2022/10/31

非二元の世界、現象の世界

セイラーボブの話には、現象の世界、あるいは顕現の世界という言葉がよく出てきます。非二元の世界と現象の世界(顕現の世界)とは何が違うのか?

非二元の世界と現象の世界の二つがあるという意味ではありません。二つの世界があるというなら、非二元ではなく、二元の世界になってしまいます。世界は一つであり、非二元です。では、現象の世界とは何なのかというと、私たちがマインドを通して見ている非二元の世界が現象の世界です。

そこにあるのは非二元の世界なのですが、私たちのマインドを通して見ると、現象の世界として現れているのです。非二元の世界は、私たちが見ることも体験することもできない世界です。それがどんな世界かと想像しても無駄な世界です。

仏教の唯識でも同じことを言います。唯識では、世界を認識するやり方には三通りあると説きます。詳しくは(三性説)を参照してください。簡単にいってしまうと、迷いの目で見る世界・縁起で見る世界・悟りの目で見る世界の三通りです。

迷いの目で見ている世界が現象の世界です。「『私』は実在する」「世界は実在である」という誤ったものの見方をしている世界であり、それが私たちが見ている世界です。そして、悟りの目で見る世界が非二元の世界(実在の世界)にあたるのですが、これは仏陀が見る世界であり、実際には見ることはできません。

ここで重要なことは、私たちが非二元の世界を見ることはできないということです。それができると主張する人たちは、エンライトメントある派であり、一瞥体験支持派です。このスタートラインでつまづくと、それを求めて終わりのない探求難民の旅が始まります。

そして私が時々違和感を感じる表現に、純粋意識という表現があります。書き手の方はおそらく、非二元の世界に広がる意識を純粋意識と呼び、現象の世界にある意識を単に意識と呼んでいると思われます。それはそれで、その使い分けを理解している人には問題はないのですが、それをはっきり理解していない人が読むと、普通の意識と純粋意識と二つの意識があるという誤解を生みます。そしてまた、それを手に入れなければならいないと思い始めます。

意識に二つの意識があるわけではなく、一つの意識です。私たちは純粋意識そのものなのですが、体とマインドがある限りはそれを体験することはできません。その純粋意識が体とマインドを通して普通の意識として現れています。私は単に「意識」(アウエアネス)とした方がわかりやすいのではないかと思います。

もし、純粋意識と普通の意識があって、純粋意識を手に入れなければならないと思っているのなら、それは非二元ではなく、二つの意識があることになります。

「森羅万象、あまねく宇宙の果てまで純粋意識が広がっている」。あるいは、「私たちは純粋意識の中にいる」「私たちは純粋意識である」という表現は可能です。でも、かえってわかりずらくしているような気がします。ただ単にアウエアネス(意識)と呼んだ方がいいような気がします。まあ、そもそも非二元の用語に統一されたものはないので、純粋意識と呼ぼうが意識と呼ぼうが、本質をわかっていればいいだけの話なのですが、どうも違和感を感じます。

私たちは現象の世界(顕現の世界)を見ています。そこには体もマインドもあるように見え、私もいるように見えます。私たちが持っている唯一の武器(道具)は体(五感)とマインドだけです。それを通してしか世界を見ることはできないのです。でも、実際にはそれは実体のないものであり、そこには何もない、あるいは、他には何もない一つのものだけがあるというのが非二元の教えです。それを純粋意識と呼ぼうが、アウエアネス、知性エネルギー、アートマン、ブラフマン、私は在る、神、何と呼ぼうがそれなのです。

2022/10/30

もし地球上に人間がいなかったら、アウエアネス(意識)はあるのですか?

 2022年10月9日ミーティング

1:23:52ぐらいから

参加者:こんにちは。質問、もしくは意見、あるいはその両方のようなものです。私は生命について考えていました。私たちは生命と、生命の持つアウエアネス(意識)についてたくさん話をしました。そして、宇宙には地球やたくさんの物があります。もし、地球に生命が存在しなかったら、つまり、植物、動物、人間がいなかったら、意識はどうなるのですか? 
というのは、もしアウエアネス(意識)が究極のものなら、意識を持つ存在たちがいなくなったら、世界はどうなるのでしょうか? すべてのものは存在すると思うのですが、私たちは自身のことを意識を持つ存在だと思っています。その場合、アウエアネスは誰が……、アウエアネスはどこから来るのでしょうか?

カット:ボブ、質問の意味はわかりましたか? もし人間や動物がいなかったらどうなりますか?

ボブ:今現在は何ですか? それは何ものでもないもの/無です。現象としての顕現が現れているにすぎません。現象の定義は、そのように現れているものです。それは単に人間というパターンの推論する能力のせいです。何も起こっていないのです。

カット:私はあの例え話が好きです。誰かがボタンを押して、もし地球が今爆発したら、人間や文明全部、いわゆる有機物は完全に蒸発するでしょう。でも、一つの粒子もなくなりはしません。そして、究極のもの、つまり、空間のようなアウエアネス(意識)は影響を受けません。神は自身を見るためにあなたを必要としていません。神はあらゆるものを経験し表現する収容力なのです。それを体験するために意識を必要としません。

ボブ:すべては自然に起こっています。

カット:それは経験することさえ必要としていません。というのも、それは空間なのです。私たちは、それを体験して表現するためには媒体が必要だと言いますが、それは私たちが体験するために必要なだけです。私たちはそれが必要だと言いますが、それは何も必要としていないのです。それは自由であり、必要としていません。でも、それが起こっていることです。私がいるから、見ること、聞くこと、味わうことが起こっています。

もし私がいなかったら、見ること、聞くことは、この体に起こりません。それで、私たちは考えるのです。もし私の目が見えなかったら。もし私が死んだら。もし私がショートヘアーになったら意識はどうなるのか? というのも、髪に知恵があると考えている人もいます。そうした質問はとても魅力的であり、あなたはそうしたことをたくさん思いつくことができます。そしてただ単に永久にマインドに留まるのです。

でも、非二元が真に指摘していることは、この瞬間の直接の今の体験なのです。そして、今この瞬間にいるのは人間と言われているものです。人間と言われているものが現れています。というのも、実際そこに人間がいるからです。ここでまた別の質問です。もしあなたが思考を止めたら、直接の体験は惑星や太陽系や銀河の存在を認識することができるでしょうか? いいえ。この太陽系や銀河系や惑星を認識するためにはあなたの思考が必要です。

でも、直接の体験は、存在意識がそれを体験することを含んでいます。意識がどうなるだろうかとか、それはどういうふうだろうかと想像することは、単なる可能性にすぎません。私たちは、意識(アウエアネス)が私たちの考えるように存在すると言うことさえできません。

それは私たちが思うようには存在しません。それはあたかも、電気のスイッチを切った時に、電気があるかと聞いているようなものです。可能性としてはそこにあります。でも、実際には電気は流れていません。それは電気が流れている時だけそこに電気があります。

意識も同じように、流れている時にだけあります。体が死んだり、人類全体が死んだらといいう可能性を言う時には、そこには意識はありません。あなたは、意識がそこにあるとも、ないとも言うことはできません。どうなるだろうという思索に入っていくことは、ありのままのこの瞬間を離れていくことになります。

思索の領域、想像の領域に入っていくことは、とても魅力的なことです。でもそれは、非二元が立つ視点に全く反することです。ただ単に直接認識してください。観念化したり、想像したり、自分の意見を信じるのではなく。

(質問に対する答えを)ボブは知りません。私も知りません。誰も知らないのです。というのも、私たちは直接起こっていることを知っているだけだからです。起こっていないことを話そうとしても私たちは知らないのです。でもこれは素晴らしい質問です。これは完全に哲学的な質問で驚くほど素晴らしいものです。

2022/10/29

修行、あるいは座禅

佐々木閑先生のYouTubeの話が、仏教における修行の話に入りました。佐々木先生は他の動画でも言ってみえるのですが、仏教は修行によって自己を変えていく教えなのだそうです。その方法として、精神集中やマインドフルネス瞑想などをあげてみえます。

横田南嶺老師は円覚寺(禅宗)の管長ですから、当然座禅こそが仏道の基本だと説かれています。座禅することによって、自分は実在ではないということを体得するのだそうです。

セイラーボブは、瞑想は推奨しておらず、日常的に思考に気づいているという、「間断なき瞑想ならざる瞑想」というのを説いています。

私は、個人的には三人のおっしゃっていることは全然矛盾なく受け入れていて、瞑想も座禅も間断なき瞑想ならざる瞑想もありだと思っています。

セイラーボブは厳格な非二元の教師なので、瞑想することは時間の観念を持ち込むことになる、と言って推奨しません。でも、その一方で、何度でも自分がいないということを調査することによって条件付けの解除がなされるとも言い、自分が実在ではないということが身に染みるには時間がかかると言っています。

気をつけなくてはいけないのは、セイラーボブが現象の世界(私たちがマインドを通して見ている世界)の話をしているのか、それとも実在の世界(非二元の世界:私たちが見ることのできない世界)の話をしているのかということです。実在の世界には時間はないのだから、将来何者かになろうとする瞑想は無駄だと言う一方で、現象の世界で条件付けを解除するためには何度でも自分は実在ではないということを調べなさいと言っています。

「私は在る」と「私は実在ではない」という話も同様です。実在の世界では私はいない。でも現象の世界では私は在る(私はいる)。私は最初、「私は在る」(I AM)がどういうことなのか理解できませんでした。

「私はいないはずなのに、どうして私は在る(I AM)のか」とボブに質問したところ、存在(実在)が「私が在る」という感覚となってマインドに現れているというのです。私は在る(I AM)は、存在の感覚(自分が存在するという感覚)であり、それがマインドで行ける最高地点だと教えてくれました。要するに、「私は在る」(I AM)は現象の世界でマインドが感じることであり、「私はいない」は実在の世界の話です。実際には「私」はいないのですが、いるような感じがするという意味であり、それが実在を感じるということです。(「ただそれだけp112あたり参照)

ですから、マインドの世界では、「私は在る」(私はいる)のです。その「私は在る」を超えたところが私のいない非二元の世界なのですが、それを私たちが体験することはできません。また、それがどういうものかと認識することもできません。私たちの意識がそれの現れなのですが、だからといって、意識が何のかをはっきり言うことはできません。

要するに、非二元の話は、実在の世界と現象の世界があって、それがパラドックスになっているのです。一方では瞑想は時間の観念を持ち込むものだから役に立たないと言っておきながら、一方では何度も自分がいないと調べなさいと言います。

座禅や修行と非二元の教えも、この関係にあると思います。実在の世界(非二元)の世界では私たちは完全な一つのものであり、修行も瞑想も不要です。でも、現象の世界(マインドを通して見た世界)にはマインドがあり、それを修行や座禅によって克服していく道があります。私としては、どちらも矛盾なく受け入れることができます。

佐々木先生も横田老師も、「私はどこにも実在しない」と説いておきながら、その一方で精神集中や座禅を推奨するという、非二元と同じパラドックスを抱えているのが面白いですね。セイラーボブは「行為は起こってくるが、行為者はいない」と言い、横田老師は「無我を体得するために座禅する」と言います。もともと無我なら座禅しなくてもいいような気もしますが、それを知るためにやるというパラドックスです。

私は瞑想も座禅も卒業しましたが、それが無我を体得する方法だという仏教の教えも否定しません。でも、このブログ上では、仏教の修行は取り上げません。そこへ入っていくと、宗教が全面に出てしまうことと、いろんな方法がある上、個人差のある体験の話になって、収拾がつかなくなってしまうからです。このブログは、修行ではなく、あくまでも理解(科学・哲学・思想)を主題にしています。

一年以上仏教について書いてきましたが、ちょっと仏教へ入り込みすぎたかなと思う今日この頃。あやうく出家するところでした。仏教関連のYouTubeをあれこれ載せすぎて、かえってわかりにくくしてしまった気もします。

そろそろセイラーボブに戻る時期がきたようです。もちろん、佐々木先生や横田老師のYouTubeで非二元的なものがあればこれからも掲載させていただきますが、セイラーボブ中心でいきますので、よろしくお願いします。

2022/10/28

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第14回(2022年10月)

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第14回 (2022年10月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

2022/10/27

自己の本性とは何か

第642回「おおげさな話」2022/10/10【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

2022/10/26

一瞥体験

日本人の書いた非二元関連の本やブログ(個人の体験を語っているもの)を読むと、「一瞥体験」という言葉が多く出てきて、一瞥体験というものをとても重要視している人がいるのがわかります。

私はこのブログの中で、一瞥体験というものがいかに意味がないかを書いてきましたが、もう一度書いてみようと思います。これはちょっと微妙なところですが、理解の瞬間を詩的な表現を使って、一瞥体験のように表現するのはありだと思います。ここで言う一瞥体験とは、自分がいない世界を、あたかも自分が実際に見てきたような体験をしたという意味での一瞥体験であり、それが非二元の理解の前提条件であるかのように語られる体験のことです。

なぜ人々が一瞥体験を重要視しているかというと、その背景にはエンライトメント、覚醒、悟りといったものに対する誤解があると思います。それを手に入れる前段階として一瞥体験をとらえているのではないでしょうか。

「私はエンライトメントした」「私は悟りを開いた」とはなかなか公言できませんが、「私は一瞥体験をした」というなら許されるだろうという思いがあるような気がします。一瞥体験をしたことで、自分を人より上位に置きたいのです。そしてその体験を非二元ビジネス・神聖ビジネスの客寄せ看板にするのです。

でも、そもそも非二元の世界とは、「私」がいない世界です。もし、「私は非二元の世界を一瞥した」「そこに『私』はいなかった」と言うなら、その体験を見た(あるいは記憶している)人は誰ですか? そこに誰かがいなければ、体験したことを思い出せないはずです。そこに自分以外の誰かがいたのなら、それは非二元ではなく、自分の他にそれを見ていた誰かがいたことになります。

非二元の世界は、何もない世界であり、それを体験することはできないのです。一瞥体験しようもありません。もし一瞥体験したというのなら、(そんな気がした)(あれがそうであるにちがいない)程度のものです。

鈴木大拙は、円覚寺で禅の修行をしているうちに、松の木と自分が一体であるという体験をします。でもそれは、大拙がアメリカへ行く予定が決まっていて、何かを体得したいと集中的に禅に取り組んでいた時に起こった体験です。

そして、それを見ていた大拙がそこにいて、あとでそのことを語っています。松の木と完全に一体なら、大拙は消えるはずですが、消えてはいないのです。松の木は松の木として、大拙は大拙として識別できる形で一体だったと言うのなら、それは一体ではなく、くっついているのすぎません。

U.G.クリシュナムルティが言うように、人間のマインドはどんなことでも作り出してしまいます。私たちが大拙と同じ体験をしたいと思って集中的に座禅に取り組めば、同じ体験をするかもしれません。でも、「私」が消えるわけではないのです。それはあくまでもマインドの中の出来事なのです。

私も以前は覚醒したいと思っていました。それだけを目指していたといってもいいくらいです。たくさん瞑想をやったし、人の一瞥体験にも耳を傾けました。でも今ではそうしたことに全く興味がありません。おとぎ話のカラクリに気づいてしまったからです。

私は、一瞥体験、覚醒、エンライトメントを説くマスターを全く支持していません。そうした人たちは、マインドの中の出来事に留まっているからです。そうした人たちは、覚醒した人と覚醒していない人という区別を作り出していて、非二元ではありません。

覚醒した人も覚醒していない人も何の違いもありません(そもそも覚醒などないと思っています)。一瞥体験した人も一瞥体験していない人も何の違いもありません。違うというのなら、それは非二元ではありません。非二元とは、体験の外にあるたった一つのもののことです。誰しもがそれなのです。それが非二元の根本思想です。

一瞥体験したい人はすればいいし、覚醒体験したい人はすればいい。でも、手に入れたものはいつかは失われます。それは単なる体験だからです。

いつまでも覚醒や一瞥体験を目指していたら、神聖ビジネスや非二元ビジネスのカモになり続けるだけです。「自灯明 法灯明」を胸に、自分で考えて生きていきたいと思います。

2022/10/25

相応部(サンユッタニカーヤ)蘊 篇・因縁編 「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤

相応部(サンユッタニカーヤ)蘊 篇 I 

相応部(サンユッタニカーヤ)蘊 篇 II

相応部(サンユッタニカーヤ) 因縁篇I

相応部(サンユッタニカーヤ) 因縁篇II 以上 片山一良

佐々木閑先生のYouTubeで、阿含経相応部の素晴らしい話が続いていますが、非二元的な話はひとまず終わり、修行の話に移ったようです。修行の話は私のブログには合わないかなと思います。そこで、もっと非二元的な話はないかと、佐々木先生がネタ元にしてみえる原典を読みたくなったので、私の手におえるものかどうかを愛知県図書館に行って見ることにしました。買えばいいのですが、高い本なので。

これは、パーリ語(古代インド語)の経典を日本語に翻訳したものですが、出版が2014年~2016年ということもあって、わかりやすい現代語で書かれています。私でも読めます。ただし、読めるからといって内容が簡単に理解できるかというと、そうではありません。経の中の仏教用語が、いちいちわかりやすく解説されているわけではないので、それは別に調べる必要があると思われます。

また、用語を調べたとしても、今度はその経を正しく理解できるのかという問題が出てきます。各巻500ページ以上ある分厚い本で、これを読んで理解するのは相当骨の折れることですし、その中から非二元関連だけをピックアップするのはさらに骨の折れることのように思われました。

また、仮にそれができたとしても、著作権の問題があるので、おいそれとはブログに転載するわけにはいきません。ここはやっぱり佐々木閑先生のYouTubeを見るだけにしておいた方がよいという結論に至りました。ただ、最初期の仏教の経典の中に非二元の教えがぎっしりと詰まっているとわかっただけでよしとします。

「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 (講談社現代新書) 下條信輔

2022年6月14日の当ブログ、「人は自己を変えることができるのか」の中で、横田南嶺老師は、「(佐々木閑先生は)最後に無我ということは、今日の脳科学でも証明されていると教えてくださいました。下條信輔先生の説を紹介して、「私」という固まった確固としたものはないというのであります。例えば、記憶というものを積み重ねることによって、私たちは自分というものを形成していますが、記憶というのはほとんど後付けでできているというのです。自分の都合のよいように作り変えているのだそうです。これという固まった自我がないことは脳科学でも実証されているということでありました」と述べてみえます。

そこで、下條先生の著作をあれこれ読んだのですが(参考:読書日記 視覚の冒険 サブリミナル・マインド サブリミナル・インパクト、この本はまだ読んでなかったので読むことにしました。確かにこの本の中には「記憶は作り変えられている」というくだりがあります。また「意識(心)は他者との関係性の中で作られる」とも言ってみえます。

ただ、それが非二元的な文脈の中で語られているかというとそうではなく、「私はいない」とか「無我」というフレーズはどこにもありませんでした。この本から、下條先生が無我を説いていると解釈するのはちょっと無理があるような気がします。佐々木閑先生の講義を直接聞いたわけではないので、どういう文脈で語られたのかは不明ですが、おそらく、下條先生が翻訳された、「マインド・タイム」(ベンジャミン・リベット)の実験と、この本とを合わせて読んで、無我を説かれたのではないでしょうか。

私が下條先生を知ったのは佐々木閑先生経由ではなく、前野隆司先生のYouTubeを見て、ベンジャミン・リベットの実験を知り、前野先生の本脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳)を読み、そこからリベットの実験のネタ元である「マインド・タイム」を読んだからです。その後で、円覚寺の横田老師のYouTubeで佐々木先生の講義の話の中でも下條先生を引用されていると知りました。

非二元と仏教、科学の接点は、ここらあたりが最先端なのではないかと思います。今後とも佐々木閑先生、下條信輔先生はフォローしていきたいと思っています。前野隆司先生は「幸福学」の方へ行ってしまわれたのですが、一応フォローしていきたいなと思っています。

2022/10/24

悟りへの二つの道

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その23」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

私がいないということを、頭で理解するだけではダメ。それが身に染みて、それを生きるためにはどのような道があるのか。
直観による方法と知的理解による方法がある。

この話も非二元を学ぶ人にはとても参考になる話でした。まったくすばらしい。

2022/10/23

霊魂は存在しない

 佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その22」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)


「私」がいないなら、霊魂は存在しない。
霊魂が存在しないなら人は転生しない。
転生するのは五蘊。人は転生しない。

*****
佐々木先生のYouTubeは全部載せているわけではなく、私の独断で非二元の理解の助けになると思われるものだけを載せています。全部見たい方はこちら(Shizuka Sasaki)でフォローしてください。

2022/10/22

エンライトメントする一番速い方法は何ですか?

2022年9月18日ミーティング


40:59から。太字はボブ。細字はカット。

時間を調べてみると、時間もまた心理的な観念であるとわかるでしょう。もし過去のことを考えなかったら、過去は存在しますか? 思考なしで、過去や未来があると言うことができますか? できません。でもあなたは私に、「私は過去に存在した」と言うでしょう。では私はあなたに、「昨日を生きてください」と言います。遡って、先週、去年、あるいは一瞬前を生きてください。思考なくしては、一瞬前でさえ生きることはできません。

未来も同じです。(思考なしでは)未来を期待することも考えることもできません。あるのはこの今だけです。この直接の自然に起こる生命の本質、常に新鮮で新しいもの。それが、私たちが調べてみる必要のあるものであり、自分でやらなくてはいけません。もし疑問や質問があれば(聞いてください)、あなたたちの何人かは、しばらくはここに通っているので、このことを既に知っているので、躊躇しないでください。私が使う言葉よりも理解しやすいかもしれません。

質問がある人もいるでしょう。そして、「私がこんな質問をしたら他の人はどう思うだろう」と恐れているかもしれません。他の人を恐れて、質問を避けているかもしれません。その束縛を見てください。それは必要のないものです。

もしあなたが究極のもので、すべてが究極のものであるなら、あなたは、誰もあなたより優れてはいないと知っています。誰もあなたより劣ってもいません。あなたはそれです。それなら、何を恐れる必要があるでしょうか? ではとにかく、始めましょう。

オンラインで30人が参加しています。シンガポールのサンティから、いくつかの質問が届いています。彼女は尋ねています。まず最初に、
「エンライトメントする一番速い方法は何ですか? 私たちには時間が残されていません」
エンライトメントの一番速い方法を答えてもらえますか?

「汝それなり」(You are That.)

(一同笑う)
もともとそうだということを認識してください。私は普段、質問の助けになるようにこう尋ねます。「あなたにとって、エンライトメントとは何ですか?」。というのも、エンライトメントは、ある種の超越的な状態であり、絶え間のないエクスタシー、オルガスムであると考えている人がいるからです。でも、それは全く不可能です。なぜなら、脳にはセロトニンショック防止システムがあって、それが気を失くさせるからです。

それは私が言ったほど速い(方法)ではないね。(笑い)

ええ、そうですね。そのとおり。私たちがここで指摘しているのは、自然な状態を認識するということです。それをエンライトメントと呼ぶ人がいますが、私たちはそれを自然な状態と呼んでいます。それは、おしゃべりや、何かになろう、どこかへ行こうという衝動の根底にもともと存在しているものです。

ある人にとってエンライトメントは、すべてが意識、認識の光にあふれ、知らないことを知るということです。知らないことは何かと知るということも認識するということです。また、他の人にとってのエンライトメントは、軽快さです。人生を航海のように軽快に生きること。まるで動物や鳥が歌い、雨を避け、流れとともに自然に生きているように。そしてそれが、脳による物語という妨害がなければ、どれほどすでに起こっているかを見てください。これが最初の質問。エンライトメントする一番速い方法。エンライトメントはもともとここにある、もしくは、あなたはもともとそれです。

二番目の質問。
「存在(presence)は、それを達成するために最も重要なことですか、それともマインドの状態が重要ですか?」
達成するためには、存在かマインドの状態かということですが、まず第一に、あなたは、もともと存在するものを達成することはできません。あなたは、何がそれを不鮮明にしているかを見ることができるだけです。そしてそれはマインドです。

つまり、存在はもうすでにここにあり、あなたはもう存在しています。それを理解するためには、マインドがあなたに、「私は存在していない。私は存在にならなくてはいけない」と言っているのを知ることです。それは真実ではありません。あなたは存在していないと信じていても、あなたは存在しています。

存在(present)という言葉を調べてください。それは、preーsence(感覚ー以前)です。感覚がやってくる前にこう言ってみてください。「この自然な瞬間の状態に何が問題なのか。以上」。

三番目の質問。
「中道(middle ground)の状態に到達するためにはどうやったらいいのですか?」。
これも同じですが、誰がどこへ行くのですか? サンティ、あなたは質問に対する答えをハートで聞くといいと思います。というのも、ボブの言うことは、誰しもがもともと持っている最も深い内側の知恵と共鳴するからです。誰しも、言語が作り上げたマインドの物語なしで赤ちゃんとして生まれます。そのため、最も深いレベルでは、私たちはもともと存在の明確さを知っているのです。私たちがそれを達成する必要はないのです。

「どうやってその状態に到達するのか?」。それは状態ではなく、ボブが言うように、感覚ー以前(pre-sence)にあるものです。マインドがそれに解釈を上塗りする前に、それはもうすでにそこにあるのです。それが、いわゆる中道です。

六つの質問があるのですが、四番目の質問です。
「忙しい人が日常的に行う儀式や方法はたくさんあるのですが、解放をもたらす簡単な演習は何ですか?」
サンティ、こうした質問を尋ねてくれたことに感謝します。たくさんの人たちもこの質問を共有していて、答えを望んでいます。簡単な演習は?

フルストップ! ピリオド!
そこ(マインド)へ行かないで。

ええ、マインドへ行かないで。誰が見ているのか調べてください。「儀式」? いいえ、儀式は必要ありません。儀式や演習は、そこに何かを達成する誰かがいることを前提としています。もしそこに誰もいないのなら、もともとそれはそれです。

そのため、あなたは自然の中に時間(が存在しないということ)を調べてみる必要があります。時間は何かを達成するためにあります。

ええ、未来です。もちろん。そしてまた、演習するということは、「あなたはそれではない。そしてたぶん未来に(それに)なるだろう」ということを意味します。未来は観念であり、想像したものです。体験しているのは今だけです。

五番目の質問。
「顕現について。顕現のマスター(支配者)になるためにはどうしたらいいでしょうか? どうぞ教えてください」
顕現のマスターになるためにはどうしたらいいですか?(笑い)

もし顕現が存在しないなら、誰がそのマスターになれると言うのですか? すべては空間の内容物として現れています。

質問はちょっと違っていて、「人間は不完全で価値がないと感じているので、それに何かを付け加えたい。私は人間であり、不足しているため、もっとお金や関係性が必要で、達成することや人々に認めてもらうことや賞賛が欲しい。そのため、私はそれを顕現として出現させる。それを外の世界に創造したい」ということだと思うのですが、生命の本質としてのあなたは、もともと源として完全なものであり、そこからすべてが現れています。

人間として、あなたは何かを変える必要があると思っている。というのは、あなたは完全だとわかっていないから。でも、あなたが人間として存在するという信念にリラックスして入っていくと、それ以外に何か違いをもたらす必要は何もないということがわかると思います。つまり、生として、あなたは顕現のマスターであり、何かを変える必要はないのです。

髪の毛、この禿げ頭は完璧です(ボブの頭をなでる)。(笑い)
参加者:注意して、(聞き取れず)
ええ、昨日facebookにすてきな小さなかつらとまつげをつけて投稿したの。

六番目の質問。
「グルは必要ですか? 会った時に、それがその人だとどうしてわかるのですか? また、どうやって探すのですか?」
グルは必要ですか?

グルとは、私たちの内側にある本質のことです。内在する知性は少し先を感知して、あなたを存在の中へと導き、それがあなたを生きています。あなたが開放的であれば、それはあなたが行くべき場所へ連れていくでしょう。もし私たちが、自分自身をいわゆるスピリチュアルな太陽光から遮断するなら、苦しむことになります。本当のあなたである内在する本質は、その完全さ、開放性とともに、そこにあります。

そして、あなたがもし何らかの理由で、もっと早く学ぶように条件付けられているか、あるいは、あなたがすでに知っていることを教えてくれる何らかの手段が人生において必要なら、それが共鳴して、生がそういう状況をもたらしてくれます。それはあなたが完全に信頼できるもののはずです。

2022/10/21

未来はすべて決まっているのか?

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その21」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)


今日の話はとっても重要だと思います。自由意志はあるのか? 宿命はあるのか?

仏教は、私たちの意思も因果の要素であると考えるので、個人の意思の存在を認め、個人が何をするかによって未来は変わっていくのだと説きます。自分で自分を変えていく教えです。私はこの考え方が好きです。

セイラーボブも非二元は運命論ではないと言っています。

2022/10/20

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第13回 (2022年10月)

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第13回 (2022年10月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師


引用元サイト 盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む

今回もすばらしい話でした。

2022/10/19

龍雲寺ダンマトーク:鈴木大拙に学ぶ 

【龍雲寺ダンマトーク:鈴木大拙に学ぶ】| 野沢龍雲寺様主催法話会 横田南嶺老師


「肘外に曲がらず」とは、そういう意味だったのですね。
大拙は、無分別・無差別・霊性を説いています。
仏教(禅)も単一性、一つのものを説いているということがよくわかりました。
これもまたすばらしい話でした。

2022/10/18

龍雲寺ダンマトーク:今こそ盤珪禅師に学ぶ

龍雲寺ダンマトーク:今こそ盤珪禅師に学ぶ  臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老大師猊下

これはすばらしい。盤珪という人とその教えがよくわかりました。

2022/10/17

我に執着することが問題である

 第625回「どうして真理を得られないのか」2022/9/23【毎日の管長日記と呼吸瞑想】

2022/10/16

心理的な苦しみの解消

セイラーボブは、「ただそれだけ」の中で(p142)、「私」という参照点が消えると、心理的な苦しみを取り除くことができると言っています。

その他のボブの講話の中でも、非二元を理解すると(「私」という参照点が消えて)、心理的な苦しみが消えると何度も言っています。逆の言い方をすると、ボブの教える非二元を理解して起きることは、心理的な苦しみが消えることだけだということです。

最初私は、セイラーボブの言っていることを理解したら、エンライトメントが起きるのかと思っていました。でも、セイラーボブの言っていることを理解してもエンライトメントは起きません。精神がス~っとして世界が変わるとか、一瞥体験をするとかいうこともありません。意識がシフトするとか、体調が劇的に良くなるということもありません。引き寄せの法則が働いて、お金が入ってくるとか、物事がうまくいくようになるということもありません。

教えを理解しても、こちらの側で何かが突然起きるとか、何かが変わるということはありません。セイラーボブの教えていることは、何かになることや、何かを手に入れることではありません。

私はこのブログで「非二元」という言葉を使っていますが、私の知っている非二元はセイラーボブ経由のものだけです。そのため、他の非二元の教師たちが何を教えているのかを正確には知りません。もちろん、他の人の本も何冊かは読んだことがありますが、その人たちの説く非二元が、セイラーボブの説く非二元と正確に同じかどうかは知りません。

おそらく他の人たちは、「知性エネルギー」や「参照点」という言葉を使わないでしょう。覚醒や過去生があると説く人たちもいるでしょう。ただ、「行為者の不在」「時間の不存在」など、基本的な部分が同じなら、一応は広い意味で非二元の語り部として尊重したいと思いますし、彼らも基本的には同じことを教えているのだと思っています。

セイラーボブの教える非二元は、「心理的、あるいは精神的な苦しみからの解放」だけを主眼としています。世俗的な成功法則ではありません。そのため、あまり人気がありません。毎週日曜日に生中継されるボブのfacebookのミーティングを生中継で見ている人は、毎回、15~35人程度です。翌日配信されるYouTubeの再生回数は、累積でも500~1000回程度までです。世界中でたったそれだけです。

人気のない理由はいくつかあるのですが、一番大きな理由は、ボブが毎回同じような内容の話を繰り返すので、一度理解した人はそうたびたび見ないからです。ミーティングに参加している人の顔ぶれを見ても、入れ替わりが激しく、私が通っていた頃(7~8年前)の人はほとんど見かけません。

信者となって何回も聞かなければいけないような教えではないし、数回聞けば理解できる話です。私の場合は、英語力不足、何か特別なことが起きるのだと勝手に思い込んでいたこと、長旅の途中で時間があり、メルボルン滞在が楽しかったことなどの理由により、何度もミーティングに出ましたが、今となっては笑い話です。

また、もう一つの理由は、幸せに暮らしている人はボブのところへは来ないからです。人生が順調にいっていて、悩みもなく幸せなら、ボブのミーティングに参加して「あなたは実在しない」なんていう話を聞く必要はありません。人生が順調にいっている人たちが、もし何かのセミナーや教えに惹かれるとしたら、その幸せがもっと長く大きくなるような教え、言うならば、世俗的な成功法則のようなものに惹かれるはずです。ロンダバーンの本はメルボルンやシドニーの本屋で見かけましたが、セイラーボブの本は見たことがありません。

ボブが教えていることは、心理的・精神的な苦しみからの解放だけです。ボブの教えを理解しても、心理的な苦しみが終わるだけなのです。実際にはそう簡単にはいきませんが、ではどうして心理的な苦しみが終わるのでしょうか?

苦しみの根源である「私」は存在しないと知るからです。苦しみを「私」と結びつけている参照点が消えるからです。すべての問題の根源である「私」が消えるからです。極端なことを言えば、私が死んだらすべての問題はなくなります。でも、自殺しなくても、思考の「私」は死ぬことが可能だと教えているのです。それは、もともと生まれてさえいないと教えているのです。

ではどうやったらいいのか。
ボブは、エクササイズや瞑想を説きません。また、具体的な方法を教えるようなこともしません。せいぜいボブが教えるのは「フルストップ!」と「が実在かどうかを何度も何度も調べる」ことだけです。

私の場合、「私」が完全に消えたわけではないし、苦しみも時々はやってきます。このブログを読んでいただいている人の多くも、具体的に非二元を生きるにはどうしたらいいのかと思ってみえるかもしれません。

「私」は実在ではない、ということを、日々の生活に活かしたり、具体的な悩みや苦悩にどう適応したりしていくかは、それぞれ個人にかかっていると思います。悩みや苦悩が多様なように、その対処の仕方も人それぞれだと思います。

私の場合、何か問題や苦しみが起こった時にやることは、「フルストップ!」と言って思考を止め、「私」が実在かどうかを何度も何度も調べることだけです。それで問題や苦しみが消える場合もあるし、少し和らぐだけの時もあります。

私たちは、心理的な苦しみから逃れるために、エンライトメントのような手軽で夢のような方法があったらと夢見るのですが、そんなものはないということは、少し考えればわかりそうなものです(私は30年以上もわかりませんでしたが)。心理的な苦しみを解消するためには、その苦しみを見つめ、それが実在なのか、誰が苦しんでいるのかを調べる以外に方法はないのだと思います。

非二元の教えを理解するのは難しいことではありません。でも、それを生きることは、そんなに簡単なことではないと思います。セイラーボブの教えを聞いた人すべてから、たちどころに心理的な苦しみが消えるなら、評判が評判を呼び、もっとたくさんの人が教えを聞きに押しかけてもいいと思うのですが、そうはなっていません。

教えが理解できないということではありません。ほとんのどの人が教えを理解します。でも、その教えに懐疑的な人もいます。また、それが真実だと思った人でも、心理的苦しみから解放されない人は大勢います。何が足りないのかといえば、「私」が実在かどうかを何度も調べることが足りないのだと思います。それが、非二元を生きるということです。そうした作業をしていく中で、苦しみが消えていくのだと思います。

私は今現在平穏に暮らしていて、もう何も探していませんし、以前ほどの心理的な苦しみもありません。でも、いつどんなことが起きるかは誰にもわからないことです。何か予期せぬことが起こった時、苦境におちいった時こそ、自分が非二元をちゃんと生きているのかわかる時だと思います。

私たちは、「私」、分離した存在、個人であるという催眠にかかっています。それは繰り返し繰り返し学ぶことによって強化されてきました。名前、性別、自己の役割…、そうしたことは繰り返しによって学んだものです。それが一夜にして消えることはありません。それを理解することは瞬時にできますが、習慣化された古いパターンは繰り返しやってきます。というのも、パターンは繰り返しだからです。それから抜け出すことも同じようにして起こります。何度も何度も再認識してください。SAILOR BOB: Bags of pointers to nondualityp262より)

あなたはその体であると、何度言われたことでしょう? もっとも効果的な学習方法は繰り返しによって学ぶことです。今、あなたは真実を見抜き始めていますが、世界全体があなたを幻影の中に連れ戻そうとしています。真実を見抜き続け、それを繰り返すことによって、それはあなたのものとなるでしょう。今、幻影があなたを明晰さから連れ出すかわりに、幻影を明晰さの中へ引き込めば、真実があなたの中で強化されるでしょう。SAILOR BOB: Bags of pointers to nondualityp263より)

参考:理解することがゴールではありません(2021.10.16ブログ)

2022/10/06

輪廻を信じるべきか?

 佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その17」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)


仏教の教えを今の私たちに当てはめたらどうなるのか? 輪廻を信じるべきか? 地面の下に地獄があるのか?

私にもそんなジレンマがあったのですが、見事に解消されました。

2022/10/05

盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む 第12回

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第12回 (2022年9月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

実体がないとはどういうことか。
私という現象が現れているにすぎない。

鏡を使って空を説明するのはボブと同じで、おもしろいですね。

2022/10/04

仏教における悟りの段階

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その16」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)


仏教の修行者(比丘)が修行を続けると、どういう段階をへて悟るのか。
仏教の悟りとは、突然に起きるものではなく、コツコツと自分を変えていくトレーニング。
トレーニングを積めば、最終的には悟りにたどり着く。どんな人でも確実に上がっていける。誰にでも道が開かれている。

これは非二元の教えにも通じると思います。
セイラーボブの教えを理解すると、「私」は実在ではない、ということがわかります。ああ、自分は理解した、もうこれで大丈夫だ、と思っても、ハネムーンはそう長くは続きません。日常生活で何か問題が起きると、すぐに「私」がやってきます。

そしてまた「私」がいるか調べて、「私」は実在ではないと理解します。でも、しばらくすると、また「私」はやってきます。そしてまた調べます。あとはこの繰り返しです。そして、少しずつ「私」はやって来なくなります。でも、完全に「私」がやって来なくなることはなく、「私」が実在かを調べることはずっと続くのであり、これは一種のトレーニングではないかと思います。

2022/10/03

「ある」とも「ない」とも言えない

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その15」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

「『私』はいるように見えます。どうしたらよいでしょうか?」と、チャンナは阿南に尋ねます。

自己存在は縁起として成り立っている。
今回もすばらしい話でした。

2022/10/02

仏教と自死(自殺)

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その13」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

「五蘊は無常、苦であるから、厭離せよ」
「ヴァッカリよ、恐れるな。あなたにとって命の終りは決して悪いものとはならない」

佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その14」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)

自分の中に、「生きている人間と死んだ人間に対するの差別」があるのに気づかされました。

念のために書いておきますが、ここで言っている悟った人というのは、執着を捨て去ることができた人のことです。エンライトメントや覚醒のことではありません。

2022/10/01

アウエアネス(意識)

セイラーボブの言うアウエアネス(意識)とは、純粋な意識や特別な意識のことではなく、私たちの普通の意識のことです。私たちの日常、思考の背景にある普通の意識のことです。

「あなたはアウエアネス(意識)である」と聞くと、何か特別な意識、変性意識のようなものがあり、それを手に入れなくてはいけないと思ってつまづきます。私もそうでした。そんなものはありません。もともと私たちにある普通の意識のことです。

普通の意識と特別な意識があるわけではなく、一つの意識しかありません。もし、普通の意識と特別な意識の二つがあるなら、その時点で非二元ではなくなります。一つの意識しかないから非二元なのであり、別の意識を手に入れる必要はないのです。

では、なぜつまずくのでしょう? それだけ私たちの条件付けが根深いからです。その条件付けはどこから来ているのでしょうか? インドのグル、全米人気ナンバーワンの教師、悟りの解釈の間違い。それはわかりません。おそらく、そうしたことの積み重ねかもしれません。

でも、人々はそうした特別な意識があると思っていて、「汝それなり」と言われても理解できません。「汝それなり」と言われて、「どうやったらそれになれるでしょう?」と探求を始めます。

「あなたは人間である」と言われて、「どうやったら人間になれるでしょうか?」と尋ねる人はいません。自分が人間であることに理屈は要りません。人間になろうと探求する必要もありません。

汝それなり! フルストップ!

それを理解するために、特別な理解や最終理解は必要ありません。そんなものはありません。普通の理解です。何か特別なことが起きたり、達成しなくてはいけないゴールとしての理解があるわけではないのです。段階的な理解も幻想です。登るべき階段はありません。もうそこにいるのですから。

「探求」は幻想です。あなたは北極点にいるのに、北極点を探して右往左往するようなものです。探求すればするほど遠ざかります。もうそこにいるのですから。

一瞥体験や覚醒を説くマスターには注意してください。「あるがままのあなたで完全なもの」「そのままでいい」と説く一方で、一瞥体験や覚醒を説くことの矛盾に気づいてください。

一瞥体験や覚醒を説くということは、今のままのあなたでは不十分だと言っていることになり、今のあなたではない別の何者かになることを説いているのです。それでは非二元ではなく、二つのあなたがいることになります。

一瞥体験や覚醒を説く人たちは、いまだに1970年代・80年代のスピリチュアル・ムーブメントの延長線上で探求ごっこを続けている人たちです。非二元は、一瞥体験や覚醒とは関係ありません。非二元は、70年代、80年代の、覚醒を説くグルやマスターが教えていたことと同じではありません。その辺をごちゃまぜにしている人たちに注意してください。

名前はあげませんが、けっこう有名な人や、本が売れている人の中にも、そういう人がいます。見分け方は簡単で、一瞥体験や覚醒を売り物にして、高額な金を取る人たちです。非二元は、無料もしくは、わずかばかりのドネーションで学べることです。

「意識」に余分は形容詞をつけないでください。「理解」に余分な形容詞をつけないでください。余分な形容詞をつけるグルやマスター、セラピスト、教師たちに気を付けてください。手に入れなくてはいけないものは何もありません。私たちはもうすでに持っています。体験しなくてはいけないことは何もありません。私たちはもともとそれです。

なすべきことは、その意識を見えにくくしている雲(思考)に気づいていることだけです。問題が起きるたびに、私は実在かどうかを何度も調べることだけです。