2024/03/12

「もっとも深いところで、すでに受け容れられている」ジェフ・フォスター

もっとも深いところで、すでに受け容れられている

この本は正直ちょっと手ごわい本でした。373ページもあって、全部が書下ろしになっています。たいていの非二元の本には質疑応答の部分があって、質問に対して答えが展開していくパターンが多いのですが、その場合は何について話しているのか展開が読めます。でも、この本は話の展開が予想できない上、説明が長い。よく言えば詳細かつ緻密に説明が続くのですが、悪く言うと冗漫で繰り返しが多い。

私は非二元の本を読む場合はなるべく先入観を持たないようにと、全部読み終わるまでは著者のプロフィールを読んだり調べたりしないのですが、この本の場合は読むのがしんどくなって途中で調べました。驚いたことに、この人は1980年生まれで今年44歳です。YouTubeもちょっと見てみたのですが、若い。一体何歳の時にこの本を書いたのかと元本の著作権を見ると2012年。32歳の時にこの本を書いている。

では一体何歳でここまでの理解に到達したのか。Wikipediaによると、20歳の頃に鬱をわずらい、様々な本を読み、26歳の時に分離の感覚が消えたのだという。その後、何冊かの本を書き、ミーティングやリトリートを主催して32歳の時にこの本を書いている。驚きました。セイラーボブは現在95歳。トニー・パーソンズは91歳。このブログに掲載した非二元の教師で存命の人は大半が70代です。ティモシー・フリークは比較的若いのですが、それでも63歳です。

非二元の教師として有名な人は、悩みや問題を抱えてあれこれと探求して、試行錯誤を繰り返してやっとの思いで非二元にたどり着く、というのが私のイメージです。それを26歳でたどり着いた。それがわかって、彼の本の手ごわさの原因がわかった気がしました。若さゆえの情熱、冗漫さ、多弁さなのではないでしょうか。手ごわい本ではあるものの、内容は非常に良いと思います。本の紹介のため、少し引用させていただきます。

p58から

 たまに、私にどうやったら悟りを得られるのかと聞いてくる人たちがいる。その人たちは、私が悟りを開いていると信じていて(私がそうだとは決して言ったことはないのだが)、どうやったら私のようになれるのかを私が教示できると思っている。そこで私はよく、「そうですね、では悟りという言葉はどういう意味ですか? 悟りを得ると、あなたの体験はたった今のありのままの状態とどう違ってくるのでしょうか?」と言う。そうすると、こういった返答がよく返ってくる。「悟りを得たら、恐れがなくなるのだと思います。悲しみや苦痛が消えていくのだと思います。悟りが、自分自身にまつわるあらゆる悪いことを取り払ってくれるのだと思います」
 わかるだろうか、誰しも本当に「悟り」を得たいとは思っていないのだ。望んでいるのは、今現在ある不満足、悲しみ、痛み、怒り、欲求不満、倦怠感といった気持ち、あるいは愛されていない、望まれていない、満たされていないといった気持ちから逃げること──要は、苦しみを終わらせたいのだ。それなのに、その苦しみにたった今真正面から向き会うことをしないで、その中にある全体性を見ないで、将来やってくる出来事や状態、体験が苦しみを終わらせてくれるのを待っている。その人たちは、誰しも皆そうであるように、ただふるさとへ帰りたいだけなのだ。ところが、自分のストーリーの中で、将来たどり着けるふるさととして、悟りを得るという発想に固執しているのである。

普通、非二元の教師は、「あなたが私だと思っている私は実在ではない」というようなことを最初に言っておいて、なぜそうなのかという説明をするというパターンで話を展開させていくが、ジェフの場合はそうではない。最初に人々の持つ悩みや問題から入っていく。そして、その背後には何があるのかを解き明かしていき、最終的に「あなたは開かれた意識の空間である」というところへ話をすすめていく。その説明は理詰めで続いていき、もちろんそこにはエンライトメントも覚醒もない。この説明はとてもわかりやすい。私もジェフの言うように、悟りを求めていたのではなく、苦しみから解放されたいだけだった。

p80から

 次に、受容という観念をもっと深く見ていこう。その言葉は、だいぶ間違って解釈されているように思える。
 海としてのあなたという存在は、すべての波を受容しているということになる。それは単に、海はすべての波そのものであるからだ。つまり、受容する以外に選択肢はないのだ! 海は、ある波を受け入れてある波を拒絶するなどということはしない。それは無条件の受容であり、受容に関して人が持っている観念をはるかに超えたものだ。海が受容するということは、非受容か受容かといった相反する概念を超越している。受容とは海と切り離せないということであり、それゆえ相反するものは存在しないのだ。すべての波が、海によってすでに受容されている。そして、本質的にはあらゆる波がすでに受容されているという事実こそが、この本の言わんとすることのすべてだ。これが生命の最も深い受容であり、それは個としてのあなたが実現できるものではない。
 実際ここで扱っている問題は、この最も深い受容を実現しようとすることではなく、あらゆる体験の中でそれを認識すること、それがわかること、それが気がつくということだ。深い受容を実現する必要などない。それはすでに起こっているのだ。後は、この瞬間、すべての瞬間に、すでに起こっていることにただ自然のままに気づくだけだ。体験のあらゆる波、あらゆる考え、あらゆる感覚、あらゆる感情、あらゆる音、あらゆる匂いはここに存在することがすでに許されている。波が現れるときには、あなたという存在によってすでに受け入れられているのだ。波がやってくること自体がすなわち受容である。水門はすでに開かれていて、この瞬間は、たった今あるがままの通りになることが許されている。人は、すでに許されていることしか体験しないのだ!
 あなたという存在は、すでに今の瞬間をありのままに受容している。あなたという存在は、あるがままをすでに受け入れている。そうでなければ、今現れていることは現れていない。あなたという存在は、今現れているものがどんなものであれ抵抗することはできない。というのは、それが今現れているすべてであるからだ。すべてのものが、あなたという存在にとって、決して抵抗できないものなのだ。
 私が受容について話すとき、私たちがこれまで条件付けされて理解しているような意味では受容という言葉を用いていない。その言葉は新しい意味合い、つまり、この生命の最も深い受容を指し示している。それはすでに起こっている受容、許しだ。私があるがままを受容して許すことを提言するときは、それがあなたの注意をその事実に向けさせる近道だからだ。事実とはすなわち、この瞬間、思考や感覚、感情、視覚、音、匂いはすでにここに存在することを許されているということである。なぜなら、それはすでに現れているのだから!
 思考や感情を受容することとは、この瞬間に、そういった思考や感情がすでに受容されている、すでにそこにあることが許されているということに、ただ穏やかに、自然のまま気づくことだ。それはすでにそこにあるのだ。受容することとは時間をかけて達成されるものではなく、決して終わることのない今の瞬間の現実である。
 あなたという存在が受容そのものであるがゆえに、あなたが受容することなどできない。あなたは実際分離した人物ではなく、あるがままのあなたそのものがこの瞬間に対する肯定なのだ。

ここでジェフの言う「海」とは個人として現れているように見えている個人のことであり、「波」とは、その個人に起こってくる様々な事象のことです。あらゆる波はどれも海の中に起こっているものであり、それを変える必要もないし、変えようとしても無駄だと言っています。

私たちは、何か嫌な思いや感情、問題が起きると、何とかしてそれを変えようとします。でも、そうした波を変えようとすること自体が無駄だと言っているのです。それはすでに受容されていると言っているのです。つまり、あるがままです。

p168から

 私が言っている自由とは、そういうことではない。それは、ありのままの人生から逃避することや、自分でないものでいるふりをすることとはまったく関係ない。自由とは、完全に、徹底的に正直でいることに尽きる。すなわち、現実をありのままに見ること、それを(認めるという言葉が持つ二つの意味において)認めることだ。認めるとは美しい言葉だ。それには、「真実を伝えること」と「許し入れること」という二つの意味がある。今起こっている体験を認めること──実際に今何が存在しているかについて真実を伝えること──とは、今存在しているものは人生の中にあることが認められている。そして、それらの波の存在を認めることこそが、ここで教えていることの絶対的な中核だ。目覚めるとは、要は本当の自分という存在を認めることなのだ!
 本当の癒しとは、苦しみから逃避して、未来のどこかで全体性に到達することではない。それは、たった今、ここで、苦しみの真っ只中に全体性を見ることだ。「whole(全体)」と「heal(癒し)」の語源が同じであるのも不思議ではない。癒されることとは、全体性を今ここで再発見することなのだ。真の癒しとは、痛みから逃避して未来にある全体性に到達することとはまったく違う。最初にどんなにか逆説的に聞こえたり直観に反するように思えたりするかもしれないが、真の癒しは実際まさに痛みの中にある。
 あなたは、「いつか」癒されるのではない(繰り返すが、それは探求者の声だ)。あなたはすでに癒されている。あなたという存在は、たとえそれに気づいていなくても、すでに全体そのものだ。それは、海にある波が海そのものからずっと切り離せないのと同じことだ。痛みの中にあるときでさえ、あなたは癒されている。

p204から

 痛みと病気は、人生のストーリー、コントロールすることのストーリーを粉々に打ち砕いてくれる──ここが本当に大切なポイントだ。痛みや病気で苦しんでいる裏にあるのは実は、こうあるべきだったのにという夢に対する嘆きである。こうあるべきだった、今はこうあるべきだ。将来はこうあるべきだといった観念を持たなければ、そこにあるのはただあるがままだ。人生で向き合わなければいけないのは、この瞬間の絶えず変化し続ける風景だけなのだ。そして、私たちはこの瞬間があるべき姿とちょっと違うなどと知る由もない。この状況は今ここにあるような形になるはずではないなどということがわかるはずもない。私たちの人生が宇宙のどんな種類の台本からもは逸れてしまったなどということがわかるはずもない。そもそも宇宙の台本などというものが存在するのかもわかりえない。
 病気のストーリーや、人生の計画通りにいっていないというストーリー、こうあるべき、こうあるべきでないとう概念を超えて、私は今ここにいる。呼吸をしている。心臓が鼓動している。音が聞こえる。あらゆる思考、感覚、感情が舞っている。痛みも多少あるだろう、恐怖も多少はあるだろう。愛されていない気持ち、捨てられたような気持ち、絶望的な気持ち、弱々しい気持ち、疲れ果てた気持ち、寂しい気持ちもあるだろう。次にどの波が浮かんでくるのかは誰にもわからない。ここにあるこの空間の中ですべてが深く受容されているということが偉大なる発見なのだ。たとえ起こっていることを受容できないと今は感じていても、今起こっている体験はいつでも本当の私という存在によって深く受容されている。本当の私という存在は、すでにすべてをその中で許していて、すべてを承知している。生命の水門は永久に開かれている。だから、今現在の体験に意識を戻してみたとき、たとえたった今それを耐えられないように感じるとしても、この瞬間が耐えられないということは決してない。それは、まさに海にとってたえられない波などないのと同じだ。本当の私という存在は、すべてのものを包み込み、許し、認める。痛みや病気のなかでさえ、そこには人知を超えた平和が存在する。

あれこれ事情があって、私は痛みや病気に対していつも大きな不安を抱えています。重い病気になったらどうしよう。痛みに耐えられるだろうか。非二元の理解はどうなるだろうかと。でも、この文章を読んだ時、きっと大丈夫だろうという気になりました。病気になったら病気のまま生きていけばいいし、痛かったら痛いまま生きていけばいい。それをどうこうしようとジタバタせずに、治療を受け、良くても悪くてもあるがままに生きていけばいいという気になりました。

この本はくどい本なので、今回は特別許していただいて、くどいほど引用させていただいています(もちろん良い本ですので、ぜひ読んでください)。

p361から

 悟りとは、すべての波を受容できるほど強くあることとはまったく関係ない。それは、どんな形であれ、波をコントロールすることとは違う。今の瞬間から逃避することではない。悟りを得た人という自分のイメージを掲げて、いかに自分が四六時中スピリチュアルで恍惚状態にあって平和な気持ちでいるかを証明することではない。それは本当のあなたという存在──徹底的なオープンさ、傷つきやすさ、無防備さ、弱さ──を発見することであり、ある意味、今浮かんでいる波から逃れることがますます不可能になることだ。しかし、この弱さは本当の弱さではまったくない。この弱さの中にあるのが最大の強さなのだ。それが、生命の最も深い受容である。この受容を「行う」必要はない。あなたはそのようにできているのだ。

この文章はあと6ページほど続いてこの本は終わります。その最後の6ページがとてもすばらしい。最後まで引用させてもらおうかと思ったのですがやめました。というのも、この最後のページがこの本の核となる部分であり、そこを全部引用するのはよくないだろうと思いました。

それに、この最後のページは、長々とこの本を読んできた人のご褒美のようなもので、そこだけ抜粋してもよく理解できないのではないかという気がします。興味のある人はぜひ本を手にして読んでみてください。

私たちは苦しさから抜け出したいために探求をして、やがて非二元の教えに出会います。非二元を理解すれば、心は平安になり、もう二度と悩むことなどないだろうと期待します。でも、そんなことは起こりません。問題や悩みは以前と同じように起こってきます。でも、ジェフ・フォスターは、そうした問題や悩みもすべて含めて、あらゆることは「もっと深いところで、すでに受け容れられている」というのです。二十代でこの理解に到達したなんて、なんとすばらしいことでしょう。

Amazonの著者紹介
ジェフ・フォスター Jeff Foster
イギリス、ブライトン周辺に在住。ケンブリッジ大学で天文学を学ぶ。
長く鬱を患ったのち、20代半ばスピリチュアルの悟りの概念に夢中になり、実存の究極の真実に対する徹底的な追及を始める。
ワトキンス・レビューによる、世界の「最もスピリチュアルな影響力のある現存する100人」の2012年の投票で51位。



2024/03/08

解放は起こる何かではありません

解放は起こる何かではありません……それはすでにあります。しかし探求者にとっては、それはまだないと信じられているわけです。探求者がいないとき、解放だけがあること、存在だけがあることが、誰でもないものによって見られるのです。ですから、肉体 ー 精神が夢見る人として機能することをやめるとき、このことの深部にあるのはただ存在だけです。
             トニー・パーソンズ(何でもないものがあらゆるものである

名古屋駅 笹島交差点 左側の低いビル群は再開発取り壊し予定です。

2024/03/05

誰も目覚めを経験しません

誰も目覚めを経験しません。なぜなら、誰も目覚めないからです。目覚めはそれとともに誰もいないという理解をもたらすのです。
              トニー・パーソンズ(何でもないものがあらゆるものである

                多治見駅 陶壁 多治見は焼き物の街です。

2024/03/01

「何でもないものがあらゆるものである」トニー・パーソンズ

何でもないものがあらゆるものである

私は高木悠鼓さんが翻訳された「ただそれだけ」を読み、メルボルンへセイラーボブに会いに行き、非二元の教えを学ぶことができました。非二元もセイラーボブもすべて高木さんが翻訳された本から始まったことです。感謝に堪えません。高木さんの仕事はいつも先駆的ですばらしと思うのですが、この本もまたすばらしい本でした。いつもながら、高木さんの翻訳はわかりやすくて読みやすい。

本の内容はすべて質疑応答になっています。質問者の質問も適切なものが多く、その質問に対してトニーは徹底的に「私」を排除するように答えていきます。

本の紹介のため、少し引用させていただきます。

p30から
 あなたは見かけの分離した個人としてここに来て、そこで座って何かを探し求めていると仮定しましょう。それはすでにこれです。起こっているように見えることは何であれ、これです。起こっていることは何であれ、この部屋の誰にも起こっていないのです。この部屋には何かが起こっている誰もいないのです。起こっていることがあるだけです。これが空間です。これが空っぽさです。これが何でもないものです。ここに座っているのは何でもないものであり、その何でもないものの中に起こっていることは、肉体の感覚、音を聞くこと、感情を感じること、考えることです。考えることもまた誰でもないものに起こります。誰も今まで何も考えたことがありません。なぜなら、誰もいないからです。ですから、考えること、感じること、この声を聞くことが起こっているのです。
 あるものすべては、生命が起こっているのです。あるものすべては、生の感覚です。生の感覚は存在です。それ以外には何もありません。そこに座っているのは生の感覚だけであることが、突然に見られるかもしれません。誰もあなたに生きていることを教えることはできません。ただ存在だけがあるときに、あなたに在ることを教える傲慢さを誰がもっているでしょうか? あなたは変わらなければならないと言う傲慢さを誰が持っているでしょうか? 何でもないものとあらゆるものだけがあります。これは理解を超え、人間のハートと心(マインド)を超えています。
 私たちは一緒に話し合い、言葉を使うことができますが、言葉は超越した何かを指摘したり、指摘し続けるだけでしょう。言葉は分離があるという心の中の幻想を破壊するかもしれません。なぜなら、心は物語作家であるからです。ここで崩壊する可能性があるのは、分離した個人といったものがあるという観念です。もちろん、為される必要がある何かがあるとか、かつて何かをやったことがある誰かがいるという観念も崩壊します。
 ですから、達成すべきことも、理解すべきことも何もなく、存在しているのはこれです。ただこの生の感覚が誰のためでもなく、わき起こっているのです。
 解放はエネルギー的な転換です。それは向こうの世界にいる分離した誰かであるという収縮から、ただあらゆるものがあるという自然で非常に普通の感覚へ戻る転換です。ですから、その収縮があらゆることの中へ拡大し、あなたが自分だと思っていたものがあらゆるものになるのです。
 このコミュニケーションはトニー・パーソンズとは何の関係もありません。それはトニー・パーソンズが所有しているものでも、達成したものでもありません。それは個人的な努力や活動を知ることとは何の関係もありません。トニー・パーソンズはこの部屋の中の他の誰とも何の違いもありません。トニー・パーソンズはその腕を振り回しながら話している単なる肉体精神機構にすぎません。
 問題は、探求するときに私たちはあらゆることを個人化することです。私たちはこんなことを言いがちです。「私に何が待ち受けているのか? 私はこれから抜け出るために何をすることができるのか? 私はこれになるために何をしなければならないだろうか?」。これが混乱です。あなたは何もする必要がありません。なぜなら、あなた──これ──はすでに為されているからです。それは為されています。生の感覚が起こっています。存在がシンプルに在り続けています。
 そして、自分は何かを見つけなければならない、何か新しく異なったことを見つけなければならないといつも思っているこの探求者が抜け落ちるとき、突然そこに完全はくつろぎがあり、これであるという完全な喜びの中に落ちるのです。存在を知るということではなく、ただシンプルに直接的に存在します。

この本を読む時は、「何でもないもの」「あらゆるもの」「存在」という言葉の裏にある原語の意味を頭の片隅に起きながら読むといいと思います。本の表紙のデザインを見てもらうとわかるとおり、「何でもないものがあらゆるものである──無、存在、すべて──」という題名の下に、nothing  being  everything という単語がデザインされています。

つまり、「何でもないもの」の原語はnothing (無)、「あらゆるもの」はeverything (あらゆるもの)、「存在」はbeing(存在)です。その意味を読者に感じて欲しいからこそ表紙にデザインされているのだと思います。nothing という言葉はセイラーボブも頻繁に使います。このブログの中でも何度も出てきたのですが、いつもどう訳したらいいのか迷います。英語のnothingは、「無」「空」という意味と「つまらないもの」という意味があり、英語ネイティブが nothing と聞けば、その両方の意味が頭に浮かぶはずです。

それを訳す場合にはどうしたらいいのか困ります。私の場合、適当な訳語が思いあたらないので、「何ものでもないもの/無」としてブログに書いています。高木さんの「何でもないもの」という訳語は、なるほどなと思いました。その「何でもないもの」が「あらゆるもの」であるというのは非二元の教えの本質であり、別の言葉で言うなら、一つのものです。

「生」という言葉はセイラーボブもよく使います。おそらく言語は「 life 」だと思います。私のブログでは「生」あるいは「命」と訳していますが、やっぱり「生」という言葉の方がしっくりくるとわかりました。

そしてもう一か所引用させていただきます。

p100から
 ですからこれは、あなたや私や誰かが何かを得るというメッセージではありません。これは何も得るものがないという理解です。……求められてきたものは、決して失われたことがないという理解です。
 これは求めることや求めないことについてではありません。それはアドヴァイタや非二元主義という概念を超え、気づきや注意深さの状態に到達するという観念も超えています。どんな目標もありませんし、何も提供されていません。これは知ることを完全に超えています。どんな目標もありませんし、何も提供されていません。これは知ることを完全に超えています。ですから、これは個人としているには最悪の場所です。なぜなら、希望するものが何もないからです。
 これは本当は描写です。つまり達成を超えている何か、失われたり、掴まれたり、獲得されたりできない何かの描写を、みんなで分かち合っているのです。
 分離があるかぎりは喪失感があり、完全ではない何かがあるという感覚があります。ですから、探求者はその空虚感を何かで埋めようとします。そして、一部の人は「悟り」と呼ばれている何かを待望します。なぜなら、悟りがこの喪失感を満たしてくれるものになるかもしれないと感じられるからです。それは私たちがまったく理解しないある秘密への答えになりうるだろう、というわけです。
 私たちが悟りについて読むとき、まるで誰かがその秘密を発見したかのように聞こえます。でも、そんな秘密を発見した人は誰もいないのです。
 悟った人というような人はいません。それは完全に間違った概念です。しかし問題は、探求者をやっていると、探求のエネルギーのせいで、私たちは誰か他の人が発見した何かを自分も見つけることができるという考えに押しやられ、惹きつけられます。なぜなら私たちは、努力は結果を生むと信じながら成長したからです。ですから、もし努力が結果をもたらし、私たちが悟りとか解放と呼ばれている何かについて聞いたなら、私たちは努力することができ、解放されたり、悟ったりすることができる……私たちが噂を聞いているすぐ近くに住むこの男とか、サットサンをしているあの女性のように。彼らは私が欲しがっている何かをもっている。もし私もあそこへ行けば、どうやってそれを得るのかを学ぶことだろう。
 夢の中では、悟りや解放は達成できる何かであるという考えがまだあります。ですから、あなたは選択をもつ個人であり、そして今、個人として自己探求や瞑想や何かをすることを選択でき、いずれ悟ることができるという考えを再強化する教えがあるのです。
 あなたは世界中へ出かけて、何か得るものを提供する教えを見つけることができます。しかしながら、探求者にまったく何も提供しない妥協なきメッセージを見つけることはまれです。
 この生の感覚は、何でもないものがあらゆるものであることです。それはただ生が起こっていますが、誰かに起こっているのではありませせん。ここで一組の全経験が起こっていて、それらは空っぽさの中で起こっているのです……それは自由落下の中で起こっているのです。それはただ起こっていることです。あるものすべては生です。あるものすべては存在性です。それをもっていたり、もっていなかったりする人は誰もいません。生をもっている人はおらず、他の誰も生をもっていません。ただ生があることだけがあるのです。

この本を読んで感じたのは、用語の使い方がセイラーボブとよく似ているということです。nothing, being, everything 、life (生)など。また、ボブのよく使う「intelligence energy(知性エネルギー」という言葉を他の非二元の教師から聞いたことはありませんでしたが、トニー・パーソンズは使っています。例えばp88。

どんなレベルでも誰もそれをやっていませんし、やっている人は誰もいません。それはただ知性的なエネルギーです。

そして、もっとも似ていると思ったのは、トニー・パーソンズもセイラーボブと同じように、妥協のない断固とした非二元の教師であり、質問に対してきっぱりと「私」や「時間」は存在しないと言い切るところです。質問者の「何かになる」とか「何かをする」という言葉に鋭く反応して、「誰もいない」「何も起こっていない」と言い切ります。

まるで、ボブの家の居間でボブの話を聞いているような感じがしました。私はトニー・パーソンズの経歴は知りません。調べてみたのですが、よくわかりませんでした。セイラーボブよりは6歳若いのですが、非二元の教師としてはボブよりも有名のようです。おそらく世界に知れたのも、トニー・パーソンズの方が先だと思います。セイラーボブはトニーの本を読んだことがあり、ある程度トニーの影響を受けているのではないかと思われます。それほど語り口が似ています。

個人的には、あれこれと説明する教師よりも、「誰もいない」「何も起こっていない」、以上終わり! と断定的に言いきるような厳格な非二元の教師が好きです。非二元の教えは結局のところ頭で考えても理解できないことであり、「なぜ?」は要らないのだと思います。「誰もいない」「何も起こっていない」と何度も聞いているうちに理解が起こってくるものだと思います。

これはちょっと蛇足ですが、以前このブログの中で書いた「深い森の中で一本の大きな木が倒れたとする。そして、そこには人間が誰もいなかったとする。その場合、果たして木が倒れる音がするだろうか?」(参考記事)という命題が誰の言葉なのかが本書の中で出てきたので書いておきます。

p178
森の中で木が倒れても、それを聞く人は誰もいない……(訳注:「誰も見ていない森の奥で倒れた木は存在しているといえるのか」というアイルランドの哲学者・聖職者ジョージ・バークリーの命題の引用)

もっと近代の人の言葉かと思っていたのですが、ジョージ・バークリー(Wiki)は結構昔の人なんですね。

Amazonの著者紹介から
トニー・パーソンズ Tony Parsons
1933年にロンドンで生まれる。
21歳のとき見かけの目覚めがあり、長年この「公然の秘密」を分かち合ってきた。
著書に『The Open Secret(公然の秘密)』『Invitation To Awaken(目覚めへの招待)』
『As It Is(あるがままに)』『All There Is(存在するすべて)』がある。



古閑博丈さんのブログには、トニー・パーソンズに関するいくつかの記事があります。

2024/02/27

自分がすでにそうであるもの以上のものになることはできない

探求のどの段階においても、根本的な視点が見落とされている。それは、<意識>である<あなた>によって演じられている個人こそが、まさにずっと探し求めているものだということだ。探求者が何をしたところで、自分がすでにそうであるもの以上のものになることはできない。
                    ネイサン・ギル(すでに目覚めている

名古屋ゲートタワー 巡回警備ロボット

2024/02/23

すでにはっきりと目覚めている

生という劇は、<あなた>が指揮しながら<あなた>が見ている<あなた>とは別の創作物ではない。<あなた>──<意識>──は、この瞬間に劇として現れていて、すでにはっきりと目覚めている。だから目覚めることなどできない。<あなた>は<あなた>自身にはいつでも明白だ。隠されていることはない。
                        ネイサン・ギル(すでに目覚めている)

名古屋マリオット(大治町のつるし雛

2024/02/21

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その3」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)

 

いきなり興味深い話から始まりました。
話が非二元そのもの。この先が楽しみです。
全部を転載するわけにはいかないので、今後はあまり転載しないようにするつもりです。
もしよかったらフォローしてみてください。

2024/02/20

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い」

佐々木閑先生のYouTubeチャンネルで新しいシリーズが始まりました。

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その1」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)

佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その2」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
 

 ミリンダ王の問いについては、このブログでは中村元先生のYouTubeを掲載したことがあります「2021.10.30 初期仏教 無我・五蘊(ごうん)」。そのYouTubeで見るかぎり、ミリンダ王の問いは非二元の教えの意味あいの強いものでした。

初期仏教には五蘊(ごうん)という基本概念があり、人間は五蘊という五種の要素(色・受・想・行・識)でできていて、そのどこにも個人としての「私」は存在しないというものです。

そのミリンダ王の問いを、佐々木先生がシリーズで解説してくださいます。どんな話になるのか楽しみです。すでに、その2ではその片鱗が語られています。もしよかったらフォローしてください。

2024/02/16

「すでに目覚めている」ネイサン・ギル

「すでに目覚めている」ネイサン・ギル

この本は今まで読んだ非二元の本の中でも、とりわけ素晴らしい内容でした。最初から最後まで、いわゆる「行為者の不在」について説かれています。私たちは、「私」という存在が実在であるという催眠にかかっていて、それが人生というものを生きているように思っているが、実際には「私」はおらず、起こっていることは単なる劇のようなものだと言うのです。

最初の29ページが書下ろしになっていて、残りのページはミーティングの参加者との対話となっています。最初の29ページにネイサンのメッセージが凝縮されていて、あとの対話がその補足説明のような体裁になっています。本全体を通して、「私」は催眠によるものであり、実在しないということだけを説いています。あれもこれも説明するのではなく、「私」は実在ではないということだけを説いて、これだけ的を得た非二元の本となっている点は素晴らしいと思います。内容もよくてわかりやすい。

ネイサンは探求の途中で、いわゆる一瞥体験、自分がいないという体験をしますが、すぐに「私」が戻って来て混乱します。やがて、自分の本質は意識であるという理解に至り、どんな出来事も必要ではないという思いにたどり着きます。

本の紹介のために抜粋させていただきます。

p11から
 自分の本質を認識するのにどんな「出来事」も起こる必要はないとトニーは言っていた。そしてそのころ、1998年の9月にある事が起こった。僕は庭仕事をしていて、霧雨が降っていた。見上げると、「自分」がいないという微妙な感覚があった。自転車に乗って道を走りだすと、それはまるで映画のような感じだった。自分では何もしようとしていないのに、ひとりでに映画が進んでいるような。
「自分がそうやってふいに脱落してしまうと、理解したいという欲求はすっかり消え去った。自分の本質が<意識>だということを認識するのにどんな出来事も起こる必要はないとトニーは言っていたが、それでも僕がそういう出来事をどこかで待ち望んでいたのは明白だった。というのも、この出来事、この経験が起こったとき、それを僕は「目覚めの認可」としてとらえたからだ。自分でも気づかずに、自分の本質を確認してくれる何かが起こるのを待っていたのだ。
 僕はトニーに電話して、何が起こっているかを興奮気味に説明したが、「目覚めの認可」が起こったことで、言葉は「僕」の観点からではなく明晰さから生じていた。もはや僕が何かを手にしょうとしている分離した個人という視点──つまり探求と理解という観点から話しているわけではないことが、トニーにも伝わった。
 時間がたつにつれ、「僕」が巧妙に戻ってきて、この出来事──それはまさにその「僕」の不在だったのだが──は「僕」の悟りであり、「僕」の目覚めなんだと主張しはじめた。突然起こった解放感──「僕」がいない状態で生じた至福の感覚──に注意が集中した。その解放感こそが、ずっと待ち続けていた悟りなんだと。
 翌朝、目を覚ました。まだあるかな? ある! そしてそれから何日かすると、解放感が少しずつ消えつつあることに気づいたが、数日たつとその感覚は再び完全に戻ってきた。その感覚が戻ってきては消え、それから「僕」がまた現れて自分の不在という状態にしがみつこうとしたりするのが何週間か続いたあと、僕はトニーのミーティングに行った。そこにいると、至福の感覚がまた溢れてくる感じがした。けれども数日後にはすっかり消え去って、そこでまた「僕」としての催眠状態が起こった。トニーには何も言わなかったし、しばらくはミーティングにも行かず、僕は困惑していた。
 それから、「私」の不在が何年も続いた経験についてある女性が書いた本を読んだ。その経験のしばらくあと、その女性は「先生たち」から、それは悟りだと言われたという。やがて彼女は病気になって亡くなったが、彼女の友人が本に寄せたあとがきを読むと、亡くなる前にその出来事が終わってしまい、「私」が戻ってきたせいで、彼女は混乱して苛立っていたということだった。
「私がいきなり消えてしまうという出来事は、明晰さについて言えばむしろひどい混乱につながりかねないということが突然わかった。出来事は数秒で終わったり、10年かそれ以上続いたりするかもしれないが、「私」とは何かということ──単なるひとつの思考だということ──を理解せずにいると、「私」が戻ってきたときに、何かを失ったような感覚になったり、個人と同一化した状態に再び閉じ込められたような感覚に陥ったりする。個人と同一化していると、こうした「悟り」をもっと求めようとする感覚が生じて、探求という劇の興奮と緊張の中に戻った感覚も出てくる。
 そんなわけで、生のすべては大いなる劇なんだということがわかった。知だけが存在しているが「私」という思考、そして「私」のストーリーのように感じられるいろいろな思考による催眠のために、この知は見かけ上は隠されて見えなくなっている。<意識>としての僕たちの本質は、気づきであると同時に現れでもある。「私」というのはほかのあらゆるイメージと同じで、景色の単なる一部なのだ。その事実が見抜ければ、あるいはそれをありのままに見られるようになると、探求も緊張も自然に消え落ちる。
 もうひとつわかったのは、「私」を見抜くということは必ずしも突然の出来事として起こるとはかぎらず、生という劇の一部としてゆるやかに起こる場合もあるということだった。そうしたケースでは、溢れる至福という形ではなく、存在することの自然な気楽さが徐々にゆるやかにあきらかになる。
 混乱は消えた。自分の本質が<意識>だということを証明するためのどんな出来事も要らなくなり、「僕」が突然脱落する必要もなくなった。自分の人生も「スピリチュアル」な探求のすべても、<意識>の中の劇として生じているということは明白だった。そして、こうしたことすべてをめぐる混乱の意味、「霊性」や「悟り」が単純な明晰さとなぜ取り違えられてしまっているのかを理解した。自分の本質をそうやって認識することは、どんな出来事とも関係なかった。明晰さ──「私」や思考のストーリーの本質を見抜くこと──がなければ、どんな出来事もたちまち混乱のもとになってしまうこともわかった。
 庭で起こった出来事に特に重大な意味はないこと、どんな出来事にも意味がないことはあきらかだった。その出来事が起こったことで混乱状態が極限にまで達して、「認可」としての出来事が起こるのを密かに待っていたことがはっきりしたというだけの話だ。この明晰さは、「私」がいるかいないかによって左右されることはない。「私」が現れたとしても、それはありのままに見られるだけだ。
 この短いストーリーの締めくくりに。スピリチュアルな探求をしているあいだに僕は離婚し、結婚してまた離婚し、二人の娘が学校に通っていたころはほとんどひとり親だった。ケント州の小さな村に落ち着いて、健康状態は万全とはいえないが、最近まで地元で庭師として働いていた。いまは穏やかに簡素に暮らしている。

p29から
 ずっと探し続けていたものは、じつは探している主体そのものにほかならないということがわかった。究極の目標、究極の賞品は、じつはすでにあるものだったのだ。見つけるべきものも、見つける人も存在していない。気づきがあって、気づいている人はどこにもいない。はじめからずっと、<あなた>は<あなた>自身の壮大な冗談の標的だったのだ。どこを見てもどこを探してもそこにある壮大な現れ、単に<あなた>自身の劇か、もしくは存在しているという夢だ。何も存在していないし誰も存在していないが、気づきがあって、それによってすべてが現れている。この平凡は男性あるいは女性という現れもそのひとつだ。<あなた>は今、そしてこれまでもずっと、完全に目覚め、気づき、今を生きているが、<あなた>自身の壮大な劇の催眠にかかっているだけなのだ。
 ネイサンという登場人物は平凡な人生の中で、問題、試練、退屈と思えるものから逃れようとして悟りを求めた。平凡な人生は変わらず続いているが、今あるということから注意が逸れることはなくなった。非凡さの追求は終わった──生はただあるとおりにある。

質疑応答の中にも、引用したい箇所がたくさんあるのですが、引用するにはどれも長すぎます。これ以上引用すると、しかられてしまいそうです。素晴らしい内容なので、是非とも読んでください。

ネイサンは、この劇の全体に気づくと、生きることが気楽になると言っています。他の非二元の教師のように、「愛」や「至福」と言う言葉を使わずに「気楽になる」という表現がとてもしっくりきました。そしてそれは、たいていの人にとって、ゆっくりゆっくり起こることだと言います。もちろん、日常を生きていくために「私」という感覚はあるものの、「私」はいないと理解している状態だと言います。

非二元の教えを理解しても、悩みがたちどころに消えるということはありませんし、もう二度と問題が起こってこないということもありません。肉体がある以上、病気にかかることもあれば、日常生活での悩み事も相変わらず起こってきます。でも、非二元の教えを理解したなら、そうした問題にどっぷりと巻き込まれることはなくなり、「気楽になる」というのが適切な表現ではないかと思います。

ネイサン・ギルは衰弱性の病気にかかり、最後はみずから死を選んだそうです。まわりの人の話では、とても穏やかで静かな死だったそうです。思うに、それは非二元を生きたからこその穏やかな死ではなかったかと想像します。

タイトルの「すでに目覚めている」がネイサンの最も言いたいメッセージです。私たちはもともと目覚めています。なすべきことは何もありません。「私」という劇の催眠を見抜きさえすればいいだけです。それも「私」がすることではなく、起こってくることです。この本はすばらしい。ぜひ読んでください。

Amazonの著者紹介から
著者について
ネイサン・ギル Nathan Gill
1960年イングランド生まれ。建設、園芸に携わったあと、非二元についての
対話の集まりをロンドンおよびケントで展開し、
わかりやすく鋭いメッセージが人気を集める。2014年没。
他の著書に"Being : The Bottom Line"(2006年)がある。

古閑博丈さんのブログにネイサンの記事がいくつかあります(記事の末尾の「関連」からもいくつかのネイサン関連の記事にアクセスして読むことができます。

ネイサン・ギル関連YouTube(本人のチャンネルではないようです)

2024/02/13

気づきがあなたの自己です

経験に限らず、どこかの場所で起こることは何もありません。ものごとは気づきの中で起こりますが、その気づきがあなたの自己です。分離していない、あらゆるものの自己なんです。
         グレッグ・グッド(気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?)

1/31春日井市都市緑化植物園にて

2024/02/09

では、さとりとは何ですか?

気づきとしての自分の本質にはいちども分離が起こったことはないと揺るぎなく理解することです。悟っている、悟っていない、その違いが消えること、それが悟りなんです。
          グレッグ・グッド(気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?

紅梅(1/31 春日井市都市緑化植物園にて)

2024/02/06

「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」グレッグ・グッド

「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」グレッグ・グッド

この本の副題は「ダイレクトパスの基本と対話」となっています。私はダイレクトパスという言葉の意味を知りませんでした。そこで、それは何かということで、p188の「訳者のあとがき」を引用させていただきます。

 ひとことで言うと、この本はダイレクトパスの入門書だ。シュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノンが生んだ、現実の本質や自分の本質を誰でも直接確かめることができる方法。それがダイレクトパスだ。
 ダイレクトパスという名称は、「自分とは誰か」「自分とは何か」を問いつづけるラマナ・マハルシの自己探求を指すときにも使われることがあるが、アートマナンダのダイレクトパスでは、問い続けるというよりも実際の経験を具体的に確認していく。自分という人間やティーカップのような物体を含め、存在しているように感じられるものを調べる。

シュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノンはラマナ・マハルシとほぼ同時代を生きたインドのグル(アドヴァイタ)だそうです。(Wikipedia

本書は、最初の三分の一がグレッグの書下ろしになっていて、後半の三分の二はグレッグと参加者の対話が収録されています。
タイトルの「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」の、気づきの視点に立つというのはどういう意味なのかを最初に説明しています。

p12
 気づきは「意識」と呼ばれることもある。気づきと意識というふたつの言葉は、ここで扱う教えでは同じ意味を持つ。気づきは「存在」と呼ばれることもある。これは気づきが非実在でも空虚でもないということを表わしている。気づきは「知識」という言葉で呼ばれることもあるが、それは気づきによって無知が消えることを伝えている。また、気づきは「愛」と呼ばれることもあり、これは気づきが開かれていて、魅力的で寛容で親密で、そこには制限も苦しみもないという側面に注目した表現だ。

以前のブログで、「気づきと意識」について書いたことがあり、私の場合は「気づき」という言葉が苦手でした。ここでも、「意識の視点に立ってみたらどうなるんだろう?」というタイトルの方が人によってはわかりやすいような気がするのですが、そうすると後に出てくる「意識」という言葉とダブってしまうために、「気づき」とされたのだと思います。あるいは、実際にはその視点に立つ「人」は実在ではないけれども、実験的にその視点に立ってみようという意味で、「気づき」という比喩的な表現にされたのかもしれません。原題は「Stand as awareness 」となっています。

p20
どのように気づきの視点に立つのか?
 まずできるのは、二十四時間どこをとっても、そのほとんどのあいだ自分がすでに気づきの視点に立っているのを認めるということだ。たとえばさきほど挙げたような、主体と対象のあいだの隔たりが経験されていない時間がそれだ。

そして、気づきの視点に立ったあと、いくつかの実験によって、物が実在なのか、それとも単なる気づきなのかということを調べていきます。最初はコーヒーカップです。コーヒーカップを見て、それを見る時、何が経験されているのかを調べていきます。するとそれは、視覚であり、色と輪郭であるとわかります。色と形を経験することによってコーヒーカップを認識しているが、実際にコーヒーカップそのものを認識しているのではなく、単に色と形を認識しているにすぎない。それは、単なる気づきの中のものだということを理解します。

今度は、同じ実験を体を見ることによってやります。体の中に気づきがあるのか、気づきの中に体があるのかを調べていきます。すると、体は気づきの中にあるのであって、体の中に気づきがあるのではないということがはっきりします。同じ実験を心(マインド)についても行います。そうやって次々に実験をしていって、そこにあるのは気づきだけであるということを体験します。この手法をダイレクトパスと呼んでいるようです。

私はここまで読んだところで、これはどこかで読んだことがあるぞと思いました。これは仏教の唯識のところで出てきた説明とよく似ています。唯識では、ただ識だけがあるというところを、グレッグ・グッドは気づきだけがあると説明しています。

そして、どんなものも気づき以外のなにものでもないと感じられるようになった状態を、「観照が実現した状態」と呼んでいます。そして、観照がしっかりと定着すると、観照は純粋意識へと消えてなくなり始めると説いています。観照を崩壊させる実験で、観照を崩壊させる方法を説いていますが、このあたりはちょっと難しいところで、まるで中観(ナーガルジュナ)の説明を読んでいるような印象を受けます。ここも、その説明の仕方が中観のそれとよく似ています。

グレッグ・グッドは大乗仏教にも造詣が深いそうで、おそらく唯識や中観派の教えの影響を受けていると思われます。仏教ではダイレクトパスより二千年も前に同じことを説明していますが、グレッグ・グッドのすばらしいところは、同じ内容を現代の人向けにわかりやすく説明しているところにあると思います。

そのあとは対話集になっています。対話の中で、質問者から、グレッグの悟りはどのように起こったかという質問がありました。それに対してグレッグは、最初は観照が起こり、最後にはそれが純粋意識の中へ消えていくという二段階の経過で起こったと説明しています。このくだりは、注意深く読まないと、グレッグ・グッドにエンライトメント、あるいは覚醒が起こったと勘違いしてしまいます。

これはあくまで理解の過程を説明しているにすぎません。純粋意識とは、それを何と呼ぼうと私たちがもともとそうである普通の意識のことです。純粋でない意識なんてありません。
そして、その理解がどんな風に起こるのかは人様々です。私たちがグレッグ・グッドと同じ道筋をたどらなくてはいけないということではありません。これは毎回言うように、健康食品の広告の但し書きと同じで、「個人の感想です」。何かのきっかけで理解したと思う人もいれば、自然に理解したと思う人もいると思います。

p147
(質問者)あなたのように、そう確信できるようになる方法はあるんですか?

(グレッグ)とても真剣に調べることです。私が言っている気づきは脳の働きではありません。この気づきは、すべての見かけがそれに対して現れているそれなんです。気づきから遮断されているときを見つけられますか? 気づきがないときがあるでしょうか? 熟睡しているときでもあなたは気づきとしてあって、対象が存在しないという事実を認識しています。気づきは存在しています。あなたが存在なんです。

この本は、物は実在か、世界は実在かということを体験的に理解したいという人にはとても有効な本だと思います。こうした実験的な方法が自分には合うだろうと思われる方は、グレッグのもう一冊の本、ダイレクトパスにはたくさんのエクササイズが載っていたと記憶しています。

****************

Amazonのサイトから
著者について
グレッグ・グッド Greg Goode
南カリフォルニアで育つ。カリフォルニア州立大学で心理学、ドイツのケルン大学で哲学を学び、ロチェスター大学で哲学の修士号と博士号を取得。アメリカ哲学実践者協会(APPA)認定の哲学カウンセラー。
西洋哲学、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、大乗仏教など広い知見をベースにした自己探求を、著作やコンサルティングを通じて指導している。
著書に"The Direct Path:A User Guide"、"Emptiness and Joyful Freedom"などがある。
妻メイとニューヨーク在住。


グレッグ・グッドのYouTubeチャンネルな無いようですが、ホームページの中にいくつかの動画があります。→動画(video)

2024/02/02

ジル・ボルト・テイラー(TED Talks)


とても興味ぶかいTED Talksを見つけました。日本語字幕版の貼り付けができないので、日本語字幕で見る人はこちらで見てください。→日本語字幕付き

脳科学者のジル・ボルト・テイラーは、自宅で左脳に脳卒中を起こし、体の自由が失われて体の感覚が消えていきました。体と外部との境界が消え、文字が読めなくなり、言葉を発することができなくなるさ中、宇宙との一体感、至福、ニルバーナ(極楽)を経験します。そしてその状態が手術までの二週間続いたそうです。その境地は、多幸感に満ちた平安、思いやりの境地だったと言います。
救急搬送されて一命をとりとめ、手術を受けますが、左脳の機能が完全に回復するのに8年かかったそうです。

彼女が今もその状態に入ることができるのかはわかりません。左脳の働きを人為的に停止させて、右脳だけの状態になることは、おそらく不可能ではないかと思います。もちろんその状態がエンライトメントではないし、そうした状態を求めることに意味はないと思います。そんな状態になったにもかかわらず、それを見ていた意識はしっかりとあったということに驚きました。つまり、言語や体の自由を奪われても、それを見ている意識があるということです。
 人間の脳、とくに右脳はもともと「私たち」は一つのものだということを知っているのではないかと思いました。

ジル・ボルト・テイラーの本は日本でも出版されています。また読んだら紹介したいと思います。

2024/01/30

意識を我々は無視している

学校で教師が黒板に「私」と書き、何が見えるかと生徒に尋ねたとしたら、生徒の大半は「私」という文字が見えますと答えるだろう。「私」という文字が書かれた黒板が見えますと答える生徒はまずいない。一つの文字が注目され、それよりも巨大な黒板が無視されるのとちょうど同じように、あらゆる現象の永遠の背景である<意識>を我々は無視している。
                          レオ・ハートン(夢へと目覚める

多治見駅 駅ピアノ

2024/01/26

悟りからは何も得られない

悟りからは何も得られない。なぜなら悟りとは、悟ることのできる自分が存在しておらず、分離の感覚も個人として存在している感覚も幻だったとわかることだから。
                          レオ・ハートン(夢へと目覚める

多治見 永保寺 止掛塔(しかとう)とは、掛搭する(修行者の入門を受け入れる)ことが出来ません!ということ。シカトの語源だそうです(ネタ元)。

2024/01/23

「夢へと目覚める」レオ・ハートン

「夢へと目覚める」レオ・ハートン

非二元の教師たちが教えているのは、何かになることや、何かを体験することではありません。ましてや覚醒でも目覚めでもありません。彼らは私たちと何も変わらない普通の人たちです。この本はそのことを全く平易な言葉でわかりやすく教えてくれています。悟りとはなにか、本当のあなたとは何かを、これほどわかりやすく説明している本はないのではないでしょうか。

本を紹介するために、一部を引用させていただきます。

p24
 あなたはもうすでに向こうにいる。悟り、あるいは自己認識は、少数の選ばれた人のためにあるようなものではない。それはあなたの本質であり、たった今まさにここにあると本書は断言する。最初から読み進めるのがいいとは思うが、本書は悟りを開く方法を段階を追って教えるマニュアルではないし、そのようなものではありえない。それから、これは自己改善や知識の獲得についての本でもない。これは、実際一度も忘れられていなかったことを思い出すという逆説に関する本だ。自分とは本当は誰か、何なのかということがテーマであり、どうあらねばならないか、どうなるべきかを説く本ではない。

p37
悟りは、少数の選ばれた者にしか成就できないような、起こる可能性が低い至難の業ではない。それどころか、悟りはそもそも成就可能なものではなく、悟りを自分のものにできる個人的存在がいるという幻想が取り除かれることを通じてそれ自体を明らかにする。それは<純粋意識>として今ここに完全にある。どこか別の場所で、あるいは達成される日が来るまで未来のどこかで待っているわけではない。悟りは時空内の出来事ではない。逆に、時空が<純粋意識>のなかの出来事であって、<純粋意識>はあなた、私、そして存在するすべてとしてそれ自体を絶えず現わしている。それはここに並んでいる言葉であり、これらの言葉を読むことであり、言葉が現れている背景だ。それは入っては出ていくあなたの息であり、心臓の鼓動であり、淹れたての朝のコーヒーの香りであり、歩道に落ちている犬の糞であり、星々であり、惑星であり、そしてすべてが起こっている広大な空間だ。それはこのすべてであり、それと同時にこのすべてを超えている。それはすべてを包含し、知覚し、創造し、破壊する者だ。

p97
 あなたは本当にこの意識なのだ! 本書を通じてここまでずっとそうだったように、これも文字通りに受け取ることを勧めたい。もし<一なるもの>しか存在しないのであれば、それが存在するすべてであり、あなたはそれでしかありえない---それの一部(離れるもの)ではなく、そのものだ! 千の湖に映る月という魔法に惑わされてはならない。あるのはそれでひとつの<自己>であり、それが多として現れているだけだ。それはこの現象を観照し、映し出し、生成し、破壊し、包含し、維持しながら、この現象である何もなさだ。

p191
 悟りとはどのようなものかと質問した人たちが、その返答を聞いてから、「それは単なる言葉、概念です。以前も聞きましたがそれでは足りません。私が知りたいのはそれが実際どんなものなのかということです」と言って答えを退けるのを見たことがある。そのような探求者が待ち望んでいるのは、特別な出来事を通じた確認か、あるいはもしかしたら至高体験んなのかしれないが、そう望むことによって、探している<目覚め>がすでに完全に今あるという認識を先延ばしにしている。彼らが見落としているのは、見るということをしているそれ---すべてに共通しているもの---あらゆる現象を維持しているひとつの普遍のキャンバスが今ここにあるという事実だ。それは見かけ上のあらゆる多様性の土台にある基層だ。

p203 翻訳者(古閑博丈さん)のあとがきより
 英米のネット書店では本書に対する絶賛のレビューが多く投稿され、またセイラー・ボブからは「共鳴と認識の大きな歓び。見事だ!」という賛辞が寄せられている。

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本のタイトルは「夢へと目覚める」というすばらしいタイトルなのですが、目覚めること自体がまた夢なのです。目覚める「私」は実在ではないのですから。

この本には、「純粋意識」という言葉が何回も出てきます。原語は何なのかは確認していませんが、文脈から判断すると、この「純粋意識」というのは、他の非二元の教師たちが、awareness(アウエアネス)、気づき、意識と呼んでいるもののことです。間違えてはいけないのは、それを手に入れなくてはいけないとか、それを体験しなくてはいけないと考えないことです。

この「純粋意識」とは、もともと私たちがそうであるもののことです。もっとわかりやすく言うと、思考(マインド)の背景にある意識のことです。日常の普通の意識のことです。意識に純粋でない意識なんてありません。おそらくレオ・ハートンは思考と明確に区別するために「純粋意識」という表現を使ったのだと思います。

「私はまだそれを体験していない」「私はそれを手入れていない」と言うのは的外れであり、非二元を理解していないということになります。これだけはっきりとレオ・ハートンが書いていても、深読みして、(いや私はまだその状態にはない)(彼らには何か特別なことが起こったはずだ)という人がいるかもしれません。それを手に入れるための覚醒も目覚めも起こりません。もともとそうなのですから。

私たちは、この意識を「私」の意識だと思っています。でも、逆なのです。意識の中に「私」が現れているのです。「私」の意識ではないのです。じゃあ、それは何なのかと聞かれる方は、ぜひこの本を読んでください。

 レオ・ハートンは21歳の時にある種の神秘体験、超越体験、至高体験と呼ばれる状態を経験します。そしてそれを悟りだと思ったそうです。でも、あとになって、それは単なる体験であり、意識の上を流れていく雲のようなものだとわかったそうです(p145)。このあたりのくだりはとても参考になるところです。

この本の中には多くの賢人の言葉が引用されていて、その言葉もすばらしいものばかりです。信心銘、ルーミー、ニサルガダッタなどなど。セイラーボブのミーティングで出てくる話もいくつかありました。また、ボブがミーティングの中でこの本について語ったこともありました。

この本で語られる説明は、私にはものすごく腑に落ちるわかりやすいものでした。読みやすいし、解釈に困るようなところはありません。すばらしい本です。絶賛おすすめします。ぜひ読んでみてください。

Amazonの著者紹介
著者について
レオ・ハートン(Leo Hartong)

1948年、オランダのアムステルダムで貧しい夫婦のもとに生まれる。
自宅で降霊術がおこなわれるなどスピリチュアルな環境で幼少期をすごす。
10代でハシシをおぼえ、問題児として行政の矯正施設に入れられるが、 脱走して路上生活を経験。
結婚し子どもをもうけ、陸路でインドまで旅をするなどの生活を送る。
読書や瞑想を重ね、ウェイン・リカーマンらのミーティングに通ううちに
現実と自己の本質に目覚める。
2018年に膵臓がんのため他界。(参考:古閑博丈さんのブログ

その他
レオ・ハートンでネット上を検索しても、ほとんど情報はありませんでした。YouTubeも一本も見当たりません。本人のサイトも抹消されているようです。古閑博丈さんのあとがきによると、基本的にはサットサンやトークをしていなかったということです。著作は、この本の他に「From Self To Self」があります。

写真(この一枚だけ

2024/01/19

解放とは

解放とは、最終的な正解にたどりつくことでも、素晴らしい解答を覚えることでもありません。解放とは、私たちの苦しみと混乱の根底にある想像上の問題(思い違い)を見抜くことです。どんな答えも、どんな解答も、どこからか拾ってきてそれに固執してしまえば、それがまた新たな問題になってしまいます。
                       ジョーン・トリフソン(つかめないもの

名古屋 ノリタケの森 イオンモール内

2024/01/16

自分がすでにそうであるもの、すでにここにあるものになる方法はありません

自分がすでにそうであるもの、すでにここにあるものになる方法はありません。瞑想やサットサンやこのような本や先鋭的な非二元のミーティングに少しでも役に立つ点があるとしたら、それは、何かが欠けているという幻想、時間が存在していてその時間の中で何かを達成することができるという幻想、変容しなければいけない誰かが存在していうという幻想の正体を暴くところにあります。
                        ジョーン・トリフソン(つかめないもの

多治見駅 凧

2024/01/12

「つかめないもの」ジョーン・トリフソン

「つかめないもの」ジョーン・トリフソン

セイラーボブの教えを理解するために最適な本は、LIVING REALITY(未邦訳)だと思います。そのLIVING REALITYの裏表紙に、三人の非二元の教師が推薦文を書いています。レオ・ハートン、グレッグ・グッド、そしてジョーン・トリフソンです。そのため、この三人はセイラーボブの教えを支持しているか、あるいはまったく同じことを教えていると思われます。

ジョーン・トリフソンはセイラーボブと面識があります。古閑博丈さんのブログで、セイラーボブと会っているくだりがあります。LIVING REALITYの中でも、セイラーボブがアメリカに行ったら再会したいというくだりがあります。

さて、この本の感想ですが、この本はとても読みやすかったです。非二元の本を読んでいると、時々翻訳された日本語の意味がはっきりとわからない時があります。でも、この本にはまったくそれがない。古閑博丈さんのブログや本を読んでいつも思うのは、翻訳からくるストレスがまったくないということ。これは高木悠鼓さんにも言えることで、この二人の翻訳は安心して内容に集中できるのでありがたいと思っています。

本の内容もすばらしいものでした。本の構成は27の表題からなる書下ろしになっていて、それぞれの最初にいろいろな賢人の短い言葉が引用されています。最初の項目「」の頭には、セイラーボブの言葉(生はつねに生を糧にして生きています。生はあらゆるかたち、あらゆる姿をとって現れます。それでもそれは同じ生であり、同じ知性=エネルギーです。そしてあなたはその生なのです。)があって、嬉しく思いました。セイラーボブの言葉はその一回だけで、あとはブッダやラマナ・マハリシなど様々な人の言葉が掲載されています。賢人たちの言葉もすばらしいのですが、書下ろしの内容もすばらしいものです。

本の紹介のために何か所か抜粋させていただきます。

P50から
 いわゆるスピリチュアルな覚醒の旅は、どこか別の場所にたどり着くこととも、新しい何かを手に入れることとも関係ありません。それはもっとも明白はことを認識するということであり、また、自分のまさに目の前にあってもっとも親密で呼吸よりも近く本当の意味では避けることも見落とすこともできない何かを見かけの上で覆い隠している誤った観念や蜃気楼のような空想の正体を見抜く(またはそこから目覚める)ということです。
 覚醒や悟りという言葉を耳にすると、私たちはよく、砂の上に引かれた魔法の線を「私」が未来のいつかに飛び越えて「覚者」となり、ある種の完璧な(そしてもし可能であれば永久に心地良い)境地に永遠に定着できるのではないかといった想像をします。それはおとぎ話であり、幻想です。そういう考えかたから目を覚ますことこそが、覚醒です。

P55から
 「自己がない」というのは、「あなた」がこれまで経験したことがないような魅惑的で神秘的な経験のことではありません。
 成長の過程で、今ここにいて気づいているという否定しようがない感覚が、一つの心身の内側にいる分離した個別の人間だという観念と混ざってしまいます。私たちが毎瞬、実際に経験していることーー境界なしにあるということーーが、主体と客体、自己と他者とに概念の上で分割されます。蜃気楼のような分離した「自分」、空想上の客体が、<究極の主体>(あらゆるものとしてありながらあらゆるものを見守り、位置を持たず、気づきながら今にあるということ)と取り違えられてしまうのです。目が覚めているときの生という映画は、ひとりひとりが別々のものを観ているように感じられます。そのため、私たちのそれぞれが意識の分離して独立した単位(心)であって、他とは切り離された体の内側に閉じ込められているその個人が、「外側」にある客観的な物質世界、人によってさまざまに違って見える世界を見ているのだと考えます。
 けれども、世界は「外側」にあるでしょうか? そして「内側」に意識の分離した単位(心)があるのでしょうか? あなたが私の映画に現れていて、私があなたの映画に現れているとしたら、この見かけ上では別々の映画は、ひとつひとつの宝石が他のすべての宝石の姿を映している<インドラの綱>の宝石のようなもの、もしくはどんな小さな部分も全体を包含しているホログラムのようなものだということはありえないでしょうか?

p214から
 瞑想などのスピリチュアルな実践をはじめたばかりだったり、先鋭的な非二元のミーティングや本に接しはじめたばかりだったりする人たちは、これは自己を向上させてどこかにたどり着くという話なのだとたいていは思い込みます。道なき道(直接の道)とは、じつはそうした考えの本質を見抜くことにほかなりません。それは究極的には、宇宙の他の部分から切り離された「自己」はここにはいないという発見です。明晰さと混乱のあいだ、「わかる」と「わからなくなる」のあいだ、境界のない気づきとの一体化と一人の個人との同一化のあいだ、そうした両極のあいだを行ったり来たりしている「私」はいません。「スピリチュアリティ」と「それ以外の生」のあいだの境界は、実際には存在しません。あるのは、今あるとおりの<ここ・今>という境界のない直接性だけです。
 どんな境地も経験も、やって来ては消えていきます。非二元の絶対は経験ではありませんし、永久にせよ一時的にせよ「人」が至る境地でもありません。「人」というのは、非二元的な無境界性の内側で現れて消えていく一時的な見かけです。

非二元の本というのはどれも、一種のパラドックスになっていると思います。たいていの人は、非二元の教師たちは、私たちとは違う意識の状態にあると思っていて、自分もそうなりたいと思って本を読みます。

自分も悟りを手に入れたい。エンライトメントしたい。一瞥体験をしたい。彼らのように理解を手に入れたい。特別な理解が起こるはずだ。でも、最後まで読んでも何も起こりません。何も起こらないばかりか、彼らが何のことを言っているのかよくわからないまま終わってしまいます。すると、(ああ、やっぱり私はまだエンライトメントしていないから理解できないのだ)となって、また別の本を読むことになります。

非二元の本を正しく理解するためには、彼らは私たちと何も違わない普通の人だということを前提に読むことです。彼らに何かが起こって、特別な意識の状態になったに違いないという誤った思い込みをなくして読むことです。もし、彼らが私たちと同じ普通の意識の状態にあるのなら、一体何のことを話しているんだろうという視点に立つと、彼らの話している内容に注意が向かい、自分にも理解できることだという目で読むことになります。そうすると、彼らの話していることは何も特別難しいことではなくなります。

私はセイラーボブに会う前に「ただそれだけ」を7回読みましたが、何のことだかさっぱりわかりませんでした。でも、教えを理解した後では、これほどわかりやすい本はないと思っています。他の非二元の教師の本も同じです。彼らが特別な意識の人だという思い込みを捨ててしまえば、やがては「わかっちゃった人たち」の仲間入りです。

何がわかるかというと、それは説明できません。それは「つかめないもの」だからです。ジョーン・トリフソンはこの本の中で、最初から最後まで繰り返し「つかめない」ものを説明してくれていますが、私たちがそれをつかむことはできません。

非二元の教えを理解していない人がこの本を読むと、繰り返し繰り返し「つかめないもの」のことが書いてあって、あ~、わからんとイライラするかもしれません。でも、私にとってはこの繰り返しがとても心地よくて、(そうそう、そうそう)と最後まで楽しく読むことができました。ジョーン・トリフソンはセイラーボブと同じ香りがします。偉ぶったところや気取ったところがなく、普通の人感満載です。また一人好きな教師が増えました。

ジョーン・トリフソンについて
1948年 米生まれ 女性 75歳。

Amazonの著者紹介より
ジョーン・トリフソン Joan Tollifson
アドヴァイタ、仏教、先鋭的な非二元を好んでいるが、 どんな伝統にも属していない。
著書に『Bare Bones Meditation』『Awake in tne heartland』
『Painting the sidewalk with water』がある。

本の最後の訳者のあとがきにジョーン・トリフソンの詳しい経歴などが書いてありますが、それを勝手に要約して書いてもしかられるので、掲載を控えさせていただきます。古閑さんのブログに短い略歴が掲載されていますので、そちらを参考にしてください。英語版のWikipediaには名前がありませんでした。ジョーン・トリフソンのサイトに自己紹介がありますので、リンクしておきます。

ジョーン・トリフソンのYouTubeチャンネルは見当たりませんでしたが、YouTubeでJoan Tollifsonを検索するとたくさんの動画が出てきます。どんな人か。比較的再生回数の多いものを一つ掲載しておきます。




2024/01/09

直接の体験をよく見てみること

つまり、人生を本当に理解するただひとつの道は、自分が生きている直接の体験をよく見てみることだけなのです。
                         ティモシー・フリーク(気づきの扉

我が家のさざんか

2024/01/05

「気づきの扉」ティモシー・フリーク

気づきの扉

とてもわかりやすい本です。理解できないような言葉は出てきません。易しい言葉で書かれていて、100ページに満たない本なので、一時間もあれば読めてしまいます。
七つの洞察を提示していき、それが本当なのかどうかを自分で考えていく体裁の本になっています。内容は、非二元のことを学んできた人なら全部知っていることです。それでいて陳腐な感じがしません。あらためて気づかせてくれることがたくさんあります。

p45
この、身体でも心でもない、謎めいた「私」とはいったい何なのでしょうか?
それは、身体や心を見つめている意識です。

「意識」という言葉がシンプルに使ってあるのをとてもうれしく思いました。わかりやすい本です。

Amazonのサイトから
著者について
ティモシー・フリーク 哲学者、思想家。キリスト教のグノーシス思想を研究した『THE JESUS MYSTERIES』(原題)が英国、米国でベストセラーになったほか、世界の宗教、神秘思想を幅広く研究した著書多数。またBBCやヒストリー・チャンネルなどのドキュメンタリー番組にもしばしば登場し、『ミステリー・エクスペリエンス』と題したワークショップも人気がある。旅をしながら人々の意識を変えていく「スピリチュアル・エンタテイナー」だった古代の哲学者にならい、自らを「スタンドアップ哲学者」と呼ぶ。英国南部グラストンベリー在住。

the urban guru cafeでティモシー・フリークを取り上げているので、この本を買いました。

ティモシー・フリークには日本語版の公式オフィシャルサイトがあります。詳しい情報はそちらで読んでください。




2024/01/02

悟りとは

悟りとは、自分は個人ではないという絶対的な理解です。
                     フランシス・ルシール(今、永遠であること

多治見市 永保寺

2023/12/29

ハートが理解するには簡単なものです

この見方は途方もなく難しいだけではなくて、心(マインド)には把握することのかなわないものです。ですが、この見方はハートが理解するには簡単なものです。とても簡単で、ほぼ即座に把握することができます。
                    フランシス・ルシール (今、永遠であること

              多治見市永保寺                 

2023/12/26

「今、永遠であること」フランシス・ルシール

今、永遠であること

とても良い本です。フランシス・ルシールは、ルパート・スパイラの師だということで、興味をもって読みました。ブログに引用させてもらうところに付箋を貼って読みましたが、この本も付箋だらけになってしまって、どこを引用しようか迷ってしまいます。この本は全編が質疑応答の形式をとっていて、最初に質問があって、それにフランシス・ルシールが答えます。

それぞれの質問に対する答えが長いのと、答えが格調高い語り口なので、その前後を読まないと理解できない部分が多い。前後まで引用すると、とても長くなってしまって、どうしたものかと。あんまりたくさん引用すると𠮟られますが、本の宣伝だということで許していただいて、何か所か引用させていただきます。

p88
 子育てをしながら、家計を支えながら、個人的な不幸せを抱えながら、真実を追求したいと思うのであれば、どのようにすればよいのでしょうか?

 知性を通してできます。理解するために、物質的に自分の生活を変える必要はありません。今すでにあるもの、自分が何者なのか、自分の知覚、感じ、考えとは何なのか詳細に問いかけることから始めます。わたしたちの現実(リアリティ)をこのように探っていくことは単に概念的なものではなく、人生のすべての面に及ぶものです。

 非常に忙しい生活のさなか、このように追及していくことは可能なのでしょうか?

 もちろん可能です。それにこの方法だけが、あなたの幸せはあなたにあり、あなたの宝物であり、外側の状況には何も関係がないことを明確にしてくれるのです。もしあなたの幸せが外側の要素、例えば調和に満ちた状況といったものに依存するものなら、郵便局にいるときや、騒々しいところにいるときにその美しい体験はなくなってしまいます。ですから、こういった体験は真にあなた自身の幸せではなく、単に幸せな状態ということです。

 幸せそのものは外側の何にも依存しないとわかっているのですが……。

 その理解を得るには大変な成熟さが必要になります。ほとんどの人は、幸せは何かしらの客体にあると思っているのですから。

p93
 この世界は幻想であるとおっしゃいますが。これはどのように見つけられたのですか?

 この質問の裏にある質問は、こうですね。「この世界は幻想であるとおっしゃいますが。これはどのように見つけられますか?」

 そのとおりです!

 この世界は幻想だと言うとき、この世界はないという意味ではありません。わたしはただ、この世界は気づきから切り離されたり隔てられている客体としてはない、と言っているのです。言い換えると、古典物理学がわたしたちに信じさせようとしているように世界は自律的ではありません。これは知覚として認識されれば否定されることはありませんが、認識されなければ、あると証明できません。

 ですが、幻想はそのまま、幻想と呼ばれるもののまま、見かけ上はあるということは認めてらっしゃいますか?

 認めています。幻想はふたつの要素からなっています。根本的な現実(リアリティ)と、重ね合わされて幻想の概念です。暗がりにロープがあるとして、それを間違って蛇と思ったりします。ですが、明かりをつけると、蛇というものの現実(リアリティ)はただのロープだということがわかります。蛇など初めからいなかったのです。蛇はまったくの幻想でした。幻想とは、非実在です。蛇はいませんでした。蛇の現実(リアリティ)はロープだったのです。

p121
 自分は分離した人物であるという自己認識から、真実に気づいている状態に意識を移行するには、どうすればよいのでしょうか?

 「人物らしさ」が偽物だと知るのに人物ができることは何もありません。個人は個人としての自己認識にしつこく固執しますが、この自己認識から自由になる瞬間があります。自己認識から距離をとり、自分であるこの現存(プレゼンス)を垣間見る、つまり気づきを得るチャンスは、この瞬間にあります。
 わたしたちにとって、一番大切なものとは何でしょうか? わたしたちの体の一部ではありません。命を救うためであれば体の切断手術がされていることからも、これは明らかです。一番大切なものとは、体全体でさえありません。わたしたちが真に愛しているのは、意識です。真に問われているのは、意識は体の中にあるのか、体が意識の中にあるのか、ということです。自分の置かれている環境や、先生たち、広く信じられている物質主義から、わたしたちの体は世界にあり、わたしたちの頭脳は体の中にあって、この頭脳の一機能が意識であると条件付けられています。非二元の視点では、この図はまったくの正反対です。本源的な現実(リアリティ)は気づきであって、この内に心(マインド)があります。この体、この考え、残りの宇宙はすべて、心(マインド)の内にあります。それでは、このふたつの立場のうちどちらが真実だと、どうやって決めるのでしょうか? わたしたちの論理的な装置である心(マインド)では、この問いに対する答えを出すことはできないと理解することが大切です。これらの立場からひとつを選ぶとすると、これは信念であり、信仰による行為になってしまいます。これが明確にわかっていれば、わたしは世界の中にいて、わたしはわたしの体である、という概念からすでに自由になっています。この世界での実在とは信仰による行為であり、絶対的は真実ではない、ということを理解しているのです。そして、もう一方の可能性にオープンになります。心(マインド)は心自身の内にあるものしか知らないので、心(マインド)では決められません。心(マインド)を超えたものを、心が知ることはできないのです。心(マインド)にできるのは、きめられないということを理解することだけです。心(マインド)が、自分では本源的な答えを見つけられないということを理解すると、静かになります。私たちの本質が自分を掴む可能性は、この静寂のうちにあります。自分では掴むことができません。ただオープンになり、迎え入れることしかできないのです。

p178答えの途中から
 より多くの知識や能力を積み重ねることで、この探求を終わらせることは決してできません。この探求は学習するものではなく、もしろ積み重ねた概念、信念、習慣といった捨て去るものなのです。そういったものがこのシンプルさ、自発性、自分の本質であるよろこびを体験することを妨げています。
 あなたは知覚される客体ではなく、概念でもなく、感情でも、感覚認識でもないというわたしの助言を調べることで、本当に自分であるものを理解する道が拓けます。これを調べるのであれば、知的な次元、体感覚の次元の両面で、徹底的に追及されなければなりません。これを調べた結果、得られる理解は、「わたしは誰なのか?」という問いに対する答えですが、これは心(マインド)を超えたところ、時空間の先にある、あなた本来の美と永遠性にまであなたを運んでいく体験となります。この体験で、あなたは自分が探し求めていたものだったと知ることになります。これが問いの終りであり、すべての問い、すべての探求、すべての恐れや願望の終りになります。

フランシス・ルシールは何も特別なことは言ってはいません。自分で調べてみなさいと言っているのです。そして、その到達点は「確信」という言葉を使っています。私は以前、このブログにおたよりをいただき、「理解するとはどういうことなのか?」という質問をもらいました。その時、「確信」という言葉を使ったのを覚えています。非二元の教師たちが語っている内容を客観的に証明できるような方法はありません。詰まるところは本人が揺るぎない「確信」の地点に到達できるかどうかだと思います。そして、その確信を得るためには自分で調べるしかないとフランシス・ルシールも教えています。

ルパート・スパイラの「プレゼンス」の時も思ったのですが、この本は非二元の教えを理解していないと読みこなせないような気がします。すばらしい本でした。

フランシス・ルシール Francis Lucille

Amazonの著者紹介より
フランス国立理工科高等教育機関、フランス国立航空宇宙学科高等教育機関で
化学を学んだ後、1973年、ヴェーダ哲学や仏教の文献から東洋の叡智を見つける。
これをきっかけとして自己同一性を深く探求し、1975年、スピリチュアルの指導
者であるジャン・クラインに出会ってまもなく、その探求が終わる。
現在、米国在住。ヨーロッパと米国でリトリートを行っている。

補足
1944年生まれ 79歳 フランス生まれ
J.クリシュナムルティの本を読んだことにより探求が始まる。もともとはフランス軍のために洗練された武器の設計・開発する科学者だったが、辞めて、探求の道へと入った。

日本語でネット上で検索しても、フランシス・ルシールに関する情報はほとんどありませんでした。


2023/12/24

セイラーボブの近況(2023.12.24)


2023.12.24ミーティング
冒頭でカットが、ボブがコロナ陽性だと伝えています。無観客で、スピールは短めでしたが、画面で見るかぎりは大丈夫そうです。
以前ボブが、「コロナは気にしない」と言っていたのを思い出します。ミーティング参加者もほとんどマスクなしなので、日本と随分温度差があるなと思っていました。それにしても、なんでこの人たちはマスクしないんでしょうか?

2023.12.31追記
ボブはコロナ陰性になったということで、いつも通りにミーティングを再開しました。

2023/12/22

思考だけが見かけ上の多様性を作りだすのです

スクリーン上の映像がつなぎ目のないひとつの全体であるように、この現存しているように見える「ひとつのもの」も、つなぎ目のないひとつの全体です。思考だけが、映像の各部分の周りに架空の線を引き、対象物の見かけ上の多様性を作りだすのです。
             ルパート・スパイラ (プレゼンス―第2巻 あらゆる体験の親密さ

12月9日 名古屋マリオット

2023/12/19

幸せとは

幸せとは、常にものごとのありのままを受け入れるというだけのことなのだ。
                ルパート・スパイラ(ザ・グレイテスト・シークレット

                       12月9日 ナナちゃん

2023/12/15

「生まれながらの自由」ジャック・オキーフ

「生まれながらの自由」ジャック・オキーフ

このブログの方針として、まったく支持できない人のことは書かない方針です。ただ、はっきりと評価できない人のことはどうしようかと考えたあげく、一応書くことにしました。
この本は、わかりやすいし、非常に良い本だと思って最後まで読みました。でも、終わりの方にきて、過去生や輪廻転生を肯定するような文章が出てきたので、どう評価していいのか判断できずにいます。

私の理解では、過去生も輪廻転生もないと理解しています。だって、「私」がいないのに、誰が転生するのですか? 私が気になった文章を引用させていただきます。

p153 7行目途中から

肉体的な死のあと、思考との同一化が残っていれば、本当のこととして信じられていた信条は、また別の状態を存在として発生させ、体験を継続させます。ゆえに、あなたが何を信じているかによって、意識・無意識にかかわらず、他の次元(死後の世界)や、輪廻転生の中で体験は続きます。

彼女のホームページを見たらわかるかもしれないと思って見てみたのですが、そこに過去生について学ぶコースはあるものの、197ドルのビデオコースになっていて、無料では見ることができません。無料の記事もたくさんあるのですが、量が多すぎて確認できません。YouTubeも量が多いので、タイトルだけ確認しましたが、それらしきものは見当たらず。

ただし、それ以外の内容はとても良いと思ったので、簡単にまとめておきます。
この本では、セイラーボブやルパート・スパイラが awareness (意識、あるいは気づき)と呼んでいるものを、真我(Self)と呼んでいます。

私たちは、この真我を実際の体験として知ることはできないし、それを手に入れることはできないと言います。というのは、私たちはもともとそれだからです。その真我の中に「私」や「世界」が現れます。その実体は思考です。その「私」や「世界」を消すためには、観照者として、「私」や「世界」や世界を観照することだといいます。

観照者とは何かというと、「私は在る」です。「私は在る」もマインドです。それがマインドではあっても、人や出来事、ストーリーと同一化しないのだと言います。このあたりの説明はセイラーボブとよく似ていて、セイラーボブは「『私は在る』とは、マインドで到達できる最高地点」「自らが存在するという感覚」という表現を使います。

セイラーボブもルパート・スパイラもジャック・オキーフも同じ説明をしていますが、私たちが夢さえ見ない深い眠りの状態にあるときは、真我、あるいはアウエアネス(意識、あるいは気づき)そのものの状態にいて、思考がない状態にあると言います。そしてジャックは、その深い眠りから覚めた一瞬に、真我の余韻が残っていて、「私」がやって来る前のほんの一瞬の状態が「私が在る」状態なのだと言っています。

その状態(私は在る)に留まって、観照者として、「私」や「世界」、つまり思考を観照することによって、「私」や「世界」が消えていくと言います。では、どうやったら、常に観賞者であることができるのか。この辺がよく読み取れなかったのですが、私たちはもともと観照者なのだから、観照者になろうとせずに、観照者として思考を見つめなさいと言っているようです。

本の内容は良いと思います。なお、ジャック・オキーフは南アイルランド生まれと本に記載がありますが、それ以上のことはネットで調べてもわかりませんでした。




2023/12/12

それは本当でしょうか?

それは本当でしょうか?
その考えが本当であると、絶対言い切れますか?
そう考えるとき、あなたはどのように反応しますか? 何が起きますか?
その考えがなければ、あなたはどうなりますか?
                                   バイロン・ケイティ

11月27日 虎渓山 永保寺

2023/12/08

外界のものは、何ひとつ私たちを妨げません

外界のものは、何ひとつ私たちを妨げません。私たちが苦しむのは、ありのままのものごとを変えたいと願ったときだけなのです。
               バイロン・ケイティ(ザ・グレイテスト・シークレット
                
              11月27日 虎渓山 永保寺

2023/12/05

「人生を変える四つの質問」バイロン・ケイティ

人生を変える4つの質問 バイロン・ケイティ

この本は絶版です。翻訳者が変わり、新版として、
があります。私が読んだのは旧版です。

バイロン・ケイティについては、セイラーボブのミーティングで参加者の何人かが話したことがあります。また、ザ・グレイテスト・シークレットの賢人としても取り上げられていて、引用された言葉に感じるものがあったため、本を読んでみました。念のために書いておきますが、バイロン・ ケイティは非二元の教師という範疇には入らないし、非二元そのものを教えているわけではありません。でも、教えていることは、非二元の根幹となる教えに通ずるところがあります。

本の内容は、バイロン・ケイティが、「ワーク」と呼ぶ方法で悩みを抱える人を癒しへと導く実際のやり取りを記録したものです。悩みの内容は様々で、対人関係、家族との関係、レイプ、虐待、戦争の記憶、愛する人の喪失など、多岐にわたります。

ワークがどんな方法なのか、バイロン・ケイティとはどんな人なのかは、日本語のホームページがあるので、そちらを読んでもらった方が正確かと思います。


ワークの具体的なやり方は、このホームページにあります。それを読めば、一人でワークができます。やり方は簡単で、ホームページにあるワークシートに自分の思いを書き込み、一つ一つの書き込みに四つの質問を自問します。そして、質問を入れ替えて、それが本当に事実なのかを確かめていきます。

ホームページの上段に、「その考えがなければ、あなたはどうなりますか?」という言葉あるとおり、自分の悩み、恐れ、苦しみは、自分が生み出しているものだということを気づかせるための方法がワークです。

非二元の教師たちは、「私」を根こそぎ消すことによって悩みや苦しみを解決しようとしますが、バイロン・ケイティは逆に、個々の悩みや苦しみを詳しく調べることによって、それは単なる思考(思い込み)にすぎないということを理解させます。

「私」がなかなか消えない人、「私」はいないと理解しても、個別の問題をどうしていいのかわからない人にとっては、バイロン・ケイティのやり方は有効だと思います。

私もワークをやってみようと思ったのですが、今現在、何か大きな悩みや問題を抱えているということはありません。セイラーボブを学んだことで解消された部分は大きいのですが、今現在、悩ましい対人関係はなく、わずらわしい仕事についていないというせいもあると思います。

それでも、せっかく本を読んだのだから、何か試してみたいと思って、いくつかリストアップしました。嫌な思いをしたまま放置している対人関係、体のこと、傷つけた人のこと、恥ずかしい思い出、後悔していること、最近冷たいのではないかと思う人のこと。ホームページから「ジャッジメント・ワークシート」をプリントアウトして、いちいちの問題を書き込み、やってみました。

やってみてわかったのですが、「ジャッジメント・ワークシート」を書いた段階で、いくつかの問題はクリアになり、それだけで十分なものもありました。そして、四つの質問をしていくうちに、問題の根本は私の思考にすぎないということに気づかされます。何かをする必要も、誰かを責める必要もないということがわかってきます。

私の場合、書き出した問題が、どれもそれほどシリアスな問題ではないせいもあって、それほど難しくはありませんでした。大きな問題を抱えて、それこそ狂いそうな毎日を生き延びていた昔に「ワーク」を知っていたら助けになったかもしれないと思います。

この本には、そんなことをやれとは書いてないのですが、誰か他の人から悩み事の相談を受けた時に、この方法に沿って相談に乗ってあげるのはとても良い方法だと思います。私の身近に介護をしている人がいて、時々介護の悩み事の相談を受けることがあります。

先日、電話がかかってきて相談を受けたので、ワークシートに書いてあるようなことを聞いたあとで、四つの質問や入れ替えをやってみました。細かくやったわけではなく、アレンジして、短くやりました。そうしたら、最後に、「よくわかった。そのままにしておく」と言われました。

人間は自分のことだと客観的に物事を見ることが難しいけど、人のことだと簡単になります。誰かから悩み事の相談を受けたら、この方法が役に立つのではないかと思います。悩んでいる人がいると、非二元の教えを説きたくなるのですが、「私」はいないなんて話をしても嫌われるだけで何の役にもたちません。でも、この方法なら、十分に相手の役に立つと思います。そして、これは根本的には非二元の教えと同じことを教えています。

ホームページに参考になる動画がありますが、YouTubeにも参考になる動画があります。



これはなかなか良かったです。

ワークの実際の様子は、バイロン・ケイティのワーク 思考という刑務所 パート1から5までを見るとわかりやすいです。

バイロン・ケイティ(英語版Wikipediaなどを参考に補足)
Byron Kathleen Reid 1942年12月6日アメリカ生まれ 80歳。 「バイロン・ケイティのワーク」または単に「ワーク」として知られる自己探求法を教えるアメリカの講演者、作家。バイロン・ケイティ・インターナショナルの創設者。タイム誌は彼女を「21世紀のスピリチュアル・イノベーター」と評している。
1986年、43歳で3人の子供をもうけ、2番目の夫と不幸な結婚生活を送っていた彼女は、うつ病、広場恐怖症、過食に苦しみ、コデイン(薬)とアルコールで自己治療をしていたと言われている。保険会社に助けを求め、ロサンゼルスの女性カウンセリングセンター、ホープ・ハウスを紹介された。自宅で2週間自分を見つめ直した後、自分の考え方に啓示を受け、長年の信念の有害な影響に挑戦し、それを軽減する方法を生み出した。
自分の哲学について話し合う非公式な会合を開き始め、1990年代初頭には、より正式なワークショップを開催し始めた。ビジネス・セミナー、学校、病院、教会、刑務所など、世界中のあらゆる場所で「ワーク」を実践している。

2023/12/01

自分とは

私たちが自分であると思っている「自分」は、ひとつの思考にしかすぎない
                カリヤニ・ローリー(ザ・グレイテスト・シークレット


カリヤニとピーターの記事を最初から読む方はこちらから

2023/11/28

意識とはものごとを経験するうえでもっとも明白な要素だ

意識とはものごとを経験するうえでもっとも明白な要素だ。それなのに、ほとんどの人々が見落としてしまっているのだ。
                ルパート・スパイラ(ザ・グレイテスト・シークレット

多治見市 虎渓山 永保寺 樹齢700年の大銀杏 11月27日撮影

2023/11/24

エンライトメント、あるいは目覚めとは

過去二回のブログでは、ルパート・スパイラがエンライトメントについて語っているYouTubeを掲載させていただきました。それによって、ルパート・スパイラがエンライトメントをどう考えているのかがはっきりしたと思います。

特に、前回のブログでは、エンライトメント、あるいは目覚めということの定義をはっきり語っています。そこには、何も神秘的な要素はありません。あるのは、認識、あるいは理解です。そして、その理解がどのように起きるかもはっきりと語っています。くどいようですが、もう一度その部分を掲載させていただきます。

「この平和と喜びとのつながりが失われたように思え、その結果私たちはそれを取り戻そうとして、外側の世界で大いなる旅へと乗り出すのです。遅かれ早かれ、外側の世界や体験は私たちが切望する平和や喜びをもたらさないと直観、あるいは理解することになります。遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。

そして、何度も何度も繰り返し戻っていき、生まれつきの平和と喜びが私たちの体験の中に感じられるまで戻っていきます。それが起きれば起こるほど、日常の生活での体験が私たちを自己(self)から連れ出す力を失っていくことに気づきます。これは伝承の中では、自身の本性に定着することと呼ばれています。私たちは存在(being)が個人としての自己の境界をはるかに超えているように感じ始めます。

その存在(being)は私たちの自己(self)の本質ですが、それはあらゆるものの本質であり、そこから私たちの自己(self)という感覚がやってきます。そこから、あらゆる人、うわべ上でのあらゆる個人、うわべ上でのあらゆる存在物がやってきます。別の言葉で言うなら、私たちは内側では同じ実在、同じ存在(being)、すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始めるのです。」

大切な部分は、「遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。」という部分です。要するに、そうやって個人としての「私」は実在しないということを理解・認識していき、さらには、「私たちは内側では同じ実在、同じ存在(being)、すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始めるのです。」

このとをルパート・スパイラはエンライトメント・目覚めと呼んでいるわけです。そこには突然何かが起きるとか、体が光に包まれるとか、自分はいなかった体験をするということは出てきません。これはものすごく重要なメッセージだと思います。

「すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始める」。そういう意味で言うなら、私はすでにエンライトメントしています。また、このブログをずっと続けて読んでいただいている方の多くもすでにエンライトメントしてみえると思います。私は、(エンライトメントある派)のマスターや教師は支持しないし、このブログでは取り上げません。でも、こういう意味のエンライトメントなら支持します。

かつては、グルやマスターの話をYouTubeで誰でも聞けるなんてことはありませんでした。私がセイラーボブに会いに行った9年前ですら、ボブのYouTubeの動画は2~3本があっただけです。ルパート・スパイラのYouTubeで一番古いものは12年前です。ありがたいことに日本語字幕を付けてくださっている方もみえます(4年前から)。

YouTubeが盛んになる以前、非二元関連の情報は翻訳されたごく限られた本しかありませんでした。すると、いくら翻訳者の方が正確に訳しても、読み手の方では勝手に想像して、非二元の教師たちは全員覚醒・エンライトメントした人たちだと思い込んでしまいます。ネット上で、「ただそれだけ」の書評を書いてみえる人の記事を読んでも、ほぼ全員が、セイラーボブをエンライトメントした人だと思っています。あれだけYouTubeで明確に「エンライトメントはない」と本人が言っているにもかかわらずです。ルパート・スパイラにも同じことが言えます。

YouTube以前は、直接会いに行くしか方法がありませんでした。でも今はYouTubeがあります。これってすごいことだと思います。ニサルガダッタ・マハラジの言葉だって聞けるわけですから。

そして、セイラーボブのミーティングにズームで参加することもできます。ルパート・スパイラもオンラインのセミナーをやっています。英語という壁があるので、少しハードルが高いのですが、どうしても知りたい疑問があればメールという手もあります。

インターネットの発達に伴い、もうそろそろ、彼らが私たちとは違う特別な意識の状態にある人たちだという幻想を手放してもいいのではないでしょうか。そこにあるのは、同じ一つの意識、存在(being)だと教えているのですから。

「遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。」

戻っていく(理解する)ためには、彼らが私たちとは違う特別な人たちだという先入観を捨てて、何も特別なことは起きないということを理解したうえで、手に入る媒体を通じて学ぶことだと思います。そしてそれは、誰にでも可能なことです。

2023/11/21

「エンライトメントとは何か?それはどのように起こるのか?」ルパート・スパイラ

What is Enlightenment? How Can it Happen For Me? Enlightenment is possible for everyone 
エンライトメントとは何か?それは私にどうやって起こるのか? エンライトメントは誰にでも可能です。 

最近、エンライトメント、あるいは目覚めとは何ですかという質問がありました。このことについては、あまりにも多くの誤解があるので、それについて話そうと思います。

私たちの多くは、エンライトメント、目覚め、解放について聞くために、肉体的、あるいは知的に東洋へと向かい、インド、日本、中国、チベット、タイなどを訪れました。こうした国の文化は西洋文化に比べて並外れて魅力的なものであるため、私を含めて多くの人は、エンライトメント、あるいは目覚めをこうした国の並外れて魅力的な文化と混同しました。

エンライトメントそのものが、何か並外れた魅力的なもの、私たちの想像を超えた奇跡のような体験だと信じ、その結果、私たちが読んだり聞いたりしたこの奇跡的な体験をゴールとして作り上げたのです。これほど真実とかけ離れたことはありません。エンライトメント、あるいは目覚めは並外れて魅力的な体験ではありません。実際それは、体験でさえありません。

それは単に私たちの存在の本質を認識(recognition)することです。存在の本質とは、あらゆる体験の根底にあり、さらに言うなら、いかなるものの中にも浸透しているもののことです。こうした理由から私は、認識する方法によるアプローチをしばしば説いています。認識とはもちろん、いつも知っていたにもかかわらず見落とし、あるいは無視したり忘れたりしてしまったことをふたたび知るという意味です。

私たちが見落としたり、無視したりしていることとは何でしょうか? それは私たちという存在(being)、本質としての自己(essential self)のことです。なぜそれを無視したり見落としたりしてきたのでしょうか? それは、私たちが体験、思考、イメージ、フィーリング、知覚、認識、活動、関係性などといった内容の虜になったからにすぎません。

こうしたことが、私たちの注意を独占したために、存在(being)のシンプルな事実を忘れたり見落としたりしたのです。存在(being)は私たちの体験の、いわば背後、あるいは根底にあるものです。エンライトメント、あるいは目覚めと呼ばれるものは、私たちの存在(being)の本質的な性質(essential nature)を認識することにすぎません。

物事の本質的な性質とは、それから取り除くことも分離することもできない性質のことです。私たちから取り除くことができるものをすべて取り除いた時に残るものが私たちの本質です。思考、イメージ、フィーリング、知覚、認識、活動、関係性など、こうしたことはすべて私たちに現れ、遅かれ早かれ消えていきますが、私たちには、決して現れることなく、変化することなく、消えることのない一面があります。それは存在(being)、あるいは気づいている存在(being aware)というシンプルな事実です。

そして、認識するという方法は、自身から取り除くというやり方ですが、文字通り取り除くという意味ではなく、想像力を使って自身の中に入っていき、捨て去ること、拒絶するのではなく、私たちの本質ではないものを捨て去ることです。思考、イメージ、フィーリング、知覚、認識などを捨てるのです。そうやって、これ以上何も捨て去ることができない本質的な自己、すなわち存在(being)までさかのぼっていきます。

あたかもそれは、夜に服を脱ぐようなものです。私たちは夜ベッドに入る前に、裸になるまで順に服を脱いでいきます。突然裸の体になるわけではありません。体は日中私たちの体を包んで覆っていた服の層の下から現れるのです。一方、認識による方法も同じようなやり方で進んでいきます。

いわば、脱いでいくのです。私たちの存在( being)が着ている体験、思考、イメージ、フィーリングなどの層を全部脱いでいくのです。そして、ある時点で、これ以上は脱ぐことができない裸の本質的な自己(essential self)、すなわち存在(being)が現れます。この存在(being)になるのではありません。私たちは経験の中ではいつも服を着ていますが、本質的にはこの存在(being)にすぎないなのです。

大多数の人にとって、このプロセスは一度に起きるようなことではありません。一度に起こったとしても、たいていは習慣の力によって、思考、イメージ、フィーリングなどのせいで、私たちの存在(being)は、ふたたび覆い隠されてしまいます。実際には、スクリーンの上に映画が映し出されてもスクリーンが消えるわけではないのと同様に、私たちの本質的な存在(essential being)が消えるわけではないのです。

でも、私たちの存在(being)は、体験した内容によって色付けされ、うわべ上では修正され、その本質的な性質(essential nature)はベールで覆われたり、不鮮明に見えたりするのです。そしてその場合、私たちは再び、認識する方法に乗り出さなくてはいけません。再び逆の道をたどり、層となっている経験を通り抜けて、裸の存在(being)まで戻らなくてはいけません。

これをやるたびに、私たち自身、すなわち存在(being)から私たちを連れ出す外的な経験の持つ力が弱まっていくのがわかります。そうして私たちは私たち自身を見つけるのです。それは短い一瞥や、一時的に私たちの存在(being)を味わうということではなく、その中にそれとして確立されるのです。

私たちが経験したことによって身についた性質が、私たちの存在(being)から脱がされていくに従って、私たちの思考の特徴となっている不安が消えていきます。そしてそれは平安として体験されます。私たちの苦しい感情の特徴である欠乏の感覚が消えていきます。そしてその体験は、私たちが幸福として知っているものです。別の言葉で言うなら、平和と静かな喜びは私たちの存在(being)の本質そのものです。

それは、理解を超えた平和と呼ばれています。それは、私たちの体験の中で起きることや起きないことに左右されることのない平和です。それは原因のない平和、喜びです。その平和、喜びは体験の中に原因があるのではなく、私たちの存在(being)の本質そのものなのです。この、生まれながらの平和と喜びは、経験したことによって私たちの存在(being)と混同されて不鮮明になってしまいました。

この平和と喜びとのつながりが失われたように思え、その結果私たちはそれを取り戻そうとして、外側の世界で大いなる旅へと乗り出すのです。遅かれ早かれ、外側の世界や体験は私たちが切望する平和や喜びをもたらさないと直観、あるいは理解することになります。遅かれ早かれ、自然に、あるいは友人の助け、読書、ビデオを見ることによって、私たちの存在(being)へと戻っていきます。

そして、何度も何度も繰り返し戻っていき、生まれつきの平和と喜びが私たちの体験の中に感じられるまで戻っていきます。それが起きれば起こるほど、日常の生活での体験が私たちを自己(self)から連れ出す力を失っていくことに気づきます。これは伝承の中では、自身の本性に定着することと呼ばれています。やがて私たちの存在(being)は、実際には私たちの存在ではないと感じ始めます。

別の言い方をするなら、私たちの存在(being)は個人としての私たちに帰属しているものではないのです。私たちの存在(being)は経験したこによって身につけた性質を脱がされ、単なる存在(being)として現れます。それはまったく親密であるにもかかわらず、非個人的で無限なものです。その結果、私たちは存在(being)が個人としての自己の境界をはるかに超えているように感じ始めます。

その存在(being)は私たちの自己(self)の本質ですが、それはあらゆるものの本質であり、そこから私たちの自己(self)という感覚がやってきます。そこから、あらゆる人、うわべ上でのあらゆる個人、うわべ上でのあらゆる存在物がやってきます。別の言葉で言うなら、私たちは内側では同じ実在、同じ存在(being)、すべての人、動物、物は本質的に同じであるということを直観、あるいは感じ始めるのです。

そしてこの認識はもちろん、人々や動物との関係性に対しては私たちが愛と呼ぶもののことであり、物や自然に対しては美と呼ぶもののことです。数週間後、あるいは近い将来、私は週末にオンラインで認識による方法をやるつもりです。そこで私たちは本質的な自己(essential self)へと戻る数々の道を探検します。そしてまた、ふたたび経験の内容へと戻る道、特に体を感じ、世界を認識する方法によって、私たちの存在(being)の本質を認識するだけでなく、あらゆる人や物と私たちの存在(being)を分かち合うことをもっと感じる方法をやります。

では、皆さまのご健勝と平安をお祈りします。またすぐにお会いできますように。お元気で。

2023/11/17

「私が未だに悟れないのはなぜ?」ルパート・スパイラ

Rupert Spira 非二元のエッセンス  私が未だに悟れないのはなぜ?

このYouTubeはまったくすばらしい。字幕をつけていただいた方に感謝します(歯車アイコンをクリック→字幕→日本語)。
このYouTubeの中で、ルパート・スパイラは悟り(エンライトメント)とは何なのかを端的に説明しています。

セイラーボブのミーティングで何十回も聞いたフレーズに似た言葉が出てきました。

「私はまだ目覚めていないのですが」という質問者の問いに対して、

「You are not awake? (あなたは目覚めてないのですか?)」とルパートは問いかけました。

セイラーボブだったら、Are you unaware right now?と聞くところです。ボブの場合は、「それが awareness だ」と続くところですが、この質問者はその意図を理解せず、会話を先へと進めてしまっています。

続いてルパートは、「あなたはまだ、何かが起きることを期待していますね。それが問題です」と答えています。

もし、非二元の教えを理解したら、何かエンライトメントのようなことが起きるはずだと思い込んでいると、非二元の教えを理解することができません。私もそうでした。

このYouTubeの中でルパート・スパイラは、悟り(エンライトメント)とは、何かを体験することや、何かになることではないと明言しています。彼らは私たちと何も違わない普通の人です。

説明の仕方や使うフレーズが、あまりにもセイラーボブと似ているので驚いています。

2023/11/14

「気づき」と「意識」

私は「気づき」という言葉が苦手でした。非二元の本を読んでいて、「気づき」という言葉が出てくると、そこに気づいている人がいるように思ってしまい、とたんに不鮮明になってしまいます。私はセイラーボブ以外の非二元の教師の本をあまり読んではいませんが、書店の精神世界のコーナーにあるような非二元の本はたいてい立ち読みしたことがあります。その時、「気づき」と出てくると、わかりづらく感じていました。

カリヤニに、「ヨーロッパの非二元の教師はわかりにくい」と言ったのも、その程度の理由で、じっくり本を読んで言ったわけではありません。前回ブログに書いた、ルパート・スパイラの「プレゼンス」では、それこそ山のように「気づき」という言葉が出てきます。そこで、この「気づき」という言葉の裏にはどんな英語があるのか、ちゃんと調べようと思い、「プレゼンス」英語版を買おうと思って調べたところ、日本語版の三倍もする。円安の影響かどうか知らないけど、あんまりなので買うのをやめて、ルパート・スパイラのYouTubeを何本か見て確認しました。

それから推理すると、「気づき」に相当する言葉は awareness。やっぱりな、と思う一方で、どうして、ある本では「意識」と訳され、またある本では「気づき」と訳されるのだろうかと思いました。翻訳家によって違うのかと思って、あれこれ調べてみましたが、そうでもないらしい。高木悠鼓さんは、「ただそれだけ」では、「意識」を使い、「何でもないものが あらゆるものである」では「気づき」が多い。古閑博丈も「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?」では「気づき」なのに対して、「すでに目覚めている」では「意識」が多い。

おそらく、こうした本に出てくる言葉の原語は、awareness もしくは aware だと思います(「プレゼンス」には一部に cosciousnessという言葉もあります)。私の場合、非二元の本として最初に読んだのが「ただそれだけ」なので、「意識」という言葉がしっくりきて、「気づき」だと違和感がありました。

awareness という言葉は、英語の場合、「気づき」という意味と「意識」という意味があって、英語ネイティブは、awareness と聞いたとたんに、「気づき」と「意識」が同時に頭に浮かぶわけですが、日本語にはそんな便利な言葉はないので、どちらかの訳語をあてなくてはいけません。また、非二元の教師によっては、awareness と consciousness の両方を同時に使う人もいて、その場合には consciousness を「意識」と訳して、awareness  を「気づき」と訳すなどの区別が必要になると思います。

今回、「プレゼンス」を読んでいくうちに、「気づき」という言葉に対する違和感や苦手意識がなくなりました。最初のうちは「気づき」が出てくるたびに「意識」と直して読んでいましたが、途中からどっちでも同じではないかと思うようになったからです。

「気づき」とするか「意識」とするかは、翻訳家の方も気分でやってみえるわけではなく、原文の微妙なニュアンスを嗅ぎ取って、どちらかに決めてみえるのだろうと思います。というのも、「プレゼンス」の1巻では、ほぼ「気づき」だったものが、2巻の後半には「意識」という言葉が使ってあって、その場面では「意識」という言葉の方がしっくりくる感じを受けました。そして今は、「プレゼンス」の場合は、前述の一部の場面を除いて、「気づき」という言葉の方が的確だと思っています。気づきという言葉については、古閑博丈さんのブログが参考になると思います(気づきとはルパート・スパイラ

この「気づき」という言葉に対する苦手意識が消えたことや、カリヤニからロンダ・バーン、ルパート・スパイラを教えてもらったことで、もっといろんな人の本をちゃんと読んだ方がいいのではと思いました。セイラーボブのミーティングだけせっせと見て、セイラーボブのことだけをせっせと書いて、まるでセイラーボブ教、セイラーボブ原理主義みたいになっているのではないか。セイラーボブの言っていることを理解したからといって、非二元の教え全体を理解したと思うのは短絡的ではないのか。もっと広い視野で非二元を捉えるべきではないかと思いました。

そこで、ザ・グレイテスト・シークレットの賢人リスト、the urban guru cafe古閑博丈さんのブログ高木悠鼓さんのブログを参考にさせていただき、以下の本をアマゾンで買いました。


そして、図書館で、

ほとんどがよく見聞きする人や本です。今ごろになって、何を読んでいるのかと言われるかもしれませんが、もしセイラーボブを通じて非二元を理解する前にあれこれ読んだとしても、おそらくチンプンカンプンで、非二元難民なっていたと思います。

少しずつ読んで、思うところを書いていきたいと思っています。こういう本の性格上、そんなに急いで読んでも役に立たないので、ゆっくりやっていきます。

2023/11/10

「プレゼンス」ルパート・スパイラ


カリヤニと話をした時、ふとしたきっかけで私が、「ヨーロッパの非二元の教師はわかりにくい」と言いました。するとカリヤニが、「ヨーロッパの教師の中では、ルパート・スパイラがわかいやすい」と教えてくれました。

ルパート・スパイラの名前は知っていましたが、本は立ち読み程度にしか読んだことがありませんでした。せっかくカリヤニがすすめてくれたのだからと、入手してじっくりと読んだところ、すばらしい内容でした。

読み始めは、少し理解するのが難しいところがあり、何回か同じところを読むことがありましたが、次第に慣れて、それほど難しく感じなくなりました。私はセイラーボブに会う前に、「ただそれだけ」を7回読みましたが、さっぱりチンプンカンプンでした。この本は、「ただそれだけ」より難しい気がします。

何が難しく感じさせるかと考えてみました。独特の言い回しと、それを使って緻密かつ厳密に話すこと。また、詩的、感覚的言い回しが多いことではないかと思います。

セイラーボブは、私たちの本質を「意識(アウエアネス)、知性エネルギー、実在、認識する空」などと表現しますが、ルパートの場合は、「気づき、現存、自己、気づいている現存、真の自己、現存の空の空間、気づいている空間、純粋な気づき、気づきの光、いつもここにある存在、見る事、つなぎ目のない全体性、唯一の自己、知、知の光、自身の存在の光、愛」といった表現を使います。こういった表現は、大胆に解釈すれば、「意識」あるいは「気づき」のことを言っているのですが、まず最初にそれが理解できていないと、難しく感じるかもしれません。この本では「気づき」という言葉が中心になっていますが、「気づき」については次回書きたいと思うので、ここでは深入りしません。

内容はというと、非二元の教えの本ですから、「私は実在ではない」ということであり、セイラーボブが教えていることとまったく同じです。説明に使われる例えも、セイラーボブと似ているところもあります。空間の例え、スクリーンの例え、ラベルを貼り付けているといった例えは何回も出てきます。

第1巻の最初は、「私は在る(I am)」から始まります。自分が存在するということは、誰でも知っています。存在するということは、つまり presence であり、それが本のタイトルになっています。そして「私」はただ現存するだけでなく、気づいている存在です。そして私たちは、このシンプルな気づきに、様々な要素を付け足して、体と心(マインド)の中に私がいるという信念が生まれます。そうした信念を私だと思うことによって、様々な苦悩が生まれる課程を順に説明していきます。このあたりの説明は、セイラーボブとよく似ています。

ブログに引用するといいなと思う箇所に付箋を貼って読みましたが、結果的にほとんど全ページに付箋を貼ってしまい、貼る意味がなくなってしまいました。どんな感じで説明されているのか、ちょっと引用させていただきます。このブログで、「物は実在か?」という記事を書いた時、私たちが見ているレモンには実体がないという内容の記事を書きましたが、それとよく似た説明があって、おもしろいなと思ったので、引用させていただきます。

第2巻p150から
 
 リンゴの記憶が心(マインド)の中のイメージにすぎないというのは事実です。しかし、実際のリンゴを見るとき、それもただのイメージにすぎないということを私たちは見落としています。私たちがリンゴについて知っていることは、この場合、「見ること」だけです。そして、リンゴに触るとき、私たちが知っているのは「触ること」だけです。リンゴを味わうとき、知っているのは「味わうこと」だけです。

 通常考えられているような形で、私たちが実際のリンゴを体験することはありません。つまり、分離独立して存在する対象物のリンゴを体験することはないのです。

 ですから、実際の体験において、記憶の中に現れるリンゴの実質と、「現実の時間」の中に現れる実際のリンゴの実質には、何の違いもありません。それらについて私たちが知っている唯一の知識は、心(マインド)からーーー見る事、味わうこと、触ること、嗅ぐことからーーーでできています。そして、心(マインド)の実質は気づきだけです。

 気づきが、それ自身の不在や消滅を体験することなどできるでしょうか? この、常に現存し、いつもここにある気づきが私たちであり、すべての体験の唯一の実質です。私たちはそのことを直接的に、親密に、即座に体験します。体験のこのシンプルな事実を表面的に忘れてしまうと、リンゴや対象物、世界といったものが実在するように見えるのです。

ここだけ読んでも素晴らしいと思いますが、全体がこんな調子で続きます。では、私たちが、実在すると思っている「私」「体」「世界」は、実際には気づきが気づいている対象にすぎないということを理解するにはどうしたらいいのか。

驚くことに、これもセイラーボブと同じで、自分で調べることだと言っています。ルパートの場合は「探求」「探す」という言葉を使っています。そのやり方は、第1巻に順に説明されています。最初に、「分離した自己」次に「体」、そして「世界」を調べていきます。ことの性質上、このあたりの説明は抽象的に思えるかもしれませんが、やり方が書いてあるだけでも私にとっては貴重な本です。

ルパートによると、調べることはそれほど難しくはなく、「私」や「体」が実在ではないということを理解することも、容易にできることだと言います。でも、それを理解したからと言って、「私」や「体」に対する認識や、ボブの言葉で言うなら条件付けのようなものは、すぐには無くならないというのです。その説明はこの本の中で何回も表現を変えて出てきますが、一番印象に残った箇所を引用させていただきます。

第1巻 p135から

 私たちの実際の体験において、分離した内側にある自己は存在しない、存在していなかったということがはっきりわかると、それは再生されません。ですが、ひとたび真の性質へと溶け込んだからといって、架空の存在の古い余韻が体と心(マインド)から完全に洗い流されるわけではありません。

 それは、波が浜辺に打ち寄せることで、こどもたちが浜辺に描いた砂の絵が少しずつ消えていくのと似ています。波が打ち寄せれば、絵は部分的に消えますが、その線がどれだけ深く掘られたかによって、波がどれだけ打ち寄せなければならないかが違ってきます。

 同じように、分離した内側にある自己の思考と感情の残滓(筆者注: ざんし=残りかすのこと)は、心(マインド)、特に体に爪痕を残します。透明で開かれた、愛に溢れた私たちの真の性質が本当の意味で浸透するには、いくらかの時間、場合によっては数年を要することもあるのです。

ボブのミーティングでも、「あなたの教えは理解しましたが、『私』は消えません」、「知的には理解しました。でも、『私』がいるような気がします」といった類の質問が未だに後を絶ちません。そんな時ボブは、「自分で調べてみてください」「『でも』はあなたをそれから遠ざけます」「今そのことを考えなかったら、条件付けはありますか?」といった、ニサルガダッタ譲りの一喝で終わらせてしまう傾向があり、それがいつも参加者のジレンマになっている感じがします。

ボブは、「私」が消えるには時間がかかるなんてことは決して言いません。「時間は存在しない。それは即時だ。あなたはもともとそれだ」の一点ばりです。ルパートも、「時間はあなたの記憶の中にしか存在しない」と言っていますが、私が消えるには時間がかかると、ちゃんとわかりやすく説明してくれています。

ルパートは、一回や二回の調査ではだめで、調査して、自分は実在ではないという体験を何回も積み重ねることが大事だと言っています。一番やってはいけないのは、その体験をすることなく、「私はいない。体は実在でなない」とマントラのように自分に言い聞かせることだそうです。これは状況を悪化させるだけだと言います。

ここで勘違いしてはいけないのは、物理的な「体」や「私」という認識が消えると言っているのではないということです。そんなことが起きれば、体は家具にぶつかってしまうし、車に轢かれてしまうでしょう。「私」という認識が消えれば、社会で生きていくことさえできなくなります。あくまでこれは、自分は「体」でも「思考」でもなく、「私」は実在ではないという理解のことを言っています。

セイラーボブのように、「あなたはもともとそれだ」と一喝する教師もいれば、ルパート・スパイラのように、「すぐには消えないよ」と優しく説く教師もいていいと思います。

ルパートもボブと同じように、私たちの本質を覆い隠す思考を雲に例えています。「私」「体」「世界」が実在するという思考、雲の後ろには何があるのか。そこには、平安、幸福、愛があると言います。セイラーボブも、サット・チット・アナンダ(存在・意識・愛)として、愛を引き合いに出すこともありますが、ボブの場合は「知性」「ほのかな至福」といったことを強調するのに対して、ルパートの場合は「愛」を強調しています。

これは、健康食品の宣伝の注意書きのようなもので、「個人の感想です」ので、あまり表現にとらわれない方がいいと思います。そして、私はまだ、平安、幸福、愛を感じないからダメだと思う必要もないと思います。ルパートもボブも、私たちはもともとそれなのだと言っています。

ここでルパートが言っている平安、愛、幸福とは、マインドや体が感じる平安、愛、幸福のことではありません。愛する家族がいて幸せだというのはマインドの幸福です。暖かいお風呂に入って幸福だというのは、体の幸福です。そうではなく、愛する人が去った悲しみに打ちひしがれている時も、吹雪の中を歩いている時も、マインドや体の背後にいつもあるものことを言っています。

やってはいけないのは、ルパート・スパイラやセイラーボブが私たちとは違う意識にあるのではないかと思って、それを探してしまうことです。彼らは特別な人ではなく、私たちと何も変わりません。もし彼らが私たちとは別の意識状態にあると思って、それを探し求めるなら、エンライトメントを探し求める人と同じ誤りを犯すことになります。たった一つの、同じ意識があるだけです。


ルパート・スパイラについて

Amazonの著者紹介より

ルパート・スパイラ Rupert Spira
幼少の頃から現実の本質に多大な関心を寄せていた。
20年以上にわたりピョートル・ウスペンスキー、ジドゥ・クリシュナムルティ、ルーミー、シャンカラチャリヤ、ラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、ロバート・アダムスらの叡智を探究した後、1996年、彼の師となるフランシス・ルシールに出会う。
ルシールの導きにより、ジャン・クライン、アートマナンダ・クリシュナメノンらの教えに触れ、さらには経験の真の性質を知るに至る。
現在はイギリスに暮らし、ヨーロッパおよびアメリカ各地で、ミーティングやリトリートを定期開催している。

Wikipedia を参考にして、私なりに略歴をまとめてみます。

Rupert Spira 
1960年3月13日ロンドン生まれ イギリス人 現在63歳。職業:著述家・スピリチュアル教師・哲学者・陶芸家。1977年、ロンドンで開催されたマイケル・カーデュの陶芸展に触発され、ウエスト・サリー芸術デザイン大学に入学して美術を学ぶ。1980年から1982年まで、マイケル・カーデュのもとで陶芸家の見習い修行をする。

大学卒業後の1984年、自身のアトリエを持つ。
どんな作品を作っているのかgoogleで画像検索してみました。陶器に言葉を書き込んだものも見られます。
陶芸家として成功していたようで、日本で個展を開催したこともあり、作品は東京国立近代美術館にもあるようです。(情報源はここ
ザ・グレイテスト・シークレットの賢人リストによると、元陶芸家となっているので、今は陶芸家としては活動していないのかもしれません。

スピリチュアル関連
15歳のときにルーミーの詩を読んだことが、スピリチュアルな旅の始まり。ロンドンのコレット・ハウスでフランシス・ロールズ博士に師事した。フランシス・ロールズ博士は神秘哲学者ウスペンスキーとグルジェフ、そしてスワミ・シャンタナンダ・サラスワティのマントラ瞑想を学んだ人物。その結果、古典的なアドヴァイタ(非二元論)にも興味を持つようになる一方、メヴレヴィ・ターニング(祈りと瞑想を組み合わせた神聖な動きの一種)を通してスーフィズムの研究も続けた。また、ニサルガダッタ・マハラジとラマナ・マハルシの教えを読み、1970年代後半にはブロックウッド・パークで行われた J.クリシュナムルティの最後の集会に参加した。1990年代半ば、ロバート・アダムス、フランシス・ルシールとの出会いが彼をアートマナンダ・クリシュナ・メノンのダイレクト・パスの教えに導いた。20年以上にわたる瞑想と修練の結果、自己の本質に目覚め、以後、講演やリトリートを主催。日本でもセミナーを開いたことがあるそうです。
スピリチュアル関連の経緯は、古閑博丈さんのブログによくわかるインタビュー記事があります。


このチャンネルには1000本以上の動画があります。ちょっとした宝物を見つけた気分です。一本だけ紹介させていただきます。この動画の中でルパートは、エンライトメントは東洋で信じられているような神秘的かつ途方もないものではなく、単に私たちの存在(being)の本質を気づくことだと言っています。

日本語で字幕をつけてみえるYouTubeチャンネルもあります。「Rupert Spira非二元のエッセンス」。まだよく見ていませんが、ありがたいことです。

ルパート・スパイラについては、古閑博丈さんのブログ(resonanz360 塩人間の海底探検)にたくさんの記事があります。全部読ませていただきました。古閑さんは、この本が世に出るずっと以前にルパート・スパイラのリトリートに何度も参加されているようです。また、ルパート・スパイラのホームページのQ&Aや教えの概要の翻訳が掲載されています。今のホームページとは連動していないようですが、教えを理解する助けにもなり、貴重なものだと思います。リトリートの体験記もあって、どんな様子なのかを知ることができます。

thE uRbaN guru Cafe には、3回のインタビューがあります。(ポッドキャスト・英語)

ちなみに、「ザ・グレイテスト・シークレット」では、ルパート・スパイラの言葉は17回引用されていて、おそらく最多だと思います。

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ルパート・スパイラのファンになりました。そしてもし、ルパート・スパイラのセミナーに出たことがある方、あるいは陶芸展で会われた方がみえるなら、「こんな感じの人だったよ」「こんなこと言っていたよ」、何でも結構ですので、シェアしていただけるとありがたいです。

2023/11/07

黄檗 Huang-po

カリヤニのおすすめの禅マスターは、黄檗(Huang-po)だそうです。
黄檗は、このブログでも一度取り上げています(黄檗希運)。あの時は、どこかの英文サイトから拝借して書いた記憶があるのですが、どこだったかよく覚えていません。もう一度、黄檗について学びなおそうと思って、何か参考になる本はないかと調べたのですが、黄檗に関する本はあまりない。一冊だけ手頃なものを見つけたので、アマゾンで買った。


おそらくこれは読めないだろういうことは、注文の時点で察しがついた。著者は有名な仏教学者の宇井伯寿。この時代の人の文章は、古くて読めない漢字が使ってある。文章も漢文調だったりする。復刻版なので、現代語に直してあるかもしれないと思って買ったが、だめだった。この時代の人の文章はおいそれとは読めない。鈴木大拙にも同じことが言える。鈴木大拙全集を読もうとしても、全く歯がたたなかった。

黄檗に関する記録はそれほど多くないようなので、おそらくこの本の元となったものが英訳されたのではないかと思います。

英語版としては、これが良さそう。
今、時間的な余裕があまりなくて、英語の本をじっくり読もうという気になりません。また時間に余裕ができたら読もうと思っています。一応備忘録として書いておきます。この本の参考サイト(Buddhist Wisdom)。

カリヤニがおすすめのヨーロッパの非二元の教師は、ルパート・スパイラだそうです。次回はルパート・スパイラについて書きます。

2023/11/03

引き寄せの法則と非二元の教え

前回のブログで、ロンダ・バーンの「ザ・グレイテスト・シークレット」について書きました。でも、私の中のひねくれ爺さんが、もう少し言いたいことがあるというので書いています。

一般的に非二元の教えでは、自由意志はないと言います。そもそも、その自由意志の主体である「私」はいないというのが非二元の教えの根幹ですので、自由意志があるかないかと問うこと自体がおかしい。もし、「自由意志はある」と言えば、その主体である「私」がいることになる。もし、「自由意志はない」と言っても、そこには自由意志を持っていない「私」がいることになってしまう。

それゆえ、自由意志があるとかないとか問うこと自体が間違い。「私」は実在ではない。そこで終わり。では、「引き寄せの法則」はあるのか? これも同じ理屈が成り立つような気がします。誰が引き寄せるのかと問うてみれば、答えは明らかな気がします。そこに、「引き寄せる私」がいないのなら、引き寄せの法則は成り立たない。

でも、そのあたりの整合性を、ロンダ・バーンはこの本の中でまったく説明していません。もちろん、誤った思い込み、信念を消し去れば、そこにあるのは意識だけだという趣旨の説明はしていて、非二元の説明としては全く正しいのですが、じゃあ、今までの本で、思考や信念の力で金や物、幸せを引き寄せましょうと言っていたことはどうなるのか、という疑問がわきます。

ロンダ・バーンの引き寄せの法則の基本は「信念、あるいは思考は現実化される」というものです。そしてロンダ・バーンはこの本の中で、否定的な思考を持てば、否定的な現実を引き寄せてしまうので、否定的な思考を持たないようにと言っています。

でも、そもそも、肯定的な思考だけを持つということが可能でしょうか? 肯定的な思考の裏には必ず否定的な思考が潜んでいます。肯定的な思考だけ持つことが可能なら、誰も悩んだりしません。思考で現実を引き寄せることが可能なら、誰も願望が実現して欲しいと思って「引き寄せ本」を読んだりしません。

ロンダ・バーンは、「否定的な思考、信念は、それを意識した瞬間に消える」と書いています。このあたりは非二元の教師と同じことを言っていて間違いではありません。でも、思考は現実化されるという前提が間違っている気がしてなりません。

変節漢の私としては、「引き寄せの法則」ある派の立場に立って、理屈を考えてみました。非二元の教えでは、私たちが見ている現実社会は夢、幻想であり、例えていうなら、意識というスクリーンの上に映し出された物語だという例えがよく使われます。ロンダ・バーンもスクリーンの例えを使っています。

もし私たちの見ている現実が、夢や物語であるなら、そこには「私」がいて、その「私」には自由意志があって、仕事を選んだり、結婚相手を選ぶ自由意志があると思っていてもいいと思います。夢や物語の中にはなんだってある。体だってあるし、「私」だっている。

本当は「私」は実在ではないけれど、夢や物語の中では「私」が存在するように見える。それゆえ、自由意志もあるように見える。なんかややこしい話になってきました。

夢だ物語だと言ってみても、実際には現実問題として、会社に行って働かなくてはいけないし、家族だって養っていかなければいけない。そうなると、意思を使って起きて会社へ行き、意思を使って働かなくてはいけない。

それが夢であろうと物語であろうと、そこには夢や物語のルールがあって、どうせ夢なんだからと働かなければ食っていけない。夢だからとむやみに人を傷つけたら刑務所に行かなくてはいけない。私たちはそういう世界に生きている。自由意志がなかったら、マクドナルドにもスタバにも行けない。カフェモカにホイップ増量も頼めない。(セイラーボブは、それは自由意志ではなく、起こってくることだと言うでしょうけど、ややこしくなるのでひとまず脇に置いておいて)

ニサルガダッタ・マハラジが言うように、夢を夢だと理解して、その夢の中で自由意志でも引き寄せの法則でも何でも使って生きていけばいいのではないでしょうか? と、ここまで、引き寄せの法則ある派の立場で考えてみました。でも、こんな理屈がなり立つなら、夢や物語の世界には、転生や輪廻や天国だってあることになってしまう。

「ザ・グレイテスト・シークレット」は、手っ取り早く非二元の教えを学ぶことができる(ロンダ・バーンは非二元という言葉は一切使っていないが)。そういう意味では画期的な本だといえる。でも、何か釈然としないものを感じる。非二元の教えを学ぼうとする場合、いろんな人の本をあれこれと読むよりも、一人の人の本をじっくり読んだ方がいいような気がします。人によって説き方が違うし、言っていることが細部で多少違う。あれこれ読んでもかえって混乱してしまうような気がします。

ちょっと思ったのは、ロンダ・バーンの引き寄せ本を読んで、今まで願望の実現に必死になっていた人が、いきなりこの本を読んで、「私」は実在ではないという教えをすんなり理解できるだろうかということ。じゃあ、今まで必死になっていた「私」は何なのかということになりはしないかということ。

amazonのサイトの書評を読む限り、この本を違和感なく受け入れている「引き寄せの法則ある派」の人も結構いるようですので、あんまりとやかく言わなくてもいいのかもしれません。引き寄せの法則はあってもなくても、それは夢の中なのだと気づいていれば、それでいいのかもしれません。

個人的には「引き寄せの法則」はないと思っています。でも、宝くじでも当ったら、「夢の中では引き寄せの法則はある」と言うに決まっています。私の場合。