ギルバート:マインドがどのように機能するかを見ることです。このマインドが、自己をイメージする時に絶えず何を参照としているのかを。時々マインドはむやみに切望します。神聖なもの、旅、などなど。そして、ある種の経験を集めて、良い経験を一つの籠に入れ、悪い経験をまた別の籠にいれます。ある人は良い籠が一杯になり、ある人は悪い籠が一杯になります。
そしてあなたが彼らに、おまえは何なのだと尋ねると、自分を低く見ている人は悪い籠から選んで、私は何々だと言います。そうやって絶えず参照している自己のイメージを認識することは可能ですが、それはフィクションなのです。「私」はフィクションなのです。「私」などというものはありません。あなたが「私」を見つけることはありません。それは参照する習慣にすぎないのです。
調べて、その「私」を見つけようとすることが不可欠なのです。ボブはよく言います。「あの愚か者が、「私」はいないと言うが、彼は正しいのか間違っているのか? 自分で調べてみるべきなのです」。それは基本的にどんな言語の中にあります。「私」が見つかるかどうか調べてみるのです。それはフィクションであり、あまりにも多くの心理的な苦悩を生み出しています。そしてそれは不要なものです。
そして、「私」が集めている経験すべてが私のアイデンティティとなっていますが、経験などというものがあるのでしょうか? それは単なる物語(ストーリー)ではありませんか? 現在進行形の経験そのもの(experiencing)は決して邪魔されることはありません。あなたは自身で、その経験そのものはどんな現象や何ものにも邪魔されず、それが生そのものだということを認識することができます。
それは自然に発生するもの、認識、ボブが言うところの、知る働きの活動です。そしてあなたが調べてみると、知る働きの活動がそこにあるすべてです。その知る働きの外に経験があることはありません。それは誰かが何かを知るということではありません。それは、昨日や明日の何かを知るということではありません。それは活動であり、活動とは、今現在起こっている何かなのです。
あなたが、その知る働きと分離して存在することはありえません。あなたが意識なのです。あなたはそれを違ったレベルに分けることもできますが、それはナンセンスです。この直接の知る働きは個人という存在には帰属していません。そこには個人という存在はいません。それは単に知る働きの活動なのです。その直接性に留まると、あらゆることがあるがままに明らかになります。
でもそこには、物語をあなたが参照するあれこれの籠に入れるということはありません。というのも、それは永遠に新鮮で新しいものだからです。あなたはこの知る働きの活動を記憶の中に保持することはできません。やってみてください。できません。なぜなら、そこにあるのは何ものにも邪魔されることのない経験そのもの(experiencing)があるだけだからです。
それには何ものも付着していません。そこには苦悩はありません。意識そのものは、完全にまったく独立したものです。あなたはそれです。私たちは物語を付け加え、意識をレベルに分け、精神世界の旅、訓練やメソードを付け加えようとしますが、それは実際役に立ちません。訓練やメソードは、実際には「私は在る」というものに付け加えた心理的な苦悩なのです。あなたが「私」に会ったことはありません。