2024/12/31
良いお年を
大晦日。みなさんいかがお過ごしでしょうか。
facebookによると、セラーボブは毎日看護師に来てもらって、痛みに対処するための投薬治療をやってもらって静かに過ごしているそうです。
私の中のボブのイメージは、まだ元気旺盛なころ、誰の助けも借りずに週三回90分間、迫力満点でしゃべっていたころのままです。
最近のボブは、話すことさえままならないような様子で、それをYouTubeで見るのは忍びない思いでした。でも、そうした姿を見せることもある種のメッセージなのかもしれません。
セイラーボブは何も特別な存在ではなく、他の人と同じように、老いることも病に苦しむこともあるのだということを見せているのかもしれません。そこには、インチキマスターにありがちな、特別なカリスマ性を演出しようという意図は微塵もありません。
大切なのはグルではなく、メッセージなのだと日頃言っていることを体現しているのかもしれません。そして今はカットや他の数人の語るメッセージに耳を傾けています。
一日でも長く、ボブがそうしていてくれることを願うばかりです。
この一年をブログ上で振り返ると、前半は昨年カリヤニが日本に来たことから引き続いて、ボブ以外の非二元の教師について書きました。後半は、佐々木閑先生のYouTubeと、セイラーボブのポインターを中心に書きました。セイラーボブのポインターは大半がボブのfacebookから拝借したものです。その言葉は、カットが書いていると思われますが、何から引用しているのかは知りません。
日々のポインターは基本的にはネット上にあるものからの引用であり、書籍からのものではありません。書籍、特に「LIVING REALITY」には良い言葉や、おもしろい話がたくさんあるのですが、著作権の問題があるので引用することを控えています。ボブの教えの全体を知るには、やはりこの本が一番良いと思っています。
さて来年も今までと同じような感じで、繰り返しボブのメッセージを伝えていきたいと思っています。自分でも同じようなことばかり書いているなと思うのですが、ボブだって同じことを40年以上も話してきたのだから、これでいいのだと思います。以前のようにミーティングを訳して載せるといいなと思うのですが、あれはけっこう時間がかかるので、今のところは予定していません。それと、残念なことに、ボブが一人で話していたころのYouTubeはあまり残っていません。
非二元の教えは、理解したら終わりということではなく、それを生きなければ意味がないと思うのです。本当に「私」は実在しないと身に染みているか。いるはずのない「私」が架空の悩み事にどっぷりと巻き込まれていないか。いるはずのない「私」がありもしない明日の心配ばかりしていないか。
繰り返しボブの言葉に触れることが助けになると思っています。このまま引き続きコツコツとやっていきます。あまり目新しいことは書けないかもしれませんが、また気が向いたら読んでみてください。
みんさんにとって来年が良い年となりますように。
2024/12/29
今日のセイラーボブ
The same essence. Sailor Bob's nonduality meeting on 29 dec 2024
今日のボブは少しだけ発言しました。33:08と37:30あたり。
途中で看護師がやってきて中断があり、針の交換や投薬をしたようです。
2024/12/27
アウエアネスを身体から取り出して、どれだけのことができるか見てください
そしてもちろん、この「私」という思考がやってきます。それは生そのものと密接に結びついています。うわべ上で、それはとても深く結びついているため、本当の自分とはその「私」だと信じています。でも、それは翻訳されたものです。
火の中の鉄が火の性質を帯びるのに似ています。火の中の鉄は赤く、熱く、取り出すと火のように燃えています。
うわべ上では、私たちが自分自身に対して抱いている肉体的、精神的イメージが自分で物事をやっているように見えます。
私たちは、「それが私。私は選択できる。私には意思がある。私はこうしたことすべてができる」言います。でも、鉄を火から取り出すと、何できません。
生のエッセンス、目覚めている意識、あるいはアウエアネスを身体から取り出して、どれだけのことができるか見てください。そうすると、身体は生のエッセンスによって活性化されることはなく、崩壊して空そのものへと帰ります。それでも、何も失われはしません。
セイラーボブ
2024/12/24
あなたは意識の外へと投げ出されたことなどありません
私たちは、直接体験していることの明快さを見逃しています。あなたは意識(awareness)を探す必要はありません。意識無しでいようとしてみてください。
意識の中へ入るとか、意識の外に出るということは不可能です。
意識がすべてです。そしてそれが本当のあなたです。
あなたは意識の外へと投げ出されたことなどありません。
セイラーボブ
2024/12/22
今日のセイラーボブ
Crashing rocks of concepts with Bob's style nondual inquiry 22 Dec 2024
ボブが話さないのはさびしい気がしますが、英語学習ビデオとしてはいいのかもしれません。みんなしっかりとマイクを持って話すので、聞き取りやすいです。
2024/12/20
一瞥神話 覚醒神話 覚醒者神話
私は長い間、多くの聖人、賢者たちは覚醒した人だと信じていました。仏陀、キリスト、老子、J.クリシュナムルティ、ラマナ・マハリシなどなどは全部覚醒した人たちだと信じていました。そして自分も覚醒して苦しみから解放されたいと思っていました。
でも今ではそれは単なる神話、おとぎ話にすぎないということを理解しました。覚醒した人などおらず、人が覚醒することもないということを理解しました。そうなると、そうした世界を一瞥するということも、ある意味おとぎ話であるとわかります。人が覚醒しないのなら、覚醒した世界を一瞥するなんて起こりようがないからです。
なぜ人は、覚醒神話や一瞥神話をいとも簡単に信じてしまうのでしょうか。おそらく自分が生きている現実世界がうまくいかず、辛く悲しいことが多いため、なんとかしてそこから脱出できないかと思うからではないでしょうか? 覚醒したら、悩むことなく毎日幸せに暮らせると言われれば、それを手に入れたいと思うのではないでしょうか?
私もそうでした。どうしても覚醒を手に入れたかった。苦しみや悩みから解放されたかった。セイラーボブに出会い、そんなものはないと知ってなんとがっかりしたことでしょう。なんと無駄なことに人生を浪費したのかと後悔しました。そして、そこには「私」もいないと知りました。
しばらくはがっかりしていましたが、覚醒という逃げ道がないと知って、逆にすっきりしました。自分は、人生につきものの悩みや苦しみを覚醒、あるいは瞑想によって、お手軽に解決しようとしていただけだと悟りました。
人は悩みや苦しみと真正面から対峙して生きていくしかないということを学びました。精神世界の探求者は、自分は倫理的にも精神的にも高尚な道を歩いていると思っていますが、実はお手軽な方法で悩みや苦しみから逃げ出したいだけのような気がします。
生きていくということは、そんなに簡単に悩みや苦しみから逃れることができるようにはできていないし、そうやって逃れるのであれば、生きていることの醍醐味を味わえないのではないでしょうか。
非二元を学んで、「私」も悩みも苦しみも実在ではないと学んでも、問題は次々とやってきます。そんな時、それは実体のないものだということを思い出しながら逃げることなく生きていけばいいのではないでしょうか。
2024/12/19
AIはもともと悟っている
生成AIに関する新しい動画です。怪しい教祖様も登場します。
これおもしろかったです。
AIはもともと悟っているというあたりが興味深かったです。人間だってもともと悟っているんですけどね。思考が邪魔しているだけで。
2024/12/17
あなたは絶えざる流れであり、それがあなたなのです。
どんな抵抗も葛藤を生みます。緊張して、くつろぐ(at ease)ことができません。あなたはくつろいでいません。不安。病気(dis-ease)です。
もし、良いことが起こったら、どうしたいですか? 良いことも留まることはないとわかっています。すると何が起こりますか? それが去ってしまうことに抵抗します。どんなことをしてもそれを留めようとします。
この、想像上の分離した存在のために、私たちには絶えず抵抗があるのです。それに伴い、あらゆる心理的な苦悩、痛み、ドラマが起こります。
しかし、その参照点がなかったら、すべてはあるがままです。あなたは絶えざる流れであり、それがあなたなのです。
セイラーボブ
2024/12/15
今日のセイラーボブ
Nonduality small group discussion on 15 Dec 2024
ボブは途中からはずっと眠ってましたね。facebookによると、ズームの個人面談はほとんど断っているそうです。食も以前よりは細くなったそうですが、たまには人の助けを借りて庭に出ることもあるそうです。
2024/12/13
本当のあなたとは、思考以前にあるもののことです
あなたは自らの存在を否定することはできません。誰も私はいないと言うことはできません。誰もが自分は存在すると知っています。でも、私が言っているのは思考の「私は在る」のことではないのです。それは存在の感覚、存在する意識(アウエアネス)がマインドに翻訳されて思考の「私は在る」となっているのです。本当のあなたとは、思考以前にあるもののことです。
セイラーボブ
2024/12/10
私たちはもともとそれである
顕現としての世界は自然に現れています。望ましい「未来の状態」という考えは目を曇らせ、すでに存在するものを見えなくします。
今はいつもここにあります。いつか未来に何かを達成するという考えは、この瞬間を完全に認識する妨げとなります。
この意識(アウエアネス)の外へ出ることはできません。意識は思考に注意がいってしまうという習慣によって見逃されます。
概念に没入することによって、「私たちはもともとそれである」という真実に気づくことを邪魔し続けるのです。
ピーター・ローリー
2024/12/09
ボブの近況
Nonduality group Bob's style with songs. 8 Dec 2024
最初と最後に数秒だけボブが登場します。
寝ている隣で歌ったりしゃべったりして、うるさくないのかなと思いますが、ボブは耳が遠いからいいのかも。
2024/12/08
2024/12/06
非二元の教師たちが言っていることはシンプルなこと
非二元の教師たちが言っていることはシンプルなこと。私が「私」だと思っているものは実在しない。ただそれだけ。
彼らが特別な意識を達成した人でもなければ、私たちとは別の世界を見ているわけでもない。
特別な体験をしたわけでもなければ、覚醒して別の意識の次元にいるわけでもない。
私たちと何も変わらない普通の人たち。
あれほどの大男だったボブが今はひどく痩せて小さく見える。
あれほどの迫力とユーモアで語っていたボブが今は多くを語らず休んでいる。
老いることも病に苦しむこともある普通の人。
ボブはごく普通の人。私たちと何も変わらない普通の人。
そして普通の人であることがどれだけかけがえのないことかを教えてくれた偉大な人。
2024/12/05
盤珪
【第5回:禅僧の逸話に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2024年11月5日(火)
盤珪の話は何度聞いても飽きません。ボブの話のネタ元と思われる話がいくつかあります。
2024/12/03
自然界では、対極のペア同士は互いに対立してません
ボブ:自然界では、対極のペア同士は互いに対立していません。私たちは、すべての問題の原因である実体がいると思い込み、過去の出来事や経験をこの実体、「私」に結びつけることによって問題を引き起こします。私たちは「私」を好みますが、もしそれが嫌いならどうしますか?
質問者:変えようとします。
ボブ:あなたはそれを変えたいと思うでしょう。つまり、あなたはそれに抵抗しているのです。あなたはそれを変えようとしています。そして、どんな抵抗も葛藤です。葛藤すると、あなたは不調になります。あなたは安らぎを感じません。不安です! 不調です。それが病です。
セイラーボブ
2024/12/02
2024年11月30日のボブ
昨日のミーティングにボブの姿はありませんでした(そのYouTube)。ボブは今眠っているということでした。前回のミーティングでは、薬の影響かもしれませんが、かなり朦朧とした感じがあって、ちょっと心配しました。無理をしないで休んでほしいと思います。
YouTubeでは、11月30日にラメッシュがベッドの横で読み聞かせをする様子がアップロードされました。
BOB Says: Sailor Bob's commentary of Hsin Hsin Ming. 30 Nov 2024
信心銘についてボブが語っているものですが、出典は知りません。ラメッシュが編集した新刊(AS IT IS. Unaltered Unmodified Uncorrected)からかもしれません。
2024/11/29
何がやってきても、そのままにしておいてください。
それは自然界で起こっていることと同じです。そのままにしておけば、ひとりでに収まっていきます。何かが起こり、「これが好き」、あるいは、「これに抵抗してはいけない」という思考が起こった時でさえ、それをどうにかしようとせずに、そのままにして、変更も修正もせず、受け入れも拒絶もせず、執着も放棄もせず、そこにはいかなる見解も考えも抱かないのなら、それはそこに留まることができるでしょうか?
何がやってきても、そのままにしておいてください。すると、自然界で起こっているのと同じように、それは去っていきます。
セイラーボブ
2024/11/28
2024/11/26
もし、存在の感覚がマインドによって思考の「私は在る」という言葉に翻訳されなかったら、あなたは何なのですか?
私たちの問題はすべて、「私は在る」という信念から生まれます。では、「私は在る」とは何でしょうか? それは学んで身に着けたものではありませんか? もし、存在の感覚がマインドによって思考の「私は在る」という言葉に翻訳されなかったら、あなたは何なのですか?
セイラーボブ
2024/11/24
もうそろそろ休ませてあげたい
Nondual investigation beyond words, beyond mind. With Sailor Bob's silent presence.
セイラーボブの居間でのライブが放送されました。
ボブが特別な人間ではなく、普通の人と同じように老いて病に苦しむのだということを知るには良い機会かもしれませんが、もうそろそろ休ませてあげたいなあと思ったのは私だけでしょうか。
2024/11/22
以前ケンさんからいただいたおたよりについてもう一度
以前このブログにいただいたケンさんからのおたより。それを時々思い出して考えることがあります。
「私」が実在ではないのなら、そこには何があるのか。セイラーボブが知性エネルギーと呼ぶものは何なのか? 多くの非二元の教師がアウエアネス(意識・あるいは気づき)と表現するものは何なのか? いくら非二元の本をあれこれ読んでも、結局はそれは私たちが確認することも理解することできないものだというような説明に行き着くだけです。
それ以上の説明を聞くと、ケンさんが言われたように、それを「我」の置き場にすることは避けられないような気がします。
非二元の教師の中には、「『私』は思考の産物であり、実在しない」というところまで説明して、それ以上の説明をしない教師もたくさんいます。時々思うのですが、非二元の教えの一番大切なところは、「『私』は思考の産物であり、実在しない」ということだと思います。説明はそこで終わりにしてもいいような気がします。これは私の勝手な解釈ですが、仏教もそこをゴールにしていて、それ以上のこと(そこに何があるのか)を説いていない気がします。
それ以上のことを説けば、神話や想像の世界に入って行かざるえません。
非二元は宗教でもカルトでもなく、日々の生活に役立つ実践的な教えだと思うし、そうあるべきだと思います。だとすると、「『私』は思考の産物であり、実在しない」ということの理解だけで十分ではないかと思います。それ以上の理解を手に入れようとするのは無駄であり、危険でさえあるような気がします。多くのカルトマスターたちが、あたかもそれを手に入れられるもののように説いて多くの人を誤らせた歴史を見ればわかることです。
セイラーボブの言葉であっても、例えば「知性エネルギー」という説明を鵜呑みにする必要はなく、神話として片付けてもいいし、別の解釈もあっていいと思います。
私はといえば、「『私』は思考の産物であり、実在しない」という理解までで終わりにしています。「私は実在しない」ということは確信を持って理解しました。でも、それ以上のことは知らない。そこには何があるのか。それは何なのか。それは誰にもわかりようのないことだと思います。U.G.クリシュナムルティが言うように、意識なんてものがあるのかどうかも疑ってみる必要がある。
2024/11/19
非二元の教えの胆(きも)
非二元の教えの胆(きも)は何だろうかと時々考えます。「私は実在ではない」とか、「物事は自然に起こっている」とか言われても、じゃあ一体どうすりゃいいの? と思うこともあります。
「私」は実在ではないと理解すると、私たちの悩みはマインドの産物であり、実体のないものだということがわかります。「私」が実在ではないのなら、その「私」の産物である悩みや不幸も実在しない。
非二元の教えは、必要以上に自分を責めたり、不安や精神的苦悩を抱え込んだりしないためにあるのだと思います。責めるべき「自分」も苦悩も想像の産物にすぎない。
10年前、20年前の自分を思い返してみて、その頃何を悩み苦しんでいたかと思い返してみると、そのどれもがそれほどのことでもなかったと気づきます。
そうやって一生を終えると、最後には、この「私」も消えていく。
そうわかっていても、あれこれの悩みや迷いを運んでくるのがマインド。そしてまた「私」はそうした悩みや迷いと格闘、あるいは遊び始める。その繰り返し。
非二元を学ぶと、その格闘、あるいは遊びから、ある種の距離感が生まれ、以前ほどどっぷりと問題に巻き込まれることはなくなる。そこらあたりが非二元の胆なのではないでしょうか?
マインドの活動を停止させることはできなし、架空の「私」を完全に消し去ることもできません。
でも、それが想像の産物だということを知っていたら、起こっている幻想の世界を楽しんで生きる手立てとなるのではないでしょうか。
2024/11/17
2024/11/16
ミーティング終了のお知らせ
セイラーボブの家の居間でのミーティングは、明日(2024年11月17日)が最後になるという発表がありました。
理由は、ボブの体調がよくなくて、居間に病院用のベッドを備え付けるためだそうです。ボブの寝室は家の二階にあり、最近は階段昇降用の簡易エレベーターで移動していたようですが、それも難しいのかもしれません。
ボブの病気についての詳細な発表は今のところありませんが、痛みを緩和するための処置が必要だそうです。以前の facebook 上の発表では、ボブは oncologist doctor(腫瘍専門医)にかかっていると言っていました。
三日前まで、ボブはズームのミーティングに出て話をしていましたが、今後ズームミーティングを続けるかどうかは今のところ発表がありません。
2024/11/15
それは自ら輝き、自らを知り、自ら目覚めている
ボブ:私が「普段の目覚めている状態」というのは、覚醒している状態であり、あなたはそうなるために何の努力も必要としていないということです。自分が眠ってはいないと気づけば、目覚めているに違いないのです。では、それをどうしますか? そのままにしておいてください。そのままに。
質問者:それを見つけることはない。もうすでに見えているのですから。
ボブ:ええ。
質問者:誰がそれを見ているのですか?
ボブ:覚えておいてほしいのは、それは自ら輝き、自らを知り、自ら目覚めているということです。
2024/11/12
つまり、あなたは「それ」なのです
つまり、あなたは「それ」なのです。あなたは、そこにはある実在が存在すると一貫して堅く信じてきました。
そもそも、何もなかったのに、その存在に戻ることはできません。
今では、それは見破られ、理解されているので、もはやそこには実在が存在すると信じることはできません。
セイラーボブ
2024/11/11
セイラーボブの近況
10 Nov 2024, Nonduality with Sailor Bob on Kat's 50th
セイラーボブはミーティングに復帰しましたが、まだあまり体調がよくないということで、最初に一言挨拶して、あとはカットが話をしました。ボブがつらそうなのがちょっと気になります。
昨日はリビングに入りきらないほど大勢の人でした。
2024/11/08
実体としてのあなたを認識できますか?
ボブ:認識する領域の内側を可能なかぎり頻繁に注視し続けると、そこには執着するものが何もなく、去っていきます。それにはそれほど時間はかかりません。
質問者:それからあらゆるパターン化が起こるのですが、それは誰かに起こっているのではないので苦しみとはなりません。
ボブ:そこに実体としてのものがないのなら、そこには実体がないという理解が起こります。そこに実体が存在することは決してありません。それは常に誤った思い込みでした。では、あなたはどこにいますか? 実体としてのあなたを認識できますか?
質問者:いいえ。
ボブ:つまり、あなたは自身が自然な機能、知性エネルギーそのものであるとわかるはずです。
2024/11/06
2024/11/05
原因を取り除けば、結果はどこにあるのでしょうか
「私」が存在しないことを理解したなら、「あなた」も存在しません。
では、「私」も「あなた」も存在しないなら、誰が優れているのでしょうか。あるいは誰が劣っているのでしょうか。
私はあなたに何を望むでしょうか。
原因を取り除けば、結果はどこにあるのでしょうか。
言い換えれば、東洋では原因と結果はカルマと呼ばれ、キリスト教では「蒔いた種は刈り取る」とされています。
原因を取り除けば、結果はどうなるでしょうか。
結果も消え去らなければなりません。そして、その単純さこそが、起こるべきすべてなのです。
セイラーボブ
2024/11/04
ズーム・グループ・ミーティング
Zoom group recording from 28th of Oct 2024
セイラーボブは、一時的に入院中だそうです。胸部の感染症とか言っていました。大したことではないということで、投薬治療の後すぐに退院するそうです。昨日(11月3日)のミーティングはボブ不在で行われました。その様子はfacebookでは中継されましたが、YouTubeでは配信されませんでした。代わりに10月28日のズーム・ミーティングの様子が配信されました。
現在、ボブのミーティングは、日曜日の午前中にボブの自宅で行われている他は、週三回、時間帯をずらしてzoomで行われています。(ボブのホームページ)
2024/11/01
本当の私とは、時間を超えてそこに存在する知る働きであり、その認識の内容物ではありません
ボブ:あらゆる思考が、常に今ここで経験されているのは明らかなことです。他の場所ではありえません。過去の思考も今ここに現れてます。
本当の私とは、時間を超えてそこに存在する知る働きであり、その認識の内容物ではありません。
質問者:それでも、不安の記憶が再び浮かび上がることがあります。
ボブ:不安は再び浮かび上がりますが、それは何ですか?あなたはそれを持っている存在ですか?
質問者:いいえ。
ボブ:不安は再び浮かび上がってきます。あなたが自身のことを、不安とは別の、何かを持っている存在、目撃しているかまたは気づいている存在がいると信じている場合にそれは起こります。そしてそれが問題となります。本当の私とは、すべてが現れている知る働きのであるということを見抜いたとき、浮かび上がってくることはそれほど重要ですか?
質問者:いいえ。
2024/10/29
2024/10/25
人間には心理的な問題がたくさんあるのですが
私たちが自身のことを惨めな人間だと考えると、それが私たちに制限を加えることになります。
一つのバイブレーションであるということは、創造的で有用な側面に振動することもあれば、その反対の、否定的で破壊的な側面にも振動します。そして、それが私たちがしていることです。
それゆえ、人間には心理的な問題がたくさんあるのですが、動物や昆虫の世界には、私たちほどではないかもしれません。
セイラーボブ
2024/10/22
思考なしで、どれほとのことが起こっているのでしょうか
そして、ラベルを貼り付ける以前に、それがどのように機能しているかを見てください。それはあなたを呼吸させ、心臓を鼓動させ、髪と爪を成長させています。思考なしで、何が起こっているかを見てください。
思考なしで、どれほとのことが起こっているのでしょうか。
人間の中にある、有効で素晴らしいものは推論する能力です。推論する能力は役に立つものですが、私たちは単に惨めな人間だと言うことは役に立ちません。
セイラーボブ
2024/10/18
動物は私たちのように、自分自身のことは気にしません
動物は私たちのように、自分自身のことは気にしません。私たちはどれほど頭が狂ったり、おかしくなったりすることか・・・。
そして、発明や創造性が進歩するほど、その否定的な部分で破壊的になります。正反対の方向に振動するため、私たちはますます狂って、ますます愚かになるのです。
セイラーボブ
2024/10/15
すべては何の努力もなく起こっているのです
知性エネルギーがあなたを呼吸させています。心臓を鼓動させ、髪の毛と爪を伸ばし、食べ物を消化しています。細胞を再生し、思考・感情・感覚をもたらしています。そしてすべては何の努力もなく起こっているのです。
セイラーボブ
2024/10/14
AS IT IS. Unaltered Unmodified Uncorrected
セイラーボブの新刊。
今年の二月に発売になっていますが、この本のことを知りませんでした。セイラーボブのホームページやFacebookでも紹介されていません。この本のことを知ったのは、ギルバートのFacebookです。編者はラメッシュとなっています。ギルバートが推薦しているので読みたいなとは思っていますが、ちょっと先になりそうです。
2024/10/11
2024/10/08
2024/10/04
そう見えているにすぎません
「私」もまたイメージです。それは、青い海、青い空のようなものです。その思考を見破らなくてはいけません。それは、キリストが「真実を知れば、真実があなたを自由にするだろう」と言われた意味です。たとえどのように見えようと、あなたはその真実を知っています。そこには「私」がいるように見えますが、そう見えているにすぎません。虹や蜃気楼、青い空と同じように。
セイラーボブ
2024/10/01
それこそが実はあなたなのです
この体として現れているパターンと機能は、素晴らしい知性がこの体を通して表現されていることを意味しています。
そして、実はそれこそがあなたなのです。
それがあなたを形成し、成長させ、そして成長させ続けています。それは宇宙と同じように、ごく自然にあなたの体の細胞を入れ替え、その他のことを行っています。
しかし、その自然な状態が、理由付けやマインドの働きによって曇らされているように見えるのです。
セイラーボブ
2024/09/27
あなたは思考ではありません
ボブ:古い習慣のパターンは、何年もの間条件反射として続いてきたので、しばらくは続くでしょう。しかし、ひとたびその居場所を失い、エネルギーがそこから抜けると、そこに留まることはありません。もはや重要なものではなくなります。
質問者:では、ただ単に思考を見つめればいいのですね?
ボブ:あなたは思考よりも前にいます。あなたは思考ではありません。それに気づいてください。その認識、その純粋な知性の中に、それはそのまま存在しています。
セイラーボブ
2024/09/24
2024/09/21
2024/09/20
返事のおたよりをいただきました
拓さん早々のお返事ありがとうございます。
そして、ややこしい気分にさせてしまい申し訳ございませんでした 。
> 私としては、我はどこにもないということをこのブログで書いてい るつもりです。
> 要するに、主体も客体もないということを言いたいだけです。また 、確認と理解の
> くだりは、あくまでも特別な理解やエンライトメントや覚醒のよう なことは起きな
> いと言いたいだけです。
> 理解の仕方は人それぞれで、それぞれが何らかの形で理解・納得す ればいいのだと
> 思います。
はい、拓さんがブログで書かれていることの要点は上記である点は 承知しています。
> 「意識だけがある」という表現も、自分がいると思い込んでいるこ とに対して、そ
> んな自分はいないということを言いたいだけです。
はい。私もそのように思います。
> 説き方はいろいろあるし、思想の体系や説明もいろいろあっていい と思います。ま
> た、その理解の仕方も人それぞれで構わないと思います。「私は実 在しない」とい
> う基本さえ外れていなければ。
はい、そのように私も思っております。
的確に表現出来ず、かえって混乱させてしまったようで大変申し訳 なく思います。拓
さん書かれていること・表現への批判ではありませんでした。
例えば、私が気になったのは『ただそれだけセイラー・ボブ・アダ ムソンの生涯の教
え』に書かれている以下のような表現です。
・P94、3行目から
「…本当の自分とは非顕現であり、純粋な本質であるという観点か ら…」
・P96、7行目から
「…しかしその本質は非現象であり、決して変化したことがないの です…」
・P99、2行目から
「…そのときあなたは、今ここ、明澄で空っぽなこの意識の中に残 されるのです。そ
れは心の中で進行してきたいかなる物語や試練によっても汚染され たり傷つけられた
りしたことがありません。その生きた本質は一度も触れられたこと がありません。そ
れは一なる本質です。それは決してその本質を変えたことがありま せんでした。」
その他の箇所でも、これは私そのものなので、目が目それ自身を見 ることができない
ように、対象として見つけることはできない、思考が止んだ時に理 解されるもの、と
いう表現もたびたび出てくると思いますが、「非顕現、非現象なる 1なる本質」とい
う表現をすると、頭はどうしてもそのようなものが存在すると思っ て探してしまう
し、さらに「それは見つかるものではない、理解されるもの」との 説明が加わると、
かえって混乱するのかな、という疑問でした。
私自身、しばらく非顕現、本質なるものを探し続けて疲弊したくち なので。
私なりの実感では「本当の自分」「本質」というものは確認できま せんし、ただいま
ここで現象が流れているだけですので。
思考や言葉なしでも、風は吹くし、呼吸は起きているし、雲は流れ るし、心臓は鼓動
しているし、人に呼ばれれば即座に「はい」と返事が出るし、現象 はとどまらず自ず
と変化していく、ぐらいの表現のほうが、実際の感覚で確認できる ので混乱しないの
かなと感じた次第です。
全体としてボブさんが書かれていることはよく理解できますし、基 本的にはそのとお
りだと感じていますので、上記のような表現が私的に気になったと いうことでした。
これは表現の仕方の違いなんでしょうね。しっくりくるかどうかの 。
お騒がせしましてすみませんでした。
やりとりさせていただき、どうもありがとうございました。
ケン
そして、ややこしい気分にさせてしまい申し訳ございませんでした
> 私としては、我はどこにもないということをこのブログで書いてい
> 要するに、主体も客体もないということを言いたいだけです。また
> くだりは、あくまでも特別な理解やエンライトメントや覚醒のよう
> いと言いたいだけです。
> 理解の仕方は人それぞれで、それぞれが何らかの形で理解・納得す
> 思います。
はい、拓さんがブログで書かれていることの要点は上記である点は
> 「意識だけがある」という表現も、自分がいると思い込んでいるこ
> んな自分はいないということを言いたいだけです。
はい。私もそのように思います。
> 説き方はいろいろあるし、思想の体系や説明もいろいろあっていい
> た、その理解の仕方も人それぞれで構わないと思います。「私は実
> う基本さえ外れていなければ。
はい、そのように私も思っております。
的確に表現出来ず、かえって混乱させてしまったようで大変申し訳
さん書かれていること・表現への批判ではありませんでした。
例えば、私が気になったのは『ただそれだけセイラー・ボブ・アダ
え』に書かれている以下のような表現です。
・P94、3行目から
「…本当の自分とは非顕現であり、純粋な本質であるという観点か
・P96、7行目から
「…しかしその本質は非現象であり、決して変化したことがないの
・P99、2行目から
「…そのときあなたは、今ここ、明澄で空っぽなこの意識の中に残
れは心の中で進行してきたいかなる物語や試練によっても汚染され
りしたことがありません。その生きた本質は一度も触れられたこと
れは一なる本質です。それは決してその本質を変えたことがありま
その他の箇所でも、これは私そのものなので、目が目それ自身を見
ように、対象として見つけることはできない、思考が止んだ時に理
いう表現もたびたび出てくると思いますが、「非顕現、非現象なる
う表現をすると、頭はどうしてもそのようなものが存在すると思っ
し、さらに「それは見つかるものではない、理解されるもの」との
かえって混乱するのかな、という疑問でした。
私自身、しばらく非顕現、本質なるものを探し続けて疲弊したくち
私なりの実感では「本当の自分」「本質」というものは確認できま
ここで現象が流れているだけですので。
思考や言葉なしでも、風は吹くし、呼吸は起きているし、雲は流れ
しているし、人に呼ばれれば即座に「はい」と返事が出るし、現象
と変化していく、ぐらいの表現のほうが、実際の感覚で確認できる
かなと感じた次第です。
全体としてボブさんが書かれていることはよく理解できますし、基
りだと感じていますので、上記のような表現が私的に気になったと
これは表現の仕方の違いなんでしょうね。しっくりくるかどうかの
お騒がせしましてすみませんでした。
やりとりさせていただき、どうもありがとうございました。
ケン
************
おたよりをありがとうございました。
時々、自分が死んだら全部の思考が停止して、何も感じなくなるのは寂しいなと思うことがあります。いくら小さな波が海に帰るだけだと言われても、もう架空の「私」を感じることもできないのは寂しい気がします。
そこにアウエアネス、あるいは知性エネルギーと呼ばれるようなものがあったとしても、肉体がない以上、それを感じることも表現することもできないと思います。
でも、それも全部、今現在人間という参照点から見た想像なのであって、実際そこに何があるかは、誰にも解きえない永遠の謎だと思います。
このあたりの話は非二元の教師によって味付けの仕方がまちまちなので、あまり深く考えてもしょうがないと思います。
「私は実在ではない」とだけ理解すれば十分かなと思います。
おたよりどうもありがとうございました。
2024/09/19
おたよりをいただきました
拓さんはじめまして
拓さんのブログ、興味深く拝見いたしました。
このような真剣な情熱を感じられるブログに出会えて感謝です。
私はここ17年くらいクリシュナムルティやガンガジ、ダグラスハ ーディング、マハラ
ジ、原始仏教などの著作をつらつらと好き勝手に読んで探求してき ている者です。
つい最近、セイラー・ボブ・アダムソンさんの言葉に触れ、こちら のブログを発見し
拝読させていただきました。
「悟り」というものはない、というメッセージは本当に力強く、私 のような探求の最
中にあるものにはすがすがしく響きました。
私自身、ここ数年、ボブさんが言うように、本当の自分は非現象で あり対象として確
認できるものではないという理解の中で過ごしていましたが、
非現象(空)である主体とその顕われである対象(客体)という、 主体と対象(客体
)の構図を置き、非現象である主体が本当の私(実在)であり、対 象は変化するので
実在ではない、という話。
そしてそれは二元性の中にある我々には確認できるものではなく( あるいは私自身な
ので)ふと理解されるものである、とのことですが、
この表現は、最終的な我の置き場所としての概念と感じてしまい、 違和感が湧いきて
います。
要するにこの話は無いほうがもっとシンプルなのかなと。
「本当の私」というものも実際は確認できませんし、もちろん非現 象としての私も確
認できませんし、かえって混乱するのかなと。
拓さんが言われるように「意識だけがある」という表現は、刻々の 実際として理解で
きますが、拓さんはそのあたりはどのように感じられますでしょう か?
単に私に理解が起きてないからでしょうか?
あるいは、語りかける相手の状態を想定した方便としての表現なの でしょうか?
ふと気になったのでお便りさせていただきました。
よろしくお願いいたします。
ケン
拓さんのブログ、興味深く拝見いたしました。
このような真剣な情熱を感じられるブログに出会えて感謝です。
私はここ17年くらいクリシュナムルティやガンガジ、ダグラスハ
ジ、原始仏教などの著作をつらつらと好き勝手に読んで探求してき
つい最近、セイラー・ボブ・アダムソンさんの言葉に触れ、こちら
拝読させていただきました。
「悟り」というものはない、というメッセージは本当に力強く、私
中にあるものにはすがすがしく響きました。
私自身、ここ数年、ボブさんが言うように、本当の自分は非現象で
認できるものではないという理解の中で過ごしていましたが、
非現象(空)である主体とその顕われである対象(客体)という、
)の構図を置き、非現象である主体が本当の私(実在)であり、対
実在ではない、という話。
そしてそれは二元性の中にある我々には確認できるものではなく(
ので)ふと理解されるものである、とのことですが、
この表現は、最終的な我の置き場所としての概念と感じてしまい、
います。
要するにこの話は無いほうがもっとシンプルなのかなと。
「本当の私」というものも実際は確認できませんし、もちろん非現
認できませんし、かえって混乱するのかなと。
拓さんが言われるように「意識だけがある」という表現は、刻々の
きますが、拓さんはそのあたりはどのように感じられますでしょう
単に私に理解が起きてないからでしょうか?
あるいは、語りかける相手の状態を想定した方便としての表現なの
ふと気になったのでお便りさせていただきました。
よろしくお願いいたします。
ケン
*********
おたよりありがとうございます。
とても難しい内容で、どうご返事したらよいのかよくわかりませんが、一応何かご返事をと思い書いています。
非現象(空)である主体とその顕われである対象(客体)という、 主体と対象(客体
)の構図を置き、非現象である主体が本当の私(実在)であり、対 象は変化するので
実在ではない、という話。
そしてそれは二元性の中にある我々には確認できるものではなく( あるいは私自身な
ので)ふと理解されるものである、とのことですが、
この表現は、最終的な我の置き場所としての概念と感じてしまい、 違和感が湧いきて
います。
要するにこの話は無いほうがもっとシンプルなのかなと。
)の構図を置き、非現象である主体が本当の私(実在)であり、対
実在ではない、という話。
そしてそれは二元性の中にある我々には確認できるものではなく(
ので)ふと理解されるものである、とのことですが、
この表現は、最終的な我の置き場所としての概念と感じてしまい、
います。
要するにこの話は無いほうがもっとシンプルなのかなと。
私としては、我はどこにもないということをこのブログで書いているつもりです。要するに、主体も客体もないということを言いたいだけです。また、確認と理解のくだりは、あくまでも特別な理解やエンライトメントや覚醒のようなことは起きないと言いたいだけです。理解の仕方は人それぞれで、それぞれが何らかの形で理解・納得すればいいのだと思います。
多くの非二元の教師たちは、「私は実在ではない」以上終わり、という人が多く、主体や客体という話を持ち込まない人も多いので、その方がわかりやすいのかなと思います。非二元の教えの核は「私は実在ではない」ということなので、それさえしっかり説いていれば、あとはそれぞれの教師の味付けだと思います。
拓さんが言われるように「意識だけがある」という表現は、刻々の 実際として理解で
きますが、拓さんはそのあたりはどのように感じられますでしょう か?
きますが、拓さんはそのあたりはどのように感じられますでしょう
「意識だけがある」という表現も、自分がいると思い込んでいることに対して、そんな自分はいないということを言いたいだけです。「意識だけがある」と言ってしまうと、それは誰の意識なのか、その主体は何かとなってしまう恐れがあります。実際にはそれを「意識」と呼ぶことさえ一種の観念化であって、そう呼ぶべきではないのかもしれません。仏教がいうように、そこには何もない。空だというべきかもしれません。
何もないと言ってしまった方がすっきりすると思うのですが、人間という参照点から見た場合、そこには世界を投影している何かがある気がするので、仮に「意識」という言葉を使っているにすぎません。もし、人間という参照点を離れれば、そこには何があるかは誰もわからないし、何とも表現しようもない気がします。U.G.クリシュナムルティは「意識なんてものはない」とさえ言っていたと記憶しています。
意識についても、そんな説明をしない非二元の教師も多くいます。私はセイラーボブから非二元を学んだので、意識やアウエアネスという言葉を使っていますが、実際それは何なのかと聞かれても、答えようがありません。また、それを答えることができる人がいるとは思えません。
私自身、ここ数年、ボブさんが言うように、本当の自分は非現象で あり対象として確
認できるものではないという理解の中で過ごしていましたが、
認できるものではないという理解の中で過ごしていましたが、
そのように理解されているのなら、それで十分だと思います。私のブログが、その理解をかえってわかりずらいものにしているのなら、申し訳なく思いますが、ケンさんはもう十分に非二元を理解されていると思います。主体や客体という説明に違和感を感じてみえるなら、その説明は無視してください。「私は実在しない」ということさえしっかり理解してみえれば、あとの説明は不要だと思います。
時々自身のブログを読み返してみて「意識」という言葉は良くなかったなと思うこともしばしばです。でも、セイラーボブが「awareness」という言葉を使うので、その都合上、「意識」と訳して書いています。
私は、思想の体系や説き方は全く違うけれど、佐々木閑先生の教える仏教も師事しています。そこでは、「意識」や「主体・客体」という言葉も説明も出てきませんが、「私は実在しない」という基本だけは非二元の教えと同じだと思って師事しています。説き方はいろいろあるし、思想の体系や説明もいろいろあっていいと思います。また、その理解の仕方も人それぞれで構わないと思います。「私は実在しない」という基本さえ外れていなければ。
お便りの返事としてはピントがずれていて、何の返事にもなっていないかもしれませんが、難しい内容なので、とりあえずこれでご返事とさせていただきます。
2024/09/17
私とは本当にそれなのでしょうか?
私はボブ、オーストラリア人、男、いいやつ、悪いやつ、トラウマを抱えていた。そう私が言う時、それはどれも観念であり、「私」という思考に付け足されたものです。
そのため、人々がボブについて語る時、「私」とは、そうした私として存在することになります。この観念化された、あるいは、うわべ上で思考によって作り上げられたもの。それがいまや何らかの実体を持っています。
それが存在するものの正体です。作り上げられた架空のイメージ。私が自身に対して持っている観念。でも、私とは本当にそれなのでしょうか?
セイラーボブ
2024/09/13
何が死んで、何が死なないのですか?
質問者:ボブ、私たちが死んだらどこへ行くのですか?
ボブ:波が海へと戻ったら、その波はどこへ行きますか?
質問者:わかりません。
ボブ:また同じ波が戻ってきますか?
質問者:いいえ。
ボブ:では、何が死んで、何が死なないのですか?
セイラーボブ
2024/09/10
身体でもマインドでもない純粋な機能としての知性エネルギー
あなたの本質、本当の性質を味わってください。それは、生まれることも死ぬこともない、時間も空間もない、身体でもマインドでもない純粋な機能としての知性エネルギー、分離も分割もないもの、それがあなたです。
セイラーボブ
2024/09/06
私たちが生まれた時には言葉を知りません
もちろん、私たちが生まれた時には言葉を知りません。私たちが身に着けた言葉は、学んだり教えられたりしたものです。私たちはそれを親から学び、ものごとにラベルを貼り付けます。そのラベルは常に、良い/悪い、楽しい/辛い、過去/未来、幸せ/悲しいといったペアへとうわべ上では分割されます。それはどれも振動するエネルギーに異なるラベルを貼り付けたものです。でもエネルギーが分離しているわけではないのです。もしラベルを剝がしたら、そのエネルギーはどこに留まるでしょうか?
セイラーボブ
2024/09/03
あなたは、もうすでにそれなのです
鮮明でリアルな夢から目覚めた時、その夢はどこへ消えましたか?
その夢はどれほど真実味があって、どれほど現実味がありましたか?
エンライトメントや覚醒によって手に入れたり達成できたりすることは何もないとわかってください。そこには何もありません。
あなたは、もうすでにそれなのです。
セイラーボブ
2024/08/30
虚偽は調査に耐え得ません
すべての問題の根本的な原因は、自分は独立した存在、個人、人であるという信念(belief)です。これは単なる思い込みにすぎません。辞書で信念の定義を調べてみてください。信念とは、何かを調べもしないで理由なく受け入ること、肯定的な知識や証明なしで、事実とされていることを受け入れることです。
それは調べられてきませんでした! 根拠もなくそう主張されてきたのです。そうやって主張されている信念のいくつかを調べてみると、調査に耐えることができずに粉々になるでしょう。虚偽は調査に耐え得ません。
セイラーボブ
2024/08/27
それは、何が起きようと、いつもそこにあります
目覚めた状態(wakefulness)は常にここにあります。ほとんどの人が「意識 awareness」という言葉を聞くと、それを探そうとしますが、探しても無駄です。私たちは意識を探そうとします。この意識が何であるかを見つけようとします。
私たちはそれが何であるかという概念を持っています。しかし、「目覚め」という言葉を使う場合の問題は、目覚めるために何かをしなければならないということです。あなたは自分が眠っていないことを知っています。
それを探す必要はありませんし、そのために何かをする必要はありませんよね? 眠っていないのであれば、目覚めているに違いないのは明らかです。
そのままにしておいてください。それは、何らかの方法で変更、修正する必要はなく、探し求める必要もありません。それは、何が起きようと、いつもそこにあります。
セイラーボブ
2024/08/23
目覚めるために何をしたのか?
多くのスピリチュアルの教師たちは自分がどうやってエンライトメントしたかを語るのが好きだ。
それを語ることによって特別な喜びを感じている。
自己欺瞞の仮面をかぶりながら。
人が何かになることなどない。
思い込みが消えると、そこに残るものは明確で明白なものだ。
あなたは今この瞬間目覚めている。
目覚めるために何をしたのか? 何もだ!
ギルバート
2024/08/22
初期仏教の世界
森の中の修行生活(タイ 2024) その3
現在、佐々木閑先生はタイ、チェンマイのお寺に滞在中です。初期仏教の姿を現在まで残している寺院の生活ぶりについてYouTubeで報告されていて、とても興味深いです。
もともとは、この寺で修行をされている日本人の方から、経典のわからないところを教えてほしいと請われて訪ねたのが始まりだそうで、もう何回も行ってみえるそうです。
仏教は、もともとは釈迦の教えを学ぶ哲学集団のようなものでした。そしてそれを二千数百年経った今でも厳格に実践している人たちがいるというのはすごいことですね。
森の中の修行生活(タイ 2024)その1、その2も興味深いですよ。
2024/08/20
人生後半、そろそろ仏教にふれよう (PHP新書)
人生後半、そろそろ仏教にふれよう (PHP新書)
私はこのブログで佐々木閑先生のYouTubeをいくつも転載させていただいているとおり、佐々木閑先生の大ファンです。佐々木閑先生のYoutubeは、かたっぱしからほぼ全部見ているし、本も何冊も拝読させていただいています。
それで、仏教のことは、まあだいたいわかっているつもりでしたが、この本を読んで、改めて仏教の成り立ち、日本に入ってきた経緯などを復習させていただきました。忘れてしまっていることもたくさんあって、とても参考になりました。この本は仏教のこと、特に原始仏教のことを詳しく知りたいけれども、何から学べばよいのかわからないという人には、わかりやすいダイジェストになるのではないかと思います。
そして、本当の仏教が教えていることの神髄を単刀直入に学びたいという人には、非常にわかりやす本になっています。それは、諸行無常であり、諸法無我です。そしてそれはこのブログのメインテーマである非二元の教えの神髄と同じものです。古館さんは、諸行無常、諸法無我をよく理解してみえて、そのうえ佐々木閑先生を師とされたことがすばらしいと思います。
私は仏教の教えていることは根本的には非二元の思想と同じであり、とても素晴らしいと思っているのですが、それはあくまでも、佐々木閑先生を通して学んだ仏教に関してだけです。もちろん、横田南嶺老師や唯識の思想から学んだこともたくさんありますが、それも佐々木閑先生なくしては理解しえなかったと思います。
この本は参考になることがたくさんあります。一つとても印象に残ったのは、古館さんの話。古館さんがまだテレビ局のキャスターをやっていたころ、アマゾンの原始部族の酋長の取材に行って、文明とはかけ離れて暮らす部族の人にとって、幸せとは何なのですかという質問をします。すると酋長は何人もの通訳を介して、私には幸福という言葉の意味がわからないので、その問いには答えようがないと答えます。
そして佐々木先生はこの話に対して、幸福を求める状態が不幸なのですと答えてみえます。私はこの話がとても印象に残りました。
第1298回「そろそろ仏教にふれよう」2024/7/27【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師
2024/08/18
人生後半、そろそろ仏教にふれよう
【古舘伊知郎氏&佐々木閑氏対談1/3】古舘伊知郎が「生きる意味」を考え直すきっかけになった、姉の死◎『人生後半、そろそろ仏教にふれよう』
【古舘伊知郎氏&佐々木閑氏対談2/3】釈迦は仏教が滅びると思っていた?◎『人生後半、そろそろ仏教にふれよう』PHP研究所
【古舘伊知郎氏&佐々木閑氏対談3/3】釈迦の教えに学ぶ集団組織の存在価値とは◎『人生後半、そろそろ仏教にふれよう』PHP研究所
私は両方の考え方ともに好きです。
2024/08/16
ありのままの自分でいてください
私たち一人ひとりは、知性が自ら表現しているものであり、それぞれが独自の現れです。
同じ表現は二つとありません。この宇宙、あるいは宇宙の顕現の中のすべての多様性において、それぞれの表現は唯一のものです。
そのため、自分がどうあるべきかという考えは、もともと唯一の現れであるあなたを制限することになります。 自分ではないもののふりをするのはやめて、 ありのままの自分でいてください。 ただありのままで。 リラックスして、オープンで。 心からオープンでいてください。
それは共鳴し、認識され、知られます。 それは純粋で単純な理解です。
セイラーボブ
2024/08/13
肝心なことは、まさに今ここにあなたは存在し、存在していることに気づいているということです
ボブ: ここには中心がないことがはっきりわかれば、たとえ習慣のパターンに再びとらわれたとしても、ただそのことを見失ったにすぎません。
そこにある知る働き、知る働きの根底にある実在は、決して失われません。
それには始まりがありません。
それには終わりがありません。
質問者: 肝心なことは何ですか?
ボブ: 肝心なことは、まさに今ここにあなたは存在し、存在していることに気づいているということです。
セイラーボブ
2024/08/11
2024/08/09
二元性は「私が行為者だ」という習慣、あるいはその信念から始まります
質問者 :二元性はどこから始まるのですか?
ボブ:「私が行為者だ」という習慣、あるいはその信念からです!
質問者:「私が自分の人生をコントロールしているのではない」ということを受け入れる勇気がありません。
ボブ:あなたが自身に対してしている制限を見てください。知性とは何ですか。エネルギーとは何ですか。勇気そのものではないですか。愛そのもの、思いやりそのものでしょう? あなたは必要な勇気をすべて持っています! でも、私たちは「勇気がない」などと制限をかけてしまうのです。
セイラーボブ
2024/08/06
習慣パターンを断ち切ってください
「ああ、でも」とか「もし」とか「過去の経験から知っている」という習慣パターンを断ち切ってください。
そうやってマインドがやってきて、私たちは自発性と直感力を失います。
第六感は、霊的感覚と呼ばれることもあります。それは自然に現れますが、マインドは「いや、もっといいものがある」と言います。
セイラーボブ
2024/08/05
備忘録
このYouTubeチャンネル(Nothing Media)には、たくさんの非二元の語り部が出てきますが、このチャンネルの主催者がどういう人なのか知りません。また、登場する人も、ほとんどが知らない人です。一応備忘録としてセイラーボブ関連のものだけ載せておきます。
2024/08/02
マインドを観察してください
マインドは絶えず基準点を入れ替えます。マインドを観察してください。
それがマインドの性質です。調べて、これがすべての始まりだと言えるような特定の点がないことを確かめてください。
マインドを観察し続けることで、マインドはその力、強烈さを失います。
するとマインドは、そこにある事柄に対処するためにあるのです。
セイラーボブ
2024/07/30
見かけ上の「私」を信じることが、あなたのすべての問題の原因です
かつて人々は、地球は平らだと信じていましたが、調査した結果、そうではないことがわかりました。かつてはバクテリアやウイルスと呼ばれる邪悪な力について、あらゆる種類の信念がありました。でも、体やマインドがあるという考えを調査する人はあまりいません。なぜでしょうか? この見かけ上の「私」を信じることが、あなたのすべての問題の原因です。
セイラーボブ
2024/07/29
人間は高性能のロボットと同じではないでしょうか
私は常々、人間は高性能のロボットと同じではないかと思っています。バッテリーの代わりに食べ物を補充して動きます。脳はAIのようなもので、ChatGTPのように、自分で学習する能力を持っています。
それで、何がロボットと違うかというと、後天的に植え付けられた情報によって、「私は人間だ」「私は生まれた」「私は生きている」「私は死ぬ」と思い込んでいます。でも、非二元を学ぶと、そんなことは後天的に植え付けられた情報にすぎないということを理解します。そして、常住普遍の魂なんてものも、「私」なんてものも存在しないという理解に至ります。
そうだとすると、私たちはロボットと何もかわらないことになります。バッテリーが切れたら身体が動かなくなって、意識が消えるだけです。動物も同じです。だとすると、ロボットも動物も人間も、実際には同じようなものではないでしょうか。人間だけが、自分は特別だと思っていますが、実際には自然の一部にすぎません。
ロボットや動物と人間が決定的に違うのは、人間だけが心理的な苦悩を持つという点です。なぜ心理的な苦悩を持つかというと、「自分が生きている」、あるいは、「自分がこの生をコントロールしている」と思っているからではないでしょうか? 悩み事は、本来自分ではコントロールできない物事を、なんとかしてコントロールしようとするから起きるのではないでしょうか。
ロボットだったら、そんなことは考えもしないでしょうし、動物だったら、少しは悩むかもしれませんが、悩んでいるより先にエサを探さなくてはならず、悩んでいる暇なんてないのではないでしょうか。
私も心理的な苦悩をいくつも抱えていた苦しい時期がありました。周囲の状況から起こる悩みばかりでなく、病的なものもありました。振り返って今思うのは、そうしたことの特効薬は、放置しておくというか、忘れてしまうことが一番ではないかと思います。もちろん、原因がある悩みについては、原因を解決すべく、できるだけの努力はすべきだと思いますし、病的なものについては医者や薬の助けも必要かもしれません。
でも、基本的には、そうしたことをコントロールできる「私」はいない、悩みの主体となる「私」は実在ではない、ということを理解して、今やるべきこと、やりたいことに焦点をあてることが解決の近道ではないいでしょうか。問題や悩みを解決しようともがけばもがくほど、エネルギーはそちらへ流れ、悩みや問題は大きくなっていきます。もともと問題はマインドが作っているものにすぎず、実体などないのですから。
悩みや問題の解決は、非二元の教えを理解することがベストだと思います。でも、大きな悩み事を抱えている方で、非二元の教えよりももっと即効性のある解決策を探してみえる方は、以前ブログに書いた、こちらを参考にしてみてください。何かの参考になるかもしれません。
2024/07/28
人の心もまた、実は「非常に単純な計算作業の繰り返しでできている」
特別回 AIと仏教 その1
この話は非二元に通じるところ大いにありだと思います。深く考えさせられました。
私もChatGPTにはいたく驚いていて、英語学習に活用しています。自分の作った英文が文法的に正しいのか、自然なものかをChatGPTに聞くと、詳しく教えてくれます。もうびっくりするほどです。ChatGPTは英語学習に革命を起こしているといっても過言ではありません。瞬時に翻訳・通訳する時代はもうすぐそこまできていて、英語学習そのものが不要になるかもしれません。
私は常々、人間は高性能のロボットと同じではないかと思っています。この続きは明日書くことにします。
2024/07/26
人を神格化して見ると判断を誤る
この話は非二元とは直接的には関係ありませんが、最後の5分はスピリチュアルの道を歩む多くの人に参考になると思います。多くの人は完全な師を求めています。私もそうでしたが、誰かが「私は覚醒した」などと言おうものなら、その人が何を言おうが、それがどんなに的外れなことであっても、マスターの言うことだから何か重要なメッセージに違いないと思って、盲目的に追従してしまいがちです。また、自分も同じ体験をしたいと思うあまりにトリップしてしまう人もいます。覚醒した人などどこにもいないと肝に銘じて、自分の頭で判断することが大切なのではないでしょうか。大切なのはメッセージであり、そのメッセージが私たちに役立つものでなくてはいけないと思います。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その52」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
2024/07/23
ボブ、96歳の誕生日おめでとう!
Are you unaware? Bob's 96th birthday catch up. 21 July 2024
こんなにたくさんの人が集まったのは記憶にありません。この日はボブの96歳の誕生日。おそらくみんなこのあとのパーティに行くのでしょう。
ボブのスピールのあと、集まった人たちが順番にボブに感謝の言葉を言っていきました。30年以上も通っている人もいます。
ボブが40年以上にわたって人々に対して行ってきたことは、「心理的な苦悩からの解放」です。そしてここに集まっている人たちは、ボブによって心理的な苦悩から解放された人たちです。ラメッシもその一人だと思います。
*****************
59:40から
ラメッシ:ハーイ。このパターン(自分のことを指して)はヒンヅーのバックグラウンドからやって来ました。私の叔父はサドゥ、僧です。私は若いころから、そうしたことに興味があり、グル、メンター(良き助言者)を探さなくてはいけないと思っていました。でも、メルボルンに住む白人の老人が私のメンターになるなんて考えたこともありませんでした。(一同爆笑)
まったく驚きです。しかも、船乗りで、元アル中なんです。(笑い)羊の毛を刈っていて、けんかばかりしていた。(笑い) 彼は本物です。
あんまり長く話てはいけないのですが、ヒンヅー教のサンスクリットの二行詩について話すと、ボブがよく引用するするのは「サット-チット-アナンダ」、「ナーマ・ルーパ」です。
サット-チット-アナンダは、存在ー意識ー至福です。そして、あなたの存在は自明のことです。そして知る働き、チットは自分がいるという認識です。だれもが自分が存在していると知っています。自分がいると信じているのではなく、知っています。その、自分が存在するというその認識の中に至福があります。それがアナンダ、存在することへの愛です。サット-チット-アナンダです。タジーがさっき言ったように、その知る働きへ立ち返ってそれを認識すること(が大切)です。というのも知る働きは非観念の意識であり、内在する認識だからです。その知る働きの中にボブが言う、原因のない喜びが起こっています。その知る働きは観念化されないものであるため、彼はそれを様々な言い方で言います。
「もしそのことを考えなかったら、今何が問題なのか」。それもまた同じことを指摘しています。そのことを考えない時、そこには内在する知る働きがあり、それは観念化されない意識です。ですから、そこへ戻り続けることです。それを何度も何度も認識すること。物語がやってこようと、観念がやってこようと、内在する知る働きへ戻り続けることです。その内在する知る働きがあなたなのです。
2024/07/19
2024/07/16
誰がその努力しているのでしょうか
では、別の視点から見てみましょう。今ここで、誰もが呼吸をし、心臓が鼓動し、血液が体中を巡っています。
髪の毛や爪が伸びています。細胞が入れ替わり、食べ物が消化されています。
誰がその努力しているのでしょうか?
「次の呼吸をしなくちゃ。心臓を鼓動させなくちゃ。食べ物を消化しなくちゃ」と言っている「私」や考えがマインドの中にありますか?
それとも、それは努力なしに起こっているのでしょうか?
セイラーボブ
2024/07/12
記憶は架空のもである 私は実在しない
引き続き、佐々木閑先生のすばらしい話が続いています。この話などは非二元そのものです。あまり転載させていただくのもどうかと思いますが、備忘録として残しておきたいと思います。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その48」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
2024/07/09
求めない生き方
この話は非二元とはあまり関係ないかもしれませんが、思うところあって転載させていただきます。
昨今の「持続可能な成長」とか、「環境にやさしい」とかいうフレーズを耳にするたびに、そんなまやかしではなく、「求めない生き方」こそが解決策ではないかと思えてなりません。
必要以上に快適に生活しようとすること、過度においしいものを食べようとすること、もっとGDPを増やそうとすることよりも、求めない生き方の中にこそ幸せがあるような気がします。できるだけそうやって暮らしていこうと思っています。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その47」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
2024/07/05
すべてはそれなり
すばらしい話があります。これもまたインドの伝承で、ムクタナンダからのものです。
ある男が生の本質を知りたくてグルを訪ます。生の本質は何なのですかと尋ねるとグルは、「汝それなり、すべてはそれなり」と答えます。
男はその言葉に打たれて理解します。グルの家を出て、「我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり」と言って歩きました。
村人たちが向こうから走ってきて、「逃げろ象がやって来るぞ」と言いました。
男は、「ああ、我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり」と言いました。
野生の暴れた象が角を曲がって男に向かって突進してきました。
男は象を見て、「我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり」と言いましたが、象は男をつかんで木へと放り投げました。
数日後、手足を骨折して入院した男をグルが見舞いに行くと、男は言いました。「どうして言ってくれなかったのですか? 私の身体を見てください」
するとグルは、「人々が象が来るから逃げろと言ったのを聞かなかったのか? 彼らもまたそれなのだ」
ピーター・ローリー
2024/07/02
ここでは何も悪くはありません
いいですか、いつもここへ立ち戻ってください。今ここ、この瞬間、現在へ。
ここでは何も悪くはありません。
それと同じで、考えなかったら過去は存在するでしょうか?
考えなかったら、未来はあるのでしょうか?
セイラーボブ
2024/06/28
もし最初の感覚にラベルを貼りつけなければ、それは去っていきます
どこかへ行こうとして渋滞にあったときを例にしましょう。イライラします。それを何とかしようとしないで、ラベルを貼らないでおけば、それは単なる感覚が起こったにすぎません。批判しなければ、それは感覚にすぎず、去っていくのです。
最初の段階で、巻き込まれるとか、巻き込まれないでいようとかしないで、通り過ぎる車のようにただやりすごせばいいのです。古い習慣がやってきて権利を主張して、私のイライラ、私の失望と言いだします。失望、イライラは起こります。でも、もし最初の感覚にラベルを貼りつけなければ、それは去っていきます。
カリヤニ
2024/06/25
根底にあるものは何か
佐々木閑先生のYouYubeを見ていると、一言で仏教と言っても、いろんな教えや考え方があって面白いなと思います。世界の認識の仕方一つとっても、初期仏教と説一切有部や唯識では同じではありません。でも、根底にあるものは「諸法無我」であり、それは変わりません。
同じことが非二元の教えでも言えるのではないでしょうか。説き方は人それぞれであり、場合によってはそれぞれが互いに矛盾したことを言っているように思える場合もあります。でも、根底にあるものは「私には実態がない」ということであり、それから外れていなければいいような気がします。
でも、私はエンライトメントある派のマスターを支持しません。エンライトメントある派のマスターを支持しないというのは少し狭量だと思われるかもしれませんが、そこだけはどうしても譲れません。それを許してしまうと、そこには誰かエンライトメントする人がいることを認めてしまうことになります。
エンライトメントある派のマスターも存在していてかまいませんし、エンライトメントを目指している人たちのことをとやかく言うつもりもありません。でも、彼らの教えていることは非二元ではないし、彼らを非二元を教えるマスターと同じように扱うのはよくありません。そして、非二元の教えをエンライトメントとごちゃ混ぜにして理解しようとするのは間違っていると思います。非二元の世界にエンライトメントはありません。
2024/06/21
そこには一つのエッセンスがあるだけです
この肉体がなくなったあとでも、このマインドが続くのかということですね。
そこには一つのエッセンスがあるだけです。
一滴のしずくが海に落ちます。
その同じ一滴のしずくをまた海から取り出せると思いますか?
うわべ上では海に入っていくように見えますが、その一滴もまた海なのです。
セイラーボブ
2024/06/18
魂、あるいは霊は実在するのか
私は非二元を学んでから、魂も霊も実在しないと思っています。
仏教ではどうでしょうか。この話もまた興味深い話でした。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その39」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
2024/06/14
あなたは生かされています
小さな胎児は母親の温かさ、心拍、呼吸に身を任せています。胎児は何の苦もなく成長します。そしてこれはまた、「私が考えた」、この「考え」や「イメージ」には何の力もないことの証となります。
それには力はありません。それが「私」なのです。これが起こっていることだとわかってください。
あなたは生かされています。
あなたは生そのものなのです。
セイラーボブ
2024/06/11
目覚めようとするいかなる試みも、私たちをそれから遠ざけます
私たちはみな、目覚めやエンライトメントに対して間違った思い込みをしています。そしてそれが障害となっています。目覚めようとするいかなる試みも、私たちをそれから遠ざけます。なぜなら、私たちは、このもともとあるアウエアネス(意識)のことを話しているからです。
2024/06/07
なるという未来の時間は存在しません
「なる」ということは、何かになるという未来の時間を投影しています。
なるという未来の時間は存在しません。
現実とはまさにこの瞬間です。それが生きるということです。
この瞬間をもう一度生きることはできません。この瞬間、いまここを。
セイラーボブ
2024/06/04
この世のどこにも我はない
佐々木閑先生のYouTube「ミリンダの問い」を時々見直しています。そしてあらためて仏教は非二元の教えそのものだと感じています。非二元の教えを学んだからこそ佐々木閑先生の教える仏教がよくわかるのだと思います。
佐々木先生は、「我」はどこにもないということを理解することは、仏教の悟りへの修行の重要なステップだとYouTubeの中で言われましたが、おおいに納得できます。「私」が実在ではないとわかれば、欲や煩悩は自然と消えていくのではないでしょうか。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その4」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
この回などはセイラーボブのスピールを彷彿させます。まったくすばらしい。
2024/05/31
2024/05/28
2024/05/24
非二元的な生き方
非二元を学んで理解して、その後で「非二元的な生き方」があるかというと、そんなものはないと思います。非二元の教えの目指しているところは心理的な苦悩からの解放だけです。その後はどんな生き方をするかは、人それぞれ個人の意思にかかっていると思います。
「私」が実在ではないということを理解して、それならもっとやりたいことをやって自由に生きようとする人もいるでしょうし、以前にも増して成功や願望実現へ向けて精を出す人もいるでしょう。精神的な問題や悩みが無ければ、成功する確率は高くなるかしれません。
私も精神的には随分と楽になりました。それで私の生き方が変わったかというと、非二元を学んだから生き方が変わったということはないように思います。すべては起こってくることだと思うと、何かをどうかしようという思いもあまりおこりません。その影響もあると思うのですが、佐々木閑先生の教える仏教を学んで多いに納得することがありました。そして今は、できるだけ「欲望や願望を追及しない生き方」をしようと思っています。
年齢的にもこれから世に出て何かをしようという年齢ではないし、どうしても何かが欲しいという願望もありません。もっと英語が上手になりたいとか、もう少しビビらないようになりたいとかいうささやかな願望はありますが、大したことではありません。とりあえず食べるものがあって、その上健康ならありがたいなと思う程度です。
もともと多少ドロップアウト気味に生きてきたこともあって、佐々木閑先生の説く仏教には随分と救われました。もちろん、「欲望や願望を追及しない生き方」の人が増えてしまっては、経済も社会もうまくいかなくなってしまうので、そういう生き方は社会では息苦しさを感じる少数の人に限定されるべきものなのでしょう。できるだけ人や社会に迷惑をかけないようにして、「欲望や願望を追及しない生き方」をしていこうと思っています。
「人並みに」とか、「人と同じように」生きなくてもいいんだよ、というお許しをもらった気がして救われた気持ちです。どうせある意味でヴァーチャルな世界に生きているんだから、自分の思うように生きればいいのだと思います。
佐々木閑先生はたびたび「欲望や願望を追及しない生き方」(佐々木先生の使われる表現とは多少違うかもしれませんが同じ意味だと思います)が仏教の目指すところだと語ってみえます。私には、それが幸福をもたらす鍵のような気がしてなりません。
参考:出家的に生きるために
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その33」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
2024/05/21
今そのことを考えなかったら、何が問題なのですか?
問題が起こっているように見えます。必要に応じて行動が起こります。
では、何が問題ですか?
みなさんにお尋ねします。「今そのことを考えなかったら、何が問題なのですか?」
何が問題なのかを見ようとする前に一瞬の間があります。
何かが問題となる前には必ず思考があるということを理解してください。
その問題について議論して時間を浪費してはいけません。
セイラーボブ
2024/05/17
世界は幻か?
前回のブログの「ミリンダの問い その29」は、仏教が世界をどのように認識しているのかがわかって、とても良い話でした。ミリンダ問経にあるような初期仏教では、世界は実在するが、「私」は実在ではないという立場をとっています。さらに仏教が発展して大乗仏教になると、世界も実在ではないと説く人たちが現れます(唯識など)。
セイラーボブに会った最初の頃、世界が実在なのかどうかが知りたくてしかたがありませんでした。セイラーボブは、ヒンズー教を引き合いにだして、世界はマーヤー(幻)だと言われているという話を時々します。それで私は、世界が自分の意識の外にあるのかどうかが知たくてしかたなかった。私が眠っている時にエジプトのピラミッドは消えているのか? メルボルンのヴィクトリア通りの建物は消えているのか?
そういう質問をしたことがあるのですが、ボブはいつも決まって「そこにあるのは何ですか?」と言って、部屋の隅にある椅子を指すのです。そこから、それが椅子なのかどうか? それは実在か? という話になっていくのです。私としては、もっと単純に、私たちが見ている世界は実在なのかどうかが知りたかったのですが、いつもはぐらかされたような印象を受けました。
非二元の教師たち皆が世界は幻だと言っているわけではないのですが、そのように解釈できるように語る人もいます。ジャン・クラインは、「意識の外には何もありません。宇宙も、あなたの個人的な「私」も、すべて意識の中に現れます」と言っています。
個人的には、おそらくジャン・クラインの言う通りなのだと思います。おそらく、私の意識が消えれば世界は消えるだろうと思います。例えば、私が死んだら世界は消える。私が空の上から残された人たちの活動を見るなんてことにはならないと思っています。参照点が消えればもうこの世界を見ることも感じることもないだろうと思います。ただ、まだ生きている人に参照点を置くなら、そこには依然として世界はあるでしょう。
でも、それも想像にすぎません。いくら考えてみたところで、私たちは五感を通してしか世界を認識できないのだし、五感の外に出て確かめることは不可能なので、意識の外に世界があるのかどうかは確かめようのないことです。私が死んだあとに世界はどうなるかも、確かめようのないことです。
人によっては、世界は実在しないという考え方は行き過ぎで、世界も身体も実在するが、「私」は実在しないという初期仏教の考え方の方がしっくりいくという人もいるのではないでしょうか。昔の私だったら、覚醒した人はそういった意識の外の世界さえ見えているはずだと思っていましたが、今ではそんなことはまったく信じていません。
以前は、非二元の教えを理解する上で、世界は幻であるということを理解しなくてはいけないと思っていましたが、今はそうは思っていません。非二元の教えの核は「私」は実在ではないということです。世界が実在かどうかは考えてもしかたがないことだと思います。現実問題として健康診断にも歯医者にも行かなくてはいけません。身体は無いなんて言ってられない。
以前、非二元にまったく興味のない友人に、「ひょっとするとリンゴは脳の産物で、実際には存在しないかもしれない」と言ったところ、ひどく怒られて、あんまり変な本ばかり読んでるいからそうなるんだと言われたことがあります。世界は幻だなんて言おうものなら・・・。
認識論については、今のところ前回のブログ(ミリンダの問い その29)が一つの答えになるのではないでしょうか。科学は、物質は存在しないということを証明する手前まで来ていますが、まだそれは量子力学の段階でしかありません。現段階ではまだよくわかっていません。私がボブに、物(体)が実在かどうか科学的に説明して欲しいと聞いたところ、それは科学者の仕事だよと言われました。
わからないものはわからなくていいのではないかと思います。非二元の教師が、世界は幻だと言ったとしても、彼らでさえも確かめることはできないと思います。現実的なことを言えば、私の世界は私の意識の及ぶ範囲だけであり、それ以外はないと同じではないかと思います。
2024/05/14
仏教の認識論 私とは何か?
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その29」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
この話、おもしろいですよ。
非二元を学ぶ人必見。ぜひ見てください。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その30」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
この話は非二元そのものです。
2024/05/10
2024/05/07
時間は生あるものにしか存在しない
非二元の教えの中で、時間に関するところは理解が容易ではないところではないかと思います。時間は思考の中にしかないと言われても、なかなか理解できない人が多いのではないでしょうか。
仏教ではどうか? 「ミリンダの問い その24」では、「時間は生あるものにしか存在しない」という説明が出てきます。そして「ミリンダの問い その25」はもうほとんど非二元の世界。もちろん仏教と非二元では時間に関する考え方は違うのですが、似たような捉え方をしていたんだなと参考になりました。そして佐々木先生は、もし人間がいなかったら時間とは何なのかと問うてみえます。とても興味深いところです。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その22」
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その23」
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その24」
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その25」
2024/05/03
あとがき・まとめ
私はこのブログをずっと続けていきたいと思っています。でも、いつどんな理由で更新できなくなるかはわかりません。病気、事故、災害などの理由で、何の断りもなくブログがそのままになることだってあるかもしれません。そんな尻切れトンボで放置するのは嫌だと思って、毎年年末になると、その翌々年の一月一日にタイマー投稿をセットして、「ごあいさつ」の記事がブログのトップに来るようにしています。幸い今までのところ毎年そのタイマー投稿を翌年にずらすことができています。それで一応ブログとしては恰好がつくかなと思うのですが、でもそれだけだと何か物足りないと思うようになりました。そこで、本でいうなら「あとがき」のようなものを先に書いておこうと思います。
私がこのブログに一貫して書いてきたことは、この一言に集約することができます。
本質としての「私」は身体でも思考(マインド・心)でもなく、意識である。
私たちは、ある日人間としてこの世に生まれ、成長して大人になり、この「私」がこの人生を生きていると信じています。私は男性である。私は女性である。私は会社員である。私は母である。私は日本人である。私は町の中で暮らし、休日には山へハイキングに行く。そこには自然がある。こうしたことを、ごく当たり前に信じて生きています。
でも、今この瞬間、絶対的な確信をもって真実だと言えることは何でしょうか? 非二元を学び、こうした物事の一つ一つを調べていくと、どれもが実在ではなく、後天的に学んだ思考のかたまり、あるいは条件づけであるという理解に至ります。「私」は思考のかたまりにすぎません。そして、時間についても、それは思考の中にしか存在しないということがわかります。
そして、セイラーボブを始めとする非二元の教師たちは、今この瞬間、絶対的な確信をもって真実だと言えることは、今この瞬間に意識があるということだけだと言います。この意識のことを非二元の教師たちは多様な言葉で表現します。アウエアネス、純粋意識、生、気づき、真我、空間、それ。ニサルガダッタ・マハラジの言葉を借りて言うならば、「私は在る」という感覚、つまり意識があるということだけが今この瞬間に絶対的な確信をもって言えることです。その他のことはすべて仮説か想像にすぎません。
この意識とは、私たちの日常に普通にある意識のことです。何か特別な体験をして手に入れなくてはいけないとか、特別な人にだけにある意識ではなく、誰もが普通に持っている意識のことです。思考のことを意識と言い、思考の背後にある意識のことを純粋意識と呼ぶ教師もいます。呼び方は何でも構いません。それは思考の背景にいつもある普通の意識のことです。私たちが絶対的な確信を持って言えることは、今その意識がここにあるということだけです。
例えば、私たちは自分が生まれて生きていると思っています。でも、生まれるということはどういうことでしょうか? 生きているということはどういうことでしょうか? 生まれるということの定義づけも、生きているということの定義づけも、後天的に人から植え付けられた概念であり、実際にはどういうことなのか誰もわかっていません。心臓が脈を打ち、肺が呼吸をしているから生きているのだと考えていますが、それも誰かから植え付けられた概念にすぎません。
世界は私の意識の中に現れます。そういう点において万物は一つのものです。では、意識の外に世界はあるのでしょうか? それは確かめようがありません。なぜなら、私たちは五感を通して意識の中に現れる世界しか認識しようがないからです。世界は必ず五感を通して意識にやってきます。でも私たちは、世界は私たちの意識とは関係なく存在していると勝手に想像しています。でも、本当にそうでしょうか? 意識の外に出ることができない以上、意識の外に世界があるのかを確認する方法はありません。
時間に関してはどうでしょうか? 明日はまだやって来ていないので、当然存在していません。では、昨日はどうでしょうか? 昨日はどこにあると聞かれても、それは記憶の中にしか存在しません。つまり、意識の中にしか存在しないのです。昨日の時点では昨日は存在したと言われるかもしれませんが、それは今の時点で昨日のことを想像しているにすぎず、昨日の時点の昨日は今だったはずです。すると昨日も私たちの意識の中の想像でしかないことになります。
こうやって、一つ一つのことを突き詰めて考えていくと、今この瞬間に確かな確信をもって言えることは、今ここにある意識だけが確かなものであり、その他のもことは想像か仮説、あるいは思い込みや条件付けにすぎないということがわかります。非二元の教師たちが教えているのは、この意識のことです。私は「意識」という言葉がわかりやすいので意識という言葉を使っていますが、実際のところ、この意識とは何なのかと聞かれると答えることができません。
朝起きるとやってくるもの。思考の背景にいつもあるもの。それでいて、深い眠りの中にもあるもの。そこに世界が現れるもの。この程度の説明しかできません。それが本質としての私だと非二元の教師たちは言うのです。私たちは、この意識を客体として認識することはできません。なぜなら、私たちがその主体である意識だからです。目が自身の目を見ることができないように、意識が意識を認識することはできません。
ではどうしたらいいのか? 多くの非二元の教師たちが異口同音に言っているのは、思考を見つめることです。良い・悪い、好き・嫌いといった判断をしないで、ただ見つめる。あるいは気づいている。それを変えようとせず、消そうとせず、ただあるがままに見つめる。
非二元の教師たちは映画のスクリーンの例えを使うのが好きなので、ここでも使わせてもらいます。スクリーンが意識です。そのスクリーンの上に物語や世界が映し出されます。私たちには物語や世界は見えますが、スクリーンを見ることができません。そこで、スクリーンに映し出される物語や世界を見つめるのです。それを見つめることによって、それが実在なのかそうでないのかを見るのです。
意識のスクリーンに現れる最大のものは思考です。その思考を見つめるのです。それに気づいていることで、その思考が実在なのかどうか、その思考の背景には何があるのかを感知するのです。
意識に気づくことで何が起こるのかは人それぞれだと思います。至福、愛、やすらぎという人もいるでしょう。物語に巻き込まれなくなったという人もいるでしょう。私の場合は、ニサルガダッタが言った「もう何も悪くない」という表現が一番近いかなと思います。
多くの人は、非二元の教えを理解したら、何か特別なことが起きると信じています。意識がシフトして、悩みや苦しみが消えると思っています。でも、そんな事は起きません。非二元の教えを理解しても、特別なことは何も起きません。非二元の教師たちが教えているのは、何かになることや、何かを体験することではないのです。
多くの人は、非二元の探求が終わればエンライトメント、あるいは覚醒が起こるはずだと信じています。ここで言うエンライトメント、覚醒とは、ある時何かが起こって意識に変容が起こり、あとは至福に包まれて幸福に暮らせるとか、光に包まれるような体験をして意識がシフトして、あとは悩み事もなく幸福に生きていけるというような、おとぎ話のように信じられてきた出来事のことを言っています。東洋、特にインドでは、こうしたおとぎ話が信じられてきた伝統があり、多くの人がそれを求めて探求してきた歴史があります。
でも、そんなものはありません。それはおとぎ話です。私はそれを多くの非二元の教師から学びました。真の非二元の教師たちは、誰一人としてエンライトメント、覚醒を説きません。もちろん、そうした教師の中には、「覚醒」「目覚め」という言葉を使う人もいますが、それは「理解する」「気づく」という意味で使われています。
スピリチュアルの教師、グルの中には、エンライトメントがあるかのように説く教師もいます。自らを覚醒した人だと宣言する人もいます。でも、そうした教師やグルは、誰一人として信奉者を救済することなく、多くの災いをもたらして去っていきます。それは歴史を振り返ってみればわかることです。
私も長い間エンライトメントを求めて探求してきました。その途中で多くの人たちに出会いました。突然仕事をやめてインドに旅だち、周りの人を悲しませた人たち。あ、これは私のことでした。なけなしの貯金を差し出してコミューンという名の共同生活に身を投じた人たち。自称覚醒した人に騙されて大金を失った人たち。日本では、かつて大きなカルト事件がありました。教祖は自らを覚醒した人だと名乗り、それを信じた多くの人たちが自分も覚醒して楽になりたいと教団に飛び込んでいき、最後には地下鉄にサリンをまくという事件がありました。
どれもこれも、覚醒があると信じていたから起こったことです。そんなものはありません。よく考えてみればわかることではありませんか。人間の苦しみや悲しみが、覚醒してすべて消えるなんてことがあろうはずがないではありませんか。でも人は自分ではどうすることもできない大きな苦しみや悩みを背負ったとき、そうしたおとぎ話をいとも簡単に信じてしまいます。私もそうでした。非二元の教えを学んで苦しみから解放されたいと思っている人は、そうしたおとぎ話を信じた人たちを笑うことはできないはずです。ひとつ間違えば、同じ道をたどっていたかもしれません。
今現在でも、多くの人がエンライトメント、覚醒を求めてさまよっています。あるいは覚醒を求めて次々と非二元の本をあさっている人もいるでしょう。そして最後には、自分は覚醒できなかったいう鬱々とした思いを抱えながら生涯を終えるか、トリップして自分は覚醒した言いだして、さらに多くの人に不幸をもたらすかのいずれかです。エンライトメント、覚醒などないということを一人でも多くの人に知ってもらいたいのです。「私はエンライトメントした」という教師、グルはとても危険です。必ず災いをもたらします。
真の非二元の教師たちが教えていることは、エンライトメント、覚醒ではありません。彼らが教えていることを理解しても意識が変容することはありません。至福に包まれることも悩みや悲しみがたちどころに消えることもありません。彼らが教えていることを理解しても特別なことは何も起きません。彼らが教えていることは、何かになることや、何かを体験することではないのです。一瞥体験は非二元の教えとは何の関係もありません。私たちが非二元の世界を一瞥することはありません。なぜなら、私たちがその主体だからです。
私たちは幸福や平安を求めます。でも、幸福や平安は不幸や苦しみがあってこそ成り立つものです。もし覚醒が起こって不幸や苦しみが消えたら、幸福や平安も消えます。幸福や平安は不幸や苦しみがなければ存在しえないからです。覚醒して毎日至福に包まれて暮らしたなら、その至福は至福ではなく、平凡な日常になります。それが私たちの生きている二元性の世界であり、その外へ出ることはできません。
また、非二元の教師たちのことを、私たちとは違う意識の、覚醒した人たちだと思い込んでいると、彼らが言っていることが理解できません。彼らは決して難しいことを言っているわけではないのですが、ことの性質上、不鮮明な説明や表現を使うことがあります。そうすると、「やっぱり私は覚醒していないから理解できない」となって、理解することを放棄してしまいます。彼らの語っていることはシンプルなことです。勝手に想像して彼らの教えを複雑にしてしまっているのは、彼らは特別な人だという思い込みにすぎません。
多くの人が、彼らには私たちとは違う世界が見えていて、超越的な知識を持っているのではないかと思い込んでいます。彼らは、私たちはどこから来てどこへ行くのか知っているのではないか、来生はあるのか、宇宙の成り立ちはどうなっているのかという類のことを知っているのではないかと思い込んでいます。でも、彼らにそんなことがわかるはずがないではありませんか。
彼らは私たちと何も変わらない普通の人たちです。同じ世界を私たちと同じように見ているのであって、超越的な知識を持っているわけではないのです。私たちより少し先に非二元を理解したにすぎません。理解したことによって特別の意識の状態になったということは決してないのです。
多くの人が、探求が終わると何か特別なことが起こって意識の変容が起こると思っています。そんなことは起こりません。なぜなら、探求などもともとないからです。探求という概念そのものに時間という観念が含まれています。探求による成長や変化はマインドの中で勝手に想像した産物に過ぎません。時間がなければ探求などないのです。あるのは今ここにある意識だけであり、成長も変化も探求もないのです。私たちはもともとそれなのです。
覚醒した人なんていません。非二元の教師だって悩みごともあれば心配ごともあります。ただ彼らは、悩みごとや心配は単なる思考に過ぎないということを心底理解しているにすぎません。かつては、自らを覚醒したグルだと宣言して、祭壇の上で覚醒した人を演じるグルや教師もいました。でも今日では数多くの非二元の教師たちが現れ、インターネットの発達と相まってそんなイカサマを暴いてくれています。
自らを覚醒した存在だとして信奉者を集める手口は時代遅れのイカサマです。決して騙されないでください。もし、エンライトメントや覚醒などないと多くの人が知っていたら、数多くの悲劇を防ぐことができたであろうし、今後も繰り返し起こるであろう悲劇を避けることができると思うのです。
非二元の教えを正しく理解すれば、エンライトメント、覚醒がないということは容易に理解できます。非二元の教えを正しく理解すると、「私」は思考のかたまり、条件付けにすぎないということがわかります。つまり、「私」は実在しないのです。実在しない「私」がどうやって覚醒するというのですか? エンライトメント、覚醒があると言ったとたんに、いるはずのない「私」が現れて、その「私」が覚醒するというストーリーをマインドがでっちあげてしまうのです。
エンライトメント、覚醒という概念には、今覚醒していない私がいつか未来に覚醒するという時間の観念が含まれています。非二元の教えでは時間は思考の中にしか存在しないのです。いつか未来に覚醒するという発想そのものが非二元ではなくなってしまうのです。
そして極めつけは、覚醒する前の意識と覚醒した後の二つの意識があると思っているのなら、それは二元であり非二元ではなくなってしまいます。一つの意識しかないのです。今この瞬間、ここにある意識がすべてであり、他には何もないのです。二つの意識を認めることは、非二元の基本を踏み外した思考の産物に他なりません。
最後に非二元を理解する上で誤りやすいいくつかの点について書いておきます。時々、ネット上で見聞きすることですが、非二元を運命論や宿命論のように考えている人がいます。例えば、私たちの人生はすでに出来上がった映画のようなもので、ストーリーはもう決まっているというものです。それは正しくありません。非二元は運命論でも宿命論でもありません。何も決まってはいません。
運命論を語る場合、その大前提になるのは、そこにその運命を生きる「私」がいるということです。でも、非二元の教えでは「私」は実在しません。だとすると、誰がその運命を生きるというですか? そしてまた、運命論には時間という概念が入っています。ところが非二元の教えでは、時間は人の思考の中にしか存在しません。勝手に未来の運命を考えているのは思考の中だけです。運命論を口にしたとたんにマインドが「私」と「未来の時間」を作り出していることを理解してください。
私がセイラーボブに会って間もないころ、「人の未来がすべて決まっているのなら、努力は何の役に立つのですか?」と聞いたことがあります。するとボブは、「誰が努力をするのですか? 努力は自然に起こっています」と言いました。そこには、努力をする「私」も運命を生きる「私」もいないのです。
そしてまた、自由意志についても同じことが言えます。「自由意志はない」と言う人がいますが、それも正しくありません。「自由意志はない」と言ったとたんに、自由意志を持たない「私」が現れます。「自由意志はある」と言っても、自由意志を持つ「私」が現れます。「私」という主体が実在ではないのに、誰が自由意志も持つのですか? 自由意志があるとかないとか言うこと自体がおかしいのです。そしてまた、自由意志という概念にも時間の観念が含まれています。
同じ理屈は、輪廻やあの世の話にも当てはまります。「人は輪廻するのですか?」と問うこと自体が間違いなのです。そこに輪廻の主体となる「私」がないのなら、誰が輪廻するというのですか? そしてまた輪廻や生まれ変わり、あの世にも時間という概念が含まれています。
非二元の教えをきちんと理解していれば、運命論や自由意志、転生やあの世の話は出てこないはずです。「私」は実在しない。時間は思考の中にしかない。今ここにある意識だけが実在である。こうしたことは非二元の教えの基本です。そして、今ここにある意識だけが実在だと理解すると何が起こるのか。私たちの悩みや苦しみはすべて実在ではなく、想像の産物だという理解が起こります。
心理的な苦悩は不要です。逆に言うと、非二元の教えを理解して起こることは、心理的な苦悩からの解放だけです。引き寄せの法則がスムーズにいくとか、社会的に成功するということではないのです。悩みや苦しみは依然として起こってきます。でも、それには実体がないということを理解していて、巻き込まれることがなくなります。得られるものはそれだけであり、それこそがセイラーボブをはじめとする非二元の教師たちが教えていることです。
私は非二元の教えを十分に理解したつもりです。でも、それを体現して生きているかというと、そうとも言えません。いくらそれが実体のない思考にすぎないとわかっていても、悩みや不安にあっと言う間に圧倒され、ありもしない未来をさまようこともしょちゅうです。まだまだだなぁ思う毎日です。でも、基本的なことをしっかりと理解していれば、以前と同じように問題を雪だるま式に大きくしたりせず、問題は自然に解決するとわかっています。もともと問題などありはしないのですから。
セイラーボブと別れる時、彼は私に「このことをたくさんの日本の人に教えてあげて」と言いました。私はセイラーボブから学んだ非二元を一人でも多くの人に知ってもらいたいと思っています。でも、非二元の教えを十分に体現して生きているとは言い難い私が教師面してミーティングをしたり個人セッションをしたりする気にはなれません。それに、インターネットがこれほど発達した今日、もはや非二元の教えは誰かに直接会って教えてもらわなければ学べないというものではなくなりました。非二元の教えはこのブログを一通り読んでいただければ十分に学べることです。それを体現して生きるかどうかはそれぞれの人次第です。私はこれからもせっせとブログを書いて、できるだけ多くの人に読んでいただきたいと思っています。それで私の役目は十分に果たせていると考えています。
謝辞
以下の人たちに感謝します。
私にセイラーボブのことを教えてくれた友人に。
一緒にミーティングに参加して、いろいろ教えてくれたトビー、ビル、サビーナ、ラメッシに。
セイラーボブの教えの理解に役立った「LIVING REALITY」を書いてくれたジェームズ・ブラハに。
セイラーボブの教えを最終的に理解することを助けてくれたギルバートとカットに。
さらに深い理解と洞察をもたらしてくれたピーターとカリヤニ、U.G.クリシュナムルティをはじめとする多くの非二元の教師たちに。
セイラーボブの本を翻訳してくださった高木悠鼓さん、たくさんの非二元の本を翻訳してくださった古閑博丈さん、ナチュラルスピリットの皆さんに。
仏教の中にある非二元(無我)の理解を助けてくださった佐々木閑先生、横田南嶺老師に。
ブログを読んでいただいた皆さん、おたよりでブログを盛り上げてくださった皆さんに。
そしてもちろん、私にこんなに素晴らしいものを教えてくれたセイラーボブと、あらゆるものとなって現れている一つのものに。
2024/04/30
生(livingness)が今この身体の中で脈動し鼓動しています
生(livingness)が今この身体の中で脈動し鼓動しています。何の努力もなく。
生は思考さえも引き起こしています。というのも、エネルギーは出口を見つけなくてはいけないからです。
生はあなたが世界を見る光となってあなたの目を輝かせています。
あなたは見るためにどんな努力をしましたか?
あなたの目を輝かせるためにどんな努力をしましたか?
聞くためには? 考えるためには? あなたはどんな努力もしていません。
セイラーボブ
2024/04/26
それが習慣のパターンだと見抜いたなら
「私」という狭い視点から見るのでなく、全体性から見ると、物事に対処するのは簡単になるはずです。
すると何が起こるでしょうか? 誰にもわかりません。
ひとたび古い習慣のパターンを見破ったなら、それが習慣のパターンだと見抜いたなら、そこにはもはや以前のような強烈さはありません。
セラーボブ
2024/04/23
非二元の教師たちのYouTube
非二元の教師たちのYouTubeの登録者数を調べてみました(数字は4月20日時点)。
ジェフ・フォスター 5.17万人
トニー・パーソンズ 1.64万人
ティモシー・フリーク 1.06万人
フランシス・ルシール 2.87万人
ジャック・オキーフ 4370人
ルパート・スパイラ 45.4万人
セイラーボブ 3790人
登録者数からみると、一番人気はルパート・スパイラです。しかも私の観察では以前見た時よりもかなり数字が伸びています。セイラーボブはたったの3790人。横這い。それぞれのYouTubeチャンネルの作り方も違うし、更新頻度、動画の数の違いもあるので、一概に登録者数が人気を反映しているとは言えませんが、ルパート・スパイラが人気なのはうなずけます。
それにしても、トップのルパート・スパイラですら45万人です。非二元という分野の人気のなさを物語っています。世界中で、これだけの人しか見ていない。そう考えると、佐々木閑先生と横田老師は日本だけでこれだけ登録者がある。
佐々木閑先生 1.63万人
円覚寺(横田老師)2.92万人
某全米人気ナンバーワン教師のYouTubeチャンネルは200万人近い登録者がいてびっくり。しかもしっかり広告入り。スピリチュアルのチャンネルに広告を入れるんじゃない! あ、入れてもいいです。別にいかんことはない。でも儲かるやろうなぁ。