多くの人が非二元を学び、どうしたら「私」が消えるのだろうかと考えています。
いくら「私」は想像の産物であるということを理解しても、「私」は繰り返しやって来ます。
生きているかぎり、肉体と思考があり、「私」が消えることはありません。
いくら思考を止めようとしても、思考を止めることはできません。
止めたと思っても、すぐに次の思考がやってきます。
肉体と思考があるかぎり、「私」はそこにいるように見えます。
もともとそこには何もないのに、私たちはそこに「私」がいると勝手に想像しています。
いるはずのない「私」がいると思っています。
もともといるはずのないものなら、消す必要もないのではないですか?
もし本当に意識の中から「私」が消えたら、あなたは車や建物にぶつかってしまうでしょう。
すべての記憶が消え、言葉も忘れ、人との会話も成り立たず、すぐに病院に入れられてしまうでしょう。
多くの一瞥体験者が、「そこに私はいなかった」と言います。
では、その体験を覚えているのは誰ですか? 私がいなかったのなら、それを記憶しているのは誰ですか? それを気憶しているのは「私」ではありませんか?
非二元の教えの一番大切なところは、私が「私」だと思っている存在は実在ではないということです。
ところが、ちまたにあふれる本やブログは、そのことと覚醒、エンライトメントをセットにして、私は実在ではないという理解は覚醒や一瞥体験によってもたらせるというものがあまりにも多い。
非二元、アドヴァイタの本質は理解であり、覚醒ではありません。
「私」がいないという体験を探す必要はまったくありません。
本当は「私」はいないと理解していればそれで十分です。
体験を求めれば求めるほど、迷路にはまり込むことになります。