2019/09/03

おたよりをいただきました。

拓さん、こんにちは。ブログを楽しく読ませていただいております
いくつか疑問に思ったことがあったので、質問させていただきます
短くても結構ですので、可能でしたらご回答をお願いいたします。
質問が長いので一度に送れるかどうか不明ですが、とりあえず、送ってみます。

(1)質問1
・「2019/01/15のセイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑥」の中に「(私がいないという実感)も(私がいないという体験)も不要である。それらが不要だとわかった時、不思議なことに本当の意味での理解が起きました。」といった要旨の記載があります。


そのときの「本当の意味での理解」=「私がいないということ等についての確信」ということでしょうか? そうだとすると、結局のところ、探求している人は依然として、「私がいないということ等についての確信をどうやったら手に入れられるのか(確信を得るという体験をどうやったら手に入れられるのか)」ということを探してしまう気がします。

それについては、「(私がいないこと)等について繰り返し自分で検証すればよく、機が熟すればそれが確信に変わることもある」という理解でいいのでしょうか?

(補足)(私がいない)ということについてはいろいろな本で書かれており、それらを読めば(私がいない)ということについては理解できます。しかし、それらの理解ができても何も変わらないので、実感や体験が必要だと考えてしまうのだと思います。 


もちろん、「空(=事実・awareness)は何も変わらないのだから、何も変わらなくて問題ない」といえばそうなのでしょうが。上記⑥のブログの記載を読むと、「本当の意味での理解が起きなければ結局はだめ」というような気分になってしまいます。 


2019/02/18のブログには、「理解していてもいなくても何の違いもない。あるのは今ここにある意識だけだ」というボブの言葉が挙げられており、それはその通りだとも思いますが、そうだとするとそれで「終わり」ということになってしまい、「汝それなり、以上おしまい」というのと同じで教えとしてはあまり有効ではないような気がします。

(2)質問2
・同じく上記⑥のブログの中に『ボブは「マインドには実在を理解する力はない」と言います。私たちがいくら考えても理解できないし、そういう体験が起きることもありません。』という記載があります。


結局、自分で自分を見ることはできないという意味で、「awarenessというものそのものを理解したり体感したりすることは不可能である」という理解でよいでしょうか? そして、理解すべきことは、awarenessそのものではなく、『見えているものに実体はなく、「私」というものにも実体はないということ』でよいでしょうか?

(3)一方、2019/07/30のブログには、『セツさんは「ただそれだけ」を8回読んでいるが、まだ理解できないとおたよりを私に書きました。それは何を意味するかというと、マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できないということを理解したということです。
もし、マインドでセイラーボブの教えを理解しようと思っているなら、「ただそれだけ」を100回読んでも理解は起きません。』という記載があります。

しかし、「マインドの理解」と「知的な理解」との差がよく分かりません。それらは同じなのではないかと思ってしまいます。もし同じだとすると、上記のブログの中に記載されている「知的に理解すれば十分である」という話と、2019/07/30のブログの「マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できない」という話とは矛盾しているような気がします(矛盾していても気にしなければ無問題ですが)。

「直感的な理解でなければ理解できたことにならない」ということであったとしても、「マインドで検証を行ってボブの教えをマインドで(知的に)理解し、機が熟せば直感的な理解が起こることもある」ということではないのでしょうか?(ただし、この場合には見かけ上の時間の経過が存在しますが)。

以上、よろしくお願いいたします。

波平


波平さん、おたよりありがとうございます。

私は、いつか誰かが、今日波平さんからいただいたような質問を送ってくださるのではないかと思っていました。
波平さんと同じように、ブログに書いていることが矛盾していると思ってみえる人が大勢みえるのではないかと思います。

セイラーボブの教えを理解するとはどういうことなのかは重要なポイントなのですが、それを書く前後の脈絡や、書こうとしている内容によって、表現が変わります。
自分の中では矛盾しているつもりはないのですが、どこを強調するのか、誰に向けて書いているのかで表現が変わってしまって、一見矛盾したものになっています。

書いていても、(この表現は以前書いたことと矛盾するなあ)と思いながら書いているのですが、強調したいポイントや、想定している読者によって、矛盾してもしかたがないと思って書いています。

表現が矛盾していても、(ああ、そういうことだったのか! わかったぞ!)という人が一人でも多くいてくれればいいかなと思って書いているつもりです。

最初にわかっていただきたいのは、セイラーボブの教えを理解するやり方に決まったやり方なんてないということです。
私のブログは、セイラーボブの教えを理解するための材料を提供するためのブログです。

私のようなやり方で理解しないといけないとか、理解したらこうなるということを書いているつもりはありません。
どんな理解の仕方でもかまいません。「私は体でもマインドでもない」「今ここにある意識だけが実在である」ということが理解できればいいだけの話です。

質問に具体的に答えていきます。

(1)質問1
・「2019/01/15のセイラー・ボブ・アダムソンの教え(詳しく)⑥」の中に「(私がいないという実感)も(私がいないという体験)も不要である。それらが不要だとわかった時、不思議なことに本当の意味での理解が起きました。」といった要旨の記載があります。


そのときの「本当の意味での理解」=「私がいないということ等についての確信」ということでしょうか? 

そうです。私はセイラーボブの教えを知的に(もしくはマインドで)理解した後でも、何か特別な体験が起きるのではないかと思っていました。でも、ギルバートやカタリーナの話を聞いて、そんな体験は起きないということを知りました。れまでは、自分の理解に自信が持てませんでしたが、それを聞いて自分の理解で間違いないと確信しました。

そうだとすると、結局のところ、探求している人は依然として、「私がいないということ等についての確信をどうやったら手に入れられるのか(確信を得るという体験をどうやったら手に入れられるのか)」ということを探してしまう気がします。

探してしまうということなら、「確信」という表現を使わなかった方が良かったのかもしれません。本当に理解して、疑いも起きず、もう揺るがないということを表現したかったのでそう書いたのですが、「確信」という言葉をやめておけば良かったと後悔しています。セイラーボブは、「確信」とか「実感」ということを言ったことはなく、「理解がすべてだ」と言っています。

れについては、「(私がいないこと)等について繰り返し自分で検証すればよく、機が熟すればそれが確信に変わることもある」という理解でいいのでしょうか?

そういうつもりで書きました。でも、多くの人がセイラーボブの教えを理解していても、確信がないと思っています。確信がないというのはどういう状態なのでしょうか?
確信がないということは、理解が不十分なのか、もしくは私と同じように、理解したら何かが起こるのではないかと心のどこかで思っているのではないでしょうか?

私は確信という言葉を使いましたが、理解だけで終わりにしておくことも可能でした。でもそうすると、一部の人は「それじゃぁお前はセイラーボブの言うことを信じているだけじゃないか」と思われるのではないかと思いました。

信じているのではなく、(それが真実に違いない。そうとしか思えない)という思いを込めて「確信」という言葉を使いました。
多くの人は宇宙空間から地球を見たことはないのに、地球は丸いと知っています。これは信じているのではなく、確信だと思います。
それと同じ程度だということを表現したいと思って確信という言葉を使いました。
でも、よくよく考えると、理解=確信なのではないかと思います。

(補足)(私がいない)ということについてはいろいろな本で書かれており、それらを読めば(私がいない)ということについては理解できます。しかし、それらの理解ができても何も変わらないので、実感や体験が必要だと考えてしまうのだと思います。 

れが、私を含めて多くの人がはまる罠だと思います。セイラーボブの教えを理解しても、何も変わらないし、何かが起きるわけではありません。
ただ一つ起きることは、「私」は実在ではないという理解であり、それが解放をもたらすものです。

もちろん、「空(=事実・awareness)は何も変わらないのだから、何も変わらなくて問題ない」といえばそうなのでしょうが。上記⑥のブログの記載を読むと、「本当の意味での理解が起きなければ結局はだめ」というような気分になってしまいます。 

本当の意味での理解とは、「非二元の教えが真実であり、もう迷うことも探すこともない」という状態であるという意味で書きました。でも、ちゃんと理解したら、それが本当の意味での理解なのだと思います。「本当の意味での理解」と書かないで、単に「理解」と書くべきでした。

私は二度のメルボルン滞在から帰ったあとでもまだ揺れ戻しがあって、何か特別な理解があるのではないかと探していました。
入手可能な本を全部読み、YouTubeを何度も見ているうちに、そんなものはないと知り、もう迷うことも探すこともない地点に到達しました。

理解の起こり方は人それぞれだと思います。私のブログを一回読んで、これは真実だと思う人もいれば、続けて読んでいるうちにだんだんと真実だと思うようになった人もいると思います。極端なことを言えば、何の理由もなく直感でセイラーボブの教えは真実だと受け入れることができる人もいると思います。理由なんて要りません。

「本当の意味での理解が起きなければ結局はだめ」ということはありません。

私たちが、実際に非二元の世界を垣間見ることも体験することもできない以上、絶対的な確信があるとは言い切れないのもやむえないのではないでしょうか?

人の理解の仕方や程度は様々です。ジョン・ホィーラーのように、セイラーボブ関連の本を何冊も出したあとでボブの前から姿を消した人もいます。ジョン・ホィーラーはセイラーボブの教えをよく理解していたし、彼の説明はわかりやすいものでした。

いくら地球は丸いと理解(確信)していても、実際には、大気をどけると地球は正確な丸ではなく、あちこちがゆがんだ楕円形をしているのだと聞いて、「え~!」となってしまいます。人間の確信なんて、その程度のものではないでしょうか。

理解だ確信だと言ってみても、結局それはマインドにエサを与えているだけで、本当の理解は、もっと直感的なもののように思います。

2019/02/18のブログには、「理解していてもいなくても何の違いもない。あるのは今ここにある意識だけだ」というボブの言葉が挙げられており、それはその通りだとも思いますが、そうだとするとそれで「終わり」ということになってしまい、「汝それなり、以上おしまい」というのと同じで教えとしてはあまり有効ではないような気がします。

12年間、マスターのもとで修業した人は、ふたたびマスターから「汝それなり」と言われて、絶対的な確信を得る方法、体験なんてないとわかったのではないでしょうか。
まだ何かが足りないと思っているうちは、「汝それなり」で終わりとは思えないのではないでしょうか。

どんな方法でも構わないので、セイラーボブの教えていることが正しいと思えて、もう疑いも揺れ戻しも起きない地点に到達すればいいとだけのことです。

「汝それなり」と言われて、(そうは思わない)と感じるか、(そのとおりだ)と感じるかの違いです。(そうは思わない)と感じるなら、ちゃんと理解していることにはならないと思います。

(2)質問2
・同じく上記⑥のブログの中に『ボブは「マインドには実在を理解する力はない」と言います。私たちがいくら考えても理解できないし、そういう体験が起きることもありません。』という記載があります。


結局、自分で自分を見ることはできないという意味で、「awarenessというものそのものを理解したり体感したりすることは不可能である」という理解でよいでしょうか?

そうです。
LIVING REALITYの中で、「アウエアネスは理解するものではなく、在るものだ」「思考が止まっていてもあなたは在る」という内容のことを言っていたと思います。どこに書いてあったか今すぐに出てこないので、正確な引用ではないのですが。

そして、理解すべきことは、awarenessそのものではなく、『見えているものに実体はなく、「私」というものにも実体はないということ』でよいでしょうか?

そうです。付け加えるなら、今ここにある意識だけが実在であるという理解があれば十分だと思います。

(3)一方、2019/07/30のブログには、『セツさんは「ただそれだけ」を8回読んでいるが、まだ理解できないとおたよりを私に書きました。それは何を意味するかというと、マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できないということを理解したということです。もし、マインドでセイラーボブの教えを理解しようと思っているなら、「ただそれだけ」を100回読んでも理解は起きません。』という記載があります。

しかし、「マインドの理解」と「知的な理解」との差がよく分かりません。それらは同じなのではないかと思ってしまいます。

同じつもりで書いています。

もし同じだとすると、上記のブログの中に記載されている「知的に理解すれば十分である」という話と、2019/07/30のブログの「マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できない」という話とは矛盾しているような気がします(矛盾していても気にしなければ無問題ですが)。

矛盾しています。申し訳ありません。
セツさんの質問に答えた時は、セツさんが何度も繰り返し「ただそれだけ」を読んでみえると聞いて、何か非二元の体験や特別な理解が起きることを期待してみえるような気がしたので、そういったことは何も起きませんよ、という意味を込めて「知的に理解すれば十分である」と聞きました。

でも、この書き方は良くなかったと反省しています。書き直すことはしませんが、もし書き直すとすると、「教えを理解して、それに対して何の疑いもなく、それが真実だと思え、揺れ戻しがなければ、それが理解したということです」としたいです。

私がセイラーボブに、「知的には理解できるのですが・・・」と質問した時、セイラーボブは私に、「知的な理解以外にどんな理解があるというのですか? (知的な)を取りなさい」と言いました。

「直感的な理解でなければ理解できたことにならない」ということであったとしても、「マインドで検証を行ってボブの教えをマインドで(知的に)理解し、機が熟せば直感的な理解が起こることもある」ということではないのでしょうか?(ただし、この場合には見かけ上の時間の経過が存在しますが)。

念のために書いておきますが、「直感的な理解」という言い方は私が勝手に言っているだけです。セイラーボブの言葉で、あえて言うなら「ハートとハートの理解」です。

理解の仕方や、それがどんな風に起きるかは人それぞれでかまわないと思います。
ギルバートにはギルバートの理解の仕方があり、カタリーナにはカタリーナの理解の仕方があり、私には私の理解の仕方があります。でも、みんな「私は体でもマインドでもない」「今ここにある意識だけが実在である」ということは理解しています。

マインドの理解、知的理解、実感、確信、直感、ハート。こういった言葉は、それぞれの人でそれぞれの解釈があるので、その言葉の裏にある本質みたいなものを理解していただけたらと思います。

理解の仕方は人それぞれでかまわないのです。
非二元の教えが真実であり、もう迷うことはないという地点まで到達できれば、どの道を通ってもかまわないのです。

私はこのブログで私の理解の過程を書いていますが、それは無視してもかまいません。セイラーボブの言ったことの翻訳部分だけを参考にするというのもありだと思います。

言葉での説明には限界があります。
例えば、「セイラーボブの教えを理解しても何も起きません」と私は書きましたが、もし、「セイラーボブの教えを理解すれば、考え方や物の見方が変わる」ということを言おうとするなら、「セイラーボブの教えを理解すれば何かが起きます」という表現になります。それは言葉の持つ曖昧さ、不完全さだと思います。

セイラーボブの教えを理解するということは、言葉の上でだけ理解するということではなく、教えが正しいと思えて、何の疑いも起きず、それが当たり前の真実と思え、二度と揺れ戻しが起きない状態です。
もしそうでないなら、教えを理解していないということだと思います。

そういう観点に立って言うなら、メルボルンから帰った時点での私は、セイラーボブの教えを理解していませんでした。
何がどう違うかと聞かれるとまた、確信とか実感とか、あいまいな言葉を使ってしまいそうになってうまく言えませんが、今は疑いや揺れ戻しはありません。

波平さんは、(私がいない)ということについてはいろいろな本で書かれており、それらを読めば(私がいない)ということについては理解できます。
と書いてみえるので、セイラーボブの教えはもう十分に理解してみえると思います。セイラーボブの教えだけが非二元の教えだというつもりは毛頭ありません。

「確信」「本当の理解」という言葉を使ったために、かえってわかりづらいものにしてしまったかもしれません。「理解」という言葉で十分でした。

2019/08/30

空は形です。


Emptiness is Form.

空は形です。
その意味は、この空、何もないもの、空間のようなアウエアネスは、パターンとなり、姿形となって、あらゆる顕現となって現れているということです。
それはすべて、知性エネルギーのパターンです。

逆の言い方をするなら、形は空以外の何ものでもありません。
そうやって一つの本質を両面から指摘しています。
形がどんなパターンに変化しても、何を形作っても、それは空にすぎないのです。

そしてそれが私たちの問題となります。
私たちは、見せかけを実在だと思っています。
そして、本質を無視(ignore)します。

それを聖典では、無知(ignorance)と呼びます。
何かおろかなことをするという意味ではなく、文字通り、本質を無視(ignore)しているという意味です。
そうやって、見せかけに焦点を合わせ、パターンや姿形の存在を信じています。

私は、分離は存在しないと言いますが、あなたは自分の周りが分離だらけだと思うでしょう。
では尋ねますが、あなたは分離していますか?
あなたは、自身がその体とマインドだと信じています。
あなたが、自分は体とマインドだと思うなら、それがどこなのかを指摘してください。

あなたの体で、ここから私が始まったという場所を指し示すことができますか?
そしてあなたはいつ始まりましたか?
あなたは、誕生によって始まったと言うでしょう。

でも、この部屋にいる人のうち何人が、自分の誕生の瞬間を覚えていますか?
あなたは自分が覚えている地点を超えては思い出すことができません。
それは、二歳か二歳半の時ぐらいまでです。
それを超えて思い出すことはできません。
あなたは自分の誕生の瞬間を覚えていません。

もしあなたが自分の体を調べてみるなら、自分は体であると言うことはできません。
この体は何でできていますか?
あなたは、体が構成要素でできていると理解するでしょう。

体は、土、空気、火、水、空間でできていて、身のまわりあるものと同じものでできています。
もし分離しているというなら、自身を空気と切り離してください。そしてどれだけ生きられるか見てください。

体から水を取り出してください。
空間の外に出てみてください。
体温、火を取り出してみてください。

あなたは、そうした要素と分離してはいないと知るでしょう。
構成要素なしでは5分も生きられません。
私たちは調べもしないで、自分は分離した存在だと信じています。
それを調べてみてください。

構成要素は何でできていますか?
それは亜粒子でできていて、さらに詳しく調べると、単なるエネルギーであることがわかります。
ということは、この体も、他の顕現と同じように、エネルギーのパターンが形になったものです。違った姿、形になったものです。

2019/08/27

セイラーボブの言葉

個人のものではない、純粋な知る働き

ボブ:「何もないもの」は思考では理解することはできません。それゆえに人々は迷い、混乱します。人々は、自身の狭いマインドでそれをとらえ、姿形として概念化できると考えています。人々は、「これだ。これがあの偉大なエンライトメントか何かだ」と想像します。また、何か恍惚とした体験をして、「これがそれだ」と考えます。

質問者:何もないものには、ただそうした主観的な経験があるだけです。主観的な経験の外には何かありますか?

ボブ:その主観性はあなただけのものですか? 知覚するということに関して。

質問者:そう確信しています。はい。

ボブ:でも、この部屋にいる一人一人は同じ世界を見ています。あなたは違った視点から見ていますが、私たちは皆、反対の極へと動く一対の思考の中で、同じように考えています。それでもあなたは、主観は個人的なものだと思っています。もしあなたが、純粋に主観的に見ると、そこには見る対象は何もありません。それが純粋な見る働きです。私が言っているのは、あれを見るとか、これを見るということではありません。概念のラベルが無かったら、それは純粋な見る働きです。それが、あなたのすべての経験の根底のあるのではありませんか? もしその知る働きがなかったら、どれだけのことを体験することができますか? その知る働きは、原初の思考である「私はある」を通して現れているのではないですか? 同じように、あっちの「私はある」、こっちの「私はある」を通して現れています。それは同じ知る働きで、私はそれを知性エネルギーと呼んでいます。それが違ったパターンとなって現れています。

2019/08/24

時間や距離はマインドの中にしかありません。

私は今、いつものようにパソコンの前に座って、ブログを書いています。
そして、ブログを書き終わったら、後でトイレに行こうかなと、ふと思いました。そう思った瞬間に、部屋からトイレまでの距離が生まれました。

私の友人は今、南アフリカのケープタウンを旅しています。ふとそう思った瞬間に、日本からケープタウンまでの距離が生まれました。もし私が、トイレのこともケープタウンのことも考えなかったら、そこに距離はありません。

時間はどうですか? 後でトイレに行こうと思った瞬間に、「後で」という時間が生まれました。
明日は名古屋で友人に会う日だな、と思った瞬間に「明日」という時間が生まれました。
去年の今頃は何をしていたのかな、と思った瞬間に「去年」という時間が生まれました。

あなたが考えなければ、時間は生まれません。
時間も距離も、あなたの思考の中にしかありません。

体はどうですか?
あなたは今、椅子に座ってパソコンでこのブログを読んでいるかもしれません。
あるいは、どこかでスマートフォンでこのブログを読んでいるかもしれません。

あなたのお尻は今、椅子に触れていますか?
私が、「あなたのお尻」と言うまで、あなたのお尻は消えていたのではありませんか?
そこにお尻はありましたか?

あなたの手はどうですか?
マウスに触れていますか? それともスマートフォンを持っていますか?
もし私が、「あなたの手」と言わなければ、あなたの手は消えていたのではありませんか? そこに手はありましたか?

目はどうですか?
画面を見ていますか?
私が、「目」と言わなければ、目は消えていたのではありませんか?

頭はどうですか?
私が「頭」と言わなければ、頭は消えたいたのではありませんか?

体も、あなたの意識に現れているのではないですか?
もしあなたが意識しなければ、体は消えていたのではないですか?

思考も同じです。
今あなたは何を考えていますか?
もし私がこう問いかけなかったら、思考は意識されることなく、やってきては去っていったはずです。

すべては、そうやって意識の中に現れます。
時間、距離、体、思考。世界はあなたの意識の中に現れます。
そしてそれは一つのものです。

ボブの家の近くの花屋にて 2015

2019/08/21

知性エネルギー


Intelligence Energy

そのことを知性エネルギーと言います。
知る働きの活動のことです。
あなたの知性のことを言っているのではありません。

知る働きが、そこここにあることは否定できません。
それは自然に起こってくるものです。
それはこの瞬間に起こっています。

それは単にエネルギーの動きです。
エネルギーのバイブレーションです。

そのバイブレーションには始まりがありますか?
今はいつ始まったのかをピンポイントで指摘できますか?
今の終わりをピンポイントで指摘できますか?

それは脈動する鼓動のようなものです。
始まりが終わりであり、終りが始まりです。

それは自然な活動です。
それが姿形となり、あなた、私、すべてのものとなって現れています。
私たちはそれと別々のものではありません。

同様に、あなたに始まりはありません。
あなたに終わりはありません。
あなたに誕生も死もありません。
運命も自由意志もありません。

誕生もなく、死もなく、時間もなく、空間もなく、体でもなく、マインドでもない。
それ以外のものです。

2019/08/18

セイラーボブの言葉

もし、概念も思考もなかったら、そこには何がありますか?

考えたくありません。

考えるという問題ではありません。ほんの一瞬思考を止めてみてください。ほんの一瞬。それについてどんなことが言えますか?

それをやっても意味がありません。

あなたはちゃんとやっていません。そうでなければ、それをやっても意味がないとは言えません。ちゃんと見てください。もし思考がなかったら、たとえそれが一瞬でも、それについては何も言うことできません。概念無しでは、それが穏やかだとか、そうではないとか、怒りや恐怖、良いとか悪いとかを言うことが全くできません。それは純粋なアウエアネスです。それは思考ではありません。それが知る働きであり、知性の働きであり、あなたと共にあるものです。それが私たち全員と共に今ここにあります。そこには分離はありません。それには、始まりも終わりもありません。それはすべてを含んでいます。

2019/08/15

Sailor Man song by James Braha



Lost in the middle of the sea              The sailor man came to me
Praying for a taste of  truth                 Devoured by the search since youth
Thirty years along the road               Til Sailor man broke the code
A life of desire and fear                     Disappears in the final frontier
Tossed like a feather in the breeze     Shouting my demands and pleas
Sailor man heard this cry                   Listen son to my reply
If you really want to know what I see
Pierce the illusion of a me
Time and space never last                 There cannot be a future or a past
                    CHORUS
    The sweetness of this humble man
    Melts your heart like no one can
    Points the way, today’s the Day
    That’s the plan of the Sailor man
    And that is why I love this guy
                                  Sailor Bob the Sailor man
Tried every truth that came along        Every damn path turned wrong                               

Everywhere a big lofty goal                And no one ever left feeling whole 

But Sailor man knew what was real   Just look below what you feel

Underneath every thought and every sense   Indescribable space immense
Thought my search would never end             Til I met an ocean going friend
One lovely night he said to me                       Words I didn’t know I could see
Just have a look or a peak                              We already are what we seek
Underneath the many is the one                     Like fire creates the sun
                                        REPEAT CHORUS
When thoughts lose their power of belief         Then comes peace and relief
Events aren’t ever what they seem                   Welcome the imaginary dream
Just like clouds hide the sun                             The many overshadows the one
It’s all a great big play                                      Sailor man came to say
Don’t put the horse before the cart                   There never was an end or a start
Never was a time we were not                         The mind plays a game it forgot
Just like Strawberry fields                                 Nothing in this world is real
Like rainbows in the sky we see                       There never was a you or a me
                                                 REPEAT CHORUS

***

ジェームズ・ブラハの歌がうまいのには驚きました。
ボブは電動車椅子みたいなものに乗っているんですね。どの程度自立歩行できるのでしょうか。

2019/08/09

答えはマインドの中にはありません。


No Answer in the Mind

ここで私は、答えをマインドの中で見つけることはないと言います。
たとえ一晩だけでも、マインドで理解しようとしないでください。

マインドで理解しようとすると、頭と頭になります。
それでは何も理解できません。
自分や他の人に対する概念を得るだけです。

ハートとハート。心臓のことを言っているのではありません。
あなたの存在の本質、すなわち魂のシンボルのことを言っています。
ハートとハートが開いている時、共鳴が起きます。

それがどんな言葉だったのか2分も経つと忘れてしまうかもしれませんが、いったん共鳴が起きれば、ある時それはあなたの言葉、考え、認識としてやってきます。それ以降は、読んだり聞いたりしたものとしてではなく、あなたのものです。

(聞き取り不能の箇所を省略しています)

***

お知らせ

ギルバートの新刊が出ました。日本のアマゾンでも買えます。セイラーボブの講話ではなく、ギルバートのオリジナルです。しっかり読んだら感想を書きます。



ギルバートがブログを始めるそうです。きっと参考になることがいっぱいのはず。

Gilbert Schultz-Seeing-Knowingブログ

2019/08/06

菅平合宿

二泊三日で恒例の菅平合宿に行ってきました。
モロッコで砂漠ツアーをご一緒させていただいた河村さんが、夏になると菅平の山荘に招待してくださるので、今年も行ってきました。

日本で一番暑い多治見から「しなの」で長野へ。


長野で北陸新幹線に乗り換え。12分間乗るだけですけどね。


上田到着。お出迎えの河村さんの車で40分、菅平へと登って行きます。


到着。涼しいです。26度ぐらいのはずですが、体感的にはもっと涼しく感じます。
多治見との温度差は10度ぐらいのはずです。


別荘地の中にある山小屋です。さっそくビールで乾杯。
まだ晩御飯には少し早かったので散歩。今回で4回目なので、近所の地理は良くわかっています。


高校生が走っていました。


近くに立派な施設があります。


サッカーの練習試合をする高校生。この施設には多目的グランドが何面もあって、高原で夏合宿をやっている高校や大学が、練習試合をします。


立派な陸上競技場もあります。






ラグビーワールドカップの直前にイタリアチームがここで事前合宿をするようです。

散歩も終わって夕食の時間になったので、合宿開始です。


私たちの合宿はラグビーではなく、酒です。


河村さんはワイン通なので、毎回ワインに合う料理を作ってくれます。
私はもっぱら飲み食い片付け専門です。
今日のワインは南アフリカ原産のピノタージュ。メイン料理はラタトゥーユ。
ワインのことをあれこれと教えてもらいながら、料理の作り方や材料も教えてもらうのですが、たいてい酔っぱらって聞いているので忘れてしまい、帰ってきて作ったためしがありません。

夜中の二時まで二人で、ビール2缶、ワイン2本、ウイスキーボトル3分の1飲んでおしゃべり。マダガスカルやケープタウンの話で盛り上がりました。内容は例によってあまり覚えていません。


翌朝、裏の畑でトラクターの動く音。


たぶん外国人労働者だと思うのですが、ブロッコリーの収穫をしていました。
ブロッコリーの葉は捨ててしまうんですね。葉も売れそうな気がしますが。
菅平高原ではレタスやブロッコリーをあちこちで作っています。

過去三回の合宿では、昼間は高原を降りてあちこちの観光地にドライブで連れていってもらいました。松代大本営防空壕跡、上田城址、真田の里、上越高田、姥捨て棚田、戸隠、小布施の寺々などなど。このあたりは見るものがたくさんあって、とてもいいところです。

でも今回は猛暑なので、下界へは行かずに避暑を楽しみましょうということで、遠出はなしです。
毎回、ほとんど学習能力のない私は、今回も二日酔い。頭が痛い。

サニアパークでは、KOBELCO CUP 2019という高校生のラグビーの大会をやっていました。


全国から、高校生のチームがやってきています。


この日は女子の試合でした。


炎天下で見ていても平気なくらいの温度で、酒が抜けて気持ちいいです。
途中一雨降ったのですが、みんな熱心に応援していました。

試合観戦のあと、須坂の温泉で汗を流して山荘に戻り、今日も合宿。


今日のメインはボブチョルバというスープだそうです。どこのどういう料理だったかは、例のごとく思い出せませんが、美味しくておかわりしました。

生茶のペットボトルに入っているのは、河村さんがブルガリアの友人宅で仕込んで作った赤ワインです。なかなかサッパリしておいしい味でした。

涼しい菅平から、沖縄よりも暑い多治見の我が家に帰ったら、キッチンが大変なことになっていました。一昨日、出がけに生ごみをゴミ袋に入れて出かけたのですが、口がしっかりと閉まっていなくて、そこにブヨが大量発生。
床には、ブヨの幼虫と思われるウジのような小さな虫がたくさん這っていてびっくり。

たった三日家を空けただけで、こんなことになるとは。汗だくになりながら、キンチョールを吹きかけて、ぞうきんがけして大掃除。
今回の合宿の教訓。夏に家を空ける時は生ごみをちゃんとして行け、でした。ギャフン。

2019/08/03

非二元の師たちが教えているのは、エンライトメント(覚醒)ではありません。

最初にセイラーボブの本を読んだ時、セイラーボブが教えているのは、いわゆるエンライトメント(覚醒)した状態のことだと勝手に思い込んでいました。

セイラーボブに会って、エンライトメントなどないと聞かされたあとでも、心のどこかで、セイラーボブの意識の状態は、普通の人の意識の状態と違うのではないかと思っていました。

セイラーボブが、自分はエンライトメントをしたとか、いわゆる覚醒の一瞥体験をしたと言ったのを聞いたことは一度もありません。それでも、セイラーボブの教えを理解すれば、何かが起きるはずだと勝手に思っていました。

セイラーボブが教えているのは、いわゆるエンライトメント(覚醒)ではありません。セイラーボブはエンライトメント(覚醒)した人ではなく、私たちと何も変わらない普通の人です。
セイラーボブの教えを理解しても、何か特別なことが起きるということはありません。

セイラーボブが教えていることは、何かになることや、何かを体験することではないからです。

1980年代から90年代は、エンライトメント(覚醒)や目覚めを説くグルやマスターたちが人気の時代でした。
ここでいうエンライトメントというのは、ある時何かが起こって、永遠の恍惚感がとめどなく続くような状態のことを言っています。人々はそれを手に入れるためにグルや教師のもとを訪れ、瞑想したり、講話を聴いたりした時代でした。

最近、ネットや書店で本を読んでいて気になるのは、そうしたグルの説くエンライトメントは、実は非二元の教えている状態だったのだ、というような話を見かけることです。

長年瞑想してエンライトメントを求めてきた人が、エンライトメントは実はとめどない恍惚感が続くようなものではなく、もともとの自分の状態だったと気づくというストーリーを見かけます。

また、かつては人気絶大だった目覚めを説く教師が、近年になって、非二元関連の本の序文を書いて、自分の教えている目覚めは非二元の教えていることと同じであるかのように装っている人もいます。

私はこの風潮を良いことだと思っていません。
私も必死で瞑想してエンライトメント(覚醒)を求めていました。
でも今は、それが完全に間違いだったと思っています。

そうしたグルや教師たちが教えていたことが正しかったのかどうかを、きちんと再評価する必要があるのではないかと思います。
もし、エンライトメント(覚醒)や目覚めなんてものはないのなら、彼らは大勢の人たちを騙してしてきたペテン師だったということになります。
彼らが当時説いていたエンライトメントは、明らかに非二元と同じものではありませんでした。

ラマナ・マハリシやダグラスハーディングの本はずいぶん前から書店に並んでいたのですが、私は勝手に彼らもエンライトメント(覚醒)した人たちだと思い込んでいました。極端な話、精神世界の棚にある聖人は全部、エンライトメント(覚醒)した人だと思い込んでいました。
でも、注意深く読むと、彼らの教えているのはそうではないということがわかります。

エンライトメント(覚醒)や目覚めを説く人たちの特徴は、必ず自らの覚醒体験を語っていることと、それは手に入れるものだと説いているので、そういう人を見分けるのはそう難しくはありません。彼らは覚醒体験で自らを権威付けし、それを客寄せの道具として使っています。

彼らの説くエンライトメントは手に入れるものであり、別の意識状態になるものです。一方、セイラーボブの説く非二元は、手に入れるものでも、何かになるものでもありません。注意深く読めばその違いはすぐにわかります。

私は今では、自らの覚醒(エンライトメント)体験を語っているグルや教師は全部ペテン師だと思っています。

何世にもわたって輪廻転生をくり返し、やっと手に入れるエンライトメント(覚醒)というストーリーが、いかに馬鹿げた作り話だったかとわかったからです。
あまり過激なことを書くと、「エンライトメント(覚醒)はある」派の人の怒りをかいそうで嫌なのですが、挑発するつもりはありません。おたよりをいただいてもご返事できません。単に見解の相違ですので、「エンライトメント(覚醒)はある」派の人はどうぞこのブログを読まないでください。

問題を複雑にしているのは、非二元の教えを説く人の中にも、私はエンライトメント(覚醒)したという人がいるということです。私はこういう人も信用していません。もし、こういう人の教えが正しいのなら、セイラーボブが教えていることは間違っていることになります。なぜならセイラーボブは覚醒した人ではないし、エンライトメント(覚醒)なんて作り話だと言っているからです。

ただし、非二元の本質を理解している人の中には、「本当のエンライトメントは、永遠に続く恍惚感というようなものではなく、今ここにある意識がそれだと気づくことだ」というように言う人もいます。これは許容範囲です。でも、いっそエンライトメントという言葉を使わない方が良いのではないかと思います。こうした言い回しは、過去のペテン師グルたちを正当化してしまうことになりはしないかと思います。

エンライトメント(覚醒)や目覚めを説くグルや教師の教えていることと、セイラーボブが教えている非二元は全く別のことです。そのことをはっきりと理解していないと、わけのわからない教師やセミナーの餌食になってしまいます。

非二元の教えを正しく理解するためには、エンライトメント(覚醒)などないということを理解する必要があります。それは単なる作り話で、いわばペテン師グルたちの悪しき条件付けだからです。その条件付けがある間は、もし非二元を理解すれば何かが起きるはずだという幻想がなくなりません。その結果、いつまでたっても非二元の教えを理解できないことになります。

また、非二元の教えを説く人の中には、非二元の世界の一瞥体験や、ある時何かのきっかけで突然に非二元の世界を理解したという人がいます。例えば、何かのきっかけで、(私は体でもマインドでもないと理解した)(世界は一つの存在であるとわかった)というような理解が突然起きる場合です。

こういう体験を「覚醒」として語る人もいます。これはエンライトメント(覚醒)ではなく、非二元を理解した体験です。こういう人の中には、優れた非二元の師となっている人もいます。こういう人のことを否定するつもりはありません。ただ問題は、その人が本当に覚醒という意味でその言葉を使ったかどうかです。本人は「理解」という意味で言ったにもかかわらず、「覚醒」と翻訳された可能性もあります。そのあたりの英語は両方に解釈できる言葉があるからです。

非二元の理解は、何かの体験を通して突然起こるやり方でも、私のようにセイラーボブの話や本を何度も読んでいるうちに、それが真実だと理解したという理解の仕方でもどちらでも良いと思っています。セイラーボブの周りにいる人の大半は私と同じように、何度もセイラーボブの話を聞いているうちに理解したという人が大半です。

問題は、非二元を説く側の人の中にも、エンライトメント(覚醒)と、非二元の一瞥体験をゴチャゴチャにして語る人がいて、聞く側の人もそれをゴチャゴチャにして聞いています。私は、エンライトメント(覚醒)は無いと思っていますが、非二元の一瞥体験をすることはあるのではないかと思っています。

でも、非二元の世界を一瞥するというのはどういう体験ですか?
自分は体でもマインドでもないという一瞥をしたということですか?
もし自分の体やマインドが消えると、その一瞥体験を見ることも覚えていることもできないはずではありませんか?

あれは一瞥体験だったんだ、と思い出せるということは、それを見て感じて記憶している誰かがそこにいたはずです。だったらそれは非二元の世界を見たことにはならないのではないですか? それはあくまで疑似非二元の世界にすぎないと思います。

多くの人たちが、ネット上で自分の一瞥体験についてあれこれと語っていますが、それは個人的な思い込みであって、それを語ることはほとんど意味がないし、そういう人たちが必ずしも正しく非二元を理解しているとは言えません。
なぜなら、非二元は何かになることや、何かを体験することではないからです。

一瞥体験がきっかけとなって、非二元の世界に興味を持っていった人もいると思います。そういう人の中には非二元を正しく理解していて、人々を正しい方向に導いている人もいると思います。でも、それを看板にして客寄せをすることは、多くの人を迷わせる結果になるのではないでしょうか。なぜなら、非二元の世界を実際に見て体験することはないからです。

セイラーボブもそうした体験に対して「そういう体験も非二元そのものの体験ではない」と言って、否定しています。
セイラーボブは、非二元の世界を体験したとか、一瞥したとか言ったことは一度もありません。非二元の世界を理解したら、何か特別なことを体験すると言ったこともありません。

非二元の教えは、特別の人にしか起こらない何かではありません。
すべての人がもうすでにそうなのだということを理解すればいいだけのことです。
それを理解するために、何か特別な体験が必要なわけではありません。
普通の人の普通の頭で考えて、(本当に「私」はマインドと体なのだろうか)と調べることだけです。そしてそれは、あなたがこじらせなければ、そんなに難しいことではありません。

メルボルン図書館

2019/07/30

おたよりをいただきました。

Takuさん、こんにちは。
僕は朝起きた時少し憂鬱です。睡眠が深くないので布団から起きだす前にはすでにいろいろ考え始めている感じで、さあ起きようという時にはすでに少し憂鬱です。

それでも以前と違うのは、セイラーボブさんやTakuさんのおかげで、余計な考えを横に置いておくということができるようになりました。

Takuさんは、「朝の目覚めがそれまでの何十年間とは全く違います。鬱屈とした感じが全く無くなりました。」と書いておられました。それは「理解」ということに関する大きなバロメーターのように思います。いま「ただそれだけ」を8回目を読んでいますが、まだまだ理解できていないようです。

セツ


「朝の目覚めがそれまでの何十年間とは全く違います。鬱屈とした感じが全く無くなりました。」と書いたのは、セイラーボブの教えを理解して何かが変わったからではありません。それまで何十年も探していた宿題をやり終えた解放感と、もう一つは、眠れても眠れなくても、全く気にしなくなったからです。

最近はまた、不眠症気味で、ほとんど眠れない日もたくさんあります。でも、それで寝起きが憂鬱になることはありません。寝起きが憂鬱だろうが、爽やかだろうが、全く気になりません。いつもと同じように一日を始めるだけです。

もし、今朝は熟睡したから爽快だ、と喜ぶと、それが今度は眠れない朝の憂鬱を生み出すことになります。信心銘を思い出してください。もし、良いとか悪いとか判断すると、マインドは天と地のごとく二元的に反対の極に動いて、はるかに隔たりを生むことになります。

セツさんは、「ただそれだけ」を8回読んでいるのに、まだまだ理解が起きていないようだと書いてみえますが、一体どういう理解を期待してみえますか?

セイラーボブの教えを理解したら、精神がスッキリするとか、毎日熟睡して爽やかに目覚められると勝手に思い込んでいるのではありませんか?
残念ながら、そういうことは起きません。

私もそうでしたが、人々はセイラーボブの教えを理解したら、憂鬱になったり、悩んだりすることがなくなるのではないかと勝手に想像しています。セイラーボブの教えを理解しても、憂鬱になったり、悩んだりすることは以前を同じように起こってきます。

また、セイラーボブの教えを本当に理解したら、何か特別な体験が起きるはずだと勝手に想像してみえるかもしれませんが、いくら期待しても、何も起こりません。

セイラーボブの教えを理解して起きることは、自分は実在ではないという理解から起きる精神的な解放だけです。憂鬱な気分や、煩わしい問題は今までと同じように起こってきますが、それは「私」に起こっているのではないという理解があるために、そうしたことに巻き込まれなくなります。

セイラーボブの教えを理解できた状態というのはどういう状態なのかについて具体的に書きます。

私は、二回のメルボルン滞在で、セイラーボブの教えを知的には完全に理解できていました。「知的には」という意味は、セイラーボブが何を言っているのかを理解できているという意味です。

「万物は一つものである」
「私は体でもマインドでもない」
「本当の私はアウエアネス、意識であり、空である」
「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」
「今ここにある意識だけが実在であり、過去や未来はマインドの産物である」
「すべては概念であり、概念のラベルを貼り付けなかったら、そこでは何も起こっていない」

こういったセイラーボブの教えを知的には完全に理解していました。
でも、日本に帰ってしばらくすると、(でも、それは真実なのだろうか?)という疑いが湧いてきて、確信、実感がありませんでした。

「私は体でもマインドでもない」や、「今ここにある意識だけが実在であり、過去や未来はマインドの産物である」といったことは、自分で調べて理解することができます。それを理解する材料はこのブログの中に十分な量があります。

でも、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」や、「空の存在そのものを認識すること」といったことは、いくら自分で調べても、マインドの理解を超えています。セイラーボブの教えには、どうしてもマインドでは理解できない部分が残ります。

そういったことに対する理解、確信、実感を得たいと思って、セイラーボブの本や、YouTubeでボブのミーティング映像の中に答えを探しました。それを探す時に考えていたのは、セイラーボブや関係者の本の中に、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」や、「空の存在そのものを認識すること」という事に対する論理的な説明や、科学的な証拠がどこかにあるのではないかということと、もう一つは、彼らが非二元の教えを理解した時、その理解とはどういうことなのか、理解した時、何がどんなふうに起こったのかについてどこかで語っていないかということでした。

セイラーボブと、その関連書籍で入手可能なものは全部買って読みました。YouTubeも可能な限り見ました。カリヤニのサイトもギルバートのサイトも(以前のギルバートのサイトにはたくさんの記事がありました)くまなく読みました。

でも、どこにも、「空の存在そのものを認識すること」や、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」という事に対する納得できるような論理的な説明や、科学的な証拠は書かれていませんでした。
また、セイラーボブや周りの人たちが非二元の教えを理解した時に、何か神秘的な体験をしたとか、何か特別な理解が起こったという記述を見つけることもありませんでした。
大抵の人が言っているのは、非二元の話を聞いたり、読んだりしているうちに自然に理解したということです。

私はメルボルン滞在中、セイラーボブに、「理解するとはどういうことなのか」ということを何度も聞きました。
「あなたのおっしゃる事は知的には理解できます。でも、本当の理解が起きません」と。

でもセイラーボブはたいてい、
「知的な理解以外にどんな理解があるというのですか? 2+2は4でしょう?」という感じで、理解すると何かが起きるとか、知的な理解以外の何か特別な理解について語ったことはありませんでした。

周りの関係者に聞いても、「ボブの教えていることは真実だよ」というばかりで、論理的な説明や、科学的な証拠を示してくれた人は一人もいませんでした。理解した時に何かが起こったという人もいませんでした。

セイラーボブがいつも
「答えはマインドの中にはありません」と、あれほど繰り返し言っているのに、私はその本質的な意味を理解できず、あちこちと探しました。
その本質的な意味を理解するのに、4年かかりました。

「空の存在そのものを認識すること」や、「万物は空から現れているエネルギーパターンにすぎない」という事に対する論理的な説明や、科学的な証拠を探しても、それはどこにもありません。セイラーボブの教えを理解するために、いくらマインドの中を探しても理解できないということに気づきませんでした。

セイラーボブの教えを理解できない多くの人は、エンライトメント(覚醒)が起こったらセイラーボブの教えを理解できるはずだ、何か特別な体験が起きるはずだ、と思っていますが、セイラーボブはエンライトメントなんてないと言い、特別な体験について語ったこともありません。

また、ある人はニサルガダッタ・マハラジや、ラメッシ・バルセカールの本の中に何か答えがないだろうかと、彼らの本を読み始めますが、そこにも答えはありません。他の非二元の師の本を読んでも、そこにも答えはありません。
なぜなら、答えはあなたの中にしかないからです。

セツさんは「ただそれだけ」を8回読んでいるが、まだ理解できないとおたよりを私に書きました。それは何を意味するかというと、マインドでセイラーボブの教えを理解しようとしても理解できないということを理解したということです。

もし、マインドでセイラーボブの教えを理解しようと思っているなら、「ただそれだけ」を100回読んでも理解は起きません。

誤解を恐れずに書きますが、セイラーボブの教えを本当に理解するという意味は、直感的な理解です。マインドではなくて、ハートの理解です。

セイラーボブの教えを読んで、「これは真実だ」と心の底から感じたなら、それが理解できたということです。
それは、無理やりそれが真実だと信じるということではありません。無理やり信じることと、心の底から確信することとでは大きな違いがあります。

心の底から確信しているということは、教えに対して、もう二度と疑いや迷いが起きず、それが事実であると確信しているという意味です。

その確信は、さんざん探して、自問して、もうマインドの中には探す場所がないという地点まで行かないと、起きないのではないかと思います。私はそうなるのに4年かかりました。

その確信には、論理的な説明や、科学的な証拠は要りません。理由は不要です。だからこそ誰も人には説明できないし、非二元について書かれた本をたくさん読んでも理解が起きないのです。

セイラーボブは、ジェームズ・ブラハとの最初の電話での会話の中で、「理解がすべてです」。理解することが必要なだけです。と語っています。この理解には、理由は不要です。セイラーボブは、"Ring a bell?"(ピンときましたか?)という表現を使う時もあります。

真っ赤な薔薇を見て、美しいと感じるのに、何か論理的な説明が必要ですか?
誰かと恋に落ちる時に、何か論理的な説明が必要ですか?

そうしたことは、ハートの中で直感的に起きることです。

セツさんは。「ただそれだけ」を8回読んで、もう十分にマインドの中を探しました。
答えはマインドの中にはないということを十分に理解しました。

そこで今、「ただそれだけ」も、私のブログもちょっと脇に置いて、自分に問うてみてください。

「セイラーボブの教えていることは果たして真実なのだろうか?」と。

もし、「真実だ」と確信できるなら、本当に理解したということです。
「真実とは思えない」と思うなら、機が熟してないか、縁がなかったということです。

もしこれ以上、マインドの中に答えを探そうとするなら、「汝それなり」と言われて、12年間をマスターのもとで修業した人と同じ過ちを犯すことになります。

セイラーボブもニサルガダッタ・マハラジも、彼らの話は7~8回聞けば十分に理解できる話だと言っています。私もそうでしたが、考えすぎて、難しくしないでください。

2019/07/27

私は実在か?

以前もこのブログで、非二元を理解するためにすべきたった一つのことは、「私」という存在が実在なのかどうかを自分で調べることです。」と書いたのですが、この、自分で調べるという作業は、それほど難しいことではないと思うのですが、どうでしょうか?

たいていの人は、「私」はマインドと肉体だと思っています。私もそう思っていました。マインドは思考、感情、記憶といったもので構成されていて、その代表格は思考です。
思考について考えてみると、ほとんどの思考は、私の意思とは全く関係なく、私の意識に現れてきます。

(今日は昼食にカレーを食べよう)(昨日見たテレビのドラマは面白かった)とか、場合によっては、もう他に誰も覚えていないような昔の記憶がよみがえってきて、(あの時は悲しかった)とか、(あの時はあいつにあんなことをされてくやしかった)などと、脈絡なく思考はやってきます。

そうした思考を一つ一つ観察すると、それは全く自分の意思とは関係なく、自然に勝手に起こっていることだと理解できるのではないでしょうか?
もちろん、自分の意思でコントロールしているように見える思考もあります。
例えば仕事中に報告書を書く作業や、次の休みの旅行の計画を立てる時の思考などは、自分がコントロールしているようにみえます。

一つ一つの思考を詳細に観察してみてください。自分でコントロールしている思考がどれだけあるかということを。
そうすると、自分とは全く関係なく起こっている思考が大半だということに気づいてきます。

もし、自分でコントロールしていないのなら、思考は「私」ではないということになりませんか?

感情や記憶についても同じことが言えます。感情ほど自分でコントロールできないものはありません。私などは、朝起きて、何の理由もなくムシャクシャして、一日中さえない気分の時がしょっちゅうあります。

逆に、何の理由もなく気分の良い時もあります。感情も思考と同様に、「私」の自由にならないのなら、「私」ではないのではないですか? いや、私はコントロールできると言う人は、一日中楽しい気分でいられるはずですが、そんな人はそうはいないと思います。
また、私は自分の思考をコントロールしていると思っている人は、今日一日、寝るまでの間、猿のことを考えないようにしてみてください。5分もしないうちに周りが猿で一杯になることでしょう。

記憶についてはどうですか。記憶は「私」の都合のよいように書き替えられている可能性があります。古い友人と昔一緒に行った旅行の話をすると、お互いの記憶が食い違っていて驚くことがよくあります。そうした不鮮明な記憶の蓄積が「私」ですか?

思考や感情は、自分の意思とは全く関係なく起こっている自然現象だということを理解してください。
最初は、(いやそうはいっても、この思考が私だ)とか、(この思考は私の思考だ)(この感情は私のものだ)という思いがなかなか手放せないかもしれません。

でも、あきらめないで、少しずつ調べてみてください。
休憩時間にコーヒーを飲みながら、どんな思考がやってくるのか観察してみてください。
感情をコントロールできるのか試してみてください。
その思考や感情を起こしている誰かがいるのかを観察してみてください。

そして、思考や感情が、どこに現れてくるのかを観察してください。
それは、あなたの脳ですか? 胸のあたりですか?
思考や感情は、確かに現れてくるのですが、それは脳や胸のあたりではないとわかると思います。

それは、意識の中に現れてきます。それはどこなのかと聞かれても困ってしまいます。
なぜかというと、意識は空だからです。それを言葉では表すことはできないからです。
それがセイラーボブが教えているものです。

「私」が実在なのかどうかは、自分で調べる以外に方法はありません。
でも、それはそんなに難しいことではないのではないですか?
毎日、少しずつ観察していけば、自分がコントロールしている思考や感情はまったくないという答えに行きつくはずです。
思考や感情は自然に起こっていることです。
そこには「私」はいません。

2015年 メルボルンにて

2019/07/24

もし考えなかったら、過去は存在しますか?


Is There a Past if I Don't Think About It?

偏在、完全な実在の中では、時間などというものは存在しません。調べてみてください。
自身に尋ねてみてください。
もし考えなかったら、過去は存在するだろうかと。
そうするためには、ほんの一瞬思考を止めてください。

思考なしで、何を言うことができますか?
過去や未来があると言うことができますか?
いいえ。でも思考なしでもあなたが消えることもなければ、ばらばらになることもありませんでした。そこには剥き出しのアウエアネスがあります。

人々は、私は過去にいたとか、一瞬昔を生きようとします。でもそれはできないと知ります。それを思い出すことはできます。でも、あなたが思い出している現実は、今この瞬間に思い出していることです。
二分前に起こった思考でさえ、思い出さないと言う事ができません。それはもう過ぎ去ったことです。

未来も同じです。あなたは未来を予期して想像することはできます。でも未来を生きることはできません。
人々は、今に留まろうとしますが、今の外へ出ることはできないということを理解しません。
あなたは決して今の外に出ることはできません。

マインドそのものが時間です。
マインド、バイブレーション、思考は時間です。

今はいつ始まりましたか?
今がいつ始まったのか、いつ終わったのかを正確に指摘することができますか?
それを指摘することはできません。
それはいつも始まりであり、いつも終わりです。
実際には時は経過していないのです。

すべての問題は時間の存在を信じているせいで起こります。
「私」、いわゆる自分は、時間に縛られた概念上のイメージにすぎません。
私は生まれた。その概念に基準点が関連づけされました。それは実在ではありません。
そのために問題が起こりました。

***

セラーボブの現在
KatarzynaのFacebookによると、7月21日にセイラーボブの誕生日を大勢の人と一緒にレストランでお祝いしたようです。(セイラーボブは、1928年7月21日生まれ。91歳)
写真で見る限りでは、杖を使って自立歩行できるようで安心しました。ミーティングでは座っている映像だけなので、ちゃんと歩けるのかとずっと心配していました。

2019/07/21

アウエアネス(awareness)

アウエアネス(awareness)を私は「意識」と訳しています。
非二元の本を読んでいると、「気づき」と訳している人もいます。
でも、気づきと訳すと、そこに誰か気づく人がいるように思えてしまうので、よくないのではないかと私は考えています。

セイラーボブはまた、アウエアネス(awareness)を space-like awareness(空間のような意識)、seeing(見る働き)、seeing-knowing(見る働きー知る働き)、presence-awareness(存在意識)と表現することもあります。

私は、このアウエアネスを理解することこそがセイラーボブの教えの全体を理解する重要なポイントだと思っていて、「私はいない」や「万物は他に何もない一つのものである」という事は、それほど重要なことではないように思います。アウエアネスを正しく理解すれば、あとのことは自然に理解できることだと思います。

私は、わかりやすくするために、「今ここにある意識」という表現を使います。
世界は、今ここにある意識の中に現れます。
朝目を覚ますと、そこに世界が現れます。

また、夜空を見上げると、この今ここにある意識は遠くの星まで広がっています。
寝床で目を閉じて想像すれば、それは銀河の果てまで広がっていきます。
それには限界も境界もありません。これを言葉で定義しようとしてもできないし、一体これは何なのかと考えても理解できません。

それが私であり、あなたであり、すべてです。
すべての物事はそこに現れます。それは一つのものです。
それは誰かに与えてもらうものでもなければ、エンライトして手に入れるものでもありません。
それは、今ここにある意識。それが私です。

私は、この瞬間にしか存在しません。
すべての存在は、今ここにある意識の中にあります。

私たちが物を見る時、その背景にはアウエアネス(awareness・意識)があります。
でも私たちは直接アウエアネス(awareness・意識)を見ることはできません。

音も同じです。音もアウエアネス(awareness・意識)に現れますが、私たちは音の背後にあるものを認識することができません。

五感、思考はすべてアウエアネス(awareness・意識)に現れます。でも、私たちは直接アウエアネス(awareness・意識)を認識することはできません。
逆の言い方をすると、五感、思考を通じてしかアウエアネスを感じることはできません。
五感、思考そのものもアウエアネスです。

それゆえに人々はその存在に気づくことが容易ではありません。
でも、そこにあるのです。一番身近なところに。
それなくしては、景色も音楽も味も思い出も、何も認識することができません。

それが私です。I am that.

              タスマニア クレイドル山国立公園 2017

2019/07/18

SELF AWARE

この本はすばらしいです。



長年、セイラーボブとともにいたギルバート・シュルツが書いた本です。
もちろん根底にはセイラーボブの教えがあるのですが、切り口はギルバート独自のもので、アウエアネスとは何かをわかりやすく解説しています。

ギルバートはアウエアネス、知性エネルギーという言葉よりも、seeing-knowing、wakefulnessという言葉を好んで使います。それは、私たちの眼前に現れるもの。そこに世界が現れる。彼はそれをわかりやすく教えてくれます。

この本には、難解な教義や秘教的な要素は一切なく、目の前にあるアウエアネスを自身で理解できるように平易な言葉で書かれています。

総ページ数184ページですが、活字が大きいので、辞書片手に英語が読める人なら一日あれば読めると思います。英語そのものはそれほど難しくないですが、内容は濃いので、少しずつ日にちをわけて考えながら読む必要があります。この本は私の座右の書になりました。

私の場合、ギルバートの一言一言が、セイラーボブの教えを理解する助けとなりました。ギルバートがいなかったら、おそらくセイラーボブの教えを理解できなかったと思います。今でも毎日彼の facebook を読んでいますが、とてもためになることが多い。

ついでに、ギルバートが運営しているサイトを紹介しておきます。

thE uRban gUrU CaFe

ここにはギルバートが様々な非二元の人達にインタビューしたり、引用したりして作った100のオーディオクリップがあります。
ギルバートは非二元の人たちの目利きでもあり、ここに出てくる人たちは信頼に足る人達だと思います。もちろんセイラーボブも出てきます。ただし、英語が早いし、録音状態がよくないものもあって、聞き取りは私にはちょっときつい。

U.G Krishnamurti, Leo Hartong, Ramesh Balsekar, Rupert Spriar, Tony Parsons, Joan Tollifsonなど、私がもっと詳しく知りたいと思っている人々がたくさん出てきます。

私はまだそこまで手がまわりませんが、セイラーボブ以外で、このサイトに出てくるゲストスピーカーの本が参考になるのではないかと思います。入手困難なものもありますが、どういう人の本を読めばいいのか参考になります。日本語に翻訳されているものあります。
UGC speaker books

ギルバートのホームページも載せておきます。

GILBERT SCHULTZ SEEING-KNOWING

このホームページを読むだけでも、非二元が何なのかの理解の助けになると思います。

2019/07/15

おたよりをいただきました。

Takuさん、こんにちは。

僕は18才の時に不安神経症のようなものになり、毎日が暗闇の中という状況の時に、たまたま書店で、ある仏教の本に出会い救われました。とはいえ少し楽になったという程度でしたが、以後仏教書を読み漁るようになりました。


25才の頃、鈴木大拙の著書に出会い、ますます仏教に傾倒していきました。それから現在まで僕の人生は仏教とともにあったという感じですが、一昨年、ネット上で非二元(ノンデュアリティ )の教えというものに出会い、関連書を読んでいくうちにセイラーボブさんの教えに 出会いました。幼いころから本好きだった僕はそうやってたくさんの本を読んできましたが、Takuさんにとってセイラーボブさんの著書以外で今でも読む本やお薦め本などありますか?

セツ

精神世界や自己啓発の分野の本で、今でも読む本は、セイラーボブ関連の本だけです。
父が亡くなった時に実家の整理をするのにとても苦労したので、今一人暮らしの私としては、私が死んだ時に妹が整理するのに苦労しないようにと、断捨離を徹底していて、なるべく物を持たないように暮らしています。本は片っ端から断捨離しています。

今本棚にある精神世界の本は、セイラーボブ関連の本と、時間ができたら読もうと買ってあるMystique of Enlightenmentだけです。

セイラーボブ以前に読んだ精神世界の本をあれこれ思い返してみたのですが、お勧めできるような本が思い当たりません。
セイラーボブを知った今となっては、どの本も色あせて見えます。

精神世界以外の本では、ノンフィクションやエッセイが好きで、特に好きなのは伝記、評伝、旅行記、紀行物などですが、おそらくそういった本のことを聞いてみえるのではないと思います。

不安神経症のようなものになったと、おたよりにありましたので、そのあたりの関連で私の記憶に残っているお勧め本について書きます。
セツさんはもう不安神経症のようなものとは関係なくて、あまり参考にはならないかもしれませんが、病気治療の本としてではなく、自己啓発の本として読んでも役立つと思います。

私は過去に、不安神経症と強迫神経症で長く苦しみました。不安神経症の方は、突然に猛烈な不安感に襲われて、呼吸が苦しくなり、動悸が激しくなり、今にも死んでしまうのではないかという不安に襲われる症状でした。

強迫神経症の方は様々な強迫観念があったのですが、一番強かったのは高所恐怖症で、高いビルで仕事ができないほどでした。
そうした症状から救ってくれたのが、森田正馬博士の本でした。森田正馬 Wikipedia

森田正馬は、いまから100年以上前に活躍した精神科医、大学教授で森田療法の創設者です。
森田療法とは、一言で言うと、
「恐れや不安を取り除こうとするのではなく、そのままあるがままに受け入れて、自分の目的とする行動をする」です。

森田先生は患者を施設に入所させ、投薬療法をするのではなく、症状はそのまま受け入れて、健康な人と同じように日常の家事、労働に従事させるという方法を実践して、多くに神経症の患者を治療しました。

森田療法は、先生の死後も弟子たちに受け継がれ、アレンジされながら今日まで続いています。

森田先生の本を読んだのは、もう20年以上前です。
私が読んだのは、森田正馬全集でしたが、全集の中からこの二冊が再版されているようです。

神経衰弱と強迫観念の根治法―森田療法を理解する必読の原典
神経質の本態と療法―森田療法を理解する必読の原典

不安は、不安を何とかしようとすればするほど大きくなるので、そのままにしておいて行動するという考え方をする人が西洋にもいました。

不安のメカニズム―心の病から脱出するために (ブルーバックス 237)
この本は改訂されて新版が出ているようです。
完全版 不安のメカニズム: ストレス・不安・恐怖を克服し人生を取り戻すためのセルフヘルプガイド (単行本)
翻訳も内容も多少違うようですが、私が読んだのはブルーバックスの方です。
この本も助けになりました。特に、不眠症には効きました。

そして最後にもう一冊。

クヨクヨするな!どんな悩みも自分で解決できる

この本は神経症治療の本ではなく、日常に起こってくる様々なトラブルや悩みの対処法について書かれた本です。
著者の黒川康正さんは現役の弁護士です。

黒川さんの法律事務所には様々なトラブルをかかえた人たちが助けを求めてやってくるそうです。そして、その多くの人が、トラブルの内容そのものよりも、トラブルに対する恐れや心配のために、トラブルとなっている問題の本質を冷静に把握できず、問題をさらに大きくしてしまっている傾向があるそうです。

その対処法として、まず問題は何なのかを冷静に見極める。そして、最悪の場合、何が起きるかを考える。その解決法はあるのか。あるとしたらどんな方法があるのか。最良の方法はどれなのかを決めて対処する。といった順番に問題を解決していく手順が書かれています。

問題を解決するのに、心配や恐怖は不要で、冷静に対処すれば、どんな問題も解決できると書いています。
この本は実際に日常に起こってくるトラブルや悩みを解決するのに有効です。
セイラーボブの非二元の教えは、日常のトラブルを解決するのに即効性があるとはいえません。日常のトラブルで、さてどうしたものかと悩んだ時は、この本が解決のヒントをくれるかもしれません。

ここに書いた4冊の本はどれも断捨離してしまって今手元にないので記憶で書いていますが、何回も繰り返し読んだ本ですので、お勧めできます。

この4冊の本の根底にあるのは、セイラーボブや精神世界の本で言われている「あるがまま」「そのまま受け入れる」という教えが根底にあるように思われます。

おそらくセツさんはもっと違うタイプの本を期待してみえると思いますが、なかなか適当なものを思い出せませんので、これでご容赦ください。


2019/07/12

セイラーボブの言葉

探求そのものが罠なのです。あなたはもうすでに、あなたが探しているものなのです。あなたは、何か達成するか、手に入れるべきものがあると考えています。あなたがそれでなかったことなどなかったし、これからもそれ以外ではありえません。多くの人がこのことを耳にします。でも、一体どれだけの人がこのことをちゃんと調べ、最後まできちんとやりとげるでしょうか。一体何をしているんだ。これではダメだ。そう言ってまた別の誰かを探しに行くのです。別の誰かのところへ行き、話しを聞き、あれやこれやをやり、どこかで答えが手に入ると考えています。でも、答えがある唯一の場所は、あなたの中です。他の誰かにではありません。あなたはもうすでにそれなのです。何か質問はありますか?

根本的な質問は意識についてです。というのは、意識が働いた瞬間に分離が始まります。「私は在る」は分離です。

ええそうです。その、自分という感覚が分離をもたらします。分離の感覚が不安と傷つきやすさをもたらします。

私は、意識という言葉を使っています。「根底にある意識」が分離であると言うことはできますか?

どんな概念を使っても問題はありません。非常に多くの違った概念があります。概念や言葉では、それを指し示すことしかできません。私はあなたに、どこを調べるようにと言うことはできますが、それを言葉で捕まえることはできません。言葉は物ではないからです。
いいですか。もしそこに、存在の感覚がなかったら、もしあなたがそれでないのなら、それは存在することはできますか。意識、マインド、アウエアネス。どのようにそれを分割して呼んでもかまいませんが。それは、不生と呼ばれています。それには始まりがありません。それは生まれ出たものではありません。それには始まりはないのです。ですから、あなたは、それがあるとも言えないし、ないともいえません。それを概念や言葉や思考や観念で掴まえようとしたり、理解しようとしたりしても無駄です。あなたはその外に出ることはできないのです。

2019/07/09

おたよりをいただきました。

おはようございます。
拓さんは、もっと違う人生(より良い人生)が良かったと思うことはないですか?
よろしくお願いいたします。


何とも、哲学的な質問をいただいて、どう答えていいのか困っています。
「もっと違う人生(より良い人生)が良かった」と思ったことがない人なんているのでしょうか?

幸せそうに見えても、誰しも苦しみや悲しみを抱えて生きています。
精神世界に興味を持っている人は特にそうです。そうでなければ、精神世界の本を読んだりはしません。

私の場合は、「もっと違う人生(より良い人生)が良かった」というよりは、「あの時、あんなことをしなければよかった」「あの時ああしていればよかった」と思うことばかりの人生でした。

私は30歳の初め頃まで、公務員をしていました。ある時、ふとしたきっかけから、今でいうパニック障害になりました。電車に乗っていても、不安で不安で乗っていられなくなるくらいでした。

パニック障害と同時に強迫神経症もあり、毎日が何をしていても苦しくて恐怖の連続でした。
当時は、それがパニック障害、強迫神経症ということさえ知らずに、自分は気が狂ってしまったのだ思い誰にも相談しませんでした。それを克服しようと、催眠治療を受けたり、精神世界の本を読んだり、瞑想したり、グループセラピーに参加したりするようになりました。

ところが症状は一向に改善せず、毎日が苦しくて苦しくてしかたがありませんでした。
精神世界に深く傾倒していき、こんな苦しみはもう嫌だ、輪廻転生から抜けて、エンライトメント(覚醒)したいと本気で思うようになりました。
思い悩んだ挙句、仕事を辞め、インドへと旅立ちました。

エンライトメント(覚醒)さえ手に入れればすべての苦しみから解放され、私の症状も消えるだろうという、今から思えばとても浅はかな妄想に取りつかれていました。もちろん両親を悲しませることになり、それまで築いてきた人間関係も崩壊しました。

それからの私の人生はどんどん悲惨な方へ転がり始め、次から次へと不幸な出来事が重なっていきました。母が亡くなり、弟が癌で亡くなりました。

体調不良が何年も続き、いくつもの病院にかかりましたが原因不明で、今でもそれほど万全な体調というわけではありません。

新しい仕事に就いても、エンライトメント(覚醒)が頭から離れず、その仕事をずっと続ける気にはならず、転職もしました。
お金にまつわる大失敗から、貯金のほとんどを無くしたこともありました。

こんな私でも、一緒に家庭を持ちたいと言ってくれる人もいたのですが、エンライトメント(覚醒)病に取りつかれていた私は、家庭を持ったら探求どころではないだろうと、家庭を持ちませんでした。その選択もその後長い間私を苦しめました。

この間の20年間は、悲惨な出来事の連続で、毎日、「あの時、あんなことをしなければよかった」「あの時ああしていればよかった」と思う日々でした。

最後には、上司のこっぴどいパワハラに毎日悩まされながら、家では認知症の父の介護をするという日々が5年以上続きました。経済的にも苦しい時期で、会社を辞めることもできませんでした。

この20年間、外見上は普通に見えたかもしれませんが、私の内側はメチャクチャで、毎日土砂降りの泥沼の中をイカれた精神を騙しながら、やっとの思いで歩いているような日々でした。

父の介護が終わり、すべてを忘れたくて、会社を辞めて長旅に出ました。
一年半ほど旅をした頃にはずいぶんと気持ちも晴れて楽になってはいましたが、まだエンライトメント(覚醒)病があり、セイラーボブに会いに行きました。

そうしたら、セイラーボブはいきなり、エンライトメントなんてものはない、と言うのです。
私が何年も探したエンライトメントはないと言うのです。
それだけではなく、「私」もいないと言うのです。
あのムチャクチャな苦しみを味わってきた「私」はいなかったと言うのです。

時間はかかりましたが、私はセイラーボブのメッセージをしっかりと理解しました。
そして苦しみから解放されました。
あの日以来、あの時、あんなことをしなければよかった」「あの時ああしていればよかった」という思いは無くなりました。

今でも時々はそういう思いがやってくることはありますが、そこには「私」はいなかったことを知っているので、また昔の思考の癖がやってきたなとやりすごす程度で、それが苦しいとかはありません。

もう少しわかりやすく言うなら、起こるべきことは私の意思とは関わりなく起こったのであって、私に選択の余地などなかったのです。そういう風にしか生きられなかったのです。

本当の私とは、映画のスクリーンのようなものです。
スクリーンの上には、いろんな映画が写し出されます。悲惨な出来事や、つらい出来事、苦しい事、恐ろしい事。
私たちは、そのストーリーが自分に起こっていると思っていますが、そのストーリーの中には「私」はいません。

それは単なるストーリーです。映画が終わって電気がつけば、そこにあるのは真っ白なスクリーンだけです。そのスクリーンが私です。
スクリーンはストーリーが悲しいと言って泣くこともなければ、苦しいと言って逃げ出すこともありません。あの時、あんなことをしなければよかった」「あの時ああしていればよかった」と思うこともありません。

ただ、実際の私たちの人生のストーリーはずっと続いていくので、白いスクリーンを直接見ることはありません。

あなたの人生のストーリーがどんなに苦しいストーリーだったとしても、そこには「私」はいないということを理解してください。そうすれば、そのストーリーは昨日テレビで見た映画のストーリーと何も変わりません。

この人生を生きている「私」も、あの人生を生きている「あなた」も、そこには誰もいないということを理解してください。
「私」「あなた」は思考の産物であり、実体のないものだということを理解してください。

そうすれば、人の人生をうらやむことも、自分の人生から逃げ出したいと思うこともありません。
起こってくるストーリーを我慢して受け入れろとか、ストーリーは「私」の意思とは関係なく起こってくるのだからあきらめろと言っているわけではありません。

「神は手を持たない」という言葉があります。神はわれわれの手(行動)を通じてストーリーを変えようとします。自分の手で変えられるストーリーもあります。変える努力を惜しまないでください。

変えるように努力して、変わらなければ泣けばいい。でもそこに「私」を持ち込まないで、次にはどんなストーリーが待っているかわからないということを理解してください。

ほんの数年前まで、認知症の父を在宅介護しながら、パワハラの上司に怒鳴られても金に困っていて会社を辞めることもできず、苦しい毎日を生きていた私が、その数年後、2年にも及ぶ長旅をして世界をまわり、セイラーボブに会い、エンライトメント病からも解放されるなんていうストーリーが待っているとは夢にも思っていませんでした。

私が何かをしたわけではありません。ストーリーが勝手に展開していったのです。
これからも、良いストーリーも悪いストーリーも起こってくると思います。

「人間万事塞翁が馬」「禍福は糾える縄のごとし」。人生に起きる良いことだけを取ることはできません。悪いことも起こってきます。
でも、そのストーリーを良いとか悪いとか判断しなければ、それは単なるストーリーにすぎません。何が起こっても私は観客として見ているだけです。
悲しければ泣き、うれしければ喜ぶだけです。

私の人生を生きている「私」などいないということを理解してください。
そうすれば、私の人生も、もっと違う人生もありません。
それは単にストーリーです。

2019/07/06

セイラーボブの言葉

 推論する力が発達し始めると、分離の感覚が起きました。「私」という思考がやってくると同時に、その反対もやってきました。私ではないもの、すなわち私以外です。それを信じることによって、「私」とは分離した別の存在を信じるようになりました。

 その最初の分離感は二歳か二歳半の頃にやってきます。その時以降、「私」が完璧で完全でより強いものになるようにと、「外側」を探し、収集し、蓄え、付け足していくことが条件づけとなりました。「私」と「私以外」があると、分離感があり、不安で傷つきやすくなるからです。その条件づけにより、外側を探し、収集し、蓄積し獲得し、完璧で完全となるまで続けます。

そして、覚醒や悟りといった、霊的なものさえ作りだし、最初から分離などないということ理解しません。それは、こういった場所に出会うか、振り返って、今まで一度も疑問に思ったことがないことを調べて見るようにという何かを耳にするか手にするまで続きます。

2019/07/03

おたよりをいただきました。

いつも、ブログを拝読しております。
ひとりで本を読んでいるときよりも、分かりやすいです。ありがとうございます。

わたしは、理解と、同一化の間で行きつ戻りつしております。
理解したあとには、同一化からの恐れがやってきて、感情につかってしまうことを繰 
り返しています。

拓さんには、このような繰り返しは起こらなかったでしょうか?
また、起きていたとしたらどんな風に変化していったのでしょうか

今は、同一化のモードで孤独への恐れでパニックになっています。
このまま独りぼっちだったらどうしよう、と怖くて怖くて仕方ありません。
拓さんには、孤独の恐れはもうやってこないのでしょうか?

教えていただけたら、嬉しいです。
生きることはわたしにとってひどく怖いです。

よろしくお願いいたします。


同一化というのは、わたしはこの身体であり、思考や感情のぐるぐるから抜けられない状態のことを指しています。
そして、この心地悪さや恐れを改善するには行動しなくては、強くならなくては、美しくならなくてはみたいに焦る感じの状態のことです。
…苦しいです。


セイラーボブの教えを理解しても、体から抜け出すことはできません。
また、思考や感情のぐるぐるから抜け出すこともできません。
なぜなら、そうした思考はOさんのコントロールの外で起こっていることだからです。


その心地悪さや恐れを改善するために行動しなくては、強くならなくては、美しくならなくてはと焦ることも、Oさんのコントロールの外で起こっていることです。
私はこの体でも、起こってくる思考でもないと理解しても、コントロールできない思考は繰り返しやってきます。


その思考をどうにかしようとする必要はありません。どうにかしようとすればすれほど苦しくなります。
私たちが体を持っているかぎり、体という基準点は繰り返し現れて、体が実在であるかのように感じます。私たちが生きているかぎり、思考はやってきて、それを止める方法はありません。


心地悪さや恐れを改善するために行動する必要も、強くなる必要も、美しくなる必要もありません。唯一できることは、思考は自分とは関係なく起こってくる自然現象なのだと理解して、そのままにしておくことだけです。
そうすると、焦りや苦しみはだんだんと薄れていくと思います。


私は過去に強迫神経症で長く苦しみました。いくつかの具体例を挙げると、高い場所が怖くて行けなかったり、刃物が近くにあると怖くて震えたりするような症状でした。不潔恐怖で、何度も何度も手を洗わなければならない時期もありました。


様々な治療法を試みたのですが、唯一助けになったのは、森田療法でした。森田療法を簡単に説明すると、


「恐れや不安を取り除こうとするのではなく、そのままあるがままに受け入れて、自分の目的とする行動をする」


ということです。そしてそれはとても役に立ちました。今でも高い場所は怖いのですが、生活するには支障ありません。


焦りや苦しみ、恐れを取り除こうとすればするほど、それは強くなっていきます。
セイラーボブの教えを理解しても、同一化は引き続きやってきます。でも、それに気づいていて、そのままにしておけば、やがてはそうした焦りや苦しみ、恐れは去っていくと思います。


セイラーボブの教えを理解したら、思考がスッキリして、不安や焦りがなくなるということではありません。人間だから、生きている限り、苦しいこともいっぱいあります。セイラーボブの教えを理解したら、もう苦しいことは起きないというわけではありません。


でも、セイラーボブの教えを理解したなら、それは「私」の苦しみではないという理解が起きて、苦しみとの距離が生まれます。そしてその苦しみは単なる思考にすぎないということを理解すれば、それはやがて去っていくものだと理解できると思います。


苦しみや焦りはそのままにしておいて、日々の生活の中で自分のやりたいこと、すべきことを優先してやっていくことをおすすめします。


孤独の恐れについてですが、私はずっと独身で、今でも一人で住んでいます。
もう歳なので、今からパートナーや恋人を作ろうという気はありません。
孤独を感じることはしょっちゅうです。でも、それで苦しいということはありません。


不思議なことに、私の周りにいる人で、家庭を持っているは皆、独身の私がうらやましいとしか言いません。人間は不思議なもので、一人だと寂しいと言い、家庭を持っていると、やれ子供の学費が大変だ、旦那が酒を飲んで暴れるだの、別れたいだのと言います。

マインドは二元的に動きます。問題の本質を見抜かないかぎり、一人でいても家族がいても苦しみは続きます。そこには、そうしたストーリーに翻弄される「私」はいないということを見破ることが問題の本質です。

Oさんがおいくつなのかはわかりませんが、孤独を感じるなら、友人に会ったり、新しい出会いを求めて行動したりするのもいいことだと思います。苦しんだり、焦ったりはそのままにしておいて、行動してみてください。


もし、苦しみから逃れたいからと、苦しみにばかり焦点を当てていると、表情は暗くなって人が寄り付かないし、せっかくのチャンスも逃がしてしまいます。五感を開いて、ゆったりとした気持ちで行動してみてください。