そこには様々な物が現象となって現れています。でも実際には、あなたが見ている端末、このブロブの文字、壁、椅子、空気の背景にあるものを見ることはできないので、その存在に気づくことがありません。
私たちは、「見る働き」「知る働き」を通して、この世界を認識しています。
それはあまりにも明白なのですが、私たちはその「空間のようなアウエアネス(意識)」を認識することなく、見落として暮らしています。それを人に説明しようと思っても、それには境界がなく、名前もないため、どう説明していいのかさえわかりません。
そこに、感情、思考、体、世界が現れます。それは瞑想や修行で手に入れる何かではなく、いつもそこにあるもの。それは、誰かに取られたり、傷つけられたりすることもなく、いつもそこにあるもの。
時々は、思考という雲や、ストレスという雨が降って見えなくなることもあるけれど、いつもその背景にあるもの。それはいつも今ここにあって、変化することもなければ、どうこうすることもできないもの。
それが「あなた」。「汝それなり」。
私たちは、この世界を「見る働き」「知る働き」を通して認識しています。
そこには、見ている「私」は存在しておらず、「見る働き」だけがあります。
そこには見ている人(主体)も、見られているもの(客体)もなく、「見る働き」「知る働き」だけがあります。
朝、一人でゆっくりとコーヒーを飲んでぼんやりとしている時、何も思考が浮かんでこない時、そこに「私」はいません。そこにはコーヒーカップとコーヒーの香りがあるだけで、「私」はいません。
そこにいるのは、一人ぼっちの拓でもなければ、ブログを一生懸命書いて何かを伝えようとしている拓でもありません。そこには誰もいません。
でもひとたび思考がやってきて、昔の嫌な思い出や、今抱えている問題が頭に浮かぶと、たちまち「私」が現れます。でも私は、そこには「私」はいないということを知っています。
「私」は記憶の蓄積であり、マインドが作り上げたイメージにすぎません。
そうしたイメージや記憶の蓄積があなたではありません。
「今ここにある意識」があなたであり、あなたが過去にやらかした失敗や不幸な出来事は、「今ここにある意識」のどこにもなく、煩わされる必要など全くないことです。
私たちは、過去のどうしようもない出来事を思い出して、(あの時ああすればよかった)(あんなことをしなければよかった)と考えて、多くのエネルギーを使い、実際にやってくるかどうか定かではない未来に煩わされて怯え、「今ここにある意識」を認識することさえありません。
「今ここにある意識」を認識することで、多くの問題が問題ではなくなります。実際には何も問題などないからです。
私たちの問題は、たいていマインドで作られます。そしてその問題をまたマインドで解決しようとあくせくします。
どんなに準備をしても、ものごとはそんな風には起こらないと知っているのに、マインドは何度も何度も未来の予行演習をしてエネルギーを浪費します。
「今ここ」にいることさえできれば、何も問題などないのです。なぜなら、すべての問題はマインドの産物だからです。
「今ここにある意識」を認識すること。そこには「私」はいないと理解することがすべてです。それはエンライトメントや覚醒などという難しいことではなく、理解です。
メルボルン:大道芸人