2023/04/18

それをボブは知性エネルギーと呼びます

2023.4.16ミーティング 0:27から

カット:今日は何を話すつもりですか? ボブ? マイクに向かって話してください。

ボブ:ゾクチェンの本、ことわざの中に、老人が日光浴をしているものがあります。私はそれをするつもりです。すべてのエネルギーがあなたたちからやって来ます。ですから、少し開放的にしてください。

カット:ありがとう。では、今日は私たちが日光を供給することにしましょう。みなさんは話をシェアして、質問をして、どんなことでも共鳴したことを話すために招かれています。というのも、あなたたちはもともと存在意識であるというところから始めるからです。あなたはすでに存在していて、気づいていて、意識があります。手に入れなくてはいけないものも、何かになる必要も、見つけなくてはいけないものもありません。捨て去るべき知識や落とすべきものがあるのでもなく、それはすでに存在するというシンプルな認識にすぎません。

それは常に永遠に存在するという意味は、時間がなく存在するということです。それはこの瞬間に存在しています。もし、今以外の時間を想像したいのなら、それはマインドの中の観念にすぎません。たとえ想像している瞬間にもそれは存在しています。そして、ここには、存在意識についてあなたがすでに知っている以上に、あるいはより少なく知っている人は誰もいません。つまり、誰も他の人より優れても劣ってもいません。

誰もあなたよりもエンライトメントしていたり、明確であったり、よりその近くにいるわけではありません。それは根底にある存在意識、意識の存在がみなさんを通して輝いているのです。それを輝かせるためには、うわべ上でそれを見えにくくしている観念を脇に置くだけです。なぜなら、何もそれを不鮮明にすることはできないからです。どんなに多くの考えを生み出しても、その考えが生み出される前にあなたがいます。

それは単に、とてもシンプルで、とても明確な根底にある存在意識に立ち戻るということです。そしてそれにハートを注ぐ、それを優先させるということであり、あなたのハート全体や注意全部を、今起こってもいないつまらないささいな物語に向けないということです。例えば昨日起こった事、これから起こるかもしれないこと、起こりそうなこと。そうしたことは今この瞬間、今日は起こっていません。それが起こったときにはそれなりの注意が向かいますが、今はそうではありません。今はこの瞬間に注意を向けるべきです。

そしてそれは、この瞬間の存在意識にリラックスすることです。その意識の中でリラックスして、それが輝くに任せることです。そしてまた、それが表現するに任せることです。それが歌うに任せ、輝くのに任せ、それがあなたをどこへ導くか見るのです。なぜなら、認識の中身、意識の中身は絶えず変化するからです。それは、中身のことではありません。中身は愛されることも、認識されることもありますが、根底にあるスクリーンが主となるものです。(携帯を見ながら)オンラインの人も参加してもらうつもりです。

ええ、根底にあるスクリーンが主となる源であり、経験の唯一の源です。(携帯を見ながら)いくつかあいさつが届いていますが、質問はありません。どなたか、最初に何かをシェアしたい人、経験したことや、質問、今あまり明確ではないところを示したい人はいますか? もしかすると、基本的な分離の感覚が十分に明確ではない人もいるかもしれません。というのも、夢の中で、体は他の体や空間と分離しているように感じ、そう見えるからです。

でも実際にそうでしょうか? 感覚器官はそう言うかもしれません。でも、少し深く観察すると、感覚器官はそうは言ってはいないということがわかります。そう言っているのはマインドです。これは私、これは他の人という区別をして感覚器官の上に現れているのはマインドです。マインドのラベル貼り、名前づけがなければ、そこにあるのは一つの開かれた意識のフィールドです。

そしてそのフィールドの中に、絶えず変化するものが様々な形となって自然と現れています。それをボブは知性エネルギーと呼びます。それは多少フレッシュな言葉というだけでなく・・・(ボブを見ながら)でも、その言葉は確か100年前のクリシュナムルティから来ているのですね? でもそれは、同じものではなく、エンライトメントに目覚めるということではありません。生命エネルギー、生命の本質です。それは生きています。それは絶えず動いて自身を表現しています。

それは存在していて、同時に存在していません。なぜなら、潜在的可能性にはどんな実体もないからです。でも、実際には存在しているように見えます。ですから、形あるものは、固いものだと言うことはできず、存在しているように見えるだけなのです。でも、存在していないということもできません。なぜなら、それらは現れてくるからです。それは存在の形なのです。それはメンタルイメージと同じです。それもまた存在の形です。

顕現のすべては、あのスクリーンの上に現れますが、それは何ものでもないもの/無(no thing)です。そこに物事が現れる固いスクリーンがあると言うことはできません。でもそれは認識、意識の中に現れます。