2021/07/16

8月7日(土)から当ブログを再開させていただきます。

少しずつブログ再開の準備をしています。仏教について書こうと思っていますが、仏教には詳しくないので、概略を学ぼうと、YouTubeをあれこれ見ています。

もしよかったら、興味のある方は以下のYouTubeを見ておいてください。
私がブログに書くこととも関係していますし、ある程度背景知識があった方が、私の下手な説明だけよりいいのかなと思います。

                                
 ここから下のYouTubeは、それぞれが連続シリーズになっています。シリーズの最初のものだけを掲載しましたが、できれば全部見ていただくとよいと思います。
佐々木閑さんについては、以前このブログで般若心経の時に紹介したことがあります。佐々木閑さんは花園大学教授ですが、コロナのため授業を行うことができず、YouTubeで講義を配信されました。
こんなありがたい講義を無料で聞けるなんて、なんとすばらしいことでしょう。

2021/06/10

ブログ再開のおしらせ

8月7日(土)から当ブログを再開させていただきます。
再開後は、週一回、毎週土曜日に更新予定です。

仏教の唯識の思想を中心に書こうと思い、関係書籍を一通り読んでからブログを書こうと、せっせと読んでいますが、難しくてなかなか進まず、同じ本を何回も読んでいます。これではすぐにはブログを再開できないと思い、年内はお休みしようと思っていました。

ところが、一か月前に読んだ本の内容はどうだったかと考えても、すっかり内容を忘れている。余分な本を持ちたくない性分なので、図書館で借りられる本は借りて読んでいます。本はまた借りればいいけど、私の借りる本は誰も読まないような本ばかりらしく、毎回地下の収蔵庫まで取りに行ってもらっている本ばかりで、図書館のおねえさんに迷惑至極。一通り読んでからなんてことはだめだと思う今日このごろ。

前後で整合性がなくなったとしても、途中でお休みしたとしても、本を読みながら、ブログを書きながら進めないとあかんという結論に。それに、来年なんてどうなってるかわかりゃしない。服を脱いで裸になってからお風呂をつけ忘れたことに気づく回数の増えた今日このごろ。来年なんて言っていたら、認知症になっていて、ブログどころじゃないかもしれん。

ついでにセイラーボブの近況を少し。
セイラーボブは5月の初めに膝の手術のため入院、リハビリして2回ほどミーティングを休みましたが、退院後は元気にミーティングを続けています。

メルボルンは10日まで4回目のロックダウン中で、この2回ほどは無観客ミーティングでした。メルボルンのすごいところはちょっとクラスターが出ただけでロックダウンをする行動力。オーストラリアの野球チームがオリンピックの予選を棄権したのもうなずける。

というわけで、もう少しお待ちを。

2021/06/03

おたよりをいただきました。

拓さん、こんにちは。

以前、何度か質問等させて頂きました、セツと申します。

5月18日の記事で、拓さんが今後読む予定の本ということで、仏教のキーワードをいくつも挙げておられましたが、その中に僕の好きな浄土系のものがなかったので、僭越ながら僕が繰り返し読んでいる本を2冊紹介させて頂こうと思い、メールを書いております。

・「親鸞と一遍 日本浄土教とは何か」(講談社学術文庫) 竹村牧男著

・「法然親鸞一遍」(新潮新書) 釈 徹宗著

大乗仏教が大衆を救うものであるならば親鸞・一遍の念仏はそのひとつの極みだと僕は感じています。拓さんの読書がひと段落つく時があったら是非読んでみてください

セイラー・ボブさんをはじめとして、非二元の教えに僕が惹かれた理由はやはりそのシンプルさだったと思います。その教えを理解された拓さんが唯識に注目されたのは僕には意外でした。僕みたいな短気な者には、唯識はまどろっこしくて学びを進められません。大乗仏教の基本としては「八不中道」がシンプルで僕は惹かれます。

拓さんのブログに新しい記事がアップされる日を楽しみに待っています!

不躾な乱文を失礼いたしました。

おたよりをありがとうございました。
教えていただいた二冊の本もぜひ読みたいと思いますが、読むべき本がたくさんあって、ちょっと先になるかと思います。

なぜ私が仏教関係の本を読み始めたかというと、それはギルバートからのアドバイスによるものです。以前、ギルバートとビデオチャットで話をした時に、仏教関係の本を読むといいというアドバイスをもらいました。もちろんそれは、非二元の教えの理解の一環としてのアドバイスでした。

ただ漠然と仏教関係の本というのではなく、具体的に何を読むといいかを教えてもらいましたが、その当時はセイラーボブの本を翻訳出版できないかと、毎日翻訳する事に忙しい時期で、仏教には取り立てて興味をいだきませんでした。

その後、翻訳出版をあきらめ、ブログも休止してから、何か物足りなさを感じて、ギルバートのアドバイスを思い出して読んでみたところ、そこにはすばらしい世界が広がっていました。

今せっせと読んでいるのは、大乗仏教の唯識思想とその周辺の本です。何冊か読んで感じたのは、その教えや世界観はすばらしいのですが、やはり宗教なので、修養や修行、善行みたいなことに重点を置いている部分もあって、その辺はちょっと受け入れがたい部分もあります。

修養や修行、善行でなんとかなるなんて全然思っていませんし、その辺はまったく賛同していません。すばらしいと思うのは、その前提となる唯識の思想そのものです。

たくさん読んで、唯識全体を理解してからブログを再開しようと思っていたのですが、唯識全体の理解は難しいし、仏教学者や学僧になろうとしているわけではないので、そこまでしなくてもいいのではと思う今日この頃。

答えはもうすでにわかっていて、「非二元の教えと仏教 (唯識) の教えは、根本的には同じことを教えている」ということです。ブログを書くために、その裏付けとなる範囲だけ理解できればそれでいいと思うようになりました。

それならそれほど時間はかからないだろうと思ったのですが、見慣れない漢字の仏教用語を理解しながら読むのは大変で、ゆっくりとしか進めません。

年内は充電のためこのブログをお休みして来年の一月一日に再開予定です。それ以前に再開する場合は、少なくとも再開の一か月以上前に、このブログ上で再開の告知をさせていただきます。

2021/05/21

おたよりをいただきました。

拓さんへ

読者の方からお礼や理解できました等のメッセージがほとんどないとのことですが、それは日本人特有のシャイさ故では?と推察します。
拓さんのブログの熱心な読者であれば、解説のわかりやすさと丁寧さ、情報の豊富さ、それらを惜しみなくシェアしてくださっていることに、感激し感謝を感じていることと思います。

「セイラーボブアダムソンの教え(詳しく)」シリーズ記事をすべて紙にプリントアウトして、「ただそれだけ」とセットにして繰り返し読んでいます。誰もがつまづきやすいポイント(実感が持てないことや、本当に理解だけで良いのか?等)についても拓さんの実体験と照らし合わせながら懇切丁寧に説明してくださり、それがセイラーボブの教えを理解する上で、実に有益な手助けとなっています。
ギルバートとカタリーナのぶっちゃけトークのくだりも秀逸で、かゆいところに手が届く非常に分かりやすい説明で、本当にありがたいです。
また、セイラーボブおよび拓さんの解説を自分なりに理解した上で、あらためてラメッシ・バルセカール著「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」を読んでみると、ビフォーセイラーボブのときに読んだ際はいまひとつ理解できなかった点が今度はスムーズに理解できる感覚がありびっくりしました。そして「エンライトメントなんてものはなくて、直感的理解こそが悟りである」とはっきり書かれていることを再確認しました。
また「私という存在が実在なのかどうか自分で調べる」を折に触れておこなってます。布団の中やコーヒーを飲みながらするのですが、ハッ!とした閃きや気付きがありとても面白いです。確固として実在すると思っていた「自分」って、よくよく調べてみると不確定で流動的であり、物質やら観念やら記憶やら日々生まれては置き換わってゆく雑多な要素・パーツで構成された暫定的プロジェクトみたいなものでした・・・。
拓さんのお父様のエピソードもとても印象的なポインターとなりました。
本に書かれていることを闇雲にただ信じ込むのではなく、自分自身であれこれ思案を巡らせたのち辿り着いた閃きは、確かに確信となりますね。

本を読んでいる最中、あるいは「自分で調べる」ためにマインドを使って熟考したり思案しているなかでふとやってくる「ハッ!としたふいの直感的理解」というのは、(行為者なしの)「見ること」「聞くこと」などの純粋な認識活動と同じく「(行為者なしの)純粋な理解」だな、とも思いました。
「私という主体がこの本を読んで教えを理解する」でなくて、機が熟したときにふと「(私という行為者なしの)直感的理解がただ起きる」ということかなと。
そのことに気付いたときに、「エンライトメントという体験ではなくて、(知的)理解で本当にいいのか?」という問いへの答えがもたらされたような気がしました。

拓さんの書かれる文章は論理的でかつ読みやすく分かり易く、実体験から産み出されたリアルな言葉で、胸に響きます。ギルバート氏が言われたように、翻訳ではなくて、セイラーボブを完全に理解された拓さんとしての、ご自身独自の言葉・メッセージを一冊の本にまとめられてはいかがですか?
なんて差し出がましいことをいってすみません、そのくらいの魅力が拓さんの文章にはあります。

話は変わりますが、私は20代の頃(1990年代)東南アジア中心にバックパッカー的な旅をしていたことがあり、拓さんの世界旅行記のミャンマーやジョグジャカルタの記事を拝見してとても懐かしく思い出しました。
バガンのパゴーダに登って眺めた夕陽は最高でした。コロナが収束したらまた東南アジアを旅したいです。
私も、セイラーボブの教えを理解し真実を見抜いて、その上で「神様がくれた魂の一番おいしいところ」を余すところなく堪能しながら、深刻さにとらわれずspontaneouslyになるべく軽やかに生きていけたら、と思います。

追伸:
長々とすみません。的外れなことを書いているかもしれませんが、読み返しているうちにメッセージを送信する勇気がなくなってしまうかもしれないので、勢いのままに送信しちゃいます!
非公開希望というわけでもないですが、かといって公開希望でもなく、拓さんにおまかせいたします。

よろしくお願いいたします。
ひろ

おたよりありがとうございました。ラメッシのくだりは他の方にも参考になると思ったので公開させていただきました。

セイラーボブは、話を初めて聞きに来た人には" Ring a bell?"(ピンときましたか?)と気軽に聞いていました。そのため、理解するということは、それほど大げさに騒ぐようなことでもないのかもしれません。もちろん今だから言えることですが。

私が「知的にはわかるのですが・・・」とシリアスな顔で答えるとボブは「知的に以外にどんな理解がありますか?」と言ったものです。

「私は実在ではない」ということについては、仏教の唯識の思想でも同じことを教えていて、そこではかなり理論的に説明されています。最近読んだ本の中でわかりやすかったものを書いておきます。

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)

2021/05/18

おたよりをいただきました。

20年に及ぶスピリチュアルの探求(そして幻滅)ののち、ここ数か月ほど非二元の分野に興味をひかれ、ラメッシバルセカールやダグラスハーディング、ニサルガダッタマハラジなどを読み、「ここには真実が書かれている」という謎の確信を感じつつも、同時に理解する難しさを感じていました。そんなときセーラーボブの本を読み、「この人の説明はとてもわかりやすい!」と感激し、拓さんのHPにたどり着きました。そして拓さんの解説があることにより、セーラーボブが伝えようとしていることがより鮮明にクリアーに、そして、な~んだそういうことか~と「普通に」理解する事が出来ました。すばらしいHPを作成して下さり、それをこうして無料でシェアしてくださり、本当にありがとうございます!どうしてもひとことお礼を述べたくてメッセージ送りました。これからもっと読み込んでいけるかと思うと、喜びがじわじわとわきあがってきます。

よろしくお願いいたします。
ひろ

おたよりをありがとうございました。
こういうお礼のおたよりをいただくと、とてもうれしいです。何年もの間、せっせとブログを書いてきましたが、お礼や、理解できたというおたよりをいただくことはほとんどなく、ブログを書くモチベーションも下がり、そろそろホームページ化しようと、3月に休止したところでした。

やっとこういうおたよりをいただけるようになったと喜んでいます。
がんばってまたブログを再開しようと、モチベーションが上がりました。

ついでに私の近況を書いておきます。
その後、毎日せっせと仏教関係の本を読んでいます。

驚いたことに、そうした本を読んで、根本的にはセイラーボブと同じことを説いている人や経典がたくさんあるということを知りました。長年、スピリチュアルの本を読んできたつもりでいたのですが、仏教は形骸化した宗教に違いないと決めつけて、その方面の本は全く読んできませんでした。

でも、仏教関係の本の中で、「あるのは意識だけである」「私は実在ではない」「実在としての物は存在しない」「一切は空である」「主体と客体はなく、一つのものである」というフレーズをたくさん見つけました。そして、仏教で説いている悟りも、エンライトメントや覚醒ではなく、理解であると確信しました。

今せっせと本やサイトを読んで学んでいるのですが、使われている仏教用語が難しかったり、解説する人によって微妙な違いがあったりして理解するには時間がかかるため、ブログに書くのは、しばらく先になると思います。

参考になればという思いで、今後読む予定の本のキーワードを書いておきます。

龍樹(りゅうじゅ)、中観(ちゅうがん)、唯識(ゆいしき)、世親(せしん)、唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)、唯識二十論、法華経、華厳経(けごんきょう)、楞伽経(りょうがきょう)、達磨、黄檗(おうばく)、六祖檀経(ろくそだんきょう)

唯識(ゆいしき)とは読んで字のごとく、「ただ意識だけがある」という教えで、それが大乗仏教の根本思想であり、その教えが今日でも仏教の中で脈々と受け継がれています。「ただ意識だけがある」と聞いただけでもセイラーボブの世界を連想してワクワクしてきます。ブログ再開後はこうしたキーワードを中心に書いていく予定です。

2021/03/14

長期充電中です。

ブログとしては終了する予定でしたが、まだまだ書き足りない気がします。

セイラーボブは、仏教、禅でも根底には同じものがあると言っていて、盤珪や僧璨を引用することがあります
そこで、仏教、禅という切り口から非二元を見たらどうなるだろうかと考えて、その方面の書籍を読んでみようと思うようになりました。例えば、悟り、空、無ということは仏教、禅ではどう説かれているのかということ。そうすれば、違った角度から非二元を理解できるかもしれません。

別のブログを立ち上げようかとも思ったのですが、伝統的な仏教、禅に興味があるわけではなく、あくまでも仏教、禅の根底に非二元と同じものがどれほどあるのかということが知りたいだけなので、このブログに書くことにました。

2021/03/07

謝辞

ブログを読んでいただいたみなさん、おたよりをくださったみなさん、応援ありがとうございました。

セイラーボブに会い、私の精神世界の探求は終わりました。
とても長い間、精神世界の旅をしてきたと思っていましたが、ゴールにたどり着いてみると、そこはもともと私がいた場所であり、一歩も動いていませんでした。

探求そのものが幻想でした。
人間の意識が何か別の次元に変容するということはありません。

セイラーボブが教えていることは、いつも思考の背後にずっとある何かであり、今までも、そしてこれからも変わることなく存在する何かです。

それを手に入れる必要もなければ、セラピーやリトリートに参加して自分を変える必要もありません。

今この瞬間も、多くの人が出口のない探求を続け、自分ではない何者かになろうとあくせくし、そのほとんどの人が、自分は不完全な存在であるという思いを抱きながら生涯を終えます。

私はとても幸運でした。
セイラーボブに出会えたおかげで、あるがままの私で完全であるということを理解することができました。

そしてあなたも、あるがままの今のあなたで完全であり、何者かになろうとする必要はありません。
セイラーボブも私もあなたも、同じ一つのものの現れであり、完全なものです。

セイラーボブは繰り返し繰り返し私たちに同じことを語りかけています。
私たちは、あるがままで完全なものであり、もともとそれなのだと。

一人でも多くの人が精神世界の探求で大切な人生を浪費しないことを願っています。
一人でも多くの人がカルトに巻き込まれないで、生き生きとした人生を生きることを願っています。

2015 メルボルン

2021/03/06

エピローグ

深い森の中で一本の木が倒れた。木こりはドシーンという音を聞いた。

音とは何だろう。それはバイブレーション。バイブレーションが空間を伝わり、木こりの耳に届き、それを脳が変換してドシーンという音を感じることができる。

もしそこに木こりがいなかったら、ドシーンという音がするだろうか。
バイブレーションはあるかもしれないが、ドシーンという音はない。

海辺で一人の少女が青い海を見ていた。色とは何だろう。それは光の波長、バイブレーション。その波長が少女の目に届き、脳が青い色へと変換する。
もしそこに少女がいなかったら、青い海はあるだろうか。
色の波長はあるかもしれないが、青い海はない。

宇宙ステーションから一人の宇宙飛行士が丸くて青い地球を見ていた。形とは何だろう。それは光のコントラスト。光の波長が宇宙飛行士の目に届き、脳が丸くて青い地球へと変換する。
もしそこに宇宙飛行士がいなかったら、丸くて青い地球はあるだろうか。

もし、この世にあなたがいなかったら、そこに世界はあるだろうか?

2016 メルボルン郊外

2021/03/05

すべてはあるがままで完全なものです。

春が来ると桜が咲き、夏になるとセミが鳴き始めます。

アサガオは夜が明ける前に花を咲かせます。
ひまわりの花は日が昇ると太陽を追いかけます。

牡蠣は満月の夜に開き、サンゴは満月の夜に産卵します。
ウミガメは孵化すると、砂浜から這い出て海を目指して一直線に歩き始めます。

仔牛は生まれてすぐに立って歩くことができます。
サケは川で生まれ、遠くの海まで旅をして、また生まれた川へと帰ってきます。

こうしたことは、誰かから学ぶわけでもなく、自然に起こっていることです。
自然で起こっていることは、あるがままで完全なものです。

物事は自然に起こっているのです。
そしてすべては完全なものです。

花はただ単に咲いています。

何者かになろうとか、何かを思い悩んではいません。
ただ在るだけで完全なもの。
自然は完全そのものです。

そしてあなたも、その自然の一部です。

2017 タスマニア

2021/03/04

悩みや心配は不要です。

私たちの問題はすべて思考の産物です。
そして、心理的な苦悩は不要なものです。

What’s wrong with right now, if you don't think about it?
(もしそのことを考えなかったら、今何が問題ですか?)

この世界はすべて思考の産物です。
実際には、そこには誰もおらず、何もないのです。

生まれてしばらくすると、視界に様々なものが現れ、周りの人たちがありとあらゆる観念を植え付けます。私がママで、あの人がパパ。これがミルクで、あれが椅子。
そうやって徐々に世界が観念としてあなたの意識の中に現れて、世界を形作っていきます。

でも、あなたが定義付けしなければ、それはミルクでも椅子でもありません。世界はあなたの思考でできています。

そしてまた、周りの人や社会があなたに、何が幸せなのかも教えます。
良い仕事について、十分なお金を稼ぐこと。素敵なパートナーを見つけて、家庭を持って子供を育てること。家を買って老後に備えること。健康で長生きすること。

そうした条件付けによって、幸せとはこういうものだという世界観が構築されます。そして、その世界観から外れるような出来事が起こるのではないかと心配し、もしその世界観から外れるような出来事が起きると、「私は不幸だ」と、悩むことになります。

でも、実際には誰も幸せでも不幸でもありません。なぜなら、この世界を構築しているのは思考、観念であり、実際そこには何もないからです。そこにあるのは観念であり、幸せも不幸もあなたの思考の産物です。

あるように見えている世界は、命の本質が自然に現われているにすぎません。それに勝手な解釈を加えて悩んだり心配したりしているのは思考であり、いるはずのない「私」です。

誰かを恨んだり、うらやんだりする必要もなければ、自分がしでかした事を悔い悩む必要もないのです。あなたが解釈を加えなければ、そこには誰もおらず、何も起こってはいないのです。

かと言って、起こってくる思考や、そこにいるように見える「私」を消し去ることはできません。できることは、それは実体のないものだと気づいていて、物事を過度に深刻にとらえないことです。そこには誰もいないのですから。

2016 メルボルン

2021/03/03

あらゆる観念から自由でいること。

二元性の枠組みの中で物事を見るのをやめること。

私とあなた。自己と他者。主体と客体。見る者と見られる物。存在と不在。空と形。現実と非現実。完全と不完全。始まりと終わり。過去と未来。運命と自由意志。輪廻と解脱。現世と過去世。この世と天国。好きと嫌い。良いと悪い。正しいと誤り。快と不快。誰かが私を傷つけたと私は傷ついた。私は理解したと私は理解していない。私は幸せだと私は不幸だ。

こうしたことは全部マインドの産物であり、観念です。
私たちは、物事を二元性の枠組みの中で理解しようとします。

こうした枠組みはそれほど役に立たず、マインドを納得させる手段にすぎません。
マインドの中でスッキリしたとしても、実際には何かが変わったわけでも、解決したわけでもありません。

こうした区別は、あなたが観念として構築したものにすぎず、実体があるものではありません。こうした観念から自由でいると、自然な知性が流れ始めます。

何も理解すべきことはなく、何かすべきこともありません。
あらゆる観念から自由でいてください。
すべての問題はマインドの産物です。

無心(ノーマインド)、不生の仏心でいること。
どんな基準点からも自由でいること。

笑いたければ笑い、泣きたければ泣き、起こるに任せる。
何者にもなろうとせず、あるがままでいること。
すべてはあるがままです。

言葉にとらわれないでください。
名前や姿形にとらわれないでください。
名前や姿形は言葉であり、言葉は観念です。

もちろん、あらゆる観念から自由でいようとしても、難しいのはわかっています。
でも、「すべてはマインドの産物であり、観念にすぎない」と気づいていることはできます。
あなたが理由付けしなければ、問題などもともと何も無いのです。

生(せい)、命(いのち)はマインドの中で起こっているのではなく、今、目の前で起こっています。
それは、あなたの観念に関わりなく、自然に起こっています。
観念に迷い込むのをやめて、コーヒーでも飲みませんか?

2016 メルボルン

2021/03/02

世界は幻影である。

本当にそうでしょうか?

それを確かめるすべなど、あろうはずがありません。

例えば、私たちが眠っている間に夢を見て、「ああ、あれは夢だった」とわかるのは、夢から覚めた後です。そして、夢だとわかった後では、もう夢の中へ戻ることはできません。

世界が幻影であるとわかるためには、この世界の外に出なければなりません。つまり、死ななければ、この世界が幻影かどうかはわかりません。そして、死んだら、もう二度と戻ってくることはできないのです。

金魚は、自分が水の中にいるということを理解できません。金魚鉢の外から自分を見ることができないからです。

宇宙の全体はこうだ、といくら仮説を立てても、誰も宇宙の外へは出ることはできないため、宇宙の全体像は永遠の謎、仮説のままです。

万物は一つのものである。
万物が一つのものであるということを体験として知ろうとするなら、万物の外へ出ないと、それが一つのものであるかどうかはわかりません。

誰も万物の外へ出ることができない以上、それが一つのものであるということを体験した人はいません。

私はいないという体験も同じです。私の外に出ないと、それを確かめることはできません。でも、私がいない時、私がいないという状況を見ているのは誰ですか? そこにそれを見ている人がいなかったら、私はいなかったと後で思い出すこともできないはずです。

非二元の教えはこうした矛盾、逆説に満ちています。何か良い解決法はないかと人々は考え、エンライトメントという、おとぎ話を作りました。

誰かが最初に、「私は覚醒した」と言い始め、人々はその人を崇め、それを刷り込まれた追従者たちが同じような疑似体験をして、「私も覚醒した」と言い、そうした歴史が幾世にもわたって繰り返され、人々はエンライトメントを信じるようになりました。

私はいないということを体験するためには、私の外に出なければなりません。
万物は一つのものであるということを体験するためには、万物の外に出なければなりません。
世界は幻影であるということを体験するためには、世界の外に出なければなりません。

「私」が死ぬ時、世界は消滅します。なぜなら、世界は「私」の意識の中にしかないからです。でも、基準点を残された人たちに置くなら、依然として世界はそこにあります。

非二元の教えを知的に理解することは可能ですが、それを実際に体験することはできません。もし、それを実際に体験しようとして探求を続けるなら、一生迷路にはまり込んだままです。

非二元の理解は、頭であれこれと考えた理解ではなく、直感的、感覚的な理解であり、疑いようのない真実としての絶対的な確信です。それは機が熟せば自然と起こってくる洞察、理解です。

私たちは幻影の世界にいて、夢を見ています。
でも、この夢が覚めることは決してありません。

2015 メルボルン

2021/03/01

救済される時。

人がスピリチュアルの世界(精神世界)に興味を持つ理由は様々です。
でも、たいていの場合、何らかの問題を抱えていて、その解決策を精神世界に求めます。

対人関係、家族のこと、お金、仕事、失恋、心の病、強迫観念、憎しみ、悲しみ。そうした問題の多くは簡単には解決法が見つからないため、手っ取り早く悩みや重圧から解放される方法を探して、精神世界に入っていきます。

スピリチュアルの本を読んでも、グルや教師を訪ねても、グループワーク、セミナー、セラピー、リトリート、瞑想、なんたらのセッションに参加しても、問題は解決しません。

私もそうでした。
私は昔、こっぴどい強迫神経症に悩まされましたが、当時は強迫神経症という病名すら知らず、自分は狂人なのだと思っていました。あれこれの本を読み、催眠治療や様々なセラピーを受けたのですが、ますますひどくなるばかりでした。そうしてますます精神世界に傾倒していき、仕事を辞めてインドまでグルに会いに行ったり、チャネリングの会に参加したり、熱心に瞑想したり、どうしても自力で飛んでいるとしか思えない人たちと一緒に気功を習ったりしました。

そうしたことが、私を救済することはありませんでした。最終的に私を救済したのは、「強迫神経症を治す方法などない。人間とは多かれ少なかれ強迫観念を抱えて生きていくものだ」という理解でした。

具体的には、以前おたよりのコーナーで書いた、森田正馬博士の本を読んで、「強迫観念をあるがままに受け入れて、やるべき日常の仕事をする」ということを続けていくうちに、強迫観念は消えていき、そのうちに忘れてしまいました。

これは何も強迫神経症にだけに当てはまることではなく、人生で起きるすべての問題に当てはまることだと思います。人生には様々な問題が起きてきます。そのほとんどが、個人の力ではどうしようもない問題です。

非二元的に言うなら、「私」が引き起こした問題ではなく、自然に起こってくる問題です。でも、人は何とかして自分の力でその問題を解決しようとしてもがきます。バタバタと、もがけばもがくほど、物事は悪い方へと向かいます。

そんな時、「人生にはそうした問題はつきものだ、解決の方法などない、物事は自然に起こっているのだ」と、あるがままに見つめてみてはどうでしょうか。そうすると、物事は自然に良い方へと向かい始めます。

問題を解決しようとあくせくする間はエネルギーを浪費するだけで、解決へと向かいません。なぜなら、もともと問題などありはしないからです。

私を癒したのは、「解決の方法などない」という理解でした。
そんな貴重な経験をしたにもかかわらず、私はその後も覚醒、エンライトメント、解放を求め続けました。覚醒、エンライトメント、解放があると思っていたからです。

私はまた、「私は実在ではない、万物は一つのものである」ということがなかなか理解できませんでした。理解するためには何か特別な体験が必要だ、理解したら、何か特別な事が起きるはずだと思っていたからです。

それを理解する方法などないし、何も特別なことなど起こりはしないと理解した時、本当の意味での理解が起こりました。マインドの中には答えはないと心底理解したからです。
解放、救済、理解が起きるのは、「解放、救済、理解の方法などない」ということを心の底から理解した時です。それを探し求めている間は解放、救済、理解は起きません。

あなたが何も求めない時、そこには解放と喜びがあります。
なぜなら、その執着こそが自然なエネルギーの流れを妨げているものだからです。

最後によくあるスピリチュアルジョークをひとつ。

ある男が崖から落ちて、崖の途中の木にしがみついて、こう叫びました。
「おーい、誰か上にいるか。助けてくれ~」

返事がなかったので男はこう言いました。
「では、神はいないのか。もしいるなら私を助けくれ~」

すると神がこう答えました。
「よろしい、助けてあげよう。まず最初に、その手を木から放しなさい」

男はしばらく考えたあとで言いました。
「お~い! 誰か他の神はいないのか~」

2016 メルボルン

2021/02/28

「私」は消えない。

多くの人が非二元を学び、どうしたら「私」が消えるのだろうかと考えています。
いくら「私」は想像の産物であるということを理解しても、「私」は繰り返しやって来ます。

生きているかぎり、肉体と思考があり、「私」が消えることはありません。
いくら思考を止めようとしても、思考を止めることはできません。
止めたと思っても、すぐに次の思考がやってきます。
肉体と思考があるかぎり、「私」はそこにいるように見えます。

もともとそこには何もないのに、私たちはそこに「私」がいると勝手に想像しています。
いるはずのない「私」がいると思っています。

もともといるはずのないものなら、消す必要もないのではないですか?
もし本当に意識の中から「私」が消えたら、あなたは車や建物にぶつかってしまうでしょう。
すべての記憶が消え、言葉も忘れ、人との会話も成り立たず、すぐに病院に入れられてしまうでしょう。

多くの一瞥体験者が、「そこに私はいなかった」と言います。
では、その体験を覚えているのは誰ですか? 私がいなかったのなら、それを記憶しているのは誰ですか? それを気憶しているのは「私」ではありませんか?

非二元の教えの一番大切なところは、私が「私」だと思っている存在は実在ではないということです。
ところが、ちまたにあふれる本やブログは、そのことと覚醒、エンライトメントをセットにして、私は実在ではないという理解は覚醒や一瞥体験によってもたらせるというものがあまりにも多い。

非二元、アドヴァイタの本質は理解であり、覚醒ではありません。
「私」がいないという体験を探す必要はまったくありません。
本当は「私」はいないと理解していればそれで十分です。
体験を求めれば求めるほど、迷路にはまり込むことになります。

2015 メルボルン

2021/02/27

セイラーボブの教えていることは覚醒やエンライトメントではありません。

「私」は実在ではなく、単なる観念のかたまりにすぎないと理解できれば、観念のかたまりが覚醒しないのは自明のことです。

セイラーボブの教えていることは、何かを体験することや、何かになることではありません。
セイラーボブの教えていることを理解しても、覚醒やエンライトメントは起きません。何か特別な体験をしたり、人々が自慢げに語る一瞥体験が起こるということもありません。

(ああ、そういうことだったのか)(自分はもともとそうだった)と理解するだけです。
覚醒した人やエンライトメントした人なんてのはいません。誰かが、「私は覚醒した」と言ったら、そいつには気をつけてください。

「永遠に続く至福」「とめどないエクスタシーの連続」「思考の停止」「意識の変容」「終わりのない幸福」「異次元の意識」。全部まやかしです。

日本中にどれだけの仏教寺院があって、どれだけの禅僧がいると思いますか? タイやミヤンマー、チベット、そして世界中にどれだけの仏教寺院があって、どれだけの僧侶がいると思いますか? そのうちの誰かが覚醒した、悟りを得たというニュースを聞いたことがありますか?(もちろん、仏教や禅で言うところの「悟り」がエンライトメントだと言うつもりはありませんし、仏教や禅が教えているのはエンライトメントだと言うつもりもありません)

千日回峰を成し遂げたというニュースは聞いたことがありますが、誰かが覚醒、悟りを得たというニュースは聞いたことがありません。このインターネットが発達した世の中でも、そうしたニュースはまったく目にしません。

覚醒したという知らせは、いつも、「自称」であり、その知らせをたどっていくと、必ず覚醒ビジネスへとつながっています。

インドには、自称「覚醒した人」がたくさんいます。ニューデリー空港の売店に行くと、それらしき人の写真パネルと一緒に本が山積みになって売られています。覚醒はインドの産業だからです。彼らは世界中から人々を集めて、金を巻き上げているのです。

日本のネット上でも同じことが起きています。彼らのキーワードは巧妙で、「目覚め」「気づき」「癒し」「一瞥体験」「セラピー」「精神世界」「瞑想」「グループワーク」「遠隔…」などです。

あなたが、「私も覚醒したい」「私も一瞥体験がしたい」「私も癒されたい」と思った瞬間に、彼らの術中にはまったのだということを理解してください。彼らはあなたから金を巻き上げるか、毒にも薬にもならない教えを刷り込むだけです。そうしてあなたは、終りのない精神世界の旅をさまよう羽目になります。

「あなたは不完全だ」「あなたは今のままではだめだ」「あなたは癒される」「あなたは解放される」。こうした言葉には注意してください。

人々にはいつも、「救われたい」「解放されたい」という思いがあります。でも、誰が救われるというのですか? 救われる「私」は単なる観念であり、そこには誰もいません。

自分ではない何者かになろうとする焦燥と奮闘を手放す時、本当の意味での平安が訪れます。

悩み、災難、不幸、生老病死は人の常です。
それが生きていくということであり、いくら姑息な手を使って避けようとしても避けられません。

でも、そうした出来事は、どこに現れていますか?
もし、そうした出来事にとらわれず、こじらせなければ、それはやがて去っていくものではありませんか?

そうした出来事とは関わりなく、いつも背後にあるものは何ですか?

2017 タスマニア

2021/02/26

お知らせ

永らく皆さんに読んでいただいたこのブログですが、3月7日をもってブログとしての更新を終了させていただき、ホームページ化します。(ホームページと言っても、体裁は今とほとんど変わりません)

それまでに書く内容は、今までこのブログで何度も書いたことと同じであり、その繰り返しになるかと思いますが、セイラーボブの言葉を借りるのではなく、私自身の言葉で書いていきます。多少辛辣なことも書きますが、それはあくまで私個人の意見であるとご了解ください。

セイラーボブの教えを広く皆さんに知っていただきたいという思いでこのブログを書いてきましたが、その役目はある程度果たせたのではないかと思っています。

去年の夏ごろから、ニサルガダッタ・マハラジの言葉を訳してブログに掲載する一方で、セイラーボブの本を翻訳して出版できないかと考えました。私はプロの翻訳家ではないし、本の出版をやったことはありません。でも、あれこれと調べるうちに、翻訳家になるための7つのステップ 知っておきたい「翻訳以外」のこと・寺田真理子著あなたを出版翻訳家にする7つの魔法を読んで、私でも出版できるのではないかと思うようになりました。

そして、著作権者に了解を取る前に一通り全部訳してみて、問題なく訳せたら著作権者の了解を取って出版社を探すことにしました。

二か月ほどかけて、「What's Wrong with Right Now!」を翻訳してみたところ、問題なく訳すことができたので、著者権者であるギルバートにメールで出版の許可をお願いしたところ、返事はノーでした。

私はギルバートとは旧知の仲で、約半年間も一緒にボブのミーティングに出席していたので、快く許可してくれると思っていたので驚きました。

メールで何回かやり取りした後、facebook のビデオチャットで会話しましたが、やはり返事はノーでした。

ギルバートが言うには、セイラーボブの使う英語には独特の表現があって、英語ネイティブですらどう解釈していいかわからないものが多くあるので、それを他の言語に翻訳すれば、誤解のもととなる、翻訳しない方がいい、ボブの教えはあくまで英語で理解すべきだと言うのです。そして、もしボブの教えを人に伝えたいのなら、翻訳ではなく、自分で本を書くなどして、自分の言葉で伝えた方がいいとも言いました。

確かに、ボブの使う英語には、どう翻訳してよいか困るものがたくさんあります。
例えば、awareness, livingness, being, seeing, knowing.

また、ある時ボブは私に、"Live your livingness!" と言いました。livingness を辞書で調べても、載っていません。(生の本質)(生き生きとした命)(生そのもの)というような意味であるとはわかるのですが、それを翻訳するのは大変です。
「命の本質を生きなさい」
「生き生きとした人生を送りなさい」というような翻訳に落ち着くとは思うのですが、何かしっくりきません。

ボブの本にはこうした言葉が随所に出てきます。ギルバートの言うことはもっともですが、高木悠鼓さんはちゃんと訳してみえるのだから、他の言語に翻訳するのもありではないかと思いました。

ギルバートが私の翻訳力を疑っているのかと思いましたが、そうではないようです。
ギルバートは、私よりはるかに英語が堪能なオーストラリア在住の日本人に、「ただそれだけ」は日本でちゃんと翻訳されているのか、と尋ねたことがありました。

私も含めボブのミーティングにやってくるほとんどの日本人が、セイラーボブは覚醒した人だと勘違いしてやって来るのを目にして、ちゃんと翻訳されているのか、翻訳では正しく理解されないのではないかと思ったのだと思います。

高木さんの翻訳は素晴らしいと思うのですが、あの本を読んで、どれだけの日本人がセイラーボブは覚醒した人ではなく、覚醒など無いと言っているということを正しく理解しているでしょうか?

「ただそれだけ」の最後のページの終わりの三行を読むだけでも、そこには覚醒などないとちゃんと書いてあるのに、ほとんどの人はそのことを理解しません。

「What's Wrong with Right Now!」の出版はあきらめました。もともと、一番翻訳したいと思っていた本は「Living Reality」です。この本がセイラーボブの教えを理解するにはベストだと思います。

でも、この本は厚さが「What's Wrong with Right Now!」の3倍近くあって、訳すのに時間がかかるし、売れるかどうかわからない高価な本を出版する出版社を探すのは容易ではないと考えました。もし、「What's Wrong with Right Now!」を出版できたら、「Living Reality」も出版したいと考えていました。

「Living Reality」の著作権者であるジェームズ・ブラハは、このブログで「Living Reality」の一部を抜粋翻訳する許可をくれたので、本全体の翻訳も許可してくれるのではないかという思いもあり、「Living Reality」を翻訳することにしました。

これも同じように、一通り全部訳してみて、問題なく訳せるとわかってから著作権者の了解を取ることにしました。昨年の9月から約三か月かけて、全体の80パーセントぐらいまで訳しました。その時点までは問題なく訳せたし、あと一か月もあれば終わるだろうと思っていました。

でも、ある日ふと思ったのです。私は一体毎日毎日パソコンに向かって何をやっているんだろうかと。全部訳して、仮にジェームズ・ブラハが出版を許可してくれても、出版してくれる出版社があるだろうか? このコロナ禍の中で出版社を探すだけでも大変なこと。仮に出版できたとして、どれだけの人が買ってくれるだろうか? 読んだ人の何人が内容を理解するだろうか?

私のブログの毎回のアクセス数平均は60前後です。その全員が買ってくれたとしても60冊です。書店で見かけて買ってくれる人がどれだけいるでしょうか? 覚醒した人の本を買いたいと思う人はいると思いますが、「覚醒していない人」「覚醒なんてないと言う人」の本を買いたいと思う人がどれだけいるでしょうか? 

いくら私がセイラーボブの教えを正しく理解していると思っていても、翻訳家でもないシロウトの私が、ネイティブでさえ理解に苦しむボブの特殊な言い回しを日本語に訳すのは問題ではないか?

そんなことを考えているうちにギルバートが言う「ボブの教えは英語で理解すべきだ」という言葉がだんだん大きくなっていきました。セイラーボブの教えていることは、私なりの言葉でもう十分にブログに書いた。たくさんの人に読んでもらい、またこれからも読まれると思いますそれで十分だと思うようになりました。

同時に私は、「本を翻訳して出版した人」になりたいという自身の虚栄心、エゴに気づくようになり、出版したいという気はなくなりました。

もともと私は偉い人になりたかったわけではありません。マスターやメッセンジャーになりたかったわけでもないし、本を出版したかったわけでもありません。
ただただ救われたかった。ただただ「覚醒した人」になりたかった。

私はボブに会って救われ、覚醒などないと知った。私の探求は終わりました。
そして今、
このブログの更新も、そろそろひと段落つけたいと思うようになりました。

もちろん、セイラーボブが教えてくれた非二元こそが私にとっての最高のものであるという思いは変わらないし、今後も Facebook 経由で時々はボブのミーティングも見るつもりです。

2016 ボブの家

2021/02/25

ニサルガダッタ・マハラジ 目次

ニサルガダッタ・マハラジとは

ニサルガダッタ・マハラジ YouTube

  ・ニサルガダッタ・マハラジ 1979フィルム

  ・ニサルガダッタ・マハラジ ドキュメンタリー'Tatvamasi' (I am That)

  ・汝それなり ニサルガダッタ・マハラジ ドキュメンタリー With Sailor Bob Adamson

ニサルガダッタ・マハラジの言葉(このページをスクロールして順番に下へ読んでいってください)

ニサルガダッタ・マハラジの言葉 まとめ

長い間、ニサルガダッタ・マハラジの言葉を掲載してきましたが、マハラジの言葉はこれで終了です。
サイト上にはまだまだ素晴らしい言葉がたくさんあるのですが、諸事情により終わりにします。
私なりにマハラジの言っていることをまとめてみます。

まず第一に、マハラジはエンライトメントや覚醒については何も語っていません。
ということは、マハラジの教えていることは、エンライトメントや覚醒ではないということです。多くの人が、マハラジは覚醒した人だと勘違いしています。彼の教えていることは覚醒ではありません。

マハラジが教えていること。
①あなたの想像以外、何もあなたを苦しめはしない。
②タットバマシ(汝それなり)
③理解することがすべてである。

大胆に言ってしまえば、この三つがマハラジの教えの神髄です。
サイト上にあるマハラジの言葉を読んで思ったのは、多少の表現の違いはあるかもしれませんが、セイラーボブは、かなり忠実にマハラジと同じことを教えているということです。セイラーボブの教えていることも覚醒ではありません。あくまでも理解です。

2021/02/24

ニサルガダッタ・マハラジの言葉

“Liberation is not an acquisition but a matter of courage, the courage to believe that you are free already and to act on it.” 
 Nisargadatta Maharaj

「解放とは獲得するものではなく、勇気である。あなたはもうすでに自由であると信じる勇気、そしてそれにもとづいて行動する勇気のことである」
Nisargadatta Maharaj

「利己的執着なしに生きることを学びなさい。そのためには、あなたは自分の本質が不屈の恐れを知らない永遠の勝利者でありことを知らなければならない。あなたの想像以外に何もあなたを悩ますものなどないと絶対の確信をもっていったん知ったなら、あなたは欲望や恐れ、概念や思考にとらわれることはなく、真実のみに生きる」
Nisargadatta Maharaj

欲望とは快楽の記憶である。そして恐れは苦痛の記憶である。どちらもマインドを落ち着かせない。
Nisargadatta Maharaj

あなたは、私は理解したと考えているのは誰かという謎を解くまでは、理解したとは言えない。
Nisargadatta Maharaj

2021/02/23

ニサルガダッタ・ マハラジの言葉

It has nothing to do with effort. Just turn away, look between the thoughts, rather than at the thoughts. When you happen to walk in a crowd, you do not fight every man you meet, you just find your way between. When you fight, you invite a fight. But when you do not resist, you meet no resistance. When you refuse to play the game, you are out of it.
Sri Nisargadatta Maharaj

それは努力することとは何の関係もない。思考そのものを見つめるのではなく、方向を変えて、思考と思考の間だけを見つめなさい。人込みを歩く時、あなたはすれ違う人に衝突することなく、間をすり抜けていく。あなたが抵抗すれば衝突を招く。あなたが抵抗しなければ、衝突はない。あなたがゲームを演じることを止めると、あなたはそのゲームから自由となる。
Sri Nisargadatta Maharaj