2023.3.19ミーティング 48:11
参加者:今日はすばらしい話をありがとう、ボブ。ぜひ質問したいことがあります。どうやったら、何をやっていても常に「私は在る」という感覚、アウエアネスでいることが可能ですか? たとえば、働いているときや何かをやっている時は簡単にそれを忘れてしまって、仕事や何かやっていることに没頭してしまいます。でも、どうやったら、その「私は在る」という感覚を保つことができるのですか?
ボブ:あなたが何か他のことを考えたりやったりしている時、あなたに意識はないのですか?
カット:(回答の声が小さかったのでカットが伝えた)ええ、彼は自分がやっていることに気づいていないことはないが、自身の存在には気づいていないそうです。
ボブ:まず最初に、あなたは何ですか? あなたは存在していないのですか? あなたは今存在していないと認識しているのですか?
参加者:今はそうではありません。
ボブ:他の時間というものがありますか?
カット:あなたは存在していないと感じるのですね?
ボブ:そこに命があるから思考や呼吸、動きなどすべてが起こるのではあありませんか?
カット:別の言い方をすると、あなたは「私は在る」「私は在る」といつも考えなくてもいいということです。
ボブ:あらゆるものが現れている場所には根本的に命があるのです。ニサルガダッタは言いました。「あなたが道である。あなたが真実である。あなたが命である」。
カット:それはイエス・キリストです。(一同笑う)
ボブ:人々は、彼が自分自身のことを話していると考えましたが、そうではありません。彼は、存在の感覚のことを「私は在る」と言ったのです。あなたは、その言葉を考えなくても、私は在るということを知っています。
参加者:それは真実かもしれませんが、最初の女性の質問にあったように、彼女のマインドはいつも落ち着かないのに、それでも彼女は自分が落ち着かないということに気づいていました。
ボブ:落ち着かないということに気づいていないことはなかった。
参加者:そうです。
ボブ:では、そこにはそれを認識するためにアウエアネスがあったに違いありません。あなたは、アウエアネスが何なのかを言うことはできませんが、私には意識がないということはできません。それは存在と同じものです。あなたは今存在していて、存在していなと言うことはできません。人々は自身を人間(human being)と言い、神のことを至高の存在(supreme being)と言います。そうした言葉を取り除いて、存在(being)をやめることはできますか? 存在、認識、存在することへの愛はサット-チット-アナンダです。それは常に起こっています。(一部省略)
参加者:サット-チット-アナンダについて話す時、意識に対していつも真実であろうとすることだと思いますが、人間として私たちはとてもたくさんの感情を経験します。悲しみや怒りなどのネガティブな感情など。
ボブ:その人間(human being)から、humanを取ってください。humanなしで存在(being)しています。being(存在)に何か別のラベルを貼り付けると、表面上で不鮮明になるのです。それなしでも、あなたは消えたりしません。アウエアネスがなければ、あなたは言うことも考えることも何もできません。でも、あなたはアウエアネスが何なのかを言うことはできません。
参加者:ありがとう。
ギルバート:誰も、この心配を維持するにはどうしたらいいでしょうとは尋ねません。なぜなら、私たちはどうやってそれを維持するかを知っているからです。それにさらに物語を付け足すだけです。そしてそれを人とシェアして、その物語を確かなものにしてもらうのです。
そして、存在(being)のシンプルさは、物語を必要としません。自然な状態には言葉がなく、静寂です。そして、マインドから何らかの答えがやってくると期待することは、まったく賢いことではありません。でも、マインドはいつでも何か提供するものを持っています。「おお! 結局のところ、私は何かを提供することができる・・・」。
でも、今もしそのことを考えなかったら、何が問題なのか? そしてボブが指摘するように、いったん思考を止めて見ると、それに対しては何も言うことができません。それが良いとか悪いとか言うことはできません。それは無限のものの中へ入っていく始まりのようなものです。現実性、実在の中へ。
でも、それではマインドにとっては十分ではない。マインドは何かを主張したがり、自分のものにしたがるのです。それが問題です。