2020/07/31

ニサルガダッタ・ マハラジの言葉

There is only life, there is nobody who lives a life.
Sri Nisargadatta Maharaj

命だけがあり、そこに命を生きている人はいない。
Sri Nisargadatta Maharaj

2020/07/30

ニサルガダッタ・ マハラジの言葉

Leave your mind alone, that is all. Do not go along with it. After all, there is no such thing as mind apart from thoughts which come and go obeying their own laws, not yours. They dominate you only because you are interested in them.
Sri Nisargadatta Maharaj

マインドをそのままにしておきなさい。
それがすべてです。
巻き込まれないで。
つまるところ、思考抜きにマインドなどというものは存在しません。
思考はあなたとは関係なく、やって来ては去って行くものです。
あなたが思考に興味を持った時だけ、あなたを支配します。
Sri Nisargadatta Maharaj

2020/07/29

ニサルガダッタ・ マハラジの言葉

Time is in the mind, space is in the mind. The law of cause and effect is also a way of thinking. In reality all is here and now and all is one. Multiplicity and diversity are in the mind only.
Sri Nisargadatta Maharaj

時間はマインドの中にあり、空間もまたマインドの中にある。
因果の法則も思考の産物だ。
実際には、すべては今ここにあり、一つのものだ。
多様性や相違はマインドの中にしかない。
Sri Nisargadatta Maharaj

2020/07/28

ニサルガダッタ・ マハラジの言葉

There is no question of going anywhere, arriving anywhere, or doing anything; you are there already.
Sri Nisargadatta Maharaj

それはどこかへ行くとか、どこかに到達することでもければ、何かをすることでもない。あなたはもうそこにいるのだ。
Sri Nisargadatta Maharaj

2020/07/27

ニサルガダッタ・ マハラジの言葉

Nothing can trouble you but your own imagination.
Sri Nisargadatta Maharaj

あなたの想像以外何もあなたを苦しめはしない。
Sri Nisargadatta Maharaj

***
この言葉はセイラーボブが最も好むマハラジの言葉で、しょっちゅう引用します。
セイラーボブはまた、これを違った表現でこう言います。
What's wrong with right now if you don't think about it.
(そのことを考えなかったら、今何も問題ないじゃないか)

なお、今後掲載するマハラジの言葉の引用元はこちらのサイト(AZQUOTES)です。
このサイトに引用されている言葉の中には、"I am that."からの引用がたくさんあるかもしれませんが、私は「I AM THAT.アイ・アム・ザット」(日本語版)を読んでいませんので、解釈や用語が本と異なる場合があることをご了解ください。

また、マハラジの言葉の連載は長期になる予定ですが、マハラジの言葉はセイラーボブの教えを理解するのにとても役に立つと思いますので、よかったらお付き合いください。

2020/07/26

ニサルガダッタ・ マハラジ

ニサルガダッタ ・マハラジはセイラーボブの先生にあたる人です。

私は日本語で出版されたニサルガダッタ ・マハラジの本の何冊かを手に取って読もうとしたことがあります。でも、そのたびにまったく内容が頭に入って来ず、断念しました。

U.G.クリシュナムルティのことを調べている時に(AZQUOTES)というサイトにニサルガダッタ ・マハラジの言葉がたくさんあるのを見つけました。その中のいくつかはセイラーボブ経由で聞いたことがある言葉であり、またいくつかは心に深く響くものでした。

それらの言葉は、私がギブアップしてしまった彼の本の中の言葉と違って、わかりやすいものでした。そこでそれをブログに掲載していくことにしました。それを読んでいただくと、セイラーボブとニサルガダッタ ・マハラジが語っている事の根底にあるものが同じであるとわかると思います。

その前にWikipedia(英語版)などを参考に、ニサルガダッタ ・マハラジの略歴をまとめておきます。

Nisargadatta Maharaj


Nisargadatta Maharaj.jpg
ニサルガダッタ・マハラジ(1897年4月17日生まれ 1981年9月8日没・84歳)はヒンズー教の Inchagiri Sampradayaという流派のアドヴァイタ(非二元)のグル。

幼名:マルティ・シヴラムパント・カンブリ(Maruti Shivrampant Kambli)

マハラジはムンバイで生まれ、ムンバイから500kmほど南にあるカンダルガンという小さな町で、二人の兄弟、四人の姉妹とともに信心深い両親に育てられました。

父親はもともとはムンバイで働いていたのですが、1896年に疫病が流行したためカンダルガンに転居して農夫として働きました。マハラジは子供のころから農業の重労働に従事して家計を助け、十分な教育を受けることはできませんでした。

1915年(18歳の時)に父が亡くなると、兄を頼ってムンバイへ出ます。
最初は事務所の下級職員をしていましたが、すぐに小さなタバコ屋を始め、店を八つに増やしました。
1924年(27歳)結婚。三人の娘と一人の息子に恵まれます。

1933年(36歳)。友人の紹介でグル(師)、シッダラメシュヴァール・マハラジ(Siddharameshwar Maharaj)に師事。


 Siddharameshwar Maharaj (1888–1936)はインドの原始ヒンズー教の流れを汲む InCegeri Sampradayaのグルでした。この流派はもともとはシバ神から教えを受けたとされる聖人など、9人の聖人の教えがもととなっているアドヴァイタの教えで、マントラを与えることによって教えを受け継いだ流派です。

この流れを汲む人はインドにたくさんいるのですが、西洋社会に広く知られたのは、ニサルガダッタ・マハラジが初めてのようです。

ニサルガダッタの師は「あなたは、あなたが思っているような存在ではない」と彼に告げ、マントラを授け、それに瞑想するよう指導しました。
マハラジはこう回想しています。

「私のグルは私に、I am.(私は在る)という感覚にだけに意識を向けるようにと言いました。私は特別な呼吸法や瞑想、聖典を学びませんでした。何が起きても意識をI am.(私は在る)という感覚に向けました。それはとてもシンプルで不十分に思えますが、私がそれをやり続けた理由は師がそうするようにと言ったからです。そしてそれは役に立ちました」

マハラジは師の師事に従い、I am.(私は在る)という感覚に意識を向け、敬虔にバジャン(ヒンズー教の崇拝賛歌)を詠唱するかたわら、空いている時間のすべてを沈黙の中で意識をI am.(私は在る)という感覚へと向けました。

「師は言いました。"純粋な存在に帰りなさい。I am(私は在る)が、まだ純粋なままの頃、私はこれだ、私はあれだと汚れてしまう前の頃に。あなたの苦しみは間違った自己同一化です。それを捨てなさい。私を信頼しなさい。あなたは神聖なものです。それを絶対の真実だと受け入れなさい。あなたの喜びは神聖です。あなたの悲しみもまた神聖です。すべては神からやってきます。絶えずそのことを思い出しなさい。あなたは神です。あなたの意志のみが行われています。」

私は彼を信頼し、まもなく彼の言葉がどれほど真実で正確だったかを理解しました。私は自分のマインドを「私は神である、私は素晴らしい」と、思考を使って条件づけすることはしませんでした。私は単純に彼の指導に従い、マインドを純粋な存在、(I am)へと向けました。私はマントラとともに何時間も座り、(I am)に注意を向ける以外何もしませんでした。

やがて、平和、喜び、包まれるような愛が普通の状態となりました。その状態の中では、すべてが消えました。自分、グル、私の生きた人生、私の周りの世界。平和と計り知れないほどの沈黙だけがありました。 (I Am That, Dialogue 51, April 16, 1971)。」

1937年、師との交流が二年半続いたあと、師は亡くなりました。
1938年(41歳)、マハラジはムンバイを出てインド国内を8か月間旅します。旅の間に彼のマインドが変化し、「もう何も悪くない」と気づきます。ボンベイに帰ると、一軒のタバコ屋を営みながら、残りの人生をムンバイですごしました。

娘と妻の死ののち、1951年(54歳)からイニシエーション(指導)を始め、1966年にタバコ屋を息子に任せて引退した後は、1981年9月8日(84歳)に喉のがんで死去するまで一日二回の講話を自宅で行いました。マハラジが住んでいた建物(ロフトで講話をしていた。一階にタバコ屋)。

1973年にモーリス・フリードマンが翻訳出版したマハラジの講話集「I Am That」が発売されると、北米、ヨーロッパで広く認識されるようになりました。
彼から直接指導を受けた人としては、セイラーボブ、ラマカント・マハラジラメッシ・バルセカールなどがいます。(その他にも大勢いますが、Wikipediaで見てください。参考:ニサルガダッタの弟子の系図

マハラジの教え方は様々で、相手によって違っていたようです。ヒンズー色の強いインドの人々にはパジャンの詠唱、マントラ、ヨガを教え、西洋からの訪問者には対話方式で教えていたようです。たしか、ギルバートがFacebookでマハラジのダルシャンは無料だったと書いていたように記憶していますが、確認できませんでした。

Wikipediaではマハラジの教えについても簡単にまとめてあるのですが、それをここに書くよりも、実際にマハラジの言葉で読んでもらった方がわかりやすいと思うので、明日からのマハラジの言葉で読んでください。

アマゾンのサイトで、ニサルガダッタ・マハラジの「I AM THAT.アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話 (日本語)」の著者についての説明を読むと、
「2年半後に師は亡くなり、1937年インドを旅してまわった。その旅で悟りを得た。」
という表現が出てきますが、この表現は読み手によって誤解されてしまう可能性があります。

人によっては、マハラジはエンライトメント、もしくは覚醒した人だと思ってしまうかもしれません。ちなみに英語版のWikipediaでは、realizeという単語を使っています。

After eight months he returned to his family in Mumbai in 1938. On the journey home his state of mind changed, realizing that "nothing was wrong anymore."

同じことがラメッシ・バルセカール、セイラーボブの本にもあって、悟りを得たという表現で著者のことを説明しています。

以下はセイラーボブの「ただそれだけ」のアマゾンサイト上の説明
飲んだくれの船乗りだったボブが、さまざまなインドの聖者と出会い、
遂にニサルガダッタ・マハラジの教えを受け、如何に悟ったか。
ここで使われている「悟る」は、あくまでも「真理を理解する」という意味なのですが、これを読んだ多くの読者は「エンライトメント」「覚醒」のことだと思ってしまい、それが彼の本を難解なものにしている可能性があります。

ニサルガダッタ・マハラジ、セイラーボブ、ラメッシ・バルセカール、彼らは覚醒(エンライトメント)した人ではありません。「そこに覚醒する人はいない」というのが、彼らの教えです。

ついでに「I AM THAT アイ・アム・ザット 私は在る」という本の題名について書いておきます。ニサルガダッタ・マハラジの教えはアドヴァイタの教え、Tat Tvam Asi(タットバマシ)であり、その英訳は"Thou art that"(汝それなり)です。

それはヴェーダ(ヒンズー教の聖典の四つのマハーヴァキヤ(大格言)の中の一つ)がもとになっている言葉で、もともとはウパニシャッド哲学でウッダーラカ・アールニが語った格言 “I am That, thou art That, all of this is That”(我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり)からきていると思われます

もちろん翻訳者の方はそれを承知で、内容から考えて「私は在る」を副題として付けられたのであり、I AM THATの訳として付けられたのではないと思いますが、本の題名は、「I AM THAT.アイ・アム・ザット 我はそれなり」とした方がわかりやすかったのではないかと思います。

参考
マハラジの言葉(AZQUOTES)
I AM THATpdf
ニサルガダッタの弟子の系図
ニサルガダッタ・マハラジ 1979フィルム
ニサルガダッタ・マハラジ ドキュメンタリー'Tatvamasi' (I am That)

2020/07/25

おたよりをいただきました。

マハルシやデイビット・ゴッドマンについては、どう評価していますか?


よろしくお願いいたします。
田中


デーヴィッド・ゴッドマンの編集したマハルシの本「あるがままに」は読んでいません。「プンジャジ炎の教え」は読みましたが、プンジャジに興味は抱きませんでしたし、その編者であるデイーヴィッド・ゴッドマンのことはほとんど何も知りません。

ラマナ・マハルシの本は、もうずいぶん昔に読んだ記憶があります。
本が手元にないので正確ではないのですが、私が読んだのは、「ラマナ・マハルシの教え」山尾山省訳と「南インドの瞑想」おおえまさのり訳だったと思います。

内容は全く覚えていません。当時の私は、非二元という言葉さえ知りませんでした。
今年になって、U.G.クリシュナムルティの本を読んだ時にマハルシの名前が出てきたので、ネットでラマナ・マハルシについて調べて初めて、彼の教えも非二元という分類に入る教えなのだと理解した程度の知識しかありません。

そういうわけで、マハルシにもデーヴィッド・ゴッドマンにも、特別な評価を持っていません。

おたよりをいただきました。

ツイッターやってますか?

SNSやってますか?
Youtubeやってますか?
メルマガ発行されてますか?
オススメの本は、ありますか?
よろしくお願いいたします。

ツイッター、YouTube、メルマガはやっていません。Facebookはやっていますが、セイラーボブのミーティングを見る以外には使っておらず、自分で投稿することはまずありません。

おすすめの本は、セイラーボブのものとしては、以下の四冊。詳しくは資料室で。
「ただそれだけ」
「Living Reality」
「Presence Awareness」
「What's Wrong with Right Now?」

ギルバート・シュルツのものとして。
「SELF AWARE」
「SELF ILLUMIINATION」

あれこれと手を出して読むよりも、「ただそれだけ」を何度も読むことをおすすめします。
また、このブログの「セイラーボブの言葉」「The Spiel」を何度も読むことをおすすめします。

ひとたび理解してしまえば、もうあれこれ読む必要はありません。理解はあれこれと読む量には比例しません。やるべきことは「自分が実在かどうかを自分で調べる」、それだけです。

それを理解したら、何か特別なことが起きると期待しないでください。
何も起きません。それでもあなたの日常は今までとは全く違うものとなります。
理解がすべてです。

おたよりをいただきました。

 Takuさん、こんにちは。

毎週楽しみに拝見しております。
質問させて下さい。
今回はU.G.クリシュナムルティの翻訳を読ませていただいておりますが、彼の特殊な体験(私にはそう思えますが)を記事にされたのにはどのような意図があるのでしょうか?
セイラーボブさんや、Takuさんは特殊な体験などはあまり取り上げられていなかったと思いますが。
よろしくお願いいたします。


セツ 

------

おたよりありがとうございます。

私は、セイラーボブが言うように、エンライトメントはないと思っています。
非二元の師たちが説いていることは、エンライトメントではないと思います。

エンライトメントを説くグルやマスターはインチキだという思いに変わりはありません。
でも、そうだとすると、仏陀やその他の聖人たちが言っている状態は何なのだろうという疑問はずっと持っていました。  

仏陀やラマナ・マハリシ、J.クリシュナムルティがインチキな人だとは、とうてい思えません。
U.G.クリシュナムルティの本を読んでから、ひょっとすると、本当の意味での「エンライトメント」はインチキグルたちが言っているような状態ではなく、もっと別の状態なのではないだろうかと思うようになりました。

そう考えると、今まで釈然としなかった部分が埋まったような気がしました。
 U.G.クリシュナムルティ の言う状態を理解することはできないし、それが本当かどうかを確かめる方法はありません。

セイラーボブは、U.G.のような経験を語ったことはありませんし、そういう体験はしていないと思います。
私はU.G.の本を読んでからも、セイラーボブに対する思いは少しも変わりませんし、理解がぐらつくこともありませんでした。

セイラーボブの教える非二元は、エンライトメントではないし、何かを体験することではありません。
ただ、そのこととは別にU.G.の言うようなことも、ひょっとするとあるのではないかと思います。そういったことを考える材料としてブログに掲載しました。

U.G.については今後まだまだブログに掲載予定です。
U.G.が何を語っているかは、この先のブログで読んでください。
それを読んでいただくと、U.G.の語っていることは非二元そのものだということがわかると思います。

私は、特殊な体験に興味があるのではなく、U.G.の語っている内容に興味があります。
U.G.は、何かになることを追い求めることの無益さを説き、精神世界の探求や修行に時間を費やすのはエネルギーの浪費だと語っています。

私も全く同感で、私のブログを読んでいる人たちが、人生を浪費しないで欲しいという思いもあってU.G.のことを書いています。


私は、ありもしないものを探して人生の多くの時間を無駄に費やしてきました。
もし、セイラーボブに出会わなかったら、未だに何かになろうともがいていたと思います。

一人でも多くの人にそのことに気づいて欲しいという思いでこのブログを書いています。

般若心経

NHKの「チコちゃんに叱られる!」(2020.12.4放送)を見ていたら、般若心経の現代語訳をやっていました。それがあまりにもセイラーボブの教えと同じなので驚きました。

再放送は今日の朝8時15分からなので興味のある人は見てみてください。

番組とは関係なく、他に般若心経を現代語訳している人はいないかとネットで調べたところ、いくつかのサイトがあって、その中の一つを読んで、またびっくり。
興味のある人は読んでみてください。

番組の中で般若心経の解説をしていた花園大学教授、佐々木閑(しずか)さんに興味を持ち、ネットで調べてみました。

というサイトがあり、そのサイトの中のYouTubeで、4回にわたり、般若心経の解説をしています。(100分で名著:般若心経) 4回目はこのサイトでは閲覧できないので、こちらで。

そのYouTubeの中で、あらゆるものは実体のないものであると説いています。
非二元の教えは「私は実在ではない」ということがその教えの根本にあるのですが、私たちの身近にある仏教も、根本的には同じことを教えているのだということを改めて痛感しました。

私は実在ではない。悩みも問題も世間も全部マインドの産物であると知るだけで、どれほど生きていくことが楽になることでしょうか。

悟りとはエンライトメント(覚醒)ではなく、理解です。
「私」は実在ではないと理解することです。

鷺草(サギ草)

(ニサルガダッタ・マハラジの言葉は明日再開します)

新型コロナが怖くて、不要不急の外出は控えている今日このごろ。友人から山へ行こうとお誘い。山ならいいかなと、危険な暑さの中を屏風山へ行ってきました。

低い山なので、往復4時間もあれば登れます。快晴で山頂からは遠くに40キロ先の名古屋駅のビル群が見えました。山頂を超えていくと、黒の田東湿地という小さな湿原があって、そこには可憐なサギ草がたくさん咲いていた。

人間は、コロナだ危険な暑さだと騒いでいますが、花はそんなこと気にもせず、咲くべき時がくれば咲き、そして散っていく。あるがまま、ただそれだけで美しい。

あなたはもうそれなのだという事実から始めてください。

   
                      Katarzyna の Facebookより

あなたはもうそれなのだという事実から始めてください。

私が指摘しているのは、みな同じ知性のことです。
生命の本質が自然の中で働いています。
それが星たちを軌道の上で動かし、
地球を太陽の周りでまわし、
潮を満ち引きさせ、
季節をめぐらせる。

あなたの心臓を脈動させ、
あなたの髪や爪を伸ばし、
呼吸させ、食べ物を消化している。

そこには、それを起こしているどんな存在もいません。

***

セイラーボブはコロナウイルスの影響で、無観客ミーティングを続けています。
画面で見るかぎり、以前よりもふっくらして、声にも力があり、元気そうです。



また、zoomによる参加者ありのミーティングもやっています。詳しくはボブのHPで
生中継はボブのFacebookで。(日曜日:日本時間午前9時~10時30分)
生中継中にFacebook経由でコメントすると、質問にも答えてくれます。
内容的には今までと代わり映えしませんが、コロナの影響で普段よりも多くの人がライブを見ています。

ラメッシ・バルセカールの言葉

"Self-realization is effortless. What you are trying to find is what you already are."  Ramesh S Balsekar

自己実現に努力は要りません。
あなたは、もうすでにあなたが見つけようとしているものなのです。
Ramesh S Balsekar


2020/07/24

ラメッシ・バルセカールの言葉



あなたが探している幸せは、人生で起きる出来事にあるのではなく、運命がもたらすものが何であれ、あなたがそれをどう受け取け止めるかにかかっています。
Ramesh S Balsekar

出典はこちら(AZQUOTEOS)

2020/07/23

ラメッシ・バルセカール 最終理解


Ramesh Balsekar : The Final Understanding

(聞き取りできない不鮮明な箇所は*で表示、前後の文脈から推測して解釈している箇所はアンダーラインで表示しています。)

彼らは期待しすぎていました。何も彼らの答えになりませんでした。
我慢のいることでしたが、それも私が予期していたことです。

***私はエンライトメントしたと認めます。エンライトメントが起こりました。
(エンライトメントすると)何が手に入るのか知りたいですか?(と彼らに尋ねました) ええ、是非是非と彼ら。そして私は答えました。

第一に、あなたはそれでもまだ不完全な人間のままだということです。
体とマインドは以前と同じままです。もしあなたが慢性的な頭痛を抱えていれば、それはそのまま続くでしょう。
もし体とマインドに問題があるのなら、遺伝子にそう組み込まれています。
もしあなたがすぐに癇癪を起すタイプなら、それはそのまま続きます。

あなたの痛みは消えません。
あなたの喜びが増すわけでもありません。
それは以前と変わらず、そのままです。

あなたは今までやってきたのと同じ過ちを繰り返します。
エンライトメントによって、一度に二か所か三か所にいるというような特別な力を手に入れるわけではありません。私はこういうことを言い続けました。彼らは本当に当惑しました。もしカメラを持っていたら彼らの顔を撮っておくのでしたが・・・、「あれも手に入らない」「これも手に入らない」(と私は言いました)。
では、何を手に入れることができるでしょうか?私はてっきり手に入れることができると・・。(と彼らは言いました)

それで私は彼らに聞きました。何を手に入れるか知りたいのですか? ええ、是非是非。
あなたが手に入れるすべては、心の平和です。それがすべてです。
至福ではありません。ただ心の平和だけです。
そして尋ねました。私の言う「心の平和」とはどういう意味かわかりますか?

***
私は何度も繰り返し調べ、結論に達しました。
こころの平和とは何か?
そして自身に尋ねました。心の平和とは何か?
心の平和とは正確に言うと何か?
いつ私が心の平和を得たとわかったか?
私はあなたに率直に答えをあげますが、それを得るのには時間がかかりました。
そのことについて考えてみてください。
たくさんの答えがやってきましたが、受け入れられるものはありませんでした。

心の平和とは何かという問いに、唯一受け入れることができた答えは、どこかで見つけたわけではなく私の経験です。私にとって心の平和とは、とてもシンプルなことです。

外側の何かが私を不快にする。頭痛が私を不快にする。誰か嫌いな仲間が私を不快にする。だが、私にとっての心の平和とは、自分自身に対して不快にならないということです。
そして他者に対しても決して不満を抱かない。それほど簡単なことです。
そして興味深いことに、私が欲しいのは、自分自身に対して満足することだけです。それは興味深いことです。

私はもともと誰も答えることができない二つの基本的な疑問を抱いていました。
(一つ目は)、エンライトメントとは何か。二つ目はもっと重要なことで、もしエンライトメントを達成したら、それまで持っていなかったもののうち何を私の残りの人生に与えてくれるかということです。私の言うことを理解してください。最も重要なことを言っています。

エンライトメントは私に何を与えてくれるのか?残りの人生に、私が以前持っていなかったもののうちで。
私がたどり着いた答えは、心の平和です。(それ以来)私はずっと不快にならなかった。
二つのことに率直に答えてくれた唯一の人は仏陀です。
エンライトメントとは何か?
仏陀曰く、エンライトメントとは完全に受け入れることです。

出来事は起き、行為は成され、結果が起きる。
だがそこには誰も行為をする人はいない。
私は自らの探求において、この結論にたどり着きました。
それが私の人生の指針となった。それが答えです。

私の人生の指針とはどういう意味か。朝から晩まで考えて、答えにたどり着きました。
私の人生の指針とは、他者に対する態度のことです。

他者とは、私の親、妻、子供、近所の人、仕事関係の人、あるいは全く知らない人。
他者とは多岐にわたる人々のこと。とても近しい人。遠い人。
そしてそれは私には明白なことですが、私にとってのゆるぎない幸福とは、他の人との調和した関係。他者との調和した関係のことです。


2020/07/22

The Spiel ⑰(Meeting 7th April 2016)


Sailor Bob Adamson - Meeting 7th April 2016

ここではあなたに何も教えはしないし、何も伝えはしない。
あなたに、どこを調べたらよいかを指し示し、自分で調べるようにと促しているだけだということを最初に理解してください。

というのも、あなたが何を信じていようと、何を理解していようと、あなたに何かを教えたり伝えたりする人はここにはいないし、またこれは何か新しい考え方ではないからです。

もし調べてみると、このことはすべての偉大な伝承の基礎となっているとわかるはずです。ヒンズー教ではこれをアドヴァイタと呼びます。アドヴァイタは非二元と翻訳されています。そして彼らはそれを、「他には何もない一つもの」と表現します。

「一つのもの」という言葉さえ、他に何かがあるということを暗示しかねないので、他に何かがあるという考えを打ち消すために、「他には何もない」という表現を使っています。

他には何もない一つのものを理解把握するためには、なぜ私がそれを教えることも伝えることもできないのかを理解しなければいけません。なぜなら、あなたはもうすでにそれだからです。なぜなら、それがそこにあるすべてだからです。
それがマハーヴァキヤの偉大なマントラ、我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなりです。

それはヒンズー教の中にだけあるわけではありません。仏教の基礎を調べてみると、同じことが別の言葉で言われています。概念化されない、永遠に新鮮な今ここにある意識。そして、ただそれだけ、他には何もないと続きます。それによって、概念化されない永遠に新鮮な意識のことを指しています。

もしあなたがこのことを詳しく調べてみると、それはあなたと、この部屋の中にいるすべての人のことを描写しているとわかるはずです。この部屋にいる人で、今ここにいることに気づいていない人はいますか? すなわち、今ここにある意識があなたではありませんか?

そこではあらゆる種類の概念が続いているかもしれませんが、理解して欲しいのは、その概念の背後には概念化されない永遠に新鮮な今ここにある意識があり、ただそれだけ、他には何をないということです。もう一度言うと、あなたはそれ以外のものではありえません。

キリスト教やその他の伝承の中では、真実、実在、神、どんなラベルを貼りつけようと、それは全知、全能、偏在のもの。それは三つのもののことを言っているのではなく、一つのものの三つの様相のこと。それは、蒸気、水、氷がH2Oの三つの様相であるのと同じです。

偏在は全面的な存在、全能は完全な力、全知は完全な知性。その完全性の中で分離はありますか? もう一度言うと、すべてはそれです。私は誰かに語りかけているのではありません。私は誰かのマインドに語りかけているわけではありません。私はそのI am(私は在る)に話しかけているのであり、それが私です。それは私の存在の感覚で、それがマインドによって、I am(私は在る)と翻訳されたものです。

ただそれだけ、他には何もありません。加えて、それによってあなたは体とマインドは実在ではないと理解できます。それは他の顕現と同じようにパターンとして現れたものです。それは聖典の中では、顕現はマヤ、すなわち幻影と言われています。それは現象としての顕現です。

そしてそれは対となる反対の極となって現れます。それ以外の方法では起こりえません。昼無くして夜は無く、静寂無くして音はありません。冬無くして夏は無く、動き無くして静止はありません。それは常に二元的に振動します。加えて、そえは束の間のものです。マヤ、幻影は束の間のもので絶えず変化しています。

体を見てください。あなたは気づかないかもしれませんが、それは絶えず変化しています。細胞は今も常に出来ていて、あらゆる種類の顕現と同じように入れ替わっています。それは絶えず変化しています。私は思考のI am(私は在る)のことを言っているのではなく、存在の感覚のことを言っています。

あなたはそれを否定することはできません。この部屋にいる誰かで、I'm not(私はいない)と言える人はいますか? 私たちは皆それぞれ、I am(私は在る)と知っています。でもあなたは、自分はこの体とマインドの存在であるという概念上のイメージを持ちました。

それは、あなたに考える力が備わった時に始まり、それが学校、社会、国家や他のみんなによって強化され、自分はこの人、存在であると信じるようになりました。人(person)という言葉はどこから来たのですか?

古代の言語、ラテン語のpersona、マスクから来ています。私たちは、マスクを身に着けたのです。それは実在ではないのですが、概念上のパターンとして受け入れるようになりました。それが、私たちが人(person)と呼ぶものとなりました。

もう一度指摘しておくと、非二元の中には二元性は全くありません。私達は、自分は人、分離した存在であるという考えを受け入れ、人、分離した個人であるという考えを絶えず強化してきました。

調べてみると、それはそのように現れます。それは現象としての顕現です。辞書によると、顕現とは「そのように現れるもの」と定義されています。それは見た目上だけのものであると指摘しています。見た目の上でだけそのように見える現象としての顕現です。

それは一つの本質がパターンとなり、すべてとなって現れ出たものです。仏陀はそれを「認識する空」と呼びました。認識や知る働きで満ちた空であり、私たちがすべてを認識するということではなく、空そのものが認識し振動してパターンとなっています。

それを調べて、それが真実かどうかを理解しなければいけません。聖典によれば、真実を知ると、真実があなたを解放するとあります。もし真実を知らないと、あなたが妄信していることが心理的な問題を引き起こします。

それがトラブルを引き起こし、程度の違いはあるものの、多くの人に何かしらの心理的な問題を引き起こします。ここでは、心理的な問題は不要です。あなたは自分で調べることによって、その心理的な問題を見抜くことができます。

なぜなら、虚偽は調査に耐ええないからです。もしあなたが調査して、それが調査に耐ええないなら、それは虚偽であり、あなたはそれから自由となります。あなたは虚偽を二度と信じられなくなります。調査してそれが虚偽とわかり、信じるエネルギーを与えなかったら、それはもはや生存、存在できなくなります。

そしてまた別のことを指摘しておきます。信じるということは、調べもしないで理由なく何かを受け入れること。そうだと言われた物事を肯定的な知識や証明もなく受け入れることです。

もし私が、あなたは「自分が在る」と信じているのか、それとも知っているのかと尋ねると、あなたははっきりと、私は在ると知っていると言うでしょう。あなたの概念上のイメージを否定することはできるかもしれませんが、(being)自分が存在するという事実を否定することができる人は誰もいません。

こうしたことは私たちの本質を指摘していますが、私たちは降りかかる概念や信じること、イメージの中で道に迷いました。どうしてこれは起こったのでしょうか。私達はみなこうしたことを信じていますが、それを調べてみる必要があります。

「私はこの体とマインドを使います」と言いますが、本質的には自分は体でもマインドでもないと知っています。あなたは「私の体」「私の家」「私の車」「私のコート」「ドレス」などと言いませんか?あなたはコートですか?あなたは車ですか?

調べてみると、同じことをあなたの体、そのエネルギーのパターンにあなたが貼り付けたラベルについても同じことが言えます。体は何でできていますか? 詳しく調べてみると、体は構成要素でできていることがわかります。それは空気、土、火、水、空間でできています。それはこの部屋のあなたの周り、あなたの外側にあるものと同じものでできています。

でも、確かめてください。あなたはその構成要素ですか?あなたはその空気ですか?あなたは自身を空気と分離することができますか?あなたが信じている存在を、構成要素と切り離すことができますか? できるなら、自身を空気と分離してください。あなたは自身を空気と切り離せないとわかるはずです。あなたは息を長く止めていることはできません。

体の80%は水です。水を体から取り出せるかやってみてください。それはできないとわかります。体から火、体温を取り出してください。そうすると低体温症で死んでしまいます。可能なら地球から出てみてください。空間から出てみてください。あなたが調べてみると、あなたは何からも分離できないことを理解します。

本質的に、あなたはこうしたものすべてなのです。でも、マインドによって見た目の上では分離して切り離され、自身のことを個人、人(person)だと思っています。そしてあなたが自分だと思っている、このマインドと呼ばれるものを見てください。

もしあなたが自分はマインドだと考えるなら、誰かこのマインドと呼ばれるものを見せることができますか? どんな形をしていますか? 形、固さなど? それは体のどこにありますか? 

「私の体」という時と同じように、「私のマインド」という時、私はマインドではないということを知っています。私は家ではないし、私は車ではないのと同じです。同様に、あなたはマインドであるはずがありません。つまるところ、体とは何ですか? 精妙なレベルにおいて、マインドとは思考に他ならないと知るでしょう。思考はマインドと呼ばれるものです。

そして、あなたが自身のことをマインドだと思っているなら、どの思考があなたなのですか? 存在の感覚がマインドに翻訳されて「私は在る」という思考となります。もしあなたが思考なら、毎晩あなたが眠りにつく時に、いともたやすくそれを手放しているということに気づくのではないですか?

もしあなたがその思考なら、その思考が無くなったら、あなたは終わりになるのではないですか。でもそうはなりません。あなたは翌朝目覚め、夜の間は思考が続いていなかったのに、昼間になるとたくさんの思考がやってきて、それは必ずしも「私は在る」という思考ではないが、思考は続いていきます。

ということは、あなたはある特定の思考ではないということになります。どうしてあなたは、自身が信じているような、体とマインドの存在であると言うことができるでしょうか? もう少し詳しく調べてみてください。

あなたはいつ始まりましたか? 生まれた時とあなたは言うでしょう。でも、この部屋にいる人で、自分の生まれた時のことを覚えている人はいますか? あなたはおそらく、二歳から二歳半ぐらいまでは思い出すことができるでしょうが、それより前のことは覚えていません。

それならどうして、私は生まれたということができますか? あなたが信じている存在が生まれたとどうして言えるのですか? それはできません。

マインドを見てみると、以前も指摘したとおりそれはヴァイブレーションです。それはどのように機能するか見てください。それがどれほど機械的に機能するかを見てください。それはとても役に立つ道具ですが、破壊的でもあります。

詳しく調べると、それは絶えず反対の極へ振動するのがわかります。それを見て調べてみてください。それは記憶、過去にいるか、未来、期待、想像のどちらかにいます。善悪、快不快、幸不幸、愛と憎しみ、肯定否定。それ以外のやり方でマインドが機能するかを見てください。

そして、私たちは学んだ言葉によって限界を作っています。善悪、快不快。それがストッパーになっていて、そこが終わりの地点です。シェクスピアは何百年か前に言いました。良いとか悪いとかは何もない、思考がそう決めているだけだと。

ニサルガダッタは同じことを、「あなたの想像以外何もあなたを苦しめはしない」と言いました。想像(imagination)とは何ですか? imaging inという風に分解してください。イメージを作ることによって、それを現実だと受け取っています。ああいった絵はイメージです。

後ろの鏡を見てください。それは鏡によって映し出されています。それは実在ですか? それはそのように現れているだけですか?それは実在ではないとわかるはずです。あなたが自分だと思っている概念上の存在も実在ではないということがわかるはずです。

あなたが調べてみると、それは単なるイメージにすぎません。あなたがこれを調べると、それは粉々になります。幼い子供は、私(I)や、私に(me)をどうすることもできません。幼い子供は、これは私、これは私ではないと考えるようになります。私は幼いジョニーだ、それは私に当てはまる。私は小さいジョニーだ。私はいいやつ。私はあまりよくない。

すべてのことをそういう風に見るようになり、それは私には当てはまらいからジョニーではない、私ではないと考えるようになります。そうやって、最初の分離感がやってきます。言葉によってイメージ、考えとともに概念上の分離がやってきます。それは私ではない。「それは私ではない」がやってくるやいなや、分離の感覚が生まれ、不安になり、傷つきやすくなります。

そして自分の周りに安全を探し始めます。当然、両親、愛情ある家庭があれば安全を感じるようになります。そしてその生涯には何が起こりますか。家族が部族となり、部族が大きければ大きいほど、より一層安全に感じます。そして今日ではそれが国家となり、国家は不安と傷つきやすさゆえに戦争を起こします。

両親、学校、社会、国家はこのことに気づきません。しかし、歴史を遡ってみるといつも、そのことに気づいて指摘した人たちがいて、そういう人たちは救済者とか預言者とか呼ばれていました。誰も世界を救いはしませんでしたが、もし彼らが言ったことを調べれば、もっと良い解釈を与えることができます。

でも、人々はメッセージを見ずに、メッセンジャーを崇め、メッセージを忘れました。そこで私はメッセージを見るようにと言います。私(I)や私に(me)には大したことはできません。私たちはそれに出来事、経験、条件付け、形を加え、自身がそこにいるというメンタルイメージを作り上げました。

それを調べることなく、「私」という思考を付け加えました。私はボブ。オーストラリア人。いいやつ。私は幸せ。私は落ち込んでいる。不幸な子供だった。あらゆることがやって来て、概念のイメージを作り上げました。そうしたイメージが「私」という思考を形成しています。

純粋な知性が機能する代わりに、この概念上のイメージが機能しています。そのイメージを私たちは自己の中心、基準点またはエゴと呼びます。概念上のイメージを持ち、それがエゴとなり、一方では聖典の中で、エゴを取れ、エゴが問題だと言っています。

それを取り除くために何でもしようとします。でもここで私は、そんなものは存在しないと言います。私たちは架空の概念に縛られています。そのエゴがすべての心理的な苦悩の原因であることに気づいてください。それは原因と結果であり、カルマと呼ばれるものです。

それは心配のもと、不安のもととなります。それは不幸と抑圧をもたらします。その「私」だけが心配をします。その「私」だけが恐れを抱きます。「私」だけが不幸になり、「私」だけが落ち込みます。「私」にすべての概念を付け加えています。そうが「私」のもととなっています。

そこで尋ねてみてください。原因なくして結果があるでしょうか。カーマと呼ばれるものがあるでしょうか。あなたが調べてみると、原因なくして結果はないとわかります。そうやってあなたは、「私」がすべての問題の原因であると知るでしょう。その結果がストレスとなり、心配となります。

それを取り除くためには自身で調べてみることが必要なのではありませんか。このエゴ、「私」がフィクションであると知ることが必要なのではありませんか。それを調べてみて、それがどう機能するか見てください。

何かが起こり、そこにはいまだに小さな子供がいて、それをありのままに見て自然に過去の記憶と関連付けする機能が働きます。何かが起こり、それを好む。どうしてですか。過去にそれを経験して、それが良かったのでそのことを好む。そして、自分の好きなことを留めておきたい。

いにしえの人々が指摘したように、それは束の間のものだということを理解しません。それをどんなに愛し、そんなに執着し欲しようとも、それが留まることはありません。それはとても普通の退屈なこととなり、変化し去っていきます。それはあなたの体と同じように変化していきます。

私たちは、それが変わってほしくない。それでどうしますか。何らかの力が手に入ったらと考え、「私」に頼るようになります。「私」は抵抗します。「私」は変化することを拒絶しようとします。抵抗は対立だとわかりますか。あなたのどんな抵抗も対立です。そして、どんな対立も病気です。

もしあなたが恐れていて心配し、不安なら、それは病気なのではありませんか。あなたが怒っていて落ち着かないなら、それは病気ではありませんか。それが心理的な苦悩をもたらし、あなたはそれを取り除くことができず、閉じ込めます。

何かが起こり、あなたはそれが嫌い、以前に経験したからと思い、それを取り除こうとします。そしてそれがそこにあることに抵抗します。そしてまた対立、また病気です。そうやって心理的な苦悩に常に悩ませられることになります。というのも、あなたは絶え間なく対立しているからです。

あなたはそのことから自由になることができます。あなたは心理的な苦悩に悩まされる必要はありません。私はここで、たわごとを言っているわけではありません。私は事実を語っているのです。私は何年もの間悩まされてきました。そして今この部屋にいる多くの人が同じ状態にいると思います。

もし調査して、それが虚偽のものであるということを理解したら、虚偽は調査に耐えません。虚偽をもはや信じることはできなくなります。それは束の間のものであり、もし信じるエネルギーを与えなかったら、消滅、崩壊します。

この「私」がフィクションかどうかを調査することが必要です。あなたはそれにしがみつきたいかもしれませんが、それはあなた次第です。私はあなたの代わりにやることはできなし、何かを教えることもできません。でも、もし何かが心に響き、何か心を動かされるなら、内在する知性に響いたなら、それが本当かどうかを調べてみてください。

そうやって調べてみるか、たわごとだと片付けるかはあなた次第です。
みなさんは今、見ています。それは事実ですね。今朝目が覚めて目を開けてすぐ、あなたは見ています。昨日も一昨日も、その前そうでした。そしてあなたは、見る働きは変化していないということに気づくはずです。

見る働きは全く変化していませんが、内容は変化します。聞くことに関しても同じです。今朝目が覚めてから、聞く働きがあります。もし深く眠っている時に誰かが声をかけても気が付かなかったかもしれませんが、聞く働きも同じです。聞く働きは変化しませんが、内容は変化します。

見る働きは起こり、聞く働きも起こっています。自分に問いかけてみてください。私の目は「私は見る」と言うだろうかと。私の目は「ボブ、あれを見ろ」「あれはいい」「あれは良くない」とは言いませんが、あなたの目はどうですか? それが本当か調べてください。

あなたは自分の目は何も言わないが、見る働きをつかさどる器官だということがわかるでしょう。それを通して、見る働きが起きています。そして思考が、「私は見ている」と翻訳します。見る働きを翻訳する器官はマインドです。

忘れないでいただきたいのは、単に「私」が誰かを見ているのではないということ。私はボブ、いいやつ。その概念上のイメージが見ていると思っています。私たちはうわべのものにイメージを与えています。その概念上のイメージが見ていると思っています。

聞く働きが今機能しています。私の耳が「ボブ聞いて」「あれは心地よい音」「あれは不快な音」などと言いますか? 私の耳は何も言いません。耳は聞く働きが起きる器官です。見る働き、聞く働きは目と鼻に起こっていますが、思考によって概念化が行われます。そのイメージを思考に関連付けています。

それを調べてみてください。そして、「私は見ている」という思考が本当に見ることができるのか自問してみてください。目を閉じて、あなたの思考が部屋の中を見ることができるか調べてみてください。あなたは思考では何も見ることができないとわかるでしょう。聞くことも同じです。私の耳が「私は聞いている」と言うでしょうか? 「私はボブ」「オーストラリア人」。そういった概念上のイメージを貼り付けています。その概念上のイメージが見ている、聞いていると思っています。

「私は見ている」という思考は見ることはできません。「私は聞いている」という思考が聞くことはできますか? 手で耳をふさいで、思考で聞くことができるか調べてみてください。「私は気づいて(aware)いる」という思考がアウエアネスですか? 私は気づいているという思考がアウエアネスではありません。

「私は選ぶ」という思考が思考を選んでいますか? あなたは自分で思考を選んでいると思っていますが、もし思考を選んでいるのなら、どうしてあなたは不幸でみじめなのですか? あなたは、思考を選ぶことも思考が見ることも聞くことも気づいていることもできないとわかるでしょう。このエゴは全く何もすることができないということに気づくでしょう。

それには実体、独立した性質はありません。それ自体では存在することができないとわかるでしょう。あなたはその体を持ち、そこに思考が現れて、耳、目、肺、心臓などの器官を通して、生命の本質が現れています。死体にどれだけの思考がやって来ますか。死体は話すことも見ることもできません。

それはまるで、たくさんの情報が詰まったコンピューターのようなもの。電源を切ったら、そこから何を引き出せますか? 同じように、この体とマインドの存在から生命の本質を取り除いたらどうなるでしょうか。死体は何もすることができません。

あなたは、「私はこれができる、あれができる」と言うでしょう。例えばこの家は誰かのマインドの中にあったアイデアです。テレビやコンピューターも誰かのアイデアでした。そして人々は「私が作った」と言います。でも、生命の本質無くして、設計図を書くことができたでしょうか?

認めるべきは認めましょう。生命の本質が働いて、パターンとなり、姿形となり、顕現となって現れました。あなたはそれです。偉大なマントラ、マハバキャにあるように、汝それなり、それ以外のものではありません。そして、あなたの言語の中にも本質的に同じことがあります。

あなたは「あれは椅子」「あれは車」「あれは椅子」「あれはビル」「これは私」「これはあなた」と言います。それらはすべて本質的にはそれなのです。私たちはそれにラベルを貼りました。ビル、カーペット、椅子、すべてに言葉のラベルを貼り、うわべの上では区別しました。それは一つの本質がパターンとなりすべてとなって現れたものです。

あなたはそれです。その線にそって、調べてみてください。もしやりたくなければやらなくても構いませんが、ちょっとだけあなたのエネルギーをそそいでみてください。違った言葉を違ったやり方で聞くことによって、ちょっとした理解が起こってくるでしょう。

これは少数の人たちのためのものではありません。人々はあなたに20年30年40年と探したあとで理解できると言うかもしれませんが、どうして20年30年40年も理解できないのでしょうか? 彼らは知的な人々です。彼らは他の多くのことをマインドで解決してきました。どうしてこれを解決できなのでしょうか?

なぜなら、このことはマインドでは解決できないからです。マインドで解決することは不可能です。マインドの性質は振動することです。調べてみるとわかるのですが、どうやってマインドの外に出るかといくら調べても、どの方向へ行っても、それはマインドの中なのです。

マインドから外へ出る方法はありません。あなたがマインドの真実を理解することはありません。どうやったらマインドの外へ出ることができるでしょうか? マインドから出る唯一の方法は full stop(全停止)です。

「もし考えなかったら、何の問題があるといいうのか」。ほんの一瞬思考を休止して、思考なしで何を言うことができるかやってみてください。あなたは何もいうことができないと理解するでしょう。それでも、あなたが消えることはありません。呼吸も止まりません。あなたの心臓も止まりません。

あなたはそこにいて、指の爪も伸び続けます。食べ物も消化され続けます。体のたくさんの機能が思考無しで働き続けています。あなたは、思考以前に存在するということを理解するでしょう。あなたは思考を超えたものです。

そして次の思考がやって来た時、その背後にあるもの、純粋な知性エネルギー、すなわちアウエアネスなしではそれが起こりえないということを理解するでしょう。

私があなたに、「あなたは今、気づいて(aware)いませんか?」 と尋ねるとあなたは、「いいえ、気づいています(aware)」と答えるでしょう? ということは、あなたは気づいているということです。

人々は何年にもわたって、アウエアネスというものを探し続けますが、あなたはいつでももうその状態にいました。それは単に気づけばいいだけのこと。私は今ここにいて、気づいて(aware)いる。それはマインドでは理解することができないものです。

なぜならそれには、前も後ろも高さも深さも始めも終わりないからです。それでもそれはそこにあって、自然に機能しています。でも私たちはそれにアウエアネスというラベル貼り、それを探そうとします。そして瞑想や、なんやかやをして探し、道に迷ってしまいます。マインドでそれを見つけることはできません。

マインドをほんの一瞬休止しても、あなたは消えたりしません。あなたは純粋な知性と思考の違いを理解するでしょう。思考が止まっていても純粋な知性は今ここで呼吸、鼓動、成長をつかさどっています。では、始めてください。

以下質疑応答。(略)

***

質疑応答は質問者にマイクが無いので、聞き取れない箇所も多いのですが、この動画は比較的クリアですので、英語が大丈夫な人は聞いてみてください。

なお、一部聞き取り不能な箇所を割愛しています。

2020/07/21

U.G.クリシュナムルティ 目次


U.G.クリシュナムルティとは

The Mystique of Enlightenmentより抜粋(エンライトメントなどというものは全くない)

YouTube: Thinking Allowed w/ J. Mishlove(U.G.エンライトメントを語る)

U.G.クリシュナムルティの言葉(このページをスクロールして順番に下へ読んでいってください)

U.G.クリシュナムルティの言葉(the urban guru cafe 79 NO ONE TALKING US)

the urban guru cafe 79 NO ONE TALKING US
引用元はこちらのポッドキャスト(聞き起こし)。このポッドキャストは音楽も素晴らしいので、ぜひ聞いてみてください。

***

I have nothing to say. And what I'm saying is not born out of my thinking.
Welcome to the urban guru cafe. What is consciousness. Who are you? And What are you doing here?

私には何も言うべき事がない。私の言うことは私の思考から生まれたものではない。
ようこそアーバングルカフェへ。意識とは何でしょうか? あなたは誰ですか?あなたはここで何をしているのですか?

To what nature has created the form of human species is something extra ordinary. It's unparalleled creation. And culture  is interested in fitting the actions of all human beings into your common mold and that because they are interested in maintaining what is called value system. That is where the real conflict is.

自然が生み出したものの中で、人間という種は何か並外れたものだ。それは無比の創造物だ。社会はすべての人間の活動を同じ型にはめることを好む。なぜなら、社会はいわゆる価値体系を維持することに熱心だからだ。そこに真の葛藤がある。

The thought in it's very nature can only create problems can not help us to solve the problems. We become one with it. We don't seem to realize that is the thought that is separating us form the totality of things. And the demand that this is the one that can help us to keep that totality always there is not going to succeed. So it has come up with the all kind of ingenuous if I may use that word, ideas of insight, intuition have come up with all and every kind of phrases to cover up the impossibility of trying to use those words to understand the reality of things. That is where the real problem is.

思考はその根本的な性質として問題を作り出すだけで、問題を解決する助けにはならない。私たちは思考と一体となってしまう。私たちは思考が物事の完全性から私達を分離しているということを理解しようとしないように思える。それゆえ、常にそこにある完全性を維持するためには思考こそが私たちの助けになるものだという欲求はうまくいかないように思える。言葉では物事の現実を理解することなど不可能だということを覆い隠すために、あらゆる種類の、もしこういう表現を使ってもよいなら、単純な洞察や直感が、あらゆる種類の表現をともなってやってくる。それこそが本当の問題だ。

See nobody knows anything about life. We have only a conceptual ideas and mentation of life. And even scientists are trying to understand life it's origin. Come up with theory definitions of life, we really do not know anything about life. And all thought, all our thinking is dead. It is one of the dead ideas. So the thought or the thinking mechanism trying to touch life, experience life, and capture that life and give expression to that life is an impossible task. So what we are concerned about is living.

生命のことについては誰も何も知らないということを理解しなさい。私たちは生命についての概念上の考えとその精神作用を持っているにすぎない。科学者たちでさえ、生命の起源を理解しようとしている。生命の定義、理論を持ち出しても、私たちは生命については何も知らない。そして、すべての思考、すべての考えは死んだものだ。それは死んだ考え。それゆえ、思考、考える機能で生命に触れ、経験し、掴まえて表現しようとしても、不可能なことだ。私たちの関心事は生きていくことなのだ。

And we assume that there is such a thing as a soul, that there is such a thing as a spirit , that there is such a thing as I. What I thought  all the time is that I haven't  formed anything like idea any center there any self there any soul there . This question hunted me all through my life. And suddenly it hit me that there is no self to realize. What a hell you have been doing all the time. That hit you like a seer lightening. You know. When once that hits you, the whole mechanism of the body that is controlled by this thought is shattered. And what is left with is the tremendous living organism with intelligence of it's own. And What you are left with is the pulse and beats of trauma of your life. That's all that is there.

そして私たちは、魂というようなものがあると思っている。精神、「私」というものがあると思っている。私がずっと思っていたのは、私はどんな考えも自分で作ったことはなかったし、そこにはどんな自己の中心や自己、魂などというものも無かったということ。この疑問は生涯私を悩ませた。そして突然、実現する自己などないとわかった。ずっと私は何をしてきたのか。それは稲妻のようにあなたを打つ。一旦それがあなたを打つと、思考によってコントロールされている体は粉々になる。そしてそこに残されるのは、途方もない知性を持つ生命の有機体だ。そしてそこにあなたとともに残るのは命の脈動と鼓動だけだ。そこにあるのは、それがすべてだ。

2020/07/20

U.G.クリシュナムルティの言葉



永遠不変などというものはどこにもない。
すべてのものが絶えず変化している。
すべてが流動的だ。
すべての関係性の無常さを直視しないために、感傷、ロマンス、劇的な感情が生まれ、それが本当にあるかのように思える。
それがために、あなたはいつも葛藤している。
U.G. Krishnamurti

2020/07/19

U.G.クリシュナムルティの言葉

"Charity is the filthiest invention of the human mind: first you steal what belongs to everyone; then you use the law and various other means to protect it.
 You give charity to prevent the have-nots from rebelling against you. It also makes you feel less guilty. All do-gooders feel 'high' when they do good."
U.G. Krishnamurti

チャリティとは、人間のマインドが生み出した最も卑劣なものだ。
最初にすべての人から盗み、法律や様々な手段によってそれを守る。
持たざる人たちがあなたに逆らわないようにとチャリティを施す。そうするこで罪悪感を減らす。慈善家は誰でも、善を施した時にいい気分になる。
U.G.Krishnamurti

2020/07/18

U.G.クリシュナムルティの言葉

Society has put before you the ideal of a 'perfect man'. No matter in which culture you were born, you have scriptural doctrines and traditions handed down to you to tell you how to behave. You are told that through due practice you can even eventually come into the state attained by the sages, saints and saviors of mankind. And so you try to control your behavior, to control your thoughts, to be something unnatural.
U.G. Krishnamurti

社会はあなたに「完璧な人間」像を示してきた。
どんな文化の中で生まれようと、聖典の教義や伝承によって、どう振る舞うべきかを教えられてきた。
相応の修練を積めば、やがては聖者、聖人や人類の救済者が到達した境地に到達できると教えられてきた。
そうやって自分の行動や思考をコントロールしようとして、あなたは何か不自然なものとなる。
U.G. Krishnamurti

2020/07/17

U.G.クリシュナムルティの言葉

A guru is one who tells you to throw away all the crutches that we have been made to believe are essential for our survival. He would ask you to walk, and he would say that if you fall, you will arise and walk.
U.G. Krishnamurti

グルとは、あなたが生きていくために必要だと信じ込まされている松葉づえを投げ捨てるようにと言う人のことである。
彼はあなたに自分で歩くよう促し、もしあなたが転んでも、起きて歩くようにと言うだろう。
U.G. Krishnamurti

2020/07/16

U.G.クリシュナムルティの言葉

If anyone thinks he can help you, he will inevitably mislead you, and the less phony he is; the more powerful he is, the more enlightened he is, the more misery and mischief he will create for you.
U.G. Krishnamurti

もし誰かが、あなたを助けることができる考えると、そいつは必ずあなたを誤り導くだろう。
そいつがイカサマであるほど、そいつの力は強大となる。
そいつがエンライトメントしていればいるほど、そいつはあなたにみじめさと災いをもたらすだろう。
U.G. Krishnamurti

2020/07/15

U.G.クリシュナムルティの言葉

We are not created for any grander purpose than the ants that are there or the flies that are hovering around us or the mosquitoes that are sucking our blood.
U.G. Krishnamurti

私たちは、そこらにいるアリや、周りを飛び回るハエ、血を吸う蚊よりも少しも崇高な目的で創造された生物ではない。
U.G. Krishnamurti

2020/07/14

U.G.クリシュナムルティの言葉

The plain fact is that if you don't have a problem, you create one. If you don't have a problem you don't feel that you are living.
U.G. Krishnamurti

明確な事実は、もし何も問題がないなら、自分で作ってしまうということ。もし何も問題がないと、自分が生きている気がしないということだ。
U.G. Krishnamurti

2020/07/13

U.G.クリシュナムルティの言葉

You are not ready to accept the fact that you have to give up. A complete and total 'surrender'.

It is a state of hopelessness which says that there is no way out. Any movement in any direction, on any dimension, at any level, is taking you away from yourself.
U.G. Krishnamurti

あなたは、あきらめなければいけないという事実を受け入れる用意ができていない。
完全な全面的な「降伏」。

出口がないという状態は絶望的な状況だ。
どんな方向へも、どんな次元へも、どんなレベルへも、少しでも動こうとすれば自分自身から遠ざかることになる。
U.G. Krishnamurti

2020/07/12

U.G.クリシュナムルティの言葉

My interest is to point out to you that you can walk, and please throw away all those crutches. If you are really handicapped, I wouldn’t advise you to do any such thing. But you are made to feel by other people that you are handicapped so that they could sell you those crutches. Throw them away and you can walk. That’s all that I can say. ‘If I fall....’ - that is your fear. Put the crutches away, and you are not going to fall.
U.G. Krishnamurti

私の関心は、あなたは自分で歩けると指摘することであり、どうか松葉づえを投げ捨ててほしいということだ。
もしあなたに本当に障害があるのなら、こんなアドバイスはしない。
しかしあなたは、他の人があなたに松葉づえを売りつけるために、自分には障害があると思い込まされている。
松葉づえを投げ捨てると、あなたは自分で歩ける。
私が言いたいのはそれだけだ。
「もし転んだら・・・」それがあなたの恐れだ。
松葉づえを脇に置いてみても、転びはしない。
U.G. Krishnamurti

2020/07/11

U.G.クリシュナムルティの言葉

Everything you stand for, believe in, experience and aspire to is the result of thought. And thought is destructive because it is nothing more than a protective mechanism, programmed to protect its own interests at all costs.
U.G. Krishnamurti

あなたが支持すること、信じていること、経験することや切望することすべては思考の結果だ。
そして思考は破壊的だ。
というのも思考は防御機能にほかならないからだ。
それはどんな犠牲を払ってでも自己の利益を守るようプログラムされている。
U.G. Krishnamurti

2020/07/10

U.G.クリシュナムルティの言葉

You think when you don't want to do anything. Thinking is a poor alternative to acting. Your thinking is consuming all your energy. Act, don't think!
U.G. Krishnamurti

何かをしたくない時、あなたは考える。
行動するかわりに考えることは愚かな選択だ。
考えることはあなたのエネルギーを消耗させる。
考えていないで、行動しなさい。
U.G. Krishnamurti

2020/07/09

U.G.クリシュナムルティの言葉

Only if you reject all the other paths can you discover your own path.
U.G. Krishnamurti

すべての道を捨てて初めて自分自身の道を見つけることができる。
U.G. Krishnamurti

2020/07/08

U.G.クリシュナムルティの言葉

All your experiences, all your meditations, all your prayer, all that you do, is self-centred. It is strengthening the self, adding momentum, gathering momentum, so it is taking you in the opposite direction. Whatever you do to be free from the self also is a self-centred activity.
U.G. Krishnamurti

あなたのすべての経験、瞑想、祈り、あなたのすることすべては自己中心的だ。
それは自己を強め、勢いづかせる。
そうした行為はあなたを逆の方向へと導く。
自己を解放しようとして何をしようと、それは自己中心的な行為だ。
U.G. Krishnamurti


2020/07/07

U.G.クリシュナムルティの言葉

This question haunted me all my life and suddenly it hit me: 'There is no self to realize. What the hell have I been doing all this time?' You see, that hits you like lightning. Once that hits you, the whole mechanism of the body that is controlled by this thought is shattered. What is left is the tremendous living organism with an intelligence of its own. What you are left with is the pulse, the beat and the throb of life.
U.G. Krishnamurti

この問いは生涯にわたって私を悩ませてきたが、突然私は理解した。
実現する自己などない。
なんと愚かなことをずっとやってきたことか。
それは稲妻のようなものだ。
いったん理解したら、その思考によって支配されていた体のメカニズムが粉々になる。
そこに残されるのは、生命の脈動、ビート、鼓動だ。
U.G. Krishnamurti

2020/07/06

U.G.クリシュナムルティの言葉

Nature is busy creating absolutely unique individuals, whereas culture has invented a single mold to which all must conform. It is grotesque.
U.G. Krishnamurti

自然は、まったくユニークな個人を絶え間なく生み出すが、文化は一つの鋳型を生み出し、皆に従わせようとする。
それはグロテスクだ。
U.G. Krishnamurti

2020/07/05

U.G.クリシュナムルティの言葉

What is there to understand? The significance of life? How long will it take to understand the significance and the meaning of life? 20 years? 30 years? And the same question will be here in another 20 years, I guarantee you. Until you stop asking that question. When that question is not there, you are there. So that's the reason why you keep asking the question: you do not want the question to come to an end. When that comes to an end, there will not be anybody, left there, to find out the meaning, the purpose and the significance of life.
U.G. Krishnamurti

何を理解することがあるのか? 人生の重要さ?
人生の重要さと意味を理解するのに、どれだけかかるのか? 20年? 30年?
 そしてまた同じ質問がまた20年続くと私は保証する。
それはあなたが質問することを止めるまで続く。
そこに質問がなければ、あなたがそこにいる。
それが、あなたが質問しつづける理由だ。
あなたは質問することを止めたくない。
それを止めると、人生の意味、人生の重要さと目的を探す人は消える。
U.G. Krishnamurti

2020/07/04

U.G.クリシュナムルティの言葉

I am not out to liberate anybody. You have to liberate yourself, and you are unable to do that. What I have to say will not do it. I am only interested in describing this state, in clearing away the occultation and mystification in which those people in the 'holy business' have shrouded the whole thing. Maybe I can convince you not to waste a lot of time and energy, looking for a state which does not exist except in your imagination.
U.G. Krishnamurti

私は誰かを解放しようとしているわけではない。
あなたは自分で自らを解放しなければならないが、それはできない。
私が言おうとしているのは、あなたを開放することではない。
「神聖ビジネス」を行う人々が隠したりごまかしたりして覆い隠していることすべてを取り除き、この状態を描写することだけに関心がある。
私はおそらく、あなたの想像の中にしか存在しない状態を探して時間とエネルギーを浪費しないようにとあなたを納得させることができると思う。
U.G. Krishnamurti

2020/07/03

U.G.クリシュナムルティの言葉

There is nothing there - no soul - there is only this question about after death. The question has to die now to find the answer - your answer; not my answer - because the question is born out of the assumption, the belief, that there is something to continue after death.
U.G. Krishnamurti

そこには何もない。
魂などというものはなく、あるのは死後についての問いだけだ。
この問いを止めない限り、答えは見つからない。
これはあなたの問いであり、私の問いではない。
というのも、この問いは、死後にも何かが続いていくというあなたの仮定、信心から起きているからだ。
U.G. Krishnamurti

2020/07/02

U.G.クリシュナムルティの言葉

The fact is that we don't want to be free. What is responsible for our problems is the fear of losing what we have and what we know.
U.G. Krishnamurti

実は私たちは自由になりたくないのだ。
問題の原因は、私たちが持っているものや知っていることを失う恐怖なのだ。
U.G. Krishnamurti

2020/07/01

U.G.クリシュナムルティの言葉

Your situation and prospects only seem hopeless because you have ideas of hope. Knock off that hope and the crippling feelings of helplessness go with it.
U.G. Krishnamurti

あなたの現状と将来は絶望的に見える。
なぜなら、あなたは望みに対して考えを抱いているからだ。
望みも、それに伴う絶望からくる深刻な感覚も捨てなさい。
U.G. Krishnamurti