2023/04/30

ナーマ、ルーパ

自分がパターン、姿形となって現れているということを理解している人はほとんどいません。
人々は、「ナーマ、ルーパ」、名前と形を現実のものと思っているため、不完全さ、不幸、苦悩が彼らに起こっていると感じるのです。
すべては、自身が完全あるいは全体ではないという信念によって起こるのです。
                                    セイラーボブ

2023/04/29

あなたが恵まれているものを数えなさい

あなたが恵まれているものを数えなさいと彼らは言います。善良さ、美しさ、愛に気づいてください。周りを見渡せば、いたるところでそれを目にするようになるでしょう。あなたが邪魔をしなければ、いたるところで偉大さと奇跡を目にすることができるでしょう。
                                    セイラーボブ

2023/04/28

同じ命が

あらゆる疑念を超えて、同じ命が万物の中に流れていて、あなたもその命であると知れば、あなたは自然に自発的に万物を愛するだろう。
                            ニサルガダッタ・マハラジ

2023/04/27

それでも誰かがそこにいるように感じるのはどうしてなのでしょう?

2023.4.23ミーティング 1:22:56から

マンジュ:「私」はいないということをあれこれと聞いて、私はいないとわかったのですが、それでも誰かがそこにいるように感じるのはどうしてなのでしょう? それが私の質問です。

ボブ:何?

カット:どうして彼女は依然として誰かがそこにいる感じがするのかと。(マンジュ向かって)それは意識の中に現れた衝動、感覚ではないですか? そこに誰かがいるという感覚。それは感覚であり、それはとても強い時もあれば、ほとんど存在しない時もあります。ええ、それは感覚です。でもそれがあなたと、あなたのアイデンティティと何の関係があるのですか? あなたは意識なのですよ。

ボブ:あなたの感覚以外に誰かいますか? 他に誰かが感じていますか? それを主張している人は?

カット:あなたは意識です。そこに誰かがいるような感覚が起こり、私は十分ではないというような感覚や、私は偉大だという感覚が起こりますが、それは感覚であり、それだけです。どんな感覚がやってきても、それは空に現れた雲なのです。あなたは意識です。あなたは「私は在る」であり、純粋な存在です。その中に、いいえ、でも私は小さい、私はジュリアス・シーザーだ、私はブルータスだ、私はマンジュだと、どんな感覚もそこへやってきます。感覚、思考、イメージ、言葉。それらは常にそこにあるわけではありませんが、あなたは常にそこにいます。

マンジュ:ええ。たとえ私が今、私は幸運だと感じると言ったとしても、自分を人のように感じているのは誰なのかという問いがあるのですが、そこには誰も存在しない。

カット:ええ。すばらしいですね。

ピーター:それは単なるイメージなのです。

ギルバート:インポスター症候群という近代の専門用語があります。インポスター症候群の人たちは、仕事を手に入れても、自分はそれにふさわしくない、とかなんとか言いますが、それでもそれは意識なのです。それでもそれは意識が自らを表現しているのです。そこには分離した人や罪のある人はいないのです。それらはすべて驚くべきやり方で現れているのです。

ネルソン:(マンジュに向かって)どうしてその質問が続いているとわかったの?

参加者:(マンジュに向かって)彼は、あなたがその質問をどうやって知ったのかって聞いているよの。その質問はどうやって起こったの? 何がそれを知ったの?

マンジュ:それは知性エネルギーにちがいありません。そうでなければどうやってそれがやって来ることができるでしょうか。そこには何もないというのに。それでわかったのです。誰が聞いているのか? 誰もいないのに。誰が聞いているのかと問うのは意味がないことですね。(笑う)

参加者:それが私たちの条件付けですね。

マンジュ:うまく表現するなら、やってくることもまたすべてそれなのですね。

ギルバート:何年か前のことを思い出したのですが、誰かが私に過去生のことを話しました。私はフォラオの女中だったとかなんとか。誰も自分が便所掃除係だっとは言わない。

カット:(携帯を見ながら)ヴィベックから。「さあ、マトリックス・ゲームが明らかになった。もう誰もマトリックスには入らない」。入っていくことが起きても、それはただスクリーンに起こっていること。ジオティから。「カット、どうか私をクレオパトラにして」(一同笑う)シーザーのファンではなかったの? グッドニュースは、あなたは何でも好きなものになれるということ。そしたあなたはもともとすべて、全体性なのです。どんな衣装もどんな役もまとうことができます。

そしていつでも何にでも変更できます。そしてそのどれもがあなた専用のアイデンティティではありません。それは単なる衣装です。あなたは全体性であり、その衣装の後ろにいて、衣装を着ているふりをして、特定な役となって表現、体験して現れています。なんと素晴らしいことでしょうか。誰もが役割を演じているのです。妻、母、娘、友人、あれやこれや、すべての役がうわべ上では異なるアイデンティティがあるように見えます。そのどれが実在なのでしょうか?

そして誰もが、これが「私」「自分」だと言います。ポーランド人、オーストラリア人、女性、男性。そしてそのゲームの全体を見抜くことは簡単です。ああ、私が黒幕だ。私がコントールする人だ。私が真実を探している人だ。私は真実を見つけたい。私はスピリチュアルだ。驚くべきことです。ええ、クレオパトラに、王に、女王に、あなたの好きなもの何にでもなってください。

でも、真実は、それらは仮の衣装にすぎません。ええ、それは、何と言いましたか? 喜びのダンサー? 喜びの遊び人です。オンラインのコメントは以上です。みなさんありがとう。

ボブ:ありがとう。みなさん、愛していますよ。(Love you all.)

2023/04/26

それを貼りつける「私」がいないのなら、どうやって心理的な苦悩が起こりえるでしょうか?

2023.4.23ミーティング 32:47から

ギルバート:意識の内容物は、意識とは分離していません。でも、その内容物は意識から独立して存在はしてはいません。「私」も同様で、その「私」を見つけることはできません。なぜなら、「私」は独立した存在ではないからです。でも、あなたが調べてみると、それはうわべの上ではとても重要なものです。というのも、そうでないと、夢があなたを巻き込んでしまうからです。

でもあなたが、そこには「私」はいないということを絶対的に確信するまで調べて、そこには私はいないと知ったなら、どうやってそれをふたたび信じることができるでしょうか? そして、もしそこに、それを貼りつける「私」がいないのなら、どうやって心理的な苦悩が起こりえるでしょうか? それで終わり。それはシンプルなことです。でも、この知らせはどこでも歓迎されてはいないようです。(笑い)

2023/04/25

我はそれなり

2023.4.23ミーティング 0:14から

みんなが名前を言い終わるが、ボブは補聴器を付けていないので聞こえない。

ボブ:一言も聞こえません(一同笑う)

ギルバート:言葉は物ではありません。

ボブ:でも、それが皆さんの受け取るすべてです。本当はパドックにいて草を食んでいなくてはいけないのですが、彼女がまた馬具を付けてパドックから連れ出したので、短めに話します。私はあなたに何も教えることはできないし、何かを伝えることもできません。私ができるのは、方向を示して、そこを自分で調べるようにと促すことだけです。

というのも、私が指していることを理解すると、そこには何かを教える誰かも、何かを伝える誰かもいないということがわかるからです。一つの本質がパターンとなり、あらゆる姿形となって現れています。私はいかなる体に話しかけてもいません。私はどんなマインドにも話しかけてはいません。あなたが自身だと信じている体・マインドの存在に話しかけてはいません。

私は、存在の感覚となって現れている「私は在る」に話しかけていて、それが本当の私です。それがマインドを通して思考の「私は在る」となって現れています。ただそれだけ。他には何もありません。それが私が指摘していることです。一つの本質、知性エネルギー、生、神、どんな観念やラベルを貼ってもかまいませんが、それがそこにあるすべてです。

その一つの本質のことを私は知性エネルギーと呼び、神と言う言葉は使いません。その言葉を使うと混乱するからです。というのも、あらゆる人が神とは何かということに対して、異なる宗教、異なる観念を持っているからです。でも、聖書の中では、最初に言葉だけがあったと述べています。言葉が始まりなのです。

言葉が神とともにあり、言葉が神でした。神とは言葉だったのです。あらゆるものが彼によって、言葉によって造られました。言葉がなければ、何も創造されなかったのではないでしょうか。あらゆる物事のために言葉を手に入れました。椅子、テーブル、空間、冬、夏、高い、低い、それは言葉です。言葉が無かったら、それは何でしょうか?

言葉無しでは何も分割することも分けることもできません。でも、見ること、聞くこと、味わうこと、触れること、嗅ぐことは常に起こっています。でも、私たちは「私」という言葉を学びました。私は見る、私は聞く、私は味わう、私は触れる、私は嗅ぐ、私は考える、私は体験する。私たちは偉大な聖典の中ではやってはいけないということをしています。あらゆる物事をそのままにしておくかわりに、分離できないものを分離し、描写できないものを描写しています。ただ一つの本質が現れてあらゆる姿形になっているにすぎません。

あなたはいくつの言葉を持って生まれましたか? あなたは生きていて、存在しています。でも、自分の誕生を覚えている人はいますか? 人々は自分の誕生を覚えていると言います。でも、生まれた時にどんな言葉も持っていなかったのに、どうして覚えていることができますか? そんなことはできるはずがありません。

そして、二歳か二歳半に推論する力が発達するまではどんな言葉も学んでいません。その推論する能力はとても役立つもので、今この体・マインドの中で続いています。あなたは両親から言葉を学びました。両親はあなたのまわりで、かわいいジョニー、かわいいジェーン、かわいいビリーとはやし立てます。あなたは「私」「自分」という言葉を学び、私はかわいいビリー、私はジェーンだとなります。それが人々が自身を表現するやり方です。

「私は在る」は単なるもう一つの観念、ラベルだということを理解してください。ニサルガダッタやその他の人たちが、「私は在る」に留まりなさいと教えます。「私は在る・私は在る・私は在る」というマントラを繰り返さなくてはいけないと思う人もいるのですが、そういう意味ではないということを理解してください。それは、存在の感覚である「私は在る」に留まりなさいという意味です。

自身のことを表現するために、「私は在る」と言わざるえないのです。そしてそれは、今ここに存在しているという意識であり、存在意識のことです。それが「私は在る」であり、彼が指し示したものです。その存在の感覚に留まってください。それは、あなたが存在しているということを知ることであり、あなたが存在していると考えることではありません。

あるいは、自分は存在していると信じることで、観念や思考、イメージ、言葉の中に自身を閉じ込めることではありません。あなたはもう十分長い間それをやってきました。それがあらゆる心理的な苦悩の原因であり、それが私たちに続いています。そして、偉大なマントラは「我はそれなり」です。あなたはそれを聞き、知っています。そしてその意味を理解します。

というのも、生まれつきそのことを知っているからです。これが椅子で私が座っているもの、あれが部屋で私がそこにいる、あれが空間で、あれが木、あれが花、あれがあなた、これが私。あらゆるものがもともとそれであるということを、あなたはもともと知っています。それを言葉によって区別しているのです。私たちはラベルを学び、それを言葉のラベルで分割しているのです。でも、それがそこにあるすべてです。ただそれだけ。

そしてそれをアドヴァイタでは、サット・チット・アナンダ、ナーマ・ルーパと言います。サット・チッタは存在、意識であり、アナンダは存在する喜び、ナーマ・ルーパは体とマインド、名前と形です。ナーマ・ルーパ、体とマインドはマーヤーであると言います。マーヤーは幻想です。では存在について。今この瞬間に存在してない人はいますか?

あなたは、いいえ、もちろん存在していますと言います。意識のない人、目が覚めていない人はいますか? いいえ、私には意識がありますと言うでしょう。そしてあなたたちみんなは、存在していることが幸せであり、今この瞬間死んでいたいと言う人はいないはずです。

*******
もう少し続くのですが、この日のスピールはいつもより短く、15分ほどで終わりました。ボブは元気です。

2023/04/24

関係性とは二元性のことです

関係性とは二元性のことです。「私」と「他者」。
「私」が現れるやいなや、他者がいるに違いありません。
二元性、それは「私」と「私以外」です。マインドを見つめて、それがどのように機能するのか見てください。すると、それは絶えず二元的に機能しているのがわかるはずです。
良い悪い、快不快、喜び悲しみ、反対の極が一対となっています。
                                    セイラーボブ

2023/04/23

究極の状態

真実を求める欲求は最高の欲求だが、それでもそれは欲求である。
実在として在るためには、すべての欲求を放棄しなくてはならない。
すべての探求が終わるとき、それが究極の状態である。
                            ニサルガダッタ・マハラジ

2023/04/22

あなた自身があなたの最高の師である

あなた自身があなたの最高の師である。
外側の師は単に目印にすぎない。
内側の師だけがあなたと共にゴールまで歩いてくれる。
なぜなら、彼こそがゴールだからだ。
                           ニサルガダッタ・マハラジ

2023/04/21

私という実体がどこにもない

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その63」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

私たちが見ている世界は何なのか? そしてそこに「私」はいるのか? 死とは何なのか?
仏教の持つ深さに驚かされます。

2023/04/20

それを記憶の中に蓄えることはできません

2023.4.16ミーティング 1:20:18から

ギルバート:何年か前、この部屋でボブは短い物語を話しました。登山者の一行が山を登っていました。彼らはある程度の水を持参したのですが、十分ではありませんでした。少し登ったところで水がなくなり、中の一人が谷底の小川を見つけました。そして彼は岩をよじ登り、傷だらけになり、体を打ちつけて骨を、いいえ、骨は折りませんでしたが、苦労して容器を持って降りていき、水を一杯入れて他の人のもとへ運びました。

そしてボブの指摘は、他の誰も、俺が自分で行って汲んでくるとは言わなかったということです。彼らは水を分け合いました。そしてあなたがボブの最初の本を読んだなら、そこには何百というポインターがあって、中でも私が書き起こしている時に心を打たれたのは、「知る働きは自然に起こっていて、それは知られたことではなく、それは過去であり、これから起こってくることでもなく、この瞬間に起こっている知る働きのこと」です。ing は今この瞬間に起こっているという意味です。

では、この知る働きとは何なのか? この意識とは何なのか? その答えを見つけることはできませんが、その存在を否定することもできません。なぜなら、それがそこにあるすべてだからです。意識がそこにあるすべてです。意識、認識、なんであれ、それについて議論をすることはできますが、その知る働きは、あなたが経験することすべての根底に実際にあるものです。その知る働きの外側に何かを仮定することはできません。

そしてそのことは永遠に新鮮で新しいものです。そのため、それを記憶の中に蓄えることはできません。この直接性を記憶の中に蓄えることはできませんが、ポインターを蓄えることはできます。そしてそれが起こっていることのすべてです。その男は降りていって水を汲んで他の人のために運んでシェアしました。そのためにポインターがあるのです。言葉やジェスチャーで、知る働きの本質を指し示すためにポインターがあるのです。

そしてそれは見ること、聞くこと、触れることと同じように自然に起こっているのです。それはすべて自然に起こっていることであり、エゴがやって来て「私がやった」という場所はありません。それはナンセンスです。「私」は意識の直接性の中には存在しません。「私」は心理的な構築物であり、時間の中にあります。マインドは時間です。そしてマインドは意識の上に現れますが、マインドと呼ばれる何かを見つけることはできません。

それは単なる活動なのです。自己を見つけることはできません。自己を見つけた人はいますか? それはどんな風に見えますか? 色は? 形は? それは単なる観念、思考、ポインターです。

参加者:木はどう? 木を見つけた。

ギルバート:いや。何もない。それは単なる言葉です。その知る働きの活動は自然に起こるものです。もしそれを恩寵と呼びたければそう呼んでもかまいません。神の恵み。「私はこれらをあなたにあげよう。それが私の喜びだ。喜んでこれをあなたに与えよう」。そしてもしあなたがそれについて議論したいのなら、それはあなたの問題です。

2023/04/19

わたしたちは皆それなのです

2023.4.16ミーティング 40:18から

ギルバート:一つのポインターは、あたなは自分が何であるかを決して知ることはできないというものです。でも、自分が存在するということを否定することはできません。そのため私たちは自己にラベルを貼ることに囚われてしまいます。自己という言葉ですらラベルです。でも、突然の予期しない理解は、それはまったくの無、まったくの何ものでもないもの/無(no thing)だというものです。仏教徒はその経典の中で、あらゆる現象の本質的な性質、いつくかの現象ではなく、すべての現象の本質的な性格は空(くう)だと言っています。

太陽系を調べてみると、私たちは地球に住んでいて、私たちの体は地球やおそらく他の場所からの材質でできています。この太陽系で一番大切なのは太陽です。そして太陽は自ら輝いています。科学者は、太陽の中がどうなっているかを実際には知りません。というのも、誰も中へ行って調べることはできないからです。地球の中心についても同じことが言えます。ニッケルや溶解したものがあるという理論はありますが、中へ行った人は誰もいないのです。

ジュール・ベルヌは地球の中心へと入っていく小説を書きましたが、それは物語であり、私たちは物語が好きなのです。2001年宇宙の旅は物語です。その映画の終りの方にあるシーンがあります。宇宙飛行士がLと呼ばれるAIコンピューターによって宇宙船に戻れなくなります。Lは知性のある生物となって支配権を持つという思考を持ち、その男を戻れなくします。最後には男の生命維持装置を切断し、宇宙飛行士は宇宙空間を漂うことになります。

宇宙飛行士に感情移入して見ているなら、それは最も恐ろしいシーンとなります。宇宙服の中の男は宇宙を漂い、死んでしまうだろう。彼は生命維持装置もなく、そこに残される。もしこれをリアルに受け取ると、彼はどこかを漂っていることになる。これはある種のポインターなのです。あらゆる現象の本質的な性質は空(くう)であり、もし仏陀に注目すると、仏陀は有名なキャラクターですが、基本的に彼が理解したのは、無、空(くう)です。

そして彼は言っています。どこにも自己というものはないと。そして私たちは物語の中で、体に囚われ、体、マインド、私の物語に自己同化し、うわべ上では囚われ続けます。でも、あらゆる現象の本質的な性質は空(くう)なのです。そのため、現象や物語に囚われている人は誰もいないのです。それが理解すべきことなのです。そしてそれは、物語やグルを通しては起こりません。誰もあなたのためにそれをやることはできません。

あなたは自分で確かめなくてはいけません。そして実際にはあなたにもできません。それを「恩寵(grace)」と言う人もいます。神の愛による恩寵により、あなたは束縛から解放される。でも、あらゆる現象の本質的な性質は空(くう)なのです。ですからそれはポインターなのです。ポインターの持つ唯一の価値は、そのポインターが指し示すことに従うことです。

もしポインターについて議論すると、行き詰ってしまいます。ポインターは贈り物なのです。誰からの? わかりません。意識。ラベルを貼ってはいけません。ポインターは贈り物です。全部のポインターがみんなに効くわけではありません。私たちはみなユニークでそれぞれ違います。ある人はあるポインターから何かを聞き、ある人は何も聞きません。

根本的に思考を追いかけるのをやめて、マインドを見つめ、それがどのように機能するかを見ることです。すると、思考が意識の上に現れて、うわべ上ではあらすじや物語を創造し、それが心理上の苦悩や喜びなど今ここから外れるように導いているのがわかるはずです。

マインドがどのように機能するかを見つめることです。誰もあなたのためにやってはくれません。そしてそれは努力を必要としません。それはあたかも、母親が洗濯物を干しながら、地べたで遊ぶ子供を見ているようなものです。母親は子供を見ています。それには努力が要りません。母親は子供を愛しているのです。母親は子供の世話をします。

マインドが何なのか、それがどう機能するのかを見てください。それがあなたを本当のあなたである本質へと引き戻してくれます。あらゆることが「私は在る」という本質へと戻って行きます。でも、その「私は在る」に何かを付け足そうとすると、それが「私は在る」の解決の鍵なのですが、もしその「私は在る」に何かを付け足そうとすると、それが物語となります。そしてそれがそれと自己同化する人の苦悩へと導いていきます。

では、その人とは誰なのでしょうか? 私は誰か? その問いには答えはありません。私は誰なのか? その答えは沈黙です。言葉はありません。生の本質そのもの。知性そのもの。でも、それらはどれもラベルです。では、出口は何か? 出口は、あなたは一度もその中にはいなかったということです。あなたは決して何の中にもいたことがないのです。

すべてのものの究極の本質はたった一つです。わたしたちは皆それなのです。ですから、物語を楽しんでください。「ああ、今日ここへ来る時に信じられないことが起こったの!」とかなんとか言いながら。

2023/04/18

それをボブは知性エネルギーと呼びます

2023.4.16ミーティング 0:27から

カット:今日は何を話すつもりですか? ボブ? マイクに向かって話してください。

ボブ:ゾクチェンの本、ことわざの中に、老人が日光浴をしているものがあります。私はそれをするつもりです。すべてのエネルギーがあなたたちからやって来ます。ですから、少し開放的にしてください。

カット:ありがとう。では、今日は私たちが日光を供給することにしましょう。みなさんは話をシェアして、質問をして、どんなことでも共鳴したことを話すために招かれています。というのも、あなたたちはもともと存在意識であるというところから始めるからです。あなたはすでに存在していて、気づいていて、意識があります。手に入れなくてはいけないものも、何かになる必要も、見つけなくてはいけないものもありません。捨て去るべき知識や落とすべきものがあるのでもなく、それはすでに存在するというシンプルな認識にすぎません。

それは常に永遠に存在するという意味は、時間がなく存在するということです。それはこの瞬間に存在しています。もし、今以外の時間を想像したいのなら、それはマインドの中の観念にすぎません。たとえ想像している瞬間にもそれは存在しています。そして、ここには、存在意識についてあなたがすでに知っている以上に、あるいはより少なく知っている人は誰もいません。つまり、誰も他の人より優れても劣ってもいません。

誰もあなたよりもエンライトメントしていたり、明確であったり、よりその近くにいるわけではありません。それは根底にある存在意識、意識の存在がみなさんを通して輝いているのです。それを輝かせるためには、うわべ上でそれを見えにくくしている観念を脇に置くだけです。なぜなら、何もそれを不鮮明にすることはできないからです。どんなに多くの考えを生み出しても、その考えが生み出される前にあなたがいます。

それは単に、とてもシンプルで、とても明確な根底にある存在意識に立ち戻るということです。そしてそれにハートを注ぐ、それを優先させるということであり、あなたのハート全体や注意全部を、今起こってもいないつまらないささいな物語に向けないということです。例えば昨日起こった事、これから起こるかもしれないこと、起こりそうなこと。そうしたことは今この瞬間、今日は起こっていません。それが起こったときにはそれなりの注意が向かいますが、今はそうではありません。今はこの瞬間に注意を向けるべきです。

そしてそれは、この瞬間の存在意識にリラックスすることです。その意識の中でリラックスして、それが輝くに任せることです。そしてまた、それが表現するに任せることです。それが歌うに任せ、輝くのに任せ、それがあなたをどこへ導くか見るのです。なぜなら、認識の中身、意識の中身は絶えず変化するからです。それは、中身のことではありません。中身は愛されることも、認識されることもありますが、根底にあるスクリーンが主となるものです。(携帯を見ながら)オンラインの人も参加してもらうつもりです。

ええ、根底にあるスクリーンが主となる源であり、経験の唯一の源です。(携帯を見ながら)いくつかあいさつが届いていますが、質問はありません。どなたか、最初に何かをシェアしたい人、経験したことや、質問、今あまり明確ではないところを示したい人はいますか? もしかすると、基本的な分離の感覚が十分に明確ではない人もいるかもしれません。というのも、夢の中で、体は他の体や空間と分離しているように感じ、そう見えるからです。

でも実際にそうでしょうか? 感覚器官はそう言うかもしれません。でも、少し深く観察すると、感覚器官はそうは言ってはいないということがわかります。そう言っているのはマインドです。これは私、これは他の人という区別をして感覚器官の上に現れているのはマインドです。マインドのラベル貼り、名前づけがなければ、そこにあるのは一つの開かれた意識のフィールドです。

そしてそのフィールドの中に、絶えず変化するものが様々な形となって自然と現れています。それをボブは知性エネルギーと呼びます。それは多少フレッシュな言葉というだけでなく・・・(ボブを見ながら)でも、その言葉は確か100年前のクリシュナムルティから来ているのですね? でもそれは、同じものではなく、エンライトメントに目覚めるということではありません。生命エネルギー、生命の本質です。それは生きています。それは絶えず動いて自身を表現しています。

それは存在していて、同時に存在していません。なぜなら、潜在的可能性にはどんな実体もないからです。でも、実際には存在しているように見えます。ですから、形あるものは、固いものだと言うことはできず、存在しているように見えるだけなのです。でも、存在していないということもできません。なぜなら、それらは現れてくるからです。それは存在の形なのです。それはメンタルイメージと同じです。それもまた存在の形です。

顕現のすべては、あのスクリーンの上に現れますが、それは何ものでもないもの/無(no thing)です。そこに物事が現れる固いスクリーンがあると言うことはできません。でもそれは認識、意識の中に現れます。

2023/04/16

自然に起こってきます

私たちは、「なろう」とするために苦しむのです。その必要はありません。
調べることもせず、見ようとしなければ何も変わりません。
「誰が」調べるのかと、あなたは言うでしょう。
調べることは、他の物事と同じように、起こってきます。
不安や傷つきやすさで押しつぶされそうになった時、自然に起こってきます。
病気、疲労でうんざりした時に起こってきます。
すると、変化が起こるはずです。
                                    セイラーボブ

2023/04/15

「なる」ということは「在る」ことではありません

私たちは、自分は完全ではないと考え、何かになりたいと考えます。
「なる」という言葉を見てください。
「なる」ということは「在る」ことではありません。
それは、今この瞬間に在る純粋な存在ではなく、何か獲得するものがあることを暗示しています。全体性以外の何かを。
                                    セイラーボブ

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ボブが退院しました。自宅でネコに餌をやる動画が公開されています。

2023/04/14

あなたが認識する世界は意識でできている

あなたが認識する世界は意識でできている。
あなたが物質と呼ぶものは意識に他ならない。
                            ニサルガダッタ・マハラジ

2023/04/13

存在することそのものが幸せなのです

存在することが幸せでない人はいません。あなたは人生の展開に満足していないかもしれまんが、いわゆる悪い感じを取り除くために、生を取り除くことはできません。
それが過度になると、自殺してしまう人もいます。
でも、基本的には存在することそのものが幸せなのです。
                                    セイラーボブ
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昨日の facebook によると、ボブは今週末に退院できそうだということです。結局何の手術だったのか、よく知りません。

2023/04/12

言葉は敵ではないと知ってください

私はそれを知性エネルギーと呼んでいます。なぜなら、それは知る働きの活動だからです。そこには知性があります。そしてそれは、今この瞬間に振動しています。それは活動なのです。それはエネルギーの動きなのです。それにラベルを貼る必要はありません。あなたは、何が起こっているのか、何が実在なのかを知っています。

そうした信念から自由でいてください。そうしたものは利用することができます。言葉は利用することができます。言葉は敵ではないと知ってください。 
                                    セイラーボブ

2023/04/11

あなたは、その知る働きがそこにあることを知っています

ラベルを貼らなければ、そのことについては何も言うことができません。するとあなたは、どんな観念もなく取り残されます。それは知性エネルギーの自然な働きにすぎません。知性エネルギーというのも単なるラベルです。ラベルはそれではありません。

つまり、知性エネルギーとは、知る働きなのです。エネルギーの別名は活動であり、知る働きの活動です。そしてあなたは、その知る働きがそこにあることを知っています。それは知性です。
                                    セイラーボブ

2023/04/10

まずは自分を護ること

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その58」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

私は長い間セイラーボブの非二元を学んでいて、ボブの教えは社会に対してどれだけ貢献できるのかということを考えてきました。
確かに、ボブの教えを理解すれば、個人の苦悩からは解放されます。多くの人が救われるでしょう。

でも、一方では、社会に起こっている様々な問題に対して、運動をしたり、ボランティアをしたりして、直接働きかけている人たちもいます。非二元を学ぶ人たちの中にもそういう人はいると思うのですが、たいていの人は自分のことで手いっぱいで、人のことまでは手がまわらない人が多いと思います。それでは、いくら非二元を学んで自分は楽になっても、社会に対しては何も貢献していなことになりはしないか。

そうしたことに対していつも漠然としたモヤモヤがあったのですが、今回の佐々木先生の話を聞いて、やっぱりまず自分の心の平安が先にあるべきであり、極論すれば、それさえ全うすれば、世界も良くなる気がします。

非二元的に言うなら、世界そのものが夢なのだから、あれこれと夢の中の事にかまうな、ということになるかもしれませんが、たとえそれが夢であっても、良い社会になって欲しいと思うのはあたりまえではないでしょうか。

2023/04/09

あなたが「私」に会ったことはありません

2023.4.2ミーティング 52:08から(facebookより )

ギルバート:マインドがどのように機能するかを見ることです。このマインドが、自己をイメージする時に絶えず何を参照としているのかを。時々マインドはむやみに切望します。神聖なもの、旅、などなど。そして、ある種の経験を集めて、良い経験を一つの籠に入れ、悪い経験をまた別の籠にいれます。ある人は良い籠が一杯になり、ある人は悪い籠が一杯になります。

そしてあなたが彼らに、おまえは何なのだと尋ねると、自分を低く見ている人は悪い籠から選んで、私は何々だと言います。そうやって絶えず参照している自己のイメージを認識することは可能ですが、それはフィクションなのです。「私」はフィクションなのです。「私」などというものはありません。あなたが「私」を見つけることはありません。それは参照する習慣にすぎないのです。

調べて、その「私」を見つけようとすることが不可欠なのです。ボブはよく言います。「あの愚か者が、「私」はいないと言うが、彼は正しいのか間違っているのか? 自分で調べてみるべきなのです」。それは基本的にどんな言語の中にあります。「私」が見つかるかどうか調べてみるのです。それはフィクションであり、あまりにも多くの心理的な苦悩を生み出しています。そしてそれは不要なものです。

そして、「私」が集めている経験すべてが私のアイデンティティとなっていますが、経験などというものがあるのでしょうか? それは単なる物語(ストーリー)ではありませんか? 現在進行形の経験そのもの(experiencing)は決して邪魔されることはありません。あなたは自身で、その経験そのものはどんな現象や何ものにも邪魔されず、それが生そのものだということを認識することができます。

それは自然に発生するもの、認識、ボブが言うところの、知る働きの活動です。そしてあなたが調べてみると、知る働きの活動がそこにあるすべてです。その知る働きの外に経験があることはありません。それは誰かが何かを知るということではありません。それは、昨日や明日の何かを知るということではありません。それは活動であり、活動とは、今現在起こっている何かなのです。

あなたが、その知る働きと分離して存在することはありえません。あなたが意識なのです。あなたはそれを違ったレベルに分けることもできますが、それはナンセンスです。この直接の知る働きは個人という存在には帰属していません。そこには個人という存在はいません。それは単に知る働きの活動なのです。その直接性に留まると、あらゆることがあるがままに明らかになります。

でもそこには、物語をあなたが参照するあれこれの籠に入れるということはありません。というのも、それは永遠に新鮮で新しいものだからです。あなたはこの知る働きの活動を記憶の中に保持することはできません。やってみてください。できません。なぜなら、そこにあるのは何ものにも邪魔されることのない経験そのもの(experiencing)があるだけだからです。

それには何ものも付着していません。そこには苦悩はありません。意識そのものは、完全にまったく独立したものです。あなたはそれです。私たちは物語を付け加え、意識をレベルに分け、精神世界の旅、訓練やメソードを付け加えようとしますが、それは実際役に立ちません。訓練やメソードは、実際には「私は在る」というものに付け加えた心理的な苦悩なのです。あなたが「私」に会ったことはありません。

2023/04/08

ボブは大丈夫です

2023.4.2ミーティング 0:28から

カット:オンラインで見ているみなさん、ボブは大丈夫です。良くなるでしょう。彼は、2~3週間休みます。緊急手術のあと、療養中ですが、大丈夫です。そのため、残念ながらいつものようなスピール(長話)はありません。真似をしても彼のように上手にやることはできません。

エネルギーがどのように流れるかを見てみましょう。非二元への入り口はとてもシンプルです。あなたはもともと「それ」であるということです。それに対して異議があるなら、その意義を調べることができます。そして、想像を打消して、何もない空(くう)の状態にとどまりましょう。

そこには何もありません。何もない時、どんな観念もなく、分離した存在という観念もありません。そこにはいかなる存在の観念もまったくありません。

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残念ながら、YouTubeはここで終了になっています。Facebookではフルバージョンが公開されていますが、facebookは、登録していない人は見ることができないし、画像の貼り付けもできないので、どうしたものかと。

2023/04/07

セイラー・ボブ・アダムソンの近況⑦

セイラーボブは、3月末に手術を受け、現在入院・リハビリ中です。病状や何の手術なのかという詳しい事は今のところ耳にしていませんが、一昨日の時点ではナースに付き添われて病院の中を歩く映像が流れていました(プライベート・コミュニティ・グループのサイト)。予定としては2~3週間はミーティングを休むそうです。その間、ボブの意向でカットがミーティングを続けるそうです。

プライベート・コミュニティ・グループのサイト:ボブのホームページから入る(簡単な質問に答えると入れてもらえます)

セイラーボブのホームページ

セイラーボブの YouTube

セイラーボブの Facebook

プライベート・コミュニティ・グループサイト

2023/04/06

マインドは小さなトリップへとあなた誘い、白日夢に閉じ込めます

2023.3.26ミーティング 49:24

参加者:こんにちは。今朝、ここへ来る前、歩いていて、何年も会っていないかっての隣人たちに出会いました。すると、マインドがあれこれと言い訳を言い始めるのがわかったのです。でもすぐに、誰がそれを考えているのかと言い、それを手放しました。それはこの上ない喜びでした。

そして、「こんにちは、お元気ですか?」と言うことができたのです。そこには物語はなく、喜びだけがありました。それが今朝の私に起こったことです。この話はみんなが理解できるシンプルなことだと思います。

カット:素晴らしい例ですね。思考がやってきて、どうやってショーを乗っ取って、リアリティの瞬間の神秘を覆い隠していくのかがわかります。

参加者:ええ、それはマインドです。マインドは、私がどこに住んでいるのか、私に何が起こったのか、なぜ私がそこに住んでいないかったのか、と言い訳しようとしたのです。そして私はそうした物語すべてを手放したのです。それが良かった。

カット:それはすばらしい。それは実際、「奇跡のコース」の中で奇跡と呼ばれるものです。信じられない神秘のシンプルな瞬間を、世界という構築物が覆い隠してしまうのですが、それが落ちてしまうと、それは視点が変わるということではなく、パラダイムの変化なのです。実在ではなく、「私」が言い訳して、それを解決しようと言い訳を探して・・・。あ~とそれが解放されて、ワオーとなります。そうした小さな奇跡はとて素晴らしものです。それを話してくれてありがとう。

それはみんなにもいつも起こっていることです。毎日、気づかないかもしれませんが、マインドは小さなトリップへとあなた誘い、白日夢に閉じ込めます。そしてその招待が無視されると、あ~、と解放されます。その話はすばらいですね。そしてまたシンプルです。

2023/04/05

マインドを見つめ、それがどのように機能するかを見なさい

2013.3.26ミーティング 45:18から

ギルバート:何年か前にボブが言ったことですが、「どの方向もマインドの中のもの。どの次元もマインドの中のもの」。この私という物語は物語であり、物語には筋書きがあります。そして、物語の筋書きを追いかけると、良いとか不快とかいう目にあうことになりますが、それは物語なのです。

そして、感銘を受けたまた別のことは、ボブの最初の本の中にあるのですが、「マインドを見つめ、それがどのように機能するかを見なさい」というものでした。それはとてもシンプルかつダイレクトで、指示や招待ではなく、単なるポインターでした。マインドとは何か? 誰がマインドを見つめているのか? それでマインドがやって来るのですが。(笑い)

私がマインドを見つめているのです。意識(consciousness)が根本的なものなのですが、意識は独立したものであり、その「独立した」という意味は、その外側のどんな影響も受けないという意味です。つまり、私が意識であり、あなたが意識であり、すべてが意識なのです。それは、その外側のいかなる影響も受けません。なぜなら、意識がそこにあるすべてだからです。

意識の内容物が、どんなものであろうと、意識とは分離してはいないのです。あらゆるドラマ、幾何学的なパターン、神聖な外形、起こっているすべては、意識にすぎません。では、自身のアイデンティティとは何なのでしょう? 誰がマインドを見つめているのか? 

するとボブは、「認識が起こっていて、その認識する空が自然に起こっている。見ることが自然に起こっている。聞くこと、認識することが自然に起こっている」と言いました。では、この「私」はどこからやって来て、「私がそれをやっている」と言うのでしょうか?

ステララメッシュワー(?)は言いました。腕が動き、その動きを横取りした「私」が、「私がそれをやった」と言います。これは本当にダイレクトなポインターです。そして、私がそれを意図したのか? 意図したとか意図しないとかいう私は誰なのか? それを調べてみてください。マインドを見つめ、それがどのように機能するのかを見てください。

意識(consciousness)は独立したものです。それは変化しません。これは、人が認識することができるとても重要なことです。キャラクターには浮き沈みがあり、気分や起こっていることなどすべてに左右されます。それは外側の状況に左右されますが、実在ではありません。私は意識であるという事実に立ち返って、それに留まるようにしましょう。誰がそれをやろうとしていうのか? 物語には終わりがありません。もしあなたがマインドを見つめ、思考や筋書きを追いかけることをやめると、何かが突然明らかになります。

それが何なのかを言うこともできないし、釘付けにしておくこともできません。それは、はかないものであり、時間の無いものです。アウエアネス(意識)には時間はありません。それは不変です。私たちは絶えず、変化や渇望に振り回されていますが、ただ静かにして、マインドを見つめる。そして何が起きるかを見ることです。

2023/04/04

無明を消したあとはどうするでしょうか?

佐々木閑 仏教講義 8「阿含経の教え 4,その55」(「仏教哲学の世界観」第11シリーズ)

無明とは、「世の中の正しいあり方を間違って見せてしまう心の働き。そしてその間違いの原因、無明の大元は自我です。自我というものを中心に、ありもしない自我を中心に、ありもしない世界観を組み立てて、ありもしない事柄に対して間違った判断を下す。これが無明の本質なんですね」と佐々木先生はこのYouTube(5:14から)の中で語ってみえます。

仏教でいう無明(痴)はセイラーボブの言う無知(ignorance)と同じだと思います。無知ゆえに、ありもしない世界を想像してしまいます。

そして、佐々木先生はこのYouTubeの中で、無明を消したAIは、そのあと何をするだろうかということを語ってみえます。
その答えが、セイラーボブの言葉と重なります。まったくすばらしい。

2023/04/03

存在の感覚が思考の「私は在る」へと翻訳されました

存在の感覚が思考の「私は在る」へと翻訳されました。でも、私たちはそれをそんなふうには考えません。
私たちは、「私はこの体である。私はこの存在である。私はこの人である」と思うのです。
そうやって、私たちは自らの本質を見失います。
そうやって、心理的な問題が起きるのです。
私たちは、分離した存在、人、個人、何か分離したものであるという信念を身に着けています。
                                    セイラーボブ

2023/04/02

もしそのことを考えなかったら、どんな条件付けがあるというのか?

2023.3.19ミーティング 1:14:06から

ギルバート:数年前、ある人がとてもひどい状態でした。彼らは自殺について話していて、私は彼らがそうするだろうと確信しました。彼らは危険なほどシリアスで、これからどうするか決めていたのですが、まず私とコーヒーを飲みたがったので、私は出かけていって、彼らとコーヒーを飲みました。

その人の顔には、おそらく数か月も笑みがなく、まったくみじめな状態に見えました。数分後に私が彼女にした質問の一つは、ボブがミーティングで尋ねたものです。「もしそのことを考えなかったら、どんな条件付けがあるのか?」。彼女は間違いなく、わかったのです。というのも、彼女の顔にかすかな笑みが浮かんだからです。

彼女が、もしそのことを考えなかったら、条件付けはないということを理解したことがわかりました。その瞬間から、自殺しようという考えはいくぶん消えていきました。それがその状況の重要なところでした。私たちは、私というくだらない物語に直面する必要があります。それは真実なのか? そのどこかに真実があるのか? 

その質問は素晴らしい質問です。もしそのことを考えなかったら、どんな条件付けがあるというのか? マインドをほんの一瞬止めて、物語に入っていかなければ、そこには条件付けはなく、すべてを粉々にします。でも、あなたがそれをやらなかったら、よくない。もしあなたがやってみなければ。

参加者A:それが効果的であるためには、そのことを思い出さなくてはいけません。それはトラウマに関する興味深い話です。なぜなら、トラウマという言葉はドイツ語の夢に由来するからです。フロイドが最初にこの言葉を使ったと思うのですが、私たちは過去のことを何度も何度も思い出して、その夢の中の出来事の犠牲者なのです。

ギルバート:ええ。私たちは今あるこの世界に住んでいます。そして私たちには主人公がいて、それがトラウマの犠牲者です。彼らは主人公に仕立てられたのです。でもこれは馬鹿げています。なぜなら、それは作られた物語だからです。もしそのことを考えなかったら、どんなトラウマがあるというのですか? 誰もそれを見ようとしません。なぜなら、「こんなことが私に起こった」などなど。私は実在ですか?

参加者B:それは夢だ、それは現実ではない、それを外から見なさいということは簡単だと思います。でも、その中にいたら、それが現実だと感じます。そのため、それは現実ではないというのは役にたちません。それはとても難しいことです。映画がとても強烈だと、その外を見ることはとても難しくなります。それが強烈であってもかまいません。

それに対処する方法は、それをそのままにして、できることなら物語から離れて、何であれ起こってくることを感じることだと思います。というのも、体にとってもそれは現実に感じらるからです。それは実際の肉体の出来事が起こってくるようなものです。

もし、物語から離れていることができて、何であれ起こってくることを起こるに任せることができるなら、それはそれですごいことですが、もしそれができなければ、それもOKです。ボブが言うように、愛あるアウエアネスとして、その事実に寛容でいて、それは起こってくることであり、起こってもそれはそれでOKであり、トラウマとして囚われる必要はなく、夢であるということを知る必要もありません。

2023/04/01

あなたは存在していないのですか?

2023.3.19ミーティング 48:11

参加者:今日はすばらしい話をありがとう、ボブ。ぜひ質問したいことがあります。どうやったら、何をやっていても常に「私は在る」という感覚、アウエアネスでいることが可能ですか? たとえば、働いているときや何かをやっている時は簡単にそれを忘れてしまって、仕事や何かやっていることに没頭してしまいます。でも、どうやったら、その「私は在る」という感覚を保つことができるのですか? 

ボブ:あなたが何か他のことを考えたりやったりしている時、あなたに意識はないのですか?

カット:(回答の声が小さかったのでカットが伝えた)ええ、彼は自分がやっていることに気づいていないことはないが、自身の存在には気づいていないそうです。

ボブ:まず最初に、あなたは何ですか? あなたは存在していないのですか? あなたは今存在していないと認識しているのですか?

参加者:今はそうではありません。

ボブ:他の時間というものがありますか?

カット:あなたは存在していないと感じるのですね?

ボブ:そこに命があるから思考や呼吸、動きなどすべてが起こるのではあありませんか?

カット:別の言い方をすると、あなたは「私は在る」「私は在る」といつも考えなくてもいいということです。

ボブ:あらゆるものが現れている場所には根本的に命があるのです。ニサルガダッタは言いました。「あなたが道である。あなたが真実である。あなたが命である」。

カット:それはイエス・キリストです。(一同笑う)

ボブ:人々は、彼が自分自身のことを話していると考えましたが、そうではありません。彼は、存在の感覚のことを「私は在る」と言ったのです。あなたは、その言葉を考えなくても、私は在るということを知っています。

参加者:それは真実かもしれませんが、最初の女性の質問にあったように、彼女のマインドはいつも落ち着かないのに、それでも彼女は自分が落ち着かないということに気づいていました。

ボブ:落ち着かないということに気づいていないことはなかった。

参加者:そうです。

ボブ:では、そこにはそれを認識するためにアウエアネスがあったに違いありません。あなたは、アウエアネスが何なのかを言うことはできませんが、私には意識がないということはできません。それは存在と同じものです。あなたは今存在していて、存在していなと言うことはできません。人々は自身を人間(human being)と言い、神のことを至高の存在(supreme being)と言います。そうした言葉を取り除いて、存在(being)をやめることはできますか? 存在、認識、存在することへの愛はサット-チット-アナンダです。それは常に起こっています。(一部省略)

参加者:サット-チット-アナンダについて話す時、意識に対していつも真実であろうとすることだと思いますが、人間として私たちはとてもたくさんの感情を経験します。悲しみや怒りなどのネガティブな感情など。

ボブ:その人間(human being)から、humanを取ってください。humanなしで存在(being)しています。being(存在)に何か別のラベルを貼り付けると、表面上で不鮮明になるのです。それなしでも、あなたは消えたりしません。アウエアネスがなければ、あなたは言うことも考えることも何もできません。でも、あなたはアウエアネスが何なのかを言うことはできません。

参加者:ありがとう。

ギルバート:誰も、この心配を維持するにはどうしたらいいでしょうとは尋ねません。なぜなら、私たちはどうやってそれを維持するかを知っているからです。それにさらに物語を付け足すだけです。そしてそれを人とシェアして、その物語を確かなものにしてもらうのです。

そして、存在(being)のシンプルさは、物語を必要としません。自然な状態には言葉がなく、静寂です。そして、マインドから何らかの答えがやってくると期待することは、まったく賢いことではありません。でも、マインドはいつでも何か提供するものを持っています。「おお! 結局のところ、私は何かを提供することができる・・・」。

でも、今もしそのことを考えなかったら、何が問題なのか? そしてボブが指摘するように、いったん思考を止めて見ると、それに対しては何も言うことができません。それが良いとか悪いとか言うことはできません。それは無限のものの中へ入っていく始まりのようなものです。現実性、実在の中へ。

でも、それではマインドにとっては十分ではない。マインドは何かを主張したがり、自分のものにしたがるのです。それが問題です。