2020/05/16

U.G.クリシュナムルティThinking Allowed w/ J. Mishlove


U. G. Krishnamurti: Complete Part 1 - Mystique of Enlightenment - Thinking Allowed w/ J. Mishlove

みなさんこんにちは。ジェフェリー・ミシュラブです。今日はエンライトメントという概念について調べてみたいと思います。
なぜ世界中の人たちは、ほとんどの宗教や文化的な伝統において、エンライトメントという概念を追い求めているのでしょうか?

エンライトメントとは何でしょうか? そんなものがあるのでしょうか? それを達成することが可能なのでしょうか?
今日は、世界を旅する旅人であり、「Mind is a myth」「The mystique of enlightenment」の著者であるU.G.クリシュナムルティをお招きしています。

ようこそU.G。

サンキュー。

人々はしばしばあなたのことを、「エンライトした存在」と呼びます。そしてあなたはそれをとても不快に思っていることを私は知っています。実際あなたは以前私に語ったことによれば、「存在」という概念がまったく気に入らない。

そうです。いいですか。問題は、何かになるというということから生まれます。エンライトメントもまた、何かになるということです。
話をもう一歩進めると、いわゆる人間のマインドという言葉を使うなら、それは官能的な行為だけに関心があります。

生体、人間の体、それを何と呼んでもいいのですが、それは刺激にだけ反応します。体は快楽には全く関心がありません。それゆえ、あなたが快楽に関する何かを経験するために思考を持ち込んだ瞬間、それは体にとっては苦痛となります。

私たちは官能を求めて、それでも苦痛だけを得る?

私たちは苦痛が大好きです。別の言葉で言うなら、私たちは苦痛を楽しみます。そしてそれを快楽と呼びます。人間の体はどんな種類の快楽にも興味がありません。体が興味あるのは神経組織の感受性と体の機能の感受性を維持することだけです。

それゆえ、あなたがある種の感覚を楽しい感覚だと思った瞬間に、その感覚を長引かせようという要求が起きます。そしてその楽しい感覚を長引かせようとすると、私たちが快楽と呼んでいる感覚を苦痛に変えてしまいます。

それが、体にとっては苦痛という感覚になります。体は快楽という感覚を取り除こうとします。そうやって私たちは苦痛から抜け出せなくなります。

それはまるで、快楽が大きければ大きいほど苦痛も大きくならざるをえないようです。

人々はいわゆる快楽に度合いを持ち込みます。思考は常に、何かに対してもっともっと多く、もしくはもっともっと少なくと求めます。私は決して快楽に反対している訳ではありません。

あなたが思考を快楽を得るための道具として使った瞬間に、問題を作り出すことになります。なぜなら、人は理解した・・・。私は人という言葉や人間という言葉を使うのは好きではありませんが、一般的な意味での人のことで、その人というのは、例えばあなたと私、ここに座っている人のことです。

永遠の幸福という欲求は、どんなことをしても、どんな思考でも達成できないものです。
人は思考を投影し、いわゆるエンライトメント、神、自己実現、何と呼んでもよいのですが、を創り出しました。それが究極の快楽です。

あなたもたぶんお聞きになったことがあると思いますが、インドには、偉大な聖人たちがいて、彼らは永遠に続く性的オルガスムスの状態にあると考えられています。

(笑い)それがグルたちが今日市場で売っているものです。いいですか。セックスでさえ体にとってはどうでもよいことです。なぜならそれは体にとっては苦痛であり、それは再生という唯一の目的のためにのみ必要なものです。

生物はたった二つのことにしか興味がありません。生存と再生です。
それゆえ、いったん思考が介入してセックスを快楽に変えると問題を創り出すことになります。思考によって、快楽をもっと長引かせることができるのではないかと考えます。ある状態から、もっともっと長い時間へと。
そうやってあなたが長引かせると、体にとってはそれが苦痛となります。

あなたのアプローチはとてもヴィクトリアン(堅い、上品ぶった)に思えますが。

私はヴィクトリアンではありませんが、セックスはエンライトメントとは全く関係がありません。今日、市場の人々の間でセックスをエンライトメントへの手段、もしくは踏み台にするのが流行っています。しかし、現実としても事実としても、セックスは全く、いわゆるエンライトメントとは関係ありません。

あなたがセックスを否定していようが、溺れていようが、あなたが探しているものにとってはまったく重要ではありません。でも、セックスを否定している文化の中では、それは軽蔑すべきものとして扱われていたり、精神的なゴールの本質的なものとして扱われていたります。

不幸にも、エンライトメントを売り物にしている市場のグルたちはタントラの技法というものを発明して、それを霊的なゴールを達成する方法として使っています。

ええ、タントラ、禁欲についてあなたがおっしゃっているのは・・・。

それは全くエンライトメントとは関係がありません。もしあなたが、エンライトメントに対する疑問やエンライトメントに対する欲求を完全にセックスから切り離したら、それを別の見方で見ることができます。

エンライトメントと呼ばれるようなものが果たして存在するのかどうかということです。私たちは、エンライトメントがあるということを当然のこととして受け入れています。
私たちはそれを疑問に思ったことがありません。もしそれに疑問を持つと、エンライトメントという概念全体やエンライトメントを説く教師に疑問を抱くことになり、自分が信じてきた信念に疑問を抱くことになります。

そういった感情が背景にあるために、エンライトメントは当然あるものとして受け入れています。

ええ、私たちはそういった概念を抱いています。それは昔の聖人たちが様々な文化の中にいて、意識の高次の状態やエンライトメントについて書いたり、語ったりしているからです。

それはそうなのですが、私はその意識そのものについて尋ねます。はたして意識(consciousness)などというものがあるのかというのが私の問いです。
私たちは自分自身とそれを取り巻く世界を意識するようになりましたが、それは聖人や人類の救済者と呼ばれる人たちによって与えられた知識の助けを借りたからです。

では、そういった知識の助けなしで何かを意識することは可能ですか?そうすると、私たちが当たり前に受け入れていることに対して疑問も持つことになります。私たちはとても世間知らずで、それを受け入れ、全生涯を通じて、それをあなたが何と呼んでもいいのですが、エンライトメント、神の実現、自己実現、を追求しています。

別の言い方をすると、あなたにパラドックスがあるように思えます。というのも、一方で私たちの意識は、私たちをいわゆる真理として伝えられた伝承に対して疑問に導きますが、あなたは、その伝承なしでは私たちには意識はないと言います。

いいですか。それが私たちの思考の構造の一部なのです。不幸にも思考はそれ自体が二つに分裂していて、二元性、神経症的な状況を創り出しています。

あらゆる文化が私たちに、競争すべきではない、競争はよくないことだと教えています。また、野心は持つべきではないと教えています。

霊的な教えではそう教えることが多いですね。

霊的な教えもそう教えます。霊的な教えではあなたに、野心、欲望、あれやこれやから自由であることを求めます。しかしその一方で野心は、今日の社会を生き抜くためには絶対に必要です。そのために神経症的な状況が生み出されました。私たちは快楽を求め、その一方で、快楽が痛みをもたらすということを知っています。

そのため、永続性に対する欲求が思考が基本的に求めている欲求です。思考は永続性に興味があります。この生物としての永続性ではなく、思考の継続という永続性を求めています。

体はある意味で、それが永続だということを知っています。それは、私たちが知っているような、これが永続、あれが永続ではない、というような意味ではありません。その知識は特別なもので、体が永続であると知っています。そのため、ある日終りがやってくるという考えには興味がありません。

この楽しいひと時にかかわっている者にとって、この生物が死んだ時に何が起きるのかというようなことを聞く人がいるでしょうか?体にとっては死などというものは存在しません。なぜなら、体には、体が今この瞬間は生きていて、60年後、70年後、80年後、100年後に死ぬということを経験する方法がないからです。

あなたは体は死なないとおっしゃるのですか? 魂はどうですか?

(笑い)それは信じられているものです。自己、魂、精神、あなたが何と呼んでもよいのですが、それは思考によって創造されたものです。その思考が原因で、私たちが自己、精神、魂、なんと呼んでもいいのですが、を経験します。

言葉の語源をもてあそぶような軽薄なことはしたくないのですが、spirit(精神)はラテン語です。

それは一般的には呼吸と関連がありますね。

ええ、呼吸という意味です。そしてあなたが人を観察して、呼吸が止まった時、あなたはそれを死と表現します。そして呼吸が止まったという事実を見た時、死の後に何か継続していくものがあるのかをあなたは知りたくなります。あなたの体が死という状態になった後、何が永続していくでしょうか。

私の体は生き残らないで朽ちていきますが、あるレベルでの私の経験する能力はおそらく生き残るのではないかという風に私は考えてきました。

では、あなたはそれを自分の体が生きている今経験することができますか? もし人が死について何かを知りたいと思うなら、死が起きるのを待たないで、それが何なのかを今知る必要があります。

あなたが、今日生きているという事実を経験する方法はありますか? 私は、無いと断言します。医者がやってきてあなたを診察して、これがあなたの血圧、これが体温、あなたの心臓は脈動している、などと告げます。それであなたは生きていると思う。

あなたはそういった知識を活用して、いわゆる生きている存在というものを経験しようとします。でも、そういった医師の観察という過去から受け継がれた知識によってあなたは生きている存在だと言われること無しに、自分が生きている存在だと自分に言ってみてください。

もしひとたびあなたが知識を無くすと、あなたは今日生きているという経験をする方法がありません。そうなると、あなたが死んだ時という質問は起きません。

デカルト、偉大な西洋哲学者は「我思う、ゆえに我あり」と言いました。でもあなたは、思考は生の対極にあると暗示している気がします。

私も西洋哲学でデカルトを学びましたが、彼は間違った問いをして、とてもおかしな回答をしています。我思う、ゆえに我あり。でも、彼は本来問うべき質問を問うていません。

インド哲学者はこういう風に問います。あなたがもし考えなかったら、あなたは存在しますか? 私たちが問うべき基本的な問いは、思考とは何なのか?そして、なぜ考えるのか?です。もしあなたが考えなかったら、それでも問いはあります。

その問いは、そこに何者かがいるという仮定から起こっています。だから、こう問うべきなのです。我思うゆえに我あり、でももし私が考えなかったら、その私はどこにいるのか?

エンライトメントについて話をすると、インドの偉大な聖人たちは、人が思考を止めると、人は広大な至福の海に入ることができる、それがエンライトメントだと言っていますが、それは本当ですか?

(笑い)至福、呼びたければ何と呼んでもかまいませんが、それは私たちがふける肉体感覚の快楽です。彼らは並外れた瞬間を経験して、それを至福と表現しています。そしてそれを人とシェアしようとします。そのため、人々は同じ経験をしょうとして多くの問題を起こします。

その知識が世代から世代へと受け継がれてきました。あなたも同じやり方で物事を経験します。もしあなたに知識がなかったら、あなたは何一つ経験することはできません。そしてもし一瞬でもそれを経験すると、それは知識を超えて、さらに強化されます。

この悪循環が繰り返し繰り返し起こります。この構図にはこの悪循環を打ち破る方法がありません。私たちは物事を経験するためには知識を受け入れざるをえません。そして、経験が知識を強化するのです。
私たちは本当にそれから抜け出る方法を見つけたいのでしょうか?

出口はあるのですか?

出口はありません。なぜなら、質問は思考から起きています。思考がこの問いを問いかける時、思考は答えがないということを知っています。思考ができる唯一の道は、それを続けていくことだけです。

思考は時間を創り出しました。思考は空間を創り出しました。知識の助けなくしては、私たちは空間を経験できません。知識の助けなくしては、時間を経験できません。そこには空間も時間もありません。

科学者たちは好きなようにあれこれ言うでしょう。でもまた彼らは、時間というようなものはないとも言っています。空間というようなものはない、物質というようなものもない、時空連続体があるだけだと。

私は尋ねます。空間というものがありますか? 時間というものがありますか? 思考が生まれた瞬間に時間がそこにあります。そして思考によって、時間のない状態が創造され、その状態を追い求めるのですが、思考が時間のない状態になることはありません。

なぜなら、時間のない状態になるためには思考が不在でなければならないからです。それ(時間のない状態)は思考によって、それ自体を時間の中で永続させるために発明されました。

私達は抜け出せない罠にはまっているように思えますね。

私たちははまっていて、そこから出るという欲求が現実的な問題です。その問いに対する答えは全くありません。

人間の歴史の中で、エンライトメントした人などいないとおっしゃるのですか?

いいえ。私はエンライトメントした存在がいないとは言いません。人間はたくさんいるのですから。でも私はエンライトメントしたいという欲求について尋ねます。最初に言ったように、私としては、エンライトメントなどというもの全くありません。

エンライトメントは未来にあります。今さっき言ったように、時間が未来の物事を創造しました。未来がエンライトメントをいつも、かなたにあるものにします。エンライトメントは、自称エンライトメントしたという偉大な教師たちから受け継いだ知識の一部なのです。

過去があなたの未来、つまりエンライトメント呼ばれるものを投影するもとになっています。まず第一に、現在というものが存在しますか? 現在などというものはありません。今などというものはありません。

今この瞬間などというものはありません。というのも、もしあなたが、これがその瞬間だ、これが現在だ、これが今だ、と言うと、その瞬間にあなたは過去を描写しています。過去に私はエンライトメントしていなかった。私は明日エンライトメントをするつもりだ。では、今はどうなのですか?

今私はエンライトメントをしているのか、それともしていないのか。何をもって、私はエンライトメントしているとか、エンライトメントしていないとか、 私は解放されているとか、解放されていないとか言うことができるのですか?

それは知識によってです。知識によって、私は解放されていない、私はエンライトメントしていないということができます。もし、あなたがエンライトメントをしていなのなら、明日エンライトメントをする。うまく言えているのかどうかわかりません・・・。

これはちょっとしたパラドックスですね。私が考えるには、もし誰かが本当にエンライトメントをしているのなら、その人は空間や時間を超越していているはずですから、いつもそうだったはずですね。

もし仮に、エンライトメントをした存在がいると仮定すると、彼は自分のことをエンライトメントした存在であると表現する方法はありません。そのため、他の人をエンライトメントさせようという疑問は起きないはずです。

私はエンライトメントしたと言った瞬間、すでに元に戻ってしまう。

エンライトメントという知識が何世代にもわたって私達に伝承されました。その知識が、あなたはエンライトメントした存在だとあなたに教えます。その結果、あなたは他の人もエンライトさせたい。

それはこういった知識の助けを借りて、私にも可能な取るに足らないささいな経験です。私が経験したエンライトメントと呼ばれるものは、思考がもたらしたものであって、真のエンライトメントでは全くありません。

どんなエンライトメントの描写も本質的には妄想だとおっしゃるのですか?

(笑い)どうしてあなたはエンライトメントにこだわるのですか?

えっと・・・。

出口です。

ええ、他に何をすることが?(笑い)

出口です。いいですか。あなたは問題を未来の日へと先延ばしにします。私が言いたいのは、問題など何もないということです。私達がはまってしまっているのは、教えられた解決法によってです。

それは、あなたや私が、その問題に対して正しい解決法を知っていると思っている人々によってもたらされたものです。でもその解決法は私たちの問題を解決する助けにはなりません。

しかし、どういうわけか私たちは時間という領域の中で縛られています。そして時間は希望です。同じことを何度も何度も繰り返すことによって、あなたはこの問題を解決することができます。

そうした解決法が役にたたないために、私たちはあちこちと捜しまわり、別の解決法を提供してくれる人を捜そうとします。でも、この問題を解決することに興味ある人は、聖なる聖人や人類の救済者と呼ばれる人たち、過去、現在、そしてまだ生まれていない聖人も含めて、そういった人たちによって提供された解決法を脇に置いて始めなければなりません。

別の言い方をすると、真に自由であること、真にエンライトした存在とはエンライトメントに関するすべての概念、すべての伝統的な概念を放棄するということですね。

あなたはあたかも概念について話していて、二つの違ったことを話しているように思います。エンライトメントの欲求についてと二つの違ったことについてです。あなた自身を概念と分離する方法はありません。

でもあなたは、そうすることが不可欠だと今さっきおっしゃいましたが。

そうすることが不可欠だと言ったのは、ものごとを説明するためには、話すということが不可欠だからです。

不可欠であるが同時に不可能だということですね。

あなたはまだ、問題など何もないということを受け入れる用意ができていません。そしてあなたは人々が完全に信じ信頼している人たちから提供された解決策に行き詰っています。そしてそれは役にたちません。

私たちが使っている道具は、希望から生まれたものです。あなたの今現在の状態は、あなたの思考、フィーリング、経験の総和です。そういった道具は私たちが持っている唯一の道具です。それはとても強力な道具です。

その道具は、今日まで私たちが何かを成し遂げるために大いに助けになりました。そのため、私たちはこの道具を捨てる用意ができていません。それと同時に私たちは、この道具の助けを借りて理解することが、私達の問題を解決する助けにはならないということを知っています。

それでも私達はその道具を使って解決しょうとすることをやめず、それができると信じて、自信を持っています。それが問題の根源です。いったんあなたに理解が起きると、そうした道具が理解や解決の助けにはならないとわかり、その瞬間に、そういった問題を解決してくれる道具に対する欲求が消えます。

ですから、理解などというものはまったくありません。どうして私がこうなったかということを知る方法はないのです。どういうわけか、私はわかったのです。知性を鍛え、使い、育てても、何かを理解することには役に立ちません。

同時に、そうした道具を深く信頼することは(23:12あたり。ここ聞き取りできません)
それが唯一の道具です。私は他の道具を知りません。それが私が持っている唯一の道具です。

それは、何かを解決したり、理解したりする助けにはなりませんでした。どういうわけか、わかったのです。それが唯一の道具であり、他の道具はないということが。それは、理解しようとするための他の方法を根底から捨てさること。直感によるすべての考えを下水に流して捨ててしまうこと。

なぜ? なぜ直感を捨てるのですか?

あえて言うなら、直感は思考がさらに敏感になったものにすぎません。思考で問題を解決しようということが問題なのです。

でも、少なくとも、洗練された敏感な思考を持つ方が、洗練されてない鈍感な思考を持つよりいいのではありませんか?

その違いは何ですか?洗練されてない思考と敏感な思考の違いは何ですか?

18世紀の西洋の伝統の中に啓蒙運動という概念があります。迷信から自由になれば、ありのままを見ることができるというものです。

私達は迷信から自由ですか?どうして私達は科学者が毎日のように提供することを鵜呑みにしているのですか?それは科学的だと人は言いますが、それほど科学的ではなく、過去の宗教関係者と同じぐらい独断的です。科学がテクノロジーをもたらすので、人々は科学を深く信頼しているのですが、4年ごとに理論は変化しています。

先日も言ったのですが、科学者は最も根本となる微粒子を発見することに懸命になっていて、それをどこまでもどこまでもやり続けて決してあきらめません。

自然界の謎を解き明かそうとする知的な努力は無駄だとおっしゃるのですか?

ええ、無駄です。なぜなら、科学者は自身を宇宙と切り離して考えているからです。それは一つのもの(single unit)です。自然と人間は二つの別々のものではありません。以前言ったように、どうしたわけか、進化の過程で人間という種に自意識が生まれました。でも、・・・。

どうして私たちは切り離されていないとわかるのですか?どうして自意識は役にたたないということがわかるのですか?

思考が空間を創り出しているのです。思考が空間です。例を出してみましょう。

あと一分しかありません。

(椅子に触れながら)今ここに触れています。これが固いということはどうしてわかるのですか? これが固いという知識は思考です。そしてその思考が二つの間の空間を生んでいて、これが固いとわかります。

そうでなければ、二つのものの間には空間はなく、触感によって、これが固いとか柔らかいとかわかることはありません。

触感のような基本的で当たり前に思っていることでさえ、それは一つの思考のプロセスであるということですか?

そうです。つまり、思考が空間であり、思考が空間を生み出し、その空間の中で私たちは機能しています。空間は思考では決して決して経験することがでかない何かです。

私たちは自らの思考の罠にはまっているのですね。そして思考は自身でそれを知ることはできない。

思考には自らを知る方法がありません。本質的な問いは、思考などというものがあるのか? 思考とは何かを知りたいという欲求は思考によって生まれたものです。そしてあなたがそこで見るものは思考を超えたものであり、思考そのものではありません。

U.G.クリシュナムルティ、どうもありがとうございました。

サンキュー。

みなさんどうもありがとうございました。