業」 小林凛
小学生の頃からいじめにあい、転校、不登校を経験。まだ21歳の大学生の俳句・エッセイ集。いい句がいっぱい。
いじめ受け土手の蒲公英一人つむ

寺山修司の俳句 マリンブルーの青春  寺山修司
難解な俳句が多くてイマイチ。

へたも絵のうち 熊谷守一
これはおもしろかった。熊谷守一は自分の気持ちに正直に生きた人だと思う。東京美術学校(現東京芸大)を主席で卒業しておきながら、40歳ぐらいまではまったく絵では世に出ていない。その間、友人の援助で生計を立てたり、郷里の岐阜県付知町で馬の世話をしたり、山仕事をしたりして暮らしていた。

ふたたび上京して家庭を持ってからも、寡作で貧乏生活をおくる。それでいて、あくせくしたところがない。友人も多く、人望もあつい。絵を描いて成功しようなとどは微塵も思っていない。作品も4号から6号の大きさのものが大半。やがて絵で食っていけるようになるが、生活のスタイルを変えることなく寡作で、好きなように生き、97歳で亡くなる。文化勲章を辞退しているし、名声や金には興味がなかった。

この本は、日本経済新聞に口述で連載されたものをまとめたものだが、熊谷の人柄がでていておもしろい。こんな人に出会えば誰でも好きになってしまう。絵ばかりでなく、書もすばらしい。

自足して生きる喜び 中野孝次
物にあふれかって生活する現代において、どう生きるのが幸せなのかを教えてくれる。中野孝次のエッセイは内容的にはどれも同じことを言っているが、どれを読んでも飽きないし、毎回なるほどと思う。ということは、依然として私は「欲望を追う」生活をしているということになる。欲望を追わないで生きていきたい。中野孝次はこの先ずっと読んでいく。

出世花 高田郁
まったくすばらしい。文句なし。
以下はアマゾンから。
不義密通の大罪を犯し、男と出奔した妻を討つため、矢萩源九郎は幼いお艶を連れて旅に出た。六年後、飢え凌ぎに毒草を食べてしまい、江戸近郊の下落合の青泉寺で行き倒れたふたり。源次郎は落命するも、一命をとりとめたお艶は、青泉寺の住職から「縁」という名をもらい、新たな人生を歩むことに―――。

2022/04/23

道信(どうしん)

あなたに何か欠けているものがあると思ってはいけない。あなたの心それ自体はもうすでに完全であると理解しなさい。心には達成すべき状態などない。それは、あなたがもたらした観念的な重荷から解放された、あなた自身の心に他ならない。

束縛された心をくつろがせ、自然な安らぎが起きるのを許しさえすればいい。心に対して、思いをめぐらせることは役に立たない。それは、心を分割させるだけである。

あなたの心を浄化しようとすることも役に立たない。どうやって空の空間を浄化することができるだろうか。捕まえたり、拒絶したりした思考や感情を手放しさえすればいい。そうしたことは、不安や嫌悪感であなたの心を収縮させている。

もし、私の言ったことを理解すれば、あなたの心は広大で安らかだということを理解するだろう。私はあなたに、あれをしろ、これをしろとアドバイスしているのではない。あなたは自分の好きなことを何でもすることができる。

何か善良なことをしようと考えないように。同様に、明らかに他者を害するようなこともしてはならない。あなたが経験することは何であれ、仏性そのものの奇跡的な働きであるということを観察しなさい。

喜びに満ち、心配のないこと、それこそがブッダと呼ばれるものである。あなたが経験する環境は本質的に良くも悪くもない。良し悪しはあなたの心の中にだけ生まれる。もしあなたの心が観念から自由なら、動揺して悩まされることはない。

幻想があなたの心にない時、実在の心はすべてをありのままに認識するように解放されている。自身の心を操作しようとしたり、心の涅槃を作りだそうとしてはいけない。

私が話している無心は、あなたの解放された意識のことであり、それは自然にひとりでに現れる。他に手に入れるすべはない。

参考サイト

Zen

Wikipedia 道信

Wikipedia 景徳傳燈録

2022/04/20

熊谷守一つけち記念館

熊谷守一(くまがいもりかず)つけち記念館へ行ってきました。
コロナであまり出歩きたくないのですが、どうしても熊谷守一の絵が見たくなったことと、家から電車とバスで二時間の距離にあるので行くことにしました。

熊谷守一つけち記念館ホームページ

平日だったのでガラガラ。
玄関入口の猫
御嶽
月夜
あぢさい
山道
いそなでしこ
石仏
画集を買いたいところでしたが、諸事情により絵はがきを購入。写真は絵はがきを撮ったものです。あたりまえの話ですが、実物は構図も発色も絵はがきとは比べようもなく素晴らしい。また、画集を買っても、実物を見るような感動はない。やっぱり実物を見ないとダメです。絵の大きさはパソコンのモニターの大きめぐらい(4号から6号)が大半です。

「あぢさい」「桃」「月夜」には、しびれました。
この画風が完成するのは、守一が70歳を超えたあたりからです。芸術家というのは長生きしないとだめですね。
守一が愛した自宅の庭も再現されていました。
書も見たかったのですが、書はほとんどありませんでした。
また行きたいと思います。

2022/04/16

僧璨(そうさん)信心銘

信心銘

ものごとを区別しなければ、道は易しくも難しくもない。

ものごとにしがみついたり拒んだりすることをやめれば、ものごとはすべてありのままである。

しかし、それを見失うと、あなたは天と地ほども分割される。

道を理解したいのなら、ものごとを区別してはいけない。

想像上で好き嫌いをつくると、心は分裂する。

もし道を理解しないのなら、自身の心の平和を乱すこととなる。

心はすでにあるがままで完全である。何も欠けておらず、何もつけ加えるべきものもない。

執着と拒絶によって、そのものの本質の一体性を見失う。

何も手に入れようとしてはならない。何も取り除こうとしてはならない。

非分割性の中で安らげば、どこに非二元性が見つかるというのか。

もしあなたが統一性を達成するために動くことをやめようとすれば、逆にあなたの努力は動きで満たされる。

もしあなたが何かにしがみつこうとすれば、どうやって非分割のものを見つけられるだろうか。

非分割を理解しなければ、あなたの心は粉々に分割される。

存在するものを拒絶すれば、ありのままを見失う。空を主張すれば、空を見失う。

あなたが話せば話すほど、あなたが手に入れようとしているものは遠ざかる。

観念化することをやめなさい。そうすれば、あなたではないものなどどこにもない。

非分割の中で安らぎなさい。そうすれば、為すべきことなど何もない。

自身を分割すれば、絶え間なく忙しい。

現象の世界とは、ものごとをありのままに見ない世界のことである。

実在を探すな。実在に対する観念を捨てなさい。

あらゆる概念は制限されたものだ。それならなぜそれを追いかけて時間を浪費するのか。

肯定、否定をするなら、心は分裂している。

二つは一つゆえに存在する。しかし、一つの存在を確かめようとしてはならない。

心が分割されていない時、一万のものごとは障害とはならない。

しかし、区別をすれば、一万のものごとが障害となる。

心が分割されていない時、見つけるべき心は存在しない。

客体に関連した主体が消える時、主体と客体は混ざり合って一つとなる。

客体は主体があるがゆえに客体である。主体は客体があるがゆえに主体である。

二つの関係性を理解しなさい。もともとは不分割のものである。

両方とも不分割の中で生じ、一万のものごととなって現れる。

高い、低いを区別するな。そうすれば、あなたが好き嫌いをすることはない。

道はすべてを含んでいる。それは易しくも難しくもない。

狭量な心はいつも不自然である。急げば急ぐほど、歩みはゆっくりとなる。


追いかければ追いかけるほど、それを手に入れることは遠ざかる。

自然に起こってくるものを調べなさい。どこからもやってくるところはなく、行くところもない。

あなたの本質を道と調和させなさい。心をくつろいだままにしなさい。


考えすぎることはあなたを分裂させる。半分眠りこけていることもまた役には立たない。

人為的に区別を作り出して、自分を疲れさせることに何の意味があるというのか。

もし不可分のものを知りたければ、感覚を遮断しようとしてはいけない。

感覚の領域は、それ自体が知性の機能に他ならない。

賢者は不動によって行動する。愚者は自らを困難で縛り付ける。

ものごとは違ったように現れるが、不可分のものである。見ようとしない者はこれに気づくことがない。

自分自身を見つけるために自身の心を使うには馬鹿げてはいないか。

不動の中に自身を見つけようとしてはいけない。ただ。生命知性が働くのを許しなさい。

二元性の世界は、あなたのでっちあげにすぎないということを理解しなさい。

夢、幻影、空の花。どうしてそれをつかもうとするのか。

獲得と喪失、正しいと誤り、これらをすべてきっぱりと終わりにしなさい。

明るい日の光の中では、あらゆる夢が自然に消える。

もし心が区別しなければ、一万のものごとはありのままである。

不可分の中で安らぎなさい。未生の不動の中で。

もしあなたが一万のものごとを手放せば、あなたの心は安らぐだろう。


相対的な思考の外に出なさい。そして不可分の中で安らぎなさい。

変化は無変化であり、無変化は変化であるということを理解しなさい。

分割されたものを放棄するなら、一つのものに思いをめぐらす必要はない。

ものごとの本性は、計ることも言い表すこともできない。

心にとって、それは分割されたものではない。あらゆる骨折りは徒労に終わる。

疑念が無くなるとき、あなたは不可分性と調和する。

すべては理解することができないものであるということを理解しなさい。あなたがしなければならないことは何もない。

意識の不可分性の中では、あなたの心を使う必要はない。

意識を客体化することはできない。観念によってそれを理解することはできない。

ものごとの本性の領域では、自己もなければ、自己以外もない。

もしあたがそれと調和したいのなら、「二つではない」ということを思い出しなさい。

非二元性の中では、すべては不分割である。そこには何も残されていない。

目覚めている人は誰しも、このことを理解している。

不可分性は時空を超えている。一瞬がまた千年でもありえる。

ここもあそこもない。そうでない場所などどこにもない。

境界がないとき、小は特大と同じぐらい大きい。

制限がないとき、大は極小と同じぐらい小さい。

存在は非存在である。非存在は存在と違わない。

理論的に考えようとして、時間を浪費しないように。それは全くあなたの助けにならない。

一つはすべての中にある。すべては一つである。

自身を完全なものにしようとしてはならない。この真理を理解しなさい。

真の心は不可分である。心を信じるのは不可分の心である。

道を言葉で言い表すことはできない。そこに時間はない。

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信心銘は禅の三祖、僧璨(そうさん)の作と言われていますが、はっきりしたことはわかっていません。

信心銘というタイトルの意味を文字通り解釈するなら、「心を信じる」ということになるかと思います。では、その心とは何か。心には二種類あると思います。一つは思考のことで、もう一つはその思考の背後にある意識のことだと思います。この題名に使われている心は、意識の方であり、それを信頼するということだと思います。思考は分割します。でもその背後にある意識は分割されることはありません。

ボブ:信心銘はあなたに、「何に対しても賛成、反対の意見に固執するな」と教えています。禅の三祖は、意見を持つなと言っているわけではありません。意見は起こってくるでしょう。好みも同じです。でも、それに固執しないでください。それをやって来させ、去らせてください。それをあなたのものとしてはいけません。

あらゆることが、何らかの視点から判断されます。それが、自己の中心、すなわち基準点、「私」、「私の」となります。さて、このボブの体と心の中には、固定された信念や、固定された意見はありません。私は意見を持つことができますが、それは石の中に固定されたものではありません。同様に私は、「私」や「自分」と言うことができますが、それもまた固定されたものではありません。それは去っていきます。SAILOR BOB: Bags of pointers to nonduality p243より

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【禅とこころ / 禅の思想に学ぶ】第3回 無分別 | 花園大学総長 横田南嶺

31分ぐらいから、信心銘の解説があります。

2022/04/09

達磨(だるま)④

心の外に仏性なし

三界において多くの混沌とした出来事が起きようと、最後にはただ一つの心の中で完結する。古今の仏陀は文字に頼らず、心から心へと教えを伝えてきた。

弟子:文字によらないで、何によって、どのように心を思い浮かべるのでしょうか?

達磨:おまえが私に尋ねる時、尋ねているのはおまえの心である。私がおまえの質問に答える時、それは私の心だ。

心なくして、誰も仏陀を見つけることはできない。なぜなら、心の外に菩提や涅槃を見つけることは不可能だからだ。私たちの自性は真実で満ちている。そこにはもはや因果はない。あるがままの自己とは、自己の心であり、その心が仏陀である。そしてその心こそがすでに輝き、穏やかに光輝く涅槃なのだ。

心の外に仏陀や菩提があるはずだと主張することは重大な誤りだ。仏陀や菩提が他のどこにあるというのか。空っぽの空間をどうやってつかもうというのか? 空は単なる言葉であり、形も大きさもないため、つかむことはできない。あたかも空をつかむかのように、心の外にある仏陀を見つけようとしても無駄だ。

仏陀は心の産物なのだから、心の外では見つからない。古今の仏陀たちがそう語っている。心だけが仏陀である。仏陀だけが心である。仏陀は心の外には存在しない。心は仏陀の外には存在しない。

もし仏陀が心の外に存在するなら、それはどこだろう。もし仏陀が心の外には存在しないのなら、仏陀という考えはどこから来たのか。心の本性を見ずして、間違った意見を交換するなら、死んだ物質(仏像)に固執して、自由のない存在となってしまう。もしおまえがこのことを信じないのなら、自身を欺くことになり、何の役にも立たない。

仏陀に欺瞞はないが、混乱した不完全な者たちは自身がすでに仏陀であるということを理解することも気づくこともない。もし仏陀が自分の心だということがわかったら、心の外で仏陀をさがしてはならない。仏陀は仏陀によって解放されることはなく、そんなふうにして仏陀が見つかることはない。それは、仏陀が自身の心と何の違いもないと知らないこと、無知によって起きる。

おまえはすでに仏陀なのだから、仏陀たちを崇拝してはならない。仏陀のことを考えてもいけない。仏陀自身は経典を読めず、サンガの戒律を守ることも破ることもできない。仏陀は守るべきものも破るものもない。仏陀自身は善も悪も行わない。

真に仏陀を見つけたいのなら、自己の本性を見なくてはいけない。それが仏陀である。自己の本性を見ずして、どれほど仏陀の名を唱え、経典を読み、儀式で礼拝し、戒律を守ろうとも、得るものは何もない。

仏陀の名を唱えれば、次の生では幸せとなるだろう。経典を読めば賢くなって知識が増え、戒律を守れば天に生まれることができよう。他者を助けるなら富をもたらすだろう。しかし、そうしたことで仏陀を見つけることはできない。

もし、まだ自分のことがよくわからないのであれば、すでに大いなる目覚めを得ている師を見つけて、生死の本質に目覚めるべきである。自己の本質に目覚めていない人を師とは呼べない。それゆえ、経典のすべてを読んだとしても、三界の生死のカルマの海に落ちて、大きな苦しみから解放されることはない。

かつてある僧侶が万巻の経典を読んで習得したが、自己の本性を見ることなく、カルマの連鎖から解放されることはなかった。そして今、多くの人がいくつかの経典を学ぶだけで悟りが開けると思っている。なんと愚かなことか。どれほど大きな過ちを犯していることか。

自身の心を理解することなしに、根拠のないフレーズを暗唱しても意味はない。
仏陀を見つけるためには、自己の本性を知ることだ。

自己の本性は仏陀である。
仏陀は自らの中にいる。無為無作の存在である。
自己の本性を見ずして、昼夜懸命にさがしたとしても仏陀は見つからない。

もともと達成すべきことなど何もないと言えるのだが、もしそれが理解できないのなら、真摯な努力と働きによって、おまえの心を開いてくれる師を見つけなくてはならない。生と死は大いなる謎だ。無駄に過ごしてはいけない。いずれにせよ、自らを欺くことは役にたたない。

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問い:修行を積み、道を達成する者たちのうち、達成するのが早い者と遅い者の違いは何でしょうか?

達磨:そこには大きな違いがある。この心こそが道であると思っているものは進歩が早い。悟りがあると思い、それを達成しようと試みるものは達成するのが遅れる。

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四聖句

四聖句とは、達磨が残した言葉で、禅の特徴をあらわした言葉です。

不立文字(ふりゅうもんじ)
教化別伝(きょうげべつでん)
直指人心(じきしにんしん)
見性成仏(けんしょうじょうぶつ)

不立文字(ふりゅうもんじ)とは、文字を立てないという意味で、悟りは文字で示すことはできないという意味です。要するに、言葉で伝えることはできないという意味です。

教化別伝(きょうげべつでん)とは、教えることは、伝えられたもの(経)とは別のところにあるという意味です。要するに、経典ばかり読んでないで、自分で体験することが大切であるという意味です。

直指人心(じきしにんしん)とは、直ちに人の心を指してみよ、という意味で、心を今すぐに調べてみよ、という意味です。

見性成仏(けんしょうじょうぶつ)とは、性(自身の本性)を見れば、そこに成仏(仏陀)がいるだろ、という意味で、要するに、おまえの心が仏陀であるという意味です。

この解釈は私の個人的な解釈が入っていますので、以下の参考サイトの解説も参考にしてください。

達磨は、「仏陀はおまえの心の中にいる、おまえの心が仏陀なのだ、おまえはもともと仏陀なのだ」と言っているように思われます。それを心と呼んでもいいし、識と呼んでもいいし、意識でもマインドでもアウエアネスでもいい。私たちはもともとそれなのです。

参考サイト

禅の視点 - life -
コトバンク 達磨
禅 zen
長光山 陽岳寺

参考文献

世界の名著 禅語録
ダルマ (講談社学術文庫)
新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)
禅学入門

2022/04/07

動的平衡・動的平衡2

 動的平衡 福岡伸一

この本に興味を持ったのは、仏教のことをブログに書いている時に見た「大谷大学キャンパスツアー/第5回親鸞フォーラム-親鸞仏教が開く世界」の中の福岡伸一さんの話に興味を持ったため。私のブログでは「初期仏教 無我・五蘊(ごうん)」のところの参考サイトとして掲載。

この本はとても難しい本でした。内容を一言で説明するのは無理ですが、簡単に言うと、「生命というのは機械ではなく、一種の流れである」「生命は動的なもので、その要素は絶え間なく変化しつつ平衡を保っている(動的平衡)」ということです。これを読んでいると、そこには個体としての生命があるのではなく、絶えず変化している何かがあるということがわかります。

この考え方は仏教でいう五蘊の考え方に近いということで、大谷大学がフォーラムに招いたものと思われます。興味のある方は「大谷大学キャンパスツアー/第5回親鸞フォーラム-親鸞仏教が開く世界」の5:00~26:00あたりを見てもらうと、要点だけはわかります。

動的平衡2 福岡伸一
あいかわらず難しい内容だった。一つ一つの内容は興味ある話だけど、結局なんだかよくわからない。生命とか人間とかに関しては、肝心なことは何一つわかっていないということはわかった。

2022/04/06

もっと知りたい熊谷守一 ・熊谷守一つけち記念館所蔵作品画集・人生に余熱あり・八朔の雪・後白河院

 もっと知りたい熊谷守一 
今一番興味ある画家は熊谷守一。熊谷守一は「世俗的な欲望を追及しない」生き方をした人だと思います。近々、熊谷守一記念館へ行く予定なので、ちょっと下調べ。


熊谷守一つけち記念館所蔵作品画集
まったくすばらしい。どうしてこんな絵が描けるのでしょうか。
参考:Google「熊谷守一 絵」

人生に余熱あり 城山三郎
あい(高田郁)を読んだ時、その参考文献として掲載してあったので読んでみた。でも、関寛斎に関する記述は30ページほどで、あとは他の人が老年をどう過ごしたをエッセイ風にまとめたものだった。関寛斎がどうして最後に自殺したのか知りたかったが、それは不明であるということがわかった。

八朔の雪 高田郁
いやまったくすばらしい。このシリーズに限らずもっと高田郁を読む予定。

後白河院 井上靖
難しい小説でした。後白河院と関係のあった四人の人物が、後白河院のことを回想して語る筋立てになっていて、当然読み手はその時代背景や、源平にまつわる物語を知っている前提で語られる。いろいろわかっておもしろかった半面、何のことかわからない部分もあった。
それにしても後白河院の変わり身の早さはすごい。関わった人はもれなく非業の最後を遂げるのに、自分はしぶとく生きていく。

2022/04/04

動的平衡・第5回親鸞フォーラム

 大谷大学キャンパスツアー/第5回親鸞フォーラム-親鸞仏教が開く世界

5:00~26:00 福岡伸一氏の講演「生命というのは機械ではなく、一種の流れである」「生命は動的なもので、その要素は絶え間なく変化しつつ平衡を保っている(動的平衡)」

2022/04/02

達磨(だるま)③

前回のつづき

根源としての本質は心であり、心は仏陀である。仏陀は道であり、道は仏陀である。しかし、驚くほど目覚めている知性を意味する仏陀という言葉は、普通の人にも聖人にも容易には理解できない。それゆえ、もし仏陀を見たいと思うなら、自らの根源的な本質を知らなければならないと言われているのだ。

あなたは高座に座して、一日中何千という経典や注釈書の解説をすることはできるが、自らの根源としての本質に通じていなければ、それは単なる無意味なおしゃべりとなる。道は深淵で神秘的であるが、言葉を通じてそれを理解することはできない。どれだけ読んでも、どんな説明も助けとはならない。

あなたがそれを十二支縁起のどこかで見つけることはない。あなたはそれを自ら経験しなくてはならない。あなたは、自分で飲んで初めて水がどんな味かを知る。それを人に伝えることはできない。

しかし人々は自身のまわりで朝から晩まで起きることに心を奪われているため、見せかけにだまされて取りつかれてしまう。彼らは自身の心がもともと完全なものであり、分割できないものであるということを理解しない。もしあなたがすべてのものごとは心から現れ、つかの間のものだということを理解すれば、初めからこうしたことに執着することはない。

あなたが執着したとたんにそれは起こる。あなたはもう正しくものごとを見ることができない。数千の経典はこのことを説明しているにすぎない。でももしあなたが、このことを理解して自らの本質に気づいた瞬間、そうした古びた書は必要ではなくなる。

道には形はなく、言葉もない。観念を生み出すのは言葉である。しかしそれは単なるあなたの思考にすぎない。それは夢と何の違いもない。夜、あなたは夢の中ですばらしい家、場所、森、庭、湖といって美しい景色を見るだろう。

あなたが夢から覚めると、そのすべてはどこへ行ってしまうのか。そうしたものにとらわれてはならない。自分自身を自らの想像や考えというわなに落としてはいけない。もしあなたがこのことを理解しなければ、あなたは永久に振り回されてしまうだろう。自由で束縛されたくないのであれば、ものごとに執着してはならない。

私以前の27代にわたるインドからの先達たちが伝えてきたことはたった一つであり、それがこの心のことである。私がここ中国に来た唯一の目的は、心が仏陀であると指摘するためである。

金言、苦行、禁欲、熱い炭の上を歩く力、水の上を歩くこと、剣を飲み込むこと、一日に一食、立って眠ること。こうしたことに私は興味がない。こうしたことに励んでいる人たちは誤解している。もしあなたがこうしたことのいずれかが有意義なことだと思っているのなら完全に間違っている。

道は何かをあれこれすることとは何の関係もない。あなたの心はすでに仏陀の心である。あなたのすべきことは、常にこの心に気づいていることだけだ。過去、現在、未来の仏陀たちはたった一つことを教えていて、それはあなた自身の心のことを直接指し示している。

あなたは非常によく学んでいて、一日中人に十二支縁起を説いているかもしれないが、もしあなたが自身の心について目覚めていないのなら、そうしたことはすべて無益なことだ。一方、あなたが読み書きできなかったとしても、この心に気づいているのなら、あなたは最終的に完全な自由を達成できるだろう。

仏陀とは目覚めた知性に与えられた名称である。この心には形がなく、原因がなく、筋も骨もない。それはちょうど空の空間のようなもの。あなたはそれをつかむことはできない。そしてまた、心は肉体と切り離すことはできない。この心無しでは肉体は機能しない。

心無しでは肉体は生気がなく、感じることができない。体は何も感じない。体は何もすることができない。心のおかげであなたは、見て聞いて歩いて話して考え、行動することができる。こうしたことは心が持つ生きた知性としての機能である。

つまり、この機能は心が動かしているということができる。動くことや機能することなしに心はありえない。そして、心なしに動きはありえない。それでも、動いているのは心ではない。というのも、知性は動かないからだ。知性としての心自体に動きはない。

同時に機能としての動きは心と切り離すことはできない。心は行動と切り離されてはいない。それゆえ経典の中では、心は動くことなしに動くと言われている。毎日毎日それはやってきては去っていくが、それはどこへも行きはしない。毎日それは物事を見て聞くが、それでも何かが見えることも聞こえることもない。

同様に、毎日それは笑い、泣き、喜び、悲しむが、こうしたことはどこにも見つからない。それゆえ経典ではこう言われている。
言葉や描写でそれを説明することはできない。
思考や分析でもそれに到達することはできない。

*************

「心の外に仏陀なし」は達磨の作だと言われていますが、おそらくそうではなく、後代の人の創作であるという人もいます。

心が仏陀である、と最初に読んだ時、いったいそれはどういう意味だろうと考えこんでしまいました。心というと、「思考」と考えがちですが、そうではなく、思考の背後にある「意識」をとらえて心と言っているように思います。心を、アウエアネス(意識)と読み替えてみてください。

いくつか別のバージョンが伝わっているので、次回別のバージョンを掲載したいと思います。

2022/03/30

春琴抄・日本語の作文技術・実戦 日本語の作文技術・中学生からの作文技術・天平の甍・風の果て・あい永遠にあり・容疑者Xの献身

春琴抄 谷崎潤一郎
谷崎潤一郎の「文章読本」を読んだので、どんな文章を書くのか興味が湧いて読んでみた。まず文章について書くと、この小説は句読点を極端に省略した文体で書かれている。通常、文章と文章の間にある「。」が省略してある箇所がたくさんあって、最初のうち、とても読みにくかった。おそらく意図してそうしたものと思われる。

物語に関して言えば、大筋はなんとなく知ってはいたが、全然おもしろくなかった。なぜこれが名作なのか全くわからず。

日本語の作文技術  本多勝一
この本を買うのは三回目です。過去二回はずっと昔に断捨離。また読みたくなって買いました。吉川英治の「新平家物語」のブツ切りの文章を読んで、自分も最近同じ傾向があるのではと思い、もう一度この本を読み直そうと思いました。
句読点の打ち方や、長い修飾語の語順をどうすると読みやすい文章が書けるかについて書かれています。いくつかの原則を守るだけで、かなり読みやすい文章を書けるようになります。

なかテン「・」の打ち方について考えさせられました。私が文章を書く場合、「クジラ、ウマ、サル、アザラシなどは」というようにテン「、」を使いますが、本多さんは、なかテン「・」を使うべきだと言っています。なるほどなぁという理由が書いてあるのですが、市販の本では「、」を使った書き方が多い。

また、例えば「セイラー・ボブ」という表記も「セイラー=ボブ」としているそうです。その理由は納得できるものですが、一般的には「セイラー・ボブ」が多い。

今回特に参考になったのは、漢字とひらがな、送り仮名の使い方。漢字とひらがなについては、文章が読みやすくなるように、その場その場で漢字にするかひらがなにするのか決めているということが参考になった。また、送り仮名についても、送るかどうかは、読みやすくなるように、文章によって決めるということ。

また、私はこのブログに翻訳文も書いていますが、翻訳調になってしまうことがあります。なぜ翻訳調になるのかも書いてみえます。この本に書いてあるいくつかの原則を守るだけで、翻訳調を防ぐことができます。文章を書く技術の本としては、今のところこの本がベスト。もう断捨離はしません。

実戦・日本語の作文技術 本多勝一
この本では、句と節の定義が「日本語の作文の技術」と違い、読んでいて少し混乱するところがあります。「日本語の作文の技術」では、『節を先に、句を後に』となっていた箇所が、この本では『句を先に』となっています。「日本語の作文の技術」も『句を先に』に直すべきだと思います。

前半は「日本語の作文技術」の内容の延長ですが、後半は『日本語をめぐる「国語」的状況』となっています。そこでは本多さんがいつも主張されている言語帝国主義、植民地用語としての英語について書いてあります。

長年英語を学び、そして今でも学んでいる身としては考えさせらることがたくさんありました。なぜ英語だけが世界の共通言語であるかのようにまかり通っているのかという疑問。それは言葉による支配、西洋文化を自分たちの文化よりも優れた文化として妄信している卑屈さの表れではないかということを改めて考えさせらました。

その昔私は本多さんの大ファンで、かたっぱしから読んでいた時期があったのですが、途中からちょっとついていけないと思うようになって読まなくなりました。これを読んで、また読んでみようかと思うようになりました。

中学生からの作文技術 本多勝一
内容は「日本語の作文技術」の文章の一部をそのまま転載して中学生向けに編集したもの。基本的にはこれだけ読めばいいような気もします。
本多さんの三冊を読んで、あらためて自分の文章を読みかえしたみたが、本多さんの文章技術をそれほどはずしてはいないと思いました。そりゃあ過去に何回も読んでいるからそうなんですけど、詳しく見ると、不要な句読点を打っていたり、誤解釈されそうな箇所もある。これを機に気を付けていきたい。

天平の甍 井上靖
遣唐使として唐へ渡った僧・普照(ふしょう)が、二十年の歳月をかけて鑑真を日本に連れてくる話。おもしろかった。奈良時代の日本の仏教がどんな状態だったのか、当時の唐の様子や遣唐使たちの生活はどうだったのかがよくわかる。また、どれほど多くの報われない遣唐使がいたのか、どれほど多くの人が仏教を日本に伝えるために努力したのかがわかる。

風の果て(上) 藤沢周平
風の果て(下) 藤沢周平
とてもおもしろかった。ともに青春を過ごした仲間たちがどのような道をたどっていくのか。蝉しぐれよりもこっちのほうが良かった。

あい 永遠に在り 高田郁
実在の人物・関寛斎の妻・あいの物語。まったくすばらしい。こんなふうに一途に生きられたなぁ。

容疑者Xの献身 東野圭吾
う~ん。イマイチ。

2022/03/26

達磨(だるま)②

心の外に仏陀なし

心は仏陀であり、仏陀は心である。心の外には仏陀はいない。そして、仏陀の外に心はない。過去の仏陀、現在の仏陀、未来の仏陀たちは、この同じ心のことを指している。

しかし、混乱した人々はこのことを理解しない。彼らは他を探し続ける。始まりのないほど遠い過去から、終わりのない未来まで、あなたがどこへ行こうと、何にかかわろうと、この心から離れることはできない。それゆえ、心は仏陀であると言われている。仏陀とは、それを理解している人のことである。凡庸な人とは、それを理解しない人のことである。

心はすでに光を放ち、静かに輝いている。それを完全なものにする必要はない。心の外で仏陀となるために何か達成すべきことがあると想像するのは重大な誤りである。その仏陀がどこで見つかるというのか。それがどこからやってくるというのか。

それを例えるために空(くう)の空間を考えてほしい。どうやってあなたは空の空間をつかむことができるだろうか。空の空間というのは名前にすぎない。実際それには形、大きさ、サイズがない。それを見ることはできない。あなたはそれをつかみあげて落とすことはできない。

同様に、想像上の仏陀をさがすということは、空の空間をつかもうとするのと同じである。それはできない。あなたが想像する仏陀は、あなたの心の投影にすぎないというのに、どうやってそれを見つけようというのか。あなた自身の心の外には、見つけるものは何もない。不幸なことに、自身のもともとの心を理解しない人たちは、あれこれと考え、自らの間違った考えにしがみつく。そのやり方では決して解放されることはない。

もし私の言うことを信じなければ、あなたはもっと深い穴に落ちることになる。私の言うことに耳を傾け、あなた自身の心がすでに仏陀であるということを理解しなさい。もし私の言うことに従うなら、あなたが心の外をさがすことはない。仏陀は仏陀によって解放されず、仏陀を心で見ることはできない。

あなたはもうすでに仏陀なのだから、仏陀像を崇拝してはいけない。イメージ上の仏陀に対して祈るような行為にかかわってはいけない。仏陀自身は経典で学ぶこともなければ、教えを守ることもない。仏陀は立派な行為には興味がない。仏陀が善意の原因となることはない。

もしあなたが本当に仏陀を知りたいのなら、一つだけ方法がある。あなたは自身の本質を知らなければならない。私は率直に言っている。もしあなたが自身の本質を知らなければ、仏陀の名を唱え、神聖な経典を読み、礼拝をして誓いを守るというすべての宗教的な行為は全く価値のないものとなる。自身を解放するということに関しては、何の足しにもならない。

仏陀の名を唱えることは将来あなたが何らかの幸福を手にいれるために役立つかもしれない。経典を読めば、知識を増やすのに役立つかもしれない。誰かを助けることはあなたに幸運をもたらすかもしれない。しかし、こうした行為のどれも、あなた自身の本質を理解する助けにはならない。たとえもし万巻の経典すべてを読んだしても、あなたは生と死の海を泳いで自身のカルマを作り続けるだろう。あなたがそうしたことから自由になることはない。

自身の本質を理解しない者は、仏陀に関して無意味なたわ言を言うにすぎない。それゆえ、もし彼らが十二縁起のすべての章を暗唱していて説明することができたとしても、それはたわ言にすぎない。もしそうした人々があなたに、いわゆる宗教的な行いや、あれやこれやを行うことによって何か達成すべきことがあると言うのなら、それは日常的な行いに関する伝統的な教えにすぎない。それは誕生と死の領域の中にあるもの。それはあなたの本質とは何の関係もない。

私の言うことをしっかりと聞きなさい。仏陀とは、主張したり拒絶したりすることとは関係ない。どのような考えや信条に執着していようと、それはあなたが道を達成することをさまたげる。もしあなたが物事に対して自身の考えに執着するなら、そこには仏陀のための余地はない。

自己の本質とは、本質的に空である。そこには純、不純はない。遵守すべきことは何もない。何かを完全にする必要もない。何かを達成する必要もない。仏陀とは、良いことや悪いことをすることとは関係ない。仏陀とは、あれやこれやをすることとは関係ない。仏陀とはまさしく何もしない者である。

あなたが、自分であれやこれやをしなくてはいけないとか、あれやこれやの観念を身につけるやいなや、もはや仏陀の余地は残されていない。あなたの心に仏陀という観念が浮かんだ時点で、それはもう仏陀ではない。それゆえ、仏陀について考えてはならない。観念化してはならない。

そしてまた、無為の意味を誤解している人たちがいる。そうした人たちは、無為とは休止して何もしないことだと思っている。なんという見当ちがいだろう。同様に、それは心を常に空の状態に保つことだと考えている人もいる。それも間違いである。こうした人たちは何もわかっていない。

そしてまた、すべてはもともと初めから空なのだから、自分の思い通りにふるまい、たとえそれが人を傷つけたとしても、自分のやりたいことをやるという人たちもいる。こうした人たちは愚かな酔っ払いのようなものだ。その結果は悪いカルマを積むことだけだ。私が言いたいのは、もしあなたが本当に無為を理解したいのなら、あなた自身の本質を理解することだ。

さて、この心は初めから今ある心と何の違いもない。それは生まれたこともなければ死ぬこともない。それは現れることもなければ消えることもない。増えることもなければ減ることもない。正しかったこともなければ間違っていたこともない。男性であったことも女性であったこともない。若かったことも老いていたこともない。

聖人であったことも普通の人であったこともない。それは原因と結果を超越している。それには形がない。それは空の空間のようなもの。それをつかむことも離すこともできない。心では理解できない。

私が心について話すと、人々はそれを見たがる。「わかりました。ではそれはどこにありますか。もしそれがあるなら見せてください」。彼らは心のただ中にいる。それは朝から晩まであなたの手足を動かし、あれゆる奇跡的な事をやっている。

心は計り知れないほど神秘的で、その機能には制限がない。もしあなたがそれを自身の目で見ようとさがしているなら、決してそれを見ることはない。それは見えるようなものではない。あなたがそのただ中にいても、それを見ることはできない。それゆえ経典では、如来だけがそれを完全に理解できると言っている。

もし仏陀に突然出くわしたとしても、少しも気にとめてはいけない。私は仏陀だったと興奮してはいけない。そうではない。それが何か特別なことだと思ってはいけない。それは単なる幻覚にすぎない。あなたの心がトリックを演じているにすぎない。特別な見せかけや現象が現れても、構わないでおきなさい。私は万一に備えて言っている。

人々は簡単にこうしたことに巻き込まれて、まったくあべこべに理解する。私が話をしている心には姿形がないということを理解しなさい。仏陀には形はない。仏陀にはどんな姿もない。本質には次元も時間もない。

霊や神を礼拝して助けを請うのをやめなさい。それをすれば、自らトラブルを招くことになる。それをやめなさい。形に執着してはならない。それゆえ経典の中では、形あるものはすべて一時的なものであり、究極的には幻影であると言っている。仏陀にはどんな性質も外観もない。

もっとはっきり言えば、仏陀は驚くほど目覚め、気づいている。それが機能として働いている。時々目をまばたきさせ、眉を上げさせる。腕を動かし、足を動かす。こうしたことはすべて、驚くほど目覚めた知性の働きである。

次回へつづく

2022/03/23

自分らしく生きる・覚えておきたい極めつけの名句1000・反応しない練習・苦しまない練習・考えない練習・敦煌・よろずや平四郎活人剣 (下)・夜消える・暗殺の年輪

 自分らしく生きる 中野孝次
エッセイ集。
君はいま、本当に心の充足を感じながら生きているか? 道具や機械、組織や制度に支配されず、本当に自律的な人生を生きているか?あり余るほどの“モノ”に囲まれ、情報や娯楽が氾濫する日常生活。過剰な生産=消費のサイクルの中で、自分らしさを失わずに生きるには、人はいったい何を必要とし、何を必要としないのか。現代を真摯に見つめてきた著者が、迷える若い世代に呼びかける熱い魂のメッセージ。」本の表紙より
 筆者のメッセージは「常に自分の信じるところによって生きよ」ということ。人は世間の価値観や条件付けの中で生きている。それがいかに意味のないことかを問うている。

覚えておきたい極めつけの名句1000
音読用に購入。俳句というのは本当にどうでもいいようなささいなことを詠んで、それでいて「う~ん」とうならせてしまう。
これを音読して名句に親しむつもり。

反応しない練習 草薙龍瞬
苦しまない練習 小池龍之介
考えない練習  小池龍之介
三冊ともタイトルが気になって読んでみました。同じような内容なので一括して感想を書いておきます。
参考になるところはあったのですが、違和感が残りました。何が違和感なのかというと、「練習」ということ。
この本三冊に共通しているのは、反応しないこと、苦しまないこと、考えないことに対して、どういう風に対処したらいいのかということが書いてある。でも、何も根本的な解決になっていない。
セイラー・ボブの教えのように、「『私』は実在しない!以上終わり」とバッサリやった方がすっきりします。それは「練習」ではなくて「理解」なのだと思います。
いちいちの問題に、ああしましょう、こうしましょうとやっていると、玉ねぎの皮向きと同じで永久に終わらない。
二人とも僧侶なので、「無」や釈尊の教えからバッサリとやる方法が書いてあるのかと思ったけど、それはなかった。

敦煌 井上靖
仏教のことをブログに書くために仏教関係の本を読んだ時、何度も何度も出てきた敦煌文書。どのように発見され、その多くがどうやって国外に持ち出されたかは仏教関係の本で知った。その敦煌がテーマになっている小説なので読んでみた。
まったくすばらしい。あっという間に読んでしまった。
物語は主人公の意図とはまったく関係なく、予想もしない方向へと展開していく。わくわくして読んだ
以下本の扉より
「官吏任用試験に失敗した趙行徳は、開封の町で、全裸の西夏の女が売りに出されているのを救ってやった。その時彼女は趙に一枚の小さな布切れを与えたが、そこに記された異様な形の文字は彼の運命を変えることになる……。
西夏との戦いによって敦煌が滅びる時に洞窟に隠された万巻の経典が、二十世紀になってはじめて陽の目を見たという史実をもとに描く壮大な歴史ロマン。」

夜消える  藤沢 周平
短編集。いまいちかなあ。

暗殺の年輪  藤沢 周平
短編集。ぞっとするような話ばかり。でもそれがよかった。

よろずや平四郎活人剣 (下) 藤沢周平
おもしろかった~。主人公のキャラクター大好き。

2022/03/19

禅(ぜん) 達磨(だるま)①

「禅」という言葉を広辞苑でひいてみました。

ぜん【禅】
① 略。
②〔仏〕(梵語dhyyanaの音写。禅那とも)心を安定・統一させる修行法。禅定(ぜんじょう)。六波羅蜜の第五。
③禅宗の略。

明鏡国語辞典では、

ぜん【禅】
①雑念を捨てて精神を集中させ、無我の境地に入って真理を悟ること。「座禅・参禅」禅那の略。
②禅宗。 「禅僧・禅問答」
③「座禅」の略。

禅という言葉は、古代インド語であるパーリ語の dhyana(静かに考えるという意味)の俗語形jhanaが中国語で音写されて禅となったものだそうです。

インドでは、仏教以前からヨーガ(瞑想)による修養がさかんに行われてきました。仏教もその影響を受けていて、仏教の基礎的修道論である三学(戒・定・慧:かい・じょう・え)の一つに定(禅定)があります。三学とは仏語で、仏道修行に必要な三つの大切な事柄のこと。悪をやめる戒め(戒)、心の平静を得るための禅定(定)と、真実を悟る智慧(慧)のことです。

禅という漢字は現在の中国語ではchan(チェン)、日本語ではzen(ゼン)と発音され、欧米では両者を併用するようですが、二人の鈴木(鈴木大拙:たいせつ鈴木俊隆:しゅんりゅう)の活躍によって、アメリカでは zen と呼ばれる場合が多いようです 。英語表記では、Ch’an もしくは Zen。

禅とは、仏教の修養法(瞑想)のことであり、仏教経典の中に、その修養法について書かれたものがあって、それが中国へもたらされました。達磨以前に禅を中国へ伝えた人もたくさんいたのですが、中国での禅は達磨以降に大いに発展したことにより、禅は達磨から始まったと言われています。このブログでは達磨以降の禅について書く予定です。達磨以前の中国の禅の歴史について興味のある方は、禅と悟りというサイトを参照してください。

中国で発展した禅は、禅宗と呼ばれるようになります。釈尊が説いた初期仏教と禅宗の最大の違いは、作務(さむ)です。釈尊の説かれた仏教では、たとえば畑で作物を育てるというような生産活動は禁止されていましたが、禅宗では修行の一環として作務に積極的に取り組むようになりました。

もともとの仏教では、修行に専念するため、生産活動に従事することは禁止され、托鉢などをして社会に依存していましたが、禅宗においては作務そのものが修養の一環となったのです。

中国における禅の系譜

開祖 菩提達磨(だるま・ボーディダルマ:生年不明 、釈迦から28代目とされる)
二祖 大祖慧可(えか:487年~529年)
三祖   鑑智僧璨(そうさん:推定500年~505年頃 信心銘の作者)
四祖 大医道信(どうしん:580年~651年)
五祖 大満弘忍(ぐにん:601年~674年)
六祖 大鑑慧能(えのう:632年~713年 六祖壇教の作者)
八祖 馬祖道一(ばそどういつ:709年~788年)

さらに六祖慧能が起点となって、それから急速に禅が中国国内に広まり、五家七宗と呼ばれる禅の興隆時代へと入っていきます。(詳しくは禅の視点 - life -を参照してください)

日本における禅の歴史

12世紀に入り栄西禅師が中国へ渡って禅を学び、印可を受けて日本に戻ることによって、禅が本格的に日本へともたらされます。

日本の禅宗で現在も残っているのは、臨済宗、曹洞宗、黄檗(おうばく)宗の三宗です。栄西と道元は中国へ渡って学んだ僧であり、隠元は中国からやってきた僧です。

臨済宗(開祖は栄西:1141年~1215年、一休、盤珪、白隠)
曹洞宗(開祖は道元:1200年~1253年、良寛、永平寺)
黄檗宗(開祖は隠元:1592年~1673年、いんげん豆や煎茶をもたらした)

ちなみに、文化庁がまとめた平成28年版(平成29年2月発表)の「宗教年鑑」によると、曹洞宗の信者数は351万人、臨済宗妙心寺派は36万人だそうです。私の家は臨済宗妙心寺派です。中国で起こった禅が脈々と私までつながっているというのはおもしろいですね。

達磨(だるま)

達磨については詳しいことがわかっていません。その存在すらも疑う学者も多いようです。伝説として伝わっていることを簡単にまとめておきます。

南インドの香至国(こうしこく)の第三王子で、本名を菩提多羅(ぼだいたら)という。520年にインドから金陵(南京)へやってきた。当時中国は南北朝に分かれていて、南朝は梁が治めていた。南朝梁の武帝は仏教を厚く信仰しており、インドからやって来た高僧(達磨)を喜んで迎え、質問した。

「あなたはどんな教えで人々を救済されるのか」
「どんな教えも持っていません」
「私は王となって以来、寺を建て、人を救い、写経もし、仏像も作ったが、いかなる功徳があるだろうか」
「何もありません」
「どうしてないのか」
「それはみな形として現れた善行ですが、真の功徳とはいえません」
「真の功徳とはどういうものか」
「廓然無聖」(かくねんむしょう:大空のようにからりと晴れあがったもの)
「私と話している者は誰だ」
「まったくわかりません」

達磨は梁を去り、洛陽の嵩山(すうざん)少林寺に行くが、入場を断られたたため、近くの洞窟に入り、壁に向かって座禅をした。

ある寒い雪の日、達磨が壁に向かって座禅をしていると、一人の男がやってきて弟子入りを請うたが無視される。男は何年にもわたって修行し、経典を読みあさったが、納得がいかず、達磨を訪ねたのだった。

男は夜通し立ち尽くし、やがて雪は膝の上まで積もった。そこで達磨が話かけると、男は達磨に弟子入りを願い出た。しかし達磨は冷たく言った。

「仏の道はたやすい道ではない。覚悟がなければ道は開けぬ」

すると男は刀を取り出して自分の左腕を切り落として差し出し、弟子入りが世俗的な動機ではないということを示した。

「おまえが腕を切り落としたのどうしてか?」達磨は尋ねた。

「私の心は安らかではありません。どうか私の心を安らかにしてください」

「ではその心を出して見せろ。安らかにしてやろう」

「心を探しましたが、つかまえることはできません」

「これでお前の心は安らかになった」

達磨はその男を弟子として認めた。それが二祖、慧可である。達磨は嵩山で9年間座禅をしたが、その間弟子に取ったのは慧可だけだった。

達磨は150歳で亡くなったとされる。達磨の死後3年後、宋の役人がパミール高原の葱嶺(そうれい)という場所で達磨に出会ったという。その時達磨は一本のさおをかついで歩いており、そのさおの先にはサンダルの片方だけがぶらさがっていた。

役人が「どこへ行かれるのか」と問うと達磨は「インドに帰る。あなたの主君はすでに亡くなられた」と答えたという。役人は帰国してから主君が亡くなったことを知り、このことを話してまわった。それを聞いた孝荘帝が不思議に思い、達磨の墓を開けさせると、棺の中にはサンダルが片方のみ残されていたという。

***

達磨の語録とされるものに、「二入四行論」(ににゅうしぎょうろん)があります。これは、達磨が弟子に示した教えを記録したものとされてきた禅の典籍で、自己修養の入り方・行じ方に関するものですが、その説明は私の手に余るので、専門家の説明を聞いてください。

【禅とこころ / 禅の思想に学ぶ】第1回 達磨の教え | 花園大学総長 横田南嶺

【禅とこころ / 禅の思想に学ぶ】第2回 達磨の教え | 花園大学総長 横田南嶺

参考サイト

禅の視点 - life -
禅と悟り
Wikipedia 鈴木大拙
Wikipedia 鈴木俊隆
Wikipedia 禅
Wikipedia 達磨
夏期講座 令和二年特別編】:「無門関 第四十一則

参考図書

禅とは何か-それは達磨から始まった (中公文庫)
世界の名著 禅語録
ダルマ (講談社学術文庫)
新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)
禅学入門
禅の語録 20 導読 (シリーズ・全集) 

2022/03/16

ひらめく! 作れる! 俳句ドリル・俳句のための文語文法 実作編・俳句 ・文庫 俳句発想法 100の季語・俳句鑑賞入門 ・俳句歳時記夏 ・俳句歳時記春

 ひらめく! 作れる! 俳句ドリル 岸本 尚毅 ・夏井 いつき 
俳句の練習ドリル。俳句の一部が空欄になっていて、そこに 自分で作ったフレーズを入れて練習するというもの。でもこれだと単なる言葉遊びになってしまう。どういう句を作るとかというヒントが欲しいかったが、そういう点では全く役にたたなかった。

角川俳句ライブラリー 俳句のための文語文法 実作編  佐藤 郁良
日本語の文法を学んでも日本語が上達しないのと同じで、俳句を文法から学ぼうとするのは無理だということがわかった。

俳句 (講談社学術文庫)  阿部 ショウ人
こういう俳句がダメだという例がいっぱい書いてある。分厚い本で読みずらい。途中で、ダメな例を読んでも上達しないし、ダメな俳句はワシでも作れるということに気づいて、読むのをやめた。

文庫 俳句発想法 100の季語 ひらのこぼ
100の季語にそれぞれいくつか有名な人の俳句が載せてある。こういうことを俳句にすればいいのかと大いに参考になった。

俳句鑑賞入門 山口誓子
有名な句に山口誓子が解説したもの。解説がわかりやすく、文章がすばらしい。読み物としてすばらしい。

俳句歳時記 第五版 春 (角川ソフィア文庫)
俳句歳時記 第五版 夏 (角川ソフィア文庫)
他の歳時記も欲しくなって買った。

2022/03/12

華厳経・楞伽経(けごんきょう・りょうがきょう)

中村元先生の 『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典) を参考にして、非二元的な部分を要約して掲載させていただきます。

華厳経(けごんきょう)

事事無礙(じじむげ)

「事」とは現象、あるいは現象界の事実。「無礙」とは物質的に場所を占有しないということ。事事無礙ということば自体は華厳宗の言葉で、ものごとは一つ一つお互いに異なっているのではなく、溶け合っているという意味。

「じじむげ‐ほっかい【事事無礙法界・事事無碍法界】仏語。華厳宗でいう四法界の一つ。現象世界のすべてのものごとが相互に関連・融合し、そのままで真実の世界を完成していること。究極のさとりの眼から見た存在の世界のあり方。コトバンクから

私たちは通常、自然界において、物理的な空間に何か物があると、その場所を他の物が占有することはできないため、その物は独立した存在だと考えています。でも、実際には、例えばミクロの世界を考えた場合、その物体以外の物も存在していて、互いに共存していると考えることもできます。

そしてまた、物質と物質は様々な因果によってつながっています。例えば人間は、その体だけでは存在できず、空気が必要であり、適当な温度、空間などが必要です。もちろん、よって立つ地球が必要であり、太陽が必要です。

そうして考えると、人間は地球とも宇宙ともつながっていると言えます。このように、物と物が決して無関係ではなく、見えないところで結ばれている。それを法界縁起といいます。そう考えると、私、他人という区別がなくなります。

華厳経の根底にあるのは縁起の思想です。縁起の思想は仏教の中心思想であり、いかなるものも孤立して存在するのではなく、すべてのものは相寄って存在するという思想です。

この縁起のつながりは、人と人とのあいだに限りません。人と物もそうです。あなたの着ている服が綿であるなら、その綿は中国やインドとつながっていて、それを栽培した人、日本へ運んだ人、縫製した人とつながっています。

当然、綿は大地とつながっていて、太陽の光とつながっています。つまり、宇宙とつながっています。そう考えると、この世のあるゆる物がつながっています。

非二元的に解釈するなら、縁起ゆえに万物は一つのものと言えるのではないでしょうか。そこには独立した物は存在しない。また、独立した物が存在しないがゆえに空であると言えるのではないでしょうか。

さて経典に入ります。と言っても、経文を書くことができないので、(やればできるかもしれないけど、あまり意味がないので)経文の漢文書き下しを書きます。経典そのものを知りたい方は参考サイトで見てください。奈良の東大寺では、儀式の時に、この唯心偈(ゆいしんげ)を三回唱えることになっているそうです。

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唯心偈(ゆいしんげ)抜粋

心は工(たく)みなる画師(がし)の如(ごと)く 種種の五陰(ごうん)を画き
一切世界の中に 法として造らざる無し
心の如く仏もまた爾(しか)り 仏の如く衆生も然り
心と仏と及び衆生との 是の三に差別無し
諸仏は悉(ことごと)く了知す 一切は心從(よ)り転ずと

その意味は、

心は巧みな画家のようなものであり、あらゆるものを描きだし、
この世界の中にはそれ以外のものはない。
心と同じように、仏もそうであり、人々もそうである。
心と仏と人々も皆、この三者は同じように、心が描きだしたものである。
仏たちはこのことを知っている。すべては心から現れていると。

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世界はどこに現れているのか。心、意識です。巧みな絵描きが書いたように、心に世界は現れている。これはすでに書いた唯識の教えと同じことを教えているのだと思います。そして、心と同じように仏も人々もそうだと言っています。

中村先生は「心がなければ、外界のものも在るとは認められないわけで、心があってこそ、在るということができます。仏も同じです。衆生もまた同じです。心と仏と衆生のこの三つは区別のないものです。つまり仏は、私たち凡夫から遠く離れたものだと人々は思いがちですが、そうではなく、仏も本来は衆生であり、それをさらにつきつめて考えると心にほかならないというのです」と言ってみえます。

つまり、心が仏であると言ってみえます。

楞伽経(りょうがきょう)

楞伽とは、スリランカのランカを音写して漢字をあてたものだそうです。内容としては、釈迦がランカー島(スリランカ)を訪れて、ラーヴァナ王と対話するというものです。伝説によれば、楞伽経を中国に伝えたのは達磨であり、禅宗に大きな影響を与えました。

内容は唯識で教えていることと同じです。漢文書き下し文は長いし、掲載するのが大変なので省略して、書き下し文のみ掲載します。

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あるとき、仏は大勢の菩薩(ぼさつ:修行者のこと)とともに、大きな海辺のそばの摩羅耶山(まらやさん)の頂にある、スリランカの町の中にいらっしゃいました。「城」というのは城壁に囲まれた都市のことです。そのもろもろの菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)はことごとくすでに、五法(ごほう)、三性(さんしょう)、諸識(しょしき)の義に通達していました。

摩訶薩は「マハーサッドヴァ(mahasattva)」の音を写したもので、「立派な人」「偉い人」という意味です。また無我の義でふつういわれるのは法(ほう)無我と人(にん)無我ですが、法無我というのは、個体存在としての我というものは、そのとおりには存在しないで、もろもろの要素から構成されているということです。

そしてもろもろの対象は、自分の心の現し出したものであることをよく知っています。いかなる対象でも、自分の心に意識されているから存在するのだということをいっています。
(以上『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典) p180より)

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仏は修行の方法について尋ねられて、それに答えています。ここでも漢文は省略して、説明文のみ掲載します。

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ここでは(大修行)を説いているわけですが、それは苦行をしたり、特別の実践法を行うことではなくて、真理を観ずることにほかならないのです。それは四種類のしかたがあります。
(一)現象世界の種々なるすがたは、自分の心の現し出したものだという道理を体得することです。唯識の理(ことわり)を知ることだといってもよいでしょう。
(二)現象世界の諸事物が生起し、住(とどまり)、消滅するのは、仮のすがたである、と知ることです。
(三)外界の事物には実体がない、ということを知るのです。空の理を体得するのです。
(四)真理は自分で直観しなければならない、ということです。

(以上『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典) p210より)

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まとまりのないブログになってしまったかもしれませんが、全体をまとめるのは大変なので、非二元的な部分のみ抜粋して書きました。

こうして見ると、大乗仏教、禅というのは非二元そのものだという気がします。

参考文献

『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典)

参考サイト

Wikipedia 華厳経

Wikipedia 楞伽経

総本山智積院HP

名文電子読本・解説サイト(華厳経 唯心偈)

円覚寺 唯心の教え

2022/03/09

文章読本・翻訳語成立事情・理科系の作文技術・久保田万太郎句集

翻訳家の夏目大さんがYouTubeで、「翻訳をする人の必読書三冊」として紹介してみえるので、その三冊(文章読本 (中公文庫)翻訳語成立事情 (岩波新書 黄版 189)理科系の作文技術(リフロー版) (中公新書))を読んだ。

文章読本 (中公文庫) 谷崎潤一郎
驚いたのは、谷崎潤一郎は作品によって文体や句読点の打ち方を意図的に変えているということ。
ある小説ではひらがなを多用したり、ある小説では句読点をあまり打たないようにしたり、逆に頻繁に打ったりしているという。そんなことまでして小説を書いているとは知らなかった。
参考になった点は句読点の打ち方。読み手が一息ついて欲しいところに打っているという。この点は多いに納得。
それと、私はこのブログで文章を翻訳して載せているが、本来訳さなくてもよい代名詞や指示代名詞を訳しているということがよくわかった。この本は多いに参考になた。

この本は驚くことばかり。私たちが日常で何げなく使っている言葉の中に、明治以前には日本語になかった言葉がたくさんあり、それは翻訳によって新しく作られた言葉だという。
たとえば、「恋愛」「社会」「個人」「美」「自然」「権利」「自由」「彼」「彼女」。
そして、その訳語が、本来の英語とズレていて、そのまま今でもズレたまま使われているという。
たとえば「恋愛」とは何だ?と聞かれても何となく理解はしているが、はっきりとは説明できない。「社会」なんてもっとわからない。こうした言葉は、翻訳されて何度も何度も目にするうちに、「だいたいこういう意味で、こういう状況で使われる」という暗黙の了解ができてみんなが使っているだけで、実はよく意味がわかっていないという。「自由」などは、日本語では「俺の勝手だ」という意味で「俺の自由だ」と言うが、もともとの"liberty"にはそいう意味はなかったという。
それと、セイラー・ボブのブログの中で『I Am That 私は在る』の「私は在る」という訳はおかしい、「私はいる」が正しいのではないかと書いて覚えがあるが、この本でも同じことを言っていて、「私は在る」は日本語としては間違いだという。
私は存在するという訳から、私は在るという訳になったのではないかと筆者は指摘している。この本も多いに参考になった。

この本は理系の報告書を書くときのテキストとして100万部以上売れているそうです。例として引き合いに出されているものの多くが理系の研究報告のようなものが多く、ついていけない部分が大半。個人的にはあんまり参考にならなかった。

以上の三冊はある程度参考になったのですが、これを読んだからといって、技術的に文章や翻訳が上手になるということはないような気がします。私が今まで読んだ作文の技術に関する本では、本多勝一さんの日本語の作文技術が一番良かったです。
翻訳関連では安西徹雄 翻訳英文法ー訳し方のルール翻訳英文法トレーニング・マニュアルが良かった。
翻訳に関して言えば、夏目大さんのYouTubeがとても参考になります。夏目さんは翻訳学校の先生もやってみえます。

久保田万太郎俳句集
あれこれの本を読んでいるうちに、久保田万太郎の句がいいなあと思って買ってみた。座右の書にして少しづつ読むつもり。座右の書が増えてきて、困ったな~。断捨離派ではなくなりつつある今日この頃。ささやかな欲望に捕らわれつつある今日この頃。
一句載せておきます
神田川祭の中をながれけり  

2022/03/05

華厳

華厳経とは何かというと、奈良の大仏様のもととなった経典です。
では奈良の大仏様(毘盧遮那仏)とは何か?
あれは釈尊そのものではありません。

吉田叡禮さんの説明によると、毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ、略して盧遮那仏:るしゃなぶつ)は釈尊が悟った「大宇宙の真理」のことを言うそうです。すべての仏の集合体と言ってもいいし、宇宙にまんべんなく広がるパワーと言ってもいい。そういったものの象徴としての仏だそうです。(ようわからん)

華厳経とは具体的に何かいうと、もともとはインドにあった経典の一部を、四世紀末から五世紀初頭に中央アジアのコータン(現在の新疆ウイグル自治区)で編纂されたと言われています。

華厳とはどう意味かというと、華(はな)で厳か(おごそか)に飾ると言う意味。華厳とは、花で飾られた荘厳な仏の世界の教えという意味。

華厳経に何が書かれているかというと、大きく分けると四つの要素からなる。(実際に教えを説くのは廬舎那仏ではなく、脇を固める菩薩が説いていきます)

①廬舎那仏が不動のまま地上から天へ行って、また地上に降りる。
釈尊が菩提樹の下で悟りを開くと、釈尊は動かないけれど、廬舎那仏は7つの世界を移動する。

②「蓮華蔵世界」を中心とする宇宙観
蓮華蔵世界の説明

③華厳の哲学的世界観

④善財童子が53の師に会って修行をする話。

私が華厳経の中に非二元があるというのは、③の部分です。
華厳経の中には様々な思想が説かれています。唯心、如来蔵思想、空もあります。その中でも中心となる思想は「一即一切・一切即一:いっそくいっさい・いっさいそくいち」「一入一切・一切一入:いちにゅういっさい・いっさいいちにゅう」「事事無碍法界:じじむげほっかい」「融通無碍:ゆうづうむげ」です。

「一即一切・一切即一」「一入一切・一切一入」とは何かというと、「一つのものが全部・全部が一つのもの」「一瞬が全体であり、全体が一瞬である」という意味です。「事事無碍法界」とは、事物と事物とが、さまたげなく溶けあっている世界。

今回は私が説明するよりも、専門家にお願いすることにしました。

華厳経の世界観1「唯心思想」吉田叡禮

唯心の思想というのは、他の多くの仏教の根底にあります。空の思想も同様です。

華厳経の世界観3 「ミクロとマクロ」吉田叡禮

華厳の教える世界は、宇宙の隅々まで、どこへ行ってもそこには仏がいる世界です。
これはまさしく非二元の世界ではないでしょうか。

吉田叡禮さんのYouTubeチャンネルはとても勉強になります。吉田叡禮さんは、華厳経と中国の初期の禅が専門だそうです。華厳経を詳しく知りたい方は、華厳に関するものを順番に見ていくといいと思います。専門に学ぶ学生向けのものが多く、ちょっと難しいかもしれません。

参考文献
仏教の思想 6 無限の世界観<華厳> (角川ソフィア文庫) 
講座・大乗仏教 3 華厳思想 
『華厳五教章』を読む 
華厳とは何か 〈新装版〉
華厳思想 (1960年) 
華厳の思想 (講談社学術文庫) 
鈴木大拙全集〈第5巻〉般若経の哲学と宗教.華厳の研究.金剛経の禅.楞伽経.楞伽経研究序論 (1981年)

参考サイト
NHKこころの時代:さとりへの道―華厳経に学ぶ(652回~657回)

2022/03/02

三屋清左衛門残日録・よろずや平四郎活人剣・新平家物語・子規365日・夏井いつき365日季語手帳

三屋清左衛門残日録 (文春文庫) 藤沢周平
そんなにおもしろくなかった。身につまされるような話が多くて、しんどい感じがした。読んでいるうちに、若気の至りというか、自分もやってきたような過ちがあれこれ思い出されて考えさせられた。そういうことにちゃんと向き合えるような歳になったということかもしれない。

新装版 よろずや平四郎活人剣 (上) (文春文庫) 藤沢周平
これはおもしろかった。冷や飯喰いの下級武士浪人が、ひょんなことから揉め事の仲裁屋を始め、揉め事を解決していく。揉め事はどれも江戸の庶民の他愛のない話。痛快、爽快な読後感。

新・平家物語(一) (吉川英治歴史時代文庫) 吉川英治
半分読んだところで中止。何がいけないかというと、物語の設定が史実と違いすぎる。まず、物語の冒頭で清盛は父忠盛の命令で親戚へ借金をしに行く。忠盛は貧乏でしょっちゅう清盛を借金に行かせたことになっているが、これは史実と違う。忠盛は日宋貿易で莫大な金を設けていたし、官位も高く裕福であった。
次に、清盛と他の兄弟が血のつながった兄弟のように描かれているが、これも違う。母である祇園女御と同居していたような設定になっているがこれも違う。乳母(めのと)というシステムを無視している。
そして、極めつけは吉川英治の文章。やたらと句読点が多くて読みづらい。いわゆる講談調で書かれていて読みづらい。文章に宮尾登美子や藤沢周平のような品格がない。これを全16巻最後まで読むのはしんどい。
YouTube恐るべし。現代語訳の平家物語の朗読があった。代わりにこれを聞くべ。
【古典朗読】現代語訳 平家物語(1)/尾崎士郎

子規365日 (朝日文庫)
この句集は子規の俳句が一日一日その季節の季語にあわせて載せてある。子規の句を季節毎に載せてあるという点で優れている。子規句集 (岩波文庫) の方は2,306句載っていて、あんまりよくないものもあるが、これは夏井さんが選んだ365句だけなので読みやすい。座右の書としたい。

この本も一日一日その季節の季語と俳句が載っている。毎日参考にしていく予定。ただ、今は使わないだろうなぁという季語も多い。歳時記を見た方が便利かも。