2022/08/31

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第10回 (2022年8月)

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第10回 (2022年8月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師  
これを聞いていると、セイラーボブの話を聞いているような……。
鏡の話などは、ほとんど同じ内容ですね。

2022/08/30

叛逆の十七文字・日本人の「遺伝子」からみた病気になりにくい体質のつくりかた・お知らせ

叛逆の十七文字 角川春樹

角川春樹さんが主宰する俳誌「河」の投句に角川さんが批評を加えたもの。解説で意味がわかるものと、解説を読んでも意味がわからないものがある。なぜそれが良い句なのかもさっぱりわからない。でも絵と同じで芸術の世界なので、受け手の判断基準で感じればそれでいい。いいなと思う句はまれにしかない。それは絵を見る時と同じ。前衛芸術が理解できないからといって絵が鑑賞できないということではない。

日本人の「遺伝子」からみた病気になりにくい体質のつくりかた 奥田昌子

奥田さんは日本人は穀物などの炭水化物が体質に合っていると説く。炭水化物を取ることによって、腸内環境を正しく保つことができ、病気を防ぐことができるという。米類、海藻を中心とした日本食が健康によいのだそうだ。

最近私は二年ほど続けた糖質制限食(炭水化物を取らない)をやめて、穀物を積極的に取るようになった。それは魚柄さんの本の影響。以前だったら、奥田さんの本を読むことはなかったし、奥田さんの意見には反対だった。炭水化物を取ることによるデメリットはあるが、メリットの方が大きいと思うようになった。体調も良い。要はバランス。いろんなものをバランスよく少しずつ食べるのが良いと思う。

今までかたくなに信じていたことが、ある日突然崩れて方向を変えてしまう私。まさか非二元の教えはそうならないとは思うけど、自分を過信してはいけない。

おしらせ

諸事情により、今後、「読書日記」は精神世界とあまり関係ないような本は掲載しない方向でいきます。

2022/08/27

非二元を理解するということ

非二元を理解するとはどういうことなのか。どんな良いことがあるのか。

非二元を理解するとは「私は実在ではない」「世界は実在ではない」ということを理解することです。もっとやさしい言い方をするなら、「私はいない」「世界は幻想である」です。

非二元の語り部たちだけでなく、仏教でも同じことを言っていて、最近では脳科学でも同じことを言っています。もうそれは驚くほど特別なことではなく、いろんな伝統の中にあることであり、珍しいことではないように思えます。

では、それを理解すると、どんな良いことが起きるのか。もし、「私」がいないのなら、「私」にまつわるあらゆる問題から解放されます。「私」は生まれてさえいないのですから、死ぬこともありません。死への恐怖が消えます。「私」がいないのですから他者との比較や競争が消えます。

人と競争して、金、地位、名声を手に入れようとする必要がなくなります。仏教でいうところの執着が消えます。私の家、私の家族、私の子供という執着が消えます。「私」がいないのなら、他者もいないので、人と争う必要がなくなります。私もあなたも一つのものの現れにすぎないとわかれば、どうして人を憎むことができるでしょうか。もちろん、好き嫌いはあっていいのですが、それは自然に起こってくるものであり、そこには個人はいません。

「私」はあらゆる悩みの根源です。「私」がいないとわかれば、悩みは消えていきます。幸せだとか、不幸だと思っている「私」はいないのです。もちろん、自然な欲求はあると思いますが、それはあくまでゲームの中で自然に起こってくることであり、悩むほどのことではありません。

と、ここまでは教科書に載っていることを偉そうに書いてみました。でも実際には、理解したからと言って、そう簡単にある日突然あらゆる執着や悩みが消えるわけではありません。少なくとも私の場合はそうなっていません。体はあるように見えるし、悩みや問題も次々に起こってきます。それは生きている限り続くのではないでしょうか。苦しいことも悲しいことも起こってきます。人生はいいとこだけ取るようにはできていないのではないでしょうか。

だから、非二元を理解したから終わりではなく、ずっと忘れないでいて、時々ボブの本を読み、日々気をつけて生きていかないといけないと思います。そうした自戒の意味を込めて、このブログをずっと続けていこうと思っています。

非二元を理解すると、具体的にどんな良いことがあるのでしょうか? それは人それぞれ悩みや苦しみが違うように、人それぞれなのだと思います。

ジェームズブラハは、Living Reality: My Extraordinary Summer With "Sailor" Bob Adamson (English Edition)の中でこう書いています。

非二元を理解することで得られる最も興味深い効果の一つは、問題や心配事、動揺がいかに早く過ぎ去るかということです。一見悪いように思われる出来事が起きても、問題に対処する知性エネルギーが湧き起こります。動揺するような考えが起こり始め、いつものようにトラブルを起こそうとしても、取りつく島がありません。そうした問題が最初に出会うのは、ジェームズは実在しないという認識です。そして、過去も未来も実在しないという理解と格闘します。そして、真の私は永遠で不死であるという認識にぶち当たります。たいていの場合、問題が起こっても取るに足らないこととなります。

非二元を理解するとは、「自分は実在ではない、過去も未来も実在しない、真の私は永遠で不死である」ということを理解するということです。そうすれば、何の問題もありません。

逆に言うと、それをちゃんと理解していない人は問題が過ぎ去っていかないということになるのではないでしょうか。何か問題が起こった時に、どれほど早くその問題が過ぎ去っていくのかを見ることで、自分がちゃんと非二元を理解しているかどうかがわかるのかもしれません。それは、問題を無視したり、黙殺したりすることとは違うと思います。

もし、ちゃんと理解していると思っているのに、悩みや問題が消えず、少しも楽にならないのなら、その理解が本物かどうかをもう一度確かめる必要があると思います。私の場合、10年前と今ではあきらかに精神状態が違います。幸せでしょうがないということはありません。イライラする時も憂鬱な時もあります。悩む時もあるし、厄介な問題も起こります。まわりの状況は何も変わっていません。でも「もう何も悪くはありません」。以前のように、恐怖を雪だるま式に大きくしたり、悩みに巻き込まれてしまうということはなくなりました。死の恐怖は依然としてありますが、以前ほどではありません。

私の場合、非二元を理解したことの最大の恩恵は、もう何かを探したり、追い求めたりしなくなったことです。丸善の精神世界のコーナーへも、あまり行かなくなりました。人との比較や、誰かを恨むこと、憎むことで悩むこともなくなりました。もちろん、そうしたことがまったくないわけではないのですが、やってきても長居をすることはありません。過度な願望や欲望は次第に消えています。ありもしない幻想で自分を悩ますことは減っています。これはゲームだとわかったからです。

もう二度と同じではないだろうという思いはありますが、体とマインドがある以上、「私」が完全に消えることはないでしょうし、思考は繰り返しやってきます。もし「私」が完全に無くなれば、すぐに車にはねられてしまうか、何も食べなくて餓死してしまうでしょう。思考がまったくやってこなければ、人とも会話できず、すぐに病院に入れられてしまうでしょう。

命あるかぎり、体も思考もあり、「私」も完全には消えません。落ち込むことも悲しむこともあるでしょう。でも、もう以前のようなわだちにはまることはないだろうと思います。すべてはゲームだとわかったうえで、ルールを守って、できれば楽しんで、前向きに生きて行こうと思っています。

2022/08/24

私という実体があると考えることは病である。

 佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その1」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ)


私という実体があると考えることは病である。現実の世界の中に架空の私を作っていることが病である。真実を見よ。私とは架空である。それを理解するのが健康な心である。
病気は苦しみをもたらす。

そのことを理解していても、日常生活に戻ると、繰り返し「私」が戻ってくる。そのたびに何度でも、「私」はいないということを理解すること。それが日々のトレーニング。どこかで聞いたような……

最近の佐々木閑先生のYouTubeは、仏教なのか非二元なのかよくわからなくなってきました。

2022/08/20

The Spiel ⑱ 2007年 あの部屋の真実

Sailor Bob Adamson, 2007. Truth's in that room・あの部屋の真実

この動画は2021年5月にセイラーボブのサイトに公開されたものですが、作成は2007年です。太字はセイラーボブの発言。聞き取り不能な箇所を一部省略しています。

*********

ナレーター:週三回、メルボルン郊外の自宅で、セイラーボブは来訪者すべてを歓迎します。このDVDは私の初めての夜のセッションを編集したものです。

まだよくわかりません。私は単に探求しているのか、それとも無という真実、あの部屋の真実に通っているだけなのかわかりません。

それはアドヴァイタ、非二元と呼ばれています。アドヴァイタは、ゾクチェン、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、その他の宗教の伝統の本質と同じものです。というのは、それらはどれも究極的に、非二元、他には何もない一つのものを指し示しているからです。他には何もないという言葉を付け加えるのは、「一つ」でさえ、他に何かがあるのではないかと暗示させるからです。

(チャイムが鳴ってボブが招き入れる)
ナレーター:少し遅れてやって来る人もいますが、ボブが気にする様子はありません。

ここでは、あなたはもともとあなたが探しているものなのだということから始めます。私はあなたに何も教えません。何かを伝えることもありません。私はどんな体にも話かけていません。私はどんなマインドにも話しかけていません。言い方を変えると、肉体として現れているもの、心身という有機体に話しかけているのではないのです。私はあの「私は在る」に話しかけていて、それが私です。その「私は在る」は思考の私は在るのことではなく、存在の感覚のことです。存在の意識、すなわち、自分が存在するという認識のことです。

偉大な知恵、言葉は「我はそれなり、汝それなり、これがそれだ、あれがそれだ」。あらゆるものの根底にあるものが、彼らが「それ」と呼ぶものです。それと彼らが指摘、話すものは、それからやってきて、それへ帰ります。それゆえ、それには分離がありません。そのため私は、「あなたはもともとあなたが探しているものなのです」と言うのです。

私たちはみな、私は在ると知っています。それは思考の「私は在る」のことではありません。それは実在のことです。「私は在る」は、存在の感覚、すなわち知性としての意識が翻訳されたものを表しています。自分が存在しているという認識が思考の私はあるとして翻訳されたものです。

その翻訳、思考が起こっている時でさえ、その認識はそこにあります。もしある思考が終わると、また別の思考がやってきますが、その根底には依然として、その認識があります。詳しく調べてみて、それが決して変化しないことを理解してください。それはいつもそこにあります。

私たちはそれを実在と呼びます。でも、それもまた概念です。実在が存在するためには、非実在が必要です。非実在なくして実在はありません。また、実在なくして非実在はありません。その二つの言葉がなかったら、あなたはどこにいますか?それは見ることと同じです。見るという思考が起きる時、私はこれを見る、私はあれを見ると言います。

でも、私は見るという思考なくして、偽の見る人、主体が存在しえるでしょうか? 私が椅子、テーブル、その他のものを見るなど、私たちが見るという概念が対象物を作ります。対象物なくして主体はありません。また、主体なくして対象物はありません。それは互いに打ち消しあい、根底となる見ることだけが残ります。

そしてあなたは、見ることなくしては、見る人、主体も、見られるものもありえないということを理解します。つまり、見ることが機能として今この瞬間に起こっていることなのです。ここに、誰か見ることが起こっていない人がいますか? ここに、聞くことが起こっていない人がいますか? 存在意識、すなわち意識が存在しない人がいますか?
つまり、それは何かを達成したり、手に入れたりすべきものではないのです。それなしでは、ここでは何も起こっていないということは明らかなことです。

星々がどうのように軌道の上を動いていくのかを見てください。どうやって地球は太陽のまわりをめぐり、潮が満ちては引き、季節がやってきては去っていくのか、どうやって種が芽吹いて木となり、草や葉となり、繭がかえって幼虫となり虫となり、さなぎが蛾や蝶となり、すばらしい色をまとうのか、どうやって白と黄色の卵から鮮やかな孔雀となるのか。どうやって精子と卵子が一緒になってこの人間というパターン、考える能力、発明したり、芸術や科学技術を創造したりする能力を持つものをつくるのか見てください。

それが意味しているのは、この顕現としての森羅万象には知性が内在しているということです。内在する認識、その知性について私は話ているのです。その知性はあなたが手に入れることができるもののことではありません。観念化することができることでもありません。見ることができるものでもありません。その自然な状態が本当のあなたであり、その自然な働きは自然の中の森羅万象と同じもので、自らを認識しています。自らパターンとなり、自ら機能します。

それゆえ、あなたはもともとあなたが探しているものなのですと言うのです。というのも、あなたがそうでなかったことなどなかったからです。一つの知性エネルギー、他には何もない一つのものが、思考、フィーリング、感情など、この顕現のすべてとなって現れています。森羅万象はその表れです。私たちはそれを知っていて、それを現象世界と呼びます。世界が現象でできています。辞書で「現象」という言葉を調べると、「そのように現れているもの」です。

現象の反対は非現象、非顕現です。顕現は非顕現がなければ存在しません。非顕現の現象の定義は、実際に存在するものであり、それが実在です。それには姿や形がありません。でもあなたはそれから逃れることも、それを否定することもできません。思考や概念、イメージでそれを掴むこともできません。言葉やラベルなしでは、それはあるがままなのです。それは今までも、これからもそうです。

実在としては、何も起こっていません。何も生まれ出てはいません。そのように見えているだけです。それが意味することは、自己という束縛から自由だということです。それは存在しておらず、あなたはいつも自由だということです。でもそれは理解されず、私はこの自己である、私は分離した存在であると信じられてきました。私とは自分のことであり、自分は良くない、制限されている、自己評価が低い、不幸だ、偉大だ、すばらしい、世界で一番など、どんな観念やイメージも「私」という思考に付け足しました。

そしてその心理的な絵やイメージを自分だと信じているのです。それを私たちは自己の中心、エゴと呼びます。心理的な絵、イメージには実体も独立した性質はありません。詳しく調査してみると、そのイメージは絶えず変化しています。あなたが5年前に自分に対して抱いていたイメージと同じイメージを今抱いていますか? 一週間前は? 一か月前は? あなたが子供だった時は? 

あなたは人々の言ったことを身に着け、そして身に着けたことを手放し、自身のイメージは絶えず変化しています。そこには何か確かで実体のあるものはありません。それには間違った信念に形作られた観念以外、独立した実体のあるものはありません。それを理解すると、この思考、すなわち分離した存在という間違った信念は存続することができません。

これが虚偽だとわかれば、それは存続することができません。信念なくして、どうしてそれを何かと結びつけることができるでしょうか? それが私たちに推論する力ついて以来、ずっとやってきたことです。幼い子供に推理する力がついて、みんながジョニーと呼ぶ存在は「私」だ。波動としての「私」という思考は常にその反対へと動きます。「私」の反対は、「私ではない」です。思考としての「私」がやってくる以前は、あるがままに見ていたものが、推理する能力によって、これは私ではない、これは自分ではない、となり、「私」ではない、「自分」ではないものとなります。

その「私」や「私ではない」という思考とともに、分離の感覚が生まれます。それはそれ以前にはなかったものです。分離の感覚は不安、傷つきやすさとなります。自身が何かから分離、孤立していると感じると、それが何かわからず、傷つきやすさ、不安となり、それをどうしてよいかわかりません。そしてあらゆることが、自身が自分に対して身に着けたイメージに関連付けされることになります。

「私」はこれが好き、嫌い、恐ろしい、腹が立つ、怒りを覚える、みじめだ、罪悪寒を感じる、よくない、あらゆることがその参照点に関連付けられ、それによって、良い悪い、心地よい、苦しい、幸せ、苦しい、などとなります。それはすべて過去の経験にもとづいています。それは死んだイメージであり、すでに死んだ何かに関連しています。死んだ何かが、どうやって残された生を知ることができるでしょうか? そうするためには、死んだものによって実際生きている生を、思い出し、回顧することとなります。どうして偽の参照点が有効な参照点となりえるでしょうか? どうして死んで無効な参照点で有効な理解をえることがでしょうか?

それはあたかも川からバケツ一杯の水を汲むようなものです。汲んだ水はよどみ、死んだものとなります。それが、私たちが繰り返しやっていることです。絶えず、死んだイメージを参照しているのです。私が何かを手に入れる、何かやる、何かになると考える時はいつも、自分はもともと理解していない、知らない、完全ではないという考えにもとづいています。その、完全ではないという信念ゆえに完全さを永久に追い求めることとなります。

仏陀やその他の偉大な伝統のメッセージは、あなたはこの心理的な苦悩から自由になることができるというものです。それはそうあるべきではないのです。いにしえの人たちは、苦しみからの平和、理解について語っています。そして人々はマインドの平和について語ります。心が平和であったことも、こらから平和になることもないということを誰も理解しません。なぜなら、マインドの本質は振動することだからです。それはそのように働きます。
マインドが働かない時が平和なのです。

そこに観念が無い時、マインドはありません。観念がなかったら、あなたは何を言うことができるでしょうか? 平安の他に何と言うことができるでしょうか? 観念がなかったら、平安だと言うことさえできません。それはただ、あるがままです。それゆえ私は、平安はあらゆる理解を超えると言うのです。観念やマインドでは理解できないのです。それが自然な状態です。それがまさしく今あなたがいる場所なのです。

あなたがここにいる時、それはいつも今です。人々は、外に行った時はどうかと言うのですが、あなた外に行けば、そこが、ここ、そして今になるのです。詳しく調べてみてください。どこにいても、いつどんな場所にいても、今ここ以外ではありませんでした。調べてみてください。それがなすべきことのすべてです。今、あなたがたの何人かは、調べて、それをちゃんと理解しました。ここでは何も隠し事はありません。そしておそらく人々はこのビデオを見たいと思うはずです。みなさん全員によい知らせがあります。質問や自分の意見を言うことをためらわないで。今まで長い間探求してきたのですから。(笑い)
ジム、何か言いたいことはありますか?

ジム:私には(あなたの話は)十分に役立ったと思います、ボブ。あなたの話を最初に聞いたときは驚きました。そして、とても不快でした。というのも、思い出せるかぎり昔から私が頼ってきたものが、私の問題の原因だということが驚きだったからです。この存在を信じていることに働きかける必要があると知って不快になったのです。(一部省略)

ボブ:それはすべての人に共鳴を起こします。というのも、もともと誰もがそのことを知っているからです。もともとそれを知っているのですが、観念化という雲に覆われていて見えなくなっているのです。でも、あらゆる人がそれなのです。それは限られた人たちのためだけの特別なものではありません。それは認識(知る働き)そのものであり、それを否定することはできません。それは、そのもの自らを再認識するということです。

男性A:それで、その空間、時間のない意識と私たちが描写するものは、実際にはあなたは何も言うことができません。というのも、それには特質も質量もないからです。そのためあなたは、言葉や心理的な概念として実際にそれを言うことができません。それは何なのですか?

それは心理的な概念でも理解することはできません。推論する力が身に備わって以来、私たちはそれを概念で理解しようとしました。でも、ニサルガダッタはビデオの中で言っています。あなたが概念で理解しようとすると失敗する。あなたは必ず失敗する。というのも、それを観念化することができないからだ、と。それを一言で言うなら、非観念の意識です。
キャサリンはどうですか?

キャサリン:その点に関しては、私が調査してみると、そこには意識をしている何かがあるのですが、それにラベルを貼ることはできません。というのも、私が調査するやいなや、それはそれではないからです。聞くこと、見ることは知る働き(認識)と同様に、そうしたことに対して私が何かを言うことができないからです。それはただそこにある何かです。生と呼ばれるもの、あるいはそれ以上のもの。それはマインドが落ちたようなもの。マインドではないもの。それはミステリーのようです。

そうした見方も悪いことではありません。あなたは、いにしえの人たちがやった、「これでもない、あれでもない」というのを自然にやっているようなものです。あとには何も残らず、無だけです。
マンガスはどうですか?

マンガス:私はずっと、世界の中で分離した存在だという考えにそそのかされてきました。私が経験してきたのは鬱状態です。もう長い間そうです。まだその状態かどうかはわかりません。でも、ここで実際に私が感じるのは、「私がどこに存在するのか調べる」という基本的な問いを十分に調べていないような気がします。私は理論も知的なアプローチの仕方も完全に理解しています。分離した「私」という思いを強めてしまうと、苦悩や痛みが大きくなるということもわかっています。でも、その分離した自己という幻想をちゃんと見抜いてその痛みを和らげる能力が私にないように思うのです。

あなたは理解しています。そこには「私」はいなということを見抜きましたね? 

マンガス:ええ、そう思います。

では、曇りの日に外へ出てみてください。曇りの日には太陽が雲で覆われていて、一日中太陽を見ることができません。でも、その日、太陽が空から無くなった瞬間があると思いますか?

マンガス:いいえ。

消えません。それと同じことです。見た目の上では思考という雲に覆われています。あたかも思考という雲が自ら輝く意識を覆っているのです。でもあなたは根底にある本質を知っています。時々は雲がそれを覆い隠しているように見えます。時々は光がもれてきます。それによって、あなたはいつもそれであり、これからもそれであると知るのです。どんなに雲が厚く見えていたしても。そのため、真実を知れば間違った思考の束縛から解放されると言われているのです。
私は青い海や蜃気楼の中の水、太陽と雲などの例えを使ってそれを指し示そうとしています。

アンガス:でも、私は本当に真実を知っているだろうかと思うのです。というも、それは例えば、何かが、オーケー、このアウエアネスの中で住んで、どこに喜びがあるのだ、と言うのです。というのも、人生の喜びをえることをあきらめたくないのです。アウエアネスの中に住んで、喜びたいのです。ちょっと変に聞こえるかもしれませんが、お金が欲しい、まだ手に入れてない、といったようなことです。

自分に問うてみてください。「そのことを考えなかったら、今何が問題なのか?」と。

マンガス:ええ、やりましたよ。最初の頃に。

(思考を)休止しましたか?

マンガス:ええ。

思考が休止している時、「それは喜びではない」と言うことができましたか?

マンガス:いいえ。

「それは喜びだ」と言うことはできましたか?

マンガス:いいえ。

それが至福です。

マンガス:それでは十分ではありません。(笑い)

それとともに十分長く留まってください。そうすれば、精妙さとともに、もっとそれに気づくようになります。

マンガス:それが私にとっては重要です。

そうです。ほんのちょっとだけ垣間見て、これではない、これでは十分ではないと言って、また古い習慣に戻り、マインドの中に答えを見つけようとします。その感覚がやってきたら目を閉じて、絶えずそこにあるもの、精妙なその本質とともにいると、幸福な感じが、どこにいてもあります。それには原因がありません。原因のない喜びです。

それは悲しみの反対ではありません。喜びと悲しみ、愛と憎しみ、心地よいと苦しい、といったことはどれも心理的な観念化です。それには浮き沈みの大きな起伏があります。私たちは精妙な原因のない愛、繊細な喜び、自然な慈しみが見えません。そうしたものすべてがそこにあります。勇気、美、愛。そして私たちはそれにラベルを貼ります。でもラベルがなければ、それは単なる感覚です。その感覚を掴んでください。それが本質、自然な状態です。見ることです。何かをしようとすることが罠なのです。

ジム:何か技法をもちいることの問題は、そこには依然として「私」がいるという信念が背景にあって、思考を分離しようと思考を見て、問題が解決しても、また同じ問題が繰り返し起こってくるということです。でも、それはもっと簡単なことです。私は、深いだとか、良いとかいう思考がやってきた時、「そのことを考えなかったら、今何が問題なのか?」と言うことです。そうすれば、他の人が自然に身につけることをえられます。自然に身に着けることができない人もいますが、それは、ゆるい上着を自分のアイデンティティとして身につけているようなものです。

女性:私たちが見ていないものがとてもはっきりわかりました。私たちが自分だと思っているものより、私たちが見ていないもののほうが実在であるということです。それは誰でも手に入れられるものです。それは純粋な可能性であり、確かな考えとして存在するものです。

私はそれを無努力の生活と呼びます。多くのことがこれによってなされます。時々それが不思議に思われるほどです。

女性:ええ、奇跡的です。

盤珪は、不生の中ではあらゆるとことが解決していると言いました。

女性:ええ。疑いありません。

どうして不生を思考と交換するのですか?

キャサリン:それが私がここへ通うのが好きな理由です。ボブは、明白なことや、それほど明白ではないことを指摘してくれますが、ボブが指摘するとそれは明白なことになるのです。あるのは今だけで、みんなが言うように、あらゆることが起こっていても、それはオーケーです。というのも、物事が起こっていても、そのことについて考えなかったら、何も問題ではないからです。それはいつもそこにあり、それはいつも今であり、今までも、そしてこれからもそうです。

何年も前、海に出ている時、何度も赤道を超えました。でも、そこに通過するような門があったことは一度もありませんでした。(笑い)それで思いついたのですが、宇宙船に乗って下を見ても国境はないでしょう。私たちは、あまりにも多くのありもしない信念や物事を貼り付けています。それをそこに探してもありはしないのです。もしそこに行為者がいるという信念があると、バン! また評価するための参照点が起こります。そこから、良い悪い、心地良い不快、幸せ不幸と判断します。でも、もしその参照点がなかったら、どうやって判断するのでしょうか? それは互いに無効なものとなります。
あなたは、ほんの少し前を生きることができますか?

キャサリン:いいえ。

できません。思い出すことはできます。今この瞬間にできるのは、それを思い出すことだけです。ほんの少し未来を生きることはできますか?

キャサリン:いいえ。

それを想像することはできますが、未来を生きることはできません。それが起こっているのはいつですか? 今です。今から出ることはできますか? できません。つまり、そこから逃れることはできないのです。もしそうしようとしても決してできません。それをやろうとしても、それが起きるのは今この瞬間です。それは、見ることを試みることではなく、あなたが何をしていようと、常にそれなのです。

キャサリン:見ることは自然の知性であるという言い方はできますか? 

信心銘ではこう言っています。空(くう)がここにある。空がそこにある。それでも無限の宇宙があなたの目の前に広がっている。それは、宇宙が消えると言っているのではありません。それは空ではあるが、見た目の上ではそこにあるように見える。それは見られる客体としての場面ではありません。というのも、そこには見る人がいないからです。そこには境界がなく、制限のないものです。

女性:そこには大きな喜びの感覚があります。ここやあそこに。何が起ころうと、何であろうと、喜びを感じるのです。

マンガス:これはむしろゲームのようなものです。このゲームをプレイして、ここ、この場所のようなところへたどり着く。もしそこで、真剣に座って耳を傾けると、ゲームをプレイするのを止めます。

もしあなたが真剣に座って耳を傾けると、ゲームをプレイする「私」はいないということを理解します。今、「私」がいないとすると、それはいついたのですか? 今存在しないなら、それは一度も存在しなかったということを、あなたは理解します。そのゲームはあなたという存在によってプレイされたのではなく、本質があらゆる多様性となって現れたものであり、その本質は決して変化しなかったのです。それはうわべ上でそう見えているにすぎません。

キャサリン:それでもゲームは続くのですが、もっと楽しくなります。

男性:そのとおり。

キャサリン:それがニルバーナ(涅槃)です。

何も為すべきことがないと知って、あなたの心配事は何ですか?

マンガス:何もありません。

あなたはきっとまた尋ねるでしょう。

マンガス:ええ、処方箋を。

いくつの理解がありますか?

マンガス:二つ?(一同笑い)

一同:ありがとう。

2022/08/18

般若心経に学ぶ 花園大学総長 横田南嶺

【第3回:般若心経に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2022年7月19日(火)


この話はほとんど非二元の話と言っていいような気がします。

2022/08/17

木・崩れ・動的平衡3・海鼠の日

 幸田文

木にまつわるエッセイ。
幸田文さんの随筆が名作だと聞いたので読んでみた。確かに文章は独特で、名文なのだと思う。でも、あまり感じるものがなかった。幸田さんは、もともとは山に登ったりする人ではなかったらしいが、晩年になって木に興味を抱き、各地の名木を尋ね歩く。

北海道のえぞ松の倒木更新や屋久島の縄文杉を訪ねた話など、十五の随筆からなる。ひとつ気になったのは、営林署などの公的な機関の人たちのお世話になって、通常では行けない奥深い山まで連れていってもらっている点。しかも、中にはおんぶまでしてもらって行っている。高名な作家だから許されるかもしれないが、普通の人だったらありえない。

崩れ 幸田文

もともとは、昭和五十一年に月刊誌「婦人の友」に掲載された十四回にわたるエッセイ。安部川の大谷崩れや富士山の大沢崩れ、立山の鳶山の崩壊など、有名な山崩れ、地すべり現場などを毎月訪問する。

なぜ幸田さんは七十歳を超えてから山崩れに興味を持ったのだろう。そして、なぜ自分の足では行けない山奥の山崩れを、人におんぶしてもらってまで見に行ったのだろう。しかも、場所によっては一年を通して見ておかなくてはいけないといって、年に何回も行っている。ただただ崩れを見に行ったという随筆であり、治山事業の良し悪しや、人が山も管理することの問題点などについては触れていない。

果ては噴火したばかりの有珠山へも行っている。でも、その視点はただ単に災害現場が見たいという動機にすぎない。それでいて、雑誌社経由でお役人に手をまわし、案内ガイド付き。こんなわがままを言って建設省や営林署や役場の人にあちこち案内してもらえるなら、私も連れていってほしい。

動的平衡3 福岡伸一

動的平衡2まで読んだので3も読んでみた。相変わらず専門分野の遺伝子の話はよく理解できない。がん治療の話やベネチアの水道の話は参考になった。その他のエッセイは興味深いことやためになることがいっぱいあるが、2、3と続くうちに、だんだんおもしろくなくなってきたかなぁ。

海鼠の日 角川春樹

句集。音読用。角川さんはとんでもない人かもしれないけど、俳句には惹かれる。

冬の夜やどこか壊れている私
元日の獄舎静かに暮れにけり
泣きしあと妻が眉描く春の暮れ
十薬の花誰からも愛されず

2022/08/13

ドキュメンタリー「エンライトメントなどというようなものはない」

ドキュメンタリー「エンライトメントなどというようなものはない」
No such thing as Enlightenment - DOCUMENTARY 

このドキュメンタリーは2021年12月12日にボブのサイトに公開されたものですが、作成されたのは2016年です。

この動画はボブの関係者によって作成されたものですが、わざわざタイトルで「エンライトメントなどというようなものはない」と言っていて、とても貴重なものだと思います。
ボブが「エンライトメントはない」とはっきり言っている動画はそれほど多くありません。このブログの中では、「セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑱」の「1998年アムステルダムでのTVインタビュー」がありますが、ミーティングの中で「エンライトメントはない」と語ることはそれほど多くありません。「エンライトメントはない」ということは、参加者の共通認識になっているからです。なお、ここでいうエンライトメントとは、悟り、覚醒、目覚め、自己実現のことです。

このドキュメンタリーは、ボブやその他の人の発言を断片的に編集したもので、その大部分は対話形式のものではなく、それぞれの発言は連続したものではありません。以下、太字はボブの言葉です。

**********

私はあなたに何も教えることはできません。何かを伝えることもできません。私ができるのは、方向を指し示し、指摘された場所をあなたが自分で調べるように求めることだけです。

誰かに向かって話しているわけではありません。私が話しているのは非二元です。誰かの体に向かって話しかけているのでもなければ、マインドに向かって話しかけているのでもありません。あなたという体とマインドの存在に話しかけているのではありません。

私は「私は在る」に話しかけていて、それが私です。その「私は在る」に話しかけているのは私(私は在る)です。ただそれだけ、他には何もありません。

ナレーター:ボブ・アダムソンは、1928年にオーストラリア メルボルン郊外の農場で生まれた。16歳の時、初めて酒を飲み、以来、すっかりアルコール中毒となった。17歳で海軍に入ったが、飲酒問題のせいで二年半後に解雇となる。参加し始めたAA(断酒会)の会合で、セイラー・ボブという名前で呼ばれる。破滅的な出来事によって断酒を決意し、二度目のチャンスが与えられた。

全くの無神論者だったので、探求者になるとか、いわゆるスピリチュアルをするという考えはありませんでした。でも、生が私を行くべき所へ連れていきました。
おそらく、高次の力か神というものがあるのだと思いました。AAで聞いた高次の力か神というのもがあるかもしれないと。当時の私は鎧を着て心を閉ざしていましたが、その鎧にそれが小さな亀裂を生んだのかもしれません。絶望、慢性アルコール中毒、心理的な問題でうんざりしていました。

ナレーター:ボブは様々な道を探求しました。ペンテコステ派、メソジスト主義、クリスチャンサイエンスなどです。洗礼を受け、ミサに通いしました。そして、1962年、マヘッシ・マハリシ・ヨギに会ってから、マントラ瞑想を始めます。
その8年後、メルボルンのババ・ムクタナンダの信奉者グループは、ボブが他の人に対してシャクティパットによってイニシエーションする許可を与えました。多くの霊的体験を経験したにもかかわらず、ボブは満足しませんでした。

特定の精神状態に入るためには、依然として努力が必要で、誰が彼に二度目のチャンスをくれたのかは、わからないままでした。1976年、ガネーシャプリにあるババ・ムクタナンダのアシュラムにいる時、ニサルガダッタ・マハラジの「I AM THAT」という本と出会います。ニサルガダッタ・マハラジは彼の最後の教師となります。

最も重要なことは、あらゆる探求が落ちて行ったということです。私はムクタナンダのアシュラムでマントラや詠唱や瞑想などを繰り返し、とても厳格な修行をしていました。そこに滞在して、とても熱心に忠実やっていましたが、ニサルガダッタの言ったことを理解したことで、それが落ちてしまいました。それは何か大それた目覚めといったものではなく、夜明けのようなもので、例えば太陽が地平線から昇るようなものでした。あ~!といった感じです。私は何年も閉じ込められていました。ニサルガダッタが言ったように、私は体でもマインドでもない。だとすると、私はマハーヴァキヤの言うあれに違いない。
私は彼の言ったことを理解したのです。

ナレーター:ニサルガダッタ・マハラジは20世紀のインドで最も尊敬された聖人の一人です。彼の講話録「I AM THAT」が1973年に発売されたことによって、世界中に知られるようになり、その本は多くの人によって現代におけるスピリチュアルの古典と評価されています。ニサルガダッタ・マハラジは師であるシッダラメシュヴァール・マハラジの、「私は在る」に感覚を向けなさいという指示に忠実に従い、ごく短い年数で自己を理解しました。

ニサルガダッタはビーディ(インド産紙巻たばこ)を売りながら、ムンバイの粗末な家でサットサンを行いました。マインドは自身の本質を理解し見抜かなくてはいけないと教えました。ニサルガダッタは、アドヴァイタ、非二元の唱道者ですが、愛、神、グル、献身の道も強調します。彼のメッセージはシンプルです。あなたは、もともとあなたが探しているものです。探すことで、マインドを乱さないように。汝それなり。

過去数十年の間、ボブ・アダムソンは彼の手にした理解を、聞きにやって来る人たちすべてに分け与えています。週三回のミーティングをオーストラリア、メルボルンの自宅で開き、世界中から人々をひきつけ、現代のアドヴァイタに与えた影響は広く知られるところです。

ここで絶対的に正しいことは、ここには実体のある独立した存在はいないということです。自分でそれを調べてみてください。この存在意識なしで自分が存在できるのかを。仏陀はそれに別のラベルを貼りました。非観念の永遠に新鮮な存在意識、ただそれだけ、他には何もない、あるのはそれだけ。キリスト教やその他の伝統ではそれを表現するために三つの側面を用います。偏在、全能、全知。偏在はすべての存在。全能はすべての力、全知はすべての知性。

それは三つの別々のものではなく、一つのものの三つの側面です。水、蒸気、氷がH₂Oの三つの側面であるようなものです。それ以外には何もありません。マハーヴァキヤの大格言の言葉では、「我はそれなり、汝それなり、すべてはそれなり」と言いますが、誰か、この「それ」が何なのかわかる人はいますか? それを描写することができますか? 姿形は? 前、後ろ、上下、深さはありますか? ありません。この存在意識があなたであり、それにラベルを貼ることはできても、それは存在意識です。

ビル:ボブに会ったのは7年前です。ほとんど週三回来ていました。それ以前は、深く探求していました。出口、見返りを必死に探していました。瞑想、禁欲生活、食事制限などをやり、ある日、見返りはどこにあるんだと思いました。たくさん探求したのに。そして、エンライトメントをGoogleで検索しました。すると、先頭から二、三番目までにボブが出てきたのです。彼に会って、話すことができるだろうと思いました。彼に会って話をしたとたん、彼は私の知らない何かを知っていると思いました。とても強い共鳴が起こったのです。それ以来ずっと通っています。ボブは私を探求から根本的に自由にしてくれました。もう探してはいません。探求は終わったのです。それは一度に起こったのではなく、時間をかけて起こったのです。今はもう全く探求はしていません。

もしあなたが探求者なら、探求し続けるでしょうけど、手に入れることはできません。あなたは探求者ではなく、あなたが探している存在そのものなどだということがわかってきます。それは自然に起こってくることです。

女性A:セイラー・ボブは私の人生に対する見方を完全に変えてしまいました。2007年からセイラー・ボブのところへ通うようになりました。司法試験の最後の年で、確かな神経症を抱えていました。彼は私に、ちょっとの間思考を休止するようにと言ってのですが、私のマインドは忙しく動きまわっていて、休止することができませんでした。それで、できるだけ週三回通うようになって、彼のメッセージにたっぷりと浸かりました。彼は、このメッセージは一度聞けば十分だと言いましたが、ここから帰ったあとで世間に戻ると、それが吸い取られてしまうような感じになったものです。するとボブは、もし私の中でそれが成長すると、最後には、今度はあなたが他の人を成長させることができるようになると言いました。実際、試験は苦しむことなく受けることができました。まったくの驚きでした。今は何か特別な信念を持ってはいません。世間の中で今この瞬間に機能しているにすぎません。

ギルバート:マインドの視点から見ると、それは私の人生を完全に変えてしまいました。でも、実際には何も起こっていません。自身は分離した存在であるという信念から、うわべの上で解放されたということです。人生は以前と同じように流れていきます。大切なのはメッセージであり、メッセンジャーではありません。メッセージの中にある知性が大切なのです。それがあなたの信念を切り裂いていきます。ボブがニサルガダッタから指摘され、ニサルガダッタもまた誰かから指摘されたことです。ずっと遡っても、それは同じ知性からのものであり、時間の中にあるものではありません。時間の中にはない意識です。人という視点から見ると、それは信念を打ち崩すのです。あらゆる信念を切り裂くのです。

それがすべて一つの本質であるということがわかるでしょう。それを私は知性エネルギーと呼びます。私はここでは神という言葉を使いません。というのも、神という言葉で混乱してしまうからです。私たちはそれぞれ異なる伝統からやって来ています。無神論者もいれば、不可知論者もいます。クリスチャンもいれば、モスリム、ヒンズー教徒、仏教徒、ユダヤ教徒もいます。もし私が神について話始めると、私が伝統の中で教えられてきたことや理解した信念と関連付けてしまい、本当の私ついての正しい説明ができなくなるからです。

人々は自身の伝統に基づいて、何が正しくて何が間違っているかを判断して混乱することになります。そうやって、分割できないものを分割することになります。私が指摘していることは、あなたは自分が信じているようなものかどうかを自分で調べてみなさいということです。人(human being)。あなたは人ではありません。あなたは神を至高の存在(supreme being)と呼び、自身のことを人(human being)と呼びますが、至高(supreme)、人(human)というラベルを取ってください。そしてこの部屋の beingness(存在そのもの)を分割してみてください。そんなことはできないとわかるでしょう。この部屋を見渡すと、あれは椅子(That' being a chair.)、あれがビル(That’s being Bill.)、あれが私(That’s being me.) あれがあなた(That's being you.)。すべてはbeingness(存在)であり、それにラベル、言葉を貼りつけて区別しているのです。

この、私、自分とは何のことを言っているのでしょうか? それは自分に対する観念的なイメージなのではありませんか? 私はボブ、いいやつ、あんまりよくない、幸せだ、憂鬱だ。純粋な知性エネルギーにたくさんのラベルを貼りつけています。物を存在させるために言葉を使っています。言葉によって、うわべ上での実体と独立した性格を与えます。それがあらゆる心理的な苦悩の原因です。それは言葉です。

カット:四か月間で大きな進展がありました。人間関係のもつれから、とても苦しい時期でした。表面的には、自己という感覚が強まる必要がありました。そのことによって、ボブは私に、私が「自己」と呼ぶものが、観念のイメージであるということを教えてくれたのです。
そしてそれは私の人生の中で最も変容をもたらした出来事でした。何も以前と同じではありませんでした。もう自身を過去と関連づけることができないと言った方がいいのかもしれません。うわべ上での進歩を認めることができないということです。というのも進歩などないからです。
未来が停止したのはとても興味深いことです。以前の私は将来に対してたくさんの選択肢を考えていました。それが落ちてしまい、今だけが浮き上がってきたのです。それが生活の中でとても強烈になりました。そして存在することの喜びが全面に出てきたのです。
そして物事は奇跡のようにあるべき場所におさまり始めました。

何も良いとか悪いとかはありませんが、思考がそう判断しているだけです。ニサルガダッタは、「あなた自身の想像以外、何もあなたを悩ますことはない」と言いました。想像(imagination)とはなんですか? image in(イメージに入ること)です。私たちは自身のマインドの中に観念のイメージを作り、それを信じています。

私たちはこの波動としてマインドを調べ、それがどのように働くかを見ます。それがどれほど機械的に働くかを見ます。それはとても役に立つ道具ですが、また自己破壊的でもあります。もしあなたが詳しく調べると、それはいつも互いに対をなす反対の極へと振動しています。調べてみてください。あなたが過去を思う時、それは記憶であり、未来は期待の想像です。良いと悪い、心地良いとつらい、幸せと不幸、愛と憎しみ、ポジティブとネガティブ。自身のマインドを調べて、それ以外のやり方で動くかを見てください。

私たちは観念のイメージを抱き、それがエゴ(自我)となりました。聖典の中では、エゴを取り除きなさいと言われていますが、それが問題となります。それを取り除こうと、カーペットの下に入れて飛び乗ってみたり、殺してしまおうと、可能なことをやってみたりするのです。でもここでは、もしあなたが詳しく調査すれば、それは存在しさいしないとわかると指摘します。私たちはフィクションに縛られています。私たちはこの観念のフィクションに縛られているのです。

そのエゴがあらゆる心理的な苦悩の原因です。それが、いわゆるカルマ、原因と結果と呼ばれるものです。私だけが心配をします。私だけが恐れを抱きます。私だけが不幸となったり憂鬱になったりことができます。私たちが、私という思考に付け加えた観念だけが。

思考をちょっと休止して。もしそのことを考えなかったら、今何が問題だろうかと自身に問うてみてください。しっかり調べて、思考なしでこのことに何を言うことができるか見てください。
思考をちょっと休止してみると、あなたは何も言うことができないとわかりますが、それでも見る働きは止まりません。聞く働きも止まりません。呼吸も鼓動も止まりません。思考が止まっていても、すべての機能は働き続け、自身は消えないとわかります。

あなたはバラバラにはならず、思考なしでも生は依然としてそこにあり、マインドは一瞬休止しています。ということは、あなたはマインドを超えたものです。あなたは思考以前に存在しています。もしあなたが思考なら、あなたが思考を止めると、それであなたは終わりになるはずですが、そうではありません。

ビル:ボブは講話の最初にいつもこう言います。「誰かがあなたに教えることができることは何もありません。誰かがあなたに見せることができるものはありません」。それが意味するのは、自分自身で調査しなくてはいけないということです。それが不可欠です。何がそれをやっているのかを考える必要はなく、ただ調査するだけです。調査をするためにボブはたくさんのポインターを提供しています。ミーティング、たくさんの観念。また、アドヴァイタに関するたくさんの本、ビデオがあります。でも、ボブのポインターの一つを選ぶと、それはとてもシンプルです。私の好きなポインターは、「見る働きは今起こっていますか?」です。そこで私は、このマインドと体が見ているのか、それともそれはただ自然に起きているのかを調査します。それが私にとってはとても明解です。では、その他の面はどうなのか。調べること、見ること、考えること、聞くこと、何かをやることはどうか。それはマインドでも体でもなく、ボブの言う認識する空です。そこには見る働きだけがあり、私たちはいつも純粋な主体性です。知る働き、見る働き。こうした観念すべてをあてにすることはできますが、いつも、「ああ、私はその観念を知っている」という地点にもどるのです。でも、その「私」は小さな私ではなく、大きな私。それは認識する空です。それは知る働き、見る働き、内在する知性、それが絶えず機能し続け、それ以外ではありえない。それはそうあるはずです。

仏教徒はそれを、認識する空と呼びますが、その意味は空に認識、あるいは知る働きがあるといことです。私たちが認識すると考える時、私たちが認識する人だと考えますが、そうではありません。それはもともと認識されているのです。そのため、見る働きがそれを見るとき、それを再認識(recognize:再認識)しているのです。そのため、もともとあなたがそうであるものを再認識(recognize)すると言うのです。不変のものを見ているのです。それは常にあるものです。

それは見た目の上では不確かなものに見えます。それゆえ聖典ではそれを無知と呼ぶのです。それは、馬鹿だとか愚かだと言っているのではなく、真の実在を無視しているという意味です。観念の中にある信念に焦点をあてているのです。そのため、それはいつもそこにあるのです。

もし、あなたが真実を知らず、自身という存在を信じていると、それからあらゆる心理的な問題が起こります。たいていの人が多かれ少なかれ絶えずこの問題を抱えていて、中には他の人より悪い人もいます。ここで私は、それは不要なことであり、心理的な問題を調査することによってそれを見抜くことができると言っているのです。

虚偽は調査に耐えることができません。調べてみて調査に堪え得ないようなら、それは虚偽です。するとあなたは自由になります。どうして虚偽とわかったものをもう一度信じることができるでしょうか。あなたの人生全体において、何が虚偽なのかを見抜くようになり、そこにエネルギーや信念を注がなくなります。どんな存在や信念もエネルギーなしでは存在することができません。

また、信念という言葉の定義は、調べもしないで理由なく何かを受け入れるということです。言われている物事を確かな知識や証拠なしに受け入れるということです。私はあなたに尋ねます。あなたは自分が存在すると信じているのですか、それとも知っているのですか? するとあなたは、私は自分が存在すると知っていると断言するでしょう。

誰もそれを否定することはできません。あなたは自身に対してあらゆるイメージを持つことができますが、自身の存在を否定することはできません。そのことは、私たちは存在するが、自身に与えた信念、考え、イメージによって、その存在がわからなくなっているということを意味します。どうしてそれが起こったのでしょうか。

身体からそうした信念を取り除くためには、調査して、こう問う必要があります。私はこの体とマインドなのか? そして考えてみると、もともと自身は体でもマインドでもないと知っているのです。というのも、あなたは、「私の身体」「私の家」「私の車」「私のコート」「私の服」と言うのではありませんか? あなたはコート、服ですか? いいえ、そうではないと知っています。調査をしてみると、同じことが体にも言えるのではありませんか? それは、あなたがこのエネルギーのパターンに貼り付けたラベルにすぎません。

では、この体は何でできていますか? 少し詳しく調べてみると、この体は構成要素でできているとわかります。空気、土、火、水、空間。この部屋の内外のあなたの周りにあるのものと同じ要素でできています。でも、調べてみてください。あなたはその要素ですか? あなたは、例えば、空気ですか? あなたと空気を分離することはできますか? あなたと構成要素を分離することはできますか? できるならやってみてください。空気を自身と分離すると、呼吸なしでは少しも生きていられないとわかるでしょう。

体から水を分離してください。体の80%は水です。水なしで生きられるかやってみてください。すぐに死んでしますとわかるでしょう。体の熱である火を分離してください。低体温症になって死んでしまうでしょう。空間の外、地球の外へ出ることができるならやってみてください。やってみると、あなたは自身からそうしてものを分離することはできないとわかるでよう。つまり、本質として、あなたはそうしたことすべてであるに違いありません。

カット:私は船舶士官として働いていました。基本的に、船の操縦室で様々なボタンを押しながら、機械を動かしたり止めたりしていました。もちろん、それは事前の計画に基づくもので、風やその他の学んだことすべてを知る必要がありました。そのため、体はすでにその技術を身につけていました。そして、学んだことすべてをある存在と結びつける必要はありませんでした。というのも、それは(船の)システムに組み込まれていたからです。基本的に同じ事が起これば、そのことに対するストレスはありません。ミスを犯す可能性はとても低いのです。

私は基本的に、すべての瞬間において、なすべきことがマインドに思考としてやってきた時、生の本質は何なのか、それがどれほど真実なのかを発見しようとしています。そして、思考は行動へとつながります。行動は体を通して起こります。何も心配することはないのです。というのも、思考が必要な時にはやってきます。今、確かにそのことを知っています。もし思考がやってこず、何かが無視されているのなら、それはすばらしいことです。エネルギーを浪費することはありません。私は依然としてここにいます。
同じことが働いている時にも起こっていました。エゴやコントロールが表面的に必要に見える時でさえ、何も必要ではなく、船を操縦する私は空っぽで、体を通して起こった思考と行動に従いさえすればよかったのです。とても簡単なことです。

女性A:ボブは、朝目覚めた時の話をします。目を開け、何にもラベル貼りをしないでまわりを見渡すことができます。そして私はまたここにいて、それはどうすることもできないと気づくのですが、それが最初にやってくる時、私の目が覚めて、まだ思考がやってこない時、私はこの空間、この空に気づくことができて、それが実在であり、それから、私の一日の物語がその上に始まり、時々はそれが夢から覚めた時でさえ、私は起きて、それが夢だったと気づいて、空間の広さに気づいて、一日の物語が始まることに気づくのです。そのことは、参照点という信念にとらわれることなく、自身がうまく機能できるように助けてくれます。苦しめられる私、何かをしなくてはいけない私といった、行為者としての私は消えました。

誰も、もともとあなたがそうであるものを与えることはできないし、取り上げることもできません。それを再認識するかどうかの問題です。

あなたは体でもマインドでもないと認識するためには、それが不変のものだと理解することです。でも習慣のパターンによって、人々は「私」という信念に戻ります。それは雲が太陽を覆って見えなくしてしまうようなものです。「私」という思考が純粋な知性を見えなくしています。そのため、見失ってしまったように見えるのですが、太陽が雲によって見えなくなった時でさえ、太陽は空から消えてはいないのです。太陽は常に自ら輝き、空を去りません。やってきて去っていくのは雲です。

あなたが自身のマインドを調べて何が起こっているかを見る時、やって来て去っていくのは思考であり、生命の本質は動きません。それは変わることはありませんでした。もし、あなたに子供の時に何が起こったかと尋ねると、あなたはあれこれと答えるでしょう。そしてどうしてそれがわかるのかと尋ねると、あなたはそこにいたからと答えるでしょう。では、あなたはその時と今と同じ体でしたか? あなたはずっと同じ子供でいたわけではありません。体は絶えず変化しています。

自身に対してずっと変わらない観念を抱いていたかというと、そうではありません。なぜなら、あなたはいろんなことを学んだからです。でもその背景にいつも変わらずにあったのは生命の本質です。それは決して変わりませんでした。それゆえ、いわゆる空っぽの世界における変化は作り上げられた虚偽のものなのです。
十六世紀の禅僧はその本質を「不生の仏心」と呼びました。ありゆることが、不生の中では完全に解決されています。どうして不生を思考と交換するのですか? 

ビル:それが体の中で働く時、たとえば爪を成長させ、新陳代謝を行い、消化などすべてはただ自然に起こっています。自然に起こっているということは、その直接性だけがあるということの大きな手掛かりであり、その直接性の中には、その瞬間、それは瞬間でさえなく、継続でもないのですが、そこには、「私」もいません。その線に沿って調査してみると、それはとても強力であり、あなた(ボブ)はどうやって調査したらいいのかのたくさんの手がかりをくれるので、そこに「私」がいるかどうかを知ることがいつも本質的なことです。そしてそこに「私」がいないとわかると、もしそこに「私」がいないのなら・・・、そこに「私」がいるかどうかを知ることは実際には問題ではないのですが、もし「私」がいないということを想像できるなら、それはどんな状態なのか。あなたが実際に調査することができて、そこには「私」がいないとわかると、ただ単にこの自然発生、直接性を理解して、そこには「私」はいないとわかります。つまり、それを知ることがどれほど途方もないことなのか。あなたが今そのことがわかって、3、4年前を振り返ってみると、その頃あなたはまだ探求者として奮闘していたころですが、その状況においても、「私」はいなかったとわかります。あなたは、3、4年前にも「私」はいなかったと知ることになります。

ミック:時間というのは重大な概念です。先日も考えたのですが、みんながこの時間と呼ばれるものを信じているのはどうしてだろうかと。もし、時間というものを信じていなかったら、過去はないし、未来もない。そうなれば、あ~、馬鹿だった、こんなことをすべきではなかった、という考えに悩まされることもない。それで、そう思ったとたんに、それをやる自分なんていないかったのだから、遡る過去があって、それを心配するのは的外れだとわかる。

つまり、過去も未来もないのです。時間も空間もありません。道も目的地もありません。この探求とはいったい何なのですか? おそらくあなたはもともとそこにいるのです。過去も未来も行くべき目的地もありません。今、ここから外へ出ることができますか? それもまた観念です。観念上で、あなたはまた時間の中へともどります。私たちは実在ではない時間を信じています。この瞬間が永遠です。私たちは永遠を、永遠の命を探しています。私たちは60億光年の昔から何度も生まれかわっていると思っています。でもあるのはこの瞬間だけであり、時間の継続はありません。

ギルバート:それは生ける知性です。それは時間の中にはありません。マインドとは時間のことです。でも、時間は実際には存在せず、観念にすぎません。その本質はエネルギーであり、それがあらゆるものとなって現れています。そこには分離はありません。あなたはそれから分離してはいません。つまり、理解すべきことは、私がそれであるということです。あらゆる聖者が、タットマワシ(われはそれなり)と言っていて、それが、指摘されていることです。誰もがそれです。ボブが言うように、それを知っていようといまいと。

ニサルガダッタは「命は命を糧として生きている」と言いました。そこには命があるだけで、それを生きている誰かはいません。誰も生きてはおらず、生命そのものがあらゆる異なった姿形となっているだけです。

男性:内側に留まるようになって以来、経験そのものが完全に落ちていって、自身の経験していることが一つのシーンのようで、人の行動も自分の行動も内側のあらゆることもそこから消えているかのようです。でも、まだ何かを探している自分がいるのです。そうしているということは、たぶん、まだ明確に理解していなのだと思います。何が足りないのか、どうして繰り返し探し続けているのでしょうか。

あなたが見逃しているのは、「探求をやめよう」ということです。(笑い)やめてください。

ギルバート:それは始まってさえいない。(想像上の)ストーリーだよ。

あなたは実在(being)ですか、それとも探求者ですか?

男性:実在です。

そうです。では、何を探すことがあるのですか? あなたがそれを何度理解しても、古い習慣は続きます。

男性:ええ、わかっています。でも、あらゆることがマインドに浮かんできて、これがそれだ、もう少しでだどりつく、そういったあらゆることが浮かんできます。共鳴や中心が浮かんできて、これが彼の言っていることだという地点を実際に指し示すことができるかどうかわからないのです。

もう少しだとか、そういったことは、誰に関して言っているのですか? もしそうしたことを「私」が関連しないなら、あなたは何ですか?

男性:私はいません。

ええ。あなたは思考ではありません。あなたが思考になることもありません。(笑い)そうした考えがマインドにないなら。(そうした)考えを持たないことは良いことです。

男性:わかりました。

ミック:ボブ、興味深いことですが、私がこの話を聞きにくるようになってから、あなたはいつも同じことを何度も何度も繰り返し話ます。そしていつも私の心の中で「なんてこった。この人には何かもっとオリジナルな話はないのか!」という思いが起きるのです。(笑い)

私はそれでいい。

ミック:でも、おもしろいことに、そういう思いが起こっているのは、それを新鮮で新しいこととして見ていないからです。あなたが言うように、表面上で起こった過去のことを振り返ってみると、それを新鮮で新しいこととして見るなら、何も同じことは起こっていない。

アドヴァイタの非二元の教えのシンプルさに関して言えば、人々は、それはとてもシンプルだと言って、それを言葉や概念で言おうとして、それが簡単すぎるので、そんなはずはないと考えるのです。でも、「一」よりシンプルなことがあるでしょうか? 「一」以上にシンプルなものはないとわかるはずです。つまり、あらゆる人がその「私は在る」であり、分離したものではないのです。何も分離してはいないのです。

真実を知れば、真実があなたを自由にします。そしてあなたは、そこに何かをしなくてはいいけないとか、何かに従わなくてはいけない存在がいるという信念から自由になります。そして生が自然と起こってきます。そこには区別がないということを理解してください。若い人たちはそのことに興味を持ち、何年も何年もそれを手に入れようとしますが、そのことを理解しません。最終的には何も手に入れるものはないのです。それを知っていようといまいと、彼らはもともとそこにいるのです。

二歳か二歳半のころ、「私」という思考がやってきた時、親や学校、社会、国家がそれを強化し、毎日自分でそれを強化してきました。その習慣が時々やってくるからといって、それを責めることができるでしょうか。それがやってきた時、ちょっと待てよ、これは真実じゃない、それはもう見破ったと言うでしょう。あなたは今知っています。「私」が始まったという特定の場所を指摘することができますか? できません。それは、あたかも夢を見ているようなものです。蜃気楼の中の水を見て、水がそこにあると思っているようなものです。

女性B:今思うのは、ここへはもう長く通っているのですが、とうとう私は、物事が起こって思考がやってきても、ただ見ているだけ、ダンスを見ているだけということができる地点に到達しました。そしてそのダンスを楽しむのです。たとえダンスの相手が役立たずであっても。(笑い)私には、絶えず疑問や判断すること、応答することがつきまとっています。何かに対して応答する能力のことです。何かを自分のものだと思ったり、何かに対応しようとする時、判断がそこにあるのはわかりました。そしてあなたは、それは単に起こっていることだと言うのは知っています。それが自然に起こっていることで、応答が起こるべきことなら、それは自然に起こる。自分のものだという思いが起こるべきことなら起こる。そこにはそれをやっている誰かはいない。それと一緒にマインドがやってきます。

実際に反応や行動が起こった時、誰がやっているのですか?

女性B:あなたがそういう時、そこには判断がないということですか?

ありません。

女性B:それは落ちていく。

ただ自然に起こるだけです。

女性B:でも習慣的に判断してしまうのです。

そうです。

女性B:それはいつなくなるのですか?

それはいつ始まったのですか?

女性B:オーゴッド(笑い)

あなたがそれを調べてみると、何も起こっていません。どんなことも起こっていなかったのです。誕生も死も過去も未来も目的地も自由意志もありません。それを調べてみる必要があります。するとそれは起こっていることだとわかります。というのも、虚偽は調査に耐ええないからです。私たちが身につけているこうした間違った虚偽の信念は、あなたの調査に耐えることができません。そこには、それが始まったという静止した地点はありません。この顕現の中のどこににも変化しない地点はありません。そして、それをやっている自己はどこにもいません。

あらゆるものがそれです。ニサルガダッタは言いました。「あなたは、あなたが世界と呼ぶものの中で夢を見ているのだということを理解しなさい。そして、出口を探すのをやめなさい。夢が問題なのではない。あなたの問題は、夢の一部を愛し、その他を嫌うことだ。そのすべてを愛するか、すべてを嫌うかにしなさい。そうすればあとは自然に起こってくる」。その意味するところは、私たちは夢を良い悪いと分割しがちですが、世界を良い悪いに分割しないということです。

あらゆることが良いことであるのと同じように、あらゆることが悪くもあるのです。この宇宙は混沌としていると私たちは思っていますが、宇宙は完璧に解決しています。くつろいで、それを見ているということは、何もしないでいるという意味ではありません。あなたは心身が重要な役割を果たしていると気づくはずです。でも、それを操っている人はいないのです。

より好みをしなければ、大いなる道は難しくはない。愛することも憎むこともなければ、あらゆることは明らかで偽りもない。しかし、わずかでも区別をすれば、天と地は遥かに離れる。区別しない思考がやって来る時、古いマインドは存在しなくなります。

ヒンドゥーの聖典の中に、五つの要素と呼ばれるものがあります。サット・チッタ・アナンダ・ナーマ・ルーパ。存在、意識、至福、名前、形。ニサルガダッタは見事に語っていますが、人々は彼の言うことを理解していません。彼は言っています。「私は無であると言う時、それは知恵である。私はすべてであるという時、それは愛です。その二つの間で私の生は流れていく」。

無を知る知恵とは、サッチ・チッタ・アナンダ、存在、意識、至福のことです。存在とは知る働き、意識とは実在、そして至福とは存在することへの愛です。そのどれもが分離したものではありません。存在、意識、至福は分離しておらず、それは波動であり、振動して絶えずそれぞれに変化しているのです。

ギルバート:もしあなたが、今この瞬間に起こっている、この生ける知性、この命へと戻るなら、思考や言葉なしで、それはとてもはきっきりしていて明白です。分割しているように見えるのは言葉のせいです。それが、ボブが私やみんなに指摘していることです。言葉が実際に分割しているわけではないのですが、一体性、生、意識、認識を分割しているように見えるのです。そしてマインドはその道筋を通って分離を信じるのですが、それはすべてラベルです。それを認識することがとても重要です。もし、言葉が無かったら、あなたは何ですか? あなたは休止せざるえません。そして調べてみてください。そこで認識できるものを否定することはできません。それがいつもあなたであったものです。それはあなたの身体が生まれる前からあったものであり、永遠です。私たちは、この一つの本質です。あなたが誰であろうと、自分を何と思おうと、あなたが社会の階層のどこに属していようと、みんなそれなのです。それだけです。

ビル:あなたが本気で調査すれば、「私」は幻影、つまり想像だとわかるはずです。それは重要です。ボブが指摘するいくつかのとてもシンプルな調査をやって、それを理解すると、「私」というのは、他のことすべてと同じように、一つの波動にすぎないとわかります。

女性A:私はそれを精神世界の最終教養学校と呼んでいます。「私」は、外の世界からいろんなものを集めて、架空の話を作っていました。そして最後に障害となったのは、エンライトメントを求める私、どこかで白い光を浴びる私、現象のすべてが変わってしまうような私でした。でも、今は、この瞬間がすべてです。

カット:ええ、実際に「私」はいないのです。つまり、それです。(笑い)

ボブ:エンライトメントなどというものはありません。なぜなら、私たちが話していることは、非二元、他には何もない一つのものです。それは完全なものであり、完全なものからは何も取り去ることも付け加えることもできません。ということは、エンライトメントした人や何か他のものというラベルで分割することはできないのです。それは一つの本質です。それがパターンとなり、あらゆるものとなって現れています。存在、認識、存在することへの愛、別の言い方をするなら、存在するという意識が至福です。
ニサルガダッタは別の言い方をしました。存在することへの愛情深い意識を持つこと。別の言い方をすると、自分自身に戻る自分を愛するということです。

2022/08/12

「私」は実在しているように見える

佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その44」(「仏教哲学の世界観」第9シリーズ)
 

「自己を感じながらも、その『自己がある』という感覚が真実ではないと自覚することが重要」

このYouTubeはスキップしないで、ぜひ見てください。まさしく非二元の教えです。

2022/08/11

盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む 第9回

【盤珪禅師の ”般若心経” 講義を読む】第9回 (2022年8月) | 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師
 

2022/08/10

冷蔵庫で食品を腐らす日本人・冷蔵庫で食品を腐らせない日本人・丸ごと魚柄仁之助・儲け道・裏儲け道・一年間10万円つくる、食べる、もてなす365日全記録

冷蔵庫で食品を腐らす日本人 魚柄仁之助

食文化にまつわるエッセイ集。とても有益で、いろいろ考えさせられる本でした。
私は一年ほど前まで、徹底した糖質制限食を実施していました。糖尿病ではないのですが、食後に猛烈な眠気が襲い、時々は昏睡といっていいほど寝てしまう時があり、あれこれ調べて、食後の血糖値スパイクが原因であろうと結論し、糖質制限食を実施していました。

具体的には、豚肉を主食にして、多い時は毎日300g。その他には、魚、大豆製品、卵、チーズを食べ、オリーブオイルを30mlずつ飲んでいました。二年ほど続けたところ、定期検査でひかかり、肝臓の数値が要検査でした。

そこでまたあれこれ調べたところ、肉や油物ばかり食べていると、肝臓に負担がかかるということがわかりました。また、肉食は大腸がんのリスクが高まるということも知り、糖質制限はやめてしまいました。

糖質制限推進派の人たちの本には、沖縄の人たちは豚肉をたくさん食べているので長寿だというものがあります。ところが、この本の中で、魚柄さんが沖縄で調査した報告が書かれていて、沖縄の高齢者はほとんど豚肉を食べていないとあり、驚きました。

同様に、私が今まで信じてきた食の知識を根底からひっくり返すような事実があちこちに書いてあって驚きました。マスコミで垂れ流しになっている食情報は、決して正しいものばかりではないということがよくわかります。

それと、おおいに参考になったのは、魚柄さんの食事の内容。一日1.5合の白米と根菜が中心で、魚と肉はほんの少し。肉にいたっては私の四分の一以下。魚も二日に一切れぐらい。幅広くいろんなものを食べるという食生活。私は米以外は食べ過ぎでした。

魚柄さんに言わせると、現代人は肉や魚を食べ過ぎていて、それを消化するためにエネルギーが必要で、かえって体に悪い食生活をしているという。私は魚柄さんの食生活を真似ることにしました。今よりもお米を食べ、根菜や乾物をたっぷり食べ、肉、魚は減らす。食費もぐんと安くつく。

冷蔵庫で食品を腐らせない日本人 魚柄仁之助

食品を長く保存するためにはどうしたらよいかをイラスト入りで解説してある。とても分かりやすい。干し野菜、みそ漬け、醤油づけ、ぬか漬け、魚の酢じめのやり方など、ためになることいっぱい。図書館で借りたのですが、座右の書とすべくアマゾンで注文しました。冷蔵庫に味噌漬けや干し野菜の容器が増加中です。じゃがいも、さつまいも、カボチャなど干し野菜にして食べるようになってから、お通じがよくなり、驚いています。肉中心の時とは大違いです。糖質制限中の二年間は芋などの炭水化物は厳禁だったので、ずいぶん体に悪い事をやっていたなあと反省。でも、糖尿病の人には糖質制限は有効な方法だと思います。その場合は、肉や油脂製品ばかり食べるのではなく、魚や大豆とバランスよく食べる方法が良いと思います。

丸ごと魚柄仁之助 魚柄仁之助

魚柄さんの自伝的エッセイ。魚柄さんは、中学生の時、キャンプ中の事故で針金が目に刺さり、片目を失明してしまう。片目を失明してしまうようなことが起こるということは、死ぬことだって簡単に起こると達観。もう好きなことをやって生きていこうと決意する。以降、毎日ギター三昧の日々。大学在学中もギターとバイクの日々。

宇都宮大学在学中にバイク店を経営。その後、大学を中退して骨董品屋を始め、中古ギターなどを売って儲ける。傍らで、食文化の研究をやり、本を書いたところベストセラーになる。以降、講演、著述業、漫画原作者として現在に至る。

魚柄さんの成功の原因はいろいろあると思うが、成功を追い求めたのではなく、自分の好きなことをとことんやったことと、その時々で出会う人や仲間を大切にしたこと。成功は人が運んでくる。そして今もパートナーや仲間に囲まれて悠々自適に暮らしている。

学ぶべきところいっぱい。私は人並み以上に努力するタイプだけど、誤努力の天才とでもいうべき存在で、まわりが見えておらず、人を大切にしてこなかった。魚柄さんをおおいに見習いたい。

儲け道 魚柄仁之助

不確実な現代において、サラリーマンとしてではなく、自営業者としてどうのように商売をやっていくといくと成功するかを書いた指南書。魚柄さんがやってきた、自転車屋、骨董商、物書きとしての経験談を中心に、どうすると、儲けることができるかを書いたもの。ちなみに魚柄さんは、毎年数千万円の収入があるという。

成功の秘訣としては、アイデアが浮かんだら即実行すること。自分の適性を知り、儲かるかどうかをよく考えること。そして何より大事なのが、人を大切にすること。人とのつながりが商売の成功に導くという。

私は今から何か商売を始めようという気は毛頭ないし、年収ん千万欲しいとは思っていないが、生き方の指南書として多いに参考になったし、おもしろかった。やっぱり人間関係や信用が大切だということは参考になった。

魚柄さんには、ただ金が儲かればいいというような発想はなく、美学のようなものがある。株や投資であぶく銭を稼ごうなどという気は毛頭ない。すばらしい。

裏儲け道 魚柄仁之助

裏、といっても、何か秘密の方法が書いてあるわけではない。日常生活で、こう発想を変えれば特をするよ、というようなことが書いてあるエッセイ集。魚柄さんの真似をして食生活を変えた。まだ始めたばかりなのでよくわからないが、たしかに食費は安くつく。買い物もそんなに行かなくてすむ。ご飯と根菜をいっぱい食べて、魚はほどほど、肉は少し。はたして健康に良いかはまだわからない。

私は欲望を追わない人生をモットーにしているので、お金儲けのために魚柄さんの本を読んだわけではありません。人間関係の指南書として読み、おおいに役にたちました。

一年間10万円つくる、食べる、もてなす365日全記録  魚柄仁之助

魚柄さんが実際に食べた毎日の食事を記録したもの。具体的に何をどう食べたのかが気になって買った。一日につき一食分のメニューは書いてあるが、細かい分量やレシピが書いてないので、具体的にどんな食材をどれくらい食べたのかは書いてない。どちらかというと、誰とどこで何を食べたかという日記になっている。想像していたものとは違って、ちょっと期待はずれ。

穀物と野菜は毎日しっかり食べているということだけはわかった。一年10万円の食費ということは一か月9000円弱。その金額から考えると、食べている量はそれほど多くないはず。それにしても、毎日毎日いろんな人に会い、たくさん酒を飲んでいる人だなぁ。こんな毎日だったら楽しいだろうなぁ。

2022/08/07

仏教・アドヴァイタ 参考書籍

仏教の教えの中に、非二元の教えと根本的に同じことを説いているものがあります。そうした視点から見た参考書籍です。特におすすめには☆印をしておきます。

仏教

阿頼耶識の発見 よくわかる唯識入門 (幻冬舎新書) ☆
唯識の思想 (講談社学術文庫) (「やさしい唯識」の新装版)☆
唯識入門(「唯識十章」の改訂版)
知の体系 迷いを超える唯識のメカニズム☆ 『華厳経』『楞伽経』 (現代語訳大乗仏典)
般若心経・金剛般若経 (岩波文庫)コスモロジーの創造: 禅・唯識・トランスパーソナル 龍樹・親鸞ノート空の思想史 原始仏教から日本近代へ (講談社学術文庫)
仏陀のいいたかったこと (講談社学術文庫)
お経の意味がわかる本 (仏教を学ぶ) 
仏教入門 (岩波新書) 
ブッダのことば: スッタニパータ (岩波文庫)
世界の名著 禅語録
ダルマ (講談社学術文庫)
新版 禅とは何か (角川ソフィア文庫)
禅学入門
鈴木大拙 (講談社学術文庫)
一休―狂雲集 (禅入門7)
名僧列伝(二) (講談社学術文庫) 
鈴木大拙全集〈第2巻〉禅思想史研究 第二 達摩から慧能に至る
盤珪禅師語録 (岩波文庫 青 313-1) 

アドヴァイタ
世界の名著 (1) バラモン教典 原始仏典  (中公バックス) 

2022/08/06

仏教、禅の根底にあるもの

仏教と禅について長々と書いてきましたが、盤珪について書いたことで、目標としていた地点までたどり着くことができました。「禅・Buddhism」はここで終わりにしたいと思います。今後、仏教についてまとまって書くことはないと思いますが、単発的に書くことがあれば、「仏教その他」に書く予定です。

仏教の根本思想は諸法無我です。それは、「我」、すなわち「私」には実体がないということであり、まぎれもない非二元の思想です。特に、大乗仏教の唯識、唐の時代の禅の根底には明らかに非二元の思想があります。また、日本に伝わった仏教の根底にも非二元の思想が流れています。

言葉は違えど、彼らはセイラーボブと同じことを言っています。一言で言ってしまえば、「私が私だと思っているものは実在しない」「世界は私の意識の中にある」ということです。さらに付け加えるなら、いわゆる「悟り」などというものはないということ。もともとそうであるということ。

仏教を学べば学ぶほど、それは非二元の思想であるとわかりました。セイラーボブが教えていることは、彼も言っているとおり、仏教の伝統の中にもあることです。非二元を学んだあとで仏教を学ぶとそれがよくわかります。

仏教の中に非二元の思想があるというのは、Wikipediaでも書かれていることですし、セイラーボブやその関係者も語っているところです。ちょっと調べものをしていて、アマゾンでグレッグ・グッドのダイレクトパスの著者紹介を読んでいたら、こうありました。

著者について

グレッグ・グッド Greg Goode
南カリフォルニアで育つ。カリフォルニア州立大学で心理学、ドイツのケルン大学で哲学を学び、ロチェスター大学で哲学の修士号と博士号を取得。アメリカ哲学実践者協会(APPA)認定の哲学カウンセラー。西洋哲学、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ、大乗仏教など広い知見をベースにした自己探究を、著書やコンサルティングを通じて指導している。

彼も大乗仏教をベースにしているんですね。

また、ジョーン・トリフソンも、推薦本のコーナーで、たくさんの仏教関係の本を推薦しています。ということは、多くの非二元の語り部たちも大乗仏教や禅を研究しているということです。いまさらながらですが、書き足しておきます。

また、仏教のあれこれを読んでわかったのですが、セイラーボブの話の中には、仏教をネタ元にしているものがたくさんあります。盤珪や唐代の禅僧の話を読むと、ネタもとだと思われる話がたくさん出てきます。おそらくボブは、鈴木大拙の英語本を読んでいるのではないでしょうか。

ちなみに、カテゴリーを「禅・Buddhism」として、なぜ「禅・仏教」としなかったかというと、仏教関係の書籍は、漢文読み下しで書かれたものや、古い漢字で書かれたものが多く、読めないものが多い。苦労して読んでも、言っていることがよくわかりませんでした。日本語で書かれたものは中国経由の漢字に影響を受けて書かれているので、理解しにくいからだと思います。

そこで、では同じことを英語で書かれたものはどう言っているかと調べると、それがとってもわかりやすい。そこで、英文サイトや文献から理解することにして、カテゴリーを仏教とするよりBuddhismとした方がよいだろうと思ってそうしました。

当初は英文で書かれたものをたくさん読もうと思ったのですが、思ったほどはかどらず、結局は日本語の現代語で書かれたものに頼った場合の方が多かったのですが、そのままBuddhismにしています。

仏教や禅関係の原典は、漢文もしくは漢文読み下し文が読めないと読めない。そのため、学者が書いた現代語訳を読むしかない。それでも、多くの場合、非常用漢字の古い文体で書かれたものが多くて、簡単には読めない。
鈴木大拙や柳田聖山の本でも、おいそれとは読めない。小川隆先生など、現役の先生の本はなんとかなるが、少し前の時代の学者の本はそう簡単には読めない。

そういう点で、円覚寺の横田南嶺老師のYouTube(「盤珪禅師語録」)は、とてもありがたかかったです。もう何度も繰り返し聞いています。
横田南嶺老師がいなかったら、「不生の仏心」ということの本当の意味がいまだにわかってなかったと思います。横田南嶺老師のYouTubeは、私にとっての貴重な情報源にもなっています。

また、佐々木閑先生のYouTubeも引き続き聞いています。佐々木先生は、仏教をわかりやすく解説されています。私の仏教、禅に対する理解は、この二人のYouTubeによるところが大きいです。もし、コロナがなくて、YouTubeでの講義や法話がなかったなら、仏教も盤珪もしっかりと理解することはできなかったと思います。

佐々木閑先生や横田南嶺老師の話を聞いていると、随所で、「自我という実体はどこにもない」という話が出てきます。そして、悟りとはそのことに気づくことであるということも出てきます。

釈尊が教えていたもともとの仏教は、現代の日本の仏教のように葬儀をしたり戒名をつけたりというものではなく、修行をして悟りを開くためのものでした。この場合の「悟り」は理解という意味に解釈してください。ちなみに、戒名を付けるようになったのは日本の仏教だけだそうです。

すべての仏教の教えの中に非二元があるというつもりはありませんし、セイラーボブの言っていることと全部同じだというつもりもありません。でも、盤珪や禅の話を聞けば聞くほど、仏教の根底にあるのは「一つのもの」「非二元」だと思えてならないのです。

またいつか、禅や仏教について書くと思いますが、禅と仏教については、ひとまずこれで終了とします。仏教や禅の話はなんだかよくわからなかったという方は、「盤珪禅師語録」を何回も聞くことをおすすめします。また、佐々木閑先生のYouTube(架空の自我意識世界には実体があるのか?)も参考になると思います。

仏教が何を目指しているかというと、自我の消滅です。自己と他人の区別はないということです。自我があると思っている間、人は欲望を追い求めます。そのため、欲望を追いもとめないことによって自我を消していくのが仏教の修行です。(参考:横田老師のYouTube人は自己を変えることができるのか

仏教といっても範囲が広く、説き方も様々です。私が学んだのは、そのほんの一部であり、かじった程度のものです。
佐々木閑先生横田南嶺老師のサイトでまた非二元関連の良い話に出会った時は、随時このブログで紹介させていただきます。

2022/08/05

私は宇宙のどこにも存在しない

佐々木閑 仏教講義 6「阿含経の教え 2,その41」(「仏教哲学の世界観」第9シリーズ)

2022/08/04

太陽を覆う雲

セイラー・ボブがいつも話す、「太陽を覆う雲」の話は禅から来ていると思います。

第570回「ありのままの自己」2022/7/30【毎日の管長日記と呼吸瞑想】| 臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師

あるがままのあなたが仏なのだ、と言われると、非二元の話を聞いているような感じを受けます。

2022/08/03

清貧の生きかた・旅へ 新放浪記 1・南へ 新放浪記 2

清貧の生きかた 中野孝次/編

「清貧」を生きた17人の人たちが書いた文章を集めたもの。どんな人が出てくるかというと、水上勉・坂村真民・小崎登明・高橋延清・志村ふくみ・幸田文・今西錦司・山尾三省・吉野せい・空中斎光甫・鴨長明・吉田兼好・解良栄重・三木卓・安岡章太郎・鈴木大拙・中村達也。

中野さんの説く「清貧のすすめ」は、貧乏の礼賛や極貧生活をすすめているわけではない。中野さんは大学教授で作家だったから、経済的にはむしろ裕福な階層の人。また、この本に出てくる人たちも、たいていは経済的には恵まれていた人たち。

中野さんの言う「清貧」とは、「自由でゆたかな内面生活をするために、あえて選んだシンプル・ライフ」のこと。物や金への執着を減らし、生活をできるだけ簡素単純にして、自分のやりたいことをやるということ。

私もそういう生活をしてきたつもりだったが、気づいてみると、必死に欲望を追い求めて生きてきたとわかった。求めていたのは、金や世俗的な物ではなかったが、覚醒、悟りを求めて生きてきた。セイラーボブに出会い、覚醒や悟りなどないと知った。それを知り、がっかりすると同時に、世俗的な欲望へとベクトルが向かう自分を感じた。世俗的な欲望を求めること自体は悪いことではないし、生きていくためにはある程度必要なこと。

でも、非二元や仏教を学んだ今、過度に世俗的な欲望を求めてあくせく生きるのは間違っていると思うようになった。私は賢くはないので、すぐに忘れて、また愚かなことをしてしまう。お金で失敗したり、人を傷つけたりしてしまう。そうならないためにも、時々は中野さんの本を読む必要がある。

この本に出てくる人たちは、自身の精神を高めるために生きた人たち。詩、芸術、布教、自然保護、やっていることはそれぞれ違うが、世俗的な欲望ではなく、自分が正しいと思うことを欲得抜きでやり続けた人たち。その中でも、鈴木大拙の「貧乏論」と中村達也の「失われた時を求めて」は特にすばらしい。なぜ簡素に生きるのか。簡素に生きるとどういう良いことがあるのかがわかる。

旅へ 新放浪記 1 野田知佑

昔、野田さんの本をよく読んだ。最近は時々図書館でBE-PALの連載を読む程度だったが、facebookはよく見ていた。そして今年の3月に亡くなられたを知った。追悼の意味もあり、図書館でまだ読んでない本を見つけて読んだ。

この本は、野田さんが大学を出てから作家になるまでの青春記。早稲田大学の英文学科を卒業するが、自分で何をしたいのかわからず、かといって就職するのも嫌で北海道を働きながら転々したあと、日本全国を放浪する。ヨーロッパへ行くことを思い立ち、英字新聞の勧誘員の仕事をやって金を貯め、シベリア鉄道でヨーロッパへと旅立つ。

1965年、野田さん27歳。東京オリンピックの翌年。日本で海外渡航が解禁になったのは1963年で、世間は高度成長期の真っただ中。人々が猛烈に働いていた頃野田さんは、自分が何をしたいのかわからずに苦悩し、旅に出た。

833ドルの現金(当時は1ドル360円)と、釣り道具、網、ゴムボート、ギターが旅の荷物。これは、旅の途中で金に困っても、釣りができれば食べ物には困らないだろうという思いからだったという。

この旅の記録がおもしろかった。移動はほとんどヒッチハイク。野宿や人の家に泊まりながらの旅。路上でのライブ演奏なんかもやったりする。人間力がある人の旅とはこんなにも愉快なものかと思う。いろんな人に出会いながら旅を続け、釣りをしたり、川にもぐったりして、観光はまったくしない。予定も立てず、行き当たりばったりの旅。

3か月の旅を終えて日本に帰り、結婚して郷里の熊本で中学校の英語教師になるものの、1年で辞めて雑誌の記者になる。トラベルライターとして世界中を飛び回る日々が続くが、働くだけの毎日に疑問を抱き、32歳の時に退職してフリーのライターになる。

38歳で離婚。ふたたび放浪の旅に出て、これからは好きなことだけやって生きていこうと決心する。

南へ 新放浪記 2 野田知佑

2は1の続きかと思って読んだら、そうではなかった。野田さんはもう50歳を超えていて、作家としてもカヌーイストとしても有名になってからの話。東京を引き払い、鹿児島や沖永良部島へ移住、放浪するところから始まる。

2の方は、それほどおもしろくなかった。1で書かれているような苦悩する青春の放浪記ではなく、名を成したあとの自由気ままな放浪記であり、単なる遊びの記録のように感じる。それがいけないという意味ではないが、1の続きだと思っていたので、ちょっとがっかり。

野田さんの本を読んでいると、人はどういう生き方をしてもいいのだと教えられる。日本の社会は一種のサラリーマンカルト社会になっていて、人は組織に属して働かないといけないようになっている。組織に属さず、好きなことをやっている人を白眼視する。野田さんの本はドロップアウトした私をいつも癒してくれた。