2021/10/30

初期仏教 無我・五蘊(ごうん)

前回に続いて、初期仏教の基本概念について。

無我説(むがせつ)

ここでいう我(が)とは、自己の存在の中心に意識されている「われ」という観念であり、わが生存の主体と考えらるものであり、さらに具体的には、身体の内部に潜む唯一で不滅な魂、霊魂を意味している。無我とは、その我は存在しないという意味です。

「およそ自分の所有とみなされるものは常に滅するから、永久に自己に属しているものはない。またわれわれは何ものかをわれわれであると考えてはいけない」。人間はいろいろな要素から構成されているわけですが、「われわれ人間の具体的存在を構成している精神的または物質的要素ないし機能は、いつでも自己と解することはできない」(中村元の仏教入門)

仏教では、ウパニシャッド(ヴェーダ)でいうような、認識主体としての自己であるアートマン(我)を認めませんでした。そうなると、主観と客観という対立は克服超越される。それが無我説です。私はいないということによって、「私のもの」からの執着を捨てさるのです。無我説は非二元そのものです。

なぜ無我なのかということを初期の仏教では、我(が:自己)には自性(じしょう)がないから、つまり、自己は実在ではないからと説明しています。詳しくは、後述の中村元先生のYouTube(ミリンダ王の問いの解説)を見てください。

五蘊説(ごうんせつ)

五蘊(ごうん)とは、個人の身心を構成する五種の要素のことです。初期仏教では、「私」という存在はどこにも存在しないといういうことを説明するために、「私」と呼ぶものが何でできているのかを分析することによって、そのどこにも「私」は存在しないということを説明します。その「私」を構成する要素のことを、五蘊と呼びます。

「五陰(ごおん)とも。仏教で人間存在を構成する要素をいう。また人間存在を把握する、色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)の五つの方法をいう。色蘊は物質要素としての肉体。受蘊は感情、感覚などの感受作用。想蘊は表象、概念などの作用。行蘊は受・想・識以外の心作用の総称で、特に意志。識蘊は認識判断の作用または認識の主体的な心。また宇宙全体の構成要素ともされ、絶えず生滅変化するものなので、常住不変の実体はないとするのが、仏教の根本教説の一つ。」出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア

以下は、中村元の仏教入門 P63から引用

「五蘊説」というのがあります。古くから言われていますが、個人存在を、変移しつつある五種の構成要素の群れに分解してしまう考え方です。「五蘊説」の蘊とは、集まりということです。古い訳では、「五陰(ごおん)」と訳しています。その五つとは何かというと、色・受・想・行・識です。つまり物質性と、感受作用と表象作用と形成作用と識別作用の五つに分解してみたものです。

「色」というのは、感覚的・物質的なもの一般、「受」というのは意識のうちに何らかの印象を受け入れる、ほぼ感覚と感情とを含めた作用。「想」というのは、心の内部に像を構成する、ほぼ知覚や表象を含めた作用。「行」というのは、能動性または潜在的形成力。「識」というのは、対象それぞれを区別して認識する作用。

個人存在はこれらに五蘊から構成されている。この五つはわれわれの存在の特殊は在り方を示している。それをダンマ(dhamma, サンスクリットdharma)と言っているわけです。ダンマというのはいろいろな意味がありますが、人間の生存の特殊な面、特殊な在り方という意味です。

 つまり、われわれの存在は、これら五蘊、すなわち五種類の法の領域において保持され、成立している。そこに成立しているすべてのものの集まりを総括して、まとめて、世俗的立場から見て、それをかりに「われ」「自己」と呼んでいる。しかもわれわれの中心主体は、そのいずれの法の領域のうちにも認めることができない、と教えるわけです。

 われわれの存在を構成する一部として、たとえば、物質的なもの、物質的側面がありますね。それについては、「これ(色)は無常である。無常であるものは苦である。苦であるものは非我である。われならざるものである。非我なるものはわがものではない。これはわれではない。これはわがアートマンではない」、こういう文句で説いています。

さらに五蘊の他の四つ、つまり受、想、行、識のそれぞれについても同じ文句が繰り返されているのです。世の人々は、この色、受、想、行、識のうちのどれか一つをアートマン、自己であると解するかもしれないけれど、いかなる原理あるいは機能も実は本当の自己ではない。また自己に属するものでもはない、このように考えていたのです。

五蘊の説明は佐々木閑先生がわかりやすいです。仏教では、魂、自己の存在を否定しています。自己は五蘊という構成要素でできているが、そのどこにも自己は存在しないということを、五蘊を調べることによって証明しています。



法(ダンマあるいはダルマ)

仏教では実体的な我、アートマンを想定することはなかったが、現実を成り立たせている法則、原理や真理、理法があるとして、それを法(ほう)と呼んだ。五蘊もそのうちの一つ。この真理や理法を悟った人がブッダ、仏。

業(ごう:カルマあるいはカルマン)

業とは、行為、行動という意味。業の法則とは、どんな行為も結果をもたらす、すなわち、善いことをすれば必ず善い報いがあり、悪いことをすれば必ず悪い報いがある。それを避けることはできないというもの。

業は、身体で行うこと、口で言うこと、こころに思うことの三種類があり、それを身口意(しんくい)の三業と言います。身体で人を殴ること、人を助けるのは身業(しんごう)。悪口を言ったり、ほめたりするのは口業(くごう)。人を殴ってやろうとか、人を助けようと思うことは意業(いごう)。善いことをすれば善い報いがあるため、善いことをしなさいということ。

中道(ちゅうどう)

釈迦族の王子として生まれた釈尊は、出家するまでは安楽な生活を送り、出家したあとは激しい苦行を六年間したあと、それを捨て去ったあと、瞑想して悟りを開きます。仏教では、そのような二つの極端な生き方はどちらも人間のためにならない、真実の益をもたらさないとしました。快楽と苦行、二つの極端を避けて、不苦不楽の中道によって真実の認識、悟りを達成する。この中道には、苦と楽のほか、有と無、断(断絶)と常(常住)とがあり、その両方ともを否定することにおいて中道が成立する。

有と無とは、何かが有るとも無いとも、極端な見解を持たないということです。断と常とは、例えば死後も自己が存続するとかしないとかという偏った見解を持たないということです。


四諦八正道(したいはっしょうどう)

釈尊が悟ったあと、最初に説いた四つの真理(四諦)と八つの正しい行い(はっしょうどう)のこと。

「四諦」とは仏陀の説いた四つの真理「苦諦」「集諦」「滅諦」「道諦」のことをいう。
・苦諦(くたい) - 現世は生・老・病・死の四苦と、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五取蘊苦の四苦を加えた八苦であるという真理を説いたもの。
・集諦(じったい) - 苦の原因は煩悩・妄執、求めて飽かない愛執であるという真実。
・滅諦(めったい) - 物事への欲望と執着をなくせば悟りに至るという教え。
・道諦(どうたい) - 悟りに至るための修行法。

「八正道」
①正見(正しい見解) 四諦を正しく認識すること。
②正思(正しい決意) 「悩みや煩いから逃れたいという思い」「怒らない思い」「他者を傷つけないという思い」
③正語(正しい言葉) 「うそを言わない」「悪口を言わない」「人をからかわない」
④正業(正しい行為) 「生き物を殺さない」「盗みをしない」「淫らなことをしない」「酒を飲まない」
⑤正命(正しい生活) 
⑥正精進(正しい努力) 
⑦正念(正しい思念) 正しい思いをこころに浮かべること。
⑧正定(正しい瞑想)瞑想の修行のこと。

仏陀は、この四つの真理(四諦)を熟知し、中道(八正道)を実践すれば、一切の苦しみから解脱できる説いた。

 

 輪廻について
輪廻とは、五つの世界に生まれ変わる思想のことですが、これは仏教以前のインド社会では当たり前に信じられていた思想であり、当然仏教もその影響を受けています。



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こうして初期仏教を見てみると、大乗仏教のような複雑な教えではなく、どちらかというと、道徳的倫理的な教えの印象を受けます。「悪い行いをするな」「清いこころでいなさい」というような、わかりやすいもののように感じられます。四諦八正道を読むと、身につまされるようなことばかりです。

釈尊直接の教えとされるスッタニパータ、ダンマパダには、少しも複雑なところはありませんが、その後仏教は複雑な思想体系へと変化していきます。

「ミリンダ王の問い」
無我、縁起、五蘊の説明として、このYouTubeをぜひ見てください。セーラーボブの説明を彷彿とさせます。「ミリンダ王の問い」とは紀元前2世紀後半、アフガニスタン・インド北部を支配したギリシア人国家の王であるミリンダ王が仏教に興味を抱き、ナーガセーナ長老(仏教の僧)に対して仏教思想について尋ねた話。パーリ語の仏典として伝わっています。


参考文献

2021/10/23

仏教入門  初期仏教

これからしばらくの間、仏教をテーマに書いていきます。書きたいことは、仏教で教えていることの中にセイラーボブが教えていることと根本的に同じものがあるということです。

最初に唯識(ゆいしき)の本を読んだ時は、唯識思想は個人の実在を認めていない、すべては空(くう)であると説いていて、すばらしい教えだと思い、当初の計画では、大乗仏教、唯識の教えを中心に書こうと思っていました。空(くう)の思想が出てくるのは大乗仏教からであり、釈尊の死後数百年経過したあとのことです。そのため、空の思想自体は釈尊の直接の教えではないといえます。

しかし、仏教のことを学んでいくうちに、大乗仏教や唯識だけでなく、初期仏教(釈尊の直接の教え)の中にも非二元と同じことを説いているものがあるとわかり、そこから書かないといけないと思うようになりました。初期仏教の教える、諸行無常(世界は移ろいゆくものであり、永遠のものではない)や諸法無我(私という存在は実在ではない)の教えは、十分に非二元の思想といえます。

仏教の教えや、大乗仏教の空の思想が非二元の教えとまったく同じだと言うつもりはありません。でも、その根底にある非二元的なものを感じ取ることによって、非二元とは何なのかが、私と皆さんの中で深まればいいなと思っています。

どうやってブログを書いていこうか迷ったのですが、おおまかに年代順に書いていって、その時代のこういう仏教では、こんなふうに個人と世界が実在ではないと説いていますというふうに書く以外に手はないと思うようになりました。

仏教の概略についても説明する必要があり、非二元とは直接関係のないことも書かないといけない。仏教では、時代や系統によって説かれている内容が違うし、矛盾する場合もあります。そのため、私の説明が重複する部分もあるし、前後で矛盾している部分があるように思われるかもしれません。それでも、全体として見ると、ああ確かに仏教の中には非二元的な要素があるということがわかればいいのかなと思います。

予定としては、仏教の大まかな歴史→釈尊→初期仏教→中観(ちゅうがん)→唯識→禅という順に書いていきます。

釈尊、ゴータマ・シッダールタは、釈迦、釈尊、仏陀とさまざまな呼ばれ方をするのですが、このブログでは釈尊と表記することにします。理由は中村元先生、三枝充悳先生が、その著書の中で釈尊と呼んでみえるため、それにならうことにしました。

仏教の大まかな歴史

紀元前1500年ごろ、中央アジアに住んでいたアーリア人がインドへ進出。インドの先住民を支配し始める。自分たちを神と交信できるバラモン階級として位置づけ、ヴァルナ(カースト制度)のもとでインドの先住民を支配した。

やがて、北方より侵入したインド・アーリア人(支配階層、バラモン)と先住民との混血が進んだことや、経済の発展によって階級制度が崩壊し始めたことなどから、紀元前五世紀ごろになると、それまで社会を支配してきたバラモン教に反対する自由思想家(沙門)が多く現れた。沙門(しゃもん:シュラマナ)とは、バラモン教(神託である聖典ヴェーダの崇拝・祭祀の励行・階級制度の厳守)に反対して出現した宗教家、思想家たちのことです。

バラモン教では、生まれながらの階級制度によって、神と交信できるのはバラモン階級だけであり、人々は直接神に願いごとをすることはできず、バラモンにお願いすることが許されているだけでした。そうしたことに疑問を感じて登場してきた人々が沙門と呼ばれる人々でした。

その多くは托鉢(たくはつ)によって生計をたて、放浪したり、森に住んだりして自己研鑽と教授生活をおくり、禁欲、瞑想に励み、人間中心の道徳を説く人々でした。そうした人たちの中から、マハーヴィーラ(前549~477)がジャイナ教を、釈尊(ゴータマ・シッダールタ 前463~383:諸説あって正確にはわかっていない)が仏教を生み出しました。

バラモン教は支配階級(バラモン)の男性に対してだけのものでしたが(長男や弟子にのみウパニシャッドを伝承)、仏教は階級、性別を問わず、万人のための教えであっため、当時の社会情勢からすると、革新的な教えとして広がっていきました。

バラモン教は、生まれながらに階級によって人の身分が決まっていて、神と交信できるのはバラモン階級だけであり、バラモン階級の神官を通じて神に救いを求める宗教であったのに対して、釈尊の説く仏教は自らの努力(瞑想と経の学習)によって、自らの内側(心)を変えることによって幸福を獲得するという教えでした。

バラモン教の根底にあったのは、穢れ(けがれ)の思想であり、人の価値は生まれによって決まるというものでしたが、仏教ではそれを否定し、個人の努力によって幸福になる道を教えました。

釈尊の生涯については後述。釈尊の死後すぐに、すでに悟りを開いていた弟子たち500人が集会(結集:けつじゅう)を開いて、経(釈尊の言葉)と律(出家者が守るべきルール)の確認をします。

当時は文字で記録する文化がなかったため、口述で記憶する方式で伝承されました。釈尊の誕生から、この頃までが釈尊の直接の教えであり、初期仏教(原始仏教)と呼ばれます。

仏滅後、百年ほど経つと教団は二つに分裂し、それが約二十へと分裂します。それぞれが部派を形成し、仏典の解釈にそれぞれ独自の見解を持つようになります。この頃の仏教を部派仏教(小乗仏教)と言います。部派仏教における経典の解釈研究をアビダルマと呼び、アビダルマ仏教ともいいます。

部派仏教では、教理の研究に没頭し、衆生を救済するという仏教本来の目的を忘れ、自分一人の解脱をめざすようになりました。こうしたことの反動から、紀元前後に、自己の解脱よりも他者の救済を目的とする大乗仏教がおこりました。

大乗仏教では、空の思想や唯識思想など、もともとの釈尊の教えではない思想が生まれました。

一方で、仏教はスリランカへと伝わり(南伝)、そこから東南アジアへと伝わりました。現在、スリランカ、東南アジアで残っている仏教は初期仏教に近いもので、釈尊存命中の仏教に近いものです。

他方、仏教はシルクロードなどを通して、多くの三蔵法師などの働きによって中国へともたらされました(北伝)。中国では、大乗仏教がさかんとなり、唐の時代に全盛期をむかえ、日本へと伝わります。中国ではやがて禅と浄土教が生まれ、それも日本へと伝わります。(広済寺HP参照)

インドにおける仏教は、イスラム勢力(ゴール朝)によって1200年前後に完全に破壊され、その後もイスラム勢力(ムガール帝国)がインドを支配したため、仏教は完全に忘れ去られ、ヒンドゥー教の社会へとなっていきました。

釈尊の生涯

釈尊は紀元前五世紀(諸説あり)に、インドとネパール国境近くの小さな部族国家、釈迦族の首長の長男として生まれました。(釈尊の育ったカピラ城が、現在のインドであるかネパールであるかはいまだに論争あり)。母親のマーヤーは釈尊を生んで七日後に亡くなったため、母親の妹(父の後妻)によって育てられました。

釈尊は王様(父親)に溺愛され、種族の長としての英才教育を受けます。16歳で結婚し、子供を一人もうけ、何不自由のない生活を送るのですが、やがてそうした生活に疑問を抱くようになり、すべてを捨てて29歳で出家します。

出家ののち、何人かの師のもとで学ぶのですが、その教えに満足できず、最終的には一人で山の中で修行に励みます。6年間の苦行によって、やせ細り枯れ木のようになるも、悟りは開けず、35歳の時に山を降ります。

山を降りて、川で沐浴をしたあと、村娘から乳糜(にゅうび:牛乳でたいた粥)をもらって飲み、菩提樹の下に行き瞑想し、そこで悟りを開きます。悟りを開いたあと、釈尊は多くの人々に自らの教えを説きました。王族の加護も受け、出家信者は1000人を超え、サンガ(教団)が形成されていきました。

釈尊には、他の宗教の開祖に見られるような弾圧や迫害の歴史はありません。王族の加護を受け、寄進によって竹園精舎と祇園精舎(精舎とは精進する家という意味)を構え、季節によって弟子とともにその二か所の往復を繰り返しながら弟子たちに教え続けました。

生活はきわめて質素で規律正しく、人と争わず、温厚なものでした。80歳になり、郷里に向かう旅の途中で病(食中毒)に倒れて亡くなりました。

釈尊の教えは弟子たちによって受け継がれましたが、生前、自らは一文字も経典を書かなかったため、釈尊が何をどう教えたかのかは正確にはわかっていません。釈尊の死後、生前に釈尊が語ったものを弟子たちが口頭で伝承しました。口頭による伝承は相当長く続き、経典が作られ始めたのは釈尊が亡くなって数百年後のことと言われています。その後、仏教は時代とともに変化していきます。

初期仏教(釈尊が説いた教え)

宗教としての仏教が成立するのは、かなり後になってからであり、初期の段階では宗教ではなく、哲学的な思想集団でした。現在日本に仏教として広がっている様々な宗派は、釈尊のもともとの初期仏教とは、組織も形態もかなり違うものです。

初期仏教では、僧侶が家庭を持つことはなく、日本の寺のように世襲のお寺というものもありませんでした。僧侶が葬儀を執り行うことはなく、托鉢によって身を立てる純粋な求道者でした。

釈尊の説いた初期の仏教がどういうものだったのかを、(中村元の仏教入門 ・原始仏教 その思想と生活 (NHKブックス) ・仏教入門 (岩波新書) )を参考に簡単にまとめてみます。

釈尊の教えた仏教の特性

1 超越者の存在を認めず、現象世界を法則によって説明する。
 仏教では、この世界全体を司るような超越存在を認めない。世界は特定の法則(因果の法則)にそって自動的に展開していくと説く。

2 努力の領域を肉体ではなく、精神に限定する。苦行ではなく、瞑想によって自己の内側を変えることによって、「苦」の消滅をめざす。

3 修行のシステムとして、出家者による集団生活体制をとり、托鉢によって生計を立てる。修行に時間をあてるため、生産活動を放棄して、人々からもらう余りもので暮らしていく。

基本的な概念

仏教の基本となる教えは、「煩悩を捨てる」ということです。煩悩とは何かといえば、「私」や物に対する執着心のことです。その、煩悩がすべての不幸の始まりであると説き、それを消し去る(捨てる)ことが、釈尊の基本的な教えです。

原始仏教(初期仏教)はニカーヤ(阿含経:あごんきょう)によってその様子が伝えられています。釈尊は次のように考えました。

我々の生きている世の中は苦しみばかりである。必ず歳を取り、やがては病気になって死ぬ。死んだあとはまたどこかに生まれ変わって、そこで同じような苦しみを味わう。永遠に続く輪廻の中で同じような苦しみを味わい続けなければならない。そこから抜け出す唯一の方法は、輪廻のエネルギーとなっている煩悩を修行によって消し去ることである。

釈尊の教えは、釈尊の側からの一方的な提示という例は少なく、ほぼ大部分は、釈尊を訪ねた人々が問い、それに応じて釈尊が答えるという形をとっています。多種多様な問いに釈尊が臨機応変に答えるという、対機説法でした。

釈尊は、当時の哲学者たちが論争を繰り返していた、哲学的な形而上学的(けいじじょうがくてき)な論争に加わることをしませんでした。哲学的な形而上学的な論争とはどういう意味かというと、例えば、「世界は有限か無限か?」「身体と霊魂は同一か?」「悟りをえた人にとって死後の世界はあるのか?」「アートマンは実在か?」といったようなことです。

こうした問題に関して釈尊は肯定も否定もしませんでした。この件に関してよく引用されるのは仏典に出てくる毒矢の刺さった人の話です。ある人が道を歩いていると、倒れて苦しんでいる人を見つけます。駆け寄って見るとその人には毒矢が刺さっています。そしてその人は倒れている人に向かって、「この矢を射たのはどんな人か? バラモンか? 王族か? 背は高かったか? 低かったか? 色は白かったか? 黒かったか?」と、あれこれと尋ねます。

でも、そんなことをしている間に毒がまわって死んでしまいます。まず第一にやるべきことは、誰が矢を放ったかではなく、毒矢を抜いて治療することです。同様に、今生きている人にとっては、「世界は有限か無限か?」「身体と霊魂は同一か?」「悟りをえた人にとって死後の世界はあるのか?」「アートマンは実在か?」というような形而上学的な問題はどうでもいいことで、実際に必要なことは、今生きている人が持っているさまざまな苦しみや悩みを理解して、その人の苦しみや悩みを取り去ることがなすべきことである、それが人にとってもっとも大事なことであると釈尊は説いたのです。

それまでのバラモンたちが議論してきたような、「アートマンとブラフマンは一体である」とか、「世界は無限か有限か」とかいうような結論をえられないことで争うよりも、こころの平安を目ざす宥和的(ゆうわてき)な教えでした。

世界は永遠か、終わりがあるのか。有限か、無限か。霊魂は存在するか、しないか。死後の世界があるか、ないか。私はこうしてことを、確かなものとして説かない。なぜならそれは、心の清らかさ、安らぎという目標とは関係なく、欲望からくる苦痛を超える修行には役にた立たないからである。(仏陀の言葉:弟子マルンキャプッタへの教え・マッジマ・ニカーヤより)

三宝(三宝)

初期仏教では、仏・法・僧が仏教の基本要素です。
仏とは釈尊のこと。法とは釈尊の教え。僧とは、個人としての僧侶のことではなく、僧侶の集団である僧団(サンガ)のことです。この三つがあって仏教ということができます。

苦しみと無常

私たちの人生は苦しみにつきまとわれていて、容易には苦しみから逃れることはできないということを原始仏教では説いています。人生では、人は絶えざる不安のうちにあり、苦しみに取りつかれている。生老病死を四苦といい、愛する者と別れること、怨み憎んでいる者に会うこと、求める物が得られないこと、肉体と精神が思うがままにならないことの四つを加えて、四苦八苦といって、それが仏教の根底にある人生観です。

その苦はどうして起こるのか。一切の物事もろもろは因縁によって起こります。因とは主要な原因、縁というのは副次的な原因という意味です。いろんな原因や条件が合わさって、物事は成立している。

そしてそれは実体のあるものではなく、常に変化していて一瞬もとどまることがない。現象世界におけるあらゆる物事と同様に、個人存在は連続する変化のうちにある。その底にひそむ確定的な実体は存在するか、と言えば、永久不変な実体というものはない、生あるものは必ず死ぬ、諸行無常であると説きます。

諸行無常。どこにも無常でないものなど存在しない。すべては変化していく。セイラーボブの話を思い出します。

十二支縁起(じゅうにしえんぎ)

なぜ心の苦しみが起きるのかを、十二の要素に分解して、それが連鎖して起こる様子を説いています。最初に原因としての無知(無明:むみょう)があり、それが最終的には心の苦しみへとつながっていきます。佐々木閑先生のYouTubeがとてもわかりやすいので、そちらを見てください。

私なりにまとめるとこうなります。

無明(むみょう)とは無智のこと。物の状態を正しく見ることができない状態。そこから行(ぎょう)が生まれる。

行(ぎょう)とは何かをしようという思い。そこから識(しき)が生まれる。

識(しき)とは迷った心。そこから名色(みょうしき)が生まれる。

名色(みょうしき)とは概念化のこと。物を心の中で勝手に分類わけしてレッテルを貼る。そこから六処(ろくしょ)が生まれる。

六処(ろくしょ)とは認識感覚器官(五感と心)のこと。そこから触(しょく)が生まれる。

触(しょく)とは認識器官が外界と触れあうこと。そこから受(じゅ)が生まれる。

受(じゅ)とは外界を受け入れること、反応すること。そこから愛(あい)が生まれる。

愛(あい)とは好みのこと。そこから取(しゅ)が生まれる。

取(しゅ)とは執着のこと。そこか有(ゆう)が生まれる。

有(ゆう)とは、私という存在が生まれること。そこから生(せい)が生まれる。

生(せい)とは人生のこと。そこから老死(ろうし)が生まれる。

老死(ろうし)とは老いること死ぬこと。心の苦しみ。

佐々木閑先生の説明を聞いてとても驚きました。言っていることがセイラーボブの言っていることとあまりにも似ています。もちろん表現は違うし、説明も違うのですが、本質的に同じことを言っているのではないでしょうか。

無知ゆえに世界があると思い込み、そこにラベルを貼りつけて、それが実在するかのように思い込んでいる。私も世界も物も、生まれることも死ぬこともなく、実在ではなく、無知から生まれたものにすぎない。

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仏陀の生涯、最初期の仏教については以下のYouTubeを見てください。とても参考になります。

仏陀の生涯の解説

スッタニパータは、原始仏典の阿含経の中にある詩編です。
 
 ダンマパダは、原始仏典の阿含経の中にある詩編です。

釈尊のもともとの教えでは、教えはもっとシンプルなもでした。

参考文献

参考サイト

2021/10/16

理解することがゴールではありません。

私はセイラーボブの教えを、正しく正確に理解したと思っています。
セイラーボブの教えを正しく理解するとは、私が、「私」だと考えているものは観念のかたまりにすぎず、実体のないものであるということ、私が実在だと思っている世界は実在ではないということを理解することだと思います。

それは、ある時何かが起こって、瞬時に悩みや問題が消えて、そのあとは幸せ、あるいは至福に包まれた状態が続くという、いわゆるエンライトメントとは全く関係のないものです。また、理解したことによって何かを手に入れたり、生活が物質的に豊になったりということでもなければ、生活上の問題がたちどころに解消するということでもありません。

私はそれを理解しました。そして、生きていくことがかなり楽になりました。問題が起こっても、出来事は以前のような強烈さを失い、以前ほど私を悩ませることはありません。起こっていることのすべては観念にすぎず、やがてそれも去っていくものだと理解したからです。

もう何が起こっても大丈夫だという思いがあります。
セイラーボブの教えを完全に理解してから三年経ちました。たった三年です。
でも、まだ何かが足りないと感じています。

過去には、肉親の死、人との別れ、介護、経済的な問題、対人関係、精神的な問題で非常に苦しい時期もあり、毎日毎日生きていくこと自体がつらい日々の連続だった時期もありました。

でも、とりあえず今は、衣食住には困らず、贅沢にとはいきませんが、普通に暮らすことができていて、日常的なストレスをほとんど感じることなく暮らしています。今のところ体も健康で、対人関係で苦しむということもありません。何も問題はないのです。セイラーボブの教えも理解しました。将来に対する不安は特にありません。でも、何かが足りないのです。

ストレスのない状態で暮らしているにもかかわらず、基準点は時々やってきて、私を困らせます。ずっと以前に傷つけてしまった人たちのこと。過去のあやまち。愚かなふるまい。あんなことをしなければよかった。ああすればよかった、こうすべきだった。そんな思いがやってきて、私を苦しめます。もちろん、それは以前のような強烈さはないのですが、それでも時々やってきます。

少し前に、熱海で土石流によって、たくさんの人たちが犠牲になりました。天災はたびたび起こり、そして今でも、毎日多く人たちがコロナで亡くなっています。

そうしたことは、いとも簡単に自分の身に起こることです。
そうしたことが起こった時、私は非二元の教えを理解しているからと、平気でいられるだろうか。

現象世界で起こっていることは現象であり、実体のないものだ、と平気でいられるだろうか。私は約30年前に母と弟を亡くしました。それは本当につらい出来事でした。30年前に非二元の教えを知っていたら、それは単なる現象であり、実体のないものであると平気でいられただろうか。

今、親しい友人や身内を失って、それは単なる現象にすぎないと平気でいられるだろうか。不治の病にかかって、体は私ではないといって平気でいられるだろうか。

コロナのせいで食べていけないような状況になって、それでもこれは現象世界のことだと平気でいられるだろうか。

今、何も問題がなく、ストレスのかからない状態にいてさえも時々基準点に悩まされている私が、何かもっと負荷のかかる事態におちいった時に、それは実在ではないと平然としていられるだろうか。

人一倍心配性でメンタルの弱い私は、セイラーボブの教えなどいっぺんに忘れて、泣き叫ぶに違いありません。おろおろして、何も変わっていなかったと思うにちがいありません。まだ何かが足りないのです。

その何かが何なのかを仏教に触れて理解できた気がします。

仏教で教えていることの本質は、世界は実体のないものであるということ、すなわち諸行無常であり、私は実在ではないということ、すなわち諸法無我です。それは、非二元で教えていることと本質的に同じことです。それを理解することはそれほど難しいことではありません。

でも仏教は、それを理解したら終わりではありません。そこからが始まりなのです。それを理解したら、それを生きなくては意味がない。いくら私はいない、世界は実在ではないと理解したとしても、それを生きなくては意味がないと思うのです。

お金、財産、家族、地位、名誉、体、そういった物が実在ではないと理解するのはそれほど難しくありませんが、お金、財産、家族、地位、名誉、体といった物に対する執着を超えて、そうしたことに翻弄されずに生きていくのはそれほど簡単ではありません。そのため、仏教は修養や修行を説きます。

同様に、非二元の教えを理解したとしても、それで終わりでは意味がありません。それを生きなくては意味がないのです。セイラーボブの教えを理解しても、何年もミーティングに通っている人がいます。何年かおきに話を聞きにやってくる人もいます。

ギルバートのように、絶えず Facebook に非二元のコメントをのせている人もいるし、カリヤニのように非二元を教える講座を続けている人もいます。そしてセイラーボブは何十年もミーティングを続けています。

彼らが何をやっているかというと、非二元を生きようとしているのだと思います。人間は忘れやすい動物です。どうかすると、すぐに忘れてしまいます。彼らは非二元の教えを忘れないようにと、ある意味修養を続けているのではないでしょうか。

私の場合、修養といっても、瞑想をするとか、座禅を組むとかいうことではありません。そういう体験は、もううんざりするほどやりましたが、気休め程度でしかなかったような気がします。
私にとっての修養とは、マインド(思考)に気づいていること。悩みや困難が起こるたびに、それは実体のないものだと気づいていて、マインドがどう反応するかに気づいていること。

マインド(思考)をコントロールすることはできません。でも、思考に飲み込まれないようにして、思考に対する反応をコントロールすることはできると思います。思考に翻弄されないよう、心のありようは変えられる。それが仏教でいう修養・修行ではないでしょうか。

そうして修養・修行を続けるうちに、ゆるぎない心が完成します。それが悟りなのではないでしょうか。修行をして何か自分ではないものになろうということではなく、何度も何度も思い出すことによって、自然とものの見方が変わっていくということではないでしょうか。

非二元の教えを理解したら、それで終わりというわけではなく、そこからがスタートであり、そこからの道のりの方が長いのではないでしょうか。いまだに時々やってくる基準点に悩まされている私は、まだまだだなあと思っています。

ちょっとここでセイラーボブの言葉を引用します。

私たちは、「私」、分離した存在、個人であるという催眠にかかっています。それは繰り返し繰り返し学ぶことによって強化されてきました。名前、性別、自己の役割…、そうしたことは繰り返しによって学んだものです。それが一夜にして消えることはありません。それを理解することは瞬時にできますが、習慣化された古いパターンは繰り返しやってきます。というのも、パターンは繰り返しだからです。それから抜け出すことも同じようにして起こります。何度も何度も再認識してください。SAILOR BOB: Bags of pointers to nondualityp262より)

あなたはその体であると、何度言われたことでしょう? もっとも効果的な学習方法は繰り返しによって学ぶことです。今、あなたは真実を見抜き始めていますが、世界全体があなたを幻影の中に連れ戻そうとしています。真実を見抜き続け、それを繰り返すことによって、それはあなたのものとなるでしょう。今、幻影があなたを明晰さから連れ出すかわりに、幻影を明晰さの中へ引き込めば、真実があなたの中で強化されるでしょう。SAILOR BOB: Bags of pointers to nondualityp263より)

どんなに理解しても、「私」はいるように感じるし、世界も実在のように思える。基準点は繰り返しやってきます。悩みや困難は次々に起こってくる。それに翻弄されないように、何度も何度も思い出し、マインドに気づいている以外に手はないと思います。それこそがセイラーボブの教えの本質ではないでしょうか。

多くの人が非二元の教えを厭世的な虚無主義だと誤解しています。そうではないのです。世界も現実も簡単には変えられないのは事実です。でも、それに対する自身の反応は変えられる。そうしたことに翻弄されないでいることはできる。だからこそ救いがあるのではないでしょうか。そしてそれは、即席でできる簡単なことではないと思います。長い長い修養を必要とすると思います。仏教もそのことを教えてくれています。

(私は非二元の教えを理解した。「私」も世界も実在ではないと理解した。もう何が起こっても平気だ。)それで終わりではないのです。人間である以上、身内が亡くなれば悲しいし、困難なことが起こればおろおろするのは当たり前のことです。でも、その時、非二元の教えを心底理解して生きていたなら、また違った心持ちでいられるのではないでしょうか。

そして、仏教に触れたことで、もう一つ大きく納得できたことがあります。
私は、非二元の教えを学んだ人の多くが、その教えは前向きではない、虚無主義だと判断して去っていくのを知っています。

「私はいない」「世界は実在ではない」という教えを理解すると、次にくる問題は、では私たちの生きる目的はなんだろうということになります。通常、人は幸福になるために、お金、財産、家族、地位、名誉、健康という外側の幸福を求めて日々努力します。でも、それが実体のないものだという教えは、人から向上心や意欲を奪うことになりはしないのか? 

そうした疑問に対する答えを、佐々木閑先生の YouTube の中に見つけました。「仏教は万人のための教えではなく、社会の中で、社会的な幸福を追求することに喜びを見いだせない人、社会的欲求を追い求めることに息苦しさを感じる少数の人たちを救うための教えだ」というのです。例えて言うなら、仏教は病気になった人を癒す薬であり、病気から治ることが悟りだというのです。

もし、あらゆる人が仏教で教えている無我・無欲を追い求めるなら、社会は進歩、発展することはなくなります。でも、別の価値観があって、社会的に良いと認識されている生活を求めることを放棄することで幸福になる道もある、一般社会とは違う生き方もあるというのです。

私はこれを聞いて、妙に納得しました。非二元の教えも同じような側面があるような気がします。非二元の教えも、万人を救おうという教えではなく、社会的欲求を追い求めることで幸福を見出そうということに息苦しさを感じている人たちを救うという一面があるような気がします。進歩、発展だけを追求することとは別の価値観、生き方があるということです。

進歩、発展、前向きな態度はもちろん大切なことですし、豊かな生活を求めることも必要なことだと思います。そうしたことを全部放棄するような、出家僧のような生き方が正しいとは思いません。問題は、そうしたことに囚われてしまって、本当の幸せは何なのか、自分とは何なのかを忘れてしまうことにあると思います。

私の半生は、社会的な幸福を求めることが主たる目的ではありませんでした。心の奥底でエンライトメントを探していて、社会的な幸福を犠牲にして生きてきた一面があります。エンライトメントなどないとセイラーボブに教えられ、解放された一方で、なんと無駄なことに半生を浪費したことだろうと後悔しました。

でも、佐々木閑先生に出会い、社会的な幸福を追い求めない生き方も、何ら後悔すべきものではないと思うようになりました。

佐々木閑「仏教哲学の世界観」1-(9)

佐々木閑「仏教哲学の世界観」1-(19) 仏教を学ぶ目的


2021/10/09

仏教を学ぶことの意味

仏教について書きますとブログに書いてから、あれこれと本を読んだり、YouTubeを見たりしていますが、それほど簡単なことではないとわかって、少しへこんでいます。

仏教は時代とともに変化しています。多様すぎるのです。唯識(ゆいしき)、禅のことを中心に書こうと思いましたが、禅や唯識のことだけをピンポイントで書いても、何のことやらよくわからない。

そのため、初期仏教(お釈迦さまの直接の教え)から書いていかないといけない。初期仏教では個人の修養、修行に重きを置いていて、そこには空の思想や唯識の思想はありません。初期仏教と、唯識や禅とでは、言っていることがかなり違う。

それでも、初期仏教(原始仏教)の根底にも非二元的な要素があるので、初期仏教も書くべきだと思うようになりました。何冊かの本を読んで、初期仏教について何回分かを書いてみたのですが、あまりうまくいっていません。そのため、最初の方は解説的で退屈になるかもしれません。

仏教で使われる言葉の定義や、経典に書かれていることの解釈が、学者によって違うし、本によって様々です。最大の問題は、私が直接仏典を読むことができないということです。

南方(スリランカ・東南アジア)に伝わった初期仏教の仏典(経・律・論)はパーリ語が読めないと読めません。北方(中国)に伝わった仏典はサンスクリット語、漢文が読めないと読めません。結局、私が読むことができる資料は、日本語で書かれたものであり、たいていそれは日本人学者によって書かれた解説書です。

仏教に対する私の解釈は学者の解釈を全面的に採用するしかないのですが、それが多様で、どれを採用すればよいのかよくわからない。書籍も膨大で、何を読んでいいのかわからない。キリスト教の聖書のように、定番の聖典があるわけではないので、どのお経が仏教の神髄なのかわからない。

本を何冊か読んだ程度で、仏教について書こうというのは間違っていると気づきました。それでも、仏教の根底には非二元があるということはわかるので、何とかしてそのあたりのことを書きたい。

それで、仏教を学ぶことの本質、意味とは何だろうかと考えるようになりました。
その前に、非二元を学ぶことの本質、意味は何だろうかと考えてみると、それは「私が私だと思っている私は実在ではない」ということを理解することだと思います。

「私が私だと思っている私は実在ではない」ということがわかるとどんな良いことがあるのか。引き寄せの法則が働いて、何かが手に入るとか、悩みがスーっと消えて楽になるとかということはありません。成功や名誉などの現世利益的なものを手に入れることができるわけではないし、問題解決の即効性もありません。

あえて言うなら、起こっている問題に対する捉え方が変わる、悩みに対する距離ができる、ということだと思います。そこに「私」がいないのなら、悩んでいるのは誰なのか、問題など何もないではないか、ということになり、それが解放をもたらす鍵だと思います。

初期仏教(釈尊の直接の教え)の仏教観を誰かから学びたいと思ってYouTubeをあれこれ見て、花園大学の佐々木閑先生がYouTubeで講義してみえるのを知り、そこで学ぶことにしました。このYouTubeは、もともとはコロナで大学の講義が休みになったことから、講義のかわりとして学生向けに始められたものですが、ありがたいことに一般の人にも無料開放してみえます。(佐々木閑先生のYouTubeチャンネルの目次)

そこには300本ちかい動画があり、今も二日に一本程度のペースで更新してみえます。先生の専門は、原始仏教の律(僧侶が守るべき法律)の研究であるため、釈尊の教えを学ぶのに最適です。ノートを取りながら全部の動画(パーリ語の学習講座を除く)を三回見ました。そして今も更新される動画で学んでいます。

私の初期仏教(釈迦の直接の教え)に対する理解は、佐々木閑先生からのものです。私は先生のファンになりました。著作も何冊か読ませていただきました。もし、このYouTubeがなかったら、初期仏教に対する理解がうまくいかなかったのではないかと思います。時間のある方は、ぜひとも第六シリーズまででも見ていただくと、初期仏教の根底に非二元的なものがあるということがよくわかると思います。

そんな時間はないと言われる方は、私がブログに張り付ける先生のYouTubeだけでも見ていただくようお願いします。今回、YouTube からの貼り付けを多用しますが、それをとばしてしまうと、理解が難しい部分があると思います。

仏教を学ぶことの意味、その行きつく先は何かということについて、佐々木先生はYouTubeの中で、「自分という実在はないというこの世の真理を知ることなんです」と言ってみえます。

佐々木閑の仏教講義「ブッダの教え 18」(「仏教哲学の世界観」第4シリーズ)


参考文献 (私が読んだ佐々木閑先生の著作)
仏教は宇宙をどう見たか: アビダルマ仏教の科学的世界観 (DOJIN文庫)
日々是修行 現代人のための仏教100話 (ちくま新書)
いずれも有益で参考になる本ばかりです。

参考サイト
佐々木閑先生出演。好きなことを存分にやっていいと勇気づけられました。

2021/10/02

セイラーボブの新刊「SAILOR BOB: Bags of pointers to nonduality 」の感想

SAILOR BOB: Bags of pointers to nonduality を読みました。

すばらしい内容でした。
この本は、セイラーボブの教えを正確に理解するのに役立つと思います。本の構成としては、最初に、s・a・i・l・o・r・b・o・bという頭文字から取ったキーワードについて、セイラーボブのポインター(数行の話)があり、そのあとでカットの詳しい説明文が続きます。その説明文がわかりやすく、間違った解釈をすることなく理解する助けになると思います。内容としては、セイラーボブの本というより、カットによるセイラーボブの教えの解説書といえるかもしれません。

セイラー・ボブの教えを理解するためには、ジェームズ・ブラハの Living Reality: My Extraordinary Summer With "Sailor" Bob Adamson (English Edition) がベストだと思います。ブラハの本は非二元全般から見たセーラー・ボブの教えについて書いていますが、この本はセイラーボブや非二元の予備知識がすでにある程度ある人向けだと思います。セイラーボブの教えを多角的に理解するためには、両方読むのがベストだと思います。

共著者であるカット・アダムソンはセイラーボブの奥さんです。カットの経歴について、この本の中で彼女が書いていることや、ネット上で彼女が語ったことを中心に簡単にまとめておきます。

カット・アダムソンは1974年、ポーランド生まれ。高校を卒業後、船舶士官ship's officer:大型船を操縦する人)になることを夢見て軍隊式の五年生の大学へ入学します。大学は難関であったうえ、共産主義崩壊以降のポーランドの法律では、女性が船舶士官なることは認められていませんでした。

結果はどうなるか全くわからなかったのですが、彼女は懸命に努力し、各方面への様々な働きかけののち、やっと道が開け、ポーランドで初めての女性船舶士官となりました。夢を追い続けて、ポーランドで初めて船舶士官となった女性として、何社もの新聞や雑誌に取り上げられたそうです。

卒業後、十数年間、大型船のキャプテンとして世界を旅します。その一方で、精神世界にも興味を抱き、インドの非二元の師を訪ねたり、ベトナムの禅寺で座禅を経験したりして、様々な精神世界を旅します。一定期間乗船すると、一定期間の休暇が取れる勤務形態だったそうです。

やがて結婚するのですが、最初の結婚生活は破綻し、メルボルンのセイラーボブを訪ねます。私が2016年にメルボルンに行った時には彼女もミーティングに通っていて、当時はまだセイラーボブの生徒の一人でした。

当時彼女はまだ町からボブの家へ通っていたため、ミーティングのあと、二度ほど彼女と一緒にトラムに乗って、町までの小一時間の間、楽しく会話したことがあります。彼女はとても誠実で聡明な人で、私のくだらない質問に対して、わかりやすくていねいに答えてくれました。

その後彼女は船の仕事をやめてボブと結婚します。苦労して手に入れた、実入りの良い大切なキャリアだったにもかかわらず、船の仕事をやめたのです。このへんのいきさつはあまり詳しく知りません。彼女がどんな船に乗っていたのかや、ボブとのなれそめの一端は、このYouTube を参考にしてください。彼女の制服姿はなかなかカッコいいですよ。

結婚後は、Facebook や YouTube で見る限り、二人とも幸せそうで、セイラーボブの生活も随分華やかになった印象を受けます。

彼女の精神世界に対する造詣の深さは、この本に出てくる言葉からもわかります。プラトンの洞窟の比喩、シュレディンガーの猫、NLP、クルト・ゲーデル、不確定性原理、トマス・ヤング、ダグラス・アダムスなどなどから、法華経や唯識の話まで。

彼女もボブのところへやってくる他の人同様、長い長い精神世界の旅をしてきたことがわかります。それゆえに彼女の説明は深く、それでいてわかりやすいのだと思います。こっちが知りたいようなことをもれなく書いてくれています。以前このブログにも書きましたが、彼女のYouTube内での発言が私の最終的な理解の助けになりました。

本の内容を紹介するために、少しだけ本から引用させてもらいます。「O、Ordinary」 というキーワードにまつわるポインターです。細字の文字は私(拓)が付け加えたものです。(p224から)

**************

O-Ordinary(普通の・ありふれた)

ボブ:(ゾクチェンを説いた)パドマサンバヴァが書いた、"Self-Liberation through Seeing with naked Awareness"「ありのままのアウエアネスで見た自己解放:未邦訳」というすばらしい本があります。彼はその本の中で、彼らが「それ」と呼ぶものすべての名前をあげています。彼は書いています。ある人はそれをマインド、アートマン、セルフ、自己の不在、如来、その他たくさんのサンスクリット語の名前で呼び、そして最後に、ある人は単にそれを、「普通のアウエアネス」と呼ぶ。(ここでのアウエアネスは意識という意味。私たちの普通の意識のこと)

(ここからはカットの解説文)
普通のアウエアネス? 本当に? がっかり! 私もまた、感覚器官を喜びで満たしてくれるような至福を探していました! 誰が普通のなんて欲しいものですか! なんと退屈な! 私はエクスタシーが欲しい!

「普通」を手に入れるために、瞑想をしたり、様々な修行をしたり、読んで、見て、聞いて、そうした僧院やアシュラムを旅したのではありません。私は人間の進化の頂点であると思われるエンライトメントを達成しようとしました。とても特別なものが欲しかった!

何年もの間、それを聞くのを拒絶しました。その部分のポインターを聞く間、マインドのスイッチを切って無視しました。そんなはずはない。そうしたすべての礼拝場、すばらしい像、寺院、ピラミッド、敬虔な詩、彫刻や絵画が、普通の毎日のアウエアネスをたたえるためにあるはずがない。それでは意味がない。

それでも、すべてのものには仏性があると言われています。真実とは決して変化しないもの。主は、変化することなく普通にあなたとともにある。それは何も特別でも、とびきりのことでもない。それでも、その普通らしさのせいで、奇跡的であったり、心を揺さぶるものであったり、驚くべきものであったりすることが損なわれるわけではありません。

反対に、普通の、存在すること知ることの喜びは全く完全で、満足できて、足りないものは何もありません。ニサルガダッタがよく口にしたように、「もう何も悪くはない」です。

ボブ:あなたは、普通に注意深く座りさえすればいいだけです。それはそこにあります。それは即時です。それは、どんな観念化もされることなく、今、あなたとともにあります。それは単に、純粋な普通のありふれた毎日の意識です。人々は、ただそれとともに座ろうとせず、マインドで理解しようとします。

(ここからはカットの解説文)
それが普通のことであるため、それが通常のことで、明白でとらえがたいものであるため、私たちはそれがあたりまえのことだと思い、その重要さを見逃します。それは通常の日常の目覚めた状態です。それはもともとそれなのです。それは確かに普通ですが、それはまた、偏在、全能、
全知という点で、途方もないことです。

********************

私に、「それはあなたの日常の普通の意識のことだよ」と教えてくれたのは、ギルバートの Facebook でした。そのポインターをセイラーボブの言葉として見聞きしたことはありませんでしたが、この本の中にそれを見つけてうれしくなりました。

この本には、セイラーボブのところへやってきて、「私」から解放された何人かの人の話も出てきます。その人たちがどんなふうに人生の問題を乗り越えていったのか、ボブがどう対応したのかが参考になります。

考える材料として、いくつかのエクササイズも載っています。また、巻末には、深く考えるための111の質問が載っていますが、それはセイラーボブのホームページにあるものと同じものです。以前ブログで紹介した時とは内容が多少変わっていたので、書き直しておきました。興味のある方は参考にしてください。

私はこの本を繰り返し読もうと思います。

2021/09/25

シャンカラとセイラーボブ

前三回のブログにおいて、アドヴァイタ、シャンカラについて書きました。ここで、シャンカラの教えと、セイラーボブの言っていることを比較してみたいと思います。

セイラーボブは、アドヴァイタの教えをニサルガダッタ・マハラジから学んだのですが、ニサルガダッタ・マハラジのアドヴァイタがどういうものかははっきりしません。英語版のマハラジのWikipediaを読むと、Inchagiri Sampradayaという流派であり、その創始者はBhausaheb Maharaj (c. 1843 - c. 1914) という20世紀に亡くなった人です。

シャンカラの系統のアドヴァイタは今でもいくつかの僧院があって、伝統が受けつがれているので、Inchagiri Sampradayaという流派はシャンカラの系統ではないようです。マハラジのアドヴァイタは、シャンカラ以前からあるアドヴァイタの教え(ヴェーダ)の流れを汲むものと思われます。

シャンカラのアドヴァイタも、もともとはシャンカラ以前からあるヴェーダの中のウパニシャッドの教えがもととなっているため、シャンカラの教え=アドヴァイタの教えと言っていいと思いますので、前回まで書いたシャンカラの言っていることと比べてみたいと思います。

まずは共通点から

・世界は実在ではなく幻影である。
 シャンカラもセイラーボブも、実在であるかのように見えている現象世界は実在ではなく、幻影であると言っています。

・私が私だと思っている「私」は実在ではない。
 シャンカラは、身体も心も「私」ではないと言っています。
シャンカラは、「私の手」「私の心」と言うのは、手や心が「私」とは別のものだからだ、と説明しますが、この説明は、セイラーボブもよく使う説明です。

・実在ではない「私」が実在であると思ってしまうのは無知ゆえにであるとセイラーボブは言います。
 シャンカラは「無明」という言葉を使います。二人とも、暗闇で縄を踏んで蛇だと思ってしまう話を無知の説明の時に使います。

・実在としての自己を認識することはできない。
 セイラーボブは、「それはマインドの外にあるため、マインドでは理解できない」と言い、シャンカラは「認識の主体としてのアートマン(自己)は、主体であるがゆえに自己を客体として認識することはできない」と言います。眼は自分の眼を見ることはできないという例えは二人とも使います。

・解放の方法として、セイラーボブは「真実を知ると解放される」と言い、シャンカラは「解脱をもたらす手段とは[ブラフマンの]知識である」と言います。

・二人とも修行を推奨していません。シャンカラは、修行は新たな業を積むことになると言い、必要なのは、自分がすでに永遠の昔から解脱しているのだということに「気づく」ことだけだと言います。そしてセイラーボブは「あなたはもともとそれです」と言います。

・シャンカラもセイラーボブも輪廻を否定しています。シャンカラは、無明(無知)ゆえに輪廻があるように見えるだけだと言います。

・セイラーボブは「エンライトメントや覚醒などない」と言い、シャンカラは言及していません。セイラーボブは「理解」を強調し、シャンカラは「認識」を強調しています。私が読んだ範囲のアドヴァイタやシャンカラの本には、エンライトメントや覚醒に関して言及しているものはありませんでした。シャンカラという名が代々継がれ、今でもシャンカラがインドにいるということを考えると、その教えはエンライトメントや覚醒ではないと思います。

相違点

ブラフマン、アートマンが、セイラーボブの言う知性エネルギー、アウエアネスと同じものかどうかはわかりません。ミーティングの時に Facebook 経由でボブに質問するという手はあるのですが、答えは想像できるのでやめておきます。

セイラーボブの話の中にはシャンカラと同じく、ヴェーダから引用していると思われる話がいくつもあります。もちろんセイラーボブはヴェーダもシャンカラ関連の本も読んでいるはずです。

シャンカラの教えについては、何人かの人が本を書いています。でも、そのほとんどが難解な学究的な本であり、私の手におえるものではありませんでした。例外的にわかりやすく、もっとも参考になった本は、インドの「一元論哲学」を読む―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待) です。私のシャンカラに対する理解はこの本を基本としています。

現代において、一般の人がアドヴァイタをシャンカラやアドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派、ウパニシャッドから学ぼうと思っても、容易ではないと思います。まず、適当な参考書がありません。原典を読もうとすれば古代インド語を習得する必要があります。

それでは、学者によって翻訳されたものはどうかというと、読んで簡単に理解できるようなものはありません。平易な現代語訳がないのです。また、今でもインドに存在するシャンカラ系統のアドヴァイタを学ぼうとするなら、インドに住んで、現地語から学ぶ必要がありますが、そんなことは簡単にはできません。

ただ、それがわかっただけでも、今回アドヴァイタの源流までさかのぼったことは意味があったと思います。

参考文献

2021/09/18

アドヴァイタとは シャンカラ②

シャンカラの教え、「ブラフマ・スートラ注解」と仏教の関係について、愛知県図書館で借りた本の中に非常にわかりやすい説明があったので、以下をインドの「一元論哲学」を読む―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待) p.ⅰ(はじめに)から引用させていただきます。

 もともと、シャンカラは、一元論を唱えるヴェーダーンタ学派に属していました。
 この学派の根本経典である『ブラフマ・スートラ』(西暦紀元後四世紀)は、宇宙の根本原理ブラフマン=最高自己=最高神という、唯一のもの、しかも世界の質料因にして動力因なるものから、世界の森羅万象が流出していたのだとする一元論を説くものでした。したがって、世界の森羅万象は、ブラフマン=最高自己の部分であり、実在であるという考えになります。
質料因=アリストテレスの説いた四原因説の一つ。家ができる原因の例では建築に使用する材料・資材。動力因=家を建てる場合の大工作業のような、現実に作用する原因)

 ところが、この単純明快は流出論的一元論には、まことにやっかいな二つの難問がつきまといました。
 一つの難問は、一元なるものが、何のきっかけで、あるいはまた何のために、ある時点で自己分裂を開始し、世界を流出せしめたのか、というものです。一元なるものは完全無欠、自己完結したものだとされます。しかし、世界流出という活動を為したということは、一元なるものが、世界流出を必要としたということですから、これは、一元なるものが完全無欠で自己完結しているという前提が成り立たないことを意味します。また、一元なるものに外部から働きかけがあって世界流出が起こったのだとするならば、もはやこれは一元論ではなく二元論だということになります。これは悩ましい問題です。

 もう一つの難問は、流出した世界には清浄なものもあれが不浄なものもある、するとそこから世界が流出してきた一元なるものは、清浄かつ不浄ということになるのではないか、というものです。一元なるものは、そのどこを取っても同質のはずでして、すると、清浄かつ不浄ということは、その一元なるものの一元性を突き崩すものとなります。

 このようにして、流出的一元論は、土台がきわめて危うい体系だということになります。流出的一元論は、インド最初の哲学者であるウッダーラカ・アールニ(西暦紀元前八世紀後半)の有の哲学を継承したもので、インドの主流派哲学といえます。しかし、そのようなわけで、『ブラフマ・スートラ』に、定まった視点から一貫して合理的な解釈を与えることは、至難の業でした。ですから、この根本経典には、長い間、全面的な注釈書を著すのに成功した人物が出てきませんでした。最初の成功した人物こそ、シャンカラなのです。

 なぜシャンカラが、『ブラフマ・スートラ』の注釈書を著すのに成功したのかといえば、そこにはおおきな秘密があります。じつはシャンカラは、一元論を守るために、流出論を排斥したのです。それでは、この多様性にあふれたこの世界(ジャガット)は、どのようなものとして位置づけられるのでしょうか。ここがシャンカラの革命でして、彼は、世界は、無明(アヴィディヤー)が生み出した幻影(マーヤー)であり、まったく実在性を欠いているとしたのです。ですから、世界の流出というのは、無明のせいであって、一元なるものとは無関係だということになります。一元なるものは、無始無終に一元のままだというのです。

しかし、わたくしたちは(インド人は、というべきか)、現実のところ、多様な世界の中で、始まりのない過去から輪廻転生を繰り返し、さんざん苦しみを味わい続けている、この現実感覚は何だということになるのでしょう。シャンカラは、それは無明のなせるわざだと断言します。しかし、『ブラフマ・スートラ』はいうに及ばず、その源をなすウッダーラカ・アールニなどのウパニシャッドの哲人たちは、世界の流出を、世界の多様性を、輪廻転生の苦しみを、そしていかにして輪廻転生から解脱すべきかを大いに語っているではないか、これをどう説明するのか。

 シャンカラは、ここで、仏教から妙案を拝借します。それは、すべての言説を、勝義より真なるものと、世俗よりして真なるものとに分類することです。そして、世界の流出とか輪廻転生とか解脱とかを語る言説は、すべて世俗よりして真なるものだといいます。この二様真理説を武器にして、シャンカラは、ウパニシャッドなどの聖典の文言と『ブラフマ・スートラ』の文言のすべてをきれいに捌(さば)いたのです。(勝義=絶対不変の真理)

ですから、シャンカラの文章に接するときには、シャンカラが、ここでは勝義の立場に拠っているのか、世俗の立場に拠っているのか、あるいは二股をかけながらアクロバティックに語っているのかを、細心の注意をもって見きわめなければなりません。ここに、シャンカラの文章を読むさいの、特有の難しさがあります。
 シャンカラは、みずからの不二一元論という理論を構築するさいに、他学派の理論を大胆に借用しています。

 右の二様真理説は、西暦紀元前二世紀半ばに行われたギリシア王と仏教の長老との対論を記録した『ミリンダ王の問い』(ミリンダパンハ)に初めて見られ、西暦紀元後二~三世紀に大乗仏教最初の学派である中観派の開祖となった龍樹(ナーガールジュナ)が重用した理論です。これをシャンカラは拝借しました。

 さらに、西暦紀元後四世紀に基礎理論が固められた大乗の唯識説では、対象世界の実在性が否定され、世界は幻影であると説かれました。この幻影論も、シャンカラが拝借するところとなりました。

 また、唯識説では、私たちが認識の上で犯す誤謬、すなわち、甲でないものを乙だとする認識は、甲でないものに乙を上重ねすること(アッディヤーローパナー)に由来するとされます。シャンカラは、この上重ね理論をそっくりそのまま唯識説から拝借しています。シャンカラの著作の登場する「アッディヤーローパナー」(ないし「アッディヤーサ」)は、わが国では「付託」と訳されることがしばしばですが、本書では、原義のニュアンスをたっぷり含ませるために、「上重ね」と訳すことにします。

 このように、シャンカラは、重要な論点において仏教から非常に多くのものを拝借しましたので、ヴェーダーンタ学派でも、不二一元論を採らない学者たちからは、「隠れ仏教徒」(ブラッチャンナ・バウッダ)だと非難されるほどでした。
 さらに、精神原理と非精神原理を峻別する二元論を展開するサーンキャ学派は、西暦紀元前七世紀のウパニシャッドの哲人ヤージニヴァルキャの「自己─世界」論を継承し、自己は世界外存在であり、あたかも自己であるかのごとく錯覚されるおのが身心が自己でないことを強調してやみません。この、サーンキャ学派の強調点も、やはりシャンカラはそっくりそのまま拝借しています。

 仏教、サーンキャ哲学実に多くを拝借し、それらを巧みに縫い合わせることによって、シャンカラは、不二一元論、すなわち世界幻影論を完成させました。それによって彼は、ヴェーダーンタ学派の根本経典『ブラフマ・スートラ』に一貫した合理的な解釈を与えることに成功したのです。しかし、先述の通り、シャンカラは、『ブラフマ・スートラ』の流出的一元論から、流出論を排斥したのです。流出的一元論が、決して解けない難問の縄にがんじがらめに縛りつけられていた、その理由は、一元論にあるのではなく、流出論にあるのだと、シャンカラは見て取りました。シャンカラは、インドにおける一元論哲学の革命児だったのです。

つまり、シャンカラは、ヴェーダの解釈を真理にもとづくものと、世俗(現象世界)のものとを分けて解釈、説明している。そして、現象世界は実は幻影であり、実在ではないという理論を大乗仏教から拝借しているというのです。

この本(インドの「一元論哲学」を読む―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待))は、前回のブログではっきりと理解できなかった「ウパディーシャサーハスリー」の散文編を、翻訳だけでなく詳しい解説をつけて説明してあります。

第1章 弟子を目覚めさせる方法

p7から引用

二 この解脱をもたらす手段とは、[ブラフマンの]知識である。[これ以外の]手段によって成就される無常なすべてのものを厭離し、息子と財産と[人間世界・祖霊たちの世界・神々の世界という三つの]世界への望みを棄て、[出家遊行者の最高位である]パラマハンサ遊行者となり、心の平静・自制・憐愍(れんびん)などを持ち、ヴェーダ聖典でよく知られている弟子の資質を具え、清浄なバラモンであり、聖典の規定通りに師に近づき、生まれ・職業・性行・[ヴェーダ聖典の]学識・家柄について精査された弟子のために、理解が堅固なものとなるまで、繰り返しこの知識を語らなければならない。

この文書は要するに、解脱(アートマン=ブラフマンと理解すること)するためには、知識が必要であり、それを手に入れるためには世間的な欲望(息子や財産など)を放棄して出家し、師について、師は繰り返しこの知識について教えなければならないと言っています。その解説の中で著者は、

p9

 さて、私たちに最も直接的な存在は、自己反省的・自己完結的に確立される「自己」(アートマンatman、プルシャpurusa)です。往昔のウパニシャッドの哲人ヤージニヴァルキャが看破し、後にシャンカラが論じているように、自己は認識主体であるがゆえに認識対象とはなり得ません。ですから、認識論的に、あるいは心理学的に自分(自己)を探しても、決して見出すことはできません。自己は、認識されることによってその存在が確定されるものではなく、おのずから確定しているのです。なぜなら、自己は、自己反省的であり、かつ自己完結的だからです。

 ですから、わたくしは、ヤージニヴァルキャやシャンカラに同調する恰好でいいますが、自己の存在を証明することは不可能であると考えます。あえて証明しようとすれば、「自己反省的」「自己完結的」という規定の文言の中にすでに「自己」という文字が入っていますので、その証明は典型的な循環論(どうどうめぐり)とならざるを得ません。

さて、翻ってみれば、真実の存在としてブラフマンなるものが、確定しているということになれば、自分にとっての直接的な存在として確定されている自己は、じつはブラフマンと同じであると考えざるを得ません。ブラフマンも自己も、認識論的あるいは心理学的に捉えることはできません。こうした共通性を前にして、ブラフマンと自己とを別物と考える必然的な理由は見いだせません。

 ブラフマンと自己とが一つのものなのだということを、理屈ではなく、瞑想によって得られた直観で理解し、そのことを陳述した最初の人物は、西暦紀元前八世紀前半のシャーンディリアという人物です。漢訳では、「ブラフマン」は「梵」、「アートマン」は「我」ですので、このことはしばしば「梵我一如」といわれます。

自己反省的、自己完結的とはどういう意味でしょうか? 「自己反省的」を辞書やネットで調べても出てきません。「自己完結的」は広辞苑よると、「他に依存することなく、それ自身だけでまとまっていること。他との関連をももたず成り立っていること」とあります。

「自己は認識主体であるがゆえに認識対象とはなり得ません。」という個所から判断すると、要するにアートマンを認識することは不可能だと言っているように思えます。認識することは不可能なものが、どうしてブラフマンと同じものだと考えるのが必然なのでしょうか? 

二章では、輪廻の原因は無明(無知)が原因であるという説明が続きます。無知ゆえに、アートマンの上に、「私」や「体」を上重ね(付託)しているために解脱することができない。よって、無明を取り除けば解脱すると説明しています。

アートマンは最高自己であり、輪廻しないにもかかわらず、無知ゆえに「私」という行為の主体がいると思い込み、それゆえに輪廻しているかのように見える。また、世界は幻影であるが、無明ゆえに、世界があるように認識していると教えます。

世界を認識している自己・「私」は体でも心でもなく、認識の主体であると教えます。認識の客体が世界であり、体であり、心です。認識の主体は、眼がみずからの眼を見ることができないように、刀がみずからを切ることができないように、みずからを認識することはできないと教えます。

こうした説明においても、自己は「自己反省的」「自己完結的」であるがゆえに、それを直接知ることはできないという説明が繰り返し行われます。

私が図書館で借りた本の中では、この方の解説が一番わかりやすいと思うし、説明も平易な言葉でされていると思います。でも、一番かんじんな、「自己反省的」「自己完結的」がよくわからない。

私なりに解釈すると、主体としての自己「私」は認識主体であるがゆえに、それを認識することはできない。でも、「私」は認識の客体となる身体、心、世界を認識している。認識しているということは、必然的に、それを認識している主体(自己)がいるということ。それは自明のこと。それを、「自己反省的」「自己完結的」というのだと思います。

そして、ブラフマンも客体として認識することはできない。ということは、ブラフマンは認識の主体であるということ。ブラフマンもアートマンも両方とも認識の主体。認識の主体が二つ別々に存在することはありえない。ということはブラフマンとアートマンは一つのものであるということになる。

ゆえに、ブラフマン=アートマン=自己=本当の私

この、「ウパディーシャサーハスリー」散文編では、シャンカラと弟子との対話がストーリー仕立てになっていて、弟子の質問に対してシャンカラが順番に答えてゆき、最後に弟子は完全な理解へと到達します。そこには、エンライトメントや覚醒の要素はありません。あくまでも対話による理解が前提となっています。また、シャンカラは修行や瞑想もすすめていません。

参考文献

インドの「一元論哲学」を読む―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待) 
第5巻 シャンカラの思想 (新装版 インド哲学思想) 
シャンカラの哲学〈上〉―ブラフマ・スートラ釈論の全訳 (1980年) 
シャンカラ派の思想と信仰 
人と思想 179 シャンカラ 
シャンカラ―原典、翻訳および解説

中村元先生がシャンカラについて語ってみえます。自己とは何かについて。 

2021/09/16

セイラーボブの新刊(英語版)が出版されました。

ペーパーバックが2134円、キンドル版が999円です。カットとボブの共著となっています。

今日届いたばかりでまだ少ししか読んでいません。読んだらまた感想を書きますが、366ページもあって書体が小さいので、読むには時間がかかりそうです。

内容は、200のキーワードにまつわるボブの数行のコメント(ポインター)があり、それぞれのコメントのあとにカットの比較的長い解説文が続きます。キーワードによっては、カットの解説だけのものもあります。詳しくはアマゾンの試し読み機能で見てください。

本の形式としては、セイラーボブの発言に他の人が解説するという点で、「living Reality」に似ていると思いますが、カットがポーランド出身であるため、「living Reality」の英語より理解しやすい気がします。

この本の利点は、生活をともにするカットがセイラーボブと共著で書いたものであるため、信頼性が高いということ。また、決してわかりやすいとは言えないボブのコメントをわかりやすく解説してくれている点にあると思います。(まだ全部を読んでいないのでどれくらいわかりやすいかは正確には把握していません)

しばらく先になるかと思いますが、全部読み終わったら、また感想を書きます。(2021.10.02 追記:感想はこちら

本の紹介のため、アマゾンのサイトにあるこの本の紹介文を、無料自動翻訳 Deeplのサイトにコピペして自動翻訳したものをそのまま掲載しておきます。

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ノンデュアリティ・スピールは、ボブの45年に及ぶ(信じられないほど効果的で実りある)指導の中で進化してきました。この本には、たくさんの深く深遠な記述が含まれており、それはまるでバッグいっぱいに詰まったヒントのようです。これらのアドバイスのうち、たった一つでも、深く聞いて、見て、感じて、理解することができれば、十分です。ボブの師であり友人であるニサルガダッタ・マハラジが言うように、たった一つのシンプルなアドバイスでも、熟した求道者を「さらなる助けを必要としない」状態にすることができるのです。

しかし、この本は、ボブの素晴らしい講演をただ記録したものではありません。200以上のキーワードの中から、「あなたの」ポインターを見つけることができるかもしれません-あなたの心に響く、真実を感じる1つまたはいくつかのキーワードを。また、ここには多くの実験や演習、ボブの指示に従って成功した人々の個人的な物語の例も含まれています。ご要望にお応えして、お名前を一部変更させていただきました。

セイラー・ボブの頭文字はSから始まります:SはSeeming Separate SelfまたはStopping Spiritual SearchのSは、ある人にとっては素晴らしいリマインダーかもしれませんが、他の人にとっては何の意味もないかもしれません。また、「S」は「空」や「宇宙」を意味しており、より自分の心を揺さぶると感じる人もいるでしょう。私たちはそれぞれに異なる個性を持っているので、同じ曲には共鳴しません。すべての鳥はそれぞれ異なる歌を持っていますが、すべての歌は同じ生命力の表現なのです。

それぞれの文字の下には多くの選択肢があり、必要に応じて頭字語が使えるようになっています。この(あるいは他の)言葉遊びを自由に遊び、解きほぐし、自分なりの拡張をすることで、すべてのポインタが言語を超えてあなたを故郷に連れて行ってくれます。

何度も何度も読んでいるうちに、共鳴が起こり、より多くのポインタがあなたの心を開くでしょう。ボブは、繰り返し聴いたり、読んだりすることで、新しい注意の習慣が、一見すると旅をサポートするように提案しています。真実への愛が強くなり、偽りを放棄する準備ができてくるかもしれません。
しかし、本当の犠牲は必要ありません。死ぬべきものは決して生まれなかった。旅には期間も目的地もなく、今すぐにでも終わりを見ることができます。そして、今がその唯一の機会であり、終わりを迎えるのです。そうは言っても、もしあなたがまだ時間を信じていて、その時間の多くを求めることに投資しているなら、ある種の取り消しが必要かもしれません。軽やかに、楽しくやりましょう。

最後には(今であれば)、あなたは指摘のすべてのパラドックスを見抜き、言葉のすべての限界を理解するでしょう。今のところ、地図は決して領土ではなく、言葉は決してそれが表すものではない、と言えば十分でしょう。猫」という言葉は、猫そのものではありません。猫の写真でさえ、猫そのものではありません。だから、どうか行間を読んでください。理由よりも感覚を探してください。説得力のある議論ではなく、生来の共鳴を探してください。結局、言葉を覚える前の赤ん坊の頃にすべてを知っていたのだから、すべては再認識(再び認識すること)であり、失われなかったものを見つけることなのだ。結局のところ、それは自然な状態であり、常に存在する「普通の認識」なのです。

言葉では表現できないものを表現しようとするこの明白な旅では、言語は私たちを遠ざけます。だから、すべてのパラドックスを笑い飛ばしましょう。

セーラー・ボブは、私が掲載した多くの引用文の一つ一つを承認してくれました。また、私にとって初めての読者である彼は、非常に寛大で肯定的なフィードバックをくれました。しかし、私の夫である彼の評価は完全に客観的であるとは言えません。この本が、今あるもの、そして永遠にそうであったものにインスピレーションを与え、思い起こさせるという目的を果たすことを心から願っています。

Bob: 自分の概念を捨てて、空っぽの状態で来てください。頭ではなく、心で聞いてください。あなたは無意識にそれを知っている、あなたはすでにそうなのです。

2021/09/11

アドヴァイタとは シャンカラ①

仏教の唯識のことを書くために、まずインドで仏教が生まれた背景を知ろうとしてバラモン教の経典(世界の名著 (1) バラモン教典 原始仏典  (中公バックス)(この本自体はアドヴァイタについてだけ書かれたものではなく、数人の著者がそれぞれバラモン教の経典について書いたものを編集したもの)を読んだところ、その中にシャンカラが書いたとされる、「不二一元論 ブラフマ・スートラに対するシャンカラの注解 二・一・十四、十八」というもの見つけた。

シャンカラとは

シャンカラはアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の教義を強化した最初の哲学者、不二一元論派の創始者と言われている。八世紀前半に南インドで生まれ、哲学者としては不二一元論(アドヴァイタ)の開祖、宗教家としてはスマールタ派の開祖。幼くして父を亡くし、ヴェーダを学習し、世を捨てて出家して遍歴行者としてインド諸地方を遍歴。多数の著書を著し、インド各地でいくつかの学院を創立し、最後に北インドで32歳(または38歳)で亡くなったと伝えられる。シャンカラ物語(伝説)も参考に読んでみてください。

「不二一元論 ブラフマ・スートラに対するシャンカラの注解 二・一・十四、十八」は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派の学匠シャンカラが書いた「ブラフマ・スートラ注解」の一部を抜粋翻訳したもの。ページ数にすると、46ページしかない。

「ブラフマ・スートラ」はアドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派の学説綱要書であり、アドヴァイタとは何かを説いたものだが、その解釈が難しいため、シャンカラが注釈をつけて説明したもの。「不二一元論」とは、あらゆる限定をこえたブラフマンが唯一の実在あり、多様な現象世界は無知によって作り出された幻影にすぎないという思想であり、それがシャンカラの主張。

「不二一元論 ブラフマ・スートラに対するシャンカラの注解」がどんなものか、書き出しを引用します。

1 ブラフマンと現象世界との本質的同一性

『ブラフマ・スートラ』二・一・十四 それら(万物の原因であるブラフマンと、その結果としての現象世界と)は、別のものではない。(天啓聖典に述べられている)「(ことばによる)補足」という語が典拠となるから。

(これに先行する定句二・一・十三においては、ヴェーダーンタ学派ブラフマン一元論に対する、二元論者からの反論があげられた。もしも、物質世界の質料因と精神原理との区別を認めず、ブラフマンが唯一の世界原因であると主張するならば、精神的存在者である経験の主体と、経験の対象となる非精神的存在物とは、いずれもブラフマンの変容として同質のものとなるから、両者は区別されないということになるであろう、というのがその反論の内容であった。そして、同じ定句のなかに、『ブラフマ・スートラ』の作者によって)慣習的な、経験の主体、経験される対象といった(概念上の)区別を認容したうえで、
(経験の主体と経験される対象との区別は、われわれの学説に従っても)ありうる。日常生活おいて(認められる事実)のように
と、(その論議に対する)反駁が述べられた。

 しかしながら、この(習慣的に認められている概念上の)区別も、究極的な立場からみれば存在しない(ということを、定句二・一・十四は明らかにする)。なぜならば、原因と結果の両者は、(究極的には)別のものではないと理解されるからである。(ここにいう)結果とは、虚空など(の諸元素)から成る、多種多様に分かれた世界のことであり、原因とは、至高の(存在者としての)ブラフマンである。結果は、究極的な立場からみれば、その原因とは別ではない、…(原因から)独立には存在しないと理解されるのである。

 どのような論拠によって、(右のように理解されるの)であろうか。…(天啓聖典に述べられている)「(ことばによる)補足」という語は、(天啓聖典のなかで、)まず、一者を認識すれば万物が認識されるということを立証すべき命題として提示したのち、喩例を必要とした際に述べられている。
 愛児よ、たとえば一個の土塊によって、すべての土から成るものは知られるであろう。…(土からなる)変容物は、ことばによる捕捉、(単なる)名称である。ただ土である、ということのみが真実である(『チャーンドーギャ』六・十四

と。その趣旨は次のとおりである。…一個の土塊が、究極的な立場から、土そのものとして知られるならば、壺・皿・釣瓶などといったすべての土でつくられたものも、土をその本質とするという点で(土塊と)異ならないのであるから、知られたことになるであろう。したがって、「変容物は、ことばによる捕捉、(単なる)名称である」…壺・皿・釣瓶などという変容物は、単にことばによってのみ「ある」と捕捉される。しかしながら、実際には、変容物というものは実在しない。なぜならば、それはただ名称にすぎない虚妄のものであり、「土であるということのみが真実である」から。…このことがブラフマン(と現象世界との関係)に関する喩例として(天啓聖典のなかに)述べられているのである。

この文章を理解できますか? 私は理解力が良い方ではないが、並外れて悪いとは思っていません。でも、これを読んでも、理解できない。なんとなくはわかる。「原因と結果は別のものではない」とか、「言葉によって分別しているにすぎない」と言っているのはわかる。セイラーボブが、「水と氷と雲は同じもの」という例えを使うのを思い出す。

こんな調子でずっと続きます。まったくちんぷんかんというわけではなく、なんとなくは理解できる。でも、なんとなくでは意味がない。

この世の万物はそれ(最高実在)を本質としている。それは真にあるものである。(『チャーンドーギア』六・八・七)
と、唯一者である第一原因(「有」すなわちブラフマン)のみが真にあるものであることが確信され、他方には、
 それはアートマンである。シヴェータケートゥよ、おまえはそれである(『チャーンドーギャ』六・八・七
と、経験的個我がブラフマンであることが教示されているからである。

要するに、天啓聖典(ヴェーダ)の中で、おまえはブラフマンであり、アートマンであると言っているからそうなのだ、と言っています。全編にわたってこの調子で続きます。なんとなくわかる、でもすっきりしない。

1500年も前の聖典を読むとはそういうことかもしれません。誰かがもっとくわしく説明してくれないと理解できない。

ネットで調べてみると、シャンカラが書いたとされる別の聖典、ウパデーシャ・サーハスリー―真実の自己の探求 (岩波文庫)というものがあったので、今度はそれを図書館で借りてきて読んだ。

「ウパディーシャ・サーハスリー」は韻文編と散文編から成り、韻文編はシャンカラの主張と他者への批判について、散文編は師が弟子をいかにして悟らせるかについて書かれている。

読んだ感想を先にいうと、「まえがき」はよくわかるど、本編は「なんとなくわかる」レベル。まったくお手上げということはないけど、アドヴァイタのことをブログ上で説明しようとしている以上、アドヴァイタとは何なのかをはっきり理解できて、大半の文章を明確に理解できないのなら、だめだと思います。

参考になると思われる個所を引用しておきます。

訳者まえがき(p3)より

 シャンカラの哲学が目指しているのは、仏教やその他のインド哲学諸体系と同様に、輪廻からの解脱である。この解脱を達成する手段は、宇宙の根本原理であるブラフマン(Brahman 梵)の知識を得ることにほかならない、とかれは繰り返し主張している。シャンカラによれば、自分自身のうちにある自己の本体、すなわちアートマン(Artman 我)が宇宙の根本原理ブラフマンと同一であるという心理を悟ることが、解脱への道であるというのである。これは、シャンカラの独創的な思想ではない。幾世紀にもわたる多数のインドの哲人たちの思索活動を背景に、今からおよそ2500年くらい前に、バラモンの根本経典であるヴェーダ聖典の終結部を形成する「ウパニシャッド」の思索家たちが到達した梵我一如の心理にまで遡る思想である。確かにシャンカラは、『ウパディーシャ・サーハスリー』において、しばしばウパニシャッドから成句を引用し、ウパニシャッドの趣旨を明確にしようとしている。このような意味において、この作品は、詳しくは『全ウパニシャッドの精髄であるウパディーシャ・サーハスリー』と呼ばれているのである。

 シャンカラは、再三再四、われわれのうちにあるとされる自己の本体アートマンと、宇宙の根本原理ブラフマンとが、同一であると説いている。しかし、現実の人間存在を直視するとき、当然のことながら、この欠点だらけの死すべき人間が、この苦しみ悩む自己が、果たして無苦・無畏・不変・不滅・不老・不生・不死・不二などといわれる完全無欠なブラフマンと同一であり得るのか、という大きな疑問の壁に突き当たって、シャンカラの教えを受け入れることは非常に困難である。

シャンカラの努力は、輪廻のなかにあって解脱を求める者に、この受け入れ難い真理をいかに理解しやすく、かつ効果的に説明し、教えるかということに注がれたのである。疑うことの出来ないウパニシャッドが、「君はそれ(=ブラフマン)である」といっているのに、われわれはそれをなかなか理解することが出来ない。それは、「君」という言葉の意味を正しく理解していないからである。換言すれば、われわれが本来の自己を見失っているからである。本来の真実の自己とは何か、これこそシャンカラがその弟子たちに徹底的に理解させようとしたことであった。

 シャンカラの門を叩くものに、シャンカラが最初に発する質問は、
「君は誰ですか」
である。シャンカラ当時の、普通の弟子の場合には、この質問に対して、
「私はこれこれしかじかの家系のバラモンの息子でございます。私は、もと学生で…でございましたが、いまはパラマハンサ出家遊行者でございます。生・死という鰐(わに)が出没する輪廻の大海から脱出したいと願っております。」(『ウパディーシャ・サーハスリー』二・一・十)という返答をする。そこでシャンカラは、この常識的な返答を手掛かりに、その弟子の、自己理解が誤りであることを鋭く指摘し、弟子を真実の自己の探究へと誘うのである。

シャンカラによれば、「私はこれこれしかじかの家系のバラモンの息子でございます」ということは、バラモンという階級や家系などをもっている身体と、そのようなものを全く持たない本来の自己であるアートマンとを同一視している結果として生まれた誤った表現にほかならない。シャンカラは、このような常識的な自己理解を否定し、全く新しい真実の自己の世界へと弟子を導き入れるのである。
 ちなみに、シャンカラの伝記(マーダヴァ作『シャンカラの世界征服』14世紀)によると、ゴーヴィンダに師事するに際して、師が幼いシャンカラに同じ質問をしたとき、かれは
「先生、私は地でもなく、水でもなく、火でもなく、風でもなく、虚空でもなく、それらの属性のいずれでもない。私は、感覚器官でもなく、統覚器官でもない。私はシヴァ神である。」
と答え、師を大変に喜ばせたという。

 地・水・火・風・虚空は、いわゆる五大元素であり、われわれの肉体はこの五大元素から成っている。しかしシャンカラは、自分が肉体や、その属性ではなく、感覚器官でもなく、さらにその内奥にあり、アートマンのごとくに顕れる自我意識の主体の統覚機能でもない。自分はほかならぬシヴァ神そのもの、すなわちブラフマンそのものである、と答えたと解される。

ではなせわれわれは真実の自己を見失って、自分自身を、「これこれの家系のバラモンの息子です」などといって、カーストとか、家系とかをもった身体と見做すことになるのであろうか。これを説明するために、シャンカラは無明(むみょう・無知)を観念を導入した。かれによれば、無明とは、Aの性質をBに付託することである。付託とは、以前に知覚されたAが、想起の形でBに顕れることである。たとえば、薄明のとき、森のなかで縄を蛇と間違えてびっくりすることがあるが、これは過去に知覚したことのある蛇を、目の前にある縄に付託するためであるといわれる。こうような付託が無明である。

 ブラフマン=アートマン以外の一切の現象的物質的な世界は、われわれの身体・感覚器官はもちろんのこと、一般に精神活動の中枢をなしていると考えられている統覚機能(心)に至るまで、真実のアートマン、すなわちブラフマンに対して誤って付託されたものにすぎない。したがって、人間をブラフマンとは全く異なる存在であるかのように見せている非アートマン的要素はすべて、無明の産物であり、あたかもマーヤー(幻影)のように存在しない。したがって、ブラフマンとアートマンは全く同一である、とシャンカラは説いている。かれのこの立場は不二一元論(Adavaita)と呼ばれる。

韻文編

五 輪廻の根源は無知であるから、その無知を捨てることが望ましい。それゆえに、[ウパニシャッドにおいて、宇宙の根本原理]ブラフマンの知識が述べられ始めたのである。その知識から至福(=解脱)が得られるであろう。p18

十八 無明が[ひとたび]正しい知識根拠によって除去されてしまったならば、どうして再び生ずることが出来ようか。なぜなら[無明は]無差別・絶対の内我(=内在するアートマン)には存在しないかれである。p21

十九 もし無明が再び生じないならば、「私は有(=ブラフマン)である」という認識があるのに、[私は]行為主体である」「[私は]経験主体である」という観念がどうして生ずることがありえようか。それゆえに知識は補助するものをもたないのである。p21

五 身体がアートマンであるという観念を否定するアートマンの知識をもち、その知識が身体はアートマンであるという[一般の人々がもっている]観念とおなじほどに[強固な]人は、望まなくても解脱する。p27

二六 [アートマンは]みずから輝く知覚であり、見であり、内的な有であり、行為をしない。[アートマンは]触接的に認識され、一切のものの内にある目撃者であり、観察者であり、永遠であり、属性をもたず、不二である。p132

四六 縄が[存在する]ために、蛇が[縄と蛇とを]識別する前には、存在する[かのように見える]ように、輪廻も、実在しないとはいえ、不変のアートマン[が存在する]ために、[存在するかのように見えるのである]。p137

韻文編の中には、読みようによっては、非二元のことを説いていると思えるものもある。例えば、p37より

第10章 見

一 見(=純粋意識)を本性とし、虚空のようであり、つねに輝き、不生であり、唯一者であり、無垢であり、一切に遍満し、不二である最高者(ブラフマン)ーーそれこそ私であり、つねに解脱している。オーム。

二 私は清浄な見であり、本性上不変である。本来私には、いかなる対象も存在しない。私は、前も横も、上も下も、あらゆる方角にも充満する無限者であり、不在であり、不生であり、自分自身に安住している。

三 私は不生・不死であり、みずから輝き、一切に偏在し、不二である。原因でも結果でもなく、全く無垢であり、つねに満足し、またそれゆえに解脱している、オーム。

上記の一節は、読みようによってはセイラーボブの言っていることとかなり似ているような気がします。ただ、千年以上前の聖典を翻訳したものであり、これを理解するのは容易ではない気がします。解説が欲しいところです。

散文編は、師と弟子との想定問答の形式で書かれていて、師が弟子を理解へと導くよう対話が展開し、最後に弟子は理解へと到達し、輪廻から解脱します。

散文編は、韻文編よりも少しわかりやすい。翻訳してあるものの、詳しく解説されているわけではないので、はっきりとは理解できません。残念ながら、市の図書館にあるシャンカラ関連の本はこの二冊しかない。シャンカラが言っていることをはっきりと理解できなければ、アドヴァイタを理解したことにはならない。

もっと易しく書かれた解説書はないだろうかと考えて、アマゾンで検索したが、シャンカラ関連の本は高いものが多くて手が出ない。名古屋にある図書館で蔵書検索をしたところ、愛知県図書館に何冊かシャンカラ関連の本があるということがわかった。しかも、登録さえすれば誰にでも貸してくれるという。愛知県図書館まで行って借りることにした。

シャンカラ Wikipedia

参考文献

世界の名著 (1) バラモン教典 原始仏典  (中公バックス)
ウパデーシャ・サーハスリー―真実の自己の探求 (岩波文庫)

2021/09/04

アドヴァイタとは (梵我一如)

アドヴァイタとは、ヒンドゥー教の中の一つの学派の、「二つではない」(ad=ではない、vaita=二つ)という思想のこと。個人としての魂(アートマン)と宇宙を支配する原理としての神(ブラフマン)が二つあるのではなく、それらは一つのものであるという思想のこと。

多くの人が、アドヴァイタ=非二元だと思っているが、そうではない。非二元という思想の中の一つとしてアドヴァイタがある。

「不二一元論(ふにいちげんろん、サンスクリット語: अद्वैत वेदान्त、Advaita Vedānta、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、Kevalādvaita)とは、インド哲学・ヒンドゥー教のヴェーダーンタ学派において、8世紀のシャンカラに始まるヴェーダンタ学派の学説・哲学的立場である。これはヴェーダンタ学派における最有力の学説となった。不二一元論は、ウパニシャッドの梵我一如思想を徹底したものであり、ブラフマンのみが実在するという説である」Wikipedia 不二一元論より)

「梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。」Wikipedia梵我一如より)

アドヴァイタについて、不二一元論をWikidediaで読んでも、イマイチよくわからない。英語版でAdvaita を読むと、もっとややこしい。

アドヴァイタとは、もともとはバラモン教(のちのヒンドゥー教)にあった梵我一如の思想を8世紀のインドの哲学者シャンカラが大成させた哲学体系のこと。梵我一如、シャンカラについて、もう少し詳しく調べてみることにした。そこでまずは、ヴェーダのウパニシャッドの梵我一如思想の思想というものを調べて、そのあとでシャンカラについても調べることにしました。まずはインドの歴史から。

およそ紀元前2000年ごろ、現在のパキスタンのインダス河流域にインダス文明が栄える。その後、およそ紀元前1500年ごろ、北方よりインド・アーリア人が侵入して、原住の人々を征服して一帯を支配し始める。支配する過程で、宗教、祭式をつかさどる僧侶(バラモン・婆羅門)を最上位の階級に置き、祭祀や式典のやり方を決め、それを伝承したヴェーダが生まれた。

バラモン教では、バラモンが祭祀をすることによって人々の願いを神に告げ、神によって人々の願いがかなえられる。祭祀儀式をしなければ幸せになることも、死後に天に生まれることもできない。その祭祀儀式のやり方を規定しているのがヴェーダ。

ヴェーダはインド・アーリア人が編纂したバラモン教の聖典群(哲学書)の総称で、神の言葉をリシ(仙人)が記録したものとされ、バラモンの人たちには絶対的な権威を持つ。ヴェーダという一冊の書籍があるわけではなく、長期間(およそ紀元前1200年から紀元前500年)にわたって成立した多数の書簡(初期には口伝された)の総称のことを指す。

翻訳されたヴェーダを読んでも、例えば聖書を読むようなもので、解説がなければ理解できないため、学者でもなければ、解説した本を読む以外にない。そもそも膨大なヴェーダの翻訳集(聖書みたいなもの)は、調べた範囲では日本では出版されていないため、学者が部分的に翻訳出版したものを読むしかなく、その解釈は学者の解説に頼る以外にないが、わかりやすいとは言えない。

時代背景

輪廻思想
インドの古代の人たちは、人間は肉体と霊魂でできているという、二元論を信じていた。物質である肉体は必ず滅びるが、物質ではない霊魂は永遠不滅で、次の生を求めてさまようものと考えた。肉体は大地にかえり、霊魂は天界に昇るとし、その人の生前の行いによって霊位が上下し、次に宿るべき肉体が決まると信じた、これが輪廻という考え方の基本。

バラモン教は、この輪廻思想をもとに、生前のその人の信仰の度合いによって決まる霊位、つまり次に生まれ変わる境涯を「天界」、「人間」、「畜生(ちくしょう)」、「餓鬼(がき)」、「地獄」の5種類とした。これを「五趣」、あるいは「五道」と呼ぶ。バラモン教では、この死後に関わる「五趣」の思想を、現世の社会階級にまであてはめていった。それがカースト制(ヴァルナ)。

カースト制
階級制度としてカースト制があった。

バラモン…最上位。宗教・祭式を司る。
クシャトリヤ…二番目。王侯・武人。
ヴィシャ………庶民
シュードラ……奴隷。
さらにその下にアウトカーストとしてのチャンダーラ。

カースト制では、いったんその階級に生まれると、生涯階級が変わることはない。
バラモン教を熱心に信仰し、徳を積むことで、次の人生では上位の境涯に生まれ変われるという希望はあったが、最下位のシュードラにはそれさえなく、シュードラは永遠にシュードラのままである
バラモン階級だけが神々に対して、ヴェーダ(聖典)にもとづく祭祀を通じて願い事をする力があると信じられていた。

ヴェーダの構成とウパニシャッド
ヴェーダには次の四種類があり、それぞれのヴェーダは膨大な数にのぼる。
リグ・ヴェーダ…………神々を祭場に招き、賛歌によって神をたたえるホートリ祭官のための賛歌。
サーマ・ヴェーダ………歌詞を一定の旋律にのせて歌うウドガートリ祭官のための歌詞。
ヤジュル・ヴェーダ……祭祀を行い、供物をささげるアドヴァリウ祭官が唱える歌詞。黒ヤジュル・ヴェーダと白ヤジュル・ヴェーダがある。
アタルヴァ・ヴェーダ…祭式全般を総監するブラフマン祭官に所属し、幸福を願ったり、他人を呪ったりするための呪詞。

上記四つのヴェーダは、各々次の四つの部分から構成される。
本集…………ヴェーダの中心部分でマントラ(賛歌・歌詞・祭詞・呪詞)を集めた部分。
ブラーフマナ(祭儀書)…本集に付属の散文。祭式の仕方や神学的説明。
アーラニヤカ(森林書)…森林の中で教えられる秘儀や式典の説明。
ウパニシャッド(奥義書)…哲学的部分。ヴェーダーンタ(終結部)とも呼ばれる。およそ紀元前500年ごろを中心に成立。インド哲学の源泉と言われ、ここにアドヴァイタのもととなる梵我一如の思想があるとされる。

バラモン教とヒンドゥ教
バラモン教 Wikidedia
ヒンドゥ教 Wikipedia

バラモン教とは、バラモン階級を中心としたヴェーダにもとづく宗教。ヒンドゥー教はバラモン教を基盤として発展したインドの民族宗教。広義にヒンドゥー教と言った場合はバラモン教を含んでいる。両宗教は西洋人が人為的に分類を分けただけで、インドの人たちはヒンドゥー教とは呼んでいない。ヒンドゥー教は本来インドにおける、イスラム教、仏教、ソロアスター教、ユダヤ教、キリスト教を除く、混沌とした宗教・文化の複合体による便宜的な呼称。

神々
バラモン教、ヒンドゥー教は多神教であり、数多くの神が信仰の対象となっている。バラモン教の時代にはヴェーダに登場する神々として、インドラ、ヴァルナ、アグニ、サラヴァティー、ブラフマーなどであったが、ヒンドゥー教においては、バラモン教では脇役的な役割しかしていなかったヴィシュヌやシヴァが重要な神となった。

インドラは帝釈天として、ヴァルナは水天、ブラフマンは梵天、サラヴァティーは弁財天として仏教経由で日本にもなじみがある。ただし、仏教における梵天はバラモン教におけるブラフマー(ブラフマン)とは同じではなく、仏教における梵天は神としての一人であるのに対して、バラモン教のブラフマーは全宇宙を司る絶対的な存在としての神である。

バラモン教ではやがて、ではいったい神を創造したのは誰かと考えるようになり、その思想が梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)へと発展していく。

バラモン教の教義
神々への賛歌『ヴェーダ』を聖典とし、天・地・太陽・風・火などの自然神を崇拝し、司祭階級が行う祭式を中心とする。そこでは人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる。人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める。転生輪廻(サンサーラ)は、インドのバラモン教の思想である。この教えによれば「人間はこの世の生を終えた後は一切が無になるのではなく、人間のカルマ(行為、業)が次の世に次々と受け継がれる。この世のカルマが“因”となり、次の世で“果”を結ぶ。善因は善果、悪因は悪果となる。そして、あらゆる生物が六道〔①地獄道、②餓鬼道、③畜生道、④修羅道(闘争の世界)、⑤人間道、⑥天上道〕を生まれ変わり、死に変わって、転生し輪廻する。これを六道輪廻の宿命観という。何者もこの輪廻から逃れることはできない。それは車が庭を巡るがごとしと唱える。Wikipediaより

さてここからが本題。輪廻から抜け出すためには、ブラフマンとアートマンが同一(梵我一如)であることを知らなければならない。つまり、宇宙の最高神である梵(ブラフマン)と、真の自己であるアートマンが同じものであるということを知らなければならない。そしてその方法はヴェーダの中のウパニシャドにある。そこで私はウパニシャドに関する本を何冊か読んだ。

ウパニシャドにおける解脱とは、梵我の本質を悟って、この本体と合一することである。「実にかの最高梵を知る者は梵となる」(ムンダカ3・2・9)。ただしここに「知る」というのは、経験的知識或いは学問上の知識を指すのではない。「無知を信奉する者は、あやめもわかざる暗黒に陥る。知(理性による知識)に喜びをもつ者は、さらに甚だしき暗黒に陥る」(イーシャー12)。無知に蔽われながら、みずから賢明にして学識ありと妄想するものは危い。解脱は普通の知・無知を超えた真知にまつほかほかなく、ここに、真知に到達する手段が問題となる。
ウパニシャッドの教えるところに従えば、感覚を制御し、欲望を絶ち、禁欲に服し、瞑想によって精神を統一し、思いを梵我のみに集中する修行がもっとも有効である。なんとなれば、欲望を離れたところに業の束縛はおよばないからである。
(インド文明の曙p171)

善因善果・悪因悪果を教えたウパニシャッドが解脱を志向する者に奨励したところは、ヴェーダの学習・禁欲・祭祀・布施・苦行・断食・五感の抑制を始めとして、古来インドで尊重されてきた徳目と大差がない。(インド文明の曙p173)

アートマンとブラフマンが何か、そしてそれが同じものであると知るためには、禁欲して瞑想して、知識ではなく、本当の知恵を体得する修行をしないといけないという。う~ん、それはちょっと無理。

本を読む程度では知識でしかなく、真の知恵とはならないかもしれませんが、アートマン、ブラフマン、梵我一如が何なのかを抜粋しておきます。また、アドヴァイタと関連しそうな個所も抜粋しておきます。

アートマン、ブラフマンの定義については、ヴェーダの年代や種類、解釈者によって一定ではなく、様々な解釈がある。

アートマン

アートマン(आत्मन् Ātman)は、ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される。Wikipediaより

アートマン(我・がと訳す、男性語)は、元来「気息」を意味し、生命の主体として「正規・本体・霊魂・自我」の意味に用いられた。前述のプラーナならびにプルシャと当初から密接な関係にあったが、次第に原義から遠ざかり、個人の本体を表す熟語となった。(インド文明の曙p162)

このアートマンは、われわれが日常生活において経験するような自我ではありません。われわれの感覚器官によって、見たり、聞いたり、言葉で表現したりすることができない、主観客観の二元対立を超越した、決して客体化されることのない存在です。したがってアートマンを、目の前にある本や机などのように、認識対象として認識したり、日常の言語によって表現することは不可能です。(インド哲学へのいざないp33)

要するに「アートマン」は、生きとし生けるものーー今日の知識で無生物と区別される生物ではなく、ヴェーダ時代の人の意識にとって生あるものーーの「いきいきとした」性質の根底にある何ものかをあらわす概念であって、生命力、寿命を意味する「アーユス」(ayus)に近似するが、力ではなく、また、「アス」や「プラーナ」とは区別されるが、親縁関係にあるものであった。(古代のインドの神秘思想p126)

アートマンすなわち我(が)とは、元来「気息」を意味し、生命の主体と目されては「生気」となり、総括的には生活体すなわち「身体」特に「胴体」となり、他人と区別しては「自身」となり、さらに内面的・本質的に解されて「本体・精髄・霊魂・自我」を意味するに至った。(ウパニシャッドp55)

ブラフマン

ブラフマン(ब्रह्मन् brahman)は、ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根理。Wikiipediaより

ブラフマン(梵・ぼんと訳す、中性語)とは元来祈祷の文句ならびにその神秘力を意味し、祭式万能の気運につれ、神を左右する原動力と認められ、アタルヴァ・ヴェーダおやびブラーフマナ文献においては、宇宙の根本的想像力の一名となった。バラモンが他の階級をしのぐのは、この神秘力を強度に備えていたからである。(インド文明の曙p161)

ブラフマン(中性語)すなわち梵とは、元来ヴェーダの賛歌・歌詞・呪詞、さらにその内に満つる神秘力、ヴェーダの知識およびその結果たる神通力を意味し、ヴェーダ神聖・祭式万能の信仰につれ、神を動かして願望を達する原動力と認められ、記述のごとく、アタルヴァ・ヴェーダおよびブラーフマナ文献においては、他の諸原理に伍して宇宙の根本的想像力の名となった。(ウパニシャッドp54)

「ブラフマンの原義については、このように見解がさまざまに分かれて、定説がない。ただ確実なのは、ブラフマンが祭式万能のブラーフマナ時代に、宇宙の最高原理、至高存在とみなされるに至ったことである。(古代インドの神秘思想p110)

梵我一如

梵我の本質を文字によって説明するのは至難のわざである。一にして一切、相対を離れ比類を絶した根本原理は、経験の世界を去ること遠く、原語も思考も到達し得ないかなたにある。これを積極的に描写しても、消極的に定義しても、有限の言語によって無限な実体を表現することはできない。種々な比喩が用いられ、さまざまな定義が提唱されているが、結局は日常の経験を超越した瞑想により悟証されるべきのである。次に一例として、チャーンドーギア・ウパニシャッド(三・十四)に含まれる「シャーンディリアの教義」を挙げる。

 ブラフマンは実にこの一切(宇宙)なり。(一)
 意より成り、生気を体とし、光明を形相とし、その思惟は真実にして、虚空を本性とし、一切の行作を包容し、一切の慾求を具備し、一切の香を有し、一切の味を有し、この一切に遍満し、言語なく、関心なきもの、(二)
 
 これおすなわち心臓の内部に存するわがアートマンなり。米粒よりも、或いは麦粒よりも、或いは芥子(
けし)粒よりもあるいは黍(きび)粒よりも、あるいは黍粒の中核よりもさらに微なり。これすなわち心臓の内部に存するわがアートマンなり。地よりも大に、空よりも大に、天よりも大に、これらの世界よりも大なり。(三)

 一切の行作を包容し、一切の慾求を具備し、一切の香を有し、一切の味を有し、一切に遍満し、言語なく、関心なきもの、すなわち心臓の内部に存するわがアートマンなり。これブラフマンなり。この世界を去りてのち、われこれと合一すべしと、(意向)あらん者には、実に疑惑のあることなし。シャーンディリアは常にかくいえり、シャーンディリアかくいえり。(四)

 根本原理は一切を包括し、一切に遍満し、極小にして同時に極大である点が強調されている。矛盾する表現によって相対観念を止揚する好例はイーシャー・ウパニシャッドに見いだされる。

 そは動く(同時に)そは動かず。そは遠きにあり、しかもそは近くきにあり。そは万有の中にあり(偏在性)、しかも万有の外にあり(超越性)。(五)

 しかし、万物をアートマンの中にのみ認め、万物の中にアートマンを認める者はもはや疑いをいだくことなし。(六)

 その人にありて万物がアートマンに帰一し終わりたるとき、かく分別する者にとり、そこにいかなる迷妄あらんや、いかなる悲憂あらんや、(アートマンの)独一性を認むる者にとり。(七)    (インド文明の曙p164)

「この我(が)は実に梵なり、認識よりなり、意よりなり、生気よりなり、眼よりなり、耳よりなり、地よりなり、水よりなり、風よりなり、虚空よりなり、光明よりなり、非光明よりなり、欲望よりなり、非欲望よりなり、瞋恚(しんい)よりなり、非瞋恚よりなり、法よりなり、非法よりなり、一切よりなる。(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド)(ウパニシャッドp62)

「梵は我なり」(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド)(ウパニシャッドp58)

七「この微細なるものといえば、ーーーこの一切(全宇宙)はそれを本質とすものである。それは真実である。それはアートマンである。お前はそれである。(tat tvam asi タットバマシ)シュヴェータケートゥよ」(チャーンドーギャ・ウパニシャッド六・八)(インド哲学へのいざないp229)

どの本もこんな調子で原文や説明がつづくが、結局のところ、何だかよくわからない。もっとわかりやすい表現で常用漢字だけで説明してくれないと理解できない。

アートマンは客体化することのできない認識主体である。見ることの背後にある見る主体を、だれも対象化して見ることはできない。対象化されたものは、もはや真の主体ではない。したがってアートマンは、把捉されないもの、どのような述語によっても限定されないものである。ただ、「甲に非(あら)ず、乙に非ず」という否定的表現を用いる以外に、それを表示する方法はない。この「非ず、非ず」neti neti という表現は、ウパニシャッドにおける最も有名な言語の一つである。このようなアートマンこそは、個体における不滅不死のものであり、万物に内在する普遍者である。それは万物を内部から制御する「内制者」である。
日常経験は、見る者と見られるもの、聞く者と聞かれるものなどの二元性を前提としている。しかし万物がその本質においてアートマンにほかならないことを、真に人が知るとき、彼にとって二元性はなくなり、見ながら見ず、聞きながら聞かないという境地が開ける。二元性を越えて、彼は「アートマンそのものとなる」のである。このようにアートマンと合一した解脱の境地を、ヤージニヴァルキャは熟睡状態として説明する。眠りの浅い状態にあるとき、人はこの世を構成している物質の素材を用いて、目ざめているときに経験した世界に似た夢の世界を自らつくり出す。しかし熟睡状態に進むと、外界は消滅して、彼は完全な安息の境地に達するのである。
(世界の名著1バラモン教p24)

私にとってはこの説明は妙に説得力がありました。この夢の例えは他の本にも出てくるのですが、例えば、夢を見て、夢から覚めてから夢を思い出せるということは、夢を見ている主体が夢の中にいたということ。つまり、二元性の世界にいたということ。

ところが、熟睡状態の時は、夢を見る「主体」が消えてしまい、いわば非二元の世界にいるため、夢を見たのかどうかも、そこに自分がいたのかも、どういう状態だっとのかも思いだせない。それと同じで、アートマンとは何かと言葉で説明できるのならそれは二元的な視点に立っていることになり、真のアートマンではない。真のアートマンは非二元であり、そこに説明できる主体がいない以上、言葉で説明することはできない。

いずれにしても、ヴェーダの中は例え話ばかりで、具体的にアートマンやブラフマンが何であるかは書いてないし、それが同じものであることを知る具体的な方法(瞑想などの修行以外で)も書いてない。あなたはそれであるの繰り返し。それはそうならざるえない。非二元の本質を言葉では説明できないのと同じ。

原始インド社会、バラモン教の成り立ちについてもっと詳しく学びたい方は、佐々木閑:仏教とはなにか(YouTube)で学んでください。今回特に関係あるのは以下二回。


参考文献