2023.4.16ミーティング 1:20:18から
ギルバート:何年か前、この部屋でボブは短い物語を話しました。登山者の一行が山を登っていました。彼らはある程度の水を持参したのですが、十分ではありませんでした。少し登ったところで水がなくなり、中の一人が谷底の小川を見つけました。そして彼は岩をよじ登り、傷だらけになり、体を打ちつけて骨を、いいえ、骨は折りませんでしたが、苦労して容器を持って降りていき、水を一杯入れて他の人のもとへ運びました。
そしてボブの指摘は、他の誰も、俺が自分で行って汲んでくるとは言わなかったということです。彼らは水を分け合いました。そしてあなたがボブの最初の本を読んだなら、そこには何百というポインターがあって、中でも私が書き起こしている時に心を打たれたのは、「知る働きは自然に起こっていて、それは知られたことではなく、それは過去であり、これから起こってくることでもなく、この瞬間に起こっている知る働きのこと」です。ing は今この瞬間に起こっているという意味です。
では、この知る働きとは何なのか? この意識とは何なのか? その答えを見つけることはできませんが、その存在を否定することもできません。なぜなら、それがそこにあるすべてだからです。意識がそこにあるすべてです。意識、認識、なんであれ、それについて議論をすることはできますが、その知る働きは、あなたが経験することすべての根底に実際にあるものです。その知る働きの外側に何かを仮定することはできません。
そしてそのことは永遠に新鮮で新しいものです。そのため、それを記憶の中に蓄えることはできません。この直接性を記憶の中に蓄えることはできませんが、ポインターを蓄えることはできます。そしてそれが起こっていることのすべてです。その男は降りていって水を汲んで他の人のために運んでシェアしました。そのためにポインターがあるのです。言葉やジェスチャーで、知る働きの本質を指し示すためにポインターがあるのです。
そしてそれは見ること、聞くこと、触れることと同じように自然に起こっているのです。それはすべて自然に起こっていることであり、エゴがやって来て「私がやった」という場所はありません。それはナンセンスです。「私」は意識の直接性の中には存在しません。「私」は心理的な構築物であり、時間の中にあります。マインドは時間です。そしてマインドは意識の上に現れますが、マインドと呼ばれる何かを見つけることはできません。
それは単なる活動なのです。自己を見つけることはできません。自己を見つけた人はいますか? それはどんな風に見えますか? 色は? 形は? それは単なる観念、思考、ポインターです。
参加者:木はどう? 木を見つけた。
ギルバート:いや。何もない。それは単なる言葉です。その知る働きの活動は自然に起こるものです。もしそれを恩寵と呼びたければそう呼んでもかまいません。神の恵み。「私はこれらをあなたにあげよう。それが私の喜びだ。喜んでこれをあなたに与えよう」。そしてもしあなたがそれについて議論したいのなら、それはあなたの問題です。