2023.4.23ミーティング 0:14から
みんなが名前を言い終わるが、ボブは補聴器を付けていないので聞こえない。
ボブ:一言も聞こえません(一同笑う)
ギルバート:言葉は物ではありません。
ボブ:でも、それが皆さんの受け取るすべてです。本当はパドックにいて草を食んでいなくてはいけないのですが、彼女がまた馬具を付けてパドックから連れ出したので、短めに話します。私はあなたに何も教えることはできないし、何かを伝えることもできません。私ができるのは、方向を示して、そこを自分で調べるようにと促すことだけです。
というのも、私が指していることを理解すると、そこには何かを教える誰かも、何かを伝える誰かもいないということがわかるからです。一つの本質がパターンとなり、あらゆる姿形となって現れています。私はいかなる体に話しかけてもいません。私はどんなマインドにも話しかけてはいません。あなたが自身だと信じている体・マインドの存在に話しかけてはいません。
私は、存在の感覚となって現れている「私は在る」に話しかけていて、それが本当の私です。それがマインドを通して思考の「私は在る」となって現れています。ただそれだけ。他には何もありません。それが私が指摘していることです。一つの本質、知性エネルギー、生、神、どんな観念やラベルを貼ってもかまいませんが、それがそこにあるすべてです。
その一つの本質のことを私は知性エネルギーと呼び、神と言う言葉は使いません。その言葉を使うと混乱するからです。というのも、あらゆる人が神とは何かということに対して、異なる宗教、異なる観念を持っているからです。でも、聖書の中では、最初に言葉だけがあったと述べています。言葉が始まりなのです。
言葉が神とともにあり、言葉が神でした。神とは言葉だったのです。あらゆるものが彼によって、言葉によって造られました。言葉がなければ、何も創造されなかったのではないでしょうか。あらゆる物事のために言葉を手に入れました。椅子、テーブル、空間、冬、夏、高い、低い、それは言葉です。言葉が無かったら、それは何でしょうか?
言葉無しでは何も分割することも分けることもできません。でも、見ること、聞くこと、味わうこと、触れること、嗅ぐことは常に起こっています。でも、私たちは「私」という言葉を学びました。私は見る、私は聞く、私は味わう、私は触れる、私は嗅ぐ、私は考える、私は体験する。私たちは偉大な聖典の中ではやってはいけないということをしています。あらゆる物事をそのままにしておくかわりに、分離できないものを分離し、描写できないものを描写しています。ただ一つの本質が現れてあらゆる姿形になっているにすぎません。
あなたはいくつの言葉を持って生まれましたか? あなたは生きていて、存在しています。でも、自分の誕生を覚えている人はいますか? 人々は自分の誕生を覚えていると言います。でも、生まれた時にどんな言葉も持っていなかったのに、どうして覚えていることができますか? そんなことはできるはずがありません。
そして、二歳か二歳半に推論する力が発達するまではどんな言葉も学んでいません。その推論する能力はとても役立つもので、今この体・マインドの中で続いています。あなたは両親から言葉を学びました。両親はあなたのまわりで、かわいいジョニー、かわいいジェーン、かわいいビリーとはやし立てます。あなたは「私」「自分」という言葉を学び、私はかわいいビリー、私はジェーンだとなります。それが人々が自身を表現するやり方です。
「私は在る」は単なるもう一つの観念、ラベルだということを理解してください。ニサルガダッタやその他の人たちが、「私は在る」に留まりなさいと教えます。「私は在る・私は在る・私は在る」というマントラを繰り返さなくてはいけないと思う人もいるのですが、そういう意味ではないということを理解してください。それは、存在の感覚である「私は在る」に留まりなさいという意味です。
自身のことを表現するために、「私は在る」と言わざるえないのです。そしてそれは、今ここに存在しているという意識であり、存在意識のことです。それが「私は在る」であり、彼が指し示したものです。その存在の感覚に留まってください。それは、あなたが存在しているということを知ることであり、あなたが存在していると考えることではありません。
あるいは、自分は存在していると信じることで、観念や思考、イメージ、言葉の中に自身を閉じ込めることではありません。あなたはもう十分長い間それをやってきました。それがあらゆる心理的な苦悩の原因であり、それが私たちに続いています。そして、偉大なマントラは「我はそれなり」です。あなたはそれを聞き、知っています。そしてその意味を理解します。
というのも、生まれつきそのことを知っているからです。これが椅子で私が座っているもの、あれが部屋で私がそこにいる、あれが空間で、あれが木、あれが花、あれがあなた、これが私。あらゆるものがもともとそれであるということを、あなたはもともと知っています。それを言葉によって区別しているのです。私たちはラベルを学び、それを言葉のラベルで分割しているのです。でも、それがそこにあるすべてです。ただそれだけ。
そしてそれをアドヴァイタでは、サット・チット・アナンダ、ナーマ・ルーパと言います。サット・チッタは存在、意識であり、アナンダは存在する喜び、ナーマ・ルーパは体とマインド、名前と形です。ナーマ・ルーパ、体とマインドはマーヤーであると言います。マーヤーは幻想です。では存在について。今この瞬間に存在してない人はいますか?
あなたは、いいえ、もちろん存在していますと言います。意識のない人、目が覚めていない人はいますか? いいえ、私には意識がありますと言うでしょう。そしてあなたたちみんなは、存在していることが幸せであり、今この瞬間死んでいたいと言う人はいないはずです。
*******
もう少し続くのですが、この日のスピールはいつもより短く、15分ほどで終わりました。ボブは元気です。