2020/03/28

セイラーボブの言葉

いまここにある意識を調べてみる時、見る「物」はなく、ただ自然な概念化されない見る行為そのもの(seeing)だけがあり、実際そこには主体も客体もありません。

これを調べてみるとき、 awareness(意識)、consciousness(意識)、マインドとラベルが貼られているものには、主体も客体も現われないということはすぐに理解できます。

主体も客体も空(くう)であり、空(認識する空)が見ているのです。
空は空によって空(から)になることもなければ、空で満たされることもない。
その概念を取り去ると、言葉も思考もない、形容することのできない空が残ります。

真空でも空白でもなく、まるで晴れ渡った空いっぱいの光のような、生き生きとして自ら輝く、自らを認識する空。それを自分で確かめてください。

あなたの他には誰もそれはできません。それは自明のことです。
見ること(seeing)は絶え間のないことだということを理解し続けてください。

あらゆる疑い、疑問や議論、概念上の探求者がまたやってくるでしょう。
それでも概念化されない空は平穏なままだということを理解してください。

***

最近ボブは Facebook で無観客ミーティングをしています。時事問題やコロナウイルスに触れることなく、相変わらずの剛速球非二元 spiel です。

2020/03/21

すべては観念です。

ほんの一瞬、思考を止めて、そこには誰もいないということを理解してください。

もし、思考が無かったら、「私」は存在しますか?
「私」という観念は、「私」という基準点に、自分で貼り付けたたくさんの観念でできています。

私はオリンピックの年に生まれた。
私は一流の大学を出た。
私は失恋した。

もし思考が無かったら、オリンピックの年に生まれた私はいますか?
もし思考が無かったら、有名な大学を出た私はいますか?
もし思考が無かったら、失恋した私はいますか?

すべては観念です。
そうした観念が「私」を構成しています。
そうした観念が「私」という基準点を構成しています。
そうした観念が無かったら、「私」は存在していますか?

ある人は「私」という基準点に、たくさんの楽しかった記憶や自分の好きな人、物を貼り付けています。そうした人は自分のことを幸せだと感じるかもしれません。

またある人は「私」という基準点に、悲しい出来事や嫌なことをたくさん貼り付けていて、自分が不幸だと感じているかもしれません。

私のように、不安や恐怖をいっぱい貼り付けて、精神世界の探求という幻想に身をゆだねている人もいると思います。

そうした観念は、ただ単に観念であって、実態のないものです。
もし思考がなかったら、もし考えることがなかったら、そこには誰もいません。

そうした観念が私ではなく、実態のないものだと理解した瞬間から、そうした概念はその強烈さを失い、それに煩わされなくなります。

あなたが「私」だと思っているものは、単に記憶の蓄積に過ぎず、実態のないものです。
あなたがなすべきことは何もありません。
セラピーも瞑想もリトリートも不要です。

唯一なすべきことは、「私」とは何かを理解することだけです。
そこには誰もいないのだ、すべて観念なのだと理解することだけです。

ある日、何かのきっかけで、あなたがすべての記憶を無くしたとしたら、そこにいるのは誰ですか?

***

今週に入って、セイラーボブはミーティングを中止しています。コロナウイルスの影響だと思います。オーストラリアは外国人の入国を禁止したので、ミーティングに行こうと思っても行けないんですけどね。

それから、セイラーボブとカリーナはどうも正式に結婚したみたいです。
発表はないのですが、カタリーナがミーティング動画の中でセイラーボブのことを ”My partner" と言っているし、ホームページのカタリーナの名前が、KAT ADAMSON になっている。そして極めつけは昨日の Facebook の写真とコメント。

2015 メルボルン

2020/03/14

セイラーボブの言葉

「あなた」という存在は想像の産物です。

「あなた」が存在するというのは錯覚です。
「あなた」という存在は想像の産物です。
知る人と知られる者は単なる概念にすぎず、それが自然な概念化されない知る行為そのもの(know-ING)を見かけ上で分割しているものです。

"I am"「私はある」という考えを信じることは、常に変化し続ける対象としての世界に見せかけの現実味を与えます。

それでも本質においてすべては変化することのない知る行為そのもの(know-ING)なのです。

あらゆる概念や思考も含めて、すべてはエネルギーの振動にすぎません。

概念もまた、ただそれが概念として現れたものにすぎません。
体もまた、ただそれが体として現れたものにすぎません。

あなたは非二元の明快さから逃れることはできません。
それがすべてです。
ただそれだけです。

2020/03/07

糖質制限

最近私は名古屋の丸善に行っても、ほとんど精神世界のコーナーに行かなくなりました。
興味がなくなったわけではないのですが、あれこれの本を手にとってみても、やっぱり私にとってはセーラーボブやギルバートの本が一番わかりやすい。

それに、何か新しい本の情報を得ようとすると、ネットから得る情報の方が先で、じゃぁどんな本なのか店頭で立ち読みするというパターンが多く、いざ手に取って見るとがっかりすることが多く、あまりあのコーナーに行かなくなりました。

最近の興味はもっぱら糖質制限関連の本です。
二年ほど前のことですが、食後にパソコンに向かっていると猛烈な眠気に襲われるようになりました。
ネットであれこれ調べて、その原因は血糖値スパイクではないかと思いました。
NHKスペシャル 血糖値スパイク
食後の眠気!「血糖値スパイク」について

調べていくうちに、糖質制限(炭水化物の摂取量を減らすこと)が健康に良いのではないかと思い、実際にやってみることにしました。二年ほど前から、米、麺、パン、炭水化物を多く含む食べ物は食べていません。

65キロあった体重は一か月ほどで58キロになり、以後はその体重をキープしています。
私がやっているのは、江部康二さんのスーパー糖質制限です。

江部康二さんのブログ
人類最強の「糖質制限」論 ケトン体を味方にして痩せる、健康になる (SB新書)
ビジュアル版 糖質制限の教科書
増補新版 食品別糖質量ハンドブック

もう一つ参考にしているブログ。
ドクター清水のひとりごと
「糖質過剰」症候群 あらゆる病に共通する原因 (光文社新書)

健康診断の結果、糖尿病ではなかったのですが、慢性的に体がだるいような状態が何年も続いていたので、糖質制限を続けてみようと思い、以来ずっと続けています。

体は以前よりはるかに調子が良いので、糖質制限は体には良いのではないかと考えています。
でも、いろいろ調べると、そのやり方は人によって様々で、どのやり方をしたらいいのかよくわかりません。

一つだけ言えることは、医学的に正しいと信じられている常識の中には、まったく科学的な根拠がないことがたくさんあるということです。迷信レベルの医学常識がたくさんあって、その迷信に基づいて医者が治療している場合が多々あるということ。自分でしっかりと調べて何が正しいか判断した上で試してみることが大切ではないでしょうか。

釜池豊秋さんは糖質をゼロにする方法。
医者に頼らない! 糖尿病の新常識・糖質ゼロの食事術 かまいけ式でスローエイジング!

宗田哲男さんは糖質制限で妊娠糖尿病の妊婦の出産を助け、胎児の栄養はケトン体であると発見。
ケトン体が人類を救う~糖質制限でなぜ健康になるのか~ (光文社新書)
ダイエッター必読!ケトン体で体内エネルギー大革命を起こせ
最強の油・MCTオイルで病気知らずの体になる!

古川健司さんは糖質制限で癌治療をしている。
ケトン食ががんを消す (光文社新書)

山田悟さんはゆるやかな糖質制限。
「ゆるやかな糖質制限」で生活の質を高める
糖質制限完全マニュアル 血糖値が安定すればやせられる
ロカボ

渡辺信幸さんは肉、卵、チーズを食べるMEC食。
肉・卵・チーズで人は生まれ変わる

ケトジェニック(ココナッツオイルを取る糖質制限)

斎藤糧三さん
斎藤糧三さん 朝は機能的に過ごして、しっかり動けるからだづくりを!
糖質制限+肉食でケトン体回路を回し健康的に痩せる! ケトジェニックダイエット

白澤卓二さん
白澤先生はなぜ「ケト検」を始めたのか?
体が生まれ変わる「ケトン体」食事法: 太らない、疲れない、老けない――体と頭を「糖化」させるな (単行本)

南雲吉則さん
人工油脂と糖質が元凶! ドクター南雲「60歳を超えても老化に勝つ」理由
60歳を超えても40代に見える生き方 老化に勝ち続ける私の毎日 (講談社+α新書)

金森重樹さんは牛脂を使って油脂をたくさん取る方法。
金森重樹の断糖高脂質食ダイエット
【増補完全版】まさか!の高脂質食ダイエット ~本当にやせる「糖質制限2.0」

長友選手の方法はある程度炭水化物を摂取してコントロールする方法。
長友佑都のファットアダプト食事法 カラダを劇的に変える、28日間プログラム

ジョコビッチはグルテンフリーですが、これもある意味糖質制限です。
ジョコビッチの生まれ変わる食事 新装版

肉以外食べない方法

RIZAP
炭水化物だけ抜く糖質制限ダイエットの大きな勘違い!ライザップで学んだ正しく痩せる方法

参考
医者が断言する「脂肪を食べても太らない3つの理由」
医師が教える!健康的に痩せる糖質制限ダイエット「4つのルール」
炭水化物が人類を滅ぼす~糖質制限からみた生命の科学~ (光文社新書)

糖質制限に反対の意見
専門家の警告、食事は「炭水化物抜き」が一番危ない
極端な糖質制限はNG 臓器の負担増す恐れも
糖質の制限は危険です!

この二年間、いろいろな本を読んであれこれ試してみました。(RIZAPは行っていませんよ。そんなに金持ちではないし、ダイエットが目的ではないので)
今では一日に朝と夜の二回食事をするだけです。一回の食事の炭水化物の摂取量は20g以下程度で、一日の総摂取糖質は40g以下。一日の総摂取カロリーは2200kcal程度です。

あれこれとメニューを変えたり、やり方を変えたりして今日に至っています。食後の眠気はかなり改善されました。
主食を肉と魚に変えたり、オリーブオイルやココナッツオイルを飲んでみたり。大豆製品がいいのかチーズがいいのかと試したり。

今現在、主食は魚と肉。他に野菜たっぷりのスープ、卵、チーズ、ナッツなどを食べています。調理はバター、牛脂、オリーブオイルで焼くか煮ています。
糖質を取らないで、一日2200kcal以上摂取するのは結構大変で、どうしても肉をたくさん食べることになります。

今現在は、もっと糖質を減らし、MTCオイルを取ってケトジェニックダイエットに近いものにしていこうかと考えていますが、本やネットであれこれ調べるたびに、あっちのやり方がいい、こっちもいい、とメニューを変えていて、なかなか最終型にたどりつけません。

今年になって、友人が人間ドックで糖尿病と診断され、医者に薬漬けにされるのは嫌だと言って、かねて私が話しをしていた糖質制限を教えて欲しいというので、やり方を教えてあげたところ、一か月で血糖値が正常値になりました。

私は、糖質制限は体に良いと思っていますが、まだまだ世間では「米やパンを食べないなんて体に悪い」という意見が大半です。
正直なところ、私も「糖質制限が絶対健康にいい」とは言い切れません。その証拠に、もっと良い方法がないかと探し回っている今日この頃です。

丸善の健康に関する本のコーナーは何時間いても飽きないコーナーになりました。
コロナウイルスのせいで、当分行きませんけどね。

まとめ
糖質制限に興味のある方は、以下のサイトと本を特におすすめします。
江部康二さんのブログ
人類最強の「糖質制限」論 ケトン体を味方にして痩せる、健康になる (SB新書)
ケトン体が人類を救う~糖質制限でなぜ健康になるのか~ (光文社新書)

2017年タスマニア
この写真に写っているもので食べて良いのはコーヒーとバターだけです。

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2022年11月1日追記
2018年4月から2021年8月まで炭水化物をほとんど食べないスーパー糖質制限をやりましたが現在はやっていません。
糖質制限が原因かどうかは不明ですが、糖質制限をやっている間はγGTPが高く、異常値を示すことがあり、肝臓の検査を受けましたが、肝臓そのものに異常は見つかりませんでした。糖質制限を止めて一年以上経って定期健診を受けた今も、まだγGTPは高いままです(正常値の範囲内)。
勝手に考える原因としては、毎日豚バラ300gと、オリーブオイルを大匙4杯飲んでいたので、油の取りすぎで肝臓に負担がかかったのかのと思っています。
糖質制限は血糖値を下げるためには有効な方法だと思います。でも、やはり医師の指導のもとで、バランスの取れた食事を取りながらやらないと危険なのではないかと思います。
何かを取りすぎればどこかに支障が出るのではないでしょうか。
結論としては、伝統的な和食が健康に良いような気がします。

2020/02/29

セイラーボブの言葉

(あなた)が考える(あなた)という存在は幻影です。
何者か、もしくは分離した誰かとしての(あなた)がいるという考えは、何か周知のことを受け入れたり拒絶したりする原因となります。

幻影が自らを欺く話をします。知る人と知ることというのは、自然な概念化されない知る行為そのもの(knowing)を見かけ上分割した概念にすぎません。(私はいる)という思考を信じることは、絶えず変化し続ける客体としての世界に見せかけの現実味を与えますが、それでもすべては本質においては変化することのない自然な知る行為そのもの(knowing)に他なりません。

思い起こし、思い出し、さらに思い出してください。私はそれであり、それが私です( I am That I am.)。それは意識。誰に対してどんな活動、思考、出来事や事件が起こるというのでしょうか。

出来事や活動はあたかも草が自然に生えるように、誰が優っているとか劣っているかではなく、そういうふうにしか起こりようがないということを理解してください。自ら働きかける知性エネルギー、まさにそのもの、それ以外のものではありません。

自ら輝く今ここにある意識は努力の結果ではありません。その意識が突然そこにあることを期待して何かをする必要があるわけではありません。今ここにある意識はあなたが気づいていなくても、うわべ上見えなくても、いつも今ここにあります。それは作り出したり破壊したりする何かではありません。

概念上の思考は雲のようなもので、見かけ上では太陽を見えなくします。概念化されない自然な状態でくつろぐのはいつも今ここにある意識です。

何度も何度も何度も思い出してください。何が現われようが消えようが、それを認識することはいつもそうなのです。自ら認識し、自ら輝く。ただそれだけ、他には何もありません。

2020/02/22

空間のようなアウエアネス(意識)

セイラーボブが言う、「空間のようなアウエアネス(意識)」とは、今ここにある意識のことです。そこにすべてが現れます。あなたが見ている端末、このブロブの文字、壁、椅子、空気。そこに世界のすべてが現れます。

そこには様々な物が現象となって現れています。でも実際には、あなたが見ている端末、このブロブの文字、壁、椅子、空気の背景にあるものを見ることはできないので、その存在に気づくことがありません。

私たちは、「見る働き」「知る働き」を通して、この世界を認識しています。
それはあまりにも明白なのですが、私たちはその「空間のようなアウエアネス(意識)」を認識することなく、見落として暮らしています。それを人に説明しようと思っても、それには境界がなく、名前もないため、どう説明していいのかさえわかりません。

そこに、感情、思考、体、世界が現れます。それは瞑想や修行で手に入れる何かではなく、いつもそこにあるもの。それは、誰かに取られたり、傷つけられたりすることもなく、いつもそこにあるもの。

時々は、思考という雲や、ストレスという雨が降って見えなくなることもあるけれど、いつもその背景にあるもの。それはいつも今ここにあって、変化することもなければ、どうこうすることもできないもの。
それが「あなた」。「汝それなり」。

私たちは、この世界を「見る働き」「知る働き」を通して認識しています。
そこには、見ている「私」は存在しておらず、「見る働き」だけがあります。
そこには見ている人(主体)も、見られているもの(客体)もなく、「見る働き」「知る働き」だけがあります。

朝、一人でゆっくりとコーヒーを飲んでぼんやりとしている時、何も思考が浮かんでこない時、そこに「私」はいません。そこにはコーヒーカップとコーヒーの香りがあるだけで、「私」はいません。

そこにいるのは、一人ぼっちの拓でもなければ、ブログを一生懸命書いて何かを伝えようとしている拓でもありません。そこには誰もいません。

でもひとたび思考がやってきて、昔の嫌な思い出や、今抱えている問題が頭に浮かぶと、たちまち「私」が現れます。でも私は、そこには「私」はいないということを知っています。
「私」は記憶の蓄積であり、マインドが作り上げたイメージにすぎません。

そうしたイメージや記憶の蓄積があなたではありません。
「今ここにある意識」があなたであり、あなたが過去にやらかした失敗や不幸な出来事は、「今ここにある意識」のどこにもなく、煩わされる必要など全くないことです。

私たちは、過去のどうしようもない出来事を思い出して、(あの時ああすればよかった)(あんなことをしなければよかった)と考えて、多くのエネルギーを使い、実際にやってくるかどうか定かではない未来に煩わされて怯え、「今ここにある意識」を認識することさえありません。

「今ここにある意識」を認識することで、多くの問題が問題ではなくなります。実際には何も問題などないからです。
私たちの問題は、たいていマインドで作られます。そしてその問題をまたマインドで解決しようとあくせくします。

どんなに準備をしても、ものごとはそんな風には起こらないと知っているのに、マインドは何度も何度も未来の予行演習をしてエネルギーを浪費します。

「今ここ」にいることさえできれば、何も問題などないのです。なぜなら、すべての問題はマインドの産物だからです。

「今ここにある意識」を認識すること。そこには「私」はいないと理解することがすべてです。それはエンライトメントや覚醒などという難しいことではなく、理解です。

メルボルン:大道芸人

2020/02/15

セイラーボブの言葉

真理や真実は蓄えたり蓄積したりすることはできません。また、積み上げることもできません。どんな洞察、理解、認識であっても、その価値はこの瞬間の永遠に新鮮な今ここにしかありません。

昨日理解したことは少しも役にたちません。それは、今はもう死んでいて生きたものではありません。そうした洞察や理解にしがみつこうとしても無駄です。なぜなら、そうしたものは生きた動きの中にだけ、永遠に新鮮で新しい真理や真実として現れるからです。

エンライトメント、すなわち自己実現が一度だけの出来事として起きる、もしくは永続して定着するか経験として残るという考えは間違いです。理解する行為そのもの(understand-ING)、すなわち知る行為そのもの(know-ING)は直接の生きた体験であり、決して否定されることはありません。

強調されるべきは、今直接の活動としての知る行為そのもの(know-ING)であり、「私は理解した」「私は知っている」といった死んだ概念ではありません。

2020/02/08

今ここにある意識だけが実在です。

今ここにある意識だけが実在です。
昨日の意識も一年前の意識も、子供の頃の意識も実在ではありません。
明日の意識も一年後の意識も実在ではありません。

今ここにある意識だけが実在です。
それを空間のようなアウエアネスと呼ぼうが、純粋意識と呼ぼうが、今ここにある意識と呼ぼうが同じものです。
そこに、あなたの思考が現れ、世界が現れ、すべてが現れます、

今ここにある意識だけが実在です。
それが真実だとすれば、もっと良い意識を手に入れようとしても無駄なのではありませんか?

誰かの教えに従って瞑想すれば、もっと良い意識が手に入るのではないか、誰かの教えを学べば、もっと高い意識を手に入れられるのではないかというのは間違いではありませんか?

あれこれすれば、明日はそれを理解できるだろう、いつかは理解できるだろうという思いは完全な思い違いです。今理解できなければ、永遠に理解はできません。

唯一あるのは、今ここにある意識だけです。それがすべてです。
だとしたら、瞑想や誰かのメソードを使って、覚醒やエンライトメントを得ようとするのは間違いではありませんか?

あなたがどんな瞑想やメソードを実践しても、それであなたの意識が高次の意識になることはありません。
私も様々な瞑想、メソードを試しましたが、どれも根本的な解決にはなりませんでした。

すべての瞑想が役に立たないというつもりはありません。
ある種の瞑想は、マインドを静かにしたり、ちょっとした神経症を癒したりするには役立ちました。でも、それだけでした。

瞑想が終われば、マインドはまた騒がしくなり、またイライラが始まり、また瞑想を求めるようになりました。
それは一種のドラッグのようなもので、瞑想ができない日は落ち着かず、何のための瞑想かわかりませんでした。

瞑想をして得られる安らぎは、瞑想をまったくしない人の普段の状態と何も変わらないということに長い間気づきませんでした。
いくら瞑想しても、瞑想が私の意識を高次の意識にしてくれることはありませんでした。

瞑想は、根本的な解決にはなりませんでした。
根本的な解決になったのは、マインドがすべての問題の根源であるという理解でした。
もし私のマインドが無かったら、何も問題はありませんでした。

もしマインドが無ければ、そこには澄み切った、今ここにある意識だけがあります。
その意識だけが実在です。
それが「私」です。

2016 ケアンズ

2020/02/01

一つの本質が、パターンとなり、姿形となり、すべてとなって現れています。


It's that One Essence that is Appearing, Patterning, Shaping and Forming as Everything

冒頭、ボブの家の前を走るトラムの映像あり。

自分自身に問いかけて調べてみてください。
私はこの体なのだろうか? 私はこのマインドなのだろか?
私は分離した存在なのだろうか? 私は人なのだろうか? 私は個人なのだろうか?

そしてもしあなたが理解すれば、私が言っていることは、まず第一に、非二元は他に何もない一つのものであり、他には何もないもの。それは自ら輝き、永遠に新鮮な今ここにある意識。ただそれだけです。

他に何もないものという意味は一つのものでさえありません。なぜなら、一つのものという言葉は他に何かあることを連想させるからです。
そしてもう一つの意味は、私はこの体であるはずがないということを理解しなくてはいけません。私はこのマインドであるはずがない。私は分離した存在であるはずが全くない。

他に何もない一つのものであることを明確に指摘することによって、非二元の中には二元性は全くないということを言っています。それでも多くの二元性があなたの周りじゅうに現れています。

すべての顕現は二元性です。
それ以外ではありえないのです。二元性なくして、どんな現れもパターンも姿形もありません。そういうわけでそれは、見せかけと言われているのです。そういうわけでそれは、幻影やその手の言葉で呼ばれています。

そして、現れは実在ではないことを指摘しています。本質としては実在です。
一つの本質が現れ、パターンとなり、姿形となり、すべてとなって現れているのではないですか?

あなたが体ではないとしたら、何ですか? もしあなたが体を詳しく調べても、そこからあなたが始まった、それが私だという場所はみつかりません。
体は単に構成要素とエネルギーからできているとわかるでしょう。
思考の他にはマインドなどというものはないとわかるでしょう。

では私とは何でしょうか?
あなたは、この生命のエッセンスと呼ぶもの、つまり、自分はあると知る働きを否定することができますか?

生命の流れの中で、それはパターンとなり、体を通じて表現され、細胞を置き換え、呼吸をさせ、あたかも宇宙で物事が自然に努力なく起こっているように、すべてを自然に努力なく行っています。

人々はこれを神や至高の存在と関連付けて考えます。でも、誰かがそこに座っていて、糸を引いていたり、雨を降らせていて、もしあなたが祈ればそれを正してくれるというわけではないのです。

自然の中に中心や基準点がありますか? このショー全体を仕切っている点がありますか?
それはより良い呼び方で呼ぶとすれば、知性エネルギーに満ちています。それが姿形となって現れているということは、それが知性に満ちていることを意味しているのではありませんか?

その知性エネルギーが今この瞬間に呼吸をさせているのであり、あなたと分離した宇宙にだけ働いているのではありません。あなたもその自然の一部です。それがあなたに呼吸をさせ、細胞を置き換え、爪を成長させているのではありませんか?

それを認識するために、あなたは何をすべきですか?
あなたは今それを認識することはできませんか?
あなたはその存在を否定することができますか?

あなたは、生命の本質、「私がある」ということを知る働きを否定することができますか?
あなたは、「私は存在しない」と言うことはできないと知るでしょう。

あなたが何であるかをあなたは知りません。
そしてあなたは、現象としての現われを、調べもしないで実在だと思っています。
それが問題となっています。

2020/01/25

セイラーボブの言葉

"Instead of asking, 'Who am I?' ask yourself, who is asking the question,'who am I?'"

「私は誰か?」と自分に問うかわりに、「私は誰か?」と問うているのは誰かと問うてみてください。

2020/01/18

Self Illumination(ギルバート・シュルツ著)



ギルバート・シュルツが書き下ろした本です。価格がKindle版のもので表示されていますが、ペーパーバックは1,538円。日本のアマゾンで買えます。

私はセイラーボブに会ってからも、彼の使う言葉の、awareness(純粋意識:以下カッコ内は高木悠鼓さんの訳)、presence awareness(存在意識)、wakefulness(目覚めている意識)という意味が、正確には何を言っているのかはっきり理解できていませんでした。

それは、私の意識であることはわかっていました。でも、ではそれは一体どんな意識なのかと聞かれると、返事に困る状態でした。

メルボルンから帰って、毎日ギルバートの facebook を見ていました。するとある日、ギルバートがこういうメッセージを書き込みました。要約すると、
「念のために言っておくが、それは私たちの日常の普通の意識のことだよ」。

そのコメントを読んだ瞬間にセイラーボブが教えていることを完全に理解しました。
セイラーボブがあれほど何度も、「あなたはもうあなたが探し求めているものなのです」と言った意味を完全に理解した瞬間でした。

いろんな意識があるわけではないのです。純粋意識、存在意識、目覚めている意識、全部同じものです。それは一つのもの。それは私たちの日常の普通の意識のことです。

それはエンライトメントや覚醒なんかではなく、もうすでにそこにあるもの。それが「私」であり、そこに世界は現れる。

この本は、アウエアネスが何なのかをわかりやすく教えてくれます。セイラーボブの本は講話を編集したものばかりで、多少わかりづらいところもあるのですが、この本はギルバートの書き下ろしで、非常にわかりやすく書かれています。

内容は全くすばらしい。この本はおそらく非二元の教科書として長く読み継がれる本になるのではないかと思います。

また、人々がエンライトメントと呼んでいるものについても解説しています。
内容は許可を取ってないので翻訳掲載できないのですが、ジョーン・トリフソンさんが、彼女のサイトで、推薦本として書評を書いているので、英語が大丈夫な人は読んでみてください。
https://www.joantollifson.com/recommend.html
このサイトも抜粋転載禁止なので転載できませんが、スクロールすると真ん中より少し手前ぐらいところに、「GILBERT SCHULTZ: Self Aware and Self Illumination 」として出てきます。その書評がまたすばらしい。

ギルバートのもう一冊の本も必読の書です。



関連記事:SELF AWARE(2019.7.18)

2020/01/11

セイラーボブの言葉

If someone comes to me and says, " I'm looking for the truth or reality ", I would say to him, " what you are looking for, you are already!". so it is absurd to keep looking. This research has started in the mind, it is the only place, it can't start anywhere else, and will not continue anywhere else than in the mind. When I realize or when they show me, that it doesn't make sense to keep looking in the mind, what happens?
If I say, " stop! Stop, the search is over " what are you doing? Wouldn't there be a break? And during this break wouldn't be the realization of the fact that " I didn't disappear ", " I didn't fall apart ", " I didn't break down ", " I'm still here, without Let the mind think "? there must then be a flash of understanding that everything we believe is based on the mind.
Seeing only that there is no answer in mind, you are free of it.

もし誰かが私のところにやって来て、「私は真理、実在を探しています」と言ったら、私はこう言うでしょう。「あなたは、もうすでにあなたが探しているものです」。それを探し続けることは馬鹿げています。その探求はマインドの中で始まりました。そこが唯一の場所です。それ以外の場所から始めることはできません。そしてそれはマインドの中で続けるしかありません。マインドの中を探しても意味がないと理解するか、誰かがそう教えてくれた時にはどうなりますか?
もし私が「ストップ、ストップ、探求終了」あなたは何をしているのですか?と言ったら。 そこには思考の中断があるのではないですか? その中断の間にも「私は消えてなくならない」「私は分離しない」「私は崩壊しない」「私はマインドで考えること無しに依然としてここにいる」という真実の理解が起きるのではありませんか? その時、私たちが信じていることすべてはマインドがもとになっているという稲妻のような理解が起きるにちがいありません。
マインドの中に答えはないということを理解することによって、あなたは自由になります。

Image may contain: 1 person, beard, selfie, closeup and indoor
Sailor Bob Adamson

2020/01/04

セイラーボブの言葉

生はこの瞬間にのみあります。
一瞬といえども過去を生きることはできません。
思い出すことができるだけです。
それを思い出しているのは今この瞬間であり、それがあなたが生きることができる唯一の生です。

未来の瞬間を生きることはできません。
未来を想像し、期待することはできます。
でもそれは今この瞬間に起こっていることです。
今この瞬間があるだけです。


2019/12/28

生まれることも死ぬことも時間もない


Birthless Deathless Timeless

知る働きが続いています。
それが、そこここにあることは否定できません。
それは起こっています。
それは、今この瞬間に直接起こっています。

それは単にエネルギーの動きです。
エネルギーのヴァイブレーションです。
ヴァイブレーションに始まりはありますか?

今について話すと、今はいつ始まりましたか?
ピンポイントで始まりを指摘することができますか?
ピンポイントで終わりを指摘することができますか?

それは脈動する鼓動のようなもので、始まりが終わりであり、終りが始まりです。
自然な動きの中で、あなた、私、世界すべてがパターンとなって現れているように見えます。

私たちは、それと何の違いもありません。
それゆえに、あなたに始まりはありません。
あなたに終わりはありません。
あなたに誕生も死もありません。

運命も自由意志もありません。
誕生もなく、死もなく、時間もなく、空間でもなく、体でもなく、マインドでもない。
それ以外のものです。

2019/12/21

何も起こっていない

非二元の教えでは、「何も起こっていない」という表現をよく使います。
セイラーボブも、「実際には何も起こってないのだよ」と言う時があります。

言おうとしていることは理解できます。
起こっている物事を理由付けして概念化しているのは私たちのマインドであり、私たちが概念化しなかったら、そこでは何が起こっているのかを言うことはできません。

何かが起こっているとも、何も起こっていないとも言うことができません。
また、無から起こってくるものは無であり、何も起こっていないという意味もよくわかります。

でも私はこの「何も起こっていない」という表現が大嫌いです。
なぜなら、人として生まれた以上、人生の中で起こってくる様々な出来事の中にこそ、人として生まれた意味があると思うからです。

人生には様々な出来事が起こってきます。出会い、恋愛、友情、愛情、別れ、成功、挫折。そうしたものごとの中にこそ、生まれてきた意味があり、それこそが「神様がくれた魂の一番おいしいところ」だと思うからです。

非二元の教えは、そうした人生の出来事にあまりにもシリアスに巻き込まれてしまった人には助けになります。挫折、あやまち、後悔を経験した時、「何も起こっていない」という言葉は大いに助けになります。

その一方で、何かを成し遂げようとしたり、幸せを必死でつかもうと努力したりしている人に向かって、「何も起こっていない」と言えば、それは冷笑的で厭世的なものに響きます。実際に非二元のそうしたネガティブな側面を嫌って、非二元を離れる人もいます。

非二元の教えは、あまりにシリアスに問題に巻き込まれた人を開放するために、その対極にある教えだと思います。
私は非二元の教えは真理だと思っています。だからと言って、「何も起こっていない」と言って、現実から目を背けたり、努力をないがしろにしたりする姿勢は、人として生きる美しさを放棄していると思います。

人は悩み、挫折するから進歩があり、努力も成功もあると思います。
私は、この人生も夢なのだということを理解しました。
でも、夢だからと言って「何も起きていない」と、しらけて生きるのでは人として生きている意味がないと思います。

人として生まれた以上、「何も起こっていない」現実の中で、世のため人のために生きようと努め、人を愛し、笑い、スポーツを見て感動し、物語を読んで涙して生きていきたい。
「何も起こっていない」現実の中で、少しでも健康であるように努力し、旅をして人に会い、知らない町を歩きたい。

私は非二元の教えが大好きです。でもそれ以上に、人として「神様がくれた魂の一番おいしいところ」を味わって生きていきたいと思っています。

ジーロン・メルボルン近郊

2019/12/14

誰に向かって調べるようにと言っているのでしょうか。


Who are we telling to investigate?

偏在、全能、全知と言う時、完全な存在、完全な力、完全な知性のことを言っています。
それは三つのものではなく、一つのものの三つの側面を意味していて、その完全性の他には何もありません。

もしあなたが、それを得ようとしたり、何かを得ようとしたりすると、あなたは、神と私という考えや概念を持つことになります。
そしてもし自分が何かをすれば、一つのものになれるだろうと考えます。

はっきりと明確に言われていることは、非二元の中には二元性はないということです。
それでも私たちは、周りに現れる二元性を見ています。
自然や世界の顕現、そしてあなたの内側、すべては常に二元的に現れています。

夜無くして昼はありません。静寂なくして音はありません。
二元的に現れなければ、何も顕現として現れることはありません。

それは何に現れているのでしょうか。
それは、分離した「私」に現れているのではないですか。
「私」であると信じている分離した存在に現れているのではないですか。
「私」はそれもまた顕現であるということを理解しません。

顕現は、そのように見えているにすぎません。
何がなされるべきでしょうか。
そしてそれができるのは誰でしょうか。

調べてみてください。
あなたは、もうすでにそれなのだというところから始めてください。
それ以外ではありえません。

その観点から調べるというのは、誰に対して調べるようにと言っているのでしょうか。
他の誰かにではありません。

調べることは、自然に努力なく、なされなければなりません。
あたかも太陽が輝くように、地球が太陽の周りを回るように、季節がやってきては去っていくように。すべての顕現が現れるように、それは現れ、起こっています。

それ自身が顕現であるということを再認識する必要があります。
すべてが顕現であり、それ以外のものではありません。
本質(エッセンス)がすべてとなって現れています。

*****

お知らせ
ミーティングの動画の配信は、ミーティングの参加者が8人以上いないと、配信しないことになったそうです。ミーティングに来ないで動画を見て終わらせる人が増えたのですが、セイラーボブは出来れば直接みんなに来てもらって直に話しかけたいからだそうです。

2019/12/07

セイラーボブの言葉

"We're always trying to become something-to become complete-not realising that we were never separate in the first place."

人はいつも何かになろう、完全なものになろう、とします。最初から完全なものから分離などしていないということを理解しません。

2019/11/30

セイラーボブ以外の非二元の師たちについて

このブログを始めて一年が経ちました。
セイラーボブの説明がひと段落したら、他の非二元の人たちのことも書いていこうと思っていました。セイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑳

毎月、名古屋の丸善に行って非二元関連の本を立ち読みしたり、ネットであちこち読んだりしてきました。
でも、他の非二元の人について、このブログで書くのはちょっと無理だと思うようになりました。

「私は実在ではない」という根本的な部分は共通しているのですが、その説き方が人によって様々で、とても同じことを言っているとは思えないものが多くあります。

覚醒やエンライトメントがあるかのように語る人もあれば、過去生や来世について語る人もいます。瞑想が必須だと言う人もいれば、順序だったメソードを説く人もいます。
一瞥体験が起こるようになり、シフトが起きると言う人もいます。

私はセイラーボブの教えていることは真理であると思っています。そしてまたそれが揺らぐことはもうないと思っています。もう何かを探す必要もありません。それなら、他の人の本にあれこれ手を伸ばす必要もないのでは思うようになりました。

もし例えば私が、トニー・パーソンズの教えについてこのブログで書こうと思うなら、彼の言うことを正確に理解していないといけません。
そのためには、和訳された彼の本を何冊か読めばいいというわけにはいかないと思います。

翻訳された本は、どんなに腕の良い翻訳家が訳しても、翻訳家のバイアスがかかります。正しく理解するためには、トニー・パーソンズの母語である英語で直接読む必要があります。
そのうえで、イギリスまでトニー・パーソンズに会いに行って、直接会って教えてもらう必要があります。それも、一、二度観光旅行程度に行くのではなく、ちゃんと理解するまで教えを乞う必要があります。
そこまでしないと、彼が何を言っているのかを正確に理解することはできないと思います。

そうした作業を、セイラーボブ以外の非二元の人一人一人にやっていくのは経済的にも時間的にも容易なことではありません。
また、英語が母語ではない私にはそれほど簡単な事でもありません。
そこまでやる必要があるのかと考えると、その必要はないと思うようになりました。

私はセイラーボブに直接会って、半年近く滞在し、セイラーボブ本人から直接教えてもらったので、セイラーボブの教える非二元はよく理解しているつもりですし、それなりの自信もあります。
でも、セイラーボブ以外の非二元のことはよく知りません。

セイラーボブと同じ系列のニサルガダッタ・マハラジやラメッシ・バルセカールの本でさえ、何を言っているのかよく理解できないところがあります。とても同じことを説いているようには思えない部分もあります。

例えば、鈴木大拙を学んで禅を理解したとしても、それで禅や禅宗すべてに精通できるかというと、そんなことはないと思います。すべての禅宗を学ぶことは簡単ではないし、学者でもなければそんなことをする意味はないと思います。

私が、いろいろな非二元の人について書いていきたいと思ったのは、ギルバート・シュルツが運営するサイト the urban guru's cafe のようなサイトにできたらいいなと思ったからです。

ギルバートは非二元に造詣が深く、幅広い知識を持っています。その知識を背景にして、彼が自分で直接インタビューしたもの(ラメッシュ・バルセカール)や、アルティという女性と組んで、彼女をインタビュアーにして直接インタビューしたものを多く掲載しています。

あのサイトは、ただ単に本を読んで作ったサイトではなく、ギルバートが直接自分で体験して作ったものが大半です。私が同じことをしようとしてもできません。

私が他の非二元の人について書くとなると、アマゾンのカスタマーレビューにあるような、当たり障りのない感想程度のものになってしまいます。それでは読んでいただくみなさんに失礼になるし、掲載する意味もないだろうと思います。

他の非二元の師たちから詳しく学び、正確に理解している人たちを差し置いて、私があれこれ書くのは尊大で、無責任だろうとも思います。
というわけで、このブログではセイラーボブだけについて書いていきます。

他の非二元の人に興味がないわけではないので、そういう人の本を読むこともあると思います。そして、引用という形で他の非二元の人の言葉を引用することもあるかもしれませんが、あくまでセイラーボブ中心でいきます。

ネット上にあるセイラーボブのYouTubeは、目ぼしいものはほとんどこのブログに掲載したので、これからは長いものをあまり掲載できないかもしれません。

そろそろブログという形をやめて、ホームページ化してもよいかとも思ったのですが、そうすると次第に読まれなくなって、埋もれてしまうだろうと思い、続けることにしました。

ちょっとした短いポインターを中心に掲載していくつもりです。
物足りないかもしれませんが、もしよかったら、今後も時々のぞいてみてやってください。

メルボルン・フリンダース駅

2019/11/23

セイラーボブに会いに行かれる方へ。

2016年に私がメルボルンから帰った後、何人かの日本人の方がセイラーボブの家を訪ねています。そのうち二人の方からはお便りをいただき、ボブの様子を教えていただきました。

もし今後、セイラーボブに会いに行かれる方は、当ブログにセイラーボブの様子を投稿していただけるとありがたいです。
ボブのミーティングは今のところYouTubeで週一回配信されているので、座っている様子は見ることができるのですが、実際にはどれぐらい元気なのかよくわかりません。もしよかったら、そのあたりを知らせてください。

ボブの年齢を考えると、いつまで元気でミーティングが続けられるのかは定かではありません。ボブは組織を持っているわけではなく、その時々で周りにいる人の何人かがボブの世話をしています。ボブの世話をしている人たちはいつも流動的で、配信動画で見る限り、私がミーティングに通っていた頃にいた人は、カタリーナを除くと、ほとんど見かけなくなりました。ギルバートも今はもうメルボルンにはいないと思います。

ミーティングの動画が毎週配信されるようになったのは、昨年の夏からです。それ以前はサビーナが Facebook で不定期に配信していました。動画の配信はカタリーナがボランティアでやっていることなので、これもいつまで続くかは定かではありません。

むやみにおすすめするわけではありませんが、英語がある程度できる人は一度メルボルンに行ってセイラーボブに会うのも良い経験になると思います。

セイラーボブの英語は確かに聞き取りづらいのですが、たいていは私がブログに書いたようなことや、「ただそれだけ」に書いてあるようなことを、そのまま話すので、何を言っているかはわかると思います。

メルボルンは本当にいいところです。
11月の終わり頃にはジャカランダの花が咲き始め、夏が始まります。気候はとても爽やかで夏といっても最高気温は25度~26度ぐらいまでで、とてもすごしやすい。

クリスマスから翌年1月末の全豪オープンテニスまでは、様々なイベントがあり、多くの観光客で賑わいます。

私は、2014年11月~2015年3月、2016年1月、2017年1月と、三夏続けてメルボルンを訪れました。2017年もボブに会って、全豪オープンを見て、そのあとタスマニアをレンタカーで回るという計画を立てて、何か月も前に航空券と宿を手配しました。

直前になって、全豪オープンの組み合わせが発表になると、セイラーボブのミーティングには2回しか出られないとわかり、あれこれ考えているうちに、観光と抱きあわせでボブを訪れるのは失礼だと思うようになり、結局ボブはやめてテニスとタスマニアを優先させたという、何ともふとどきな訪問になりました。

結果的にはそれで良かったと思っています。2017年にボブにまた会ったとしても、その時点では何か新しい理解ができたとは思えませんし、タスマニアはすばらしいところでした。

でも、これから行かれる方は、観光と抱き合わせでも一回だけの参加でも構わないと思います。メルボルンに行って観光しないのももったいない。遠方から、一目ボブに会うためにやって来たと言って、一回だけミーティングに参加する人もけっこういました。

何かの統計で、世界で一番住みやすい町としてメルボルンの名前があがっていました。
私はもうメルボルンを訪れることはないと思いますが、時々メルボルンのことを思い出して、またいつか行けたら思っています。

ジャカランダ 2014年 メルボルン

2019/11/16

マインドでどこまでの理解が可能でしょうか?

セイラーボブは、「マインドを使って、自分がマインドでも体でもないということを調べてみてください」と言う一方で、「答えはマインドの中にはありません」と言う時もあります。

何がマインドで理解できて、何がマインドでは理解できないのでしょうか?

「自分はマインドでも体でもない」ということはマインドで理解が可能だと思います。セイラーボブも、自分で調べてみなさいと言うぐらいですから、それはマインドで理解することができます。
私も、自分で調べることによって、私が私だと思っている「私」は記憶の集積にすぎないということを理解しました。体も勝手に自分のものだと思い込んでいるだけで、それは自然の一部だということを理解しました。

「万物は一つのものである」ということはどうでしょうか?
これもマインドで理解が可能だと思います。
亜粒子の話、マインドが勝手に作り上げた主体と客体が分離を生んでいるにすぎないということを理解すれば、すべては一つのものだということが理解できます。

では、「すべての物はアウエアネス、知性エネルギーがヴァイブレーションとなって、姿形となって現れている」ということはどうでしょうか?
また、「アウエアネス、知性エネルギー、認識する空の存在」はどうでしょうか?

ここから先はマインドでは理解できないと思います。
セイラーボブは、アウエアネスをマインドで理解することはできないと言っています。
アウエアネス、知性エネルギー、認識する空は、マインドの外にあるからです。鏡に映る像は見ることができても、鏡そのものを見ることはできません。

じゃあ、どうやってセイラーボブの言っていることが本当だと理解すればいいのか?
ジレンマが生まれます。
多くの人が、ここで迷ってしまいます。

アウエアネス、知性エネルギー、認識する空を理解することはできません。
でも、感じることはできると思います。

「アウエアネスとは何ですか?」とセイラーボブに質問すると、
"Are you not aware?"(気づいていないのか?)と始まって、「今、外を走るトラムの音が聞こえなかったのか?」と聞いてきます。

セイラーボブの家は、トラムの2系統の路線の交差点にあるので、家の前をしょっちゅうトラムが走っています。
必ず、良いタイミングでトラムがチリンチリンと鳴らして走っていきます。

五感、つまり意識はアウエアネスの現われだと言うのです。
もっとわかりやすく言うと、意識がアウエアネスです。

見ること、聞くこと、触れること、嗅ぐこと、味わうこと、これらはアウエアネスの現われだと言います。
五感を通じて、アウエアネスを感じることができます。

私たちは、意識が何であるかを知りません。
学者たちも、それがいつからあるのか、何なのかを必死で調べていますが、解明できていません。
それを理解することはできなくても、そこに在って、感じることはできます。
それで十分ではないでしょうか?
マインドはすべてを理解できないと気が済みません。

でも、理解する必要なんかないのではないでしょうか?
私が一番アウエアネスを感じるのは、見ることです。
セイラーボブの言葉で言うなら、「見る働き」です。

それは、何か美しい景色を見た時とか、何か特別なものを見た時ではなく、一人で部屋の中にいて、何気なく部屋の中を見渡したりする時に感じることがあります。
すべての物が鮮明に見えて、そこにアウエアネスが広がっているのを感じる時があります。

私が何の概念も与えず、ただただ景色が広がっているだけの時があります。
何の説明も解釈も要りません。それで十分ではないでしょうか。

セイラーボブの教えをとことん理詰めで理解しようとしても不可能です。
一休みして、コーヒーでも飲みながら、目の前に広がるものを眺めたり、耳を澄ましてみたりしてみたらどうでしょうか?

メルボルン クラシックトラム