2021/09/25

シャンカラとセイラーボブ

前三回のブログにおいて、アドヴァイタ、シャンカラについて書きました。ここで、シャンカラの教えと、セイラーボブの言っていることを比較してみたいと思います。

セイラーボブは、アドヴァイタの教えをニサルガダッタ・マハラジから学んだのですが、ニサルガダッタ・マハラジのアドヴァイタがどういうものかははっきりしません。英語版のマハラジのWikipediaを読むと、Inchagiri Sampradayaという流派であり、その創始者はBhausaheb Maharaj (c. 1843 - c. 1914) という20世紀に亡くなった人です。

シャンカラの系統のアドヴァイタは今でもいくつかの僧院があって、伝統が受けつがれているので、Inchagiri Sampradayaという流派はシャンカラの系統ではないようです。マハラジのアドヴァイタは、シャンカラ以前からあるアドヴァイタの教え(ヴェーダ)の流れを汲むものと思われます。

シャンカラのアドヴァイタも、もともとはシャンカラ以前からあるヴェーダの中のウパニシャッドの教えがもととなっているため、シャンカラの教え=アドヴァイタの教えと言っていいと思いますので、前回まで書いたシャンカラの言っていることと比べてみたいと思います。

まずは共通点から

・世界は実在ではなく幻影である。
 シャンカラもセイラーボブも、実在であるかのように見えている現象世界は実在ではなく、幻影であると言っています。

・私が私だと思っている「私」は実在ではない。
 シャンカラは、身体も心も「私」ではないと言っています。
シャンカラは、「私の手」「私の心」と言うのは、手や心が「私」とは別のものだからだ、と説明しますが、この説明は、セイラーボブもよく使う説明です。

・実在ではない「私」が実在であると思ってしまうのは無知ゆえにであるとセイラーボブは言います。
 シャンカラは「無明」という言葉を使います。二人とも、暗闇で縄を踏んで蛇だと思ってしまう話を無知の説明の時に使います。

・実在としての自己を認識することはできない。
 セイラーボブは、「それはマインドの外にあるため、マインドでは理解できない」と言い、シャンカラは「認識の主体としてのアートマン(自己)は、主体であるがゆえに自己を客体として認識することはできない」と言います。眼は自分の眼を見ることはできないという例えは二人とも使います。

・解放の方法として、セイラーボブは「真実を知ると解放される」と言い、シャンカラは「解脱をもたらす手段とは[ブラフマンの]知識である」と言います。

・二人とも修行を推奨していません。シャンカラは、修行は新たな業を積むことになると言い、必要なのは、自分がすでに永遠の昔から解脱しているのだということに「気づく」ことだけだと言います。そしてセイラーボブは「あなたはもともとそれです」と言います。

・シャンカラもセイラーボブも輪廻を否定しています。シャンカラは、無明(無知)ゆえに輪廻があるように見えるだけだと言います。

・セイラーボブは「エンライトメントや覚醒などない」と言い、シャンカラは言及していません。セイラーボブは「理解」を強調し、シャンカラは「認識」を強調しています。私が読んだ範囲のアドヴァイタやシャンカラの本には、エンライトメントや覚醒に関して言及しているものはありませんでした。シャンカラという名が代々継がれ、今でもシャンカラがインドにいるということを考えると、その教えはエンライトメントや覚醒ではないと思います。

相違点

ブラフマン、アートマンが、セイラーボブの言う知性エネルギー、アウエアネスと同じものかどうかはわかりません。ミーティングの時に Facebook 経由でボブに質問するという手はあるのですが、答えは想像できるのでやめておきます。

セイラーボブの話の中にはシャンカラと同じく、ヴェーダから引用していると思われる話がいくつもあります。もちろんセイラーボブはヴェーダもシャンカラ関連の本も読んでいるはずです。

シャンカラの教えについては、何人かの人が本を書いています。でも、そのほとんどが難解な学究的な本であり、私の手におえるものではありませんでした。例外的にわかりやすく、もっとも参考になった本は、インドの「一元論哲学」を読む―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待) です。私のシャンカラに対する理解はこの本を基本としています。

現代において、一般の人がアドヴァイタをシャンカラやアドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派、ウパニシャッドから学ぼうと思っても、容易ではないと思います。まず、適当な参考書がありません。原典を読もうとすれば古代インド語を習得する必要があります。

それでは、学者によって翻訳されたものはどうかというと、読んで簡単に理解できるようなものはありません。平易な現代語訳がないのです。また、今でもインドに存在するシャンカラ系統のアドヴァイタを学ぼうとするなら、インドに住んで、現地語から学ぶ必要がありますが、そんなことは簡単にはできません。

ただ、それがわかっただけでも、今回アドヴァイタの源流までさかのぼったことは意味があったと思います。

参考文献

2021/09/18

アドヴァイタとは シャンカラ②

シャンカラの教え、「ブラフマ・スートラ注解」と仏教の関係について、愛知県図書館で借りた本の中に非常にわかりやすい説明があったので、以下をインドの「一元論哲学」を読む―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待) p.ⅰ(はじめに)から引用させていただきます。

 もともと、シャンカラは、一元論を唱えるヴェーダーンタ学派に属していました。
 この学派の根本経典である『ブラフマ・スートラ』(西暦紀元後四世紀)は、宇宙の根本原理ブラフマン=最高自己=最高神という、唯一のもの、しかも世界の質料因にして動力因なるものから、世界の森羅万象が流出していたのだとする一元論を説くものでした。したがって、世界の森羅万象は、ブラフマン=最高自己の部分であり、実在であるという考えになります。
質料因=アリストテレスの説いた四原因説の一つ。家ができる原因の例では建築に使用する材料・資材。動力因=家を建てる場合の大工作業のような、現実に作用する原因)

 ところが、この単純明快は流出論的一元論には、まことにやっかいな二つの難問がつきまといました。
 一つの難問は、一元なるものが、何のきっかけで、あるいはまた何のために、ある時点で自己分裂を開始し、世界を流出せしめたのか、というものです。一元なるものは完全無欠、自己完結したものだとされます。しかし、世界流出という活動を為したということは、一元なるものが、世界流出を必要としたということですから、これは、一元なるものが完全無欠で自己完結しているという前提が成り立たないことを意味します。また、一元なるものに外部から働きかけがあって世界流出が起こったのだとするならば、もはやこれは一元論ではなく二元論だということになります。これは悩ましい問題です。

 もう一つの難問は、流出した世界には清浄なものもあれが不浄なものもある、するとそこから世界が流出してきた一元なるものは、清浄かつ不浄ということになるのではないか、というものです。一元なるものは、そのどこを取っても同質のはずでして、すると、清浄かつ不浄ということは、その一元なるものの一元性を突き崩すものとなります。

 このようにして、流出的一元論は、土台がきわめて危うい体系だということになります。流出的一元論は、インド最初の哲学者であるウッダーラカ・アールニ(西暦紀元前八世紀後半)の有の哲学を継承したもので、インドの主流派哲学といえます。しかし、そのようなわけで、『ブラフマ・スートラ』に、定まった視点から一貫して合理的な解釈を与えることは、至難の業でした。ですから、この根本経典には、長い間、全面的な注釈書を著すのに成功した人物が出てきませんでした。最初の成功した人物こそ、シャンカラなのです。

 なぜシャンカラが、『ブラフマ・スートラ』の注釈書を著すのに成功したのかといえば、そこにはおおきな秘密があります。じつはシャンカラは、一元論を守るために、流出論を排斥したのです。それでは、この多様性にあふれたこの世界(ジャガット)は、どのようなものとして位置づけられるのでしょうか。ここがシャンカラの革命でして、彼は、世界は、無明(アヴィディヤー)が生み出した幻影(マーヤー)であり、まったく実在性を欠いているとしたのです。ですから、世界の流出というのは、無明のせいであって、一元なるものとは無関係だということになります。一元なるものは、無始無終に一元のままだというのです。

しかし、わたくしたちは(インド人は、というべきか)、現実のところ、多様な世界の中で、始まりのない過去から輪廻転生を繰り返し、さんざん苦しみを味わい続けている、この現実感覚は何だということになるのでしょう。シャンカラは、それは無明のなせるわざだと断言します。しかし、『ブラフマ・スートラ』はいうに及ばず、その源をなすウッダーラカ・アールニなどのウパニシャッドの哲人たちは、世界の流出を、世界の多様性を、輪廻転生の苦しみを、そしていかにして輪廻転生から解脱すべきかを大いに語っているではないか、これをどう説明するのか。

 シャンカラは、ここで、仏教から妙案を拝借します。それは、すべての言説を、勝義より真なるものと、世俗よりして真なるものとに分類することです。そして、世界の流出とか輪廻転生とか解脱とかを語る言説は、すべて世俗よりして真なるものだといいます。この二様真理説を武器にして、シャンカラは、ウパニシャッドなどの聖典の文言と『ブラフマ・スートラ』の文言のすべてをきれいに捌(さば)いたのです。(勝義=絶対不変の真理)

ですから、シャンカラの文章に接するときには、シャンカラが、ここでは勝義の立場に拠っているのか、世俗の立場に拠っているのか、あるいは二股をかけながらアクロバティックに語っているのかを、細心の注意をもって見きわめなければなりません。ここに、シャンカラの文章を読むさいの、特有の難しさがあります。
 シャンカラは、みずからの不二一元論という理論を構築するさいに、他学派の理論を大胆に借用しています。

 右の二様真理説は、西暦紀元前二世紀半ばに行われたギリシア王と仏教の長老との対論を記録した『ミリンダ王の問い』(ミリンダパンハ)に初めて見られ、西暦紀元後二~三世紀に大乗仏教最初の学派である中観派の開祖となった龍樹(ナーガールジュナ)が重用した理論です。これをシャンカラは拝借しました。

 さらに、西暦紀元後四世紀に基礎理論が固められた大乗の唯識説では、対象世界の実在性が否定され、世界は幻影であると説かれました。この幻影論も、シャンカラが拝借するところとなりました。

 また、唯識説では、私たちが認識の上で犯す誤謬、すなわち、甲でないものを乙だとする認識は、甲でないものに乙を上重ねすること(アッディヤーローパナー)に由来するとされます。シャンカラは、この上重ね理論をそっくりそのまま唯識説から拝借しています。シャンカラの著作の登場する「アッディヤーローパナー」(ないし「アッディヤーサ」)は、わが国では「付託」と訳されることがしばしばですが、本書では、原義のニュアンスをたっぷり含ませるために、「上重ね」と訳すことにします。

 このように、シャンカラは、重要な論点において仏教から非常に多くのものを拝借しましたので、ヴェーダーンタ学派でも、不二一元論を採らない学者たちからは、「隠れ仏教徒」(ブラッチャンナ・バウッダ)だと非難されるほどでした。
 さらに、精神原理と非精神原理を峻別する二元論を展開するサーンキャ学派は、西暦紀元前七世紀のウパニシャッドの哲人ヤージニヴァルキャの「自己─世界」論を継承し、自己は世界外存在であり、あたかも自己であるかのごとく錯覚されるおのが身心が自己でないことを強調してやみません。この、サーンキャ学派の強調点も、やはりシャンカラはそっくりそのまま拝借しています。

 仏教、サーンキャ哲学実に多くを拝借し、それらを巧みに縫い合わせることによって、シャンカラは、不二一元論、すなわち世界幻影論を完成させました。それによって彼は、ヴェーダーンタ学派の根本経典『ブラフマ・スートラ』に一貫した合理的な解釈を与えることに成功したのです。しかし、先述の通り、シャンカラは、『ブラフマ・スートラ』の流出的一元論から、流出論を排斥したのです。流出的一元論が、決して解けない難問の縄にがんじがらめに縛りつけられていた、その理由は、一元論にあるのではなく、流出論にあるのだと、シャンカラは見て取りました。シャンカラは、インドにおける一元論哲学の革命児だったのです。

つまり、シャンカラは、ヴェーダの解釈を真理にもとづくものと、世俗(現象世界)のものとを分けて解釈、説明している。そして、現象世界は実は幻影であり、実在ではないという理論を大乗仏教から拝借しているというのです。

この本(インドの「一元論哲学」を読む―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待))は、前回のブログではっきりと理解できなかった「ウパディーシャサーハスリー」の散文編を、翻訳だけでなく詳しい解説をつけて説明してあります。

第1章 弟子を目覚めさせる方法

p7から引用

二 この解脱をもたらす手段とは、[ブラフマンの]知識である。[これ以外の]手段によって成就される無常なすべてのものを厭離し、息子と財産と[人間世界・祖霊たちの世界・神々の世界という三つの]世界への望みを棄て、[出家遊行者の最高位である]パラマハンサ遊行者となり、心の平静・自制・憐愍(れんびん)などを持ち、ヴェーダ聖典でよく知られている弟子の資質を具え、清浄なバラモンであり、聖典の規定通りに師に近づき、生まれ・職業・性行・[ヴェーダ聖典の]学識・家柄について精査された弟子のために、理解が堅固なものとなるまで、繰り返しこの知識を語らなければならない。

この文書は要するに、解脱(アートマン=ブラフマンと理解すること)するためには、知識が必要であり、それを手に入れるためには世間的な欲望(息子や財産など)を放棄して出家し、師について、師は繰り返しこの知識について教えなければならないと言っています。その解説の中で著者は、

p9

 さて、私たちに最も直接的な存在は、自己反省的・自己完結的に確立される「自己」(アートマンatman、プルシャpurusa)です。往昔のウパニシャッドの哲人ヤージニヴァルキャが看破し、後にシャンカラが論じているように、自己は認識主体であるがゆえに認識対象とはなり得ません。ですから、認識論的に、あるいは心理学的に自分(自己)を探しても、決して見出すことはできません。自己は、認識されることによってその存在が確定されるものではなく、おのずから確定しているのです。なぜなら、自己は、自己反省的であり、かつ自己完結的だからです。

 ですから、わたくしは、ヤージニヴァルキャやシャンカラに同調する恰好でいいますが、自己の存在を証明することは不可能であると考えます。あえて証明しようとすれば、「自己反省的」「自己完結的」という規定の文言の中にすでに「自己」という文字が入っていますので、その証明は典型的な循環論(どうどうめぐり)とならざるを得ません。

さて、翻ってみれば、真実の存在としてブラフマンなるものが、確定しているということになれば、自分にとっての直接的な存在として確定されている自己は、じつはブラフマンと同じであると考えざるを得ません。ブラフマンも自己も、認識論的あるいは心理学的に捉えることはできません。こうした共通性を前にして、ブラフマンと自己とを別物と考える必然的な理由は見いだせません。

 ブラフマンと自己とが一つのものなのだということを、理屈ではなく、瞑想によって得られた直観で理解し、そのことを陳述した最初の人物は、西暦紀元前八世紀前半のシャーンディリアという人物です。漢訳では、「ブラフマン」は「梵」、「アートマン」は「我」ですので、このことはしばしば「梵我一如」といわれます。

自己反省的、自己完結的とはどういう意味でしょうか? 「自己反省的」を辞書やネットで調べても出てきません。「自己完結的」は広辞苑よると、「他に依存することなく、それ自身だけでまとまっていること。他との関連をももたず成り立っていること」とあります。

「自己は認識主体であるがゆえに認識対象とはなり得ません。」という個所から判断すると、要するにアートマンを認識することは不可能だと言っているように思えます。認識することは不可能なものが、どうしてブラフマンと同じものだと考えるのが必然なのでしょうか? 

二章では、輪廻の原因は無明(無知)が原因であるという説明が続きます。無知ゆえに、アートマンの上に、「私」や「体」を上重ね(付託)しているために解脱することができない。よって、無明を取り除けば解脱すると説明しています。

アートマンは最高自己であり、輪廻しないにもかかわらず、無知ゆえに「私」という行為の主体がいると思い込み、それゆえに輪廻しているかのように見える。また、世界は幻影であるが、無明ゆえに、世界があるように認識していると教えます。

世界を認識している自己・「私」は体でも心でもなく、認識の主体であると教えます。認識の客体が世界であり、体であり、心です。認識の主体は、眼がみずからの眼を見ることができないように、刀がみずからを切ることができないように、みずからを認識することはできないと教えます。

こうした説明においても、自己は「自己反省的」「自己完結的」であるがゆえに、それを直接知ることはできないという説明が繰り返し行われます。

私が図書館で借りた本の中では、この方の解説が一番わかりやすいと思うし、説明も平易な言葉でされていると思います。でも、一番かんじんな、「自己反省的」「自己完結的」がよくわからない。

私なりに解釈すると、主体としての自己「私」は認識主体であるがゆえに、それを認識することはできない。でも、「私」は認識の客体となる身体、心、世界を認識している。認識しているということは、必然的に、それを認識している主体(自己)がいるということ。それは自明のこと。それを、「自己反省的」「自己完結的」というのだと思います。

そして、ブラフマンも客体として認識することはできない。ということは、ブラフマンは認識の主体であるということ。ブラフマンもアートマンも両方とも認識の主体。認識の主体が二つ別々に存在することはありえない。ということはブラフマンとアートマンは一つのものであるということになる。

ゆえに、ブラフマン=アートマン=自己=本当の私

この、「ウパディーシャサーハスリー」散文編では、シャンカラと弟子との対話がストーリー仕立てになっていて、弟子の質問に対してシャンカラが順番に答えてゆき、最後に弟子は完全な理解へと到達します。そこには、エンライトメントや覚醒の要素はありません。あくまでも対話による理解が前提となっています。また、シャンカラは修行や瞑想もすすめていません。

参考文献

インドの「一元論哲学」を読む―シャンカラ『ウパデーシャサーハスリー』散文篇 (シリーズ・インド哲学への招待) 
第5巻 シャンカラの思想 (新装版 インド哲学思想) 
シャンカラの哲学〈上〉―ブラフマ・スートラ釈論の全訳 (1980年) 
シャンカラ派の思想と信仰 
人と思想 179 シャンカラ 
シャンカラ―原典、翻訳および解説

中村元先生がシャンカラについて語ってみえます。自己とは何かについて。 

2021/09/16

セイラーボブの新刊(英語版)が出版されました。

ペーパーバックが2134円、キンドル版が999円です。カットとボブの共著となっています。

今日届いたばかりでまだ少ししか読んでいません。読んだらまた感想を書きますが、366ページもあって書体が小さいので、読むには時間がかかりそうです。

内容は、200のキーワードにまつわるボブの数行のコメント(ポインター)があり、それぞれのコメントのあとにカットの比較的長い解説文が続きます。キーワードによっては、カットの解説だけのものもあります。詳しくはアマゾンの試し読み機能で見てください。

本の形式としては、セイラーボブの発言に他の人が解説するという点で、「living Reality」に似ていると思いますが、カットがポーランド出身であるため、「living Reality」の英語より理解しやすい気がします。

この本の利点は、生活をともにするカットがセイラーボブと共著で書いたものであるため、信頼性が高いということ。また、決してわかりやすいとは言えないボブのコメントをわかりやすく解説してくれている点にあると思います。(まだ全部を読んでいないのでどれくらいわかりやすいかは正確には把握していません)

しばらく先になるかと思いますが、全部読み終わったら、また感想を書きます。(2021.10.02 追記:感想はこちら

本の紹介のため、アマゾンのサイトにあるこの本の紹介文を、無料自動翻訳 Deeplのサイトにコピペして自動翻訳したものをそのまま掲載しておきます。

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ノンデュアリティ・スピールは、ボブの45年に及ぶ(信じられないほど効果的で実りある)指導の中で進化してきました。この本には、たくさんの深く深遠な記述が含まれており、それはまるでバッグいっぱいに詰まったヒントのようです。これらのアドバイスのうち、たった一つでも、深く聞いて、見て、感じて、理解することができれば、十分です。ボブの師であり友人であるニサルガダッタ・マハラジが言うように、たった一つのシンプルなアドバイスでも、熟した求道者を「さらなる助けを必要としない」状態にすることができるのです。

しかし、この本は、ボブの素晴らしい講演をただ記録したものではありません。200以上のキーワードの中から、「あなたの」ポインターを見つけることができるかもしれません-あなたの心に響く、真実を感じる1つまたはいくつかのキーワードを。また、ここには多くの実験や演習、ボブの指示に従って成功した人々の個人的な物語の例も含まれています。ご要望にお応えして、お名前を一部変更させていただきました。

セイラー・ボブの頭文字はSから始まります:SはSeeming Separate SelfまたはStopping Spiritual SearchのSは、ある人にとっては素晴らしいリマインダーかもしれませんが、他の人にとっては何の意味もないかもしれません。また、「S」は「空」や「宇宙」を意味しており、より自分の心を揺さぶると感じる人もいるでしょう。私たちはそれぞれに異なる個性を持っているので、同じ曲には共鳴しません。すべての鳥はそれぞれ異なる歌を持っていますが、すべての歌は同じ生命力の表現なのです。

それぞれの文字の下には多くの選択肢があり、必要に応じて頭字語が使えるようになっています。この(あるいは他の)言葉遊びを自由に遊び、解きほぐし、自分なりの拡張をすることで、すべてのポインタが言語を超えてあなたを故郷に連れて行ってくれます。

何度も何度も読んでいるうちに、共鳴が起こり、より多くのポインタがあなたの心を開くでしょう。ボブは、繰り返し聴いたり、読んだりすることで、新しい注意の習慣が、一見すると旅をサポートするように提案しています。真実への愛が強くなり、偽りを放棄する準備ができてくるかもしれません。
しかし、本当の犠牲は必要ありません。死ぬべきものは決して生まれなかった。旅には期間も目的地もなく、今すぐにでも終わりを見ることができます。そして、今がその唯一の機会であり、終わりを迎えるのです。そうは言っても、もしあなたがまだ時間を信じていて、その時間の多くを求めることに投資しているなら、ある種の取り消しが必要かもしれません。軽やかに、楽しくやりましょう。

最後には(今であれば)、あなたは指摘のすべてのパラドックスを見抜き、言葉のすべての限界を理解するでしょう。今のところ、地図は決して領土ではなく、言葉は決してそれが表すものではない、と言えば十分でしょう。猫」という言葉は、猫そのものではありません。猫の写真でさえ、猫そのものではありません。だから、どうか行間を読んでください。理由よりも感覚を探してください。説得力のある議論ではなく、生来の共鳴を探してください。結局、言葉を覚える前の赤ん坊の頃にすべてを知っていたのだから、すべては再認識(再び認識すること)であり、失われなかったものを見つけることなのだ。結局のところ、それは自然な状態であり、常に存在する「普通の認識」なのです。

言葉では表現できないものを表現しようとするこの明白な旅では、言語は私たちを遠ざけます。だから、すべてのパラドックスを笑い飛ばしましょう。

セーラー・ボブは、私が掲載した多くの引用文の一つ一つを承認してくれました。また、私にとって初めての読者である彼は、非常に寛大で肯定的なフィードバックをくれました。しかし、私の夫である彼の評価は完全に客観的であるとは言えません。この本が、今あるもの、そして永遠にそうであったものにインスピレーションを与え、思い起こさせるという目的を果たすことを心から願っています。

Bob: 自分の概念を捨てて、空っぽの状態で来てください。頭ではなく、心で聞いてください。あなたは無意識にそれを知っている、あなたはすでにそうなのです。

2021/09/11

アドヴァイタとは シャンカラ①

仏教の唯識のことを書くために、まずインドで仏教が生まれた背景を知ろうとしてバラモン教の経典(世界の名著 (1) バラモン教典 原始仏典  (中公バックス)(この本自体はアドヴァイタについてだけ書かれたものではなく、数人の著者がそれぞれバラモン教の経典について書いたものを編集したもの)を読んだところ、その中にシャンカラが書いたとされる、「不二一元論 ブラフマ・スートラに対するシャンカラの注解 二・一・十四、十八」というもの見つけた。

シャンカラとは

シャンカラはアドヴァイタ・ヴェーダーンタ哲学の教義を強化した最初の哲学者、不二一元論派の創始者と言われている。八世紀前半に南インドで生まれ、哲学者としては不二一元論(アドヴァイタ)の開祖、宗教家としてはスマールタ派の開祖。幼くして父を亡くし、ヴェーダを学習し、世を捨てて出家して遍歴行者としてインド諸地方を遍歴。多数の著書を著し、インド各地でいくつかの学院を創立し、最後に北インドで32歳(または38歳)で亡くなったと伝えられる。シャンカラ物語(伝説)も参考に読んでみてください。

「不二一元論 ブラフマ・スートラに対するシャンカラの注解 二・一・十四、十八」は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派の学匠シャンカラが書いた「ブラフマ・スートラ注解」の一部を抜粋翻訳したもの。ページ数にすると、46ページしかない。

「ブラフマ・スートラ」はアドヴァイタ・ヴェーダーンタ学派の学説綱要書であり、アドヴァイタとは何かを説いたものだが、その解釈が難しいため、シャンカラが注釈をつけて説明したもの。「不二一元論」とは、あらゆる限定をこえたブラフマンが唯一の実在あり、多様な現象世界は無知によって作り出された幻影にすぎないという思想であり、それがシャンカラの主張。

「不二一元論 ブラフマ・スートラに対するシャンカラの注解」がどんなものか、書き出しを引用します。

1 ブラフマンと現象世界との本質的同一性

『ブラフマ・スートラ』二・一・十四 それら(万物の原因であるブラフマンと、その結果としての現象世界と)は、別のものではない。(天啓聖典に述べられている)「(ことばによる)補足」という語が典拠となるから。

(これに先行する定句二・一・十三においては、ヴェーダーンタ学派ブラフマン一元論に対する、二元論者からの反論があげられた。もしも、物質世界の質料因と精神原理との区別を認めず、ブラフマンが唯一の世界原因であると主張するならば、精神的存在者である経験の主体と、経験の対象となる非精神的存在物とは、いずれもブラフマンの変容として同質のものとなるから、両者は区別されないということになるであろう、というのがその反論の内容であった。そして、同じ定句のなかに、『ブラフマ・スートラ』の作者によって)慣習的な、経験の主体、経験される対象といった(概念上の)区別を認容したうえで、
(経験の主体と経験される対象との区別は、われわれの学説に従っても)ありうる。日常生活おいて(認められる事実)のように
と、(その論議に対する)反駁が述べられた。

 しかしながら、この(習慣的に認められている概念上の)区別も、究極的な立場からみれば存在しない(ということを、定句二・一・十四は明らかにする)。なぜならば、原因と結果の両者は、(究極的には)別のものではないと理解されるからである。(ここにいう)結果とは、虚空など(の諸元素)から成る、多種多様に分かれた世界のことであり、原因とは、至高の(存在者としての)ブラフマンである。結果は、究極的な立場からみれば、その原因とは別ではない、…(原因から)独立には存在しないと理解されるのである。

 どのような論拠によって、(右のように理解されるの)であろうか。…(天啓聖典に述べられている)「(ことばによる)補足」という語は、(天啓聖典のなかで、)まず、一者を認識すれば万物が認識されるということを立証すべき命題として提示したのち、喩例を必要とした際に述べられている。
 愛児よ、たとえば一個の土塊によって、すべての土から成るものは知られるであろう。…(土からなる)変容物は、ことばによる捕捉、(単なる)名称である。ただ土である、ということのみが真実である(『チャーンドーギャ』六・十四

と。その趣旨は次のとおりである。…一個の土塊が、究極的な立場から、土そのものとして知られるならば、壺・皿・釣瓶などといったすべての土でつくられたものも、土をその本質とするという点で(土塊と)異ならないのであるから、知られたことになるであろう。したがって、「変容物は、ことばによる捕捉、(単なる)名称である」…壺・皿・釣瓶などという変容物は、単にことばによってのみ「ある」と捕捉される。しかしながら、実際には、変容物というものは実在しない。なぜならば、それはただ名称にすぎない虚妄のものであり、「土であるということのみが真実である」から。…このことがブラフマン(と現象世界との関係)に関する喩例として(天啓聖典のなかに)述べられているのである。

この文章を理解できますか? 私は理解力が良い方ではないが、並外れて悪いとは思っていません。でも、これを読んでも、理解できない。なんとなくはわかる。「原因と結果は別のものではない」とか、「言葉によって分別しているにすぎない」と言っているのはわかる。セイラーボブが、「水と氷と雲は同じもの」という例えを使うのを思い出す。

こんな調子でずっと続きます。まったくちんぷんかんというわけではなく、なんとなくは理解できる。でも、なんとなくでは意味がない。

この世の万物はそれ(最高実在)を本質としている。それは真にあるものである。(『チャーンドーギア』六・八・七)
と、唯一者である第一原因(「有」すなわちブラフマン)のみが真にあるものであることが確信され、他方には、
 それはアートマンである。シヴェータケートゥよ、おまえはそれである(『チャーンドーギャ』六・八・七
と、経験的個我がブラフマンであることが教示されているからである。

要するに、天啓聖典(ヴェーダ)の中で、おまえはブラフマンであり、アートマンであると言っているからそうなのだ、と言っています。全編にわたってこの調子で続きます。なんとなくわかる、でもすっきりしない。

1500年も前の聖典を読むとはそういうことかもしれません。誰かがもっとくわしく説明してくれないと理解できない。

ネットで調べてみると、シャンカラが書いたとされる別の聖典、ウパデーシャ・サーハスリー―真実の自己の探求 (岩波文庫)というものがあったので、今度はそれを図書館で借りてきて読んだ。

「ウパディーシャ・サーハスリー」は韻文編と散文編から成り、韻文編はシャンカラの主張と他者への批判について、散文編は師が弟子をいかにして悟らせるかについて書かれている。

読んだ感想を先にいうと、「まえがき」はよくわかるど、本編は「なんとなくわかる」レベル。まったくお手上げということはないけど、アドヴァイタのことをブログ上で説明しようとしている以上、アドヴァイタとは何なのかをはっきり理解できて、大半の文章を明確に理解できないのなら、だめだと思います。

参考になると思われる個所を引用しておきます。

訳者まえがき(p3)より

 シャンカラの哲学が目指しているのは、仏教やその他のインド哲学諸体系と同様に、輪廻からの解脱である。この解脱を達成する手段は、宇宙の根本原理であるブラフマン(Brahman 梵)の知識を得ることにほかならない、とかれは繰り返し主張している。シャンカラによれば、自分自身のうちにある自己の本体、すなわちアートマン(Artman 我)が宇宙の根本原理ブラフマンと同一であるという心理を悟ることが、解脱への道であるというのである。これは、シャンカラの独創的な思想ではない。幾世紀にもわたる多数のインドの哲人たちの思索活動を背景に、今からおよそ2500年くらい前に、バラモンの根本経典であるヴェーダ聖典の終結部を形成する「ウパニシャッド」の思索家たちが到達した梵我一如の心理にまで遡る思想である。確かにシャンカラは、『ウパディーシャ・サーハスリー』において、しばしばウパニシャッドから成句を引用し、ウパニシャッドの趣旨を明確にしようとしている。このような意味において、この作品は、詳しくは『全ウパニシャッドの精髄であるウパディーシャ・サーハスリー』と呼ばれているのである。

 シャンカラは、再三再四、われわれのうちにあるとされる自己の本体アートマンと、宇宙の根本原理ブラフマンとが、同一であると説いている。しかし、現実の人間存在を直視するとき、当然のことながら、この欠点だらけの死すべき人間が、この苦しみ悩む自己が、果たして無苦・無畏・不変・不滅・不老・不生・不死・不二などといわれる完全無欠なブラフマンと同一であり得るのか、という大きな疑問の壁に突き当たって、シャンカラの教えを受け入れることは非常に困難である。

シャンカラの努力は、輪廻のなかにあって解脱を求める者に、この受け入れ難い真理をいかに理解しやすく、かつ効果的に説明し、教えるかということに注がれたのである。疑うことの出来ないウパニシャッドが、「君はそれ(=ブラフマン)である」といっているのに、われわれはそれをなかなか理解することが出来ない。それは、「君」という言葉の意味を正しく理解していないからである。換言すれば、われわれが本来の自己を見失っているからである。本来の真実の自己とは何か、これこそシャンカラがその弟子たちに徹底的に理解させようとしたことであった。

 シャンカラの門を叩くものに、シャンカラが最初に発する質問は、
「君は誰ですか」
である。シャンカラ当時の、普通の弟子の場合には、この質問に対して、
「私はこれこれしかじかの家系のバラモンの息子でございます。私は、もと学生で…でございましたが、いまはパラマハンサ出家遊行者でございます。生・死という鰐(わに)が出没する輪廻の大海から脱出したいと願っております。」(『ウパディーシャ・サーハスリー』二・一・十)という返答をする。そこでシャンカラは、この常識的な返答を手掛かりに、その弟子の、自己理解が誤りであることを鋭く指摘し、弟子を真実の自己の探究へと誘うのである。

シャンカラによれば、「私はこれこれしかじかの家系のバラモンの息子でございます」ということは、バラモンという階級や家系などをもっている身体と、そのようなものを全く持たない本来の自己であるアートマンとを同一視している結果として生まれた誤った表現にほかならない。シャンカラは、このような常識的な自己理解を否定し、全く新しい真実の自己の世界へと弟子を導き入れるのである。
 ちなみに、シャンカラの伝記(マーダヴァ作『シャンカラの世界征服』14世紀)によると、ゴーヴィンダに師事するに際して、師が幼いシャンカラに同じ質問をしたとき、かれは
「先生、私は地でもなく、水でもなく、火でもなく、風でもなく、虚空でもなく、それらの属性のいずれでもない。私は、感覚器官でもなく、統覚器官でもない。私はシヴァ神である。」
と答え、師を大変に喜ばせたという。

 地・水・火・風・虚空は、いわゆる五大元素であり、われわれの肉体はこの五大元素から成っている。しかしシャンカラは、自分が肉体や、その属性ではなく、感覚器官でもなく、さらにその内奥にあり、アートマンのごとくに顕れる自我意識の主体の統覚機能でもない。自分はほかならぬシヴァ神そのもの、すなわちブラフマンそのものである、と答えたと解される。

ではなせわれわれは真実の自己を見失って、自分自身を、「これこれの家系のバラモンの息子です」などといって、カーストとか、家系とかをもった身体と見做すことになるのであろうか。これを説明するために、シャンカラは無明(むみょう・無知)を観念を導入した。かれによれば、無明とは、Aの性質をBに付託することである。付託とは、以前に知覚されたAが、想起の形でBに顕れることである。たとえば、薄明のとき、森のなかで縄を蛇と間違えてびっくりすることがあるが、これは過去に知覚したことのある蛇を、目の前にある縄に付託するためであるといわれる。こうような付託が無明である。

 ブラフマン=アートマン以外の一切の現象的物質的な世界は、われわれの身体・感覚器官はもちろんのこと、一般に精神活動の中枢をなしていると考えられている統覚機能(心)に至るまで、真実のアートマン、すなわちブラフマンに対して誤って付託されたものにすぎない。したがって、人間をブラフマンとは全く異なる存在であるかのように見せている非アートマン的要素はすべて、無明の産物であり、あたかもマーヤー(幻影)のように存在しない。したがって、ブラフマンとアートマンは全く同一である、とシャンカラは説いている。かれのこの立場は不二一元論(Adavaita)と呼ばれる。

韻文編

五 輪廻の根源は無知であるから、その無知を捨てることが望ましい。それゆえに、[ウパニシャッドにおいて、宇宙の根本原理]ブラフマンの知識が述べられ始めたのである。その知識から至福(=解脱)が得られるであろう。p18

十八 無明が[ひとたび]正しい知識根拠によって除去されてしまったならば、どうして再び生ずることが出来ようか。なぜなら[無明は]無差別・絶対の内我(=内在するアートマン)には存在しないかれである。p21

十九 もし無明が再び生じないならば、「私は有(=ブラフマン)である」という認識があるのに、[私は]行為主体である」「[私は]経験主体である」という観念がどうして生ずることがありえようか。それゆえに知識は補助するものをもたないのである。p21

五 身体がアートマンであるという観念を否定するアートマンの知識をもち、その知識が身体はアートマンであるという[一般の人々がもっている]観念とおなじほどに[強固な]人は、望まなくても解脱する。p27

二六 [アートマンは]みずから輝く知覚であり、見であり、内的な有であり、行為をしない。[アートマンは]触接的に認識され、一切のものの内にある目撃者であり、観察者であり、永遠であり、属性をもたず、不二である。p132

四六 縄が[存在する]ために、蛇が[縄と蛇とを]識別する前には、存在する[かのように見える]ように、輪廻も、実在しないとはいえ、不変のアートマン[が存在する]ために、[存在するかのように見えるのである]。p137

韻文編の中には、読みようによっては、非二元のことを説いていると思えるものもある。例えば、p37より

第10章 見

一 見(=純粋意識)を本性とし、虚空のようであり、つねに輝き、不生であり、唯一者であり、無垢であり、一切に遍満し、不二である最高者(ブラフマン)ーーそれこそ私であり、つねに解脱している。オーム。

二 私は清浄な見であり、本性上不変である。本来私には、いかなる対象も存在しない。私は、前も横も、上も下も、あらゆる方角にも充満する無限者であり、不在であり、不生であり、自分自身に安住している。

三 私は不生・不死であり、みずから輝き、一切に偏在し、不二である。原因でも結果でもなく、全く無垢であり、つねに満足し、またそれゆえに解脱している、オーム。

上記の一節は、読みようによってはセイラーボブの言っていることとかなり似ているような気がします。ただ、千年以上前の聖典を翻訳したものであり、これを理解するのは容易ではない気がします。解説が欲しいところです。

散文編は、師と弟子との想定問答の形式で書かれていて、師が弟子を理解へと導くよう対話が展開し、最後に弟子は理解へと到達し、輪廻から解脱します。

散文編は、韻文編よりも少しわかりやすい。翻訳してあるものの、詳しく解説されているわけではないので、はっきりとは理解できません。残念ながら、市の図書館にあるシャンカラ関連の本はこの二冊しかない。シャンカラが言っていることをはっきりと理解できなければ、アドヴァイタを理解したことにはならない。

もっと易しく書かれた解説書はないだろうかと考えて、アマゾンで検索したが、シャンカラ関連の本は高いものが多くて手が出ない。名古屋にある図書館で蔵書検索をしたところ、愛知県図書館に何冊かシャンカラ関連の本があるということがわかった。しかも、登録さえすれば誰にでも貸してくれるという。愛知県図書館まで行って借りることにした。

シャンカラ Wikipedia

参考文献

世界の名著 (1) バラモン教典 原始仏典  (中公バックス)
ウパデーシャ・サーハスリー―真実の自己の探求 (岩波文庫)

2021/09/04

アドヴァイタとは (梵我一如)

アドヴァイタとは、ヒンドゥー教の中の一つの学派の、「二つではない」(ad=ではない、vaita=二つ)という思想のこと。個人としての魂(アートマン)と宇宙を支配する原理としての神(ブラフマン)が二つあるのではなく、それらは一つのものであるという思想のこと。

多くの人が、アドヴァイタ=非二元だと思っているが、そうではない。非二元という思想の中の一つとしてアドヴァイタがある。

「不二一元論(ふにいちげんろん、サンスクリット語: अद्वैत वेदान्त、Advaita Vedānta、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、Kevalādvaita)とは、インド哲学・ヒンドゥー教のヴェーダーンタ学派において、8世紀のシャンカラに始まるヴェーダンタ学派の学説・哲学的立場である。これはヴェーダンタ学派における最有力の学説となった。不二一元論は、ウパニシャッドの梵我一如思想を徹底したものであり、ブラフマンのみが実在するという説である」Wikipedia 不二一元論より)

「梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。」Wikipedia梵我一如より)

アドヴァイタについて、不二一元論をWikidediaで読んでも、イマイチよくわからない。英語版でAdvaita を読むと、もっとややこしい。

アドヴァイタとは、もともとはバラモン教(のちのヒンドゥー教)にあった梵我一如の思想を8世紀のインドの哲学者シャンカラが大成させた哲学体系のこと。梵我一如、シャンカラについて、もう少し詳しく調べてみることにした。そこでまずは、ヴェーダのウパニシャッドの梵我一如思想の思想というものを調べて、そのあとでシャンカラについても調べることにしました。まずはインドの歴史から。

およそ紀元前2000年ごろ、現在のパキスタンのインダス河流域にインダス文明が栄える。その後、およそ紀元前1500年ごろ、北方よりインド・アーリア人が侵入して、原住の人々を征服して一帯を支配し始める。支配する過程で、宗教、祭式をつかさどる僧侶(バラモン・婆羅門)を最上位の階級に置き、祭祀や式典のやり方を決め、それを伝承したヴェーダが生まれた。

バラモン教では、バラモンが祭祀をすることによって人々の願いを神に告げ、神によって人々の願いがかなえられる。祭祀儀式をしなければ幸せになることも、死後に天に生まれることもできない。その祭祀儀式のやり方を規定しているのがヴェーダ。

ヴェーダはインド・アーリア人が編纂したバラモン教の聖典群(哲学書)の総称で、神の言葉をリシ(仙人)が記録したものとされ、バラモンの人たちには絶対的な権威を持つ。ヴェーダという一冊の書籍があるわけではなく、長期間(およそ紀元前1200年から紀元前500年)にわたって成立した多数の書簡(初期には口伝された)の総称のことを指す。

翻訳されたヴェーダを読んでも、例えば聖書を読むようなもので、解説がなければ理解できないため、学者でもなければ、解説した本を読む以外にない。そもそも膨大なヴェーダの翻訳集(聖書みたいなもの)は、調べた範囲では日本では出版されていないため、学者が部分的に翻訳出版したものを読むしかなく、その解釈は学者の解説に頼る以外にないが、わかりやすいとは言えない。

時代背景

輪廻思想
インドの古代の人たちは、人間は肉体と霊魂でできているという、二元論を信じていた。物質である肉体は必ず滅びるが、物質ではない霊魂は永遠不滅で、次の生を求めてさまようものと考えた。肉体は大地にかえり、霊魂は天界に昇るとし、その人の生前の行いによって霊位が上下し、次に宿るべき肉体が決まると信じた、これが輪廻という考え方の基本。

バラモン教は、この輪廻思想をもとに、生前のその人の信仰の度合いによって決まる霊位、つまり次に生まれ変わる境涯を「天界」、「人間」、「畜生(ちくしょう)」、「餓鬼(がき)」、「地獄」の5種類とした。これを「五趣」、あるいは「五道」と呼ぶ。バラモン教では、この死後に関わる「五趣」の思想を、現世の社会階級にまであてはめていった。それがカースト制(ヴァルナ)。

カースト制
階級制度としてカースト制があった。

バラモン…最上位。宗教・祭式を司る。
クシャトリヤ…二番目。王侯・武人。
ヴィシャ………庶民
シュードラ……奴隷。
さらにその下にアウトカーストとしてのチャンダーラ。

カースト制では、いったんその階級に生まれると、生涯階級が変わることはない。
バラモン教を熱心に信仰し、徳を積むことで、次の人生では上位の境涯に生まれ変われるという希望はあったが、最下位のシュードラにはそれさえなく、シュードラは永遠にシュードラのままである
バラモン階級だけが神々に対して、ヴェーダ(聖典)にもとづく祭祀を通じて願い事をする力があると信じられていた。

ヴェーダの構成とウパニシャッド
ヴェーダには次の四種類があり、それぞれのヴェーダは膨大な数にのぼる。
リグ・ヴェーダ…………神々を祭場に招き、賛歌によって神をたたえるホートリ祭官のための賛歌。
サーマ・ヴェーダ………歌詞を一定の旋律にのせて歌うウドガートリ祭官のための歌詞。
ヤジュル・ヴェーダ……祭祀を行い、供物をささげるアドヴァリウ祭官が唱える歌詞。黒ヤジュル・ヴェーダと白ヤジュル・ヴェーダがある。
アタルヴァ・ヴェーダ…祭式全般を総監するブラフマン祭官に所属し、幸福を願ったり、他人を呪ったりするための呪詞。

上記四つのヴェーダは、各々次の四つの部分から構成される。
本集…………ヴェーダの中心部分でマントラ(賛歌・歌詞・祭詞・呪詞)を集めた部分。
ブラーフマナ(祭儀書)…本集に付属の散文。祭式の仕方や神学的説明。
アーラニヤカ(森林書)…森林の中で教えられる秘儀や式典の説明。
ウパニシャッド(奥義書)…哲学的部分。ヴェーダーンタ(終結部)とも呼ばれる。およそ紀元前500年ごろを中心に成立。インド哲学の源泉と言われ、ここにアドヴァイタのもととなる梵我一如の思想があるとされる。

バラモン教とヒンドゥ教
バラモン教 Wikidedia
ヒンドゥ教 Wikipedia

バラモン教とは、バラモン階級を中心としたヴェーダにもとづく宗教。ヒンドゥー教はバラモン教を基盤として発展したインドの民族宗教。広義にヒンドゥー教と言った場合はバラモン教を含んでいる。両宗教は西洋人が人為的に分類を分けただけで、インドの人たちはヒンドゥー教とは呼んでいない。ヒンドゥー教は本来インドにおける、イスラム教、仏教、ソロアスター教、ユダヤ教、キリスト教を除く、混沌とした宗教・文化の複合体による便宜的な呼称。

神々
バラモン教、ヒンドゥー教は多神教であり、数多くの神が信仰の対象となっている。バラモン教の時代にはヴェーダに登場する神々として、インドラ、ヴァルナ、アグニ、サラヴァティー、ブラフマーなどであったが、ヒンドゥー教においては、バラモン教では脇役的な役割しかしていなかったヴィシュヌやシヴァが重要な神となった。

インドラは帝釈天として、ヴァルナは水天、ブラフマンは梵天、サラヴァティーは弁財天として仏教経由で日本にもなじみがある。ただし、仏教における梵天はバラモン教におけるブラフマー(ブラフマン)とは同じではなく、仏教における梵天は神としての一人であるのに対して、バラモン教のブラフマーは全宇宙を司る絶対的な存在としての神である。

バラモン教ではやがて、ではいったい神を創造したのは誰かと考えるようになり、その思想が梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)へと発展していく。

バラモン教の教義
神々への賛歌『ヴェーダ』を聖典とし、天・地・太陽・風・火などの自然神を崇拝し、司祭階級が行う祭式を中心とする。そこでは人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる。人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める。転生輪廻(サンサーラ)は、インドのバラモン教の思想である。この教えによれば「人間はこの世の生を終えた後は一切が無になるのではなく、人間のカルマ(行為、業)が次の世に次々と受け継がれる。この世のカルマが“因”となり、次の世で“果”を結ぶ。善因は善果、悪因は悪果となる。そして、あらゆる生物が六道〔①地獄道、②餓鬼道、③畜生道、④修羅道(闘争の世界)、⑤人間道、⑥天上道〕を生まれ変わり、死に変わって、転生し輪廻する。これを六道輪廻の宿命観という。何者もこの輪廻から逃れることはできない。それは車が庭を巡るがごとしと唱える。Wikipediaより

さてここからが本題。輪廻から抜け出すためには、ブラフマンとアートマンが同一(梵我一如)であることを知らなければならない。つまり、宇宙の最高神である梵(ブラフマン)と、真の自己であるアートマンが同じものであるということを知らなければならない。そしてその方法はヴェーダの中のウパニシャドにある。そこで私はウパニシャドに関する本を何冊か読んだ。

ウパニシャドにおける解脱とは、梵我の本質を悟って、この本体と合一することである。「実にかの最高梵を知る者は梵となる」(ムンダカ3・2・9)。ただしここに「知る」というのは、経験的知識或いは学問上の知識を指すのではない。「無知を信奉する者は、あやめもわかざる暗黒に陥る。知(理性による知識)に喜びをもつ者は、さらに甚だしき暗黒に陥る」(イーシャー12)。無知に蔽われながら、みずから賢明にして学識ありと妄想するものは危い。解脱は普通の知・無知を超えた真知にまつほかほかなく、ここに、真知に到達する手段が問題となる。
ウパニシャッドの教えるところに従えば、感覚を制御し、欲望を絶ち、禁欲に服し、瞑想によって精神を統一し、思いを梵我のみに集中する修行がもっとも有効である。なんとなれば、欲望を離れたところに業の束縛はおよばないからである。
(インド文明の曙p171)

善因善果・悪因悪果を教えたウパニシャッドが解脱を志向する者に奨励したところは、ヴェーダの学習・禁欲・祭祀・布施・苦行・断食・五感の抑制を始めとして、古来インドで尊重されてきた徳目と大差がない。(インド文明の曙p173)

アートマンとブラフマンが何か、そしてそれが同じものであると知るためには、禁欲して瞑想して、知識ではなく、本当の知恵を体得する修行をしないといけないという。う~ん、それはちょっと無理。

本を読む程度では知識でしかなく、真の知恵とはならないかもしれませんが、アートマン、ブラフマン、梵我一如が何なのかを抜粋しておきます。また、アドヴァイタと関連しそうな個所も抜粋しておきます。

アートマン、ブラフマンの定義については、ヴェーダの年代や種類、解釈者によって一定ではなく、様々な解釈がある。

アートマン

アートマン(आत्मन् Ātman)は、ヴェーダの宗教で使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味する。真我とも訳される。Wikipediaより

アートマン(我・がと訳す、男性語)は、元来「気息」を意味し、生命の主体として「正規・本体・霊魂・自我」の意味に用いられた。前述のプラーナならびにプルシャと当初から密接な関係にあったが、次第に原義から遠ざかり、個人の本体を表す熟語となった。(インド文明の曙p162)

このアートマンは、われわれが日常生活において経験するような自我ではありません。われわれの感覚器官によって、見たり、聞いたり、言葉で表現したりすることができない、主観客観の二元対立を超越した、決して客体化されることのない存在です。したがってアートマンを、目の前にある本や机などのように、認識対象として認識したり、日常の言語によって表現することは不可能です。(インド哲学へのいざないp33)

要するに「アートマン」は、生きとし生けるものーー今日の知識で無生物と区別される生物ではなく、ヴェーダ時代の人の意識にとって生あるものーーの「いきいきとした」性質の根底にある何ものかをあらわす概念であって、生命力、寿命を意味する「アーユス」(ayus)に近似するが、力ではなく、また、「アス」や「プラーナ」とは区別されるが、親縁関係にあるものであった。(古代のインドの神秘思想p126)

アートマンすなわち我(が)とは、元来「気息」を意味し、生命の主体と目されては「生気」となり、総括的には生活体すなわち「身体」特に「胴体」となり、他人と区別しては「自身」となり、さらに内面的・本質的に解されて「本体・精髄・霊魂・自我」を意味するに至った。(ウパニシャッドp55)

ブラフマン

ブラフマン(ब्रह्मन् brahman)は、ヒンドゥー教またはインド哲学における宇宙の根理。Wikiipediaより

ブラフマン(梵・ぼんと訳す、中性語)とは元来祈祷の文句ならびにその神秘力を意味し、祭式万能の気運につれ、神を左右する原動力と認められ、アタルヴァ・ヴェーダおやびブラーフマナ文献においては、宇宙の根本的想像力の一名となった。バラモンが他の階級をしのぐのは、この神秘力を強度に備えていたからである。(インド文明の曙p161)

ブラフマン(中性語)すなわち梵とは、元来ヴェーダの賛歌・歌詞・呪詞、さらにその内に満つる神秘力、ヴェーダの知識およびその結果たる神通力を意味し、ヴェーダ神聖・祭式万能の信仰につれ、神を動かして願望を達する原動力と認められ、記述のごとく、アタルヴァ・ヴェーダおよびブラーフマナ文献においては、他の諸原理に伍して宇宙の根本的想像力の名となった。(ウパニシャッドp54)

「ブラフマンの原義については、このように見解がさまざまに分かれて、定説がない。ただ確実なのは、ブラフマンが祭式万能のブラーフマナ時代に、宇宙の最高原理、至高存在とみなされるに至ったことである。(古代インドの神秘思想p110)

梵我一如

梵我の本質を文字によって説明するのは至難のわざである。一にして一切、相対を離れ比類を絶した根本原理は、経験の世界を去ること遠く、原語も思考も到達し得ないかなたにある。これを積極的に描写しても、消極的に定義しても、有限の言語によって無限な実体を表現することはできない。種々な比喩が用いられ、さまざまな定義が提唱されているが、結局は日常の経験を超越した瞑想により悟証されるべきのである。次に一例として、チャーンドーギア・ウパニシャッド(三・十四)に含まれる「シャーンディリアの教義」を挙げる。

 ブラフマンは実にこの一切(宇宙)なり。(一)
 意より成り、生気を体とし、光明を形相とし、その思惟は真実にして、虚空を本性とし、一切の行作を包容し、一切の慾求を具備し、一切の香を有し、一切の味を有し、この一切に遍満し、言語なく、関心なきもの、(二)
 
 これおすなわち心臓の内部に存するわがアートマンなり。米粒よりも、或いは麦粒よりも、或いは芥子(
けし)粒よりもあるいは黍(きび)粒よりも、あるいは黍粒の中核よりもさらに微なり。これすなわち心臓の内部に存するわがアートマンなり。地よりも大に、空よりも大に、天よりも大に、これらの世界よりも大なり。(三)

 一切の行作を包容し、一切の慾求を具備し、一切の香を有し、一切の味を有し、一切に遍満し、言語なく、関心なきもの、すなわち心臓の内部に存するわがアートマンなり。これブラフマンなり。この世界を去りてのち、われこれと合一すべしと、(意向)あらん者には、実に疑惑のあることなし。シャーンディリアは常にかくいえり、シャーンディリアかくいえり。(四)

 根本原理は一切を包括し、一切に遍満し、極小にして同時に極大である点が強調されている。矛盾する表現によって相対観念を止揚する好例はイーシャー・ウパニシャッドに見いだされる。

 そは動く(同時に)そは動かず。そは遠きにあり、しかもそは近くきにあり。そは万有の中にあり(偏在性)、しかも万有の外にあり(超越性)。(五)

 しかし、万物をアートマンの中にのみ認め、万物の中にアートマンを認める者はもはや疑いをいだくことなし。(六)

 その人にありて万物がアートマンに帰一し終わりたるとき、かく分別する者にとり、そこにいかなる迷妄あらんや、いかなる悲憂あらんや、(アートマンの)独一性を認むる者にとり。(七)    (インド文明の曙p164)

「この我(が)は実に梵なり、認識よりなり、意よりなり、生気よりなり、眼よりなり、耳よりなり、地よりなり、水よりなり、風よりなり、虚空よりなり、光明よりなり、非光明よりなり、欲望よりなり、非欲望よりなり、瞋恚(しんい)よりなり、非瞋恚よりなり、法よりなり、非法よりなり、一切よりなる。(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド)(ウパニシャッドp62)

「梵は我なり」(ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド)(ウパニシャッドp58)

七「この微細なるものといえば、ーーーこの一切(全宇宙)はそれを本質とすものである。それは真実である。それはアートマンである。お前はそれである。(tat tvam asi タットバマシ)シュヴェータケートゥよ」(チャーンドーギャ・ウパニシャッド六・八)(インド哲学へのいざないp229)

どの本もこんな調子で原文や説明がつづくが、結局のところ、何だかよくわからない。もっとわかりやすい表現で常用漢字だけで説明してくれないと理解できない。

アートマンは客体化することのできない認識主体である。見ることの背後にある見る主体を、だれも対象化して見ることはできない。対象化されたものは、もはや真の主体ではない。したがってアートマンは、把捉されないもの、どのような述語によっても限定されないものである。ただ、「甲に非(あら)ず、乙に非ず」という否定的表現を用いる以外に、それを表示する方法はない。この「非ず、非ず」neti neti という表現は、ウパニシャッドにおける最も有名な言語の一つである。このようなアートマンこそは、個体における不滅不死のものであり、万物に内在する普遍者である。それは万物を内部から制御する「内制者」である。
日常経験は、見る者と見られるもの、聞く者と聞かれるものなどの二元性を前提としている。しかし万物がその本質においてアートマンにほかならないことを、真に人が知るとき、彼にとって二元性はなくなり、見ながら見ず、聞きながら聞かないという境地が開ける。二元性を越えて、彼は「アートマンそのものとなる」のである。このようにアートマンと合一した解脱の境地を、ヤージニヴァルキャは熟睡状態として説明する。眠りの浅い状態にあるとき、人はこの世を構成している物質の素材を用いて、目ざめているときに経験した世界に似た夢の世界を自らつくり出す。しかし熟睡状態に進むと、外界は消滅して、彼は完全な安息の境地に達するのである。
(世界の名著1バラモン教p24)

私にとってはこの説明は妙に説得力がありました。この夢の例えは他の本にも出てくるのですが、例えば、夢を見て、夢から覚めてから夢を思い出せるということは、夢を見ている主体が夢の中にいたということ。つまり、二元性の世界にいたということ。

ところが、熟睡状態の時は、夢を見る「主体」が消えてしまい、いわば非二元の世界にいるため、夢を見たのかどうかも、そこに自分がいたのかも、どういう状態だっとのかも思いだせない。それと同じで、アートマンとは何かと言葉で説明できるのならそれは二元的な視点に立っていることになり、真のアートマンではない。真のアートマンは非二元であり、そこに説明できる主体がいない以上、言葉で説明することはできない。

いずれにしても、ヴェーダの中は例え話ばかりで、具体的にアートマンやブラフマンが何であるかは書いてないし、それが同じものであることを知る具体的な方法(瞑想などの修行以外で)も書いてない。あなたはそれであるの繰り返し。それはそうならざるえない。非二元の本質を言葉では説明できないのと同じ。

原始インド社会、バラモン教の成り立ちについてもっと詳しく学びたい方は、佐々木閑:仏教とはなにか(YouTube)で学んでください。今回特に関係あるのは以下二回。


参考文献

2021/08/28

ネオ・アドヴァイタとは

アドヴァイタとはヒンドゥー教の中のヴェーダーンタ学派の思想、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(不二一元論)のことであるということを、前二回のブログで書きました。

その中で、ネオ・アドヴァイタという言葉が出てきました。セイラーボブはネオ・アドヴァイタなのかという疑問がわいたので調べてみました。結論を先に言うと、セイラーボブはネオ・アドヴァイタではないと思います。

日本語で「ネオ・アドヴァイタ」と検索してもWikipediaに出てこないので、英語版のWikipediaで「Neo advaita」と検索して出てきたものを翻訳掲載します。専門用語や人名の厳密な訳語を探すのは時間的な制約上難しいため、正確ではないということをご了解ください。

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Neo-Advaita (ネオ・アドヴァイタ)

ネオ・アドヴァイタとは、非二元論をともなうサットサングムーブメントと呼ばれ、準備段階の修行を必要とせずに、「私」または「自我」が存在しないということを直接認識することを強調する新宗教運動である。その教えは20世紀の賢者ラマナ・マハルシの教えに由来し、H.W.L.プンジャジ(パパジ)や何人かの彼の西洋人の生徒によって解釈普及したものであるが、マハルシ公認というわけではない。

これは、アーサー・バーズルイスによる直知説と呼ばれる、より大きな宗教的潮流の一部であり、西洋と東洋の両方の精神世界にルーツがある。西洋での影響としては、超絶主義や「ニューエイジの千年紀、自己啓発、自己療法」のような、秘教的な伝統に対するものがある。

ネオ・アドヴァイタは「アドヴァイタ・ヴェーダーンタの伝統的な言語や文化的枠組み」をほとんど使用していない。そのため、準備段階の修養が欠如しており、ネオ・アドヴァイタによって誘発されるエンライトメントの体験は表面的であると批判する人もいる。

目次(省略)

教え

ネオ・アドヴァイタの基本的な実践は、「私は誰か?」という質問による自己探索、または単に「私」または「自我」が存在しないということを直接認識することである。この認識は、アドヴァイタ・ヴェーダーンタにおけるアートマンとブラフマンが同一であるという認識、もしくは「形のない自己」を認識することと同じであるとされる。ネオ・アドヴァイタの人たちによると、準備段階の修養は不要で、経典や伝承の長期にわたる学習は必要ではなく、洞察だけで十分であるという。

ネオ・アドヴァイタ運動の主要な推進者の一人として知られているプンジャジは、この自己認識によって、カルマの結果による再生からの解放をもたらすと考えた。プンジャジによれば、「エンライトメントの後もカルマの影響は残っているが、エンライトメントした人はもはやカルマと同化することなく、それ以上のカルマを積むこともない」という。コーエンによれば、プンジャジは「自己実現は世俗的な行動とは何の関係もないと主張し、エゴを完全に超越することが可能であるとは信じてはいなかった」。プンジャジにとって、倫理的基準は二元性に対する二元論的な理解と個人が動作主であるという概念に基づいており、「非二元的な悟り」を示すものではなかった。プンジャジにとっての目標は自己実現であり、相対的な現実という幻想的な領域は最終的には重要ではなかった。

歴史

ルーカスとフローリーによると、ネオ・アドヴァイタの精神的なルーツはラマナ・マハルシであり、その教えと自己探求の方法は、北米のリベラルな精神的サブカルチャーと簡単に置き換わることができた。インド宗教に対する一般的な関心は19世紀初頭にまでさかのぼり、アメリカの超絶主義者と神智学協会によって活気づけられた。1930年代、ラマナ・マハルシの教えは、神智学者のポール・ブラントンが「秘密のインドでの捜索」で西洋にもたらした。アーサー・オズボーンに刺激されて、1960年代にバガワト・シンはラマナ・マハルシの教えをアメリカで積極的に広め始めた。

1970年代以降、アジアの宗教に対する西側の関心は急速に高まっていった。 ラマナ・マハルシの教えは、H.W.L.プンジャジと彼の生徒たちを介して西側でさらに普及した。 パパジとしてよく知られているプンジャジは、「一回または多くの強力な目覚めの経験をしたという理由だけで、何百人もの人たちに対して、彼らが完全に悟りを開いたと告げ、彼らがそれを信じることを許した。ネオ・アドヴァイタ あるいはサットサングムーブメントは、人気のある西洋のスピリチュアルの重要な構成要素になっている。それはその教えに簡単にアクセスできるウェブサイトや出版企業によって広められている。

ラマナ効果

ルーカスは、西洋でのラマナ・マハルシの教えの普及を「ラマナ効果」と呼んでいる。ルーカスによれば、ラマナ・マハルシは、目覚めを達成するための手段として、「私は誰か?」という質問を強調することでよく知られている、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの最も偉大な現代の支持者だった。ルーカスによれば、この運動の成功はトーマス・ソルダスの存在に続いて、「携帯できる実践」と「転移可能なメッセージ」によるものだという。ラマナ・マハルシの主な実践である「私は誰か?」という質問による自己探求は、制度化されていない状況でも簡単に実践できる。彼の訪問者と信者は、自己探求を実践するために、ヴェーダーン文化を採用したり、制度やイデオロギーに自分を合わせたりする必要はなかった。ラマナの教えは西洋の状況に置き換え可能だった。ラマナ・マハルシは人々に改宗を要求せず、聖書から引用するなど、西洋の宗教に精通していた。ネオ・アドヴァイタの教師たちは、アドヴァイタの伝統的な言語と世界の枠組みをあまり重要視せず、現代の心理学化された世界の枠組みを利用して、より多くの聴衆が簡単にアクセスできる自助の形として、自らの教えを提示した。

西洋における言説

「アジアのエンライトメントの伝統」に対する西洋のアプローチは非常に折衷的であり、様々なアジアの伝統に加えて「心理学、科学、政治などの多数の西洋の言説」を利用している。 ネオ・アドヴァイタはその教えを伝えるために「ニューエイジの千年王国主義、禅、自己啓発、自己療法」などの西洋の言説を利用している。それは「アドヴァイタ・ヴェーダーンタの伝統的な言語や文化的な枠組み」をほとんど使わず、「その社会的、倫理的、政治的な側面を無視して」、西洋的な経験的・多年的な神秘主義の枠組みで構成されている。 この「現代的な経験的・多年的な神秘主義の枠組み」は、Perennialism(多年主義)、つまりすべての宗教には共通する神秘的な核があり、それは個人的な経験によって経験的に検証できるという考えに基づいている。これはアジアの宗教に対する西洋での理解に浸透しており、スワミ・ヴィヴェカナンダやサルヴェパリ・ラダクリシュナンのネオ・ヴェーダーンタに見られるほか、鈴木大拙の著作や禅宗の「decontextualized and experiential account 文脈を排除した経験的な説明」にも見られる。 また、神智学協会や、オルダス・ハクスリーの『多年哲学』や『知覚の扉』、ケン・ウィルバーのような作家に影響を受けた現代のニューエイジ文化にも見られる。

グレッグ・ラフッドはまた、アメリカの超越主義、ニューエイジ、トランスパーソナル心理学、ケン・ウィルバーの作品に例示されているように、「宇宙的異種交配、精神的な楽園が結びつくプロセス」の要素としてネオアドヴァイタに言及している。 ブラウンとレレダキはこの「異種交配」を「構造化主義」のアプローチと位置づけており、これは「歴史的な過去」との連続性を主張しているものの、「発明された伝統」であり、それは「ほとんど事実無根」であると指摘している。ブラウンとレレダキはこれらの新しく登場した伝統を西洋のオリエンタリズムの一部として捉えており、それは西洋文化が東洋文化に魅了されることであり、同時に「アジアの社会、その人々、慣習、文化を『他者』という本質主義者的なイメージに還元すること」でもある。 ブラウンとレダキはまた、このオリエンタリズムは一方通行ではなく、「過去150年の間、様々な宗教的伝統のアジアと西洋の代表者の間にはダイナミックな相互作用があった」とし、この「思想と実践の融合」は東西双方のモダニズムの宗教運動からの共創であると指摘している。

アーサー・ヴェルズリュイスによれば、ネオ・アドヴァイタは、彼が即席主義(直知説)と呼ぶより大きな宗教的潮流の一部である、「特定の宗教的伝統の中で、あまり準備的な練習をしなくても、すぐにスピリチュアルな啓示が得られると主張すること」である。 その起源はアメリカの超越主義に先立つものである。バーズルイスは『American Gurus: From Transcendentalism to New Age Religion』の中で、即席主義のグルたちの出現について述べている。即席主義のグルたちとは、伝統的な宗教とは一切関係なく、即座に悟りと解放を約束するグルたちのことである。 "ヴェルズリュイスによれば、即席主義は「宗教の果実は欲しいが、その義務はいらない」というアメリカ人にとって典型的なものである。 即席主義はヨーロッパの文化と歴史にそのルーツを持ち、プラトン主義にまで遡り、多年主義も含んでいるが、ヴェルズリュイスはその重要な祖先としてラルフ・ウォルドー・エマーソンを挙げており、彼は「即時的で直接的な精神的知識と力の可能性を強調していた」。

批判

ネオ・アドヴァイタは「物議を醸す運動」と呼ばれており、準備のための修行を省き、洞察のみに重点を置いていると批判されている。また、ラマナ・マハリシの「系譜」に言及していることも批判されているが、ラマナは弟子がいると主張したことはなく、後継者を指名したこともない。

洞察と実践

洞察だけでは不十分である

「自我という幻想」を見抜くことがネオ・アドヴァイタの主眼であるが、それだけでは不十分だという批判する者もいる。キャプランによれば、これらの教師や彼らのサットサングによって誘発されるエンライトメントの体験は、表面的なものだと考えられている。

修行が必要である

デニス・ウェイトによれば、ネオ・アドヴァイタは無知を取り除くと主張しているが、無知を取り除くための助けは提供していない。 キャプランによれば、伝統的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタは何年もの修行を要するが、ネオ・アドヴァイタはそうではない。古典的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタでは、生徒を鍛えてモクシャを得るために「四つの修行」(sādhana-catustaya)を用いる。何年にもわたる献身的な修行は、いわゆる「ヴァザナ、サムスカーラ、身体の鞘とヴリッティ」、「グランティまたは自己と心の間の識別を形成する結び目」といった「閉塞感」を断ち切り破壊し、非二元性への洞察のために心の準備するために必要とされる。

スピリチュアルな迂回

ジェフ・フォスターとアンドリュー・コーエンは、ネオ・アドヴァイタ・コミュニティの指導者たちが、感情的な痛みやトラウマの表現を精神的な未熟さを示すものとして排除する傾向があると批判しているが、これはスピリチュアル・バイパシング(精神的な回避)と呼ばれる行為である。二人とも、自分自身の洞察や「覚醒」によって、個人的でエゴイスティックな感情、願望、恐怖を持つ人間であることがなくなったわけではなく、そうしたことは、健全な精神的成長と相反するものではないと考えている。どちらも「スピリチュアル・バイパス」という言葉は使っていないが、コーエンは「ブレークスルーを生み出そうとする誤った努力」が一部の生徒に「多くの害」を与えたことを認めている。

系統

西洋の批評家たちは、ラマナ・マハリシとネオ・アドヴァイタの間にあると思われている関係に異議を唱えている。ラマナはいかなる系統(系譜)も口にしたことはなく、自らをグルと言ったことも、弟子がいると公言したことも、後継者を任命したこともない。にもかかわらず、ラマナの系統であると主張したり、示唆したり、あるいは他の人から言われたとする現代の教師たちが数多くいる。 また、ラマナやニサルガダッタ・マハラジのような志を持つ教師たちは、料金や寄付を請求しなかったことにも言及している。

反論

これらの批判に対して、トニー・パーソンズは、古典的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタは「多くの教えや文献を持つ既存の宗教の一つに過ぎず、その全てが非常に十分かつ一貫して的外れである」と書き、それは「最終的な精神的充足を約束する個人的な教化の多くのシステムの一つ」であるとみなしている。 パーソンズによれば、古典的なアドヴァイタ・ヴェーダーンタは、「エンライトメントすることができる独立した個人のようなものが存在するという根本的な誤解から生まれたものであるため、解放とは無関係である」と言う。彼によれば、それは一つであること(アドヴァイタ)に対する直接の否定であるという。

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セイラーボブは自らのことをアドヴァイタの系統の人だと言ったことはなく、ましてやラマナ・マハルシの系統の人であると言ったこともありません。また、プンジャジ(パパジ)のように、自らが「覚醒した」もしくは「何かを手に入れた」と言ったこともなく、エンライトメントや覚醒を説いたこともありません。そういう意味で言うなら、セイラーボブはネオ・アドヴァイタではないということになります。

ただし、古典的、伝統的アドヴァイタとの比較において、現代の非二元の語り部たちをひとまとめにしてネオ・アドヴァイタと呼んでいる人たちもいます。でも、自らをアドヴァイタの教えの継承者であると名乗らない非二元の語り部たちを、ひとまとめにしてネオ・アドヴァイタと呼ぶのは間違いだと思います。

前回のブログで出てきたパパジやガンガジはアドヴァイタの系列と言えるかもしれませんが、エックハルト・トールはそうではない。そもそも、ネオ・アドヴァイタという呼び方は一種の蔑称であり、好ましいものとは言えない。

Advaita Vision というサイトでは、現代の非二元の語り部たちも含めてアドヴァイタの語り部として掲載していますが、これは明らかに誤りであり、あえて扱うとするなら、Nonduality(非二元) というくくりで扱うべきだと思います。

ニサルガダッタ・マハラジがアドヴァイタの系統の人だったことは間違いないとは思いますが、セイラーボブはいかなるアドヴァイタの流派にも属していないと明言しています。

アドヴァイタの系統(系譜)ということ自体がナンセンスであり、信頼に値するものかどうかは別として、Advaita Vision にある系統図を掲載しておきます。なお、シャンカラを開祖とする伝統的なアドヴァイタ(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)は今でもいくつかの僧院がインドに存在し、シャンカラという名を代々受け継いだ人たちによって運営されています。

ニサルガダッタ・マハラジ、セイラーボブの系統

ラマナ・マハルシ、パパジの系統

シャンカラの系統

2021/08/21

Nondualism(非二元論)とは

英語版 Wikipedia で「Nondualism」を検索してみました。そこでは、日本語版の「一元論」よりも詳細な説明がされています。非二元論(Nondualism) という言葉は、アドヴァイタのことだけを指すのではなく、ウパニシャッド、アドヴァイタ、仏教、タオイズム(道教)、ゾクチェンなどの根底にある非二元の思想のことを指す。

英語版 Wikipedia の Nondualism(非二元論)にそのあたりが詳しく書かれているので、確認の意味を込めてを翻訳掲載しておきます。Wikipediaの記述を鵜呑みにしてよいのかという問題はあるし、記述が明快ではない部分もありますが、参考にはなると思います。

※この原稿は少し前に書いておいたのですが、ブログの更新にあたり元サイトを確認したところ、大幅に書き換えられていました。書き換えられたものは、かえって複雑でわかりずらいので、書き換え前のものをそのまま掲載します。

なお、一部の専門用語(宗教用語)や人名は辞書やネットで検索しても正確な訳語を見つけることができないため、原語のまま掲載します。

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Nondualism(非二元論)

スピリチュアルにおいて、非二元論、あるいは非二元は、「二つではない」あるいは「他には何もない未分割の一つのもの」という意味である。非二元とは元来、私と他者という二分法を「超越した」完成された意識の状態のことを指し、その時の意識は、「中心のないもの」「二分法のないもの」と描写される。この状態は自然に現われるように見えるかもしれないが、通常それは、禁欲や倫理的な禁止事項を伴う瞑想や瞑想的な訓練という長期の準備期間の後に起こる。(筆者注記:この、「現れる」「起こる」という表現には問題があると思います。現れもしないし、起こりもしないからです。理解が現れる、理解が起こると考えるなら、この表現でもよいと思います)

非二元の意識の描写は、ヒンドゥー教(アドヴァイタ、Turiya、sahaja)、仏教(空、pariniṣpanna、nature of mind、rigpa)、スーフィズム(Wahdat al Wujud、Fanaa、and Haqiqah) 、そして西洋のキリスト教や新プラトン主義(henosis, mystical union)の中で見つけることができる。

インドにおける非二元の思想は、ヴェーダとヴェーダ後のウパニシャッド哲学、仏教の伝統の中で発展した。インドにおけるもっとも古い非二元の痕跡は、仏教以前のBrihadaranyaka Upanishad and Chandogya Upanishadといったウパニシャッドの中に見られ、そこでは個人の魂であるアートマンと、究極の実在であるブラフマンとの一体を強調している。ヒンドゥー教において、非二元はより一般的にアジ・シャンカラのアドヴァイタ ヴェーダ-ンタの伝統と関連付けられてきた。

仏教の伝統において、非二元(advaya不二)は空(śūnyatā)の教えと、二つの教義、とりわけ、中論の非二元の教えである究極の相対的真実と、Yogachara( 唯識瑜伽行派)の「唯識」(citta-matra) 、すなわち「表象のみ」(vijñaptimātra)に関係している。こうした教えは仏性に関する教義とともに、その後、インドのみならず、東アジア、チベット仏教、とりわけ中国におけるChan(禅)と密教といった大乗仏教に大きな影響を及ぼす概念となった。

西洋の新プラトン主義は、キリスト教の観想と神秘主義の両方、そして西洋の秘教主義と現代の精神性、特にユニテリアン主義、超越主義、普遍主義、そして永遠主義の本質的な要素である。

目次(目次はその項目の個所にリンクが貼ってありますが、省略します)

1 語源
2 定義
3 ヒンドゥー教
 3.1 ヴェーダーンタ
 3.1.1 アドヴァイタ ヴェーダーンタ
 3.1.1.1 実在の 3 つのレベル
 3.1.1.2 仏教との類似点と相違点
 3.1.2 ヴィシュタドヴァイタ ヴェーダーンタ
 3.1.3 新ヴェーダーンタ
 3.2 カシミール・シヴァ派
3.3 現代の不二一元論
 3.3.1 ラマナ・マハルシ
 3.3.2 ネオアドヴァイタ
 3.3.3 ナータ・サンプラダヤとインチェゲリ・サンプラダヤ
4 仏教
 4.1 インド
 4.1.1 中観派
 4.1.2 唯識瑜伽行派の伝統
 4.1.3 その他
 4.2 東アジア
 4.2.1 中国
 4.2.2 禅
 4.2.3 韓国
 4.3 チベット
 4.3.1 Adyava: Gelugpa スクール Prasangika Madhyamaka
 4.3.2 シェントン
 4.3.3 ゾクチェン
5 シーク教
6 道教
7つの西洋の伝統
 7.1 ローマ世界
 7.1.1 グノーシス主義
 7.1.2 新プラトン主義
 7.2 中世のアブラハムの宗教
 7.2.1 キリスト教徒の観想と神秘主義
 7.2.2 ユダヤ教のハシディズムとカバラ
 7.2.3 イスラームにおける新プラトン主義
 7.3 西洋の秘教
 7.3.1 永遠の哲学
 7.3.2 オリエンタリズム
 7.3.3 超越主義とユニテリアン・ユニバーサリズム
 7.3.4 新ヴェーダーンタ
 7.3.5 神智学協会
 7.3.6 ニューエイジ
8 学術討論
 8.1 非二元意識と神秘体験
 8.1.1 開発
 8.1.2 批判
 8.2 共通の本質としての非二元的意識
 8.2.1 共通の本質
 8.2.2 批評
9 こちらもご覧ください
10 注意事項
11 参考文献
12 ソース
 12.1 公開されたソース
 12.2 ウェブソース
13 続きを読む
14 外部リンク
 14.1 中観派
 14.2 ラントンシェントン
 14.3 アドヴァイタ・ヴェーダーンタ
 14.4 アドヴァイタと仏教の比較
 14.5 ヘシカスム
 14.6 非二元意識

語源
非二元論に言及する場合、ヒンドゥー教は一般的にサンスクリット語の Advaita を使用するが、仏教は Advaya (チベット語: gNis-med、中国語: pu-erh、日本語: fu-ni) を使用する。

「アドヴァイタ」は、サンスクリット語の a (not)、 dvaita(二元論)、dual(二元的)に由来し、通常は「非二元論」、「非二元性」、「非二元」と訳される。 「非二元論」という用語と、その語源である「アドヴァイタ」という用語は、多様な意味を持つ言葉である。英語の nondualism の語源は、ラテン語で「2」を意味するduoで、接頭辞「non-」は「not」を意味する。

「Advaya」はまた、サンスクリット語で「アイデンティティ、ユニーク、二つではなく、一つもない」を意味し、通常、大乗仏教、特に中論の2つの真理の教義を指す。

アドヴァイタ(Advaita)という言葉の最も初期の使用の 一つは、Brihadaranyaka Upanishad (紀元前 800 年まで) の 4.3.32 節と、Mandukya Upanishad (紀元前 500 年から紀元前 200 年の間で書かれたとさまざまな日付がある) の 7 節と 12 節に見られる。この用語は、以下のように、アートマン (個人の魂) とブラフマン (普遍的な意識) の一体の説話を含むセクションのブリハダラーンヤカ ウパニシャドに現れる。

(ウパニシャドからの抜粋:省略)

英語の「Nondual」という用語は、1775年以降の英語以外の西洋言語でのウパニシャッドの初期の翻訳によっても知られた。これらの翻訳は、ミュラー (1823 年 - 1900 年) の記念碑的な仕事、東方聖典群集 (1879 年) から始まった。

マックス・ミュラーは、最近の多くの学者がそうであるように、「アドヴァイタ」を「一元論」と訳した。ただし、一部の学者は、「アドヴァイタ」は実際には一元論ではないと述べている。

定義
参照: 一元論、心身二元論、二元論的宇宙論、多元論 (哲学)。
非二元論はあいまいな概念であり、多くの定義を見つけることができる。

エスピン と ニコロフによると、「非二元論」は、ヒンドゥー教、仏教、道教の一部の学派における思想であり、一般的に言えば、宇宙の多様性は 一 つの本質的な実在に還元できると教えている。

しかし、古代から現代まで、さまざまなスピリチュアルや宗教の中に同様の思想や用語があるため、英語の「非二元性」という言葉の単一の定義では十分ではなく、様々な「非二元」や非二元の思想があるというのがベストであると思われる。

主体と客体の間の非二元性を道教、大乗仏教、アドヴァイタ・ヴェーダーンタの共通項として見ているデビッド・ロイは、「非二元性の5つの特徴」を区別している。

正反対のペアにおける二元的思考の否定。道教の陰陽のシンボルは、この二元論的な考え方の超越を象徴している。
一元論、世界の非複数性。現象世界は複数の「もの」として現れるが、実在としては「一枚の布」である。
アドヴァイタ、主語と目的語の非二元性、あるいは主体と客体の間の非二元性。
アドバヤ、現象と絶対の同一性、「二元性と非二元性の非二元性」、中観派仏教に見られる相対的かつ究極的な真理の非二元性と、二つの真理の教義。
神秘主義、神と人間との間の神秘的な合一。

非二元論の考え方は、通常、二元論と対比されるが、二元論は、宇宙と実在の性質が、神と世界、または神と悪魔、または心と物質などの二つの現実から構成されているという見解として定義されている。

非二元性の考え方は、西洋の宗教や哲学でも教えられており、現代の西洋のスピリチュアルとニューエイジの思想において、魅力と人気を博している。

非二元性に関連するさまざまな理論や概念は、さまざまな宗教的伝統で教えられている。これには次のものが含まれる。

ヒンドゥー教(英語版Wikipediaのヒンドゥー教にリンクが貼ってありますがリンクは省略します)
・ウパニシャッドでは、主に tat tvam asi (タットバマシ・汝それなり)という非二元論的な方法で解釈された教義を教えている。
・シャンカラのアドヴァイタ ヴェーダーンタ では、単一の純粋な意識が唯一の実在であり、世界は非現実的(マヤ)であると教えている。
・Kashmira Shaivismや女神を中心とした Shaktism を含むヒンドゥー教のタントラ の非二元論。彼らの見解はアドヴァイタに似ているが、世界は非実在ではなく、意識の現れであると教えている。
・主にアドヴァイタとラマナ・マハルシやスワミ・ヴィヴェーカーナンダのような現代のインドの聖人が教えるヒンドゥー教のモダニズムの形態。

仏教(リンク省略)
・Shūnyavāda (空観) または Mādhyamaka (中論)学派は、従来の真実と究極の真実、および輪廻と涅槃の間にもまた非二元関係がある (つまり、真の分離はない)という見解である。
・Vijnānavāda あるいはYogachara( 唯識瑜伽行派) は、主体と客体、すなわち認識者と認識されるものとの間に究極の認識的、概念的な分割は存在しないと考えている。それはまた、意識だけがあると主張して、心身二元論に反対している。
・すべての存在は仏になる可能性があるというタタガタガルバの思想。
・ヴァジュラヤナ仏教 、ゾクチェン とマハムドラのチベット仏教の伝統を含む。
・禅 や華厳宗などの東アジアの仏教の伝統、特に縁起の概念。

タオイズム(道教、老荘思想)(リンク省略)
タオイズム は、タオ (文字通り「道」) と呼ばれる単一の微妙な普遍的な力または宇宙の創造力の思想を教えている。

スブド(リンク省略)

アブラハムの伝統(リンク省略)
マイスター・エックハルトやノリッジのジュリアンなど、「非二元体験」を促進するキリスト教神秘家。このキリスト教の非二元論の焦点は、崇拝者を神に近づけ、神との「一体性」を実現することにある。

スーフィズム(リンク省略)

ユダヤ教のカバラ(リンク省略)

西洋の伝統
・すべての現実の源はただ一つ、一つであると教えている新プラトン主義。
・ヘーゲル、スピノザ、ショーペンハウアーなどの西洋哲学者 は、さまざまな形態の哲学的一元論やイデオロギーを擁護した。
・ドイツのイデオロギーとインドの宗教の影響を受けた超越主義。

神智学(リンク省略)

ニューエイジ(リンク省略)

ヒンドゥー教

「アドヴァイタ」とは、ヴェーダーンタ、シャクティイズム、シヴァイズムでは、非二元論、実在としての非分割、つまり、実在としてのアートマン (個人としての自己) とブラフマン (単一の普遍的な存在) の一体性を意味する。アドヴァイタという用語は、アジ・シャンカラのアドヴァイタ ヴェーダーンタ学派からのものが最もよく知られているが、「アドヴァイタ」は、多くインドの中世の学者だけでなく、現代の学派や教師の論文で使用されている。

ヒンドゥー教のおけるアドヴァイタの概念は、宇宙のすべてが本質的な一つの実在であり、宇宙のあらゆる側面、様相は一つの実在の究極的な現れであると説く。ダスグプタとモハンタによると、非二元論は、ウパニシャッドの時代から、ヴェーダと仏教の両方のインドのさまざまな思想の中で発展した。インド思想における非二元論の最古の痕跡は、初期仏教よりも前に遡るチャンドガ・ウパニシャッドに見られると言える。先部派仏教もまた、チャンドギャ・ウパニシャッドの教えの影響を受け、アートマン・ブラフマンに関連した形而上学の一部を拒絶した可能性がある。

アドヴァイタは、アドヴァイタ・ ヴェーダーンタ、Vishtadvaita Vedanta (Vaishnavism)、Sudhadvaita Vedanta (Vaishnavism)、非二元の シヴァイズム および シャクティイズムなどのヒンドゥー教のさまざまな学派において、微妙に異なるニュアンスをともなって現れる。アジ・シャンカラのアドヴァイタ ヴェーダーンタでは、アドヴァイタとはあらゆる実在はブラフマンと一体である、つまりはアートマン(魂、自己)とブラフマン(究極の不変の実在)は一体であると説く。
いくつかのヒンドゥー教の伝統のアドヴァイタの考えは、二元論やドヴァイタを擁護する流派とは対照的で、例えばマドヴァチャリヤは、経験された現実と神は二つ​​(二元的)で別個のものであると述べた。

ヴェーダーンタ
ヴェーダーンタのいくつかの学派では、非二元論の形式を教えている。最もよく知られているのはアドヴァイタ ヴェーダーンタであるが、他の非二元論のヴェーダーンタ派も重要な影響力を持ち、ヴィシュタードヴァイタ ヴェーダーンタやシュッダドヴァイタ などもあり、これらは両方とも bhedabheda (不一不異説)である。

アドヴァイタ ヴェーダーンタ
白鳥はアドヴァイタの重要な象徴。
アドヴァイタ ヴェーダーンタの非二元性は、ブラフマンとアートマンの同一性である。 アドヴァイタは、インドの文化と宗教の幅広い流れとなり、カシミール シヴァ派のようなその後の伝統に影響を与えた。

アドヴァイタ ヴェーダーンタの現存する最古の写本は、伝承によると、ゴヴィンダ バガヴァットパーダの師であり、アディ シャンカラの祖父と見なされてきたガウウィボリ ウアパーダ (西暦 6 世紀) によるものである。 アドヴァイタ は、アジ・シャンカラ (788-820 CE) の アドヴァイタ ヴェーダーンタの伝統から最もよく知られている。彼は、単一の統一された永遠の真実であるブラフマンは、純粋な存在、意識、愛・至福 (Sat-cit-ananda) であると述べている。

ムルティによれば、アドヴァイタとはブラフマンと自己意識(識者)に違いがないいという知識である。ヴェーダーンタのゴールは、「真に実在する」ものを知り、それと一体になることである。アドヴァイタ ヴェーダーンタによると、ブラフマンは究極の実在である。アドヴァイタ哲学によると、宇宙は単にブラフマンから生ずるのではなく、ブラフマンそのものである。ブラフマンは、宇宙に存在するすべてのものの多様性の背後にある単一の拘束力のある統一体である。ブラフマンは、すべての変化の原因でもある 。ブラフマンは「全世界で実現される創造的原理」である 。

アドヴァイタ の非二元論は、個人の「実在としての自己」、「本質」、およびヒンドゥー教の概念で魂を意味するサンスクリット語のアートマンの上になりたっている。アートマンは第一原理であり、 現象との同一化を超えた個人の真の自己であり、個人の本質である。アートマンは普遍的な原理であり、永遠の未分化な自ら輝く一つの意識であると、ヒンドゥー教のアドヴァイタ ヴェーダーンタ派は主張する。

アドヴァイタ ヴェーダーンタの哲学では、アートマンは自己存在的な意識であり、無限で非二元的であり、ブラフマンと同じであると考えている。アドヴァイタ派は、ブラフマンと完全に同一である各生命体の中に「魂、自己」があると主張している 。このアイデンティティは、その姿や形に関係なく、すべての生き物につながっていて、存在する一つの魂があるとする。その形や形に関係なく、区別はなく、優れたものも劣ったものも別の献身者の魂(アートマン)も別の神の魂(ブラフマン)もない。一つのものはすべての存在を統合し、すべての存在の中に神性があり、すべての存在は単一の実在であると、アドヴァイタ ヴェダンティンは述べている。アドヴァイタ ヴェーダーンタの非二元論の概念は、各魂は無限のブラフマンと異なるものではないと主張している。

(ここからは必要と思われる個所のみ翻訳します)

仏教との類似点と相違点

学者たちは、共通の用語と方法論、およびいくつかの共通の教義を考えると、アドヴァイタ ヴェーダーンタは大乗仏教の影響を受けたと述べている。 Eliot Deutsch と Rohit Dalvi は次のように述べている。

いずれにしても、大乗仏教とヴェーダーンタの間には密接な関係があり、後者は前者の特定の教義ではないにしても、弁証法的技法の一部を借用している。

アドヴァイタ ヴェーダーンタは仏教哲学に関連しており、二つの真理の教義や意識のみが存在するという教義 (vijñapti-mātra) などの考えを支持している。アドヴァイタの哲学者ガウダパーダが仏教の思想に影響を受けた可能性はある。シャンカラはガウダパーダの考えをウパニシャッドのテキストと調和させ、正統なヒンドゥー教の非常に影響力のある学派を発展させた。

仏教用語 vijñapti-mātra(唯識) は、citta-mātra (知)という用語と同じ意味で使用されることがよくあるが、それらは異なる意味を持っている。両方の用語の標準的な翻訳は、「意識のみ」または「心のみ」である。 アドヴァイタ ヴェーダーンタは学者によって「理想主義の一元論」と呼ばれてきたが、このラベルに同意しない人もいる。中観派とアドヴァイタ ヴェーダーンタの両方に見られるもう一つの概念は、ガウダパーダがナーガルジュナの哲学から採用した Ajativada ("ajāta"不生)である。ガウダパーダは二つの教義をMandukayaウパニシャッドに組み込み、それはシャンカラによってさらに発展した。

マイケル・コマンズは、仏教の思想とガウダパーダの思想との間には根本的な違いがあると述べていている。仏教には「あらゆるものには自性がなく、あるゆるものはその本質において空である」という縁起の教義を哲学的根拠としているのに対して、ガウダパーダにはそれが全くない。ガウダパーダのアジャティヴァーダ(不生論)は、本質的な性質(自性)を持つ「生まれていない(aja)実在(sat)が存在する」という不変の非二元的現実に適用された推論の結果であり、これは「永遠、恐れ知らず、衰えることのない自己」であり、朽ちることのない自己(アートマン) とブラフマンである。このように、ガウダパダはナガルジュナのような仏教学者とは異なり、その前提を受け入れ、ウパニシャッドの基本的な教えに頼っているとComansは言う。とりわけ、ヒンドゥー教のヴェーダーンタ派は、「アートマンは自明の真実として存在する」という前提を持ち、その概念を非二元論の理論で使用している。対照的に、仏教は、「アートマンは存在しないのは自明である」という前提を保持している。

マハデヴァンは、初期仏教がウパニシャッドの用語を採用し、その教義を仏教の目標に適合させたように、ガウダパーダが仏教の用語を採用し、その教義をヴェーダンタの目標に適合させたことを示唆している。どちらも、既存の概念とアイデアを使用して新しい意味を伝えた。ダスグプタとモハンタは、仏教とシャンカラのアドヴァイタ ヴェーダーンタは対立するシステムではなく、「ウパニシャッド時代からサンカラ時代までの同じ非二元的形而上学の発展の異なる段階」であると述べている。

ラマナ・マハルシ(リンク省略)

ラマナ・マハルシ (1879年12月30日-1950年4月14 日) は、現代の傑出したインドの指導者の 1 人として広く認められている。 ラマナの教えはしばしばアドヴァイタ ヴェーダーンタと解釈されるが、ラマナ・マハルシは「いかなる公認の権威からもディクシャ (イニシエーション) を受け取った」ことはない。 ラマナ自身は、彼の洞察をアドヴァイタとは呼ばなかった。

ネオ・アドヴァイタ(リンク省略)

ネオ・アドヴァイタは、アドヴァイタヴェーダーンタの現代的西洋的解釈、特にラマナマハルシの教えに基づいた新宗教運動。Arthur Versluis によると、ネオアドヴァイタ は、彼が即席主義と呼んでいる大きな宗教的潮流の一部である 。特定の宗教的伝統の中での準備的な実践なしで、即時のスピリツアルの成就を主張する。ネオ・アドヴァイタは、この即時性と準備の実践の欠如によって批判されている。著名なネオ・アドヴァイタの教師はHWL・プーンジャジ(パパジ)と彼の生徒のガンガジ、アンドリュー・コーエン、およびエックハルト・トール。

仏教

非二元すなわち「二つではない」(advaya 不二)に対応する仏教の見解にはさまざまなものがある。仏陀は、最も初期の仏教の経典ではアドバヤ(advaya 不二)という用語を使用していないが、維摩経のような大乗経典のいくつかには出てくる。仏陀はウパニシャッド思想で一般的に教えられている精神的統合状態のサマーディと瞑想的没我の状態のディヤーナを説いたが、ウパニシャッドの形而上学的な教義、特にヒンドゥー教の非二元と関連する様な教義、たとえば、「この宇宙が自己である」「すべては一つのものである」ということを拒絶した。このため、非二元論に対する仏教の見方は、理想主義的な一元論に向かう傾向があるヒンドゥー教の概念とは特に異なる。

インドにおいて
カメシュワル・ナス・ミシュラによれば、インドのサンスクリット仏典におけるアドバヤ(advaya 不二)の意味の1つは、それが2つの反対の極(たとえば永遠主義と消滅主義など)の中道を指しているがゆえに、「2つではない」ということです。

(以下、仏教の中観派 唯識瑜伽行派の伝統、ゾクチェンなど、興味深い項目が続くのですが、専門用語が多くて手におえないためここで終わりとさせていただきます。中観派、唯識瑜伽行派については、今後のブログに書く予定です

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繰り返しになりますが、非二元とはアドヴァイタのことではなく、さまざまな宗教、哲学の伝統伝承の中にある「二つではないもの」という思想のことです。世界中に仏教やアドヴァイタを源流としない非二元の思想があります。

私がこれから書こうとしているのは、仏教の中にある非二元についてですが、それは非二元の教え全体から見れば、ほんのごく一部にすぎないということがわかると思います。

私は学者でも僧侶でもなく、仏教の専門家でもないので、それぞれの教えを深く解説することはできませんし、そういう趣旨のブログでもありません。あくまでも、その根底にある非二元的な部分にのみ焦点を当てていくことになります。

2021/08/14

非二元とは

仏教について書こうとして、仏教は釈迦から始まるので、まずは釈迦が出てくる以前のインドの状況について調べようと思いました。釈迦以前のインドの宗教はバラモン教がメインとなっていたようなので、図書館に行ってバラモン教の経典 世界の名著 1 バラモン教典/原始仏典 を借りてきて見たところ、その中に「不二一元論」という見出しがあり、シャンカラという人が書いた「不二一元論 ブラフマ・スートラに対するシャンカラの注解 二・一・十四、十八」」という注解書があった。

「不二一元論」はアドヴァイタ・ヴェーダーンタのことであるということは知っていたが、はたしてそれが具体的には何なのかを知らなかった。アドヴァイタについては、セイラーボブの教えの根底にそれがある程度のことしか知らない。
調べてみると、シャンカラは8世紀のインドの哲学者で、アドヴァイタを大成させた人らしい。

そのシャンカラが書いたとされるのが「不二一元論 ブラフマ・スートラに対するシャンカラの注解」。仏教のことを書くより先に、まずアドヴァイタのことを書くべきだと思って書くことにしました。

「不二一元論(ふにいちげんろん、サンスクリット語: अद्वैत वेदान्त、Advaita Vedānta、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、Kevalādvaita)とは、インド哲学・ヒンドゥー教のヴェーダーンタ学派において、8世紀のシャンカラに始まるヴェーダンタ学派の学説・哲学的立場である。これはヴェーダンタ学派における最有力の学説となった。不二一元論は、ウパニシャッドの梵我一如思想を徹底したものであり、ブラフマンのみが実在するという説である」Wikipedia 不二一元論より)

「梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。」Wikipedia梵我一如より)

ちょっと乱暴な解釈をすると、ブラフマンというのはセイラーボブの言うアウエアネス(知性エネルギー)で、アートマンは自己(魂)。じゃあ、シャンカラの説くアドヴァイタやヴェーダの梵我一如がセイラーボブの説く非二元と同じなのか?

セイラーボブは、自らの教えの根底には、インドに古くから伝わるヒンズー教哲学のアドヴァイタ、チベット仏教の最高の教えであるゾクチェン、高度なキリスト教を基にしていると言っているが、伝統的なアドヴァイタのいかなる流派にも属していないと言っています。

セイラーボブは「アドヴァイタ」という言葉は使うが、「ブラフマン」「アートマン」「シャンカラ」という言葉を使ったのを聞いたことはありません。

私は今まで、非二元、アドヴァイタという言葉の定義をはっきりとブログに書いてこなかったので、ブログを再開するにあたり、一度そのへんをはっきりとさせようと思いました。

Wikipediaで「非二元」と検索しても出てこない。「アドヴァイタ」と検索すると、Wikipedia 不二一元論 が出てくる。ということは、アドヴァイタ=不二一元論ということはできるが、非二元=アドヴァイタではない。

Wikipediaで「非二元」と検索しても出てこず、代わりに「一元論」が出てくる。それによると、「一元論(いちげんろん、英: monism、仏: monisme、独: Monismus)とは一つの実体から現実が成り立っていると主張する形而上学の諸学説を指した用語である。

これに対応する反対の見解を示した学説に実在を二つに区別する二元論(dualism)や実在に対して数的な規定を行わない多元論(pluralism)がある。」となっている。

非二元論=一元論と言うことはできる(そうではないと言う人もいる)。非二元論(一元論)はアドヴァイタのことのみを指すのではなく、ヒンズー教、仏教、ユダヤ教、古代ギリシャなどにも同じ考え方があるという。

要するに、アドヴァイタは非二元の教えであるということはできるが、非二元とはアドヴァイタだけを指すものではなく、様々な宗教や哲学の根底にある教え、もしくは哲学であるということ。非二元の教えは、様々な成り立ち、伝統があり、必ずしもアドヴァイタが源となっているわけではない。

ニサルガダッタ・マハラジは、伝統的なアドヴァイタの一つの流派のグルから教えを学んでいるが、その教えは必ずしもシャンカラの教えそのものではない。それは例えば日本で禅を学ぶ場合、その源流は釈迦にあるとしても、それが釈迦の教えそのものとは言えないのと同じ。アドヴァイタにもたくさんの流派がある。

そして、セイラーボブは、自分でも言うとおり、彼独自の非二元の教えであり、アドヴァイタそのものの教えではない。そのため、ブラフマンは知性エネルギー(アウエアネス)と同じものだと軽々には言えない。

もしブラフマンが知性エネルギー(アウエアネス)と同じものだと言うのなら、その両方の教えに精通していなくてはいけない。アドヴァイタとは何なのかをもっと調べないといけない。


非二元論、アドヴァイタとは何かを確認する意味で以下を読んでみてください。
私の場合、その定義づけがあいまいで、はっきりと認識してこなかった気がします。

一元論Wikipedia(非二元論のこと)

不二一元論Wikipedia(アドヴァイタのこと)

シャンカラ

梵我一如

2021/08/07

セイラーボブの言葉(facebookより)

 Sailor Bob - Nonduality Melbourne(7月17日より)

Here are some sentences copied from a couple of Kat's earlier transcriptions where Bob organically uses the word ‘realize’. I trust this will be refreshing reminder!
カットが以前書き留めたボブの言葉の中から、彼が有機的に「理解する」という言葉を使っているものを紹介します。これがあなたに新鮮な気づきを与えてくれると信じています!
Bob: I came to realize I was being lived. I came to realize that my seeming journey was how it all panned out. The realization was that there is no centre, if I am that space-like awareness. I realized that there is no ‘me’, there is nothing there at all. I realized that everything I had believed in, I was not, and everything just dropped away.
ボブ:私は自分が生かされていることを理解しました。私のうわべ上の旅が、どうのように展開しているのかを理解しました。その理解とは、もし私があの空間のような意識であるなら、そこには中心がないということでした。「私」はおらず、そこには何もないということを理解しました。私がそれまで信じていたものすべてが私ではないと理解し、すべては落ちていきました。
Realize there is only now! You can realize just how much takes place without the use of the mind. Realize that the functioning is happening effortlessly, without any ‘me’ involved. Realize that before anything can be wrong, there has to be thought.
今この瞬間があるだけだということを理解しなさい! どれほど多くのことがマインドを使わずに起こっているかを理解することができるでしょう。どんな「私」の関与もなしで、機能は自然に起こっているということを理解してください。何かが悪くなる前には必ず思考があるということを理解してください。
There is no relationship between apparent seeking and realization of liberation. In the dawning of that, you realize that any direction you go in will always be in the mind. What ‘way out’ of the mind is there? Full Stop! Realize that all that is happening is conceptualization.
うわべ上の探究と解放の実現には何の関係もありません。それが明らかになると、どの方向へ行ってもマインドの中なのだということを、あなたは理解するでしょう。マインドの中にどんな「出口」があるでしょうか? フルストップ(全停止)! 起こっていることのすべては概念化だということを理解してください。

Realize that there is no personal doer of it. Realize there is no one to do it, and nothing to do, and it will settle down of its own accord. Realize that which is ceaselessly and spontaneously arising, prior to any thought. You are beyond the mind. Realize that. You must realize that you have been lived.

それをやっている個人はいないということを理解してください。それをやる人は誰もおらず、なすべきこともなく、自然に落ち着くのだということを理解してください。それは、どんな思考よりも前に絶え間なく自然に起こっているということを理解してください。あなたはマインドを超えています。それを理解してください。あなたは生かされてきたということを理解しなくてはいけません。
You may not realize that even when the thoughts are going on the silence is still there. You have realized that you don't have to get to the silence. There is more silence in this room than there is sound.
You realize there is not a thing you can say about it. But you can’t deny the fact that it still is as it is. Realize you can’t negate your being, you can’t say, ‘I am not’. Realize that prior to the mind there is always that pure intelligence or knowingness. Just come back to the sense of presence that you are, and realize that that is birth-less, deathless, timeless, spaceless, bodiless and mindless.

思考が続いている時でさえ、そこには静寂があるということを、あなたは気づかないかもしれません。あなたは、静寂を手に入れる必要はないということを理解しました。この部屋の中には、音よりも多くの静寂があります。 そのことについては何も言えないということをあなたは理解しました。あなたは、それがありのままの事実だということを否定することはできません。あなたは自らの存在を否定すること、「私はいない」ということはできないということを理解してください。 マインドよりも以前に純粋な知性、すなわち、知る働きがあるということを理解してください。 自身が存在しているという感覚に戻り、それは生まれることも死ぬこともなく、時間もない、空間でも体でもマインドでもないということ理解してください。
We are not realizing that we were whole from the start, that we never have been separate. When you realize that you never find an answer to it in the mind, what happens? But realize that thought has come up spontaneously, effortlessly and intuitively on that what you are.

私たちは、自分が最初から完全だったこと、決して分離していなかったことを理解していません。マインドの中には答えを見つけられないと理解すると、何が起きるでしょうか? それでも、思考は自然に努力なく、直観的にあなたというものに起こってきます。
You realize also that you can’t cut space; you can’t grasp space; you can’t stir it up; you can’t do anything with it. The same applies to this awareness. See that and realize that you are the emptiness itself, the no-thing-ness.

空間を切ることも、掴むこともかき回すこともできない、空間をどうすることもできないと理解するでしょう。アウエアネス(意識)についても同じことが言えます。そのことを調べ、あなたは空(くう)そのもの、物ではないものであるという理解してください。
But realize that you were seeing before the thought ‘I see’ came up. Look again without labelling and realize that you are seeing as well as hearing at the same time. Realize that, before words and images came up, there was a registering of things. They are only being translated into words and images.

「私は見る」という思考がやってくる前に、もうすでに見ていたということを理解してください。ラベルを貼ることなく、もう一度見て、見ていると同時に聞いているということを理解してください。言葉やイメージがやってくる前に物事は現れています。それが、言葉やイメージに変換されているにすぎません。
Don’t you realize that there is never a time when it is not there?
Realize that there is not a past unless you think about it. And what future is there unless you think about it? From that, you see that mind itself is time.

そうでない時などなかったということが理解できませんか? あなたがそのことについて考えさえしなければ、過去などないということを理解してください。もしあなたがそのことについて考えなかったら、どんな未来があるというのですか? このことから、マインドそのものが時間であるとわかるはずです。
When the mind realizes that it has no power of itself, just like the piece of iron in the fire, then it aligns itself with that intelligence.

火の中のひとかたまりの鉄と同じように、マインド自体にはパワーがないと理解すると、マインドはあの知性と連携し始めます。

Realizing that that intelligence is functioning, that's the ‘razor's edge’. All you need is to recognize that it is already so.

あの知性が機能しているということを理解すること、それが「カミソリの刃」なのです。あなたは、もうすでにそれなのだということを理解しさえすればよいだけです。


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セイラーボブは7月21日に93歳になり、1日にレストランで大勢の人と一緒に誕生パーティをしたようです。この動画の最後に誕生パーティの様子があります。動画で見る限りは元気なようですが、誰一人マスクをしていません。メルボルンでは5日からまたロックダウンが行われています。

このブログは、週一回、毎週土曜日に更新していきます。

2021/07/16

8月7日(土)から当ブログを再開させていただきます。

少しずつブログ再開の準備をしています。仏教について書こうと思っていますが、仏教には詳しくないので、概略を学ぼうと、YouTubeをあれこれ見ています。

もしよかったら、興味のある方は以下のYouTubeを見ておいてください。
私がブログに書くこととも関係していますし、ある程度背景知識があった方が、私の下手な説明だけよりいいのかなと思います。

                                
 ここから下のYouTubeは、それぞれが連続シリーズになっています。シリーズの最初のものだけを掲載しましたが、できれば全部見ていただくとよいと思います。
佐々木閑さんについては、以前このブログで般若心経の時に紹介したことがあります。佐々木閑さんは花園大学教授ですが、コロナのため授業を行うことができず、YouTubeで講義を配信されました。
こんなありがたい講義を無料で聞けるなんて、なんとすばらしいことでしょう。

2021/06/10

ブログ再開のおしらせ

8月7日(土)から当ブログを再開させていただきます。
再開後は、週一回、毎週土曜日に更新予定です。

仏教の唯識の思想を中心に書こうと思い、関係書籍を一通り読んでからブログを書こうと、せっせと読んでいますが、難しくてなかなか進まず、同じ本を何回も読んでいます。これではすぐにはブログを再開できないと思い、年内はお休みしようと思っていました。

ところが、一か月前に読んだ本の内容はどうだったかと考えても、すっかり内容を忘れている。余分な本を持ちたくない性分なので、図書館で借りられる本は借りて読んでいます。本はまた借りればいいけど、私の借りる本は誰も読まないような本ばかりらしく、毎回地下の収蔵庫まで取りに行ってもらっている本ばかりで、図書館のおねえさんに迷惑至極。一通り読んでからなんてことはだめだと思う今日このごろ。

前後で整合性がなくなったとしても、途中でお休みしたとしても、本を読みながら、ブログを書きながら進めないとあかんという結論に。それに、来年なんてどうなってるかわかりゃしない。服を脱いで裸になってからお風呂をつけ忘れたことに気づく回数の増えた今日このごろ。来年なんて言っていたら、認知症になっていて、ブログどころじゃないかもしれん。

ついでにセイラーボブの近況を少し。
セイラーボブは5月の初めに膝の手術のため入院、リハビリして2回ほどミーティングを休みましたが、退院後は元気にミーティングを続けています。

メルボルンは10日まで4回目のロックダウン中で、この2回ほどは無観客ミーティングでした。メルボルンのすごいところはちょっとクラスターが出ただけでロックダウンをする行動力。オーストラリアの野球チームがオリンピックの予選を棄権したのもうなずける。

というわけで、もう少しお待ちを。

2021/06/03

おたよりをいただきました。

拓さん、こんにちは。

以前、何度か質問等させて頂きました、セツと申します。

5月18日の記事で、拓さんが今後読む予定の本ということで、仏教のキーワードをいくつも挙げておられましたが、その中に僕の好きな浄土系のものがなかったので、僭越ながら僕が繰り返し読んでいる本を2冊紹介させて頂こうと思い、メールを書いております。

・「親鸞と一遍 日本浄土教とは何か」(講談社学術文庫) 竹村牧男著

・「法然親鸞一遍」(新潮新書) 釈 徹宗著

大乗仏教が大衆を救うものであるならば親鸞・一遍の念仏はそのひとつの極みだと僕は感じています。拓さんの読書がひと段落つく時があったら是非読んでみてください

セイラー・ボブさんをはじめとして、非二元の教えに僕が惹かれた理由はやはりそのシンプルさだったと思います。その教えを理解された拓さんが唯識に注目されたのは僕には意外でした。僕みたいな短気な者には、唯識はまどろっこしくて学びを進められません。大乗仏教の基本としては「八不中道」がシンプルで僕は惹かれます。

拓さんのブログに新しい記事がアップされる日を楽しみに待っています!

不躾な乱文を失礼いたしました。

おたよりをありがとうございました。
教えていただいた二冊の本もぜひ読みたいと思いますが、読むべき本がたくさんあって、ちょっと先になるかと思います。

なぜ私が仏教関係の本を読み始めたかというと、それはギルバートからのアドバイスによるものです。以前、ギルバートとビデオチャットで話をした時に、仏教関係の本を読むといいというアドバイスをもらいました。もちろんそれは、非二元の教えの理解の一環としてのアドバイスでした。

ただ漠然と仏教関係の本というのではなく、具体的に何を読むといいかを教えてもらいましたが、その当時はセイラーボブの本を翻訳出版できないかと、毎日翻訳する事に忙しい時期で、仏教には取り立てて興味をいだきませんでした。

その後、翻訳出版をあきらめ、ブログも休止してから、何か物足りなさを感じて、ギルバートのアドバイスを思い出して読んでみたところ、そこにはすばらしい世界が広がっていました。

今せっせと読んでいるのは、大乗仏教の唯識思想とその周辺の本です。何冊か読んで感じたのは、その教えや世界観はすばらしいのですが、やはり宗教なので、修養や修行、善行みたいなことに重点を置いている部分もあって、その辺はちょっと受け入れがたい部分もあります。

修養や修行、善行でなんとかなるなんて全然思っていませんし、その辺はまったく賛同していません。すばらしいと思うのは、その前提となる唯識の思想そのものです。

たくさん読んで、唯識全体を理解してからブログを再開しようと思っていたのですが、唯識全体の理解は難しいし、仏教学者や学僧になろうとしているわけではないので、そこまでしなくてもいいのではと思う今日この頃。

答えはもうすでにわかっていて、「非二元の教えと仏教 (唯識) の教えは、根本的には同じことを教えている」ということです。ブログを書くために、その裏付けとなる範囲だけ理解できればそれでいいと思うようになりました。

それならそれほど時間はかからないだろうと思ったのですが、見慣れない漢字の仏教用語を理解しながら読むのは大変で、ゆっくりとしか進めません。

年内は充電のためこのブログをお休みして来年の一月一日に再開予定です。それ以前に再開する場合は、少なくとも再開の一か月以上前に、このブログ上で再開の告知をさせていただきます。

2021/05/21

おたよりをいただきました。

拓さんへ

読者の方からお礼や理解できました等のメッセージがほとんどないとのことですが、それは日本人特有のシャイさ故では?と推察します。
拓さんのブログの熱心な読者であれば、解説のわかりやすさと丁寧さ、情報の豊富さ、それらを惜しみなくシェアしてくださっていることに、感激し感謝を感じていることと思います。

「セイラーボブアダムソンの教え(詳しく)」シリーズ記事をすべて紙にプリントアウトして、「ただそれだけ」とセットにして繰り返し読んでいます。誰もがつまづきやすいポイント(実感が持てないことや、本当に理解だけで良いのか?等)についても拓さんの実体験と照らし合わせながら懇切丁寧に説明してくださり、それがセイラーボブの教えを理解する上で、実に有益な手助けとなっています。
ギルバートとカタリーナのぶっちゃけトークのくだりも秀逸で、かゆいところに手が届く非常に分かりやすい説明で、本当にありがたいです。
また、セイラーボブおよび拓さんの解説を自分なりに理解した上で、あらためてラメッシ・バルセカール著「ニサルガダッタ・マハラジが指し示したもの」を読んでみると、ビフォーセイラーボブのときに読んだ際はいまひとつ理解できなかった点が今度はスムーズに理解できる感覚がありびっくりしました。そして「エンライトメントなんてものはなくて、直感的理解こそが悟りである」とはっきり書かれていることを再確認しました。
また「私という存在が実在なのかどうか自分で調べる」を折に触れておこなってます。布団の中やコーヒーを飲みながらするのですが、ハッ!とした閃きや気付きがありとても面白いです。確固として実在すると思っていた「自分」って、よくよく調べてみると不確定で流動的であり、物質やら観念やら記憶やら日々生まれては置き換わってゆく雑多な要素・パーツで構成された暫定的プロジェクトみたいなものでした・・・。
拓さんのお父様のエピソードもとても印象的なポインターとなりました。
本に書かれていることを闇雲にただ信じ込むのではなく、自分自身であれこれ思案を巡らせたのち辿り着いた閃きは、確かに確信となりますね。

本を読んでいる最中、あるいは「自分で調べる」ためにマインドを使って熟考したり思案しているなかでふとやってくる「ハッ!としたふいの直感的理解」というのは、(行為者なしの)「見ること」「聞くこと」などの純粋な認識活動と同じく「(行為者なしの)純粋な理解」だな、とも思いました。
「私という主体がこの本を読んで教えを理解する」でなくて、機が熟したときにふと「(私という行為者なしの)直感的理解がただ起きる」ということかなと。
そのことに気付いたときに、「エンライトメントという体験ではなくて、(知的)理解で本当にいいのか?」という問いへの答えがもたらされたような気がしました。

拓さんの書かれる文章は論理的でかつ読みやすく分かり易く、実体験から産み出されたリアルな言葉で、胸に響きます。ギルバート氏が言われたように、翻訳ではなくて、セイラーボブを完全に理解された拓さんとしての、ご自身独自の言葉・メッセージを一冊の本にまとめられてはいかがですか?
なんて差し出がましいことをいってすみません、そのくらいの魅力が拓さんの文章にはあります。

話は変わりますが、私は20代の頃(1990年代)東南アジア中心にバックパッカー的な旅をしていたことがあり、拓さんの世界旅行記のミャンマーやジョグジャカルタの記事を拝見してとても懐かしく思い出しました。
バガンのパゴーダに登って眺めた夕陽は最高でした。コロナが収束したらまた東南アジアを旅したいです。
私も、セイラーボブの教えを理解し真実を見抜いて、その上で「神様がくれた魂の一番おいしいところ」を余すところなく堪能しながら、深刻さにとらわれずspontaneouslyになるべく軽やかに生きていけたら、と思います。

追伸:
長々とすみません。的外れなことを書いているかもしれませんが、読み返しているうちにメッセージを送信する勇気がなくなってしまうかもしれないので、勢いのままに送信しちゃいます!
非公開希望というわけでもないですが、かといって公開希望でもなく、拓さんにおまかせいたします。

よろしくお願いいたします。
ひろ

おたよりありがとうございました。ラメッシのくだりは他の方にも参考になると思ったので公開させていただきました。

セイラーボブは、話を初めて聞きに来た人には" Ring a bell?"(ピンときましたか?)と気軽に聞いていました。そのため、理解するということは、それほど大げさに騒ぐようなことでもないのかもしれません。もちろん今だから言えることですが。

私が「知的にはわかるのですが・・・」とシリアスな顔で答えるとボブは「知的に以外にどんな理解がありますか?」と言ったものです。

「私は実在ではない」ということについては、仏教の唯識の思想でも同じことを教えていて、そこではかなり理論的に説明されています。最近読んだ本の中でわかりやすかったものを書いておきます。

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書)