2015/02/01

2014年11月 拓訪問時の写真


ボブとカリヤニ宅で


ボブ、カリヤニ夫妻




この写真はカリヤニからのプレゼント


大勢の人がミーティングに来た


迫力のあるボブ


アメリカからの来客と近くのレストランで


ボブの家の玄関

2016年1月 再訪時の写真


カリヤニと

2015/01/30

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑲最終回

セイラーボブ・ミーティング・2015を①から読む方はこちら

結びに代えて


長い間、ボブに関するレポートを読んでいただきありがとうございました。

私は、中村元さんの仏教関係の本とかも何冊か読んだことがありますが、仏教で言っていることすらよく理解していなかった。
今回、ボブを学ぶ中で、般若心経のあの部分が何を言っているのかわかったので書いておきます。

般若心経では、色即是空・空即是色と言っています。私の家は禅宗なので、葬儀や法事の時など、この文句を何百回と聞いて育ちました。

これをボブが引用した英語で言うと、"Form is emptiness, emptiness is form."(ボブが引用したのは後半の部分)。

直訳すると、「形は空、空は形」。

色即是空・空即是色をネットで解説しているサイトなどで調べると、色(しき)というのはすなわち(いろ)のことで、万物を指しています。
やさしい言葉になおすと、「万物はすなわち、これ空である。空はすなわち、これ万物である」。

驚きました。仏教で言っていることはそういうことだったんですね。日本人の私がボブを経由して「空」の本当の意味を知りました。
ボブの話は「禅」からの引用も多く、禅に対する理解も深まりました。

私は、"Out on a limb"という言葉が好きです。
これはシャリー・マクレーンの本の題名にもなっている言葉ですが、直訳すると、「枝の先」という意味で、もともとは聖書からの言葉だそうです。

その意味は、果実を手に入れるには危険をかえりみず、枝の先まで登って行って、手を延ばさないと手に入らないという意味だそうです。
枝は折れて、地面に叩きつけられるかもしれない。でもそうしないと果実は手に入らない。

私は教えを学びたいと思った時は、いつも枝の先まで行って手を延ばすようにしてきました。そのため、はたから見ればそれほど平安な人生ではなかったかもしれません。

でも今回、手の中に一つの果実が残りました。
この果実が、この先、花を咲かせるのか、枯れてしまうのかはわかりませんが、今はそれがとてもすばらしい果実に思えてなりません。
                                           
                                          近所のレストランでアメリカからの来客と談笑するボブ。
今回のメルボルン滞在は、2014年11月から2015年4月まで、途中ニュージーランドへのビザ更新旅行を入れての5か月でした。
ボブのミーティングには60回以上参加。日曜日のミーティングのあとにボブと一緒にランチを食べた回数は20回以上です。本当に幸せな5か月でした。

2015/01/25

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑱

長々とセイラー・ボブ・アダムソンのことについて書いてきましたが、一番良いのはボブ本人の話を直接聞くことです。
そこで最後に、ボブ本人の話を翻訳掲載します。

私が読んだ書籍の中では、カリヤニ・ローリー、ピーター・ローリーが編纂した書籍「A Sprinkling Of Jewels」のP7からP15までが、いつも行われるボブの講和の冒頭部分をもっともうまく再現収録してあるので、カリヤニ、ボブ両名の了解のうえ、ここに翻訳掲載します。

出典は以下の本のP7からP15までの、The Spielの部分。

A Sprinkling Of Jewels」Kalyani Lawry & Peter Lawry編纂

この本はボブの講和の冒頭の部分(私が翻訳する部分)に続き、厳選された短いボブの言葉とともに、ボブ本人と彼の自宅とその周辺を撮ったコンパクトな写真集になっています。非常に美しい写真集で、中の英語もわかりやすく、英語がそれほど得意ではないという方にもお薦めの一冊です。
上のサイトで購入すると、36ドル(本と送料込代金)でカリヤニがオーストラリアから送るそうです。

ボブは自分の話を、冗談まじりに、The Spiel(長い演説・口上)と言って話を始めます。

***
The Spiel

ここでは、あなたに何も教えはしないし、何かを伝えるわけでもありません。
あなたにポイントを指し示し、あなたが自分でそれを調べるようにと求めているにすぎません。

たとえあなたが何を信じていようが、何を言われていようが、誰かがあなたに何かを与えることもなければ、あなたが受け取ることもありません。
それは、あなたがもうすでにそれなのだという何かであり、あなたはそのことに気がつきさえすればいいだけのことです。

そのことは、あなたがもう知っていることなのですが、もう一度再認識する必要があります。なぜならそれは容易に見失われるものだからです。
このことは、信仰や宗教とは関係がなく、概念や知識とも違います。そしてまた目新しいことでもありません。

詳しく調べれば、このことはすべての偉大な伝統に含まれていて、その基礎となっているとわかるでしょう。それは明快かつ直接に、あなたの自然な状態を指し示すものです。

あなたは、もうすでに、あなたが探し求めているものなのです。探し求めることこそが問題です。なぜなら、探し求めるということは、将来に見つける何かがあるということを意味しているからです。

例えばヒンズー教では、彼らはそれをアドヴァイタと呼んでいますが、それは非二元性と翻訳される。非二元性を説明するために彼らは「他には何もない一つのもの」という表現を使います。それは、一つという概念でさえ、他にもう一つのものがあることを暗示しかねないからです。
「それ」以外のものがあるという考えを打ち消すために、彼らは「他には何もない一つのもの」と言います。

仏教の伝統の中にも同じことがあります。ゾクチェンはその究極の教えですが、その中で、それは非概念的で、常に新鮮、遍在する意識そのもので、それ以外のものではないものと言われています。繰り返しになりますが、「それ」はそこにあるすべてを指しています。

多くの伝承や聖典は、いわゆる真理や実存について伝えていますが、それは遍在、全能、全知のものであるといいます。それは三つのもののことを言っているのではなく、一つのものの三つの側面、完全な遍在性、完全な力、完全な知性のことです。

この完全性の他に何があると言うのでしょうか。そしてその完全性の中で、何を、そして誰が探しているというのでしょうか。

あなたは、私たちがそれぞれ分離した存在、個人だという誤った信念を抱いていて、その誤った信念のせいで、自分が完全ではないと感じているのに気づくでしょう。
その分離の感覚が起こると、不安定で傷つきやすくなり、そこから探し求めることが始まります。

それは、物事の道理がわかり始める二歳ごろから始まります。以降、人は安全を探し求め、そのことが問題となります。
分離した存在という二元的な考えから始めて、非二元性を手に入れようと試みますが、それは不可能です。なぜならもともと分離などないからです。

多くの文献や聖典では、このことを顕現と呼んでいますが、それは見せかけのことを言っているにすぎず、それはそのように現れるしかないのです。
もし詳しく調べるなら、それがバイブレーションとなって現象として現れなければ、どんな顕現も現れえないということがわかるでしょう。

夜無くして昼があるでしょうか、ざわめき無くして静寂があるでしょうか、静止無くして動きがあるでしょうか、夏無くして冬があるでしょうか、引き潮無くして上げ潮があるでしょうか。

すべての顕現は形作られ二元的に現れます。しかしそれは束の間のものです。それは常に変化し続け、定義づけできず、実在とは言えません。
実在の定義は決して変化しないものですが、顕現は常に変化しています。それはそのように見えているにすぎません。

私たちはそれが現実で確固とした実体あるものだと信じ込んでいます。それも詳しく調べれば、本当のことではないとわかるでしょう。
あなたはあれやこれやを信じているかもしれませんが、絶対的に確かだと言えることは何でしょうか?
あなたは、自分が実在すると信じているのか、それとも自分が実在することを知っているのですか?

信じているということと、知っているということでは微妙な違いがあります。あなたは知っていることを否定することはできません。「私はいない」と言える人は誰もいません。
そのことについて、あなたが何を信じていようと、実際にはあなたは自分がいるということを知っています。

しかしながら、自分が何なのかということを、あなたは知りません。あなたはある種の概念を身につけ、自分が知っているということと結びつけています。
そのことが現実を、あなたが一度も分離したことなどないという現実を直視するのをさまたげています。

あなたが探し求めているものについて言うと、あなたはもうすでにそれなのです。このことを調べたことのない人たちには酷なことです。というのも、あなたは探し回って、自分の周りにあるあらゆる分離を見るでしょうから。

そして言うでしょう。「えっ、どうして分離など無いと?」
そして私が言います。「じゃあ、あなたはその体なのか?心なのか?」

そしてもし一度も調べたことがなければ、「そうです」とあなたは言うでしょう。しかし本当でしょうか。
指し示すところをちょっと調べてみて、体の中に中心が見つかるかどうか見てください。

体のどこかに、ここからあなたが始まったという場所や、あなたがそこにいて、これが私だという場所があるでしょうか?
たいていの人は、頭か胸かもしくはその他の場所から始まったと言うでしょう。しかし本当でしょうか?

もし体を調べてみれば、ここから自分が始まった、もしくは、ここが私自身だと言える場所はどこにもないということに気付くでしょう。

体を調べてみれば、それが基本的な構成要素でできているのがわかるでしょう。空気、土、火、水、空間。あなたを取り巻く構成要素と同じように。
もし自分が分離していると思うなら、自分自身を空気と分離してみてください。水をあなたの体から取り除き、どれほど生きられるか見てください。

地面から離れ、空間の外へ出てみてください。体の熱、体温、火を取り除いてみてください。あなたは、それらの構成要素から、自分自身を分離できないことを知るでしょう。

そしてそれらの構成要素は原子よりもさらに小さな粒子、純粋なエネルギーへと分解することができます。
それゆえ、体は知性エネルギーの一様式そのものにすぎません。

私は神という言葉を使いません。それは混乱をもたらすからです。私たちは皆異なるバックグラウンドを持っています。
無神論者もいれば、不可知論者もいる。キリスト教徒、ユダヤ教徒、仏教徒、モスリム、ヒンズー教徒などなど。

神について話せば、あなたは自分の伝統的な信仰と私の話を結び付けて混乱してしまうでしょう。
私は知性エネルギーという言葉を使いますが、私が知性という時、それはあなたの知性のことを言っているのではありません。

自然を見てそれが、様式化され、形作られ、具現化されるのを見なさいと言っているのです。
銀河が形成され、地球や惑星が動き回り、季節が来ては去っていき、潮が満ちては引いていく。

それが意味するのは、自然界全体はもともと知性に満ち溢れているということ、そしてあなたもエネルギーの一様式にほかならないということです。
その知性があなたに呼吸をさせ、髪の毛や爪を成長させ、体の細胞を入れ替え、食べ物を消化させています。それはまったく自然に努力なく起こっていることです。

ではあなたは心(マインド)と呼ばれる物でしょうか?調べてみて、心という物を見つけられるでしょうか? あなたは正確にどこかの位置を示して、これが心だと言うことはできません。
私たちが心と呼ぶものを通して「私はいる」と翻訳される存在の感覚、振動するパターンのエネルギーがあります。

しかし、もしあなたが心なら、あなたは思考なのですか? 心はすべて思考です。そして思考は繊細なバイブレーション、エネルギーの動きです。

「私はいる」という思考がやってくる時、それは私たちが思考と呼ぶものを通して、あなたがいるという繊細な存在の感覚がバイブレーションとなって表れています。

繊細なバイブレーションとしての思考が振動しパターンとなってやってくるのはむしろ自動的です。過去に関しては記憶として、未来に関しては、期待や想像となって現れます。
それは常に反対に向かって振動します。 善と悪、快感と不快、幸福と不幸、愛と憎しみ、肯定と否定。自分の心を見つめ、それ以外のやり方で心が機能するかを見てください。

その原初の思考が「私はある」という思考です。さてあなたはその思考なのですか?「私はいる」という思考はあなたと一緒に一日中いる訳ではないことを理解してください。もしあなたがその思考なら、それを見失ったりしないでしょう。

一日中、たくさんの別の思考がやって来ます。あなたが眠っている時や、麻酔にかけられて無意識の時には「私はいる」という思考はありません。「私はいる」という思考が無い時、あなたは消滅したりバラバラになったりするでしょうか?それとも、知性エネルギー、生そのものが機能し続けているでしょうか?だとすると、どうしてあなたが思考でありえるでしょうか。

思考は言葉でできていますが、言葉はあなたの生得のものではありません。あなたが使ってきた言葉やこの先使いそうな言葉でさえ、すべては学んだものです。

赤ん坊は生まれてきた時、どれだけの言葉を知っているでしょうか。あなたは一体いつから始まったのか。誕生の時からとあなたは言うでしょう。しかし、誰が自分の誕生の瞬間を覚えていますか。
あなたは自分の誕生の瞬間を覚えていないこと、自分では二歳かそこらぐらいという一定の時期までしか遡れないこと、それ以前のことは覚えていないことに気づくでしょう

自分の始まりが出生だと思うのなら、どの時点でそれは始まったのですか。内在する知性が様式化し、形作られ、具現化する。その一つのパターンをあなたは父と呼びます。知性がそのパターンの中にあふれ、精子を作り出すことを可能にします。

その同じエネルギーが母親の中で様式化し、形作られ、具現化され、卵子を作り出します。卵子には知性エネルギーが宿っています。というのも、卵子は自分で子宮内膜に着床するからです。
精子の中にも知性エネルギーが宿っています。なぜなら精子は卵子に泳ぎ着くからです。このことは、精子もまた知性エネルギーに満ち溢れていることを意味します。

そして精子は子宮に入るためにはどうすればいいのかを知っています。卵子と精子は一つになり、その知性エネルギーが細胞を分裂させ、さらに細胞分裂を繰り返し、小さな胎芽、つまりは小さな胎児を形作ります。

あなたが分離した存在だと思うのなら、あなたの胎児の時はどうだったでしょうか。「今日は腕を成長させなくちゃ、肝臓か、たぶん脳かなんかを少し」と言ったのでしょうか。
それとも、それは何の努力もなく自然に起こったのでしょうか。

その段階では分離した個人という考えがないことに気づくでしょう。あなたが生まれ出た瞬間に、「さあ、最初の呼吸をしなくては」とは言いませんでした。
あなたは、生まれつき、どうすればよいのか知っていました。あなたは乳首にしゃぶりつくことを学んだわけではなく、生まれつき、どうすればいいのかを知っていました。

内在する知性は、あなたがあなたと呼ぶパターンを通して働きかけ、あなたを成長させました。そこには、何かをやったあなたという存在がいたわけではなく、内在する知性、生そのものが機能し、すべてを表現しています。顕現はあたかも本物のように見えますが、そこには何もなく、エッセンス(実在)があるにすぎません。

仏陀は空即是色と言いました。仏陀はそれを空と呼び、それでも真空や何もない空間ではないと言います。仏陀はそれを認識する空、知性または知ることそのもので満ちた空、認識そのものと呼びました。

仏陀はまた逆に、色即是空とも言っていますが、その意味は、様式化され形作られ具現化されるすべての物もまた本質は純粋な内在する知性エネルギーだということです。

私たちは見せかけを現実として受け取っているために、実在の本当の姿が見えなくなっています。多くの聖典の中でそれは無知と呼ばれています。それは頭が悪いとか愚かだと言っているのではありません。それは単に本当の姿を無視して、見せかけの姿を見ていると言っているにすぎません。

スピリチュアルな探究を10年、20年、30年と続ける人もいます。彼らは瞑想し、あらゆることを試みますが、自分が間違った場所を探していることに気付かないようです。
あらゆる瞑想、あらゆる探究、何かを達成しようとするあらゆる試みは、必ず失敗に終わります。なぜなら、あなたは、自分がもうそれである何かを達成しようとしているからです。

言っておきますが、あなたはマインドの中には決して答えを見つけられません。なぜならマインドは二元的で、常に変動しているからです。
二元的に揺れ動くマインドは、いつも反対の方向に動くということがわかれば、あなたはどうするでしょうか?

知性はあなたが間違った場所を探していると知らせるでしょう。どこへ行こうがそれがマインドの中だということに気づいてください。マインドから出る方法は一つしかありません。それはフルストップ。マインドにかかわらないこと。

自身にこう問いかけてみてください。「もし今そのことを考えなかったら、何の問題があると言うのか?」

ちょっと思考を止めて、何を話すことができるか、思考無しで何ができるか試してみてください。
その間、自分は消えたりバラバラになったりはしないし、呼吸が止まったり、心臓が止まったりもしないのがわかるでしょう。

機能は引き続き働き続けています。そこでは概念化は止まっています。仏教徒はそれを一つのセンテンスで表します。彼らは、大いなる完成は概念化されない意識だと言います。

思考は一瞬停止したあとに、また別の思考がやってきますが、それにもかかわらず、あなたは一瞥を得ます。

思考が停止したとき、あなたはばらばらになったり、消滅したりはしません。実在としてのあなたは思考以前に存在します。そこには、生そのもの、生のエッセンスがあり、思考が停止している間もそこにあります。そしてそれは次の思考がやってきた時も依然としてそこにあります。

次の思考がそこへやって来て、変化し続けます。しかし思考はその気づきを崩壊させたり、汚したりは決してしないでしょう?

外の自然を見てごらんなさい。自然は、その反対の極へと揺れ動きます。しかし、自然には参照点がない。昼は夜と張り合うことはありません、静寂はざわめきと戦いません、動きは静止と格闘しません。上げ潮は下げ潮とは争いません。

しかし私たちはいつも争っていて、それが恐れ、心配、ストレス、罪悪感、恥辱、後悔、意気消沈などをもたらします。すべての心理的苦悩は関係性が原因ですが、それは私たちが自分だと思い込んでいる参照点に関係しています。

「私」だけが恐れを抱き、「私」だけが心配します。「私」だけが不幸や意気消沈、すなわち自己憐憫を抱く。つまり、「私」がすべての心理的苦悩の原因なのです。その「私」というのは、自分自身に対して自分で抱いてきたイメージであり、そうあるべく努めてきたものです。

心配、恐れや意気消沈はそれが原因です。それがいわゆるカルマと言うもの、因果(原因と結果)です。もし、私が言うその「私」が、実体、つまりはなんら独立したものではなく、全くのフィクションだとわかったら、原因なくして結果がありえるでしょうか。

もしそれが、どこにも結びつく場所がないとしたら、結果はありえないとわかるでしょう。それはただそのままあるだけです。
すべての自分の問題の原因が、自分は分離した一個の存在であると信じていることにあることを、あなたははっきりと認識することができます。

さて私たちは、ここに分離した一個の存在がいるかどうかを調べてみる必要があります。私はくだらない考えの話をしているわけではありません。というのも、そういう心理的な概念や、心理的なたわごとは、ここではもう昔に置き去りにされているからです。

かつて私はそういうことで手いっぱいでしたが、ずいぶん前にそれはなくなり、私が言っていることを理解する人たちが現れました。
玉ねぎの皮むきのように、この感覚やあの感情というふうに働きかける必要はないし、今日はこの情動で明日はまた次などと働きかける必要もありません。

それがしがみつく物が何もないとか、関連付けるものが何もないなどと確かめる必要もない。それはひとりでに自然に消えていきます。

そしてそれは、この自己の中心がフィクションであるということを調べることによってできます。

今みなさんにお尋ねしますが、今みなさんは見ていますか?
そう、みなさんは今この瞬間見ていて、改めて見ることを始める必要はないとわかっています。

今朝起きたときに、あなたは見ることをわざわざ始める必要はありませんでした。見ることは即座に起こり、聞くことも同様でした。

あなたが目覚めた時、聞くことを始める必要はありませんでした。
聞くことは起こっていて、そのままずっと一日中続いています。

もしあなたが眠っている間に誰かが呼びかけたとしても、あなたは依然として聞いています。聞くことをわざわざ始めたわけではないのに一日中ずっと続いています。
それはあたかもあなたの呼吸、心臓の鼓動やその他の生理機能のようなものです。

見ることはあなたの目を通じて起きますが、目はあなたに、「私が見る」とは言いません。それは、それを通して見ることができる器官に過ぎません。
それから、あなたは思考を使って、「私は見る」という思考に変換します。

思考が「私は見る」と変換すると、あなたはその存在が「私」が見る能力を持っていると信じてしまいます。
物事を良いとか悪いとか判断することも、すべてこの架空の存在と関係しています。

そのように、見ることは目を通じて起こり、思考によって、「私は見る」と変換されます。
聞くことは単に耳を通じて起こり、「私は聞く」という思考に変換されます。

しかし、「私は見る」という思考が実際に見ることができますか? 思考が聞くことができますか?

あなたが意識しているという思考が意識なのですか? あなたに思考がやって来る以前にあなたの意識はあります。
あなたが選ぶという思考が実際に選ぶのですか?

私たちが非常に重要だと考えている、この思考でできた存在には、見たり、聞いたり、考えたりする能力はありません。
考えることは自然に起こり、思考によって変換されます。その思考でできた存在はそれらのどれをする能力も持っておらず、実体や独立した性質を持つものではありません。

すべては一つのエッセンス、一つのエネルギー、それと同一の認識する空が、すべての顕現を様式化し、形作り、具現化する。そこには驚くべき知性が宿っていて、あらゆる姿や形となって、常に現れています。

ニサルガダッタは言いました。「自分ではない物のふりをするな、また、本当の自分を拒絶するな」
私たちは、本当はあの純粋なる知性エネルギーだということを認識しないで、見せかけを本当だと信じて、分離した存在として振る舞っています。

エネルギーのパターンが具現化し、パターンがあちこちに現れ、パターンが消えて行くが、本質は変わらないままです。その本質は崇高で遍在、それがあなたです。

さて今ここで話したことをちょっと調べてみましょう。そしてこれは限られた人だけのものではなく、自分自身で本気で調べてみようという人たちのものです。

誰もあなたにこれを与えてはくれない。あなたは自分でこれを調べなければなりません。さあ今、このまま続けて、始めてください。 

Sailor Bob Adamson 

A Sprinkling Of Jewels」Kalyani Lawry & Peter Laery編纂から翻訳転載:著作権者了解済み)

2015/01/24

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑰

今日は、今まで長々と書いてきたセイラー・ボブ・アダムソンの教えを私なりにまとめてみます。
これは私が勝手にまとめることであって、ボブは、これが彼の教えだなんて全く公認していません。

そもそもボブの教えの全体を、短いブログで紹介しようというのは無理です。もともとこのブログは旅ブログなんですから。
しかも、大胆にも今日はその教えを箇条書きにしようと思います。

①自分が自分だと思っている存在は実在しない。

②私たちが目にしている万物は実体のないものである。

③私も含めて、万物はそれ(知性エネルギー、純粋な意識、他には何もない一つのもの)の中に現れている。

④時間は人間の思考の中にだけしか存在しない。

⑤死は存在しない。人は生まれることも死ぬこともない。

⑥私たちは意識(アウエアネス)そのものであり、覚醒する人はどこにもいない。

⑦今この瞬間、すべては完全な状態にあり、マインド(思考)にとらわれなければ、何の問題もない。

⑧五感にまんべんなく注意を向け、今この瞬間を生き、起こるに身を任せる。

***

もし、私たちが、ボブの言うように、自分という存在は実在せず、自己と他者は一つのものであるということが、本当に心から理解できたら、どうなるでしょうか。

関係性にまつわるすべての問題はすべて消え去ります。あなたが私を傷つけた。私が彼を裏切った。私より彼の方が金持ちだ。私はあの人より不幸だ。そういった問題はすべてなくなります。

自己と他者が一つであり、人間も動物も物も実は一つのものだと理解すれば、万物に対して、途方もない慈愛が生まれるのではないでしょうか。

死は存在しないと理解すれば死の恐怖は消えます。たとえ恐怖が消えたとしても、病は人の常、癌にかかって死ぬことだってある。でも、自分が肉体でも思考でもなく、死は単にエネルギーの変化にすぎないと理解していれば、死に対する恐怖が和らぐかもしれません。

すべての問題は、実在ではない私が勝手にしがみついている架空の基準点によるものだと理解すれば、物事に対する見方も変わっていくのではないでしょうか。

私たちは、過去を悔やむ必要もなければ、未来に向けて不要な心配をする必要もなく、ただこの瞬間を起こるがままに任せて生きていけばいいだけです。

私は、この旅に出る時、なぜ自分が世界一周を始めるのかよくわかりませんでした。得体の知れない不安を感じながら、それほど世界が見たいわけでもないという気もしていました。

この旅も私が選択しているように見えても、実は「知性エネルギー」が私を通じて表現しているにすぎず、私はただ生かされているにすぎません。

もし旅に出ていなかったら、もしまだ会社勤めをしていたら、きっとメルボルンに来ることはなかったでしょう。もし仮に来たとしても、短い休暇の旅では、ボブの教えの全体を理解することはなかったと思います。

ある時ギルバートが言いました。ボブの教えをちゃんと理解しているかどうかの基準は、困難や問題が起こった時、その基準点に捕らわれているかどうかでわかると。

私はボブの教えを学びましたが、自分が以前とそれほど変わったとは思っていません。ボブの教えが本物かどうかも、今の時点でははっきりわかりません。

それは私が、この先どう生きるかでわかると思います。
五年後、十年後に、基準点をものともせず、死をも恐れぬようになっているかどうかで、ボブの教えが本物かどうか、ボブの教えを正しく理解しているかどうかがわかると思います。

長い間、私の説明に付き合っていただきありがとうございました。

明日からはいよいよ本人登場で、ボブ自身の講和の翻訳を掲載します。


2015/01/23

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑯


五感を開いて、意識をまんべんなく五感に向けて、この瞬間を生きる。

私たちは、今まで受けた条件付けのせいで、様々なラベル(概念)を貼りつけて物を見ています。

あれが、拓ちゃん、あれがボブ、ギルバート、トビー、ラーム。人の名前もラベル(概念)にすぎません。
椅子、カーペット、時計、すべてにラベル(概念)が貼りついています。

マインド、宇宙、万物、こうした言葉もラベル(概念)です。言葉にした瞬間にラベル(概念)が貼りついて、一つのものではなくなり、概念になってしまいます。

すべては、one essence(ボブの語彙の中から別の表現にしてみましたが、知性エネルギーのことです。アウエアネスも同じ意味です。)が、具現化して、現象(見せかけ)の世界に現れでたもの。

それに私たちが勝手に名前(ラベル・概念)を貼りつけてそう呼んでいるだけです。あなたの見ている世界は記憶というラベル(概念)で成り立っている。
ボブは、そのラベルをすべて取りなさいと言います。

ラベル(概念)を外せば、万物はみな同じ一つのもので、そこには境界はない。
そこには過去も未来もない。その瞬間だけがある。

私たちは、夜夢を見ますが、朝になると、それはどこかへ消えていく。
それと同じように、昼間も夢を見ているにすぎない。ただ違うのは、誰かが、これは夢なんだと叫んでも、誰も覚めることはないということ。私たちは死なない限りこの夢からは出られません。すべては実体のない幻、マヤ。

私たちが見ている現実は、鏡の中に写っている風景と同じ。あたかもそこには何かがあるように見えるが、実際にはない。そして私たちは鏡。

鏡の中では、良いことも悪いことも起きる。
しかし、それを写している鏡(私たちの意識)は、鏡の中に何が写ろうが、影響されない。

鏡は私たちの意識。鏡に映るものは概念(思考)。

ある時誰かが、「ポジティブに考えた方がいいので、そうするようにしている」と言ったらボブは言った。

「鏡の中がポジティブだろうがネガティブだろうが、鏡は影響されません。シェイクスピアは言っています。良いとか悪いとかは、人間が勝手に決めていることで、本当は良いも悪いもないと。マインド(思考)そのものが善悪の間を二元的に動きます。しかし、マインド、思考には何の実態もありません」

私たちは、人生で起こる出来事を、(あれは良かった、これはひどかった)と勝手にラベルを貼り、(こんな良い事が起こってほしい、あんなひどいことは起こってほしくない)と考えます。でも、それはすべて自分で勝手に良いとか悪いというラベルを貼っているだけで、良いも悪いもないのです。

すべては鏡の中に写る出来事にすぎません。言い方を変えると、すべては意識の上を通り過ぎる思考に過ぎません。問題は、その鏡に映る一部分は良くて、一部分は良くないと勝手に判断することです。

思考がどこからくるかを突き止めようとしたり、それを良い思考、悪い思考と選別したりするのは意味のないこと。またそれを止めようなどとしないこと。そこから抜け出す方法は、ただ一つ。Full Stop!(ピリオド)
この瞬間にとどまりなさいと言う。

すべてのラベルを剥がした時に何が起こるか。そこにはあなたを縛り付ける基準点も、過去も未来もなく、あるのは今この一瞬だけがあり、そこには何の問題もない。

ボブは、進行形の(-ing)の中に留まりなさいと言います。「私が~をする」と言った瞬間に、「私」が現れて、行動と私の間に分離が起きます。
五感(seeing, hearing, tasting, touching, smelling)は、私の思考以前に存在します。

試しにちょっと思考を止めてみてください。(タク、タク、タク、タク、Full Stop!)
そうすると、次の思考がやってくるほんのわずかの間、seeing, hearing, tasting, touching, smelling は一人でに自然に機能しています。

思考より以前にあるその瞬間、純粋なる意識、それは普通の日常にある私たちの意識。それがボブのいう知性エネルギー。

ボブは、seeing, hearing, tasting, touching, smelling は、awareness(アウエアネス、意識、知性エネルギー)そのものだと言います。私の目が物を見ていると思っているのは間違いで、awareness(意識)の中に現象として物が現れている。目は単に器官として働いているにすぎず、awareness(意識)が無かったら何も見えない、という言い方をします。

見る人(主体)もおらず、見られる物(客体)も実在せず、seeing(アウエアネス、純粋な気づいている意識、知性エネルギー) だけが起こっているという言い方をします。ボブの言うアウエアネスとは、個人の気づき(意識)のことであり、知性エネルギーのことです。個人のawareness をpersonal awareness、全体のawarenessをuniversal awarenessという言い方をする時もありますが、それは同じものです。
個人の意識などというものはなく、たった一つのものです。

私はボブに、
「でも、seeing(見ること)は、人間の目があるから起こっているのであって、私に属しています。もし、そこに私がいなかったら、つまり、私の目や耳が無かったら、そこにawareness(意識) は、あるのでしょうか?」と聞いた。

「例えば、あなたが眠っている時のことを考えてみてください。あなたは眠っていて、目も眠っている。ところが耳はどうでしょう? もし、誰かが耳元で、あなたに向かって起きるように言えば、あなたは起きる。あなたは眠ってはいるが、耳だけが起きているということではありません。そうではなくて、そこにはアウエアネス(意識)そのものがあります。アウエアネスがあなたを通じて機能しています」

2015/01/22

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑮

あなたが選択したことなど一度もなかった。

私たちは、自分の人生を自分で選択して生きてきたと考えています。どの学校へ行くかを自分で選択し、仕事を自分で選んで職に就き、恋人を自分で選んで恋に落ち、家庭を築いたと考えています。

ところが、ボブの教えでは、そもそもその自分という存在が実在ではないという。じゃあ一体誰が学校を選び、誰が仕事を選んだのか。恋人を選んだのは誰なのか。

誰でもありません。すべては起こるべくして自然に起こったのです。
あなたは、自分があれこれ選択して人生を生きてきたと思っているが、果たしてそうでしょうか。

あなたは自分で性別を選んで生まれてきましたか?あなたは国籍を自分で選択しましたか?肌の色は?身長は?誕生日は?両親は?血液型は?

あなたに自由裁量権はありません。
あなたは自分で仕事を選んだり、パートナーを自分で決めたりしたと思い込んでいますが、そもそもその選択肢をあなたに運んできたのは誰ですか?
自由な選択が許されているなら、もっと別の仕事や、別のパートナーを選んでいたのではありませんか?

多くの出来事を自分で選んでいるかのように見えるかもしれませんが、それはあなたの選択ではありません。

呼吸の一回、鼓動の一回だって、あなたの意志でやったことなどありません。
すべては自然に起こるべくして起こって、すべては完璧で、何の問題もありません。
勝手な基準点を作って困っているのは、そこにいるはずのないあなた自身です。

すべては「知性エネルギー」が自然に表現しているだけのことにすぎません。
私たちは、自分で生きていると思っていますが、実は生かされているにすぎません。

起こるべきことは、あなたが努力しようがしまいが、避けようが避けまいが、起こるべくして起こるのです。
だとしたら、何を心配する必要がありましょうか?

ボブの教えを学ぶと、生き方がシンプルになって、とても楽になります。
後悔する過去はなく、憂うべき未来もない。あるのはこの瞬間だけ。

これは、何かに向けて努力をしなくてもいいとか、場当たり的刹那的に生きろということではありません。
努力や準備が必要な時には、自然とそれが起こるというのです。

ボブは、spontaneouslyに生きろ、と言います。
リーダース英和辞典で、spontaneousを引くと、

自発的な、内発的な、任意の、無意識的な;<文体など>(無理が無く)自然な、のびのびした 2自生の<樹木・果実>;自然にできる、自然発生的な、自発性の

となっています。

spontaneouslyに生きるとは、条件付けや基準点にとらわれないで生きること。これは条件付けだ、これは基準点だと思った瞬間に問題は起こってきます。これは条件付けだとか、これは基準点だと思う必要もなく、あるがままに生きること。

川の流れが止まったら、水は淀んでしまう。常に流れ続けて生きること。
問題の解決は、自然に起こってきます。そもそも問題など何もありはしないのですから。

今日まで長々とボブの教えについて書いてきましたが、ボブの教えが生活の中でどう生かすかが重要だと思います。

私はいない、万物は一つのもの、時間はない、死は存在しない。こういうことがどうしても理解できなくても全然かまわない。
でも、これだけはすべての人に役に立つと思います。

五感を開いて、意識をまんべんなく五感に向けて、この瞬間を生きる。

人は、あまりにも思考にとらわれ過ぎていて、多くのエネルギーを失い、思考はあなたを過去や未来へ振り回し、ありもしない基準点を持ち出して困らせます。
もちろん思考は使い方によっては重要な働きをしますが、問題はそれに囚われてしまって、肝腎な、目の前の今を生きようとはしないことです。

五感(見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、触れること)を開いて、そこにまんべんなく意識を注ぎ、今この瞬間を生きること。これこそがボブの教えの神髄のような気がします。

盤珪(ばんけい)について

ボブは講話の中で時々、江戸時代の臨済宗の禅僧、盤珪を引き合いに出します。彼が盤珪の話をする時は、"unborn mind"(不生の心)の中では、物事は完璧で、どこにも問題なんてないじゃないか、なぜそれをマインド(思考)で置き換えてしまうのか、と盤珪は言っているという風に言います。(盤珪の話は、「ただそれだけ」のp.119にも載っています)

unborn mind(生まれていない思考)とはどういう意味かというと、まだ思考がないマインドの状態。思考がなければ、何も問題なんてないじゃないか、と言っているのです。ボブの言葉で言うなら、"What's wrong right now, Unless you think about it"(今そのことを考えなければ、何も問題ないじゃないか)。

思考が無い状態とはどういう状態か。Full Stop! ほんのわずかの時間でも、思考を止めてみるとわかる。そこに思考は無くても、seeing, hearing, smelling, touching, tasting は自然に起こっている。

そこに思考がなければ、見ている人(私、主体)と見られる物(あなた、客体)の区別は無く、ただseeing(見ていること)だけが起こっている。それはたった一つのもの。それが awareness(意識)。私たちの日常の普通の意識。 それが知性エネルギーの現れ。

2015/01/21

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑭

条件付けの解除、参照点と瞑想

私たちは、大人になる過程で、周りの大人から様々な条件付けを植えつけられます。
それはそうせざるを得ないのです。それがなければ生きていけませんから、それは避けられません。

そうした条件付けのせいで、自分が分離した個人ではないことを忘れてしまいます。分離した個人という視点から、他者も同じように分離した存在であると考えるようになります。

これがおじさん、あれがおばあさん、これが椅子、あれが机で、あれが電車、という具合に様々なラベル貼り(概念の植えつけ)が行われるせいで、物事を初めて出会った時のような視点から見ることができなくなります。

本当は個人など存在しないのですが、私たちは、人に貼りつけたラベルをいつまでもひきずって、その人を勝手に概念づけて見ています。

また、自分自身にもたくさんのラベルを貼りつけて、それに縛られています。私は臆病だ、私はシャイだ、私は勤勉だ、私は誠実だ、私は自尊心がない。
本当の私は、そうしたラベルとは関係なく、度胸のある時もあれば、社交的な時もあるし、怠惰な時もあるのに、ラベルに縛られた人格を演じることになる。

また、過去に人に傷つけられた記憶や、自分が犯した過ち、悲しかった出来事なども基準点となって残り、時々思考となってやって来ては、私たちが伸び伸びと生きるのを妨げたり、本当はそれほどの問題でもないのに、そうした基準点と結びつけたりして、大問題かのように見えて、私たちを困らせます。

成長する過程で身につけたいくつもの条件付けやラベルが基準点となって残り、物事の本質を見えなくしてしまいます。

そして人々は、そうした条件付けを解除するために、セラピー(療法)や瞑想が必要なのではと考えがちです。
しかし、そうした行為(セラピーや瞑想)は、ボブに言わせると、玉ねぎの皮むきのようなもので、むいてもむいても後から皮が出てきて無駄だと言います。

では、どうしたらいいのでしょうか?

What is wrong right now unless you think about it? 今、そのことを考えなかったら、何も問題ないじゃないか?

ボブに言わせると、解決は瞬時だそうです。そもそも、問題自体がもともとありはしない。問題を生み出しているのは自分の思考。あたかも問題があるかのような見せかけの基準点にしがみついているのは、そこにいるはずのない私です。

さて、瞑想とは一体何でしょう?

私は何年にもわたって、様々な瞑想をやりました。呼吸を見つめるものから始まって、飛び跳ねたり踊ったりするもの、テープを聞いて変性意識に働きかけるものなどなど。

そうした瞑想は、心(マインド)を静めるのには役に立ちます。でも、瞑想が終われば、またやかましいマインド(思考)は帰ってきますし、瞑想している最中にだって、思考が消えるわけではない。

ボブに言わせると、マインドがガヤガヤ騒いでいる状態も、静まっている状態も、どちらも同じだというのです。
人はよく、心(マインド)の平和と言いますが、マインドそのものの本質が平和ではありません。マインドの本質は二元性だからです。

私たちの本質である「他にはなにもない一つのもの」「知性エネルギー」「純粋な意識」はマインドが騒いでいようが静まっていようが、ビクともせずそこにある。

そして、私たちは、そこから一歩も踏み外したこともなければ失ったこともない。私たち自身がそれなのです。
それは探究をしたり瞑想をしたりして探さなければならない何かではありません。私たちの日常にある普通の意識のことです。

ボブの教えでは、探究したり、瞑想したりすることこそが問題なのです。そこに、探究する人もいなければ、瞑想する人もいない。悟りを開かなければいけない人もいない。
それを探し求めなければいけない自分がいるという思いこそがつまずきの始まりです。

ある意味、問題はもともと、どこにも存在しなかったのです。私たちは「他には何もない一つのもの」「知性エネルギー」「純粋な意識」(便宜上私は勝手にこの三つの表現を採用していますが、ボブはケース・バイ・ケースでもっと多様な表現を使います。全知、全能、遍在の存在、空間的意識、認識する空、永遠に新鮮なもの、存在意識、気づき、意識、それ、などなど)です。

それはもともとそれ自体で完全なものであり、どこにも問題などありません。問題があると思い込んでいるのは、そこにいるはずのない私です。

私は長年にわたって、様々な瞑想をやってきました。確かに中には一時的に心を静めてくれる瞑想もありました。でも、瞑想は物事の根本的な解決にはなりえませんでした。瞑想こそがゴールへの近道だと説くマスターもたくさんいます。でも今ははっきりとそれが間違いだったとわかります。

ボブは言います。
人々は何年にもわたって探究や瞑想を続ける。彼らは、探究の道という山登りをやっていて、ふもとから山頂を目指して登り続けるが、決して山頂にたどり着くことはない。それはスタート地点が間違っているから。山頂から始めてください。私たちは、もう山頂にいて、どこへも行く必要はありません。自分たちはもうそこにいるという事実から始めてください。

2015/01/20

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑬

死は存在しない。

ボブは、私たちは分離したそれぞれの個人ではなく、それ(知性エネルギー、他には何もない一つのもの、純粋な意識)なのだと言います。
そしてそれは始まりも無ければ終わりも無い。

私たちは、生まれたことも無ければ、死ぬことも無い。

ボブは言います。

ここにいる人で自分の誕生の瞬間を覚えている人はいますか?
もし覚えている人がいたら、それはいつですか?

母親から生まれ出る時ですか?それとも精子と卵子が結合した瞬間ですか?
誰一人として、その瞬間を特定できる人はいないはずです。

そしてまた、死はいつ起こるのですか?
あなたの鼓動が止まり、肉体は土に帰り始める。しかしそれはエネルギーの態様が変わるにすぎません。

それは生まれたこともなければ、死ぬこともありません。

私たちは、もともとそれなのであって、それには始まりもなければ終わりもありません。

人が死ねば、肉体は朽ちていく。しかし、「知性エネルギー」は何の変化もない。
今まで、「私」だと思っていた思考はどうなるか。それはしがみつく場所を失い、どこかへ消えてしまう。

しかし、もともとそれはやって来ては消える実体のないもので、自分という存在がいないと理解している人にしてみれば、肉体の死以前に思考の死(自分がいるという思考の死)は起こっている。

死は存在しない。

輪廻転生はあるのか。

ボブが言うには、私たち一人一人が分離した個人だという考えそのものが、まわりが植えつけた条件付けにすぎず、もともと分離した存在ではないと言う。
そうであれば、死は単なるエネルギーの変換なのであって、そこから何かが消えたり、生まれたりすることもない。

私はある時ボブに、人間は転生するのか?と聞いた。
すると彼は「誰が転生するのですか?」と答えた。私が自分だと思っている自分は実在しない。だとすれば、誰も転生などしない。そこにあるのは単なる思考の消滅にすぎず、その思考がまた別の肉体に宿るわけではない。

自分という一人の人間がいると思い込んでいるだけ。
私たちは、もともと分離した個人ではなく、「他には何もない一つのもの」。私が私だと思っている存在は実在しない。
個人が幻想である以上、それが生まれ変わるということは成り立たない。

カルマはあるのか。

ボブの世界には時間は無く、始まりもなければ、終わりもない。原因がなければ結果はない。よってカルマはない。
非二元の世界では時間は幻影。あるのは今この一瞬だけ。私たちは、昨日のことや、10年前の出来事を思い出すことはできる。

でもそれは実際にはどこにもなく、私たちの記憶の中にしか存在しない。
あるのはこの瞬間だけ。私たちが生きているのは、この瞬間だけ。過去も未来も、時間もありはしない。
それらは、私たちの意識の中にだけあり、あるように見えているだけ。

ボブは時々冗談で、「今を生きていない人はいますか?」と聞きます。
みんなこの瞬間(今)を生きています。今以外に生きようがありません。昨日どころか、5秒前だって生きることはできません。生はこの瞬間しか存在しないからです。

死んだらどうなるのかという質問をボブにしたことがある。ボブが言うには、私たちは毎晩眠りに落ちて、次の朝には戻ってくる、それと同じだと言います。ただ起きてこないだけで。

体の感覚器官を失えば、実際には見ることも聞くこともできない。それでもそこには、意識(知性エネルギー、アウエアネス、認識する空、意識、それ)があるという。実際には肉体を離れないとそれはわからない。そのためボブは私たちの意識がその現われであるというポインターを使う。

私たちは、意識を個人のものだと考えています。でもそうではありません。あるのは一つの意識。そこに個人が現れ、私たちはその意識を個人の意識と錯覚している。
個人の意識も全体の意識もない。あるのは一つの意識(アウエアネス)だけです。

2015/01/19

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑫

覚醒(エンライトメント・悟り)する人などいない。

私は、覚醒(エンライトメント、悟り)を求めてボブのところへやってきた。ところが彼はそんなものはないという。
そもそも彼の教えでは、「私が私だと思っている自分は実在しない」。となると、「誰が覚醒するというのか?」と彼は尋ねる。

それでも私は、それは言葉のあやで、本当はボブはどこかの時点で覚醒したに違いないと思っていた。
個人面談でその辺を聞いた。

私「あなたは、ボンベイのニサルガダッタの家へ行き、そこで彼の話を理解したと言っている。その理解というのはエンライトメント(覚醒、悟り)のことですか。」

ボブ「普通に彼の話を理解しただけです」

私「でも、本を読んだ多くの人は、あなたがどこかでエンライトメントしたのだと思っていますよ」

ボブ「誰もエンライトメントしません。私たちはすでにそれなのです。(We already are.)」

確かに本の中では、どこにも彼が覚醒したとは書かれてないし、彼が自分で、「私は覚醒した」と言うくだりを見たこともない。

彼はニサルガダッタの家へ行き、彼の話を理解(understand)したと書いてあるだけだ。

私と同じ疑問を持つ人はたくさんいて、彼をアメリカに招いてその様子を本に書いたジェームズ・ブラハの「Living reality」(日本版未翻訳)の本には、何度もそのあたりを質問する場面が出てくるが、そこでもやはりエンライトメント(覚醒、悟り)したということは言っておらず、普通にニサルガダッタの話を理解しただけと言っている。

「Living reality」では、ボブの奥さんのバーバラも一緒にニサルガダッタの話を聞き、同じように理解してオーストラリアに帰ったと書いてある。
要するに、他のマスターの本に出てくるような覚醒体験がどこかの時点で起こったという訳ではないということ。

ボブの教えでは、「知性エネルギー」「他には何もない一つのもの」「純粋な意識」があるだけで、それが覚醒することはない。別の言い方をするなら、もうすでに覚醒した状態にある。
それを見えなくしているのが私たちの思考や条件付け。それはあたかも燦々と輝く太陽を、思考という雲が邪魔して見えなくしているだけで、雲の向こうに太陽はいつも輝いているという。

では、ボブと私たちは意識のレベルが違うのか?
ギルバートに言わせると、同じレベルにいるという。(もともと意識に高い低いのレベルの差などなく、皆同じ一つの意識・アウエアネスの中にいる)

これはジェームズ・ブラハが本の中で書いていることですが、ボブと私たちの違いは、基準点にとらわれることがないということです。

ボブは、私はいない、万物は「知性エネルギー」「他には何もない一つのもの」「純粋な意識」の中に現れること、時間は存在しないこと、死は実在しないことなどを完全に理解しているために、人との比較や、悩みや問題から起こってくる基準点にとらわれることもない。

そこに基準点がなければ、思考にとらわれることもなく、思考はどこかへ行ってしまう。それだけの違いだそうです。
私は、ボブには思考なんて無いか、自由にコントロールしているのかと思っていたがそうではないようです。

「なんだ、それだけのことか」と思われるかもしれませんが、実際に、自分は存在しない、万物は一つのもの、時間は存在しない、死はない、といったようなことが本当に身に染みて、それを生きるというのはそう簡単なことではありません。それほど私たちの条件付けは根強いと言えます。

それに、ボブを横で見ていると、凄みというか、私たちとは決定的に違う何かがあるような気がしてなりません。

ボブにも私たちと同じように、思考がやってくるし、夢も見るという。ただその本質を見抜いていて、それに囚われることがないだけのことだそうです。
ジェームズ・ブラハが本の中で書いていますが、ボブでさえ、ニサルガダッタの家から帰ってすぐにすべてが変わったというわけではないようです。

やはり問題が起きるたびに(ああ、自分はいないんだ)ということを思い出して、次第に基準点にとらわれないようになっていったそうです。
その辺をボブに直接聞いたことがありますが、ボブに言わせると、そんなことは即時に起きると答えます。

ボブは先生なので、建前しか言いません。「覚醒しないのですか?」などと聞こうものなら、「覚醒するとは何事ですか? それは未来の話ですか? 時間は存在しません!」と言って話が進みません。でもボブは話の途中で時々時計を見るし、個人面談を申し込めば、予定張に書き込みます。「時間は概念にすぎません!」と言っておきながら。

肉体は実在ではない!なんて言っておきながら、針治療もしてもらうし、ビタミン剤も飲む。
私はふざけて、「肉体は幻なんだから、疲れていても休まないし、大酒飲んで毎日徹夜することにしました!」と言ったら、「肉体はちゃんとケアしなきゃだめです」と言われました。

ジェームズ・ブラハは本の中で書いていますが、アドヴァイタ(非二元論)そのものが多くのパラドックス(矛盾)を抱えていると言っています。それは、嘘とか、間違いではなく、パラドックス。私たちは、そのパラドックスを見抜いて、その裏にある本質を見る必要がある。

稀には、自分は存在せず、純粋な意識であるとか、万物は一つである、時間は無い、死はない、などの理解が偶発的に起きる人や、生まれながらにして自分などいないと知っている人もいるそうです。(ブラハの本から)
でもそういう人たちは、どうしてそれが起こったのかわからず、自身の神秘体験と結び付けて、「覚醒した」と思う人もいるのではないかということです。

私は、ボブのところへ来て、「覚醒などない」と思うようになりました。
私の考えていた覚醒とは、すべての道理が明確に理解でき、言いようのない幸福感が永続する状態だと思っていました。しかし、幸福感が常時続けば、それが普通の日常になってしまって、幸福だと感じなくなる。幸福は不幸があって初めて成り立っている。

覚醒など無いのではないか。釈迦やイエスが説いていたことは、特別の人にしか起こらない何かではなく、誰にでも理解できるようなシンプルな教えだったのではないかと思っています。

ある日のミーティングでもう何度かミーティングに参加している人がボブに向かって言った。
「私は最近すこぶる体調もいいし、仕事も驚くほど順調になりました。あなたのそばにいると共鳴のような作用が起こって、覚醒のようなものが簡単に起きるのではないでしょうか?」

ボブ「あなたは今、気づいていないのですか?"Are you not aware now?」
参加者「気づいてます」

ボブ「あなたも私も、ここにいるみんなも気づいて(aware)いる。アウエアネスそのものだ」
参加者「でも、先生が一緒にいて、生徒が先生に愛情を抱いていれば、理解が起きて・・・」

ボブ「私の教えているのは非二元論です。先生と生徒などという分離はなく、一つのものです。何かになる、何かが起きる人はどこにもいません」

参加者「でも、師が触媒となって・・・」

ボブ「ありきたりのスピリチュアルの本で読んだ牛のクソを捨てなさい。あなたも私もいません。私たちはもうすでにそれなのです」

ボブの言っているアウエアネス(知性エネルギー、エンライトメント、意識、それ)は、特別な人にしか起きないような現象のことを言っているのではなく、私たちの日常に普通にある意識(アウエアネス)のことです。
思考がないほんの数秒の間、私たちはそれをはっきりと見ています。

ボブの教えをよく理解している一人の参加者がこう言った。
「長年瞑想や探究を続けた人は、どこかで自分に何かが起こって欲しいと願っています。そうしてマスターに会うと、何かが起こる。気分が高揚して、すべてがうまくいき、自分に何かが起こったのではないか、ひょっとして覚醒したのではないかと思う。私もそうでした。でも、そうした出来事は、すべてマインドの演じるトリップにすぎません。気分の高揚や落ち込みは誰にでもあります。時には神秘体験さえ起こる。それはやって来ては去っていく。でもそれは単なる体験にすぎません」

ボブは、やって来る人のトリップやストーリーにはとりあわず、話の本筋をそらさないように話をする。

ボブに会って、もしくはボブの本を読んで、何かが起こった。自分の中で何かが変わった、そういうトリップには注意してください。それはマインドがでっちあげたストーリーにすぎません。確かに物の見方や考え方が変わるということはありますが、覚醒のような出来事が起きるわけではないのです。ボブの言っていることは、私たちのマインド(思考)の背景として、いつも変わらずに存在する普遍的な意識のことであり、それは決して起こってくる何かではありません。

ギルバートが面白いたとえ話を言ったので書いておきます。
「私たちはメルボルンにいる。でも、ここがメルボルンだと知らない旅人は、人を捕まえては、メルボルンにはどうやって行くんですか?と聞いてまわる。」

多くの人が、覚醒(エンライトメント)=至福(bliss)を探している。それはどこにあるのか。ボブは時々、サットーチットーアナンダ(Sat-Chit-Ananda)を引用する。サット・チット・アナンダはヒンズー教の言葉で、それが現れ出た三つの側面を表現したもの。
サットはexistence(存在)、チットはconscious(意識)、アナンダはbliss(至福)の意味。この至福というのはどこにあるのか。

これは、精神世界の本にありがちな、悟りを開くと突然身に起こると言われているような、高揚した至福感のことではありません。その至福は、思考をちょっと止めたときに感じることができる微妙なヴァイブレーションとしての至福。私たちは、日ごろそれに気づかないだけで、いつもそこにあります。

2015/01/18

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑪


ボブは、私たちが見ている現実の世界を、appearance(現象、見せかけ)といい、その背景にある本当の世界を、reality(実在)と呼びます。

私たちが見ている現実は、実際には実体のないもので、本当の世界は「他には何もない一つのもの」「知性エネルギー」「純粋な意識」だと言います。別の言い方をするなら、そこにあるのは私たちの意識だけです。

ボブはよく鏡の例えを使います。私たちの意識(アウエアネス)が鏡で、私たちの見ている現実は、その鏡に映し出されたものにすぎない、それを見て私たちは、あたかもそれが現実であるかのように錯覚しているというのです。

reality(実在)の世界では、万物は分離していません。あなたも私も、犬も猫も、机も家も、すべては「他には何もない一つのもの」「知性エネルギー」「純粋な意識」の現れです。

便宜上、こういうややこしい名前で呼んでいますが、名前すら概念(ラベル)なので、そのもの自体を言い表してはいません。
万物が、「他には何もない一つのもの」「知性エネルギー」「純粋な意識」そのものなのです。

例えて言うなら、万物は大海の海のようなもの。私はその海に立った一つの波。そして他者は他の波。私という波は、他の波を見て、分離していると思っているが、実は同じ海の水。
海は「他には何もない一つのもの」「知性エネルギー」「純粋な意識」で、その中に万物は多様な形に変化して現象として現れる。

波しぶきとなって岸に打ちつけるものもあれば、水滴となって空中に飛ぶものもある。南極で氷結するものもあれば、水蒸気となって雲となるものもある。雨となって大地に染み込むものもあれば、川となって流れるものもある。

ありとあらゆる形になって変化するが、本質は同じ海の水。ところが、小さな波の一つである私は、それが同じ海の水であることに気付かず、他者と自分を分けて考えている。

実際には、私もあなたも、猫も犬も、海も山も、同じ一つのもの。
それらすべては、「他には何もない一つのもの」「純粋な知性エネルギー」「純粋な意識」です。

ではなぜ、万物はこれほど多様な変化を見せているのでしょうか。ある時ボブに聞きました。

私「なぜ知性エネルギーは、これほど多様な見せかけを生み出しているのでしょうか」

ボブ「意味なんてありません。ただそのようにあるだけです。それは始まりもなければ終わりもない。現象として見えているにすぎません。それは生まれたこともなければ、変化したこともありません」

私は説明の便宜上、それのことを「他には何もない一つのもの」「知性エネルギー」「純粋な意識」とだけ書きますが、実際ボブはもっと多様な表現を使います。ゾクチェンから引用して、「認識する空」「永遠に新鮮」「今ある意識」と言う時もあれば、単に意識(consciousness, awareness)と言う時もあります。

ボブは、万物は一つのもので、私たちも現象の一つとしての現れにすぎないと言います。私は、その事が理解できずに、何度も説明を求めました。説明の仕方は何通りもあるのですが、典型的なものの一つを書いておきます。

拓「万物が一つのものということが理解できません。また、自分はそれ(知性エネルギー、純粋な意識)だということを、どうしたら理解できるのでしょうか?」

ボブ「私という存在が、見せかけのもので、実在しないということを理解してください。そうすれば理解できます」

拓「それは知的には理解できます。自分で調べましたが、これが自分だと呼べる実在は存在しません。でも、万物が一つのもので、自分はそれなのだという実感が湧きません」

ボブ「あなたは今、見て(seeing)、聞いて(hearing)いるでしょう? それが、純粋なる知性エネルギーの働きです。ところが、あなたはマインドで何かを理解しょうとしているため、それが邪魔して見えなくなっているのです。思考が、見ている人という主体と、見られている客体を作り出します。実際には、見ていること(seeing)があるだけで、見ている人も見られているものもいません。それは一つのものです」

拓「どうしたら、マインド(思考)から抜け出せるのでしょうか」

ボブ「外を走るトラムの音に気付いていますか?(Are you aware the sound of the tram?)」

拓「音がしているのは聞こえています」

ボブ「あなたはマインドから抜け出る必要も、マインドを止める必要もありません。マインドが動いていたとしても、知性エネルギー、アウエアネス(意識)は機能し続けています。トラムの音を聞いているのはあなたの思考ではありません。それはあなたの思考とは無関係に、トラムの音を聞き、あなたの心臓や呼吸をつかさどって働き続けています。それが本当のあなたです」

2015/01/17

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑩

What's wrong with right now unless you think about it.

これはギルバート・シュルツが編纂したボブの講話集の題名で、この本がもとで、ボブは広く世界に知れるようになりました。
ギルバート・シュルツは今もボブのもとにいて、一緒にミーティングに出ています。(2015年1月現在)

この本の題を訳すと、「今もし、そのことを考えなければ何も問題はないじゃないか?」です。

これはボブの教えを一言で端的に言い表しています。思考(マインド)はそれ自体とても有益なツールで、それが無くてはビルも建たないし、旅行の計画も何もできない。

ところがこの有益なツールは一方で勝手な行動して様々な問題を起こします。私たちは、自分で思考をコントロールしていると思っていますが、そうではありません。
試しに、次にどんな思考がやってくるか考えてみてください。それは誰にもわからない。

思考は勝手にやって来て、また勝手に去っていく。私たちが、もし自由に思考を選択コントロールしているのなら、私たちの思考は天国や楽しいことでいっぱいのはずですが、実際はそうではありません。

こういう時、ボブはたいてい二元性の話をします。昼があれば夜がある。男がいれば女がいる。戦争があれば平和がある。良い思考があれば悪い思考がある。
ところが、良いとか、悪いとかは、人間が勝手に貼ったラベルであって、思考そのものには、良い思考であれ、悪い思考であれ、何の問題もない。

それらはやってきては去っていく。ところが問題は、私たち人間が、勝手な基準点を作って、その思考にとらわれてしまうこと。

私は貧乏だ。私は背が低い。私はブスだ。私は才能がない。私は嫌われている。私は孤独だ。私は無名だ。私は自由じゃない。私は病気だ。

基準点をどこに置いているのでしょうか。
私という基準点は、いるはずのない私が勝手に作った架空のものです。

そして、今この瞬間に、そのことを考えなかったら、何の問題があるというのでしょうか。今この瞬間にそのことを考えなかったら基準点は消える。
木は隣の木のように背が高かったらなあ、なんて悩みません。ライオンはチーターのように足が速くなりたいと悩んだりはしません。

また人間は、恐れや、悲しみなど、過去の経験からくる基準点をたくさん抱えています。過去に味わった恐怖を基準点として抱えているために、同じような出来事が起こると、基準点に照らしてみて、実際よりも大きな恐怖に襲われることになります。

誰かに裏切られた痛手が基準点になって、ちょっとしたできごとでもものすごく悲しくなったりする。本当は、今直面している感情はそれほど大きなことではないのかもしれないのに、過去の基準点が起点となって、今この瞬間の出来事をそのまま受け止めることができないでいる。

ボブは言います。悲しいことや恐怖が起こったら「悲しい」とか「恐ろしい」という言葉のラベルを貼るのを止めて、そのままにしておきなさいと。そうすれば、それらの感情はしがみつく場所をなくして去っていくと。

人間だけが、勝手に問題を作って悩んでいる。それも、よくよく考えれば、自分で作った勝手な基準点を起点にしている。
ボブは言います。人間の抱える問題のほとんどは関係性の問題だと。そしてその原因は私という基準点にある。そのことに気づきなさい、そしてそれが実体のないものだということに気づきなさいと。

2015/01/16

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑨

万物は一つのもの。

インドに伝わるヒンズー教哲学、アドヴァイタ(非二元論)によれば、万物は、「他に何もない一つのもの」(one without a second)であると説く。

チベット仏教の最高の教えゾクチェンでは、万物は「空」の中に現れ、それを「空間的意識」「認識する空」などの表現で呼ぶ。

ボブはこの二つの教えを引用して説明するが、どちらも同じことを別の表現で言っているにすぎない。
何もない空間に現れているかのように見える万物は一体何なのか。
それは質量や体積がある物質ではありません。何もない空。そこには何があるのか。

概念では決してとらえられないもの。言葉では言い表せない何か。
ボブはそれを便宜上いくつかの言葉で表現します。

pure intelligence energy(純粋な知性エネルギー)、pure awareness(純粋な意識)、それ。他に、awarenessやintelligenceとだけ言う場合もあるし、その他の多様な言い回しで言う時もある。

ただし、ボブは、神という言葉を使いません。神という言葉は、様々な人たちが、様々な意味に用いているために、勝手な解釈、先入観が入る余地があるからだそうです。

私はある時ボブに質問しました。

私「あなたは、万物はすべて一つのものだと言う。あなたはそれを純粋なる知性エネルギーそのものだと言う。それは言葉で表すこともできず、触ることも見ることもできない。だとしたら、一体それはどこにあるのでしょうか。」

ボブ「目を閉じて、タク、タク、タクと自分の名前を何度も繰り返して言ってごらん」

私「タク、タク、タク、タク、タク・・・」

ボブ「Full Stop!」(ピリオド!)

私「・・・」

ボブ「タクと言うのを止めたその瞬間、そこに思考はありましたか?」

私「思考は止まっていましたが、またすぐに戻ってきました」

ボブ「その思考が無かったほんのわずかの瞬間、あなたの心臓は鼓動を止めましたか? 呼吸は止まりましたか? あなたの思考はなかったにもかかわらず、心臓を鼓動し、呼吸は続いていました。そこにあるのがアウエアネス(意識)です。そこには、思考はなく、純粋な意識だけがある。そこに万物が現れ、それがあなたの心臓と同じように星を動かしています」

要するにボブは、私たちの意識(アウエアネス)に万物が現れると言っている。
宿で一晩寝たら、(だけど、どうしてそれが純粋なる知性エネルギーだとわかるんだ?)と疑問が湧いてきて、また別の日に聞いた。

私「あなたの言っているそれが、どこにあるのかわかりました。でもどうしてそれが純粋なる知性エネルギーだとわかるんですか?」

ボブ「自分でよく考えてみてください。あれでもない、これでもない。そうやって一つ一つ消していくと、最後にはそれしか残りません。それ以外に考えようがないじゃないですか?」

ボブは、私たちは皆、純粋なる知性エネルギーを知っていると言います。それどころか、私たちはそのものだと言う。それは、今日書いた、Full Stop!の実験をするだけで、簡単に垣間見ることができるという。そしてそれを見えなくしているのが私たちの思考や条件付け(基準点)。その思考や条件付けゆえに悩みや問題が発生する。

ボブは太陽の例え話をよくする。知性エネルギーは太陽のようにいつも光り輝いている。しかし、思考という雲がやってきて、それを見えなくしてしまう。
太陽はどこへ消えたわけでもなく、雲の向こうでいつも輝いている。

ボブのいうそれとは、私たちの意識(アウエアネス)のことです。日常の、普通の意識です。Full Stop! と言った瞬間に垣間見ることができる意識のことです。

私たちは、これを個人の意識だと思い込んでいますが、個人の意識というものはありません。宇宙の果てまで、あまねくたった一つの意識(アウエアネス)だけがあり、そこに個人が現れます。
現れた個人は、この意識は自分の意識だと思っていますが、それは全体の一部。あるのは一つの意識だけです。

2015/01/15

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑧

私たちが見ている万物は実体のないものである。(下)

ある日私はミーティングでボブに質問した。

「私たちが見ている物が実体のないものであるということがよくわかりません。今、エリザベス通りに建っているビルは実際にそこに建っているのでしょうか?それとも、それは私の意識の中にだけあって、私が朝起きた瞬間に現実となって現れ、私が眠ると消えるのでしょうか?私が眠っている間、そこにビルはあるのでしょうか?」

ボブは私の問いには直接答えず、いつもよく使う鏡の話で答えた。(ボブの家の部屋には、壁一面に大きな鏡がある)

「鏡を見てごらんなさい。その鏡を見ると、そこから向こうにもう一部屋あるように見えるでしょう。あなたの意識はその鏡のようなものです。あなたには、あたかもそこに椅子や壁掛けがあるように見えている。でもあなたはそれが鏡だということを知りません。でも実際は、すべてはその鏡に映っているものにすぎず、実際にはそこには何もないのです」

「鏡の例えはわかります。でも、エリザベス通りのビルはどうなんですか?」と私。

「あなたも時々夢を見るでしょう? その夢の中で、たくさんの建物が出てくる。そして朝、その夢から覚めると、その建物は消える。その建物が本当に存在したかどうか、あなたにわかりますか?それはどこにもありはしませんでした」とボブ。

夢の中では、夢の中の自分が基準点となって、あたかも夢が現実であるかのように見えている。夢から覚めると、その基準点が消え、すべてが消える。

私たちの見ている現実も同じで、私という基準点がなければ、すべては消える。ただ実際には体と思考があるために、体と思考が死ぬまでは現実という夢から覚めることはない。

ボブは、自分の話の本筋をそらさないように話すので、込み入った質問そのものには同調して答えず、例え話で答える時が多い。

「私は、エリザベス通りのビルが、私の寝ている間に消えているのかどうか知りたいのです」

すると、横に座っていたギルバートが言った。
「深い森の中で一本の大きな木が倒れたとする。そして、そこには人間が誰もいなかったとする。その場合、果たして木が倒れる音がするだろうか?」

あとで友人に教えてもらったのですが、これは哲学の授業などでよく使われる命題だそうです。

音というのは何かと突き詰めて考えると、それは空気の振動のバイブレーション。
もしそこに人間がいれば、人間の耳と脳はそのバイブレーションを(ドシーン)という音に変換して、木が倒れた音を認知する。

もしそこに、人間がいなければ、空気の振動はあったとしても、音はない。
エリザベス通りのビルは、私という人間の感覚器官を通して初めてビルとして認識される。

もし私がエリザベス通りのビルの前に建っていても、私が目を閉じた瞬間にビルは消え去り、そこにビルがあるのかどうかはわからない。
目を閉じたまま、手を伸ばしてビルに触れれば、触覚を通してビルは現れるが、手を放した瞬間にまたビルは消える。

木の倒れたあとの空気のバイブレーションを人間の耳と脳が(ドシーン)という音に変換しているように、単なるバイブレーションを人間の目と脳がビルに変換して見せているだけかもしれない。

人間が、すべての感覚器官を閉ざしたその時、そこにビルはあるのか?
人間の感覚器官を通してしか認知しえない物が、果たして実在していると言えるだろうか。
そして、それを認識している私という存在(基準点)がそもそも実在しないとすれば、その私が見ている万物は実体のないものなのではないか。

私は、万物が実体のないものであるということにどうしても納得がいかず、その後も内容を変えて何度も質問したが、科学的な説明はなく、納得できなかった。

ある日ボブに聞いた。
「万物がすべて実体のないものだということが、どうしても理解できません。科学的に説明していただけないでしょうか?」

するとボブは動ずる様子もなく、
「それは物理学者の仕事です」と言って笑ったあとで、体の例え話をした。

「あなたの五歳の時の体は今どこにありますか? すべての細胞は入れ替わり、他のエネルギーに姿を変えました。私たちが見ている物はすべて実体のないものです」

万物が実体のないものであるということを、誰かが科学的に証明する日が来ないことは容易に想像できる。私たちが見ている万物が実体のないものかどうかは、個人の理解にかかっている。

チベット仏教の最高の教えとされるゾクチェンでは、万物は空の中に現れているとされる。空の中に現れる物は空。私たちは幻影、すなわちマヤを見ているに過ぎないと言う。

人間の感覚器官を通してしか認知しえないものが、本当に存在していると言いきれるだろうか。

私の現実とは何かと言うと、私の意識(思考)が認識している世界だけが私の現実。その意識の外には現実は存在しない。私がビルを見た時、私の意識がビルをビルとして認識している。

私が夜ベッドに入って眠りに落ちると、私の意識は消える。そうすると、エリザベス通りのビルは私の意識から消える。つまり、私の現実から消える。

私が眠っている時、エリザベス通りのビルが建っているか消えているかというと、そこにビルは建っている。でもこの場合、ビルが建っているという視点は、その時点でまだ起きている誰かの視点から考えた場合であって、眠っている私の現実の世界では消えている。そういう意味でビルは幻影と言える。

私が眠っている間に、人に頼んで見に行ってもらえば、当然ビルは建っているし、中で守衛が働いている。でもそれは、見に行ってもらった人が認識した現実にすぎない。私の現実はというと、夢の中の、まったく別の現実を生きているか、深い眠りの中にいるかのどちらか。

朝、目が覚めると、突如として、私の現実の中へエリザベス通りのビルがまた現れる。そして歩いてそのビルの前へ行き、ビルを拳で殴ると、手が痛い。ところが、このビルも実は幻影。

私が、これがビルだと認識できるのは、生まれてから今までに、ビルというものを概念として学び、ビルというラベルを貼り記憶しているために、ビルと認識できる。もし、ビルというものを生まれて初めて見たなら、そこにある空や道路、すべての物のラベルを剥がして見たなら、それが何なのか認識できない。景色とビルの境界さえ定かではなくなり、幻影、実体のないものと化す。

また、私たちがビルだと思っている物質も、極微の世界では、そこには微粒子と広大な空間があるだけで、私たちが認知しているようなビルはどこにもない。そこには、エネルギーの波動があるだけ。

さらに見方を変えると、ビルというものも、例えば一万年前はどうだったかというと、そこは海の底かもしれないし、土の中かもしれない。もっと遡って100億年前はどうかと考えると、地球はまだ生まれていない。

もっと遡って200億年前はどうかといえば、宇宙さえもまだ生まれていない。そこには何があると言うのか。また、明日このビルに誰かが爆弾を仕掛けて粉々にしてしまうかもしれないが、ビルは消えたわけではなく、エネルギーの変換が起こったにすぎない。そいう意味においては、ビルといえども、実体のないものでしかない。

今度は角度を変えて。

例えば、テーブルの上にオレンジが一個あったとする。私たちは、その黄色いオレンジを見て「美味しそうだな」と思って眺める。そこへ、犬が入って来てオレンジを見た時、それはどんな風に見えるだろうか。犬の世界は人間が見る世界のようにカラフルではない。

ところが、犬の嗅覚は人間よりもはるかに優れていて、オレンジの臭いを認識できる。ひょっとすると、以前に食べた時の臭いを記憶していて、嫌いな食べ物だと認識しているかもしれない。

そこへ、一匹のコウモリが飛んできたら、そのコウモリにはオレンジがどう映っているだろうか。コウモリは目で見ている訳ではなく、超音波を出して、その反響で物を認知している。おそらく人間とは全く別の世界を見ている。

要するに、私たちが認知している世界は、私たちが認知して勝手に解釈をしているだけで、犬やコウモリはまた別の世界を見ている。彼らはオレンジなんて認識していないかもしれない。

ボブは「この部屋の being (存在)を、分割できるものなら分割してごらん」と言います。部屋には、人間(human-being) の他に、椅子やテーブルなどのbeing(存在)がある。それだけではなく、空気や湿気、さらに細かく見るなら、水素、酸素、血液、温度、光などがある。

それらの being は、極微の世界まで詳しく見たなら、粒子の間の空間があるだけで、それらの粒子は入り組んでいて、分割しようがない。つまりは一体の存在、一つの物なのだと言う。

月も惑星も同じことが言える。それらは、極微の世界まで細かく見たなら、空間でしかない。そして、月も星も、やがては消えていく。万物は、時とともに姿を変えてしまう。私たちが見ている物は、一時の幻影、実体のないものにすぎない。

ここまでは知的には何とか理解できる。

でも、「万物は、知性エネルギーが波動となって、現れ出たもので、それは他に何もない一つのもの」ということが、なかなか理解できない。

理解できたつもりでも一晩寝るとまた疑念や疑問が湧いてきて、同じ質問をボブに何度も繰り返したり、参加者に片っ端から納得のいく説明を聞いたりしてまわった。

科学的に納得できる説明をしてくれた人は誰一人いなかった。ボブの話も、言葉はあくまで言葉であって、真理を指し示すポインターの役割はするが、それですべてを理解できるわけではない。

ボブは言います。「あなたたちの持っている唯一のツールはマインド(思考)です。しかし、あなたは決してマインドではこれを理解できません。なぜならそれはマインドの外にあるからです」

最初にボブのことをブログに書いた時点では、まだ疑念を抱きながら、(たぶんそれが真実なんだろうなあ)程度の理解でした。それは、「知っている」レベルではなく、「信じている」レベルでした。

そして、週三回、四か月、ボブの講和に通ううちに、(そうとしか思えない)と確信するようになりました。ある時から、疑念や質問がやってこなくなり、その答えはもうどうでもよくなりました。

「それならちゃんと説明してみろ」と言われても、ここに書いた程度の説明しかできない。「それじゃあ事実として知っているんじゃなくて、信じているにすぎない」と言われるかもしれない。

でも、私たちは、例えば、地球は丸いと知っていますが、自分で宇宙空間に行って確かめたわけじゃない。学校で習ったり、NASAの撮った地球の写真を見たりして、地球は丸いと知っている。でもその写真だって、画像処理したものだし、実際の地球は厳密には楕円形だと言われると、驚く人もいる。わずか数百年前には、誰も地球が丸いなんて知らなかった。

いくら納得のいく説明を見つけたとしても、マインド(思考)はまた新たな疑問や疑いを生み出してくる。それが二元性のマインドの性質。そうした堂々巡りをやめること。Full Stop!

現実は、今ここにある意識(conscious, pure awareness)の中にしか存在せず、すべては今ここで起きている。

2015/01/14

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑦

私たちが見ている万物は実体のないものである。(上)

昨日、時間は私たちの思考の中にしかなく、実際には存在しないということを書きました。
もし時間が存在しないとなると、どういうことが起きるでしょうか?

例えば私たちは、A地点から別のB地点まで移動しようとした場合、時間がかかります。もし、その時間が実際には無いのだとしたら、移動に時間はかかりません。

つまり、私たちが立体的に距離を感じているこの世界そのものが成り立たなくなります。
私たちは、勝手にA地点、B地点という基準点を設定して、あたかもそこに距離があるかのように考えていますが、それは思考の仕業です。

話は変わります。量子物理学者たちの研究によれば、物質を構成する原子をさらに細かく見ていくと、quark(クオーク)という、ものすごく小さな構成要素にまでたどり着くそうです。

その小さな構成要素の大きさから考えると、その構成要素間の距離は、比例割合で言うと、宇宙空間の惑星の間ぐらい距離が離れているそうです。
要するに、私たちが物質だと思っているものの中味はスカスカの空間だというのです。

例えば、目の前の椅子(イス)に、ものすごく小さな乗り物に乗って侵入すると、そこは空間ばかりだというのです。

ではなぜ椅子に触れても手が椅子の中へめり込まないのでしょうか。それは、その小さな粒子がものすごい速さで振動しているからだそうです。ここまでは物理学者が突き止めているそうです。
要するに、私たちは、そこにある空間を見て椅子だと思っているだけにすぎません。

話は変わります。どうしてこうコロコロと話を変えるかというと、ボブがあの手この手を使って、私たちが見ているすべての物は実体のないものだと説明するからです。
ボブは、「この部屋の中にある物を、ラベル(概念・条件付け)無しで見てごらん」と言います。

部屋の中には、椅子、壁に掛かった絵、天井のライト、絨毯、戸棚、そこにいる人たちなどが見えます。
私たちは、子供の頃から、様々な体験を通して、椅子や壁にかかった絵、天井のライトというものが何であるか、それがどういう働きをするのかを学んでいます。

その学んだことがラベル(概念)となって、一つ一つのものに貼り付いているために、椅子や天井のライトを認識することができます。
もし、そのラベルをはがして、生まれて初めて見るような感じで部屋を眺めたら、一体どうなるでしょうか。

果たして私たちは、椅子を椅子として認識できるでしょうか。それが座る道具だと認識できるでしょうか。
もっと極端なことを言えば、部屋の中の立体感(奥行)さえも、経験的に学習したことなので、遠近感も消えてしまう。

そうなると、そこに椅子があるかどうかも認識できなくなって、単なる色が存在するだけのようにしか見えない。そうなると、椅子だけ浮き上がって見えることはなく、周りの色と同化して、何があるのかわからない。

話は変わります。ボブは言います。
「実在する物の定義は変化しない物です。あなたの体は生まれた時から細胞はすべて入れ替わり、毎日変化していて、昔の体はどこにもありません。そんな物が実在する物と言えるでしょうか。椅子でさえも年月が経てばやがては消えてしまう。人も自分もやがては消えてしまう。ところが実際には他のエネルギーに変化するだけで消えたりはしません。あなたたちは実体のないものを見ているにすぎません」

インドに古くから伝わるアドヴァイタ哲学では、「万物は、他には何もない一つのもの」と説きます。
「一つのもの」と言えば手っ取り早いのですが、一つのものという表現を使うと、他に何かあるという印象を与えるので、「他には何もない一つのもの」と表現するそうです。

万物は実は「他には何もない一つのもの」。椅子も壁に掛かった絵も天井のライトも、私も、あなたも、実は「他には何もない一つのもの」。
それがあたかも別々の物であるかのように見えるのは、人間の思考がそのように認識しているだけ。そこにあるのは実体のないもの。

ボブの教えでは、私たちの見ている世界を顕現または見せかけ、現象と言い、非二元の本当の世界を実在、実存と言います。

顕現、見せかけ、現象の世界は二元性の世界で、それはそのように見えているだけで、非二元性が本当の世界だと言うのです。

注:ボブは、万物は一つのもの(one without a second)だと言います。これは直訳すると、(もう一つのものがない一つのもの)もしくは(二つではない一つのもの)と言う意味ですが、それだとわかりづらいので、私の場合は、「他には何もない一つのもの」という表現で統一します。

2015/01/13

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑥

時間は存在しない。今この瞬間があるだけ。

私たちは、昨日、今日、明日という時間の中で生きていると思っています。
でも実際によく考えると、時間というものに実態はなく、人間の思考が作り上げたものだということがわかります。

明日というものが実際には現時点ではないことは容易に理解できます。まだ起こってないことで、未確定のことだからです。
では、昨日はどうでしょう。

ボブは言います。「昨日というものがあるのなら、ここへ持ってきなさい。昨日と言わず、ほんの一瞬前の出来事だって、あなたにはどうすることもできない。あなたが生きているのは今この瞬間だけだ」

「でも、昨日のことは記憶にあるし、体験したことなので、昨日があったことは知っています」こう答えると、ボブは言います。

「その昨日はどこにありますか?あるのは、今この瞬間にあなたが思い出している記憶の中にしかありません。それを思い出しているのは今です。今この一瞬があるだけで、時間なんてものは存在しません。あるのはこの瞬間だけです。それが連続しているように見えるのは、あなたのマインド(思考)の仕業で、実際にはこの瞬間があるだけです」

私は最初、「時間は存在しない」ということがなかなか理解できませんでした。でも考えれば考えるほど、時間は存在しないと思うようになりました。

ボブは話の中で、(reference point) という言葉をよく使います。「ただそれだけ」を訳された高木悠鼓さんは、(reference point)を (参照点)と訳してみえますが、私は(基準点)と呼ばせていただきます。物を見る場合の基準となるような地点(場所、時、空間のある地点)だと考えてください。

私たちは、昨日という地点を基準点として見るために、あたかも昨日があるかのように錯覚してしまうのですが、それは私たちが勝手に置いた仮想の地点であって、実際には存在しません。

昨日の、「自分はいない」という件でも、自分という場所に、架空の基準点を自分で置いてしまうために、自分という存在がいるかのような錯覚が起き、他者がいるかのように錯覚する。どこに基準点を置くかで見え方はぜんぜん違ってくるが、そもそもその基準点そのものが架空のもの。

15億光年先のある日に基準点を置き、今日を振り返ってみた場合、昨日と今日の誤差は限りなくゼロに近づく。一生が一日で終わってしまう蜻蛉(カゲロウ)と、一生が八十年の人間とでは、当然時間の感覚も違う。どこに基準点を置くかで、それは変化して一定ではない。それを突き詰めて考えていけば、時間というものが人間の思考の中にしかないとわかる。

時間というものが実在しないとなると何が起こるか。時間が実在しないとわかれば、人は未来を憂うこともなければ、過去を後悔することもなくなり、目の前の今だけを真剣に生きるようになる。

普通に考えると、ちょっと理解できないようなことを当たり前のように書いていますが、私自身もなかなかすんなりと理解できませんでした。
さりとて、「私は実在しない」とか、「時間は存在しない」というようなことを、科学的に立証するような方法があるわけではなく、あくまで個人で体感して腑に落とす以外にない。

ある時私は、なかなか理解ができずにイライラしてボブに聞きました。

私「自分がいないということも、昨日がないということも、知的には理解できました。でも、なぜかスッキリしません。エンライトメントとか、超常的な理解の瞬間がやってきて、ちゃんと理解できる日が来るのでしょうか?」

ボブ「そんな瞬間は来ません。理解するのは今この瞬間です。2+2はいくつですか?」

私「4です」

ボブ「それをあなたは、知的に理解していますか?それとも単に理解していますか?」

私「単に理解していますが、それとこれとは同じではありません」

ボブ「海へ行って、青い水をバケツ一杯汲んで来いと言われたら、あなたはそれができますか?」

私「いいえ、海の水は光の反射で青く見えるだけで、青い水ではありません」

ボブ「それを知的に理解していますか、それとも単に理解していますか?」

私「海の水が青ではないことは知っています」

ボブ「地球が丸いということを、知的に理解しているのか?それとも単に理解しているのか?(知的に)を付ける必要はありません。(知的に)を取ってください」

私「わかりました」

2015/01/12

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ⑤

あなたが自分だと思っている自分は実在しない。



ボブは言います。(私はボブの発言をテープレコーダーで録音している訳ではありません。そのため、このブログの中で、ボブの発言をそのままリアルに再現するということができません。ボブがこんなようなことを、こんな感じで話したという風に書きます。これはあくまで説明の便宜上やっていることで、言い回しは正確に同じではありませんのでご了解を)
「あなたが、自分だと思っている自分は、本当に実在するのか調べてみてください」

どうやって調べるのかというと、調べる道具はマインド(思考)。
思考を使って、自分という存在がどこにいるかを調べていく。

自分という存在はマインド(思考)なのだろうか。多くの人は、自分という存在はマインド(思考)だと思っている。思考そのものが自分だと考えている。

ボブは言う。
「思考は朝目覚めるとやってきて、夜眠る時にはどこかへ消える。それがあなたなのですか?」
「思考はのべつまくなしそこにいる訳ではなく、無い時もある。いたりいなかったりする存在があなたなのですか?」

思考が自分ではないということは、自分で調べて理解するしかなく、誰もそれを教えてはくれない。
思考が自分ではないとすれば、体が自分なのか?
体が自分だとすると、そのどこに自分はいるのか?

五歳の時の体の細胞はすべて入れ替わっている。あなたはどこかで自分が入れ替わったのを覚えているか?

思考を使って、自分というものが本当に実在するのかを調べていくと、自分というものが実は実在しないという結論に行きつく。
これは、「自分とは何か?」と一度も自問したことがない人や、精神世界の本をまったく読んだことがない人には容易に理解しがたいことかもしれない。

この理解には、エンライトメント(覚醒)や、超常的な理解は一切必要ありません。その点はボブに何度も確認しました。普通の知的な理解です。
これがすぐに理解できなくても、何の問題もありません。理屈ではなく、感覚としてわかる瞬間がやってくるまで、自分で調べてみてください。
それがセイラーボブの教えの入り口でありゴールです。

自分が実在しないということを理解するのは、それほど難しいことじゃない。ただ、それが当たり前の事実として実感できるかどうかが問題で、その理解が起きる期間は人による。そんな風には思えない、理解できないと言って去る人も少なくない。

ボブは言います。
人間は、生まれた時は自分という概念を持たずに生まれてくる。ところが二歳か二歳半ぐらいになると、だんだん自分という概念を身につけ始める。

親や周りの大人たちは、赤ん坊であるあなたに語りかける。
「ジョニーはかわいいね」
「ジョニーご飯だよ」
「ジョ二―起きる時間だよ」

すると子供は、自分はジョニーなんだということを植えつけられる。自分というものが存在するのだと思い始める。自分という者がいるとすれば、自分以外の者(あなた、彼、彼女)もいるんだと思い始める。

この思い込みが、自己と他者を二つに分離してしまう。本当はそんな分離などなく、私もあなたもたった一つの存在なのだということが見えなくなってしまう。

ボブが言うのは、個人の問題の大半は人との関係性に関わるものだという。
あの人が私を傷つけた、私は彼より劣っている、私は人より自尊心がない、私はあの人より不幸だ、というような問題は、自分と他者との比較から生ずる。

自分が実在しないとなれば、当然他者も同じように実在しない。そうなると、人に対して怒ったり責めたりすること自体が意味をなさない。

もし、自分というものが実際には実在せず、まわりの大人たちが植えつけた条件付けだったとしたら、そしてそれを明確に理解したとしたら、他者との比較は消え、不幸の原因も消滅する。

2015/01/11

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ④


セイラー・ボブ・アダムソンは1928年7月21日生まれのオーストラリア人。
12歳から働き始め、15歳で酒を覚え、以後17年間に渡って飲酒癖に苦しむことになる。

17歳で海軍に入隊。沖縄にも来たことがあるそうです。
海軍に二年半いたものの、慢性のアルコール中毒から来る不安神経症にかかり、海軍を追放される。

その後彼は、アルコール中毒に苦しみながら、羊毛刈りなどの職を転々とする。
32歳になる頃、アルコール中毒から脱出すべく、AA(断酒会 Alcoholics Anonymous)という会合に通う。

そこでボブは、カトリックの神父が書いた「Sobriety and Beyond(禁酒と超越)」という本に出会い、その中で「私たちアルコール中毒者は、人生で二度目の機会が与えられている」という一節に出会います。

ボブが断酒したのは二度目だったため、誰がこの二度目の機会を自分に与えてくれたのかと思い、それを見つける探究を始めた。
洗礼を受けたり、ミサに通ったりして、様々な本を読むようになる。

マハリシ・マヘッシ・ヨーギがメルボルンに来ると講話を聴きに行き、瞑想などを試みた。
様々な探究を試みたのち、48歳の時(1976年)に、インドのボンベイでニサルガダッタ・マハラジを知り、彼の話を一年間にわたり聞きに行くようになる。

ボブはニサルガッタ・マハラジの話を理解してオーストラリアへ帰国。
彼の、16年にも及んだ探究は終わり、以後今日まで、自分が学んだことを教え続けている。

ボブの教えは、インドに古くから伝わるヒンズー教哲学のアドヴァイタ、チベット仏教の最高の教えであるゾクチェン、高度なキリスト教を基にしていると言っています。

ボブのアドヴァイタ(非二元論)は、ニサルダッタ・マハラジから直接学んだものですが、本質的な教えは同じでも、その伝え方や細かい部分はニサルガダッタのそれとは随分違うようです。

ボブの教えはとてもシンプルで、難しい用語や、難解な理論を話すことはしません。
彼の教えの基本は、「自分で調べてみなさい」というところから始まります。言葉はいくら巧みに説明したとしても言葉でしかなく、その物ではありません。ボブの言葉は、あくまでもポインター(指し示すもの・ヒント)であり、それを調べるのは私たち自身です。

私はボブの言葉の中から、自分の心に響いた物を選んで書いていきます。
ボブには、これが「ボブのバイブル」だといえるような本はありません。

本になっている物はすべて、彼の講話のテープを書き起こしたものか、もしくはその抜粋、インタビュー形式のものばかりで、彼自ら筆を取って書いた書物はありません。

一度彼に、「あなたのバイブルと言えるような本を書いてください。そうすれば、みんなもっと簡単に理解できるので、ぜひ本を書いてください」と言ったところ、彼は困ったような顔をして、「書けないんだよ」と言いました。

彼の話は明晰で、知性にあふれています。とても自分で本が書けないとは思えないのですが、若くして働き始め、すぐにアルコールの世界に溺れた彼にしてみれば、自分で本を書くということは、それほど簡単なことではないのかもしれません。

本を書いていないからと言って、彼の見識や深い洞察力は疑いようもありません。それは一目彼に会った人なら誰でもわかるほどで、その人柄は威厳と温かさユーモアにあふれています。

彼の教えの全体を理解するためには、彼の本を読んで、直接彼の話を聞くのが一番だと思いますが、直接会わなくても理解することは十分可能だと思います。

ボブはいつも、メッセンジャーを信奉するのではなく、メッセージを理解することが大切だと言います。

私なりに詳しくわかりやすく書くつもりです。質問があれば気軽に質問してください。真摯な質問にはちゃんと対応させていただきます。
また、ある程度の英語力のある方なら、一度、直接ボブ本人に会ってみるのもいいかもしれません。

彼の話を聞き取るにはそれなりの英語力を必要としますが、個人的にやり取りするだけなら、簡単な英語でもできます。
彼は週三回、元気に喋っていますし、気さくな人で、来る者を拒んだりはしません。

今まで、ボブのところを訪れた日本人はそれほど多くないそうです。(ネットやここに通っている人の話から私が把握しているのは今のところ9人だけです)

2015/01/10

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ③

メルボルンに着いた翌週に、「ただそれだけ」を書いたカリヤニが、彼女の家へ昼食に招いてくれた。

私はメルボルンに着く前にカリヤニにメールして、ボブのミーティングの詳細を尋ねた。
カリヤニは、私が数日しか滞在しないと思ったらしく、ちゃんとボブの教えを理解できるようにと、個人的に招待してくれたのだという。(たまたま久しぶりにカリヤニがボブに会う口実として私を招いてくれたようです。すべての来訪者にそうしているわけではありません。)
                                        ボブと私
                                  真ん中がカリヤニ・左は夫のピーター

そこで、私は、かねてから疑問に思っていたことを聞いた。

以下は、ボブの家に置いてあるパンフレットからの抜粋(同じ文章はボブのホームページにも掲載あり)

The idea of enlightenment or self-realization as a onetime event or a lasting and permanent state or experience, is an erroneous concept.

エンライトメント、すなわち自己実現が一度だけの出来事として起きる、もしくは永続して定着するか経験として残るという考えは誤った考えです。(訳は拓)

要するに、この文章を読む限りでは、エンライトメント(覚醒、悟り)なんてものはありませんと言っているように取れる。
そこで私は、ボブ、カリヤニ、ピーターを前にして、この文章の意味するのはどういうことなのか?エンライトメントはしないのか?と聞いた。

そしたらボブは、「エンライトメントはありません。なぜなら、あなたはもうそれなのです」と言った。
そこで私は、「いいえ、私は覚醒なんかしていません。それを求めてここへやってきたのですから」と言うと、今度はカリヤニが、

「そんなものは無いのよ。私たちはみんな同じ。もうすでに、それなのよ。それに気づいていようが、いまいが、もうそれなのよ」

テープに録音していたわけではないので、言い回しは正確とは言い難いが、こんな感じのやりとり。

「ということは、私たちは皆エンライトメントしているけれども、気づいていないだけですか?それに気づいた時がエンライトメントなのですか?」と、なおも尋ねた。

「エンライトメントするという考えそのものが間違っている。誰もエンライトメントなんかしやしない」と今度はピーター。
私は三人の言っている意味がわからなかった。ボブは、「覚醒などない」と言う。
ということは、ボブも覚醒していないということか?

なおも質問を繰り返したが、なぜエンライトメントがないのかわからないままランチは終了。

私は覚醒するためにここへやって来た。それが無いとはどいうことなのか。
メルボルンにやってきて二週間ほど経過し、本も何冊か読み、ボブの話も少しは聞き取れるようになったので、ミーティングで思い切って質問した。

「私がここへ来て二週間、あなたの教えを大体理解しました。でも、まだ私に覚醒が起きません。一体それは、いつ、どのようにして起こるのでしょうか」

「エンライトメント(覚醒)なんて起きません。なぜなら、あなたはもうすでにそれ(覚醒している)だからです」とボブ。

「いいえ、私はまだエンライトメントしていません」

「では、あなたは、エンライトメントはどういうふうに起こると思っていますか?」とボブ。

「いろんなマスターの話によると、急に周りのものが光に包まれて、すべてのことが鮮明で、真理が理解できたと言う人もいれば、突然に幸福感がとめどなく湧き起ってきて、それが続くと言っている人もいます」

「そんなものは単なる経験です。それは誰にでも起きることで、やってきては去っていく。それをエンライトメントと結び付けてはいけません。エンライトメントなんてことは起こらない。なぜならあなたはもうそれなのです(You already are!)」

なおも同じ質問を繰り返すと、ボブの脇に座っていたギルバートが言った。
(ギルバートはもう10年以上ボブのもとにいて、彼がテープを起こして編纂した「What is wrong right now unless you think about it?」という本のおかげで、ボブは広く世界に知られるようになった。)

「もしヴィクトリア・マーケットへ行って、エンライトメントが売っていたら、あなたは買ってくることができるかい?たとえ、売っていたとしても、どれがエンライトメントかわからないんじゃ、手に入れようがないじゃないか」

そう言われて、反論のしようがなかった。私は、エンライトメント(覚醒)するという状態が、どういうものかも知らずに探し求めきた。

ボブの世界には、覚醒する(エンライトメントする、悟りを開く)という概念がないということはわかった。だとすると、ボブはエンライトメントしていないのか。
私は、こっそりとギルバートにそのことを聞いた。

「ボブの意識は、お釈迦様やキリストと同じレベルにある。でも、エンライトメントしたわけじゃない。もともとそうなんだ。そして、あなたも私も同じだ。私たちは、気づいていようがいまいが、一度もそこから外れたことはない」

明日から詳しく書きますが、セイラー・ボブ・アダムソンの教えでは、エンライトメントする(覚醒する・悟りを開く)ということは、一切ありません。
私たちは、気づいていようがいまいが、もう覚醒しているのです。

注:英語で、(覚醒する、悟りを開く)という表現は、(become enlightenment, be enlightenment, attain enlightenment)。enlightenという単語だけで、(覚醒する、悟り)を開くという意味の動詞としては使いません。

2015/01/09

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ②

2014年11月14日にメルボルンに着いた私は、すぐにボブのミーティングに参加した。
彼は、メルボルン市内の自宅で、週三回、一般の人に向けて話をしている。

ボブの家の住所
4/950 Buke Road, Deepdene. Melbourne, Australia 3103

City方面からトラムで行く場合は109番のトラムに乗って、42番のトラム乗り場で降りるとボブの家の前の交差点の、はす向かいに着く。
ボブの家は集合住宅の、向かって左から二軒目、4という表示の家。

ミーティングの時間
火・木曜日:午後7:30から午後9:00まで
日曜日   :午前10:00から午前11:30まで

予約は不要で、直接行けば入れてくれる。彼の家の居間はそれほど広くはなく、15畳ぐらい。
そこに椅子が並べられている。参加者は平均すると10人から15人程度。多くても20人を超えることはあまりない。

入口で20ドルのドネーション(寄付)を払い、靴を脱いで中に入り、好きな席に座る。
開始の20分前ぐらいまでに行けば、たいてい前の方の席を確保できるし、ボブと個人的に会話することもできる。

※ミーティングの時間やドネーションは随時変更になっています。事前にホームページで確認して行ってください。


ミーティングに参加して驚いたのは、ボブの英語の聞き取りにくさ。オーストラリア訛りがある上に早口。ボブが高齢(86歳)ということもあり、モグモグと、こもったように喋る時もあり、聞きづらい。

行かれる人はYou-tubeで耳慣らしをしてから行かれることをお薦めします。実際はこのYou-tubeほど鮮明には喋りませんが、講和の冒頭の部分は私がブログに書くようなことを毎回繰り返し喋るので、私のブログを読んでいただければ、聞き取りの助けになると思います。

ミーティングは日によってパターンが違うが、たいていは非二元論の話から始まる。
その話は、20分の時もあれば、40分ほど続くこともある。話が終わると、質疑応答に入り、参加者からの質問に答える形で進められる。

時には、まったく話をしないで、いきなり質疑応答から始まることもある。ボブは、その場の雰囲気や、参加者の顔ぶれで内容を決めている。

セイラー・ボブ・アダムソンは現在86歳。背が高くてがっしりした体型。
足腰が弱っているので、歩く時は杖を使う。ミーティングの最中は補聴器を使用。
会話や話し方は元気そのもので、年齢を感じさせない。

最初の一週間は、その場の雰囲気やボブ本人に慣れることを優先。ボブの家で売っている本を全部購入。宿でYou-Tubeでボブの講和の聞き取りに努める一方で、本を読み漁った。

私が読んだ本

ただそれだけ―セイラー・ボブ・アダムソンの生涯と教え

Living Reality: My Extraordinary Summer With "Sailor" Bob Adamson (English Edition)

A Sprinkling Of Jewels」Kalyani Lawry & Peter Laery編纂

What's Wrong With Right Now? ギルバート・シュルツ編纂 講話集

「Beyond Words Beyond mind 」Gilbert Schultz編纂・booklet(ボブの家で購入)

「Sailor Bob Adamson Inter-view」booklet(ボブの家で購入)

「Who do you think you are」Gilbert Schultz著・電子書籍(内容はギルバートの著作)

「Everything is Clear & Obvious」Gilbert Schultz著・電子書籍(内容はギルバートの著作)

(帰国後日本で入手して読んだもの)

Presence-awareness: Just This And Nothing Else ジョン・ホイーラー編纂講和集

Only That: The Life and Teaching of Sailor Bob Adamson 日本語版は「ただそれだけ」

関連サイト

セイラーボブのサイト

カリヤニのサイト

ギルバート・シュルツのサイト

ギルバート・シュルツのサイト the urban guru's cafe(非二元論関連)

Sabine のサイト(ボブや他のアドヴァイタ関連のYouTubeあり)

Sabineのfacebook

Kataryna のfacebook (2018年10月現在、毎週ボブのミーティングをライブ中継)

Sailor Bob Adamson-YouTube(Katargyna主催・ミーティング翌日にはこちらで配信)

アセンション館通信

resonanz360塩人間の海底探検 (セイラー・ボブ・アダムソン入門講座)

***

私は、これを書いている(2015年1月9日)現在、メルボルンに滞在中で、今後もミーティングに参加予定です。

ボブのミーティングには、今日までで22回参加。個人面談1回。その他に、他の人とも一緒にボブと会食した回数は10回(そこでの質問も可)。

このブログに書く内容は、今まで読んだボブ関連の本と、ボブが話した内容だけを基にしています。
他の、一般的な非二元論については、私は学んだことがありませんので、すべてボブから学んだことだけに基づいています。

私の説明が二週間ほど続きますが、それが終ったら、実際のボブの講和の冒頭部分を翻訳掲載予定で、今関係者にお伺いをたてております。
私のつたない説明ではわからん、と言われる方は、それまでお待ちください。

2015/01/08

セイラー・ボブ・アダムソン・ミーティング・2015 ①

始まりは友人からの一通のメールだった。
その時私は世界を旅している最中で、どこにいたのか覚えていないが、たぶん今から一年ほど前。

友人のメールには、彼がオーストラリア人、セイラー・ボブ・アダムソンの本を読み、二回彼に会いに行ったことが書かれていた。


その友人とは、かれこれ30年近い付き合い。彼も私も、言わば精神世界の探究者。かつて一緒にインドのアシュラムで瞑想したこともある。

彼が会いに行ったセイラー・ボブ・アダムソンという人物に興味を持ち、人に頼んで、本を旅先まで持ってきてもらった。日本語で出版されているボブの本は今のところこの一冊だけ。

本は入手したものの、旅が忙しくて、すぐには読まなかった。
どうせまた今まで読んだ多くの本と同じで、多くは得られないだろうと思っていた。
旅が中東にさしかかると、旅をするのに飽きてきて、もう旅を終わりにしようと思うようになった。

イランにいる時にその本を読み始めたところ、その本に書いてあることは、今まで読んだ精神世界の本とは違う目新しい内容だった。

精神世界の本というのは玉石混合で、ガラクタは何の役にも立たないばかりか、害になるものも多い。読み始めてすぐに、セイラー・ボブ・アダムソンの教えの深さを直感した。

私はあわてて友人にメールして、「もしかして君は覚醒したのか?」と聞いた。
精神世界の本を読む人の動機は様々だが、たいていの人は自分が幸福になるために本を読む。

幸福になるために、心の安定、経済的な安定、良好な対人関係や世間での成功を求める人が多く、それが精神世界の本を読む動機でもある一方で、覚醒(エンライトメント、悟り)を求めている人も多い。

私も友人も、覚醒を求めて長年探究してきた。その友人が、私よりも先に覚醒(悟り)を得たのではないかと思った。

「覚醒したかどうかは自分でもわからない。でも、オーストラリアでボブに会ってから、明らかに何かが変わった。もう精神世界の本は読まないし、探究は終わった」と彼は言った。
私は動揺した。あれほど私が手に入れたいと思って探していたものを、彼は先に手に入れたかもしれない。

私は急いで旅の舵をオーストラリアに切る一方で、「ただそれだけ」を何度も読んだ。結局、オーストラリアに着くまでに7回通して読んだが、覚醒が起きないどころか、書いてある内容をよく理解できなかった。