2022/10/31
非二元の世界、現象の世界
2022/10/30
もし地球上に人間がいなかったら、アウエアネス(意識)はあるのですか?
2022年10月9日ミーティング
2022/10/29
修行、あるいは座禅
佐々木閑先生のYouTubeの話が、仏教における修行の話に入りました。佐々木先生は他の動画でも言ってみえるのですが、仏教は修行によって自己を変えていく教えなのだそうです。その方法として、精神集中やマインドフルネス瞑想などをあげてみえます。
横田南嶺老師は円覚寺(禅宗)の管長ですから、当然座禅こそが仏道の基本だと説かれています。座禅することによって、自分は実在ではないということを体得するのだそうです。
セイラーボブは、瞑想は推奨しておらず、日常的に思考に気づいているという、「間断なき瞑想ならざる瞑想」というのを説いています。
私は、個人的には三人のおっしゃっていることは全然矛盾なく受け入れていて、瞑想も座禅も間断なき瞑想ならざる瞑想もありだと思っています。
セイラーボブは厳格な非二元の教師なので、瞑想することは時間の観念を持ち込むことになる、と言って推奨しません。でも、その一方で、何度でも自分がいないということを調査することによって条件付けの解除がなされるとも言い、自分が実在ではないということが身に染みるには時間がかかると言っています。
気をつけなくてはいけないのは、セイラーボブが現象の世界(私たちがマインドを通して見ている世界)の話をしているのか、それとも実在の世界(非二元の世界:私たちが見ることのできない世界)の話をしているのかということです。実在の世界には時間はないのだから、将来何者かになろうとする瞑想は無駄だと言う一方で、現象の世界で条件付けを解除するためには何度でも自分は実在ではないということを調べなさいと言っています。
「私は在る」と「私は実在ではない」という話も同様です。実在の世界では私はいない。でも現象の世界では私は在る(私はいる)。私は最初、「私は在る」(I AM)がどういうことなのか理解できませんでした。
「私はいないはずなのに、どうして私は在る(I AM)のか」とボブに質問したところ、存在(実在)が「私が在る」という感覚となってマインドに現れているというのです。私は在る(I AM)は、存在の感覚(自分が存在するという感覚)であり、それがマインドで行ける最高地点だと教えてくれました。要するに、「私は在る」(I AM)は現象の世界でマインドが感じることであり、「私はいない」は実在の世界の話です。実際には「私」はいないのですが、いるような感じがするという意味であり、それが実在を感じるということです。(「ただそれだけp112あたり参照)
ですから、マインドの世界では、「私は在る」(私はいる)のです。その「私は在る」を超えたところが私のいない非二元の世界なのですが、それを私たちが体験することはできません。また、それがどういうものかと認識することもできません。私たちの意識がそれの現れなのですが、だからといって、意識が何のかをはっきり言うことはできません。
要するに、非二元の話は、実在の世界と現象の世界があって、それがパラドックスになっているのです。一方では瞑想は時間の観念を持ち込むものだから役に立たないと言っておきながら、一方では何度も自分がいないと調べなさいと言います。
座禅や修行と非二元の教えも、この関係にあると思います。実在の世界(非二元)の世界では私たちは完全な一つのものであり、修行も瞑想も不要です。でも、現象の世界(マインドを通して見た世界)にはマインドがあり、それを修行や座禅によって克服していく道があります。私としては、どちらも矛盾なく受け入れることができます。
佐々木先生も横田老師も、「私はどこにも実在しない」と説いておきながら、その一方で精神集中や座禅を推奨するという、非二元と同じパラドックスを抱えているのが面白いですね。セイラーボブは「行為は起こってくるが、行為者はいない」と言い、横田老師は「無我を体得するために座禅する」と言います。もともと無我なら座禅しなくてもいいような気もしますが、それを知るためにやるというパラドックスです。
私は瞑想も座禅も卒業しましたが、それが無我を体得する方法だという仏教の教えも否定しません。でも、このブログ上では、仏教の修行は取り上げません。そこへ入っていくと、宗教が全面に出てしまうことと、いろんな方法がある上、個人差のある体験の話になって、収拾がつかなくなってしまうからです。このブログは、修行ではなく、あくまでも理解(科学・哲学・思想)を主題にしています。
一年以上仏教について書いてきましたが、ちょっと仏教へ入り込みすぎたかなと思う今日この頃。あやうく出家するところでした。仏教関連のYouTubeをあれこれ載せすぎて、かえってわかりにくくしてしまった気もします。
そろそろセイラーボブに戻る時期がきたようです。もちろん、佐々木先生や横田老師のYouTubeで非二元的なものがあればこれからも掲載させていただきますが、セイラーボブ中心でいきますので、よろしくお願いします。
2022/10/28
2022/10/27
2022/10/26
一瞥体験
日本人の書いた非二元関連の本やブログ(個人の体験を語っているもの)を読むと、「一瞥体験」という言葉が多く出てきて、一瞥体験というものをとても重要視している人がいるのがわかります。
私はこのブログの中で、一瞥体験というものがいかに意味がないかを書いてきましたが、もう一度書いてみようと思います。これはちょっと微妙なところですが、理解の瞬間を詩的な表現を使って、一瞥体験のように表現するのはありだと思います。ここで言う一瞥体験とは、自分がいない世界を、あたかも自分が実際に見てきたような体験をしたという意味での一瞥体験であり、それが非二元の理解の前提条件であるかのように語られる体験のことです。
なぜ人々が一瞥体験を重要視しているかというと、その背景にはエンライトメント、覚醒、悟りといったものに対する誤解があると思います。それを手に入れる前段階として一瞥体験をとらえているのではないでしょうか。
「私はエンライトメントした」「私は悟りを開いた」とはなかなか公言できませんが、「私は一瞥体験をした」というなら許されるだろうという思いがあるような気がします。一瞥体験をしたことで、自分を人より上位に置きたいのです。そしてその体験を非二元ビジネス・神聖ビジネスの客寄せ看板にするのです。
でも、そもそも非二元の世界とは、「私」がいない世界です。もし、「私は非二元の世界を一瞥した」「そこに『私』はいなかった」と言うなら、その体験を見た(あるいは記憶している)人は誰ですか? そこに誰かがいなければ、体験したことを思い出せないはずです。そこに自分以外の誰かがいたのなら、それは非二元ではなく、自分の他にそれを見ていた誰かがいたことになります。
非二元の世界は、何もない世界であり、それを体験することはできないのです。一瞥体験しようもありません。もし一瞥体験したというのなら、(そんな気がした)(あれがそうであるにちがいない)程度のものです。
鈴木大拙は、円覚寺で禅の修行をしているうちに、松の木と自分が一体であるという体験をします。でもそれは、大拙がアメリカへ行く予定が決まっていて、何かを体得したいと集中的に禅に取り組んでいた時に起こった体験です。
そして、それを見ていた大拙がそこにいて、あとでそのことを語っています。松の木と完全に一体なら、大拙は消えるはずですが、消えてはいないのです。松の木は松の木として、大拙は大拙として識別できる形で一体だったと言うのなら、それは一体ではなく、くっついているのすぎません。
U.G.クリシュナムルティが言うように、人間のマインドはどんなことでも作り出してしまいます。私たちが大拙と同じ体験をしたいと思って集中的に座禅に取り組めば、同じ体験をするかもしれません。でも、「私」が消えるわけではないのです。それはあくまでもマインドの中の出来事なのです。
私も以前は覚醒したいと思っていました。それだけを目指していたといってもいいくらいです。たくさん瞑想をやったし、人の一瞥体験にも耳を傾けました。でも今ではそうしたことに全く興味がありません。おとぎ話のカラクリに気づいてしまったからです。
私は、一瞥体験、覚醒、エンライトメントを説くマスターを全く支持していません。そうした人たちは、マインドの中の出来事に留まっているからです。そうした人たちは、覚醒した人と覚醒していない人という区別を作り出していて、非二元ではありません。
覚醒した人も覚醒していない人も何の違いもありません(そもそも覚醒などないと思っています)。一瞥体験した人も一瞥体験していない人も何の違いもありません。違うというのなら、それは非二元ではありません。非二元とは、体験の外にあるたった一つのもののことです。誰しもがそれなのです。それが非二元の根本思想です。
一瞥体験したい人はすればいいし、覚醒体験したい人はすればいい。でも、手に入れたものはいつかは失われます。それは単なる体験だからです。
いつまでも覚醒や一瞥体験を目指していたら、神聖ビジネスや非二元ビジネスのカモになり続けるだけです。「自灯明 法灯明」を胸に、自分で考えて生きていきたいと思います。
2022/10/25
相応部(サンユッタニカーヤ)蘊 篇・因縁編 「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤
相応部(サンユッタニカーヤ) 因縁篇II 以上 片山一良
佐々木閑先生のYouTubeで、阿含経相応部の素晴らしい話が続いていますが、非二元的な話はひとまず終わり、修行の話に移ったようです。修行の話は私のブログには合わないかなと思います。そこで、もっと非二元的な話はないかと、佐々木先生がネタ元にしてみえる原典を読みたくなったので、私の手におえるものかどうかを愛知県図書館に行って見ることにしました。買えばいいのですが、高い本なので。
これは、パーリ語(古代インド語)の経典を日本語に翻訳したものですが、出版が2014年~2016年ということもあって、わかりやすい現代語で書かれています。私でも読めます。ただし、読めるからといって内容が簡単に理解できるかというと、そうではありません。経の中の仏教用語が、いちいちわかりやすく解説されているわけではないので、それは別に調べる必要があると思われます。
また、用語を調べたとしても、今度はその経を正しく理解できるのかという問題が出てきます。各巻500ページ以上ある分厚い本で、これを読んで理解するのは相当骨の折れることですし、その中から非二元関連だけをピックアップするのはさらに骨の折れることのように思われました。
また、仮にそれができたとしても、著作権の問題があるので、おいそれとはブログに転載するわけにはいきません。ここはやっぱり佐々木閑先生のYouTubeを見るだけにしておいた方がよいという結論に至りました。ただ、最初期の仏教の経典の中に非二元の教えがぎっしりと詰まっているとわかっただけでよしとします。
「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤 (講談社現代新書) 下條信輔
2022年6月14日の当ブログ、「人は自己を変えることができるのか」の中で、横田南嶺老師は、「(佐々木閑先生は)最後に無我ということは、今日の脳科学でも証明されていると教えてくださいました。下條信輔先生の説を紹介して、「私」という固まった確固としたものはないというのであります。例えば、記憶というものを積み重ねることによって、私たちは自分というものを形成していますが、記憶というのはほとんど後付けでできているというのです。自分の都合のよいように作り変えているのだそうです。これという固まった自我がないことは脳科学でも実証されているということでありました」と述べてみえます。
そこで、下條先生の著作をあれこれ読んだのですが(参考:読書日記 視覚の冒険 サブリミナル・マインド サブリミナル・インパクト)、この本はまだ読んでなかったので読むことにしました。確かにこの本の中には「記憶は作り変えられている」というくだりがあります。また「意識(心)は他者との関係性の中で作られる」とも言ってみえます。
ただ、それが非二元的な文脈の中で語られているかというとそうではなく、「私はいない」とか「無我」というフレーズはどこにもありませんでした。この本から、下條先生が無我を説いていると解釈するのはちょっと無理があるような気がします。佐々木閑先生の講義を直接聞いたわけではないので、どういう文脈で語られたのかは不明ですが、おそらく、下條先生が翻訳された、「マインド・タイム」(ベンジャミン・リベット)の実験と、この本とを合わせて読んで、無我を説かれたのではないでしょうか。
私が下條先生を知ったのは佐々木閑先生経由ではなく、前野隆司先生のYouTubeを見て、ベンジャミン・リベットの実験を知り、前野先生の本(脳はなぜ「心」を作ったか・錯覚する脳)を読み、そこからリベットの実験のネタ元である「マインド・タイム」を読んだからです。その後で、円覚寺の横田老師のYouTubeで佐々木先生の講義の話の中でも下條先生を引用されていると知りました。
非二元と仏教、科学の接点は、ここらあたりが最先端なのではないかと思います。今後とも佐々木閑先生、下條信輔先生はフォローしていきたいと思っています。前野隆司先生は「幸福学」の方へ行ってしまわれたのですが、一応フォローしていきたいなと思っています。
2022/10/24
悟りへの二つの道
2022/10/23
霊魂は存在しない
佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その22」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)
2022/10/22
エンライトメントする一番速い方法は何ですか?
2022年9月18日ミーティング
「エンライトメントする一番速い方法は何ですか? 私たちには時間が残されていません」
エンライトメントの一番速い方法を答えてもらえますか?
「存在(presence)は、それを達成するために最も重要なことですか、それともマインドの状態が重要ですか?」
達成するためには、存在かマインドの状態かということですが、まず第一に、あなたは、もともと存在するものを達成することはできません。あなたは、何がそれを不鮮明にしているかを見ることができるだけです。そしてそれはマインドです。
「中道(middle ground)の状態に到達するためにはどうやったらいいのですか?」。
これも同じですが、誰がどこへ行くのですか? サンティ、あなたは質問に対する答えをハートで聞くといいと思います。というのも、ボブの言うことは、誰しもがもともと持っている最も深い内側の知恵と共鳴するからです。誰しも、言語が作り上げたマインドの物語なしで赤ちゃんとして生まれます。そのため、最も深いレベルでは、私たちはもともと存在の明確さを知っているのです。私たちがそれを達成する必要はないのです。
「忙しい人が日常的に行う儀式や方法はたくさんあるのですが、解放をもたらす簡単な演習は何ですか?」
「顕現について。顕現のマスター(支配者)になるためにはどうしたらいいでしょうか? どうぞ教えてください」
顕現のマスターになるためにはどうしたらいいですか?(笑い)
「グルは必要ですか? 会った時に、それがその人だとどうしてわかるのですか? また、どうやって探すのですか?」
グルは必要ですか?
2022/10/21
未来はすべて決まっているのか?
佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その21」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)
2022/10/20
2022/10/19
龍雲寺ダンマトーク:鈴木大拙に学ぶ
2022/10/18
2022/10/17
2022/10/16
心理的な苦しみの解消
私たちは、「私」、分離した存在、個人であるという催眠にかかっています。それは繰り返し繰り返し学ぶことによって強化されてきました。名前、性別、自己の役割…、そうしたことは繰り返しによって学んだものです。それが一夜にして消えることはありません。それを理解することは瞬時にできますが、習慣化された古いパターンは繰り返しやってきます。というのも、パターンは繰り返しだからです。それから抜け出すことも同じようにして起こります。何度も何度も再認識してください。(SAILOR BOB: Bags of pointers to nondualityp262より)
あなたはその体であると、何度言われたことでしょう? もっとも効果的な学習方法は繰り返しによって学ぶことです。今、あなたは真実を見抜き始めていますが、世界全体があなたを幻影の中に連れ戻そうとしています。真実を見抜き続け、それを繰り返すことによって、それはあなたのものとなるでしょう。今、幻影があなたを明晰さから連れ出すかわりに、幻影を明晰さの中へ引き込めば、真実があなたの中で強化されるでしょう。(SAILOR BOB: Bags of pointers to nondualityp263より)
2022/10/06
輪廻を信じるべきか?
佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その17」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)
2022/10/05
盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む 第12回
2022/10/04
仏教における悟りの段階
佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その16」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)
トレーニングを積めば、最終的には悟りにたどり着く。どんな人でも確実に上がっていける。誰にでも道が開かれている。
セイラーボブの教えを理解すると、「私」は実在ではない、ということがわかります。ああ、自分は理解した、もうこれで大丈夫だ、と思っても、ハネムーンはそう長くは続きません。日常生活で何か問題が起きると、すぐに「私」がやってきます。
2022/10/03
「ある」とも「ない」とも言えない
2022/10/02
仏教と自死(自殺)
2022/10/01
アウエアネス(意識)
セイラーボブの言うアウエアネス(意識)とは、純粋な意識や特別な意識のことではなく、私たちの普通の意識のことです。私たちの日常、思考の背景にある普通の意識のことです。
「あなたはアウエアネス(意識)である」と聞くと、何か特別な意識、変性意識のようなものがあり、それを手に入れなくてはいけないと思ってつまづきます。私もそうでした。そんなものはありません。もともと私たちにある普通の意識のことです。
普通の意識と特別な意識があるわけではなく、一つの意識しかありません。もし、普通の意識と特別な意識の二つがあるなら、その時点で非二元ではなくなります。一つの意識しかないから非二元なのであり、別の意識を手に入れる必要はないのです。
では、なぜつまずくのでしょう? それだけ私たちの条件付けが根深いからです。その条件付けはどこから来ているのでしょうか? インドのグル、全米人気ナンバーワンの教師、悟りの解釈の間違い。それはわかりません。おそらく、そうしたことの積み重ねかもしれません。
でも、人々はそうした特別な意識があると思っていて、「汝それなり」と言われても理解できません。「汝それなり」と言われて、「どうやったらそれになれるでしょう?」と探求を始めます。
「あなたは人間である」と言われて、「どうやったら人間になれるでしょうか?」と尋ねる人はいません。自分が人間であることに理屈は要りません。人間になろうと探求する必要もありません。
汝それなり! フルストップ!
それを理解するために、特別な理解や最終理解は必要ありません。そんなものはありません。普通の理解です。何か特別なことが起きたり、達成しなくてはいけないゴールとしての理解があるわけではないのです。段階的な理解も幻想です。登るべき階段はありません。もうそこにいるのですから。
「探求」は幻想です。あなたは北極点にいるのに、北極点を探して右往左往するようなものです。探求すればするほど遠ざかります。もうそこにいるのですから。
一瞥体験や覚醒を説くマスターには注意してください。「あるがままのあなたで完全なもの」「そのままでいい」と説く一方で、一瞥体験や覚醒を説くことの矛盾に気づいてください。
一瞥体験や覚醒を説くということは、今のままのあなたでは不十分だと言っていることになり、今のあなたではない別の何者かになることを説いているのです。それでは非二元ではなく、二つのあなたがいることになります。
一瞥体験や覚醒を説く人たちは、いまだに1970年代・80年代のスピリチュアル・ムーブメントの延長線上で探求ごっこを続けている人たちです。非二元は、一瞥体験や覚醒とは関係ありません。非二元は、70年代、80年代の、覚醒を説くグルやマスターが教えていたことと同じではありません。その辺をごちゃまぜにしている人たちに注意してください。
名前はあげませんが、けっこう有名な人や、本が売れている人の中にも、そういう人がいます。見分け方は簡単で、一瞥体験や覚醒を売り物にして、高額な金を取る人たちです。非二元は、無料もしくは、わずかばかりのドネーションで学べることです。
「意識」に余分は形容詞をつけないでください。「理解」に余分な形容詞をつけないでください。余分な形容詞をつけるグルやマスター、セラピスト、教師たちに気を付けてください。手に入れなくてはいけないものは何もありません。私たちはもうすでに持っています。体験しなくてはいけないことは何もありません。私たちはもともとそれです。
なすべきことは、その意識を見えにくくしている雲(思考)に気づいていることだけです。問題が起きるたびに、私は実在かどうかを何度も調べることだけです。