2020/04/10

U.G.クリシュナムルティについて


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私は U.G.クリシュナムルティことを、メルボルンでセイラーボブの関係者から聞くまでは知りませんでした。
もちろん J. クリシュナムルティ のことはもう30年以上前から知っていたし、本も何冊か読んだことがあります。今思うと内容はさっぱり理解していませんでしたが、彼が覚醒した人だと思っていて、憧れて写真集まで持っていました。

U.G.クリシュナムルティをなぜ知らなかったかというと、彼の本が日本では一冊も翻訳されてないからだと思います。もし翻訳されて書店に並んでいれば、知っていたはずです。

ちなみに、クリシュナムルティという名はインドではありふれた名前で、U.G.と J.クリシュナムルティは血縁関係はないそうです。

U.G.クリシュナムルティに興味を持ったのは、メルボルンから帰ってから、セイラーボブの関係者が時々彼の言葉を Facebook に引用するのを読んだからです。

そして、彼の話をまとめた本、The Mystique of Enlightenment を読んだところ、これがまた面白かった。そして、ネットや YouTube をあれこれ見るうちに、彼のファンになりました。このブログは基本的にはセイラーボブのこと以外は書かないつもりでしたが、たまにはゲストを呼んでもいいかと書くことにしました。

ギルバートは thE uRban gUfU CaFe で U.G.クリシュナムルティ を三回取り上げています。
また、カリヤニは彼女のホームページによると、夫のピーターとともに、1991年に U.G.クリシュナムルティ に会い、U.G.によって精神世界の探求という概念を根底からひっくり返されたと書いています。

私は U.G.を知って、こんなユニークな人がいたのかと驚きました。彼は、私が読んだ様々な精神世界の師たちとは全く違うタイプの人です。グルでもなく、教師でもなく、大勢の人前で話すこともなかった。金や名声に執着はなく、人々を導くことにも興味がなかった。それでいて、彼の言葉は圧倒的な輝きと深みを持ち、その類稀なるルックスと相まって、多くの人を惹きつけました。

日本語で彼について書かれた本やサイトがほとんどないので、彼がどんな人だったかをまとめてみます。出典は The Mystique of Enlightenment で彼が語っていることと、英語版の Wikipedia が中心になっています。

U.G.クリシュナムルティ(1918.7.9~2007.3.22・88歳没)

U.G.クリシュナムルティ(Uppaluri Gopala Krishnamurti)は1918年7月9日に南インドの港町 Machilipatnam で、バラモン(司祭階級)の両親のもとに生まれました。母親は出産後まもなく亡くなったため、Machilipatnam のすぐ近くの小さな町 Gudivada で、母方の祖父母によって育てられました。

母方の祖父は弁護士で大変な資産家でした。教養があり、神智学協会の結成メンバーであるブラバッキーやオルコットと知り合いであり、神智学協会に多額の資金提供をしていたこともあって、第二第三世代の神智学協会の会員が彼の家に出入りしていました。(当時、神智学協会の本部はインドのチェンナイ(旧マドラス)にあり、U.G.の幼少期にはインド国内に多くの支部があった。)

U.G.の母親は死ぬ前に、「この子は計り知れないほど高い運命のもとに生まれた」と言ったため、祖父は弁護士を辞めて、U.G.の養育と教育に専念します。祖父とそのまわりの人たちは、U.G.は過去世で、エンライトメントの直前まで行ったと信じていました。

そのため、彼をグルの座につくようにと英才教育をしました。5歳の頃から毎朝4時に神智学協会の会員が家にやってきて、ウパニシャドなどの朗読を二時間聞かされるような生活が続き、7歳になるころには、ほとんどの注釈書をそらんじるほどだったそうです。また家には多くの聖人と呼ばれる人達も出入りしていました。

U.G.は多くの教師から様々なことを学びました。ヨガ、瞑想、神秘主義など。また、マドラス大学で、哲学、心理学、科学を学びました。

また一方で、10代のころから神智学協会のメンバーになります。この辺の境遇は幼くして神智学協会に見いだされて、神智学の教育を受けたJ.クリシュナムルティの境遇ととても似ています。

U.G.はやがて、伝統的な教義や教えに疑問を抱くようになり、彼の家を訪れる聖人と呼ばれる人たちも、中身のない偽善者だと感じるようになります。
仏陀やイエス、その他の偉大な師たちの言う”その状態”とは何なのか? 彼らの言う解脱、解放、自由とは何なのか?それが何なのかを知りたいと思うようになり、この世にその体現者がいるのなら、自分で見つけたいと思うようになります。

14歳から21歳まで間は、Sivananda Saraswatiのもとでヨガ、瞑想、禁欲修行などを経験します。その過程で、サマーディ、super samadhi、nirvikalpa samadhi など、すべてを体験します。

しかし彼は、「思考は何でも自分の欲しいものを創造する。無上の喜び、至福、エクスタシー、無との融合といったような経験をも。それは、私が知りたいものではない。私は今までと同じ人間のままであり、機械的にこういったことを経験したに過ぎない。瞑想は私には何の価値もない。それは私に何ももたらさない」という結論に至ります。

そして、探求に嫌気がさし、自暴自棄になっていたところへ、”その状態”の体現者がいる、会えば助けになるから会いに行くようにと人から勧められます。そしてU.G.は嫌々ながら、ラマナ・マハリシを訪ねます。(1939年U.G.21歳)

ラマナを見たU.G.は「どうしてこの人が私の助けになるというのか?漫画を読み、野菜をきざみ、あれやこれやで遊んでいる。彼に私を助けることができるはずがない」と思います。

二時間経っても何事も起きなかったため U.G.はこう切り出します。
「あなたの持っているものを私にいただけますか?」

ラマナは何も答えなかったため、しばらくの沈黙ののちにまた尋ねました。
「私は尋ねているのです。あなたが持っているものが何であれ、それを私にくださることは可能ですか?」

ラマナは答えました。
「あげることはできる。でも、あなたにそれが受け取れるかな?」

***

U.G.は1941年(23歳)から、神智学協会の仕事を始め、協会の講師となって、ノルウエー、ベルギー、ドイツ、アメリカを回ったあとインドへ戻り、1943年(25歳)に結婚。4人の子供に恵まれます。

1943年に祖父が亡くなり、多額の遺産を相続し、マドラス大を中退した後は、ますます神智学協会に関わるようになります。そしてインド神智学協会の共同代表になり、インド中の大学を講演して回ります。しかし、講演しながらも、自分が伝えているのはすべて中古の情報で、真実ではないという思いを抱いていました。

1940年代の後半、U.G.は J.クリシュナムルティと出会います。J.クリシュナムルティは1895年生まれ。U.G.より23歳年上です。U.G.は1947年から1953年まで、マドラスでの J.クリシュナムルティの定期的な講演を聞きに行きます。

同じ神智学協会に属してはいたものの、J.クリシュナムルティはすでに神智学協会を代表する世界教師としての地位を得ていたため近寄りがたく、最初は親しく話すことはありませんでした。やがて二人は個人的に話すようになり、1953年にはほとんど毎日のように会話するようになりました。

二人はさまざまなことについて議論しますが、J.クリシュナムルティの話す抽象概念はU.G.の興味を引くようなものではなかったうえ、その抽象概念を理解することができませんでした。二人の議論はかみ合わないまま、U.G.はこう語りかけます。
「それで、あなたが私に話す抽象概念の背後には何があるのですか?」

J.クリシュナムルティは答えます。
「あなたが自分の力でそれを知る方法はありません」

「もし、私が自分でそれを知る方法がなく、あなたがそれを私に伝える方法もないのなら、一体私たちは何をしているというのですか。7年間も無駄にした。さようなら。二度と会いたいとも思わない」そう言って、U.G.は J.クリシュナムルティと決別します。

その後も U.Gは世界中を講演してまわります。その後、1955年(37歳)に、長男のポリオ治療のため家族でアメリカに移住しますが、1961年までに U.G.の貯金が底を尽きます。その頃から、U.G.の内側でコントロールすることも、しようとも思わない大混乱が始まります。

1961年(43歳)。U.G.は離婚して、妻子をインドに送り返し、ほとんど無一文の状態でロンドンへ向かいます。ロンドンでは、あてもなく3年間の路上生活を送ります。何をするでもなく、意欲もなく、ただただ人の施しによって生き、夜は町をさまよい、昼は大英博物館で時間をつぶす毎日。

そしてとうとう最後にはポケットに5ペンスだけとなり、泊まるところもなくなったところで、彼の頭の中で、「ラーマ・クリシュナ・ミッションへ行け」という声。

ラーマ・クリシュナ・ミッションへ行き、泊めてくれるようにと頼みますが、断られます。怪しい者ではないという証として、持っていた神智学協会時代の講演の記事のスクラップを見せると、たまたまそこでは、ラーマ・クリシュナの高弟の生誕100周年の雑誌の編集を手伝ってくれる人を捜していて、その仕事をしてくれないかと頼まれます。

U.G.は3か月間そこで働き、40~50ポンドを手にします。持っていたインド行きの航空券を換金した150ポンドと合わせ持って、今度はパリへ行きます。パリでは3か月間ホテルに滞在し、パリの町を歩きまわり、またお金が無くなります。

以前、スイス銀行に口座を持っていたので、その口座に残高があるかもしれないと思った U.G.は、口座のあるスイスのチューリッヒに行こうと思うのですが、どうしたわけか、ジュネーブ行きの列車の切符を買ってしまい、ジュネーブへ行きます。

そこでもまたホテルに滞在。もうすでに手持ちのお金は無く、ホテル代も払えない U.G.はジュネーブのインド領事館に行き、自分をインドに送還してもらえないかと頼みますが、断られます。

その日、たまたまインド領事館の受付には、いつもの受付係が休んでいたため、領事館の通訳として働くスイス人女性が座っていました。U.G.はこの女性と話をするうちに親しくなり、彼女は、
「もし、スイスに留まりたいなら、私が住む場所を用意する。インドに行きたくないのなら行かなくてもいい」と言います。

そして U.G.はその女性と暮らし始めます。まもなく女性は領事館の仕事を辞め、二人はスイスのザーネンへと移り住みます。その女性は資産家というわけではなかったのですが、わずかばかりの年金があり、二人はその年金で暮らします。

1967年(U.G.48歳)、U.G.は友人と一緒にパリへ旅行します。そこで友人は、J.クリシュナムルティが講演をしているから聞きに行こうと誘います。U.G.は嫌々入り口まで行ったのですが、入り口で入場料として2フランが必要だと知って激怒。

金を払って J.クリシュナムルティの話を聞くくらいならストリップを見に行ったほうがましだと言って、ストリップを見に行ってしまいます。

同じ年、ザーネンに J.クリシュナムルティが講演にやって来た時、また友人がやってきて、今度は入場無料だから、ぜひ聞きに行こうと誘います。U.G.は無理やり友人に誘われて聴衆の一人として J.クリシュナムルティの講演を聞きます。

講演を聞いているうちに、おかしなことが起こります。J.クリシュナムルティの描く状況が今の自分の状況と同じあり、今自分はその状態にいるということに気づきます。J.クリシュナムルティは、何か動きのようなもの、何か意識のようなもの、なにか静寂のようなものを描写していました。
「その静寂の中にはマインドはなく、動きもない」というようなことを。

「今私はその状態にいる。私は一体30年も40年も何をしていたんだ。こういった人々の話を聞き、もがき、彼のいる状態や仏陀やイエスのいる状態を理解したいと思ってきた。今私はその状態にいる」そしてU.G.は途中で講演会場を後にします。

「この状態とはいったい何なのだ?」という問いは、別の問いへと変わります。
「どうして私はその状態にいるとわかるのか?仏陀の状態。私が多くの人に尋ねた状態。今私はその状態にいる。だがしかし、どうしてそれだとわかるのか?」

翌日はU.G.の49歳の誕生日でした。U.G.は世界で最も美しい景色の一つと言われる、ザーネンランドの七つの丘と七つの谷が見える場所にあるベンチに座って考えます。
「どうして自分がその状態にいるとわかるのか?」

そしてU.G.は、それは自身が過去に先人から教えられたり、読んだりした知識によって、それがその状態であるとわかるのだ、その知識がその状態を引き起こしているのだいう思いにたどり着きます。

そしてまた新たな問いが生まれます。
「どうしてこれが、その状態だとわかるのか?」
その答えはわかりませんでしたが、考えているうちにその問いが消えます。何かが起こったわけではなく、ただその問いが消えました。

U.G.から、あらゆる問いが消えました。
その経験をU.G.は「爆発」と呼んでいます。
(このあたりのくだりは、後日抜粋翻訳して詳しく掲載予定です)

その爆発の余波として、U.G.の体に様々な変化が起こります。感覚が鋭敏になり、思考の連続という幻想が消え、中心という感覚が無くなりました。一番大きな変化は、思考が、declutched state(クラッチを切ったような状態)になったこと。

夢想、心配、概念化など、人が一人でいる時にやることが消え、マインドは必要な時にだけ関わるようになったこと。マインドも思考もなく、そこには生命だけがある状態になったこと。

U.G.はこれを「人間の自然な状態」と呼び、エンライトメントではないと言います。エンライトメントは幻想であり、私達の文化が生み出したもの。「自然な状態」を達成するためには、何もすることができないし、それは原因なく起きると強調します。

また、「私は、あなたの想像の中にしか存在しない状態を求めて時間を浪費しないように忠告する」と言っています。

そして驚くべきことに、これがブッダやイエスに起こったことであり、おそらく十億人に一人ぐらいの確率で起こっているのではないかと言っています。

これは、決してエンラントメントなどではなく、むしろ「災難」と呼ぶべきもので、これが何かを知ったなら、あなたは決して欲しいとは思わないだろうとも言っています。

この体験のあと、U.G.は、話を聞かせて欲しいという人びとに請われるままに、プライベートのごく少人数の集まりで話しを始めます。やがてそれが評判を呼び、請われるままに世界中を旅して話をしてまわります。

U.G.はどんな組織も持たず、テクニックも瞑想法もなく、自ら本を執筆することもありませんでした。ただただ人に請われるままにごく少人数の集まりで話しをするだけでした。

それでも、まわりの人々によって、話は録音され、何冊かの本が出版されます。U.G.は一切の著作権を放棄しているため、それが今ではインターネット上で文字やYouTubeとなって見ることができます。

2007年3月22日(U.G.88歳)。イタリアのヴァッレクロージアにある、U.G.の友人たちが彼のために建てた建物の一室で友人たちに見とられて亡くなりました。死の7週間前に転倒して怪我をして寝たきりとなってからは、友人たちに迷惑をかけたくないという理由から、医者にはかからず、自然の成り行きに任せようと言い、次第に食も細くなり亡くなったそうです。

***

U.G.のことが詳しく書いてあるサイト
http://www.ugkrishnamurti.net/
http://www.ugkrishnamurti.org/index.html
https://en.wikipedia.org/wiki/U._G._Krishnamurti