2024/11/01
本当の私とは、時間を超えてそこに存在する知る働きであり、その認識の内容物ではありません
ボブ:あらゆる思考が、常に今ここで経験されているのは明らかなことです。他の場所ではありえません。過去の思考も今ここに現れてます。
本当の私とは、時間を超えてそこに存在する知る働きであり、その認識の内容物ではありません。
質問者:それでも、不安の記憶が再び浮かび上がることがあります。
ボブ:不安は再び浮かび上がりますが、それは何ですか?あなたはそれを持っている存在ですか?
質問者:いいえ。
ボブ:不安は再び浮かび上がってきます。あなたが自身のことを、不安とは別の、何かを持っている存在、目撃しているかまたは気づいている存在がいると信じている場合にそれは起こります。そしてそれが問題となります。本当の私とは、すべてが現れている知る働きのであるということを見抜いたとき、浮かび上がってくることはそれほど重要ですか?
質問者:いいえ。
2024/10/29
2024/10/25
人間には心理的な問題がたくさんあるのですが
私たちが自身のことを惨めな人間だと考えると、それが私たちに制限を加えることになります。
一つのバイブレーションであるということは、創造的で有用な側面に振動することもあれば、その反対の、否定的で破壊的な側面にも振動します。そして、それが私たちがしていることです。
それゆえ、人間には心理的な問題がたくさんあるのですが、動物や昆虫の世界には、私たちほどではないかもしれません。
セイラーボブ
2024/10/22
思考なしで、どれほとのことが起こっているのでしょうか
そして、ラベルを貼り付ける以前に、それがどのように機能しているかを見てください。それはあなたを呼吸させ、心臓を鼓動させ、髪と爪を成長させています。思考なしで、何が起こっているかを見てください。
思考なしで、どれほとのことが起こっているのでしょうか。
人間の中にある、有効で素晴らしいものは推論する能力です。推論する能力は役に立つものですが、私たちは単に惨めな人間だと言うことは役に立ちません。
セイラーボブ
2024/10/18
動物は私たちのように、自分自身のことは気にしません
動物は私たちのように、自分自身のことは気にしません。私たちはどれほど頭が狂ったり、おかしくなったりすることか・・・。
そして、発明や創造性が進歩するほど、その否定的な部分で破壊的になります。正反対の方向に振動するため、私たちはますます狂って、ますます愚かになるのです。
セイラーボブ
2024/10/15
すべては何の努力もなく起こっているのです
知性エネルギーがあなたを呼吸させています。心臓を鼓動させ、髪の毛と爪を伸ばし、食べ物を消化しています。細胞を再生し、思考・感情・感覚をもたらしています。そしてすべては何の努力もなく起こっているのです。
セイラーボブ
2024/10/14
AS IT IS. Unaltered Unmodified Uncorrected
セイラーボブの新刊。
今年の二月に発売になっていますが、この本のことを知りませんでした。セイラーボブのホームページやFacebookでも紹介されていません。この本のことを知ったのは、ギルバートのFacebookです。編者はラメッシュとなっています。ギルバートが推薦しているので読みたいなとは思っていますが、ちょっと先になりそうです。
2024/10/11
2024/10/08
2024/10/04
そう見えているにすぎません
「私」もまたイメージです。それは、青い海、青い空のようなものです。その思考を見破らなくてはいけません。それは、キリストが「真実を知れば、真実があなたを自由にするだろう」と言われた意味です。たとえどのように見えようと、あなたはその真実を知っています。そこには「私」がいるように見えますが、そう見えているにすぎません。虹や蜃気楼、青い空と同じように。
セイラーボブ
2024/10/01
それこそが実はあなたなのです
この体として現れているパターンと機能は、素晴らしい知性がこの体を通して表現されていることを意味しています。
そして、実はそれこそがあなたなのです。
それがあなたを形成し、成長させ、そして成長させ続けています。それは宇宙と同じように、ごく自然にあなたの体の細胞を入れ替え、その他のことを行っています。
しかし、その自然な状態が、理由付けやマインドの働きによって曇らされているように見えるのです。
セイラーボブ
2024/09/27
あなたは思考ではありません
ボブ:古い習慣のパターンは、何年もの間条件反射として続いてきたので、しばらくは続くでしょう。しかし、ひとたびその居場所を失い、エネルギーがそこから抜けると、そこに留まることはありません。もはや重要なものではなくなります。
質問者:では、ただ単に思考を見つめればいいのですね?
ボブ:あなたは思考よりも前にいます。あなたは思考ではありません。それに気づいてください。その認識、その純粋な知性の中に、それはそのまま存在しています。
セイラーボブ
2024/09/24
2024/09/21
2024/09/20
返事のおたよりをいただきました
拓さん早々のお返事ありがとうございます。
そして、ややこしい気分にさせてしまい申し訳ございませんでした 。
> 私としては、我はどこにもないということをこのブログで書いてい るつもりです。
> 要するに、主体も客体もないということを言いたいだけです。また 、確認と理解の
> くだりは、あくまでも特別な理解やエンライトメントや覚醒のよう なことは起きな
> いと言いたいだけです。
> 理解の仕方は人それぞれで、それぞれが何らかの形で理解・納得す ればいいのだと
> 思います。
はい、拓さんがブログで書かれていることの要点は上記である点は 承知しています。
> 「意識だけがある」という表現も、自分がいると思い込んでいるこ とに対して、そ
> んな自分はいないということを言いたいだけです。
はい。私もそのように思います。
> 説き方はいろいろあるし、思想の体系や説明もいろいろあっていい と思います。ま
> た、その理解の仕方も人それぞれで構わないと思います。「私は実 在しない」とい
> う基本さえ外れていなければ。
はい、そのように私も思っております。
的確に表現出来ず、かえって混乱させてしまったようで大変申し訳 なく思います。拓
さん書かれていること・表現への批判ではありませんでした。
例えば、私が気になったのは『ただそれだけセイラー・ボブ・アダ ムソンの生涯の教
え』に書かれている以下のような表現です。
・P94、3行目から
「…本当の自分とは非顕現であり、純粋な本質であるという観点か ら…」
・P96、7行目から
「…しかしその本質は非現象であり、決して変化したことがないの です…」
・P99、2行目から
「…そのときあなたは、今ここ、明澄で空っぽなこの意識の中に残 されるのです。そ
れは心の中で進行してきたいかなる物語や試練によっても汚染され たり傷つけられた
りしたことがありません。その生きた本質は一度も触れられたこと がありません。そ
れは一なる本質です。それは決してその本質を変えたことがありま せんでした。」
その他の箇所でも、これは私そのものなので、目が目それ自身を見 ることができない
ように、対象として見つけることはできない、思考が止んだ時に理 解されるもの、と
いう表現もたびたび出てくると思いますが、「非顕現、非現象なる 1なる本質」とい
う表現をすると、頭はどうしてもそのようなものが存在すると思っ て探してしまう
し、さらに「それは見つかるものではない、理解されるもの」との 説明が加わると、
かえって混乱するのかな、という疑問でした。
私自身、しばらく非顕現、本質なるものを探し続けて疲弊したくち なので。
私なりの実感では「本当の自分」「本質」というものは確認できま せんし、ただいま
ここで現象が流れているだけですので。
思考や言葉なしでも、風は吹くし、呼吸は起きているし、雲は流れ るし、心臓は鼓動
しているし、人に呼ばれれば即座に「はい」と返事が出るし、現象 はとどまらず自ず
と変化していく、ぐらいの表現のほうが、実際の感覚で確認できる ので混乱しないの
かなと感じた次第です。
全体としてボブさんが書かれていることはよく理解できますし、基 本的にはそのとお
りだと感じていますので、上記のような表現が私的に気になったと いうことでした。
これは表現の仕方の違いなんでしょうね。しっくりくるかどうかの 。
お騒がせしましてすみませんでした。
やりとりさせていただき、どうもありがとうございました。
ケン
そして、ややこしい気分にさせてしまい申し訳ございませんでした
> 私としては、我はどこにもないということをこのブログで書いてい
> 要するに、主体も客体もないということを言いたいだけです。また
> くだりは、あくまでも特別な理解やエンライトメントや覚醒のよう
> いと言いたいだけです。
> 理解の仕方は人それぞれで、それぞれが何らかの形で理解・納得す
> 思います。
はい、拓さんがブログで書かれていることの要点は上記である点は
> 「意識だけがある」という表現も、自分がいると思い込んでいるこ
> んな自分はいないということを言いたいだけです。
はい。私もそのように思います。
> 説き方はいろいろあるし、思想の体系や説明もいろいろあっていい
> た、その理解の仕方も人それぞれで構わないと思います。「私は実
> う基本さえ外れていなければ。
はい、そのように私も思っております。
的確に表現出来ず、かえって混乱させてしまったようで大変申し訳
さん書かれていること・表現への批判ではありませんでした。
例えば、私が気になったのは『ただそれだけセイラー・ボブ・アダ
え』に書かれている以下のような表現です。
・P94、3行目から
「…本当の自分とは非顕現であり、純粋な本質であるという観点か
・P96、7行目から
「…しかしその本質は非現象であり、決して変化したことがないの
・P99、2行目から
「…そのときあなたは、今ここ、明澄で空っぽなこの意識の中に残
れは心の中で進行してきたいかなる物語や試練によっても汚染され
りしたことがありません。その生きた本質は一度も触れられたこと
れは一なる本質です。それは決してその本質を変えたことがありま
その他の箇所でも、これは私そのものなので、目が目それ自身を見
ように、対象として見つけることはできない、思考が止んだ時に理
いう表現もたびたび出てくると思いますが、「非顕現、非現象なる
う表現をすると、頭はどうしてもそのようなものが存在すると思っ
し、さらに「それは見つかるものではない、理解されるもの」との
かえって混乱するのかな、という疑問でした。
私自身、しばらく非顕現、本質なるものを探し続けて疲弊したくち
私なりの実感では「本当の自分」「本質」というものは確認できま
ここで現象が流れているだけですので。
思考や言葉なしでも、風は吹くし、呼吸は起きているし、雲は流れ
しているし、人に呼ばれれば即座に「はい」と返事が出るし、現象
と変化していく、ぐらいの表現のほうが、実際の感覚で確認できる
かなと感じた次第です。
全体としてボブさんが書かれていることはよく理解できますし、基
りだと感じていますので、上記のような表現が私的に気になったと
これは表現の仕方の違いなんでしょうね。しっくりくるかどうかの
お騒がせしましてすみませんでした。
やりとりさせていただき、どうもありがとうございました。
ケン
************
おたよりをありがとうございました。
時々、自分が死んだら全部の思考が停止して、何も感じなくなるのは寂しいなと思うことがあります。いくら小さな波が海に帰るだけだと言われても、もう架空の「私」を感じることもできないのは寂しい気がします。
そこにアウエアネス、あるいは知性エネルギーと呼ばれるようなものがあったとしても、肉体がない以上、それを感じることも表現することもできないと思います。
でも、それも全部、今現在人間という参照点から見た想像なのであって、実際そこに何があるかは、誰にも解きえない永遠の謎だと思います。
このあたりの話は非二元の教師によって味付けの仕方がまちまちなので、あまり深く考えてもしょうがないと思います。
「私は実在ではない」とだけ理解すれば十分かなと思います。
おたよりどうもありがとうございました。
2024/09/19
おたよりをいただきました
拓さんはじめまして
拓さんのブログ、興味深く拝見いたしました。
このような真剣な情熱を感じられるブログに出会えて感謝です。
私はここ17年くらいクリシュナムルティやガンガジ、ダグラスハ ーディング、マハラ
ジ、原始仏教などの著作をつらつらと好き勝手に読んで探求してき ている者です。
つい最近、セイラー・ボブ・アダムソンさんの言葉に触れ、こちら のブログを発見し
拝読させていただきました。
「悟り」というものはない、というメッセージは本当に力強く、私 のような探求の最
中にあるものにはすがすがしく響きました。
私自身、ここ数年、ボブさんが言うように、本当の自分は非現象で あり対象として確
認できるものではないという理解の中で過ごしていましたが、
非現象(空)である主体とその顕われである対象(客体)という、 主体と対象(客体
)の構図を置き、非現象である主体が本当の私(実在)であり、対 象は変化するので
実在ではない、という話。
そしてそれは二元性の中にある我々には確認できるものではなく( あるいは私自身な
ので)ふと理解されるものである、とのことですが、
この表現は、最終的な我の置き場所としての概念と感じてしまい、 違和感が湧いきて
います。
要するにこの話は無いほうがもっとシンプルなのかなと。
「本当の私」というものも実際は確認できませんし、もちろん非現 象としての私も確
認できませんし、かえって混乱するのかなと。
拓さんが言われるように「意識だけがある」という表現は、刻々の 実際として理解で
きますが、拓さんはそのあたりはどのように感じられますでしょう か?
単に私に理解が起きてないからでしょうか?
あるいは、語りかける相手の状態を想定した方便としての表現なの でしょうか?
ふと気になったのでお便りさせていただきました。
よろしくお願いいたします。
ケン
拓さんのブログ、興味深く拝見いたしました。
このような真剣な情熱を感じられるブログに出会えて感謝です。
私はここ17年くらいクリシュナムルティやガンガジ、ダグラスハ
ジ、原始仏教などの著作をつらつらと好き勝手に読んで探求してき
つい最近、セイラー・ボブ・アダムソンさんの言葉に触れ、こちら
拝読させていただきました。
「悟り」というものはない、というメッセージは本当に力強く、私
中にあるものにはすがすがしく響きました。
私自身、ここ数年、ボブさんが言うように、本当の自分は非現象で
認できるものではないという理解の中で過ごしていましたが、
非現象(空)である主体とその顕われである対象(客体)という、
)の構図を置き、非現象である主体が本当の私(実在)であり、対
実在ではない、という話。
そしてそれは二元性の中にある我々には確認できるものではなく(
ので)ふと理解されるものである、とのことですが、
この表現は、最終的な我の置き場所としての概念と感じてしまい、
います。
要するにこの話は無いほうがもっとシンプルなのかなと。
「本当の私」というものも実際は確認できませんし、もちろん非現
認できませんし、かえって混乱するのかなと。
拓さんが言われるように「意識だけがある」という表現は、刻々の
きますが、拓さんはそのあたりはどのように感じられますでしょう
単に私に理解が起きてないからでしょうか?
あるいは、語りかける相手の状態を想定した方便としての表現なの
ふと気になったのでお便りさせていただきました。
よろしくお願いいたします。
ケン
*********
おたよりありがとうございます。
とても難しい内容で、どうご返事したらよいのかよくわかりませんが、一応何かご返事をと思い書いています。
非現象(空)である主体とその顕われである対象(客体)という、 主体と対象(客体
)の構図を置き、非現象である主体が本当の私(実在)であり、対 象は変化するので
実在ではない、という話。
そしてそれは二元性の中にある我々には確認できるものではなく( あるいは私自身な
ので)ふと理解されるものである、とのことですが、
この表現は、最終的な我の置き場所としての概念と感じてしまい、 違和感が湧いきて
います。
要するにこの話は無いほうがもっとシンプルなのかなと。
)の構図を置き、非現象である主体が本当の私(実在)であり、対
実在ではない、という話。
そしてそれは二元性の中にある我々には確認できるものではなく(
ので)ふと理解されるものである、とのことですが、
この表現は、最終的な我の置き場所としての概念と感じてしまい、
います。
要するにこの話は無いほうがもっとシンプルなのかなと。
私としては、我はどこにもないということをこのブログで書いているつもりです。要するに、主体も客体もないということを言いたいだけです。また、確認と理解のくだりは、あくまでも特別な理解やエンライトメントや覚醒のようなことは起きないと言いたいだけです。理解の仕方は人それぞれで、それぞれが何らかの形で理解・納得すればいいのだと思います。
多くの非二元の教師たちは、「私は実在ではない」以上終わり、という人が多く、主体や客体という話を持ち込まない人も多いので、その方がわかりやすいのかなと思います。非二元の教えの核は「私は実在ではない」ということなので、それさえしっかり説いていれば、あとはそれぞれの教師の味付けだと思います。
拓さんが言われるように「意識だけがある」という表現は、刻々の 実際として理解で
きますが、拓さんはそのあたりはどのように感じられますでしょう か?
きますが、拓さんはそのあたりはどのように感じられますでしょう
「意識だけがある」という表現も、自分がいると思い込んでいることに対して、そんな自分はいないということを言いたいだけです。「意識だけがある」と言ってしまうと、それは誰の意識なのか、その主体は何かとなってしまう恐れがあります。実際にはそれを「意識」と呼ぶことさえ一種の観念化であって、そう呼ぶべきではないのかもしれません。仏教がいうように、そこには何もない。空だというべきかもしれません。
何もないと言ってしまった方がすっきりすると思うのですが、人間という参照点から見た場合、そこには世界を投影している何かがある気がするので、仮に「意識」という言葉を使っているにすぎません。もし、人間という参照点を離れれば、そこには何があるかは誰もわからないし、何とも表現しようもない気がします。U.G.クリシュナムルティは「意識なんてものはない」とさえ言っていたと記憶しています。
意識についても、そんな説明をしない非二元の教師も多くいます。私はセイラーボブから非二元を学んだので、意識やアウエアネスという言葉を使っていますが、実際それは何なのかと聞かれても、答えようがありません。また、それを答えることができる人がいるとは思えません。
私自身、ここ数年、ボブさんが言うように、本当の自分は非現象で あり対象として確
認できるものではないという理解の中で過ごしていましたが、
認できるものではないという理解の中で過ごしていましたが、
そのように理解されているのなら、それで十分だと思います。私のブログが、その理解をかえってわかりずらいものにしているのなら、申し訳なく思いますが、ケンさんはもう十分に非二元を理解されていると思います。主体や客体という説明に違和感を感じてみえるなら、その説明は無視してください。「私は実在しない」ということさえしっかり理解してみえれば、あとの説明は不要だと思います。
時々自身のブログを読み返してみて「意識」という言葉は良くなかったなと思うこともしばしばです。でも、セイラーボブが「awareness」という言葉を使うので、その都合上、「意識」と訳して書いています。
私は、思想の体系や説き方は全く違うけれど、佐々木閑先生の教える仏教も師事しています。そこでは、「意識」や「主体・客体」という言葉も説明も出てきませんが、「私は実在しない」という基本だけは非二元の教えと同じだと思って師事しています。説き方はいろいろあるし、思想の体系や説明もいろいろあっていいと思います。また、その理解の仕方も人それぞれで構わないと思います。「私は実在しない」という基本さえ外れていなければ。
お便りの返事としてはピントがずれていて、何の返事にもなっていないかもしれませんが、難しい内容なので、とりあえずこれでご返事とさせていただきます。
2024/09/17
私とは本当にそれなのでしょうか?
私はボブ、オーストラリア人、男、いいやつ、悪いやつ、トラウマを抱えていた。そう私が言う時、それはどれも観念であり、「私」という思考に付け足されたものです。
そのため、人々がボブについて語る時、「私」とは、そうした私として存在することになります。この観念化された、あるいは、うわべ上で思考によって作り上げられたもの。それがいまや何らかの実体を持っています。
それが存在するものの正体です。作り上げられた架空のイメージ。私が自身に対して持っている観念。でも、私とは本当にそれなのでしょうか?
セイラーボブ
2024/09/13
何が死んで、何が死なないのですか?
質問者:ボブ、私たちが死んだらどこへ行くのですか?
ボブ:波が海へと戻ったら、その波はどこへ行きますか?
質問者:わかりません。
ボブ:また同じ波が戻ってきますか?
質問者:いいえ。
ボブ:では、何が死んで、何が死なないのですか?
セイラーボブ
2024/09/10
身体でもマインドでもない純粋な機能としての知性エネルギー
あなたの本質、本当の性質を味わってください。それは、生まれることも死ぬこともない、時間も空間もない、身体でもマインドでもない純粋な機能としての知性エネルギー、分離も分割もないもの、それがあなたです。
セイラーボブ
2024/09/06
私たちが生まれた時には言葉を知りません
もちろん、私たちが生まれた時には言葉を知りません。私たちが身に着けた言葉は、学んだり教えられたりしたものです。私たちはそれを親から学び、ものごとにラベルを貼り付けます。そのラベルは常に、良い/悪い、楽しい/辛い、過去/未来、幸せ/悲しいといったペアへとうわべ上では分割されます。それはどれも振動するエネルギーに異なるラベルを貼り付けたものです。でもエネルギーが分離しているわけではないのです。もしラベルを剝がしたら、そのエネルギーはどこに留まるでしょうか?
セイラーボブ
2024/09/03
あなたは、もうすでにそれなのです
鮮明でリアルな夢から目覚めた時、その夢はどこへ消えましたか?
その夢はどれほど真実味があって、どれほど現実味がありましたか?
エンライトメントや覚醒によって手に入れたり達成できたりすることは何もないとわかってください。そこには何もありません。
あなたは、もうすでにそれなのです。
セイラーボブ
2024/08/30
虚偽は調査に耐え得ません
すべての問題の根本的な原因は、自分は独立した存在、個人、人であるという信念(belief)です。これは単なる思い込みにすぎません。辞書で信念の定義を調べてみてください。信念とは、何かを調べもしないで理由なく受け入ること、肯定的な知識や証明なしで、事実とされていることを受け入れることです。
それは調べられてきませんでした! 根拠もなくそう主張されてきたのです。そうやって主張されている信念のいくつかを調べてみると、調査に耐えることができずに粉々になるでしょう。虚偽は調査に耐え得ません。
セイラーボブ
2024/08/27
それは、何が起きようと、いつもそこにあります
目覚めた状態(wakefulness)は常にここにあります。ほとんどの人が「意識 awareness」という言葉を聞くと、それを探そうとしますが、探しても無駄です。私たちは意識を探そうとします。この意識が何であるかを見つけようとします。
私たちはそれが何であるかという概念を持っています。しかし、「目覚め」という言葉を使う場合の問題は、目覚めるために何かをしなければならないということです。あなたは自分が眠っていないことを知っています。
それを探す必要はありませんし、そのために何かをする必要はありませんよね? 眠っていないのであれば、目覚めているに違いないのは明らかです。
そのままにしておいてください。それは、何らかの方法で変更、修正する必要はなく、探し求める必要もありません。それは、何が起きようと、いつもそこにあります。
セイラーボブ
2024/08/23
目覚めるために何をしたのか?
多くのスピリチュアルの教師たちは自分がどうやってエンライトメントしたかを語るのが好きだ。
それを語ることによって特別な喜びを感じている。
自己欺瞞の仮面をかぶりながら。
人が何かになることなどない。
思い込みが消えると、そこに残るものは明確で明白なものだ。
あなたは今この瞬間目覚めている。
目覚めるために何をしたのか? 何もだ!
ギルバート
2024/08/22
初期仏教の世界
森の中の修行生活(タイ 2024) その3
現在、佐々木閑先生はタイ、チェンマイのお寺に滞在中です。初期仏教の姿を現在まで残している寺院の生活ぶりについてYouTubeで報告されていて、とても興味深いです。
もともとは、この寺で修行をされている日本人の方から、経典のわからないところを教えてほしいと請われて訪ねたのが始まりだそうで、もう何回も行ってみえるそうです。
仏教は、もともとは釈迦の教えを学ぶ哲学集団のようなものでした。そしてそれを二千数百年経った今でも厳格に実践している人たちがいるというのはすごいことですね。
森の中の修行生活(タイ 2024)その1、その2も興味深いですよ。
2024/08/20
人生後半、そろそろ仏教にふれよう (PHP新書)
人生後半、そろそろ仏教にふれよう (PHP新書)
私はこのブログで佐々木閑先生のYouTubeをいくつも転載させていただいているとおり、佐々木閑先生の大ファンです。佐々木閑先生のYoutubeは、かたっぱしからほぼ全部見ているし、本も何冊も拝読させていただいています。
それで、仏教のことは、まあだいたいわかっているつもりでしたが、この本を読んで、改めて仏教の成り立ち、日本に入ってきた経緯などを復習させていただきました。忘れてしまっていることもたくさんあって、とても参考になりました。この本は仏教のこと、特に原始仏教のことを詳しく知りたいけれども、何から学べばよいのかわからないという人には、わかりやすいダイジェストになるのではないかと思います。
そして、本当の仏教が教えていることの神髄を単刀直入に学びたいという人には、非常にわかりやす本になっています。それは、諸行無常であり、諸法無我です。そしてそれはこのブログのメインテーマである非二元の教えの神髄と同じものです。古館さんは、諸行無常、諸法無我をよく理解してみえて、そのうえ佐々木閑先生を師とされたことがすばらしいと思います。
私は仏教の教えていることは根本的には非二元の思想と同じであり、とても素晴らしいと思っているのですが、それはあくまでも、佐々木閑先生を通して学んだ仏教に関してだけです。もちろん、横田南嶺老師や唯識の思想から学んだこともたくさんありますが、それも佐々木閑先生なくしては理解しえなかったと思います。
この本は参考になることがたくさんあります。一つとても印象に残ったのは、古館さんの話。古館さんがまだテレビ局のキャスターをやっていたころ、アマゾンの原始部族の酋長の取材に行って、文明とはかけ離れて暮らす部族の人にとって、幸せとは何なのですかという質問をします。すると酋長は何人もの通訳を介して、私には幸福という言葉の意味がわからないので、その問いには答えようがないと答えます。
そして佐々木先生はこの話に対して、幸福を求める状態が不幸なのですと答えてみえます。私はこの話がとても印象に残りました。
第1298回「そろそろ仏教にふれよう」2024/7/27【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師
2024/08/18
人生後半、そろそろ仏教にふれよう
【古舘伊知郎氏&佐々木閑氏対談1/3】古舘伊知郎が「生きる意味」を考え直すきっかけになった、姉の死◎『人生後半、そろそろ仏教にふれよう』
【古舘伊知郎氏&佐々木閑氏対談2/3】釈迦は仏教が滅びると思っていた?◎『人生後半、そろそろ仏教にふれよう』PHP研究所
【古舘伊知郎氏&佐々木閑氏対談3/3】釈迦の教えに学ぶ集団組織の存在価値とは◎『人生後半、そろそろ仏教にふれよう』PHP研究所
私は両方の考え方ともに好きです。
2024/08/16
ありのままの自分でいてください
私たち一人ひとりは、知性が自ら表現しているものであり、それぞれが独自の現れです。
同じ表現は二つとありません。この宇宙、あるいは宇宙の顕現の中のすべての多様性において、それぞれの表現は唯一のものです。
そのため、自分がどうあるべきかという考えは、もともと唯一の現れであるあなたを制限することになります。 自分ではないもののふりをするのはやめて、 ありのままの自分でいてください。 ただありのままで。 リラックスして、オープンで。 心からオープンでいてください。
それは共鳴し、認識され、知られます。 それは純粋で単純な理解です。
セイラーボブ
2024/08/13
肝心なことは、まさに今ここにあなたは存在し、存在していることに気づいているということです
ボブ: ここには中心がないことがはっきりわかれば、たとえ習慣のパターンに再びとらわれたとしても、ただそのことを見失ったにすぎません。
そこにある知る働き、知る働きの根底にある実在は、決して失われません。
それには始まりがありません。
それには終わりがありません。
質問者: 肝心なことは何ですか?
ボブ: 肝心なことは、まさに今ここにあなたは存在し、存在していることに気づいているということです。
セイラーボブ
2024/08/11
2024/08/09
二元性は「私が行為者だ」という習慣、あるいはその信念から始まります
質問者 :二元性はどこから始まるのですか?
ボブ:「私が行為者だ」という習慣、あるいはその信念からです!
質問者:「私が自分の人生をコントロールしているのではない」ということを受け入れる勇気がありません。
ボブ:あなたが自身に対してしている制限を見てください。知性とは何ですか。エネルギーとは何ですか。勇気そのものではないですか。愛そのもの、思いやりそのものでしょう? あなたは必要な勇気をすべて持っています! でも、私たちは「勇気がない」などと制限をかけてしまうのです。
セイラーボブ
2024/08/06
習慣パターンを断ち切ってください
「ああ、でも」とか「もし」とか「過去の経験から知っている」という習慣パターンを断ち切ってください。
そうやってマインドがやってきて、私たちは自発性と直感力を失います。
第六感は、霊的感覚と呼ばれることもあります。それは自然に現れますが、マインドは「いや、もっといいものがある」と言います。
セイラーボブ
2024/08/05
備忘録
このYouTubeチャンネル(Nothing Media)には、たくさんの非二元の語り部が出てきますが、このチャンネルの主催者がどういう人なのか知りません。また、登場する人も、ほとんどが知らない人です。一応備忘録としてセイラーボブ関連のものだけ載せておきます。
2024/08/02
マインドを観察してください
マインドは絶えず基準点を入れ替えます。マインドを観察してください。
それがマインドの性質です。調べて、これがすべての始まりだと言えるような特定の点がないことを確かめてください。
マインドを観察し続けることで、マインドはその力、強烈さを失います。
するとマインドは、そこにある事柄に対処するためにあるのです。
セイラーボブ
2024/07/30
見かけ上の「私」を信じることが、あなたのすべての問題の原因です
かつて人々は、地球は平らだと信じていましたが、調査した結果、そうではないことがわかりました。かつてはバクテリアやウイルスと呼ばれる邪悪な力について、あらゆる種類の信念がありました。でも、体やマインドがあるという考えを調査する人はあまりいません。なぜでしょうか? この見かけ上の「私」を信じることが、あなたのすべての問題の原因です。
セイラーボブ
2024/07/29
人間は高性能のロボットと同じではないでしょうか
私は常々、人間は高性能のロボットと同じではないかと思っています。バッテリーの代わりに食べ物を補充して動きます。脳はAIのようなもので、ChatGTPのように、自分で学習する能力を持っています。
それで、何がロボットと違うかというと、後天的に植え付けられた情報によって、「私は人間だ」「私は生まれた」「私は生きている」「私は死ぬ」と思い込んでいます。でも、非二元を学ぶと、そんなことは後天的に植え付けられた情報にすぎないということを理解します。そして、常住普遍の魂なんてものも、「私」なんてものも存在しないという理解に至ります。
そうだとすると、私たちはロボットと何もかわらないことになります。バッテリーが切れたら身体が動かなくなって、意識が消えるだけです。動物も同じです。だとすると、ロボットも動物も人間も、実際には同じようなものではないでしょうか。人間だけが、自分は特別だと思っていますが、実際には自然の一部にすぎません。
ロボットや動物と人間が決定的に違うのは、人間だけが心理的な苦悩を持つという点です。なぜ心理的な苦悩を持つかというと、「自分が生きている」、あるいは、「自分がこの生をコントロールしている」と思っているからではないでしょうか? 悩み事は、本来自分ではコントロールできない物事を、なんとかしてコントロールしようとするから起きるのではないでしょうか。
ロボットだったら、そんなことは考えもしないでしょうし、動物だったら、少しは悩むかもしれませんが、悩んでいるより先にエサを探さなくてはならず、悩んでいる暇なんてないのではないでしょうか。
私も心理的な苦悩をいくつも抱えていた苦しい時期がありました。周囲の状況から起こる悩みばかりでなく、病的なものもありました。振り返って今思うのは、そうしたことの特効薬は、放置しておくというか、忘れてしまうことが一番ではないかと思います。もちろん、原因がある悩みについては、原因を解決すべく、できるだけの努力はすべきだと思いますし、病的なものについては医者や薬の助けも必要かもしれません。
でも、基本的には、そうしたことをコントロールできる「私」はいない、悩みの主体となる「私」は実在ではない、ということを理解して、今やるべきこと、やりたいことに焦点をあてることが解決の近道ではないいでしょうか。問題や悩みを解決しようともがけばもがくほど、エネルギーはそちらへ流れ、悩みや問題は大きくなっていきます。もともと問題はマインドが作っているものにすぎず、実体などないのですから。
悩みや問題の解決は、非二元の教えを理解することがベストだと思います。でも、大きな悩み事を抱えている方で、非二元の教えよりももっと即効性のある解決策を探してみえる方は、以前ブログに書いた、こちらを参考にしてみてください。何かの参考になるかもしれません。
2024/07/28
人の心もまた、実は「非常に単純な計算作業の繰り返しでできている」
特別回 AIと仏教 その1
この話は非二元に通じるところ大いにありだと思います。深く考えさせられました。
私もChatGPTにはいたく驚いていて、英語学習に活用しています。自分の作った英文が文法的に正しいのか、自然なものかをChatGPTに聞くと、詳しく教えてくれます。もうびっくりするほどです。ChatGPTは英語学習に革命を起こしているといっても過言ではありません。瞬時に翻訳・通訳する時代はもうすぐそこまできていて、英語学習そのものが不要になるかもしれません。
私は常々、人間は高性能のロボットと同じではないかと思っています。この続きは明日書くことにします。
2024/07/26
人を神格化して見ると判断を誤る
この話は非二元とは直接的には関係ありませんが、最後の5分はスピリチュアルの道を歩む多くの人に参考になると思います。多くの人は完全な師を求めています。私もそうでしたが、誰かが「私は覚醒した」などと言おうものなら、その人が何を言おうが、それがどんなに的外れなことであっても、マスターの言うことだから何か重要なメッセージに違いないと思って、盲目的に追従してしまいがちです。また、自分も同じ体験をしたいと思うあまりにトリップしてしまう人もいます。覚醒した人などどこにもいないと肝に銘じて、自分の頭で判断することが大切なのではないでしょうか。大切なのはメッセージであり、そのメッセージが私たちに役立つものでなくてはいけないと思います。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その52」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
2024/07/23
ボブ、96歳の誕生日おめでとう!
Are you unaware? Bob's 96th birthday catch up. 21 July 2024
こんなにたくさんの人が集まったのは記憶にありません。この日はボブの96歳の誕生日。おそらくみんなこのあとのパーティに行くのでしょう。
ボブのスピールのあと、集まった人たちが順番にボブに感謝の言葉を言っていきました。30年以上も通っている人もいます。
ボブが40年以上にわたって人々に対して行ってきたことは、「心理的な苦悩からの解放」です。そしてここに集まっている人たちは、ボブによって心理的な苦悩から解放された人たちです。ラメッシもその一人だと思います。
*****************
59:40から
ラメッシ:ハーイ。このパターン(自分のことを指して)はヒンヅーのバックグラウンドからやって来ました。私の叔父はサドゥ、僧です。私は若いころから、そうしたことに興味があり、グル、メンター(良き助言者)を探さなくてはいけないと思っていました。でも、メルボルンに住む白人の老人が私のメンターになるなんて考えたこともありませんでした。(一同爆笑)
まったく驚きです。しかも、船乗りで、元アル中なんです。(笑い)羊の毛を刈っていて、けんかばかりしていた。(笑い) 彼は本物です。
あんまり長く話てはいけないのですが、ヒンヅー教のサンスクリットの二行詩について話すと、ボブがよく引用するするのは「サット-チット-アナンダ」、「ナーマ・ルーパ」です。
サット-チット-アナンダは、存在ー意識ー至福です。そして、あなたの存在は自明のことです。そして知る働き、チットは自分がいるという認識です。だれもが自分が存在していると知っています。自分がいると信じているのではなく、知っています。その、自分が存在するというその認識の中に至福があります。それがアナンダ、存在することへの愛です。サット-チット-アナンダです。タジーがさっき言ったように、その知る働きへ立ち返ってそれを認識すること(が大切)です。というのも知る働きは非観念の意識であり、内在する認識だからです。その知る働きの中にボブが言う、原因のない喜びが起こっています。その知る働きは観念化されないものであるため、彼はそれを様々な言い方で言います。
「もしそのことを考えなかったら、今何が問題なのか」。それもまた同じことを指摘しています。そのことを考えない時、そこには内在する知る働きがあり、それは観念化されない意識です。ですから、そこへ戻り続けることです。それを何度も何度も認識すること。物語がやってこようと、観念がやってこようと、内在する知る働きへ戻り続けることです。その内在する知る働きがあなたなのです。
2024/07/19
2024/07/16
誰がその努力しているのでしょうか
では、別の視点から見てみましょう。今ここで、誰もが呼吸をし、心臓が鼓動し、血液が体中を巡っています。
髪の毛や爪が伸びています。細胞が入れ替わり、食べ物が消化されています。
誰がその努力しているのでしょうか?
「次の呼吸をしなくちゃ。心臓を鼓動させなくちゃ。食べ物を消化しなくちゃ」と言っている「私」や考えがマインドの中にありますか?
それとも、それは努力なしに起こっているのでしょうか?
セイラーボブ
2024/07/12
記憶は架空のもである 私は実在しない
引き続き、佐々木閑先生のすばらしい話が続いています。この話などは非二元そのものです。あまり転載させていただくのもどうかと思いますが、備忘録として残しておきたいと思います。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その48」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
2024/07/09
求めない生き方
この話は非二元とはあまり関係ないかもしれませんが、思うところあって転載させていただきます。
昨今の「持続可能な成長」とか、「環境にやさしい」とかいうフレーズを耳にするたびに、そんなまやかしではなく、「求めない生き方」こそが解決策ではないかと思えてなりません。
必要以上に快適に生活しようとすること、過度においしいものを食べようとすること、もっとGDPを増やそうとすることよりも、求めない生き方の中にこそ幸せがあるような気がします。できるだけそうやって暮らしていこうと思っています。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その47」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
2024/07/05
すべてはそれなり
すばらしい話があります。これもまたインドの伝承で、ムクタナンダからのものです。
ある男が生の本質を知りたくてグルを訪ます。生の本質は何なのですかと尋ねるとグルは、「汝それなり、すべてはそれなり」と答えます。
男はその言葉に打たれて理解します。グルの家を出て、「我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり」と言って歩きました。
村人たちが向こうから走ってきて、「逃げろ象がやって来るぞ」と言いました。
男は、「ああ、我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり」と言いました。
野生の暴れた象が角を曲がって男に向かって突進してきました。
男は象を見て、「我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり」と言いましたが、象は男をつかんで木へと放り投げました。
数日後、手足を骨折して入院した男をグルが見舞いに行くと、男は言いました。「どうして言ってくれなかったのですか? 私の身体を見てください」
するとグルは、「人々が象が来るから逃げろと言ったのを聞かなかったのか? 彼らもまたそれなのだ」
ピーター・ローリー
2024/07/02
ここでは何も悪くはありません
いいですか、いつもここへ立ち戻ってください。今ここ、この瞬間、現在へ。
ここでは何も悪くはありません。
それと同じで、考えなかったら過去は存在するでしょうか?
考えなかったら、未来はあるのでしょうか?
セイラーボブ
2024/06/28
もし最初の感覚にラベルを貼りつけなければ、それは去っていきます
どこかへ行こうとして渋滞にあったときを例にしましょう。イライラします。それを何とかしようとしないで、ラベルを貼らないでおけば、それは単なる感覚が起こったにすぎません。批判しなければ、それは感覚にすぎず、去っていくのです。
最初の段階で、巻き込まれるとか、巻き込まれないでいようとかしないで、通り過ぎる車のようにただやりすごせばいいのです。古い習慣がやってきて権利を主張して、私のイライラ、私の失望と言いだします。失望、イライラは起こります。でも、もし最初の感覚にラベルを貼りつけなければ、それは去っていきます。
カリヤニ
2024/06/25
根底にあるものは何か
佐々木閑先生のYouYubeを見ていると、一言で仏教と言っても、いろんな教えや考え方があって面白いなと思います。世界の認識の仕方一つとっても、初期仏教と説一切有部や唯識では同じではありません。でも、根底にあるものは「諸法無我」であり、それは変わりません。
同じことが非二元の教えでも言えるのではないでしょうか。説き方は人それぞれであり、場合によってはそれぞれが互いに矛盾したことを言っているように思える場合もあります。でも、根底にあるものは「私には実態がない」ということであり、それから外れていなければいいような気がします。
でも、私はエンライトメントある派のマスターを支持しません。エンライトメントある派のマスターを支持しないというのは少し狭量だと思われるかもしれませんが、そこだけはどうしても譲れません。それを許してしまうと、そこには誰かエンライトメントする人がいることを認めてしまうことになります。
エンライトメントある派のマスターも存在していてかまいませんし、エンライトメントを目指している人たちのことをとやかく言うつもりもありません。でも、彼らの教えていることは非二元ではないし、彼らを非二元を教えるマスターと同じように扱うのはよくありません。そして、非二元の教えをエンライトメントとごちゃ混ぜにして理解しようとするのは間違っていると思います。非二元の世界にエンライトメントはありません。
2024/06/21
そこには一つのエッセンスがあるだけです
この肉体がなくなったあとでも、このマインドが続くのかということですね。
そこには一つのエッセンスがあるだけです。
一滴のしずくが海に落ちます。
その同じ一滴のしずくをまた海から取り出せると思いますか?
うわべ上では海に入っていくように見えますが、その一滴もまた海なのです。
セイラーボブ
2024/06/18
魂、あるいは霊は実在するのか
私は非二元を学んでから、魂も霊も実在しないと思っています。
仏教ではどうでしょうか。この話もまた興味深い話でした。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その39」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
2024/06/14
あなたは生かされています
小さな胎児は母親の温かさ、心拍、呼吸に身を任せています。胎児は何の苦もなく成長します。そしてこれはまた、「私が考えた」、この「考え」や「イメージ」には何の力もないことの証となります。
それには力はありません。それが「私」なのです。これが起こっていることだとわかってください。
あなたは生かされています。
あなたは生そのものなのです。
セイラーボブ
2024/06/11
目覚めようとするいかなる試みも、私たちをそれから遠ざけます
私たちはみな、目覚めやエンライトメントに対して間違った思い込みをしています。そしてそれが障害となっています。目覚めようとするいかなる試みも、私たちをそれから遠ざけます。なぜなら、私たちは、このもともとあるアウエアネス(意識)のことを話しているからです。
2024/06/07
なるという未来の時間は存在しません
「なる」ということは、何かになるという未来の時間を投影しています。
なるという未来の時間は存在しません。
現実とはまさにこの瞬間です。それが生きるということです。
この瞬間をもう一度生きることはできません。この瞬間、いまここを。
セイラーボブ
2024/06/04
この世のどこにも我はない
佐々木閑先生のYouTube「ミリンダの問い」を時々見直しています。そしてあらためて仏教は非二元の教えそのものだと感じています。非二元の教えを学んだからこそ佐々木閑先生の教える仏教がよくわかるのだと思います。
佐々木先生は、「我」はどこにもないということを理解することは、仏教の悟りへの修行の重要なステップだとYouTubeの中で言われましたが、おおいに納得できます。「私」が実在ではないとわかれば、欲や煩悩は自然と消えていくのではないでしょうか。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その4」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
この回などはセイラーボブのスピールを彷彿させます。まったくすばらしい。
2024/05/31
2024/05/28
2024/05/24
非二元的な生き方
非二元を学んで理解して、その後で「非二元的な生き方」があるかというと、そんなものはないと思います。非二元の教えの目指しているところは心理的な苦悩からの解放だけです。その後はどんな生き方をするかは、人それぞれ個人の意思にかかっていると思います。
「私」が実在ではないということを理解して、それならもっとやりたいことをやって自由に生きようとする人もいるでしょうし、以前にも増して成功や願望実現へ向けて精を出す人もいるでしょう。精神的な問題や悩みが無ければ、成功する確率は高くなるかしれません。
私も精神的には随分と楽になりました。それで私の生き方が変わったかというと、非二元を学んだから生き方が変わったということはないように思います。すべては起こってくることだと思うと、何かをどうかしようという思いもあまりおこりません。その影響もあると思うのですが、佐々木閑先生の教える仏教を学んで多いに納得することがありました。そして今は、できるだけ「欲望や願望を追及しない生き方」をしようと思っています。
年齢的にもこれから世に出て何かをしようという年齢ではないし、どうしても何かが欲しいという願望もありません。もっと英語が上手になりたいとか、もう少しビビらないようになりたいとかいうささやかな願望はありますが、大したことではありません。とりあえず食べるものがあって、その上健康ならありがたいなと思う程度です。
もともと多少ドロップアウト気味に生きてきたこともあって、佐々木閑先生の説く仏教には随分と救われました。もちろん、「欲望や願望を追及しない生き方」の人が増えてしまっては、経済も社会もうまくいかなくなってしまうので、そういう生き方は社会では息苦しさを感じる少数の人に限定されるべきものなのでしょう。できるだけ人や社会に迷惑をかけないようにして、「欲望や願望を追及しない生き方」をしていこうと思っています。
「人並みに」とか、「人と同じように」生きなくてもいいんだよ、というお許しをもらった気がして救われた気持ちです。どうせある意味でヴァーチャルな世界に生きているんだから、自分の思うように生きればいいのだと思います。
佐々木閑先生はたびたび「欲望や願望を追及しない生き方」(佐々木先生の使われる表現とは多少違うかもしれませんが同じ意味だと思います)が仏教の目指すところだと語ってみえます。私には、それが幸福をもたらす鍵のような気がしてなりません。
参考:出家的に生きるために
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その33」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
2024/05/21
今そのことを考えなかったら、何が問題なのですか?
問題が起こっているように見えます。必要に応じて行動が起こります。
では、何が問題ですか?
みなさんにお尋ねします。「今そのことを考えなかったら、何が問題なのですか?」
何が問題なのかを見ようとする前に一瞬の間があります。
何かが問題となる前には必ず思考があるということを理解してください。
その問題について議論して時間を浪費してはいけません。
セイラーボブ
2024/05/17
世界は幻か?
前回のブログの「ミリンダの問い その29」は、仏教が世界をどのように認識しているのかがわかって、とても良い話でした。ミリンダ問経にあるような初期仏教では、世界は実在するが、「私」は実在ではないという立場をとっています。さらに仏教が発展して大乗仏教になると、世界も実在ではないと説く人たちが現れます(唯識など)。
セイラーボブに会った最初の頃、世界が実在なのかどうかが知りたくてしかたがありませんでした。セイラーボブは、ヒンズー教を引き合いにだして、世界はマーヤー(幻)だと言われているという話を時々します。それで私は、世界が自分の意識の外にあるのかどうかが知たくてしかたなかった。私が眠っている時にエジプトのピラミッドは消えているのか? メルボルンのヴィクトリア通りの建物は消えているのか?
そういう質問をしたことがあるのですが、ボブはいつも決まって「そこにあるのは何ですか?」と言って、部屋の隅にある椅子を指すのです。そこから、それが椅子なのかどうか? それは実在か? という話になっていくのです。私としては、もっと単純に、私たちが見ている世界は実在なのかどうかが知りたかったのですが、いつもはぐらかされたような印象を受けました。
非二元の教師たち皆が世界は幻だと言っているわけではないのですが、そのように解釈できるように語る人もいます。ジャン・クラインは、「意識の外には何もありません。宇宙も、あなたの個人的な「私」も、すべて意識の中に現れます」と言っています。
個人的には、おそらくジャン・クラインの言う通りなのだと思います。おそらく、私の意識が消えれば世界は消えるだろうと思います。例えば、私が死んだら世界は消える。私が空の上から残された人たちの活動を見るなんてことにはならないと思っています。参照点が消えればもうこの世界を見ることも感じることもないだろうと思います。ただ、まだ生きている人に参照点を置くなら、そこには依然として世界はあるでしょう。
でも、それも想像にすぎません。いくら考えてみたところで、私たちは五感を通してしか世界を認識できないのだし、五感の外に出て確かめることは不可能なので、意識の外に世界があるのかどうかは確かめようのないことです。私が死んだあとに世界はどうなるかも、確かめようのないことです。
人によっては、世界は実在しないという考え方は行き過ぎで、世界も身体も実在するが、「私」は実在しないという初期仏教の考え方の方がしっくりいくという人もいるのではないでしょうか。昔の私だったら、覚醒した人はそういった意識の外の世界さえ見えているはずだと思っていましたが、今ではそんなことはまったく信じていません。
以前は、非二元の教えを理解する上で、世界は幻であるということを理解しなくてはいけないと思っていましたが、今はそうは思っていません。非二元の教えの核は「私」は実在ではないということです。世界が実在かどうかは考えてもしかたがないことだと思います。現実問題として健康診断にも歯医者にも行かなくてはいけません。身体は無いなんて言ってられない。
以前、非二元にまったく興味のない友人に、「ひょっとするとリンゴは脳の産物で、実際には存在しないかもしれない」と言ったところ、ひどく怒られて、あんまり変な本ばかり読んでるいからそうなるんだと言われたことがあります。世界は幻だなんて言おうものなら・・・。
認識論については、今のところ前回のブログ(ミリンダの問い その29)が一つの答えになるのではないでしょうか。科学は、物質は存在しないということを証明する手前まで来ていますが、まだそれは量子力学の段階でしかありません。現段階ではまだよくわかっていません。私がボブに、物(体)が実在かどうか科学的に説明して欲しいと聞いたところ、それは科学者の仕事だよと言われました。
わからないものはわからなくていいのではないかと思います。非二元の教師が、世界は幻だと言ったとしても、彼らでさえも確かめることはできないと思います。現実的なことを言えば、私の世界は私の意識の及ぶ範囲だけであり、それ以外はないと同じではないかと思います。
2024/05/14
仏教の認識論 私とは何か?
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その29」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
この話、おもしろいですよ。
非二元を学ぶ人必見。ぜひ見てください。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その30」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
この話は非二元そのものです。
2024/05/10
2024/05/07
時間は生あるものにしか存在しない
非二元の教えの中で、時間に関するところは理解が容易ではないところではないかと思います。時間は思考の中にしかないと言われても、なかなか理解できない人が多いのではないでしょうか。
仏教ではどうか? 「ミリンダの問い その24」では、「時間は生あるものにしか存在しない」という説明が出てきます。そして「ミリンダの問い その25」はもうほとんど非二元の世界。もちろん仏教と非二元では時間に関する考え方は違うのですが、似たような捉え方をしていたんだなと参考になりました。そして佐々木先生は、もし人間がいなかったら時間とは何なのかと問うてみえます。とても興味深いところです。
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その22」
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その23」
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その24」
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その25」
2024/05/03
あとがき・まとめ
私はこのブログをずっと続けていきたいと思っています。でも、いつどんな理由で更新できなくなるかはわかりません。病気、事故、災害などの理由で、何の断りもなくブログがそのままになることだってあるかもしれません。そんな尻切れトンボで放置するのは嫌だと思って、毎年年末になると、その翌々年の一月一日にタイマー投稿をセットして、「ごあいさつ」の記事がブログのトップに来るようにしています。幸い今までのところ毎年そのタイマー投稿を翌年にずらすことができています。それで一応ブログとしては恰好がつくかなと思うのですが、でもそれだけだと何か物足りないと思うようになりました。そこで、本でいうなら「あとがき」のようなものを先に書いておこうと思います。
私がこのブログに一貫して書いてきたことは、この一言に集約することができます。
本質としての「私」は身体でも思考(マインド・心)でもなく、意識である。
私たちは、ある日人間としてこの世に生まれ、成長して大人になり、この「私」がこの人生を生きていると信じています。私は男性である。私は女性である。私は会社員である。私は母である。私は日本人である。私は町の中で暮らし、休日には山へハイキングに行く。そこには自然がある。こうしたことを、ごく当たり前に信じて生きています。
でも、今この瞬間、絶対的な確信をもって真実だと言えることは何でしょうか? 非二元を学び、こうした物事の一つ一つを調べていくと、どれもが実在ではなく、後天的に学んだ思考のかたまり、あるいは条件づけであるという理解に至ります。「私」は思考のかたまりにすぎません。そして、時間についても、それは思考の中にしか存在しないということがわかります。
そして、セイラーボブを始めとする非二元の教師たちは、今この瞬間、絶対的な確信をもって真実だと言えることは、今この瞬間に意識があるということだけだと言います。この意識のことを非二元の教師たちは多様な言葉で表現します。アウエアネス、純粋意識、生、気づき、真我、空間、それ。ニサルガダッタ・マハラジの言葉を借りて言うならば、「私は在る」という感覚、つまり意識があるということだけが今この瞬間に絶対的な確信をもって言えることです。その他のことはすべて仮説か想像にすぎません。
この意識とは、私たちの日常に普通にある意識のことです。何か特別な体験をして手に入れなくてはいけないとか、特別な人にだけにある意識ではなく、誰もが普通に持っている意識のことです。思考のことを意識と言い、思考の背後にある意識のことを純粋意識と呼ぶ教師もいます。呼び方は何でも構いません。それは思考の背景にいつもある普通の意識のことです。私たちが絶対的な確信を持って言えることは、今その意識がここにあるということだけです。
例えば、私たちは自分が生まれて生きていると思っています。でも、生まれるということはどういうことでしょうか? 生きているということはどういうことでしょうか? 生まれるということの定義づけも、生きているということの定義づけも、後天的に人から植え付けられた概念であり、実際にはどういうことなのか誰もわかっていません。心臓が脈を打ち、肺が呼吸をしているから生きているのだと考えていますが、それも誰かから植え付けられた概念にすぎません。
世界は私の意識の中に現れます。そういう点において万物は一つのものです。では、意識の外に世界はあるのでしょうか? それは確かめようがありません。なぜなら、私たちは五感を通して意識の中に現れる世界しか認識しようがないからです。世界は必ず五感を通して意識にやってきます。でも私たちは、世界は私たちの意識とは関係なく存在していると勝手に想像しています。でも、本当にそうでしょうか? 意識の外に出ることができない以上、意識の外に世界があるのかを確認する方法はありません。
時間に関してはどうでしょうか? 明日はまだやって来ていないので、当然存在していません。では、昨日はどうでしょうか? 昨日はどこにあると聞かれても、それは記憶の中にしか存在しません。つまり、意識の中にしか存在しないのです。昨日の時点では昨日は存在したと言われるかもしれませんが、それは今の時点で昨日のことを想像しているにすぎず、昨日の時点の昨日は今だったはずです。すると昨日も私たちの意識の中の想像でしかないことになります。
こうやって、一つ一つのことを突き詰めて考えていくと、今この瞬間に確かな確信をもって言えることは、今ここにある意識だけが確かなものであり、その他のもことは想像か仮説、あるいは思い込みや条件付けにすぎないということがわかります。非二元の教師たちが教えているのは、この意識のことです。私は「意識」という言葉がわかりやすいので意識という言葉を使っていますが、実際のところ、この意識とは何なのかと聞かれると答えることができません。
朝起きるとやってくるもの。思考の背景にいつもあるもの。それでいて、深い眠りの中にもあるもの。そこに世界が現れるもの。この程度の説明しかできません。それが本質としての私だと非二元の教師たちは言うのです。私たちは、この意識を客体として認識することはできません。なぜなら、私たちがその主体である意識だからです。目が自身の目を見ることができないように、意識が意識を認識することはできません。
ではどうしたらいいのか? 多くの非二元の教師たちが異口同音に言っているのは、思考を見つめることです。良い・悪い、好き・嫌いといった判断をしないで、ただ見つめる。あるいは気づいている。それを変えようとせず、消そうとせず、ただあるがままに見つめる。
非二元の教師たちは映画のスクリーンの例えを使うのが好きなので、ここでも使わせてもらいます。スクリーンが意識です。そのスクリーンの上に物語や世界が映し出されます。私たちには物語や世界は見えますが、スクリーンを見ることができません。そこで、スクリーンに映し出される物語や世界を見つめるのです。それを見つめることによって、それが実在なのかそうでないのかを見るのです。
意識のスクリーンに現れる最大のものは思考です。その思考を見つめるのです。それに気づいていることで、その思考が実在なのかどうか、その思考の背景には何があるのかを感知するのです。
意識に気づくことで何が起こるのかは人それぞれだと思います。至福、愛、やすらぎという人もいるでしょう。物語に巻き込まれなくなったという人もいるでしょう。私の場合は、ニサルガダッタが言った「もう何も悪くない」という表現が一番近いかなと思います。
多くの人は、非二元の教えを理解したら、何か特別なことが起きると信じています。意識がシフトして、悩みや苦しみが消えると思っています。でも、そんな事は起きません。非二元の教えを理解しても、特別なことは何も起きません。非二元の教師たちが教えているのは、何かになることや、何かを体験することではないのです。
多くの人は、非二元の探求が終わればエンライトメント、あるいは覚醒が起こるはずだと信じています。ここで言うエンライトメント、覚醒とは、ある時何かが起こって意識に変容が起こり、あとは至福に包まれて幸福に暮らせるとか、光に包まれるような体験をして意識がシフトして、あとは悩み事もなく幸福に生きていけるというような、おとぎ話のように信じられてきた出来事のことを言っています。東洋、特にインドでは、こうしたおとぎ話が信じられてきた伝統があり、多くの人がそれを求めて探求してきた歴史があります。
でも、そんなものはありません。それはおとぎ話です。私はそれを多くの非二元の教師から学びました。真の非二元の教師たちは、誰一人としてエンライトメント、覚醒を説きません。もちろん、そうした教師の中には、「覚醒」「目覚め」という言葉を使う人もいますが、それは「理解する」「気づく」という意味で使われています。
スピリチュアルの教師、グルの中には、エンライトメントがあるかのように説く教師もいます。自らを覚醒した人だと宣言する人もいます。でも、そうした教師やグルは、誰一人として信奉者を救済することなく、多くの災いをもたらして去っていきます。それは歴史を振り返ってみればわかることです。
私も長い間エンライトメントを求めて探求してきました。その途中で多くの人たちに出会いました。突然仕事をやめてインドに旅だち、周りの人を悲しませた人たち。あ、これは私のことでした。なけなしの貯金を差し出してコミューンという名の共同生活に身を投じた人たち。自称覚醒した人に騙されて大金を失った人たち。日本では、かつて大きなカルト事件がありました。教祖は自らを覚醒した人だと名乗り、それを信じた多くの人たちが自分も覚醒して楽になりたいと教団に飛び込んでいき、最後には地下鉄にサリンをまくという事件がありました。
どれもこれも、覚醒があると信じていたから起こったことです。そんなものはありません。よく考えてみればわかることではありませんか。人間の苦しみや悲しみが、覚醒してすべて消えるなんてことがあろうはずがないではありませんか。でも人は自分ではどうすることもできない大きな苦しみや悩みを背負ったとき、そうしたおとぎ話をいとも簡単に信じてしまいます。私もそうでした。非二元の教えを学んで苦しみから解放されたいと思っている人は、そうしたおとぎ話を信じた人たちを笑うことはできないはずです。ひとつ間違えば、同じ道をたどっていたかもしれません。
今現在でも、多くの人がエンライトメント、覚醒を求めてさまよっています。あるいは覚醒を求めて次々と非二元の本をあさっている人もいるでしょう。そして最後には、自分は覚醒できなかったいう鬱々とした思いを抱えながら生涯を終えるか、トリップして自分は覚醒した言いだして、さらに多くの人に不幸をもたらすかのいずれかです。エンライトメント、覚醒などないということを一人でも多くの人に知ってもらいたいのです。「私はエンライトメントした」という教師、グルはとても危険です。必ず災いをもたらします。
真の非二元の教師たちが教えていることは、エンライトメント、覚醒ではありません。彼らが教えていることを理解しても意識が変容することはありません。至福に包まれることも悩みや悲しみがたちどころに消えることもありません。彼らが教えていることを理解しても特別なことは何も起きません。彼らが教えていることは、何かになることや、何かを体験することではないのです。一瞥体験は非二元の教えとは何の関係もありません。私たちが非二元の世界を一瞥することはありません。なぜなら、私たちがその主体だからです。
私たちは幸福や平安を求めます。でも、幸福や平安は不幸や苦しみがあってこそ成り立つものです。もし覚醒が起こって不幸や苦しみが消えたら、幸福や平安も消えます。幸福や平安は不幸や苦しみがなければ存在しえないからです。覚醒して毎日至福に包まれて暮らしたなら、その至福は至福ではなく、平凡な日常になります。それが私たちの生きている二元性の世界であり、その外へ出ることはできません。
また、非二元の教師たちのことを、私たちとは違う意識の、覚醒した人たちだと思い込んでいると、彼らが言っていることが理解できません。彼らは決して難しいことを言っているわけではないのですが、ことの性質上、不鮮明な説明や表現を使うことがあります。そうすると、「やっぱり私は覚醒していないから理解できない」となって、理解することを放棄してしまいます。彼らの語っていることはシンプルなことです。勝手に想像して彼らの教えを複雑にしてしまっているのは、彼らは特別な人だという思い込みにすぎません。
多くの人が、彼らには私たちとは違う世界が見えていて、超越的な知識を持っているのではないかと思い込んでいます。彼らは、私たちはどこから来てどこへ行くのか知っているのではないか、来生はあるのか、宇宙の成り立ちはどうなっているのかという類のことを知っているのではないかと思い込んでいます。でも、彼らにそんなことがわかるはずがないではありませんか。
彼らは私たちと何も変わらない普通の人たちです。同じ世界を私たちと同じように見ているのであって、超越的な知識を持っているわけではないのです。私たちより少し先に非二元を理解したにすぎません。理解したことによって特別の意識の状態になったということは決してないのです。
多くの人が、探求が終わると何か特別なことが起こって意識の変容が起こると思っています。そんなことは起こりません。なぜなら、探求などもともとないからです。探求という概念そのものに時間という観念が含まれています。探求による成長や変化はマインドの中で勝手に想像した産物に過ぎません。時間がなければ探求などないのです。あるのは今ここにある意識だけであり、成長も変化も探求もないのです。私たちはもともとそれなのです。
覚醒した人なんていません。非二元の教師だって悩みごともあれば心配ごともあります。ただ彼らは、悩みごとや心配は単なる思考に過ぎないということを心底理解しているにすぎません。かつては、自らを覚醒したグルだと宣言して、祭壇の上で覚醒した人を演じるグルや教師もいました。でも今日では数多くの非二元の教師たちが現れ、インターネットの発達と相まってそんなイカサマを暴いてくれています。
自らを覚醒した存在だとして信奉者を集める手口は時代遅れのイカサマです。決して騙されないでください。もし、エンライトメントや覚醒などないと多くの人が知っていたら、数多くの悲劇を防ぐことができたであろうし、今後も繰り返し起こるであろう悲劇を避けることができると思うのです。
非二元の教えを正しく理解すれば、エンライトメント、覚醒がないということは容易に理解できます。非二元の教えを正しく理解すると、「私」は思考のかたまり、条件付けにすぎないということがわかります。つまり、「私」は実在しないのです。実在しない「私」がどうやって覚醒するというのですか? エンライトメント、覚醒があると言ったとたんに、いるはずのない「私」が現れて、その「私」が覚醒するというストーリーをマインドがでっちあげてしまうのです。
エンライトメント、覚醒という概念には、今覚醒していない私がいつか未来に覚醒するという時間の観念が含まれています。非二元の教えでは時間は思考の中にしか存在しないのです。いつか未来に覚醒するという発想そのものが非二元ではなくなってしまうのです。
そして極めつけは、覚醒する前の意識と覚醒した後の二つの意識があると思っているのなら、それは二元であり非二元ではなくなってしまいます。一つの意識しかないのです。今この瞬間、ここにある意識がすべてであり、他には何もないのです。二つの意識を認めることは、非二元の基本を踏み外した思考の産物に他なりません。
最後に非二元を理解する上で誤りやすいいくつかの点について書いておきます。時々、ネット上で見聞きすることですが、非二元を運命論や宿命論のように考えている人がいます。例えば、私たちの人生はすでに出来上がった映画のようなもので、ストーリーはもう決まっているというものです。それは正しくありません。非二元は運命論でも宿命論でもありません。何も決まってはいません。
運命論を語る場合、その大前提になるのは、そこにその運命を生きる「私」がいるということです。でも、非二元の教えでは「私」は実在しません。だとすると、誰がその運命を生きるというですか? そしてまた、運命論には時間という概念が入っています。ところが非二元の教えでは、時間は人の思考の中にしか存在しません。勝手に未来の運命を考えているのは思考の中だけです。運命論を口にしたとたんにマインドが「私」と「未来の時間」を作り出していることを理解してください。
私がセイラーボブに会って間もないころ、「人の未来がすべて決まっているのなら、努力は何の役に立つのですか?」と聞いたことがあります。するとボブは、「誰が努力をするのですか? 努力は自然に起こっています」と言いました。そこには、努力をする「私」も運命を生きる「私」もいないのです。
そしてまた、自由意志についても同じことが言えます。「自由意志はない」と言う人がいますが、それも正しくありません。「自由意志はない」と言ったとたんに、自由意志を持たない「私」が現れます。「自由意志はある」と言っても、自由意志を持つ「私」が現れます。「私」という主体が実在ではないのに、誰が自由意志も持つのですか? 自由意志があるとかないとか言うこと自体がおかしいのです。そしてまた、自由意志という概念にも時間の観念が含まれています。
同じ理屈は、輪廻やあの世の話にも当てはまります。「人は輪廻するのですか?」と問うこと自体が間違いなのです。そこに輪廻の主体となる「私」がないのなら、誰が輪廻するというのですか? そしてまた輪廻や生まれ変わり、あの世にも時間という概念が含まれています。
非二元の教えをきちんと理解していれば、運命論や自由意志、転生やあの世の話は出てこないはずです。「私」は実在しない。時間は思考の中にしかない。今ここにある意識だけが実在である。こうしたことは非二元の教えの基本です。そして、今ここにある意識だけが実在だと理解すると何が起こるのか。私たちの悩みや苦しみはすべて実在ではなく、想像の産物だという理解が起こります。
心理的な苦悩は不要です。逆に言うと、非二元の教えを理解して起こることは、心理的な苦悩からの解放だけです。引き寄せの法則がスムーズにいくとか、社会的に成功するということではないのです。悩みや苦しみは依然として起こってきます。でも、それには実体がないということを理解していて、巻き込まれることがなくなります。得られるものはそれだけであり、それこそがセイラーボブをはじめとする非二元の教師たちが教えていることです。
私は非二元の教えを十分に理解したつもりです。でも、それを体現して生きているかというと、そうとも言えません。いくらそれが実体のない思考にすぎないとわかっていても、悩みや不安にあっと言う間に圧倒され、ありもしない未来をさまようこともしょちゅうです。まだまだだなぁ思う毎日です。でも、基本的なことをしっかりと理解していれば、以前と同じように問題を雪だるま式に大きくしたりせず、問題は自然に解決するとわかっています。もともと問題などありはしないのですから。
セイラーボブと別れる時、彼は私に「このことをたくさんの日本の人に教えてあげて」と言いました。私はセイラーボブから学んだ非二元を一人でも多くの人に知ってもらいたいと思っています。でも、非二元の教えを十分に体現して生きているとは言い難い私が教師面してミーティングをしたり個人セッションをしたりする気にはなれません。それに、インターネットがこれほど発達した今日、もはや非二元の教えは誰かに直接会って教えてもらわなければ学べないというものではなくなりました。非二元の教えはこのブログを一通り読んでいただければ十分に学べることです。それを体現して生きるかどうかはそれぞれの人次第です。私はこれからもせっせとブログを書いて、できるだけ多くの人に読んでいただきたいと思っています。それで私の役目は十分に果たせていると考えています。
謝辞
以下の人たちに感謝します。
私にセイラーボブのことを教えてくれた友人に。
一緒にミーティングに参加して、いろいろ教えてくれたトビー、ビル、サビーナ、ラメッシに。
セイラーボブの教えの理解に役立った「LIVING REALITY」を書いてくれたジェームズ・ブラハに。
セイラーボブの教えを最終的に理解することを助けてくれたギルバートとカットに。
さらに深い理解と洞察をもたらしてくれたピーターとカリヤニ、U.G.クリシュナムルティをはじめとする多くの非二元の教師たちに。
セイラーボブの本を翻訳してくださった高木悠鼓さん、たくさんの非二元の本を翻訳してくださった古閑博丈さん、ナチュラルスピリットの皆さんに。
仏教の中にある非二元(無我)の理解を助けてくださった佐々木閑先生、横田南嶺老師に。
ブログを読んでいただいた皆さん、おたよりでブログを盛り上げてくださった皆さんに。
そしてもちろん、私にこんなに素晴らしいものを教えてくれたセイラーボブと、あらゆるものとなって現れている一つのものに。
2024/04/30
生(livingness)が今この身体の中で脈動し鼓動しています
生(livingness)が今この身体の中で脈動し鼓動しています。何の努力もなく。
生は思考さえも引き起こしています。というのも、エネルギーは出口を見つけなくてはいけないからです。
生はあなたが世界を見る光となってあなたの目を輝かせています。
あなたは見るためにどんな努力をしましたか?
あなたの目を輝かせるためにどんな努力をしましたか?
聞くためには? 考えるためには? あなたはどんな努力もしていません。
セイラーボブ
2024/04/26
それが習慣のパターンだと見抜いたなら
「私」という狭い視点から見るのでなく、全体性から見ると、物事に対処するのは簡単になるはずです。
すると何が起こるでしょうか? 誰にもわかりません。
ひとたび古い習慣のパターンを見破ったなら、それが習慣のパターンだと見抜いたなら、そこにはもはや以前のような強烈さはありません。
セラーボブ
2024/04/23
非二元の教師たちのYouTube
非二元の教師たちのYouTubeの登録者数を調べてみました(数字は4月20日時点)。
ジェフ・フォスター 5.17万人
トニー・パーソンズ 1.64万人
ティモシー・フリーク 1.06万人
フランシス・ルシール 2.87万人
ジャック・オキーフ 4370人
ルパート・スパイラ 45.4万人
セイラーボブ 3790人
登録者数からみると、一番人気はルパート・スパイラです。しかも私の観察では以前見た時よりもかなり数字が伸びています。セイラーボブはたったの3790人。横這い。それぞれのYouTubeチャンネルの作り方も違うし、更新頻度、動画の数の違いもあるので、一概に登録者数が人気を反映しているとは言えませんが、ルパート・スパイラが人気なのはうなずけます。
それにしても、トップのルパート・スパイラですら45万人です。非二元という分野の人気のなさを物語っています。世界中で、これだけの人しか見ていない。そう考えると、佐々木閑先生と横田老師は日本だけでこれだけ登録者がある。
佐々木閑先生 1.63万人
円覚寺(横田老師)2.92万人
某全米人気ナンバーワン教師のYouTubeチャンネルは200万人近い登録者がいてびっくり。しかもしっかり広告入り。スピリチュアルのチャンネルに広告を入れるんじゃない! あ、入れてもいいです。別にいかんことはない。でも儲かるやろうなぁ。
2024/04/19
非二元の教師たち・まとめ
昨年10月にカリヤニと話をしてから、セイラーボブ以外の非二元の教師の本も読んでみようと思い、何冊かの本をまとめ買いしました。途中、さらに読みたくなって二冊追加。全部の本の感想をブログに書き終えたので、そのまとめを書きます。
取り上げた本(バイロン・ケイティは非二元の教師ではないのでここでは載せません)
「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?―ダイレクトパスの基本と対話」 グレッグ・グッド
「何でもないものが あらゆるものである - 無、存在、すべて」 トニー・パーソンズ
「もっとも深いところで、すでに受け容れられている―普段の生活の中で根本的に目覚める」 ジェフ・フォスター
「どの本が良かったの?」という質問が届きそうなので、書いておきます。選定基準は、読みやすく・わかりやすく・読んで楽しかったもので選びました。
この四冊がとても良かったです。
私が非二元を学んだのはセイラーボブからです。その影響で私は、細かく説明するのではなく、断定的に、「あなたは思考でも身体でもない。あなたは意識だ。以上終わり」というタイプの教師が好きです。この四冊は語り口がボブに似ていて、とてもわかりやすかった。
もちろん、他の本がよくないという意味ではありません。他の本もそれぞれすばらしかった。たとえば、私は非二元の教師が何を教えているのかよく知らないから基本的なことが知りたいという人には、「気づきの扉」 ティモシー・フリークと「ザ・グレイテストシークレット」 ロンダバーンが良いと思います。
また、理解や気づきの過程・方法をもっと詳しく知りたい人には、「われ在り I AM」ジャン・クライン、「今、永遠であること」 フランシス・ルシール、「プレゼンス 1・プレゼンス2」 ルパート・スパイラ が良いと思います。少し手ごわいけど。また、エクササイズを通して学びたいという人には、「気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう?―ダイレクトパスの基本と対話」 グレッグ・グッド。そして、高木悠鼓さんのYouTube ダグラス・ハーディングのワークショップもわかりやすいです。
決して読みやすくはないのですが、「もっとも深いところで、すでに受け容れられている―普段の生活の中で根本的に目覚める」 ジェフ・フォスターも良い本です。「アシュターヴァクラ・ギーター」はぜひ読んでおきたい聖典。
ここに掲載した非二元の教師たちは何を言っているのか、その共通点は何なのか。まず第一に、ここに掲載した教師たちのうち誰一人として、「私はエンライトメントした」あるいは、「私は覚醒した」と言っている人はいません。ここで言うエンライトメント、覚醒とは、ある時何かが起こって至福に包まれたとか、光に包まれる体験が起こって意識に変容が起こり、もう悩みが起きない、といったたぐいの体験のことです。
つまり、彼らの教えていることは、エンライトメントや覚醒ではないということです。本の中では、「覚醒」、「目覚め」という言葉が出てくるものもありますが、それはあくまでも「理解した」「気づいた」「実感した」という意味であり、原語としては awake もしくは awakening のはずです。多くの人が、非二元の教師たちは覚醒した人たちであり、私たちとは違う意識の状態にあると思っています。でも、そうではないのです。彼らも私たちと何も変わらない普通の意識の人たちです。
非二元の教えを理解したら、意識の変容が起こるとか、特別な体験をするということはありません。なぜなら、彼らが教えていることは、何かになることや、何かを体験することではないからです。もし彼らが私たちとは違う覚醒した人たちだという先入観を抱いて彼らの本を読むと、彼らの言う事がさっぱり理解できなくなります。なぜなら、本の中には探しているようなエンライトメントや覚醒はないからです。
また、一瞥体験について語っている教師もほとんどいません。例外的にネイサン・ギルは一瞥体験について語っていますが、あとになって、それは非二元とは関係ないと否定しています。時々、一瞥体験について語っている人を本やブログで見かけますが、私たちが非二元の世界を一瞥することはありません。「私はそこにいなかった」というのが一瞥体験の常套句ですが、ではどうしてそこに私はいなかったことを覚えているのですか? もし私がいなかったのなら、私がいないのを覚えているのは誰なのですか?
彼らが教えているのは何なのか。それは本質としての「私」のこと。彼らはそれを様々な言葉で形容します。意識、純粋意識、アウエアネス、空間、生、気づき、真我、それ。教師によってまちまちですが、みんな同じもののことを指しています。そして、本質としての「私」は思考でも身体でもないというのが非二元の教えの核です。
何人かの教師は、意識と純粋意識を分けています。思考や五感などを意識と言い、その背後にあるものを純粋意識と言っています。純粋意識とは、夢さえ見ないような深い眠りの状態にあるような意識のことだという人もいます。深い眠りの意識の状態を、眠りから覚めて思い出すことができないように、私たちはその純粋意識を認識することはできないと言います。
でも、私はこの純粋意識と意識という区分けが好きではありません。セイラーボブのように、そんな区分けをせずに、意識とだけ言う教師もいます。私にはそっちの方がわかりやすい。単純に思考の背後にある意識でいいと思います。でも、その意識とは何なのかと聞かれても説明できる人はいないのではないでしょうか。
それぞれの教師は、それが何なのかを本の中で説明しようとします。あなたはもともとそれであるというのがほとんどの教師の語るところですが、それを理解する方法については、教師によってまちまちです。エクササイズ・実験を使う人、問いかけをする人、対話形式の人。説明だけの人。
そして、その理解の起こり方の説明は教師によってまちまちです。あなたはもともとそれだ、以上終わり、という教師もいれば、それは簡単なことではない、時間はかかる、という教師もいます。私は前者のタイプの教師が好きです。でも、それは個人の好みの問題だと思います。私の場合、「言っていることはわかるけど、確信がない」という状態が長く続いて、ある時絶対的な確信が起こったので、どちらかといえば後者のような理解の仕方だったかもしれません。
そして、非二元の教えを理解すると、どんな良いことがあるのか。彼らがアウエアネス・意識・気づき・空間と呼ぶものを至福と表現する人もいれば、愛と言う人もいます。気楽になるという人もいます。それはそれぞれ個人が自分で体験して感じるものだと思います。そして非二元の教師たちが最終的に目指すところは、人々を精神的な苦悩から解放することです。苦しみや悩みは思考の産物にすぎず、実体のないものであるということを心底理解することこそが、彼らが教えていることではないでしょうか。
私は「エンライトメントある派」の教師を支持しません。もともと私が取り上げた教師たちはギルバートのサイト(The Urban Guru Cafe)からリストアップした人を、古閑博丈さんのブログ、高木悠鼓さんのブログを参考にして、日本語で読める本を選んで買ったものです。ギルバートは非二元をよく理解しているし、非二元の教師たちの良し悪しにも精通しています。その多くには実際にインタビューをしています。私が取り上げた非二元の教師たちは、みな信頼に足る教師たちです。非二元関連の本は、残念ながらその多くがすぐに絶版になってしまいます。なるべく上質な教師の本に触れておきたいものです。
2024/04/16
2024/04/12
2024/04/09
アシュターヴァクラ・ギーター
Ashtavakra Gita アシュターヴァクラ・ギーター トーマス・バイロン(著) 福間巌(訳)
レオ・ハートンの「夢へと目覚める」の中に「アシュターヴァクラ・ギーター 」からの引用文がいくつかあって、それがとても良かったので、この本を読むことにしました。
********* 以下はAmazonのサイトから ****
Amazonの本の説明
誰によって、いつ書かれたかは定かではないが
時を経て愛され、読みつがれてきたアシュターヴァクラ・ギーター
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)の教えの神髄をシンプルに表したもっとも純粋な聖典。
ラマナ・マハルシ、ラーマクリシュナ、ヴィヴェーカーナンダ、ニーム・カロリ・ババ・・・古来より、インドの聖賢すべてに愛され、賛嘆され、語り継がれてきた真我探求のための聖典。
あなたは、純粋な気づき
すべてのものごとを見守る観照者なのだ
世界はただの幻にすぎない
放棄することを放棄しなさい!
何も拒んではならないし、何も受け入れてはならない
静かにありなさい。だが、何よりも幸せでありなさい。
ただものごとをあるがままに知ることで、
あなたは自己を見いだすだろう
インドの霊性の歴史は、意識の源泉を探求し続け、自己の本性である真我を実現するに至った偉大なる覚者を数知れず生み出してきた。
彼らが確立した数多くの教義のなかでも、現在もっとも勢力をもち、広く行きわたっている教えがアドヴァイタ・ヴェーダーンタである。
ヴェーダーンタは世界最古の聖典『ヴェーダ』の最後に表された『ウパニシャッド』の教えを基本とした宗教哲学であり、その一学派であるアドヴァイタは「不二一元論」と呼ばれ、宇宙の根本原理ブラフマンと自己の本質アートマンの同一性を主要な教義としている。幾世紀にもわたって受け継がれてきたこの教えは、インドを代表する2人の偉大な聖者ラーマクリシュナ・パラマハンサとラマナ・マハルシの弟子たちによって広く紹介されて世界中に浸透し、21世紀に入り、急速な広まりを見せている。
山に籠もることや宗教組織に加わること、剃髪して僧衣に着替えることでなく、オフィスや学校で、あるいは電車の中で、各個人が日常生活において誰にも知られないで静かに内面に向かい、「私」という想念が湧き起こる自己存在の源にとどまることで真我に至ることができるという革新的な教えである。
著者について
英訳者:英国生まれ。オックスフォード大学のベリオール・カレッジ、ハーバード大学にて博士号取得。ハーバード大学で歴史学と文学を、オックスフォード大学のエクセター・カレッジ、セント・キャサリンズ・カレッジで英文学、古代および中世英語学の教鞭を執る。76年、米国に移住。ニーム・カロリ・ババの弟子である米国の霊的教師マ・ジャヤ・サティ・バーガヴァティーの弟子となり、フロリダのカシ・ファウンデーション会長を務める。その後、マ・ジャヤ・リヴァー学校を創設。91年にその生涯を閉じるまで校長を務める。著書に、『ブッダの語る覚醒への光の道―原始仏典「ダンマパダ」現代語全訳』(三雅出版)がある。
翻訳者
1960年、山口県萩市生まれ。74年より北鎌倉臨済宗円覚寺にて参禅。79年、インドにてラマナ・マハルシの教えに出あう。玉川学園大学英米文学科卒業。スリランカ、インドの仏教僧院にて瞑想を修する。92年まで米豪欧にてデザインの仕事、ドイツ他にて瞑想指導に従事。長年インドに滞在し、多くの聖賢に出会う。訳書に『アイ・アム・ザット 私は在る』『あるがままに』『ラマナ・マハルシの伝記』『覚醒の炎』(以上、ナチュラルスピリット)他がある。
********* 以上Amazonのサイトから ****
この本は古今東西、アドヴァイタを学ぶ人たちによって広く読まれてきた聖典のようです。わかりやすい言葉で書かれていて、読みやすいです。内容は非二元そのもの。
原文の英文が同じかどうかはわかりませんが、「夢へと目覚める」にある古閑博丈さんの訳とあわせて紹介させていただきます。太字がこの本の福間巌さんの訳、普通の字が古閑さんの訳です。
11-6
私は身体ではない
身体は私ではない
私は気づきそのもの
私は身体ではなく、
身体は私ではない。
私は意識そのものだ。
15-9
身体はその本来の性質に縛られている
それは現れ
しばらくの間、生きながらえ
消え去る
だが、真我は来ることもさることもない
ならば、なぜ身体について嘆くのか?
身体は縛り付けられている
その本来の特性によって。
それはやって来て、しばし留まり、行ってしまう。
だが真の自己はやって来ることも行ってしまうこともない。
なのになぜ身体のことで嘆き悲しむのか。
2-20
身体とその恐れ
天国と地獄、自由と束縛
すべてはただの作り話
気づきそのものである私に
何の関わりがあるというのか?
身体はまやかしであり、
それが感じる恐れもまやかしだ。
天国と地獄、自由と束縛。
すべてが作り話だ。
どうして私がそんなことを気にかけようか。
私は意識そのものなのだ。
1-14
わが子よ、
自分は身体だと考えるために
あなたは長い間束縛されてきた
あなたは純粋な気づきだと知りなさい
この知識をあなたの剣として
鎖を断ち切るのだ
そして幸せでありなさい!
自分は身体だと思っているせいで、
長いあいだお前は縛られてきた。
自分は純粋意識だと知れ。
この知識を剣として
鎖を断ち切れ。
そして幸福であれ!
*****
「幸せでありなさい」という言葉がいいですね。
まだまだ良い言葉がたくさんあるのですが、あまり引用するとしかられのでこれだけにします。こんなにわかりやすく非二元の本質を教えている聖典があるとは知りませんでした。この本は、繰り返し繰り返し「私」が何であるかを教えてくれています。内容は、英訳者のまえがきがあって、詩文形式の聖典が続き、最後に翻訳者のあとがきがあります。
聖典の部分は、読もうと思えば半日もかからない長さで、しかもわかりやすい言葉で書かれています。手元に置いて、何度も読みたくなる内容です。ぜひ読まれることをおすすめします。福間さんのあとがきに良い言葉があるのですが、あまり引用するとしかられので、ぜひご自分で手に取って読んでください。
2024/04/06
佐々木閑 仏教講義 10「ミリンダの問い その20」(「仏教哲学の世界観」第13シリーズ)
仏教は無我の教えです。つまり、私(我)はいない(無)のです。では何が輪廻するのか? この説明はまったくよくできていると思います。
4月8日追記 ナーマ・ルーパとは
この話はまったく非二元の話です。私とは、肉体、心的要素、そして外界も含めたものだという説明には驚きました。
2024/04/05
2024/04/02
意識の外には何もありません
意識の外には何もありません。宇宙も、あなたの個人的な「私」も、すべて意識の中に現れます。
ジャン・クライン(われ在り I AM)
3月30日 恵那市大井町にて。他はまだ咲いてないのに、この木は満開でした。
2024/03/29
「われ在り I AM」ジャン・クライン
「われ在り I AM 」ジャン・クライン著 伯井アリナ訳
この本は当初読む予定に入れていませんでしたが、ジャン・クラインはフランシス・ルシールとルパート・スパイラの師にあたる人だということで興味が湧き、読んでみました。
非二元の本の中には、いくら読み込んでもよく理解できないところがあるものがありますが、この本にはそれがとても多い。でも、本の最初に編集者のエマ・エドワースの言葉があって、この本は心で理解するのではなく、「詩を読むように読めばいいのです」とあり、また、巻末の訳者のあとがきでは、一見平易に見える彼の言葉を理解するのは容易ではないので、エドワースの言うように味わってくださいと書いてある。
でも、それって本としてどうなんでしょうか。挫折しそうなところを我慢して最後まで読みました。こまかいところではよく理解できないところもあるのですが、全体として言っていることは納得できることであり、とても良い内容だと思います。ジャン・クラインは「真我」という言葉でそれを表わしています。真我(セルフ)なんて言葉を使われると、ベーダとかインドを連想してしまいます。純粋意識という言葉も使っているのですが、こういう言葉を使われると、何者かにならないといけないような印象を受けるのですが、決してそうではありません。
本の紹介のため、少し引用させていただきます。
p33から
どうすれば絶え間なく揺れ動く思考の流れから抜け出すことができますか?
現れては消えていく思考の流れをひたすら観察してください。それらを拒絶したり助長したりしてはなりません。決してそれを導こうとしてもなりません。ただ、淡々と注意深く見ていてください。そうすればすぐに、あなたは思考や感情、感覚などがこの無方向的で注意深い意識、つまりあなたの開放性の中に現れるのを感じられるようになるでしょう。それはあなたがいるからこそ存在するのです。ゆえに、それらの現れはそれらの故郷である、真のあなたを指し示します。最初にあなたは、自分が自分自身の思考に介入し、それを抑圧したり、逆にそれらに飲み込まれてしまったりしていることに気づくでしょう。あなたがそんなことをするのは、孤立させられ、今まさに死にそうになってきる自我(エゴ)が不安を感じているせいです。しかし、能動性や受動性といった心の習慣から自由になると、あなたは自分本来の静かな注意の状態になってゆくでしょう。
では、完全に無念無想にならなくても、この本来の注意の状態になれるのですか?
この状態は思考の不在によって起こるのではありません。それは、その中で思考が現れては消えていく場です。それは思考の「背後に」あります。ですから、無理やり心の揺れ動きをなくそうとするのではなく、ただ頭の中を明瞭にしていてください。単にすべてを歓迎するような開放性を保ってさえいれば、自分のネガティブな感情や欲望、恐れなどを受け入れ、理解できるようになるでしょう。ひとたび無方向的な注意の中で受け入れられれば、これらの感情はひとりでに燃え尽きてしまい、後には静寂だけが残ります。現れてくるものすべてに気づくように、注意深くしていてください。すると、まもなくあなたは自分が思考に巻き込まれることなく、それを傍観していることに気づくはずです。これが事実として確立すれば、思考が生じようと生じまいと、あなたはそれに縛られなくなります。
p65から
進歩しよう、向上しようと努力すればよけいに混乱するだけです。外面的な部分だけを見ていると、自分は不動の状態に達したとか、自分にはさまざまな変化が起こっているとか、私たちは進歩しているから恩寵は目の前だとか思うかもしれません。しかし、実際には何も変わっていません。私たちは自分の持っている家具を並べかえただけです。これらはすべて心(マインド)の中で起こる活動であり、想像の産物です。
本当にするべきことは、それよりはるかに簡単です。なぜ、それをそんなにややこしくするのでしょうか? 本来のあなたは、いつもここにあり、いつも完璧です。それを浄化する必要はありません。それは決して変わりません。なぜなら、真我には暗闇がないからです。あなたは真理を発見することも、それになることもできません。なぜなら、あなたは真理だからです。真理に近づくためにすべきことは何もありません。学ぶべきこともありません。自分は絶えず、本当の自分から遠ざかろうとしているのだと気づいていてください。投影するために時間とエネルギーを浪費するのをやめてください。それをやめて生きてください。怠けるのでも受動的になるのでもなく、清明で目覚めた意識で生きるのです。この目覚めた意識は、予想されたり期待したりするのをやめると見つかります。これもまた、あなたにとってのサーダナです。
現実には改善の余地などありません。それは完璧そのものです。それなのに、いったいどうすれば、あなたは今以上完璧さへ近づくことができると言うのでしょうか? あなたが完璧さに近づく方法などありえません。
p77から
どうすれば自我の考えを捨てることができますか?
私たちの中には、錯覚による根深い信念体系があります。それは、対象や私たちの周りにあるものはすべて自分とは分離していて、自分の外にあるというものです。さらに私たちは自分を身体や感覚、心などと同一視し、私とあなたが分離した世界を作り出します。この私たちの信念を最大限に広げ、自分の感情や身体、思考などを、他の木や鳥などのような対象として見ることは、初めのうちは非常に役に立ちます。そうすることによって、私たちと心身との非合理で密接な関係の間にいくらか距離を置くことができるからです。
やがて私たちは、自分の思考、「私」という考え、感情、好き嫌いなどは皆等しく、知覚の対象なのだとわかります。そして、この観点によって、私たちは自然に、「自分は知る者である」と認識し、個人的な実体であるという考えはまったく無意味になります。
p179から
何をして何を考えていても、私たちは気づき(アウェアネス)そのものです。それなのになぜ、気づきになろうとしたり、それについて考えたりするのですか? もし、私たちが気づいていなければ、私たちは自分自身がどんな状態にあるのか、知ることができなかったはずです。もし、気づきがよくある精神機能の一つに過ぎなかったら、それは他の機能と同じように消えてしまったでしょう。しかし、気づきは決して消えません。私がこのことをあなたに証明しようとすれば、どうしても議論になってしまいます。気づきであることこそが証明だからです。しかし、気づきを発見する方法を教えることならできます。ですから、私を信じてください! 最初は受け売りの情報になるでしょう。しかし、人の言うことをずっと信じているだけではなりません。それを自分のものにしてください。
ちょっと引用しすぎました。ここまで読み返してみて、良い本だなあ、と改めて気づかされます。ジャン・クライン、フランス・ルシール、ルパート・スパイラは、同じ系列の人たちで、同じような説き方をします。それは決して平易ではないのですが、どうしたらそれを理解できるのかを詳しく説いています。
そしてまたこの三人は、師を持つことの大切さも説いています。今の時代、ネットの発達により、本を読むだけでなく、サイトやYouTubeで彼らが教えていることを詳しく学ぶこともできるし、ネット経由でミーティングやリトリートに参加することもできます。はたして師を持つことがそれほど必要なのかとも思います。
私の場合は幸運にも師(セイラーボブ)に巡り合うことができ、師のもとに長く滞在することができました。最終的にはセイラーボブが何を教えているのかも理解できました。ただ、メッセージ以上にありがたかったのは、セイラーボブが本当に非二元を体現して生きているのを間近で見ることができたことです。また、カリヤニとピーターの存在も大きかった。一言で言うなら、伝染する安心感のようなもの。
実際に師と面と向かって対話するのが一番良いとは思うのですが、実際に会わなくても自身の師となるべき人を見つけて、本や YouTube で深く学べば十分な気もします。非二元を教えている人はたくさんいます。でも、師と呼べるような存在に巡り合うことは、非常に難しいことのように感じます。ましてや近くで親しく交わることはもっと難しいのではないでしょうか。
Amazonの著者紹介
ジャン・クライン Jean Klein
1912年10月19日、ドイツのベルリンで生まれる。
ラマナ・マハルシとクリシュナ・メノンの伝統を継ぐ
アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論・学派、哲学)のマスター。
ノンデュアリティー(非二元)に関する著作が多数ある。
インドで数年間過ごし、アドヴァイタとヨーガを深く究めた。
1955年、ついにノンデュアリティーの真理を体得。
1960年からヨーロッパで、その後にアメリカで指導を始めた。
1998年2月22日他界。
YouTubeでJean Kleinを検索すると、かなりたくさんの動画が出てきます。たくさんの映像が残っていて驚きました。生前から結構有名だったようです。どんな人か。一つだけ貼り付けておきます。
古閑博丈さんのブログには、ジャン・クラインのインタビュー記事があります。