2020/05/23

U.G.クリシュナムルティの言葉

「悟りなどというものはありません。完全なる命が、一人ひとり、そしてあまねくすべてのものとして出現している。ただそれだけです」
(U.G. クリシュナムルティ)
“There is no such thing as enlightenment, only the perfection of life arising as each person and every thing.”
ーU.G. Krishnamurti

引用元はこちら

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U.G.に起こった「爆発」「災難」とは一体どんなものだったのでしょうか。

セイラーボブや周りの人たちが、U.G.と同じような体験をしたと言うのを聞いたことはありません。また、彼らがこの「爆発」を話題にするのを聞いたこともありません。

U.G.の「爆発」は他の聖人たちが語る覚醒体験とは全く異なるように思えます。ただ、J.クリシュナムルティやラマナ・マハリシも U.G.と同じように背中の痛みを訴えていたと記憶しています。(本が今は手元にないので確認していませんが)

U.G.はエンライトメントは無いと言っています。エンライトメントは私たちの意識に刷り込まれた概念だと言うのです。私たちはエンライトメントがあると思い込んでいて、それが起こって欲しいと思って、様々なことをします。

その結果、マインドがその状態を創り出します。U.G.もそうでした。でもU.G.は自問しました。「どうしてそれがエンライトメントだとわかる?」と。

私がセイラーボブのミーティングで、どうしてエンライトメントがないのか聞いた時、ギルバートは言いました。「ヴィクトリアマーケットでエンライトメントが売っていたら、あなたはそれがエンライトメントだとわかるのか?」

私は、エンライトメントがあることを大前提として探求をしてきました。でもそんなものは無いと知った時、大きな解放が起きました。そして今も解放された状態にあって、それを知る前と今では比べものにならないほど気持ちが楽です。

U.G.は、エンライトメントなど無いと知り、実現する自己などいないと理解すると、ある人には「爆発」が起きると言っています。

でも、私には今のところ「爆発」は起こっていません。
私のマインドのクラッチは、U.G.のように外れてはおらず、時々悩み事を運んできます。私の気持が楽なのは、考え方、理解が変わったのであって、U.G.のように体の機能の仕方が変化したからではありません。

もちろんセイラーボブも彼の周りの人たちも、マインドのクラッチは外れてないと思います。彼らは普通の人と何も変わりません。

私はU.G.の本を読んで、ちょっとした衝撃を受けたのですが、セイラーボブから学んだことがぐらつくことはありませんでした。

U.G.が言うことは本当かもしれない。本当の意味での「エンライトメント」は、至福や永遠に続く恍惚感などではなく、体の機能的変化であり、それが仏陀やイエスに起こったことなのかもしれません。

でも私は、その「爆発」が自分に起こって欲しいとは思いません。それがどういう状態なのか知らないし、自分でそれを起こすことができないうえ、十億人に一人の割りでしか起きないというなら、どうすることもできません。

私のクラッチは繋がったままでかまいません。思考や感情に左右されながら、「そこに私はいない」という理解を持ち、泣き、笑い、安心して、また時にはイライラして、生きていきたい。

U.G.の真価は、「爆発」にあるのではなく、彼の言葉にあります。
エンライトメントなど無いと言い、インチキグルやイカサマ教師を叩きのめし、「神聖ビジネス」をこき下ろしています。

エンライトメントというありもしない概念を探して、どれほど多くの人が人生を浪費していることか。どれほど多くの人がカルトに巻き込まれ、神聖ビジネスの餌食になっていることか。

どれほど多くの人が丸善の精神世界コーナーでゴミあさりをして人生を浪費していることか。あ、これは私のことでした。

U.G.は自らを非二元という枠組みでは語っていませんが、U.G.の言っていることは非二元そのものです。だからこそギルバートもカリヤニも彼らのホームページで彼について触れているのだ思います。

このブログはあくまでセイラーボブのことを書いているブログですが、セイラーボブはちょっとお休みして、しばらくはU.G.の言葉を載せていきます。