本当にそうでしょうか?
それを確かめるすべなど、あろうはずがありません。
例えば、私たちが眠っている間に夢を見て、「ああ、あれは夢だった」とわかるのは、夢から覚めた後です。そして、夢だとわかった後では、もう夢の中へ戻ることはできません。
世界が幻影であるとわかるためには、この世界の外に出なければなりません。つまり、死ななければ、この世界が幻影かどうかはわかりません。そして、死んだら、もう二度と戻ってくることはできないのです。
金魚は、自分が水の中にいるということを理解できません。金魚鉢の外から自分を見ることができないからです。
宇宙の全体はこうだ、といくら仮説を立てても、誰も宇宙の外へは出ることはできないため、宇宙の全体像は永遠の謎、仮説のままです。
万物は一つのものである。
万物が一つのものであるということを体験として知ろうとするなら、万物の外へ出ないと、それが一つのものであるかどうかはわかりません。
誰も万物の外へ出ることができない以上、それが一つのものであるということを体験した人はいません。
私はいないという体験も同じです。私の外に出ないと、それを確かめることはできません。でも、私がいない時、私がいないという状況を見ているのは誰ですか? そこにそれを見ている人がいなかったら、私はいなかったと後で思い出すこともできないはずです。
非二元の教えはこうした矛盾、逆説に満ちています。何か良い解決法はないかと人々は考え、エンライトメントという、おとぎ話を作りました。
誰かが最初に、「私は覚醒した」と言い始め、人々はその人を崇め、それを刷り込まれた追従者たちが同じような疑似体験をして、「私も覚醒した」と言い、そうした歴史が幾世にもわたって繰り返され、人々はエンライトメントを信じるようになりました。
私はいないということを体験するためには、私の外に出なければなりません。
万物は一つのものであるということを体験するためには、万物の外に出なければなりません。
世界は幻影であるということを体験するためには、世界の外に出なければなりません。
「私」が死ぬ時、世界は消滅します。なぜなら、世界は「私」の意識の中にしかないからです。でも、基準点を残された人たちに置くなら、依然として世界はそこにあります。
非二元の教えを知的に理解することは可能ですが、それを実際に体験することはできません。もし、それを実際に体験しようとして探求を続けるなら、一生迷路にはまり込んだままです。
非二元の理解は、頭であれこれと考えた理解ではなく、直感的、感覚的な理解であり、疑いようのない真実としての絶対的な確信です。それは機が熟せば自然と起こってくる洞察、理解です。
私たちは幻影の世界にいて、夢を見ています。
でも、この夢が覚めることは決してありません。