2020/02/01
一つの本質が、パターンとなり、姿形となり、すべてとなって現れています。
It's that One Essence that is Appearing, Patterning, Shaping and Forming as Everything
冒頭、ボブの家の前を走るトラムの映像あり。
自分自身に問いかけて調べてみてください。
私はこの体なのだろうか? 私はこのマインドなのだろか?
私は分離した存在なのだろうか? 私は人なのだろうか? 私は個人なのだろうか?
そしてもしあなたが理解すれば、私が言っていることは、まず第一に、非二元は他に何もない一つのものであり、他には何もないもの。それは自ら輝き、永遠に新鮮な今ここにある意識。ただそれだけです。
他に何もないものという意味は一つのものでさえありません。なぜなら、一つのものという言葉は他に何かあることを連想させるからです。
そしてもう一つの意味は、私はこの体であるはずがないということを理解しなくてはいけません。私はこのマインドであるはずがない。私は分離した存在であるはずが全くない。
他に何もない一つのものであることを明確に指摘することによって、非二元の中には二元性は全くないということを言っています。それでも多くの二元性があなたの周りじゅうに現れています。
すべての顕現は二元性です。
それ以外ではありえないのです。二元性なくして、どんな現れもパターンも姿形もありません。そういうわけでそれは、見せかけと言われているのです。そういうわけでそれは、幻影やその手の言葉で呼ばれています。
そして、現れは実在ではないことを指摘しています。本質としては実在です。
一つの本質が現れ、パターンとなり、姿形となり、すべてとなって現れているのではないですか?
あなたが体ではないとしたら、何ですか? もしあなたが体を詳しく調べても、そこからあなたが始まった、それが私だという場所はみつかりません。
体は単に構成要素とエネルギーからできているとわかるでしょう。
思考の他にはマインドなどというものはないとわかるでしょう。
では私とは何でしょうか?
あなたは、この生命のエッセンスと呼ぶもの、つまり、自分はあると知る働きを否定することができますか?
生命の流れの中で、それはパターンとなり、体を通じて表現され、細胞を置き換え、呼吸をさせ、あたかも宇宙で物事が自然に努力なく起こっているように、すべてを自然に努力なく行っています。
人々はこれを神や至高の存在と関連付けて考えます。でも、誰かがそこに座っていて、糸を引いていたり、雨を降らせていて、もしあなたが祈ればそれを正してくれるというわけではないのです。
自然の中に中心や基準点がありますか? このショー全体を仕切っている点がありますか?
それはより良い呼び方で呼ぶとすれば、知性エネルギーに満ちています。それが姿形となって現れているということは、それが知性に満ちていることを意味しているのではありませんか?
その知性エネルギーが今この瞬間に呼吸をさせているのであり、あなたと分離した宇宙にだけ働いているのではありません。あなたもその自然の一部です。それがあなたに呼吸をさせ、細胞を置き換え、爪を成長させているのではありませんか?
それを認識するために、あなたは何をすべきですか?
あなたは今それを認識することはできませんか?
あなたはその存在を否定することができますか?
あなたは、生命の本質、「私がある」ということを知る働きを否定することができますか?
あなたは、「私は存在しない」と言うことはできないと知るでしょう。
あなたが何であるかをあなたは知りません。
そしてあなたは、現象としての現われを、調べもしないで実在だと思っています。
それが問題となっています。