・ヘロドトス宛の手紙:原子論
・ピュクレス宛の手紙:自然観察法
・メノイケウス宛の手紙:哲学
・主要教説
・断片
・エピクロスの生涯と教説
死について書いているところで、ものすごく感銘を受けた一節があるので、転載させていただきます。
中村元先生は、その著書、龍樹 (講談社学術文庫) 中で、中論の中心思想は縁起(えんぎ)であると書いてみえます。p160から引用させていただきます。
縁起を説く帰敬序
さらに『中論』自体について検討してみよう。
ナーガルジュナは『中論』の冒頭において次のようにいう。
「不滅・不生・不断・不常・不一義・不意義・不来・不出であり、戯論(けろん)が寂滅(寂滅)して吉祥(きちじょう)である縁起を説いた正覚者(しょうがくしゃ)を、諸(もろもろ)の説法者の中で最も勝れた人として稽首(けいしゅ)する」
とあり、この冒頭の立言(帰敬序:きけいじょ)が『中論』全体の要旨である。
右の詩の趣旨を解説しつつ翻訳すると、次のようになる。
「(宇宙においては)何ものも消滅することなく、何ものもあらたに生ずることなく、何ものも終末あることなく、何ものも常恒(じょうごう)であることなく、何ものもそれ自身と同一であることなく、何ものもそれ自身において分かれた別のものであることなく、何ものも[われらに向かって]来ることもなく、[われらから]去ることもない、というめでたい縁起のことわりを、仏は説きたもうた」
ではその縁起とは何でしょうか。縁起説にもいろいろありますが、小乗仏教(部派仏教)の説く縁起の一つに十二縁起(十二因縁)があります。それは時間的な流れに関係する縁起であり、人間の苦しみ、悩みがいかにして成立するかということを考察したものです。
十二因縁(十二紙支縁起)
十二因縁は十二支縁起のことであり、初期仏教のところで書いたので、ここでは簡単にまとめておきます。
十二因縁は、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の十二です。最初に無明があります。私たちの根本には無明、無知がある。無知ゆえに識を形成する働き、行ができる。そのために識、意識の識別作用が現れる。それにもとづき、主観と客観の対立ができる。それにもとづいて対象に働きかける「眼・耳・鼻・舌・身・意」という六つの働く場(六所)が考えられる。それがあるために、接触、触が起きる。接触のゆえに受、感受作用が起こる。それによって盲目的、衝動的な妄執の愛が起きる。愛ゆえに執着の取がおこる。それにもとづいて有、生存が起こる。そして生まれ、老いて死ぬ。これが原始仏教の説く十二縁起です。(参考:ブッダの生涯 6(佐々木閑「仏教哲学の世界観」第2シリーズ))
仏教は我(が、アートマン)の存在を認めません。でも、無明(無知)ゆえに自身があるように錯覚し、輪廻するように見える。刹那滅という視点に立つならば、輪廻する主体は実在ではないのですが、それでも輪廻する主体は何なのかという矛盾をかかえることになります。
大乗仏教(ナーガルジュナ)の説く縁起
初期の縁起思想がさらに発展して、一般にもろもろの事物が成立する相互の関係を縁起と呼ぶようになりました。縁起というのは、他のものとの関係が縁となって起きること。つまり、すべての現象は無数の原因や条件が相互に関係しあって成立しているということです。
それを、相依性(そうえしょう:相互依存)の縁起といいます。互いに依存して存在しているのであり、独立した主体としてのものは存在しないということです。
たとえば、行為は行為する主体がなければ存在しない。私は私以外がなければ存在しない。有は無がなければ存在しない。あらゆるものごとは、相互に依存して成り立っていて、どちらかが欠けると成り立たなくなります。
セイラーボブの言葉でいうなら、「あなたの体から水を取り除いてみてください。あなたの体を空間の外に出してみてください。できますか?」です。体は、体単体で存在しているわけではなく、いろんなものに依存して存在しています。空間、水、熱、ありとあらゆるものに依存しています。そうした関係がなかったら、体は存在することができません。
また、別のボブの表現で言うなら、「主体がいなければ客体もない」「見るものがいなければ、見られるものもいない」。そして、セイラー・ボブがよく例に出す、「昼の後には夜が来る」「潮が満ち、潮が引く」など、自然は相反するペアの間で移動するというのも、一種の縁起の思想です。
また、これは中村元先生が YouTubeで語ってみえたことですが、私という個人存在を考えた場合、父がいて母がいる。祖父がいて祖母がいる。そうやって先祖を、たとえば何万年もたどっていくと、おびただしい数の人がかかわっていて、その中の誰かひとりでも欠けると自分は存在しない。自己というのはそれほどかけがえのないものだというようなことを語ってみえました。これも一種の縁起だと思います。
そう考えていくと、たとえば地球の裏側にいる誰かと自分が無縁の存在だとは言えない。それなら、動物とは、小さな虫一匹とはどうだろう。そして、海、山、世界、宇宙と自分との関係においても、同じことが言えるのではないでしょうか。すべては互いに依存していると言えるのではないでしょうか。ちょっと飛躍させると、万物は一つのものなのではないでしょうか。
ちょっと飛躍しすぎたので、縁起の話にもどります。
なぜ、この縁起の思想が重要であるかというと、縁起ゆえに空だからです。般若心経でいうところの、「色即是空」の色(しき:もの)は、そのもの単体では存在することができず、自性(じしょう)がない。だから空だというのです。
空(くう)という場合、何も物がないから空だと考えがちですが、ここでいう空とは、物がないから空なのではなく、自性がない、実在ではないから空だというのです。物は互いに関係しあって存在するから、それぞれが別々のものではなく、一体のものである。何一つ単体で存在するものはない。だから空だというのです。
また、セイラーボブはこうも言います。「実在という言葉の意味は何ですか? 辞書で調べてみてください。実在とは永遠に変化しないもののことです。永遠に変化しないものが、この世界にありますか?」
永遠に変化しないものなどありません。だから空なのです。
セイラーボブの家の居間の椅子をセイラーボブが指さして、「それは何ですか?」と尋ねた時、私はなぜその椅子が実在ではないのかわかりませんでした。でも今はなぜそれが実在ではないのかはっきりわかります。この世界に実在のもの、自性のあるものは存在しません。すべてが空なのです。
参考サイト
縁起(Wikipedia)
十二因縁(Wkipedia)
輪廻(Wikipedia)
中観派(Wikipedia)
参考文献
龍樹 (講談社学術文庫)
インド仏教の歴史 (講談社学術文庫)
空の思想史 原始仏教から日本近代へ (講談社学術文庫)
仏教入門 (岩波新書)
インドでは、紀元前一世紀ごろになると、部派仏教に対する反発から大乗仏教がおこり、紀元前後から初期大乗経典が編纂されていきます。その代表的なのものは原始般若経典群です。
それと並行して、空(くう)の思想も発展していきます。部派仏教(説一切初有部など)では、法(ほう:ダルマ:物の構成要素・五蘊や五位七十五法など)はあるという説をとなえていましたが、大乗仏教では、法もないという説が発展しました。
仏教では、「空:くう」の思想を「空観:くうがん」と呼びます。空観とは、あらゆる事物(一切諸法)が空であり、それぞれのものが固定的な実体を持たないという思想です。その思想は原始仏教でも説かれていましたが、大乗仏教の初期の「般若経」ではそれを発展させ、大乗仏教の基本教説としました。
その後、その思想を哲学的・理論的に基礎づけ、確固たるものしたのがナーガルジュナ(龍樹:りゅうじゅ・西暦150~250年ごろ)です。龍樹というのは漢訳ですが、中国の人ではなく、インドの人です。ナーガルジュナの著作と言われているものはいくつか伝えられていますが、伝記的な部分は伝説の域を出ず、詳しいことはわかっていません。
ナーガルジュナの説いた空の思想は、中観派(ちゅうがんは)と呼ばれる学派を形成し、その後の大乗仏教に多大な影響を与えたため、ナーガルジュナは八宗の祖と呼ばれています。(この場合の八宗の祖とは、すべての大乗仏教の祖という意味)
日本に伝わった仏教は大乗仏教です(密教を除く)。大乗仏教とは何かといえば、空の思想ですから、日本の仏教の根底にあるのは空の思想だといってもいいかと思います。
大乗仏教には、中観派の他にもう一つ大きな学派として唯識派(ゆいしきは)があります。時代的にはほぼ同じ時代に発展しましたが、唯識派が少しあとになります。(唯識については後日書きます)
中論
ナーガルジュナの主著として、中論(ちゅうろん)があります。中論は、部派仏教(説一切初有部)のとなえるアビダルマ(法:ダルマは存在するという説)を論破する目的で書かれたものです。ナーガルジュナの主張は、我(が)も法(ほう:ダルマ:物の構成要素・五蘊や五位七十五法)もないという大乗仏教の主張です。
その中論の冒頭の帰敬序(ききょうじょ:仏に対するうやまいの辞)が「中論」全体の要旨であると、中村元先生が書いてみえるので、冒頭部分を龍樹 (講談社学術文庫) の中の中論から引用させていただきます。
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[宇宙においては]何ものも消滅することなく(不滅)、何ものもあらたに生ずることなく(不生)、何ものも終末あることもなく(不断)、何ものも常恒であることなく(不常)、何ものもそれ自身と同一であることなく(不一義)、何ものもそれ自身において分かれた別のものであることはなく(不意義)、何ものも[われらに向かって]来ることもなく(不来)、[われらから]去ることもない(不出)、戯論(けろん:形而上学的論議)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの諸法者のうちで最も勝れた人として敬礼(きょうらい)する。
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不滅・不生・不断・不常・不一義・不異義・不来・不出を八不(はっぷ)といいます。無限にある事柄の中から、特に代表的な八つを取り上げて、それを否定することによって、あらゆるものが空であるということを論証しようとしています。
中論では、この帰敬序に続いて、どうしてあらゆるものが否定されるのかを、言葉の持つ矛盾によって証明していきます。言葉は、どれほど完全を期しても、言葉が表す実体そのものではないため、おのずと限界があることを明らかにしていきます。どのように論証しているのかを、さらに中論から引用させていただきます。
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第二章 運動(去ることと来ること)の考察
一 まず、すでに去ったもの(已去:いこ)は、去らない。また未だ去らないもの(未去)も去らない。さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの>も去らない。
[第一詩の後半、「現在の<さりつつあるもの>が去らないということはいえないはずではないか」という反対者が第二詩を述べる]
二 動きの存するところには去るはたらきがある。そうしてその動きは<現在さりつつあるもの>(去時)に有って<すでに去ったもの>にも<未だ去らないもの>にもないが故に、<現在さるつつあるもの>のうちに去るはたらきがある。
[第二詩に対して、ナーガルジュナは答える]
三 <現在さりつつあるもの>のうちに、どうして<去るはたらき>がありえようか。<現在去りつつあるもの>のうちに二つの<去るはたらき>はありえないのに。
四 <去りつつあるもの>に去るはたらき(去法)が有ると考える人には、去りつつあるものが去るが故に、去るはたらきなくして、しかも<去りつつあるもの>が有るという[誤謬が]不随して来る。
*もしも「去りつつあるものが去る」という主張を成立させるためには、<去りつつあるもの>が<去るはたらき>を有しないものでなければならないが、このようなことはありえない。
五 <去りつつあるもの>に<去るはたらき>が有るならば、二種の去るはたらきが不随して来る。[すなわち」<さりつつあるもの>をあらしめる去るはたらきと、また<去りつつあるもの>における去るはたらきとである。
*すなわち、もしも「去りつつあるものが去る」というならば、主語の「去りつつあるもの」の中に含まれている「去」と、新たに述語として付加される「去」と二つの<去るはたらき>が有るという[誤謬]が付随することとなる。
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なんともわかりづらい文章です。でも、この同じパターンの論証が全編で続きます。あれこれの本を読んで、私が理解した範囲で説明させていただきます。
一 まず、すでに去ったもの(已去:いこ)は、去らない。また未だ去らないもの(未去)も去らない。さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現在去りつつあるもの>も去らない。
例えば新幹線を例に出すと、すでに去ってしまった新幹線は、もうすでに行ってしまったので、これから去ることはありません。そして、まだ去っていない新幹線は、まだ到着していないわけですから、去らないということになります。
では、今去りつつある新幹線はどうか? 今、眼の前を走っていく新幹線というものを考えた場合、私たちは時間という概念を頭の中で想像して、去っていくと考えていますが、瞬間瞬間をとらえるならば、それは去っていったものか、あるいはまだ去っていないもののどちらかとなって、去っていきつつあるという状態はないことになります。
さらに、「今新幹線が去りつつある」と言った場合、頭の中で新幹線をいったん停止させて、それを発車させて、「去りつつある」と考えています。それを厳密に表現するならば、「停車している新幹線が今発車しつつある」という状態のことなので、去りつつある新幹線は存在しないということになります。あえて言葉で無理やり表現すると、「去りつつある新幹線がさらに去りつつある」となってしまい、矛盾する表現となってしまいます。(参考インド仏教の歴史 (講談社学術文庫)p210)
中論からもう一つ例をあげます。阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) p90から引用。
「物は有るのでもなく、無いのでもないから変化する」
そして、このことを次のように論証するのです。
(1)まず、牛乳を有とする。すなわち、牛乳というものが実体として有るとするならば、それはいつまでも牛乳であり続けるから、ヨーグルトに変化することはない。しかし、現実には牛乳はヨーグルトに変化するから、牛乳は有るのではない。
(2)次に牛乳は無いとする。すなわち、牛乳という物が実体として無いとするならば、無いものが変化することはありえない。しかし、現実には牛乳はヨーグルトに変化するから、牛乳は無いのではない。
と、このように論理を展開して、
「牛乳は有るのでもなく、無いのでもないから変化する」
と結論づけるのです。
ナーガルジュナは、言葉の持つ欠陥ゆえに、世界が実在であるかのように見えるのだと説いているようです。このあたりの説明はセイラーボブの話と似ているような気もします。
ナーガルジュナの教えそのものは、非二元の教えと同じであり、すばらしいと思うのですが、なぜそうなのかという説明にはまったく納得できません。私には、詭弁というか、こじつけとしか思えないのです。
ナーガルジュナは、中論の中で、また別の角度から空の説明をしています。私はそちらの説明の方が龍樹を八宗の祖たらしめていると思っています。それは縁起の思想です。
参考サイト
龍樹(Wikipedia)
中観派(Wikipedia)
中論(Wikipedia)
龍樹と空(中観)広済寺ホームページ
参考文献
龍樹 (講談社学術文庫)
インド仏教の歴史 (講談社学術文庫)
空の思想史 原始仏教から日本近代へ (講談社学術文庫)
仏教入門 (岩波新書)
阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)
中野孝次の本を読み始めたきっかけが何だったかは、はっきりしません。佐々木閑さんの本や仏教を学ぶうちに、「世俗的な欲望を追及しない生き方」に興味を持つようになり、世の中には、金や名誉ではなく、まったく別の価値観を生きている人がいて、そういう生き方の方が人間らしいのではないかと思うようになりました。
もともと私にはそういうところがあって、だからこそセイラー・ボブに会いに行ったり、このブログを一生懸命書いていたりします。
佐々木閑さんに言わせると、「世俗的な欲望を追及しない生き方」をしている人たちは言わば出家者のようなものであり、現代の社会にもたくさんいるというのです。例えば学者や芸術家がそうです。たとえ貧乏であっても、研究したい、良い作品を作りたいと励む人たち。
そして、世俗を半ば放棄して生きた昔の人たちのことをもっと知りたいと思うようになり、方丈記や徒然草を読むうちに、中野孝次の本を読むようになりました。
中野孝次 ウイキペディア
1925年生まれ、2004年逝去。55歳まで國學院大學のドイツ語教授。退職ののち作家として活動。ベストセラーに「清貧の思想」がある。
清貧の思想 (文春文庫) 中野孝次
この本はバブル経済崩壊直後の1992年に書かれたものです。バブル当時、人々は株や不動産投資に熱狂し、金だけが人間の尺度であるかのように夢中になっていました。
そしてまた、著者が諸外国を旅して必ず言われることは、日本は車やカメラなどの優れた工業製品を作って海外へ輸出する一方で、外国を訪れる日本人は金の話しかしないというものでした。
そこで著者は、それは日本人の本来の姿ではない。日本人は古来、たとえ貧しくとも、欲望にとらわれず、清らかに暮らしてきた。自分の中に確固たる律があって、人が見ていなくても悪いことをせず、自分のやりたいことを追及して生きてきたということを、外国に行くたびに講演したそうです。その内容がこの本のベースになっています。
本に登場する人
本阿弥光悦・本阿弥妙秀・本阿弥光徳・本阿弥光甫・鴨長明・良寛・池大雅・与謝蕪村・吉田兼好・芭蕉など。
全部紹介できないので、例えば本阿弥光徳・本阿弥光甫の話。
本阿弥一族は室町時代からの刀の目利き、研ぎ、磨きを家業とした家柄。江戸時代に、本阿弥光甫のもとへ人が刀を持参し、「このボロ刀を売りたいが、誰も買ってはくれないので、二両で引き取って欲しい」と訪ねてきます。
それを見た本阿弥光甫は、それが政宗であることを見定めたうえ、磨いて二五〇両の鑑定をつけて返しました。二両で引き取ることは、自身の心に反することであり、決してそのようなことはしないという一族の律があったため、人をだますようなことは決してしなかったというのです。
また、足利尊氏直筆の添え状付きの政宗の脇差の鑑定を徳川家康から頼まれた本阿弥光徳は、将軍の刀であっても、臆することなく、役に立たないものだと言って家康の機嫌をそこねたそうです。たとえ相手が誰であろうと、自分の中にある信念をまげなかったというのです。
その他、この本に出てくる人たちは、金や世俗にとらわれることなく、たとえ貧しくとも誇りをもって自分のやりたいことを貫いて生きた人たちです。
ひるがえって現代の日本人を見ると、金や情報に振り回されています。ネットやテレビがまき散らす薄っぺらな幸せに憧れて、自分の頭で考えもせず、物を所有することが幸せだと思ってあくせくしています。この本を読んで、どう生きるのが幸せであるかをあらためて考えさせられました。
清貧の思想は貧乏を礼賛しているわけではありません。自分のやりたいこと、自分の信じる生き方をするために、所有欲に捕らわれることなく、簡素に生きるということです。
NHKアーカイブ 中野孝次(清貧の思想について語っています。3分の動画)
ほかにも何冊か読んだのでついでに書いておきます。
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本阿弥行状記 中野孝次
本阿弥光悦やその母・妙秀、その他の本阿弥一族のことが書かれています。これはもともとあった古典を小説仕立てにしたもののようです。本阿弥一族が、いかに金ではなく心の中の律を重んじた一族であったかが書かれています。
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日本人にとって一番馴染みがある経典といえば、般若心経ではないでしょうか。
インドで仏滅後400年ごろから次々と起こった大乗仏教の最初は、般若経にもとづく空(くう)の思想でした。空の思想では、部派仏教で説かれた、我も法も否定され、一切は空であると説かれました。
般若経が次々と作られましたが、般若心経は、数ある般若経(約600)をまとめたものだと言われています。しかし、それがいつごろ誰によって作られたのかはわかっていません。この般若心経の本質は大乗仏教の空(くう)の思想であると思うので、まずこの般若心経を取り上げることにしました。
いろんな人が現代語訳を書いていますが、それを転載する訳にはいかないので、いろんな人の訳を参考にして私が訳したものを掲載します。
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仏説摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子色不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故空中無色無受想行識無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法無眼界乃至無意識界無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽無苦集滅道無智亦無得以無所得故菩提薩埵依般若波羅蜜多故心無罣礙無罣礙故無有恐怖遠離一切顛倒夢想究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多故得阿耨多羅三藐三菩提故知般若波羅蜜多是大神呪是大明呪是無上呪是無等等呪能除一切苦真実不虚故説般若波羅蜜多呪即説呪曰羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶
般若心経 (Wikipediaより)
すぐれた知恵の経典
観自在菩薩は深い知恵の行(ぎょう)を実践され、五蘊(ごうん:世界を構成する五つの要素)はすべて空(くう)であるということを理解され、苦しみから解放された。
シャリシよ、形あるもの(物質的要素)はすべて空と同じであり、空が形あるもの(物質的要素)を構成している。形あるものはすべて空であり、空が形あるものである。感覚、思い、認識、意識にも実体はない。
シャリシよ、すべてのものは空であって、生ずることも無くなることもなく、けがれてもおらず、清くもなく、増えも減りもしない。
それゆえに、空には色かたちは何もなく、感覚、思い、意思、認識もなく、眼、耳、舌、体も心もなく、声も香りも感触も心の対象となるものもない。眼の領域から認識の領域まで、何もない。
無明(無知)もなく、無明がなくなることもなく、老いることも死ぬこともなく、老いること死ぬことがなくなることもない。苦も、苦の原因もなく、苦がなくなることも、なくす道もない。悟る知恵も、悟りによって獲得するものもない。
何かを得ようとする思いがないゆえに、菩薩はすぐれた知恵(般若波羅蜜)によって、心に障りがない。心に障りがないため、恐れもない。一切の迷いや妄想がなく、やすらぎに至った。過去現在未来の仏も、すぐれた知恵によって、やすらぎを得たのである。
それゆえ、すぐれた知恵(般若波羅蜜)は力のある言葉であり、大いなるやすらぎの言葉であり、比類なき言葉である。
一切の苦しみを取り除き、真実であり、虚偽ではない。そこで、すぐれた知恵(般若波羅蜜)の言葉を教えよう。
行ける者よ、行ける者よ、彼岸に行ける者よ、皆ともに彼岸に行ける者よ、悟りよ幸あれ。般若心経。
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釈迦はみずからを観自在菩薩に例えて、弟子のシャリシに、すぐれた知恵(般若波羅蜜)を説いています。細かい解釈や言葉使いに異論はあるかと思いますが、おおむねこういう解釈でいいかと思います。もっと詳しい解釈が知りたいという方は関連書籍やサイトを参照してください。
今回は三か所だけを取り上げたいと思います。まずは、「照見五蘊皆空」。五蘊(ごうん)とは、色受想行式(しきじゅそうぎょうしき)という五つのあつまり(蘊:うん)のことで、宇宙に「ある」と思われているものすべてを分析して五つに分類した構成要素のことです。
「色:しき」は自分の肉体と、外界にある物質的なもの(正確には物質的要素すべてのことです。「受想行式」は精神的な面です。「照見」とは見抜くという意味。つまり、「すべての構成要素が、その本性からいうと、実体のないものであると見抜いた」という意味です。
続いて、「色即是空 空即是色」。セイラーボブもミーティングの中でこの言葉を引用したことがあります。"Form is emptiness, emptiness is form."
色即是空、色(しき)はすなわちこれ空である。これはどう意味でしょうか。色(しき)とは物質(物質的要素)のことです。物質とは、椅子や机、山や海、そして体などのことです。椅子や机や私は存在しないという意味です。
そして今度は「空即是色」。物質は空間(空)がなければ現れることができない。
そしてもう一か所。「無智亦無得 以無所得故」(むちやくむとく いむしょとくこ)。この意味は、悟る智慧も、また悟りによって何かしら獲得できるものもないという意味です。中村元先生は、その現代語訳の中で、こう訳してみえます。(前後も含めて引用)
「さとりもなければ、迷いもなく、さとりがなくなることもなければ、迷いがなくなることもない。こうして、ついに、老いも死もなく、老いと死がなくなることもないというにいたるのである。苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制してなくすことも、苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制してなくすことも、苦しみを制する道もない。知ることもなく、得るところもない。」般若心経手帳
また、公方俊良蒼竜寺貫主は、その著書(空海たちの般若心経)の中で、「教えを知ることもなく、悟りを得ることもない」と訳してみえます。
要するに、悟りなんてないと般若心経が言っているのです。
人びとは、悟りが開けると、あとは悩みもなくすっきりとして生きていけると思っているが、そうではなく、悩みは生きていれば繰り返しやってくる。それを生きていくことが悟りなのだと中村元先生は言ってみえました。私もそのとおりだと思います。参考:中村元こころの時代YouTube
般若心経では、初期仏教や部派仏教で説いた無明や五蘊もないのだ、すべては空なのだと言っています。初期仏教の教えを否定して登場したのが大乗仏教です。
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中村元 - 空の思想 : 般若心経・金剛般若経の解説
佐々木閑先生の般若心経現代語訳
仏教のことをブログに書こうと思って、あれこれ本を読んだのですが、その読書感想的なものを記録してきませんでした。
読んだ時は素晴らしいと思ったのですが、今となっては(ブログに書いたこと以外で)、具体的に何をどう素晴らしいと思ったのかよく思い出せない。そこで、これではいかんと思い、今後は分野を問わず、読んだ本の感想をブログに書いていくことにしました。
過去のものについても書こうかと思ったのですが、図書館で借りたものも多く、もう一度読み返すのは大変な作業になってしまうので、やめました。仏教関係の本については、仏教・アドヴァイタ 参考図書を見てください。読んだ当時、おすすめだと感じたものには☆印がしてあります。
仏教について学ぶうちに中村閑先生が本やYouTubeで説かれている、「世俗的な欲望を追及しない生き方」に興味を覚えるようになり、「放浪の天才数学者エルデシュ」や現代語訳 方丈記 (岩波現代文庫)や新版 徒然草 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)を読みました。
セイラーボブの影響が大きいことは言うまでもありませんが、最近の私は世俗的な欲求がほとんどない。これは良いことなのか悪いことなのかよくわからないのですが、お金とか名誉とかに対する執着がなくなってきています。
年齢的なこともあるのですが、健康で衣食住が足りていれば十分だと思うようになりました。あえて欲求と言えば、もっと本が読みたいということぐらいです。
何者かにならなくてはいけないという焦燥感が全くなく、穏やかな日々が続いています。できるなら、こうした日々がこれからも続いて欲しいと思っています。
このブログに、読書感想を書いていこうと思います。
手始めに、「方丈記」と「徒然草」について書いておきます。
すらすら読める方丈記 (講談社文庫) (おすすめ)
これは中野孝次による現代語だけでなく、感想や解説が章ごとについている。天災や飢饉の様と自身が体験した戦争との比較も考えさせられるものがある。また、原文には全部ふりがながふってあるので、原文を読むのにもよい。できれば原文を読んで意味がわかるようになりたいと思うのですが、ちょっと先のことになりそうです。
これは文章そのものが短いのですぐに読めてしまいます。今時はYouTubeの方が便利なので、YouTubeも載せておきます。
朗読『現代語訳 方丈記』鴨長明 佐藤春夫訳
釈尊が無くなってからの仏教は部派仏教(小乗仏教)として続き、釈尊の説法はニカーヤ(阿含経)としてまとめられて、各部派で伝え維持されました。部派仏教では経典の研究や解釈に明け暮れ、個人の解放にのみやっきになっていましたが、紀元前一世紀ごろになると、インド国内では、釈尊時代の仏教とは根本的に異なる世界観を教義に持つ、新しい仏教が発生してきました。
それは一つではなく、様々に異なる動きが次々と発生して起こりました。こうした多様な新しい仏教のことを後になってまとめて大乗仏教と呼びました。そのため、大乗仏教という一つの仏教宗派があるのではなく、釈尊の直接の教え以降に出てきた新しい仏教の総称のことです。
大乗仏教では、誰もがブッダとなりえる本性を生まれながらに持っているとして、広く人々を救済すべきであると主張し、部派仏教の教えを再定義して、「般若経」や「法華経」などが作成されました。
大乗仏教と小乗仏教の最も大きな違いは、小乗仏教では仏陀は釈尊ただ一人であり、一般の人は出家して修行をして悟ることはできても、それは仏陀ではなく、阿羅漢(仏陀よりもワンランク下の悟った人)であったのであったのに対して、大乗仏教では、出家しなくても在家のままで誰もが仏陀になる可能性がある、仏陀は釈尊以外にも大勢いると説いたことです。悟りを目指して修行する人のことを菩薩と言います。
そのため、大乗仏教は一般の人たちの間で人気を集め、急速に普及しました。北伝(中国、日本など)に伝わった仏教は主として大乗仏教です。大乗仏教は、菩薩思想、六波羅蜜(仏になるための六つの修行)といった一応の基本原理を保持しながら、中観(ちゅうがん)、唯識(ゆいしき)、禅、般若思想、浄土思想、法華、華厳、如来思想、密教と多種多様な思想が現れました。
小乗仏教として、釈尊のオリジナルの教えや形式を今でも守っているのは、南伝の国々、スリランカ、タイ、ミヤンマー、ラオス、カンボジアなどの国々に現存する仏教(テーラワーダ)です。
部派仏教(小乗仏教)では、主体としての私(我)の無我を説きました。我は無いけれども、法(物の構成要素・五蘊や五位七十五法)はあるという立場です。ところが、大乗仏教では、法もない、一切は空(くう)であると説くようになります。無我の思想が発展して、空(くう)の思想が現れました。
大乗仏教というくくりで、そのすべてを説明することは無理なのですが、本からの抜粋を紹介させていただきます。
大乗仏教と小乗(部派)仏教の違い(インド仏教の歴史 (講談社学術文庫)p140より)
大乗
・人間は誰でも釈尊と同じ仏となれると考えられている。
・最終的に仏となり、自覚・覚他円満(自分も他者も覚らせる)の自己を実現する。
・一切の人々を隔てなく宗教的救済に導こうと努力し、利他を重視する。
・みずから願って地獄など苦しみの多い世界におもむいて救済行に励む、生死への自由がある。
・釈尊の言葉の深みにある本意を汲み出すなかで、仏教を考えようとした。
・在家仏教の可能性を示唆した。
小乗(部派)
・人間は釈尊にはほど遠く、修行してもとてもおよばないと考えられている。
・最後に阿羅漢となり、身と智とを灰滅して静的な涅槃に入る。
・自己一人の解脱のみに努力し、自利のみしか求めない。
・業に基づく苦の果報から離れようとするのみで、生死からの自由しかない。
・釈尊の言葉をそのまま受け入れ、その表面的な理解に終始する傾向があった(声門といわれる。なお、声門は本来、弟子の意である)。
・明確な出家主義。
さらに、「覚り」と「空」―インド仏教の展開 (講談社現代新書)より引用。
大乗仏教の根底には『空』の思想がある。特に我(主体的存在)の空のみでなく、法(客観的存在)の空をも説いたことが部派佛教とは決定的にことなる点であった。『我空法有』に対する『我法俱空』あるいは『人法二空』の立場こそ、大乗の世界観の核心である。・・主体的存在として構想されている我も、事物を構成する要素的存在として想定されている法も、一切はなんら本体を持つものではなく、空・無自性で、ゆえに仮のもの、幻のようなものでしかない、というのが大乗仏教の根本的立場なのである。・・我のみでなく法も空・無自性であるということは、この我々の世界のどんなものも、実は真に生まれたものでもないし、滅したものでもない、ということになる。すなわち本来生滅も去来もなく、したがって、本来寂静であり、本来涅槃に入っているということである。つまり、我々の生死の世界も、実は本来涅槃の世界そのものだったのである。
逆に言えば我々は、修業して覚りを開いた後、ことさらに涅槃の世界にはいらなければならないのではない。生死の世界が涅槃の世界と別でないなら、自由に生死の世界に入って、しかもそれに染まらないことが可能になる。そこに無住所涅槃(衆生を救うために涅槃にも生死界にもとどまらないこと)という世界がある。この無住所涅槃をみることによって、永遠の利他行も可能とされることとなるのである。・・(我執・法執双方を断つことにより)世界にはなんら実体は存在しないという透徹した智慧が生じる。この智慧が自他平等の本質を如実に解らせ、苦悩に陥っている人々を救おうとする心を発動させていくのである。
もう一度、まとめると、「人無我法有(にんむがほうう)」。人は無であるが、それを構成する法(五蘊など)はあると説くのが小乗。
「人法二空(にんぽうにくう)」。人も法も無いと説くのが大乗です。
小乗仏教は、釈尊の直接の教えとされるニカーヤ(阿含経)に基づいていますが、大乗仏教は、仏滅後400年近くもたって現れた新しい仏教であり、人々によって次々に作られた経典に基づいています。そのため、小乗仏教の人から見れば、大乗仏教の教えは釈尊の教えではないということになりますが、大乗仏教の人から見れば、釈尊の教えの真意は大乗の教えの中にあるということになります。
私からすれば、どちらも、「私は実在ではない」ということを伝えようとしていて、その理由づけが違うだけのような気がします。
空を説く大乗の世界観は、非二元の世界観ととてもよく似ている気がします。
この動画はちょっと簡略化しすぎの感はありますが、参考にはなると思います。これから登場する龍樹、世親(唯識)を理解する上で参考になると思います。
参考文献
セイラー・ボブは元気にミーティングを続けています。でも、膝の手術が必要となり、少しの間ミーティングを休むそうです。留守の間はカットがミーティングを開きます。(日本時間日曜日8時30分から10時までFacebookで中継)
2021.12.19追記:ボブは退院してミーティングを再開しました。
心(しん)と心所(しんじょ)
五位((Wikipedia 五位))とは、世界を分類する五つのカテゴリーで、その中に七十五の構成要素(法)があります。
五位とは、以下の五つ。(カッコ内は構成要素の数:合計75)
・色(しき):物質的なもの。(11)
・心(しん):外界からの刺激によって起こる認識。(1)
・心所(しんじょ):認識に不随して起こる心の反応。(46)
・心不相応行(しんふそうおうぎょう):認識、心所に関係せず、物質でも精神でもないもの。(14)
・無為法(むいほう):因果関係によって生滅する可能性のない法。(3)
ここまでは前回のブログに書きました。心と心所について、もう少し詳しく書きます。五根(眼・耳・鼻・舌・身)が、認識対象である五境(色・声・香・味・触)と触れ合うと、そこに反応が起こって認識が生じる。その認識そのものを心(しん)といいます。
例えば、レモンを見ると、その色(いろ)や形が認識される。それが心(しん)。それに付随して、(すっぱいかも)(食べたい)(新鮮そうだ)というように、心に付随して起こってくる反応を心所(しんじょ)という。
心所は大きく分けて六つのカテゴリーがあり、その中に46の構成要素がある。どんなものがあるかは、Wikipedia 五位 を参照してください。全部は説明できないので一つだけ説明すると、例えば夏の暑い日に冷たいかき氷を食べると、受(じゅ:感受作用)という心所が起きる。
受には三種類(楽・苦・不苦不楽)の三種類があり、この場合は楽という受が起きる。なぜなら、かき氷を食べることは好ましいことだから。もし、かき氷を大嫌いな人が、人から無理やり食べさせられた場合は、苦という受が生じる。
では、心と心所は、私たちの体のどこあるのか。現代人なら脳の中にあると考えるでしょうし、昔の人なら心臓の中と考えるかもしれません。でも、倶舎論では、心と心所は特定の空間には存在しないと考えます。あえて言うなら、体全体に遍満しているということになります。
心所は心(しん)から起こり、心(しん)は五根によっておきます。五根は色(しき:物質)であると書きました。でも、物質ではない、もう一つの根があります。それは意根といって、心のことです。
私たちが、何かを思い出したり、何かを考えたりして、その結果として心所が起きる場合、具体的な根(原因)なしで起きるのは、おかしいということになり、倶舎論では物質ではない根があるはずだと考えました。
でも、その根は物質ではない。その根はどこにあるかというと、一刹那前の心が根として働くのだという理論づけをしました。
「私」とは、肉体を構成する色法と、そこに遍満する心・心所を合わせた全体の仮称であり、私などという実体はもともとどこにも存在しないということが重要です。この世で生きる生命すべてが無我であり、それは諸要素の集合体としてのみ機能しているということ。諸法無我です。
刹那滅
仏教では、あらゆるものの存在を刹那滅(せつなめつ)という考え方でとらえます。刹那とはきわめて短い時間のこと。あらゆるものは、無数の基本的要素が法(ダルマ、縁起)によって因果関係を結び、存在を構成します。ただし、その存在は一瞬間(刹那)だけだというのです。瞬間的に物事は起こり、瞬間的に消滅する。そして次の瞬間に同じ構成要素によって新たな因果関係が結ばれて、また瞬間に起こり、また消滅する。
私たちにとって、持続して存在しているように見えているものは、瞬間、瞬間の存在が連続して積み重なったものであるという考え方を、刹那滅といいます。
私たちは通常、現在だけが実在であり、過去や未来は実在しないと考えています。例えば今、音楽を聴いているとする。音楽は音の連続なので、ある瞬間に音が聞こえる。その音を聞いているのはその刹那だけ。次の瞬間になれば、その音は消滅して別の音が現れるため、前の音はもう存在しない。また、未来の音はまだ現れてはいない。あるのは、この刹那に現れている音だけ。これが一般的な考えかたです。
しかし、倶舎論の刹那滅では、「現在の法が実在しているのと同様に、未来の法も過去の法も実在している」と考えます。その理由は三つ。一つは、煩悩の発生要件。私たちは様々のものを対象として煩悩を起こす。過去のものや未来のものを対象として煩悩を起こすこともある。ということは、過去や未来のものも実在であると考えざるえない。
二つめは、「認識できるものは実在する」というインドで承認されている考え方。「私たちは、実在するものしか認識できない」という理屈。過去や未来のものでも、認識している以上は実在していると考える。
三つめは、業の因果法則。今現在作っている業が、遠い将来、その結果を生むとするなら、その時間的に隔たった未来の法が実在すると考える。現在行っている業が、未来の法に信号を送り、因果則が成立すると考える。
これを説明するのには、映画のフィルム映写機を使うと理解しやすい。映写機は、上下二つのリールとその中間にある投射装置でできている。上のリールには、今から上映されるフィルムが巻かれていて、投射済みのフィルムは下のリールへと巻きとられていく。
フィルムというのは、アニメーション映画かパラパラ漫画を想像してもらえばわかるように、登場人物を一コマ一コマ、少しずつ移動させることで動いているように見える。コマの中の登場人物は静止している。倶舎論では、私たちの世界がそうなっているという。
もし世界が、一コマずつ一刹那に生じては消えていくものだというなら、あらゆる存在物は静止したものであるということになる。ところが、私たちの認識能力は、それが連続したものとしか認識しないため、世界が変化しているような錯覚をする。「私」という存在についても同様に、そこに「私」がいて、時間とともに変化しているように思ってしまう。
ただし、この映写機の例えには一つ問題がある。映写機の未投射のフィルムは順番が決まっているが、私たちが経験する世界では、未来は確定していない。そのため、未投影のフィルムの並びは決まっていない。これが、倶舎論の説く時間論。
五位七十五法では、この世を構成する要素は七十五種類の法(要素)でした。しかし、その法の中に時間は含まれていない。つまり、時間は実在ではなく、実体のない仮設のものということになる。実際には時間などというものはなく、私たちがそう錯覚しているにすぎない。
フィルムの説明で、倶舎論の説く刹那滅はわかったと思うのですが、では、どうして前の一コマと同じような一コマが次に現れるのかという疑問がわいてきます。一コマ一コマ生じては消えているのであれば、どうしてまったく別のシーンが登場しないのでしょうか。
実際問題として、前のコマと全く関係がないコマが次に現れたら、映像はつながらず、無茶苦茶になって、何が何だかわからなくなると思うのですが、それが連続しているかのごとくに、似たような景色が現れるのはどうしてでしょうか。
それは因果(いんが)によってです。倶舎論では「六因(ろくいん)、五果(ごか)」という因果の法則で説明します。六つの因(げんいん)によって、五つの果(結果)をもたらすというものです。その因の一つに同類因(どうるいいん)というものがあります。
同類因とは、法(構成要素)が未来から現在へ、現在から過去へと変移する際に、「未来に存在している法の中から、現在とよく似た法」を引っ張ってこようとする傾向をもっているというものです。
ある法(構成要素)が現在に現れてなんらかの作用を行うと、それはおのずから、あとに自分と似た法を引っ張ってこようとする一種の継続力を生む。したがってもし特別な事情がなければ、その直後には、それと同類の法が現れることになる。
このプロセスが連続すれば、「同じ法がずっと連続して現れ続ける」ように見えるという状態になります。しかし実際には別の因果則の影響を受け、連続性が断たれる場合も多い。
例えば、テーブルの上に一個のリンゴがあったとする。それは色法でできている。細かく言えば、色・香・味・触の各法でできている。もし、他の因が作用しなければ、そのリンゴはずっとそのままということになるが、実際にはそうならない。
一見、何の変化もないように見えるリンゴでも、半年も置いておけば、やがて腐ってしまう。あらゆるものが実際には少しずつ変化していき、年月とともに姿を変えてゆく。花瓶や石でさえ、長い年月の間に姿を変える。
アビダルマの世界にも、永遠に変化しないものはない。諸行無常である。
初期仏教では、こんな複雑な理論を展開することはなかったのに、部派仏教では複雑な理論を発展させました。二千年前に、これほど難しい理論を発展させたというのは驚きです。
この記事は 仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫) を参考、拝借して書いております。興味のある方はぜひご一読を。
釈尊のもともとの教えは対機説法(悩みを持つ個人に対して個別に説いた教え)であり、決まった聖典というものはありませんでした。釈尊の死後、弟子たちによって、釈尊が語った教えが口頭で伝承され、それがのちに、ニカーヤ(阿含経:あごんきょう・アーガマ)という一連の経典となりました。阿含経はそうした断片的な教えの総称のことです。弟子たちは、そうした断片的な教え(ニカーヤ:阿含経)をたよりに修行をしていました。
釈尊の死後100年ほどたつと、教団が分裂を始めます。最初は大きく二つに分裂し、その後さらに20ほどへと分裂して、たくさんの部派が生まれます。それを部派仏教といいます。
部派仏教は、のちに起こった大乗仏教(乗は乗り物、教義を意味する。偉大な教義の意)側から、小乗仏教(劣った教義)と呼ばれました。大乗仏教は北伝といって、中国やチベット、朝鮮半島、日本に伝わりました。小乗仏教はスリランカを経由して東南アジアに伝わり、現在もタイなどで存在します。そこでは今でも釈尊存命時と同じように、出家した僧は結婚することなく、托鉢によって生計を立て、修行に専念しています。彼らは、自分たちの仏教をテーラワーダと呼び、それこそが釈尊以来の正統であると自認していて、日本の仏教(大乗仏教)を、僧侶たちの生活も含めて、堕落したものと見なしているそうです。
釈尊が亡くなって300年から900年後、部派仏教ではさかんに阿含経の解釈研究がなされ、解説書が作られました。そうした営み、文献研究をアビダルマ(法:ダルマについての研究という意味)といいます。そのため部派仏教はまた、アビダルマ仏教とも言われています。
なぜそのような研究、解説書が必要だったかというと、断片的な教えではなく、体系化された一つの解釈書を必要としていたからです。
部派仏教の教えは、大半の原典が残っていないのですが、後世になって部派仏教の教えを解説した解説書がいくつか残っています。部派仏教の中でも特に有力だった部派の一つに説一切有部(せついっさいうぶ)という部派があり、その教えを解説した注釈書の一つが、世親(せしん:ヴァスバンドゥ 400~480年)の倶舎論(くしゃろん:阿毘逹磨倶舎論:あびだるまくしゃろん)です。
僧侶や学者の間では、「唯識三年、俱舎八年」と言われていて、もし仏教の唯識(ゆいしき)の教えを習得しようとするなら、その前に俱舎論を八年間学ばないと習得できないというのが一般論だそうです。それも、漢文やサンスクリッドなどの古代インド語が読めることが前提での話ではないかと思われます。
原典や、それを翻訳したものは、とても私の手におえるものではありません。私でも理解できるものはないかと探して、佐々木閑先生の仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)を見つけました。この本は倶舎論の入門書として、とてもわかりやすい説明がされています。私がこれから書くことは、この本をもとにしています。この本はアビダルマの世界観を知ることができ、とても有益な本なので、興味のある方は、ぜひ一読されることをおすすめします。
般若心経をはじめとする日本の仏教(大乗仏教)では、「すべてが空である」ということが強調されますが、倶舎論ではそうではありません。「この世の多くの存在は虚構だが、その奥には間違いなく実在するものがある」と言います。
このブログの初期仏教の回、五蘊のところで、「私」は実在ではないと書きました。その思想が発展して、物も実在ではないと説くようになりました。ミリンダ王の問いのところで出てきたように、例えば車は実在か? 車輪が車なのか? 荷台が車なのか? そうした様々な部材の集合体を車と呼んでいるだけで、車という存在は実在ではないと説きます。
ほとんどすべての物は、私たちが勝手に名前をつけてそう呼んでいるだけで、実在ではありません。では、そこには何もないかというと、そうではありません。そこには、その物を構成する要素があると説きます。仏教では、その構成要素のことを法(ほう)と言います。また、法には原理、法則という意味もあります。その法によって世界は構成されている。それが倶舎論のおおもとの世界観です。
釈尊は、無我、無常を説きました。私はおらず、不変なる物(常なる物)は存在しないと説きました。では、私たちが、そこにあると思う人や物は一体何なのか、どうしてそう思うのかということを定義する必要があります。そこにあるのは、実在としての私や物ではなく、構成要素、法則、原理(法:ダルマ)であり、その理論的裏付けとして、部派仏教では五位七十五法が生まれました。これは、五蘊とは別の分類法です。(この他にもいくつかの分類法があるのですが、仏教は時代によって、解釈する人たちよって変化して、様々な分類法が生まれました)
五位七十五法
説一切有部の世界観では、我(が)や実在としての物の存在は否定されます。ただし、個々の法(自性を維持するための法則・原理、構成要素)は有るという立場をとります。それゆえに、説一切有部と呼ばれています。説一切有部では、あらゆる存在を五つに大別し、それをさらに七十五に分けて定義しています。これを五位七十五法と言います。
要するに、現象としての世界のすべては、七十五の構成要素(法則・原理)に分けることができるというもの。
そうして分類することで何を言おうとしているかというと、この世界を構成する人も物も実在ではなく、それを構成する構成要素(法則、原理)のみがあるということを言おうとしています。五位七十五法の全体を説明するのは私の手に負えないし、このブログの趣旨でもないので、概略だけ書きます。
五位((Wikipedia 五位))とは、世界を分類する五つのカテゴリーで、その中に七十五の構成要素(法)があります。
五位とは、以下の五つ。(カッコ内は構成要素の数:合計75)
・色(しき):物質的なもの。(11)
・心(しん):外界からの刺激によって起こる認識。(1)
・心所(しんじょ):認識に付随して起こる心の反応。(46)
・心不相応行(しんふそうおうぎょう):認識、心所に関係せず、物質でも精神でもないもの。(14)
・無為法(むいほう):因果関係によって生滅する可能性のない法。(3)
これでは何のことかわからないと思います。Wikipedia 五位 を読んでも、やっぱりわからない。佐々木閑先生の仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)を読んでもらうのが一番いいと思うのですが、それでは先へ進めないので、私なりの勝手な要約で説明させていただきます。
例えば、レモンがテーブルのあったとします。物質であるレモンが色(しき)。レモンを見て、こころ(意識、脳)の中に映像として現れるものが心(しん)。その、こころに現れた映像(心)に不随して起きる(すっぱそう)(かじりたい)という心(こころ)の反応が心所(しんじょ)。
そうした色、心、心所がバラバラにならないように結びつけておく一種のエネルギーを心不相応行の一つの得(とく)という。他にも心不相応行は13あるが、説明は省略。それらは、物質でも心でも心所でもない、一種のエネルギーのようなもの。
無為法(むいほう)とは、物が存在する場所としての空間(虚空:こくう)や、煩悩が消えた状態(択滅:ちゃくめつ)など、因果関係によって生滅する可能性のない法のこと。有違法(ういほう)とは、因果関係によって生滅する可能性のある法のこと。色・心・心所・心不相応行の四つは、因果関係によって生滅する可能性のある法なので、有為法と呼ばれる。
「物は存在するのか?」という、このブログのテーマに関係するのは色(しき)なので、色(しき)について説明します。色(しき)は物質的なもの、と書きました。
例えば、石を見た場合、常識的な考え方として、そこに石があるから石の色や形が見えるのであり、手に持てば石の肌触りや重さを感じるため、そこに石があると考えます。ところが、倶舎論の場合は、その逆です。
実在するのは、色や形、肌触りや重さだけです。それを五感を使って認識し、その色や形、肌触りや重さという要素から、石を意識の中で想定しているにすぎません。実在するのは、その構成要素である色、形、肌触り、重さだけです。その構成要素のことを色(しき)と言います。
色(しき)は11あります。そのうち、無表色(むひょうしき)は、説明が難しいのと、このブログに関連していないので省略。(仏教の思想 2 存在の分析<アビダルマ> (角川文庫ソフィア) p122参照)。残りの10の色(しき)について説明します。
眼・耳・鼻・舌・身(げん・に・び・ぜつ・しん)…この五つを五根(ごこん)と言う。認識する側の物質。
色・声・香・味・触(しき・しょう・こう・み・そく)…この五つを五境(ごきょう)と言う。認識される側の物質。ここに出てくる色(しき)は、色(いろ)と形と言う意味。
五根は、五感をつかさどる感覚器官。その五根によって認識される物が五境です。眼で何かを見た時の、いろや形を色(しき)と言い、耳で聞いた音を声(しょう)、鼻で嗅いだものを香(こう)、舌で味わったものを味(み)、身(しん:体)で触れたものを触(そく)と言う。
なぜ物質を五根と五境に分けているかというと、根は心とつながっているからです。例えば、眼で何かを見ると、その認識は心の中で起きる。眼は物質でありながら、心とつながっている。眼は他の物質とは異なる。石は心とは結びついていない。同様に、耳・鼻・舌・身も心と結びついている。心に結びついている法(根)と結びついていない法(境)で物質を分類しています。
ここで重要なことは、倶舎論では、五境を物質として分類しているということ。例えば、石を手に取った場合、石があるのではなく、手が感じる肌触りと重さという触だけが実在だということ。レモンを見た時、レモンがあるのではなく、眼が認識する黄色とレモンの形だけが実在だということ。色(いろ)や形を物質として分類しています。
石やレモンは心の中で勝手に想像したものであり、実在ではなく、仮想の存在であり、法ではない。実在するのは、石の肌触りやレモンの色形だけと説く。
倶舎論では、色(しき)を認識する物質(根)と、認識される物質(境)を分けて分類している。でも、眼は認識される物質でもあるのではないか、という疑問がわくかもしれませんが、倶舎論では、眼が物を見ているのではなく、眼の奥にある眼根(げんこん)という物質が物を見ていると説きます。
同様に、耳の奥にある耳根(にこん)が聞き、鼻の奥にある鼻根(びこん)が臭いをかいでいます。眼そのものは眼を守るための単なる土台であり、物を見る能力がないと説きます。そのため、眼が見えない時は、眼に何か問題があるのではなく、眼根に問題があるのだといいます。
では、その眼根を見ることができるのかというと、それは眼の奥に細かく点在する物質であり、決して見ることができないと説きます。他の五感の構造も同じです。
まとめるとこうなります。倶舎論では物質世界を、「認識する物質」と「認識される物質」に厳密に分ける。両方を兼ねるものはない。認識する物質とは、肉体に備わる五種の感覚器官、(五根:眼・耳・鼻・舌・身:げん・に・び・ぜつ・しん)。それは「認識されることがない」から、肉体上に備わっていても、私たちがそれを認識することはできない。
「認識される物質」とは何かといえば、その五根以外のすべての物質。石を見る時、石は「認識される物質」ではなく、石の「いろとかたち」が眼によって「認識される物質」。石そのものは仮想のものであり、実在ではない。
では、その「認識する物質」と「認識される物質」は何でできているか。それは、極微(ごくみ)という粒子でできている。粒子は、四大種(しだいしゅ:地・水・火・風)と呼ばれる基本粒子と、所造色(しょぞうしき:眼・耳・鼻・舌・身・色・声・香・味・触)と呼ばれる可変粒子の組み合わせでできている。詳しい説明は省略しますが、要するに、色(しき=物質)はすべて粒子でできていると説いています。
セイラーボブは、「物は実在ではない」と言いました。その理由を列挙すると、だいたい以下のようなものでした。
1 「実在」の定義は、「永遠に変化しないもの」であり、永遠に変化しないものなどない。どんなものでも、時とともに形を変え、やがては消えていく(見えなくなる)。
2 現代の量子力学において、極微の粒子は質量を計測することもできないようなものであり、物が存在するとは言えない。私たちはスカスカの空間を見て物だと思っている。
3 物は言葉によって概念化されたものであり、実在とは言えない。
では、仏教では物の実在についてはどう言っているのかというと、上記の三つと同じようなことを言います。それは、時代によって、様々に変化する仏教の中で、いろんな説かれ方をします。
釈尊の直接の教えである初期仏教では、五蘊(ごうん)が説かれ、それによって、「私」というものは要素の集まりにすぎないと説明されました。それがのちに「私」だけではなく、あらゆる物がそうであると説かれるようになりました。
そして、あらゆる物も要素の集まりであり、物としては存在するけれども、永遠に変化しないものではなく、時とともに変化して消えていくため、実在ではないと説きます。これは諸行無常と言われ、上記の 1 と同じことを言っています。
この時点での仏教では、物は存在するけれども、実在ではないという解釈です。ここまでは、これまでのブログで書きました。やがて仏教は時代とともに変化していき、大乗仏教にいたっては、物は存在しない。一切は空(くう)であるという空の理論へと変化していきます。
その変化した仏教について書く前に、一般論として、私たちがどういうふうに物を認識しているのかについて考えてみます。これは、唯識の本を読むと出てくる話で、これから書く内容は、そういう本をもとにして書いています。
私たちが物を視覚によって認識する場合、どういうしくみで認識するのか考えてみます。
例えば、台所のテーブルの上に一個のレモンがあったとします。それを私たちが見た時、そのレモンに反射した光(電磁波の波長)が、眼の角膜、水晶体を通り、網膜へと届き、網膜上にレモンの像が映ります。
網膜には識別機能がないので、何らかの形で脳へと伝達されて、脳がレモンを識別しているとされています。しかし、レモンの像がそのまま脳に伝達されているわけではないようです。というのも、脳には像を映し出す装置がないからです。脳にはスクリーンもディスプレイもなく、神経、タンパク質、脂肪の塊です。
網膜から脳へは、像が映像として伝達されるのではなく、なんらかの形で信号化されて、神経経由で脳へ伝達され、脳はその信号を読み取って、何らかの形で、レモンという像を再生しているはずです。そして、脳はその像を見て、過去の学習体験と結びつけ、「あ、レモンだ」と思います。場合によっては、酸味が想起され、口の中に唾液が出てくるかもしれません。レモンが好きな人は、手に取ってかじってみようと思うかもしれません。
さてここで問題なのは、そのレモンが本当に存在していると言えるかということです。レモンに反射した光は信号に変えられて脳に届き、脳はその信号をレモンというものに作り替えて映像化します。その映像を脳がレモンだと認識しています。
つまり、私たちは、実際のレモンを見ているのではなく、脳の中で再生されたレモンを見て、過去の記憶に照らしてレモンだと認識しているということになります。仏教的に言うならば、心が作り出した像を心が見ているということになります。
言い方を変えると、私たちは心が作り出した世界を見ていることになり、心がなかったら世界は存在しないことになります。
何をバカなことを言っているんだ、実際にレモンがあるからレモンが見えているんだろ、と言われるかもしれません。
でも、例えばそのレモンをかじろうとして手に取って見たら、それがロウで作られた食品サンプルだったとわかったらどうですか? 「本当のレモンじゃないのか、ちぇ!」となります。つまり、本物のレモンを見てはおらず、脳の中で再生された架空のレモンを見ていたことになります。もし、直接そのレモンとおぼしき物を認識できていたなら、食品サンプルだとわかったはずです。
長野県の燕岳(つばくろだけ)の山小屋から、満天の星空を眺めて感動したことがあります。空を埋め尽くす星々は実在するのでしょうか? 私たちが肉眼で見ている星の光は、何万光年も昔に星から放たれた光を見ているのであって、今この瞬間の光ではありません。ひょっとすると、もう消滅して存在していない星を見ているのかもしれません。
私たちは、自分の外にあるものが実在であるかどうかを認識する機能を持っていません。脳の中で再生された像を見て判断しているにすぎません。言い方を変えると、世界は脳の中にある、脳の中にしかないということになります。
また、バカなことをいうな、と言われそうです。では触覚はどうなんだ。例えば、石は実在か。石を手に取ってみれば、手が石の肌触りを感じ、石の重さを感じるから、石は実在するではないかと言われるかもしれません。
でも、手が感じているのは、石に触れている肌触りと重さという情報にすぎません。それを石たらしめているのは、私たちの脳です。脳が肌触りと重さという信号を石だと認識しているにすぎません。正確な言い方をするなら、「私は私の手の感触、感じた重さを私の脳内の情報に照らしてみて、これは石だと推定しています」ということにすぎません。
私たちは、五感でしか世界を認識することができません。そして、五感で受け取った情報を脳で再構築して、それを認識しています。世界は脳の中にあるにすぎないということになりませんか? 世界は外側にちゃんとある、そう言っておかないと、病院に連れていかれるかもしれないので、世界が実在だということを否定はしません。でも、正確に言うなら、「私たちは世界を直接認識する方法、機能を持ち合わせていない。経験から、そこに世界があると思っている」ということになりませんか?
もし五感を失くしたら、どうやって世界を認識することができますか? そこに世界はあると、どうやって知ることができますか? 五感を使わずに世界を知るためには、体の外に出なくてはなりません。そんなことができる人がいるとは思えません。
確かにそこには何かがある。
でもその何かが単なるエネルギーや波動のようなもので、それを脳が再構築しているとしたらどうでしょう。
イルカやコウモリは人間が聞くことのできない超音波を聞くことができます。ボア科やニシキヘビ科の蛇は、人間が感知することができない赤外線を感知する器官を持っています。鳥や一部の昆虫は、人間には見えない紫外線を見ることができます。逆に、猫や犬は人間と違って、二色しか見えないと言われています。彼らは、私たちとは違う世界を見ています。
物は本当に実在するのでしょうか?
私たちは、それを確かめるすべを持ち合わせていません。
仏教は様々な説き方で、「物は実在ではない」と説いています。
参考文献
阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)
唯識の思想 (講談社学術文庫)
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム
釈尊が説いた悟りとは一体どんなものだったのでしょうか? 実際には、釈尊以外には知りえないことだと思います。でも、仏典から、それがどんなものだったのかを、おぼろげながら知ることは可能だと思います。
中村元先生、佐々木閑先生の本やYouTube、その他何人かの仏教学者の本を読むかぎり、仏教でいうところの悟りとは、エンライトメントや覚醒のようなものではないようです。中村元先生は初期仏教(釈尊の直接の教えであるニカーヤ・阿含経)の専門家であり、佐々木閑先生は律(仏伝と僧侶が守るべきルール)の専門家です。どちらも、釈尊の直接の教えである初期仏教の研究者です。
釈尊が亡くなった後すぐに、釈尊の教えを正しく伝承するために、500人の阿羅漢(悟った弟子)たちが集まって、第一結集(だいいちけつじゅう)という仏典編纂会議(五百犍度:ごひゃくけんど)が開かれました。(参考:佐々木YouTube4-3)
つまり、釈尊が亡くなった時点で、少なくとも500人の弟子が悟りをえていたということです。また、ヤサの出家の時の話では、釈尊の話を聞いただけで61人の人がすぐに悟ったと出てきます。(参考:佐々木YouTube2-24)
もし釈尊の説く悟りが、どこかのインチキマスターたちが説くような、特別な人に偶発的にしか起きないようなものであるなら、これほど多くの人たちが悟るということはありえないと思います。
また、悟った人たちが、たちどころに悩みが消えて、あとは至福に包まれて暮らしたというたぐいの話はどこにも出てきません。
中村先生は、悟りとは到達するものではなく、日々の不断の努力だとおっしゃっています。(前半60分まで参照)
前回に続いて、初期仏教の基本概念について。
無我説(むがせつ)
ここでいう我(が)とは、自己の存在の中心に意識されている「われ」という観念であり、わが生存の主体と考えらるものであり、さらに具体的には、身体の内部に潜む唯一で不滅な魂、霊魂を意味している。無我とは、その我は存在しないという意味です。
「およそ自分の所有とみなされるものは常に滅するから、永久に自己に属しているものはない。またわれわれは何ものかをわれわれであると考えてはいけない」。人間はいろいろな要素から構成されているわけですが、「われわれ人間の具体的存在を構成している精神的または物質的要素ないし機能は、いつでも自己と解することはできない」(中村元の仏教入門)
仏教では、ウパニシャッド(ヴェーダ)でいうような、認識主体としての自己であるアートマン(我)を認めませんでした。そうなると、主観と客観という対立は克服超越される。それが無我説です。私はいないということによって、「私のもの」からの執着を捨てさるのです。無我説は非二元そのものです。
なぜ無我なのかということを初期の仏教では、我(が:自己)には自性(じしょう)がないから、つまり、自己は実在ではないからと説明しています。詳しくは、後述の中村元先生のYouTube(ミリンダ王の問いの解説)を見てください。
五蘊説(ごうんせつ)
五蘊(ごうん)とは、個人の身心を構成する五種の要素のことです。初期仏教では、「私」という存在はどこにも存在しないといういうことを説明するために、「私」と呼ぶものが何でできているのかを分析することによって、そのどこにも「私」は存在しないということを説明します。その「私」を構成する要素のことを、五蘊と呼びます。
「五陰(ごおん)とも。仏教で人間存在を構成する要素をいう。また人間存在を把握する、色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)の五つの方法をいう。色蘊は物質要素としての肉体。受蘊は感情、感覚などの感受作用。想蘊は表象、概念などの作用。行蘊は受・想・識以外の心作用の総称で、特に意志。識蘊は認識判断の作用または認識の主体的な心。また宇宙全体の構成要素ともされ、絶えず生滅変化するものなので、常住不変の実体はないとするのが、仏教の根本教説の一つ。」出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
以下は、中村元の仏教入門 P63から引用
「五蘊説」というのがあります。古くから言われていますが、個人存在を、変移しつつある五種の構成要素の群れに分解してしまう考え方です。「五蘊説」の蘊とは、集まりということです。古い訳では、「五陰(ごおん)」と訳しています。その五つとは何かというと、色・受・想・行・識です。つまり物質性と、感受作用と表象作用と形成作用と識別作用の五つに分解してみたものです。
「色」というのは、感覚的・物質的なもの一般、「受」というのは意識のうちに何らかの印象を受け入れる、ほぼ感覚と感情とを含めた作用。「想」というのは、心の内部に像を構成する、ほぼ知覚や表象を含めた作用。「行」というのは、能動性または潜在的形成力。「識」というのは、対象それぞれを区別して認識する作用。
個人存在はこれらに五蘊から構成されている。この五つはわれわれの存在の特殊は在り方を示している。それをダンマ(dhamma, サンスクリットdharma)と言っているわけです。ダンマというのはいろいろな意味がありますが、人間の生存の特殊な面、特殊な在り方という意味です。
つまり、われわれの存在は、これら五蘊、すなわち五種類の法の領域において保持され、成立している。そこに成立しているすべてのものの集まりを総括して、まとめて、世俗的立場から見て、それをかりに「われ」「自己」と呼んでいる。しかもわれわれの中心主体は、そのいずれの法の領域のうちにも認めることができない、と教えるわけです。
われわれの存在を構成する一部として、たとえば、物質的なもの、物質的側面がありますね。それについては、「これ(色)は無常である。無常であるものは苦である。苦であるものは非我である。われならざるものである。非我なるものはわがものではない。これはわれではない。これはわがアートマンではない」、こういう文句で説いています。
さらに五蘊の他の四つ、つまり受、想、行、識のそれぞれについても同じ文句が繰り返されているのです。世の人々は、この色、受、想、行、識のうちのどれか一つをアートマン、自己であると解するかもしれないけれど、いかなる原理あるいは機能も実は本当の自己ではない。また自己に属するものでもはない、このように考えていたのです。
五蘊の説明は佐々木閑先生がわかりやすいです。仏教では、魂、自己の存在を否定しています。自己は五蘊という構成要素でできているが、そのどこにも自己は存在しないということを、五蘊を調べることによって証明しています。